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新作「バンコク発の夜行列車」を出版しました

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズ新作TS小説「バンコク発の夜行列車」を出版しました。私が2018年8月下旬に行ったバンコク旅行に基づく長編サスペンス・TSエンターテインメント小説です。最新のバンコク事情を反映した小説ですので、特に旅行好きの方にはご参考になると思います。

***

東京で一人暮らしをしている大学一年生の桃野翔太は夏休みに友達と白馬高原と戸隠への旅行を計画していたが、立て続けに台風が来たために、出発予定日の前々日に旅行がキャンセルになってしまった。丁度その日に大手旅行会社から海外ツアーの勧誘メールが届き、バンコク3泊5日のツアーに直前割引24,980円という激安料金が提示されていたのを見て発作的に申し込んだ。

翔太にとっては初めての海外旅行だった。LCCのエアラインは思ったよりも快適で翔太は無事バンコクのホテルに到着した。到着初日にスコールに見舞われたが、2日目の朝は好天に恵まれて機嫌よくバンコク市内観光に出かけた。

地下鉄はモダンかつ清潔で乗客は大人しく車内は落ち着いていた。翔太はバンコクが好きになり、一人で市内観光を楽しんだ。バンコクの原宿と言われるカオサン通りを訪れ、買い物をしていた時、ひょんなきっかけで20代のタイ人女性と知り合いになった。翔太の好みのタイプのスラリとした女性だった。

彼女のお陰でバンコク旅行は予想以上に楽しいものになりそうだった。大きな落とし穴が待ち受けているとは思いもしなかった……。



バンコク発の夜行列車

第一章 初めての海外旅行

【一日目】

夕立ちとは激しい雨を意味する言葉だと知っていたが、それが実際に夕方に降るものだと意識したことはなかった。朝、昼、晩、あるいは真夜中に雨が降るのはいずれも同様に当たり前であり、自然現象が一日の中で時間を選ぶという考えはしっくりこない。

バンコク・センター・ホテルを午後六時四分に出発して、グーグルマップを頼りにチャイナタウンの見物に出かけた。ワット・トライミットという黄金仏寺院に立ち寄った後、チャイナタウンの入り口にある中華門に差し掛かったのは六時三十五分だった。赤と金を基調にした煌びやかな中華門が照明を浴びて、冴えない青の空にさほど白くない雲がかかった夕空に浮き上がって見える。夕暮れなのに夕焼けの気配はなく、徐々にどんよりと暗くなっていった。

チャイナタウンを貫くヤオワラート通りは夕方の渋谷に負けないほどの雑踏だった。仕事を終えた人たちや世界各国からの観光客で埋め尽くされて、時速一キロで歩くことさえ難しい。

雲に覆われた夕暮れの空が夜に移ろうとしている。

その時、大粒の水滴がひとつ頬に当たった。古いビルの空調装置から滴る汚れた水ではないかと、不機嫌な思いで視線を真上に向けると、二つ目の水滴が鼻先に落ちてきた。それは空調装置からの水でもビルの生活水でもなく、空から落ちてきたものだと判った。ビルの谷間の空が、夜の闇に覆われる一歩手前でにわかに掻き曇って雨が降ろうとしているのだった。

雨が降る前にどこか適当なレストランにでも入ろうと思ったが、それは甘い考えだった。すぐに三つ目以降の水滴がバラバラと腕や顔に当たり、あっという間に本降りになった。

夕立ちだった。文字通りバケツをひっくり返したような雨が空から垂直に落ちて来る。ヤオワラート通りに立ち並ぶ屋台は一斉にビニール製の幌を拡げ、道行く人々は左右の店に入ったり、手近にある軒先に身を寄せたりして雨宿りする。屋台の店主はビニールの幌から落ちて来る瀧のような雨水をバケツで受け止め、涼しい顔で座っている。彼らにとっては当たり前の日常なのだということが分かる。

私はセブンイレブンに駆け込んで、しばらく買い物客のふりをしていたが、五分経っても雨は止まず、いつまでも商売の邪魔はできないので外に出た。ナップサックから取り出した折り畳み傘を拡げて、隣の建物のひさしの下に立って雨宿りをした。ますます大降りになり傘も十分な役目を果たさないほどだった。

バンコクの八月はモンスーンの時期にあたり、スコールの季節だとは聞いていたが、スコールが夕方に降るものだとは知らなかった。東南アジアに旅行に来て現地の風物詩を味わうのもひとつの楽しみではあるが、こんな風物詩は願い下げだ。

一時間ほどして、やっと小ぶりになったので、ホテルに引き返すことにした。何度も水たまりに足を取られて、靴の中は水浸しになっていた。現地の人や欧米からの観光客が男も女も素足にサンダルで歩いていた理由が分かった。

来る時の倍の時間をかけて中華門に辿り着いた。早くホテルの部屋に戻ってシャワーを浴びたいと思ったが、空腹を感じてフアランポーン駅の近くの香港ヌードルと書かれたレストランに入った。午後八時を回っていた。トムヤンクン・ヌードルのセットを注文した。熱いトムヤンクンをすすると身体全体が火照り、スパイスのお陰で頭皮から汗が出てきた。

トムヤンクンは日本で食べたことがあるが、さすがに本場の味は格別だった。スパイスにパンチがあって、風味に混じりっ気が無い。それにエビが新鮮でプルプルしていた。値段は百三十バーツ、約四百四十円だ。ちゃんとしたレストランだし、飲み物とデザートがついたセットでこの値段なら文句はない。

レストランを出ると雨はもう上がっていた。靴下がたっぷりと水を含んでいて歩くとグシュグシュと音を立てていたが、さほど気にならなかった。ホテルまで歩いて部屋に戻った。浴槽にお湯を入れながら靴にヘアドライヤーの先端を差し込んで乾かした。

風呂場の蛇口から出てくるお湯は体温より少し低い感じがしたが、しばらく出していると生温かいレベルまで上がってきた。それでも浴槽に横たわるとほっとした気持ちになった。目と口だけを湯面に出して半無重力状態で全身の力を抜いた。ヤオワラート通りの雑踏、にわかに掻き曇った空の不気味な蒼黒さ、屋台のビニールの幌から滝のように落ちる水、そして何とも言えない不潔さが混然となって頭の中に蘇った。

僕は潔癖主義者ではなく、お菓子を床に落としても五秒以内に拾い上げれば平気で口に入れられる性質だし、朝コーヒーを飲んだカップに、夜お茶を注いでも気にならない。でも、バンコクは何かが違う。湿気のある空気の中に目に見えない埃が漂っていそうだし、靴の中まで侵入した水たまりの茶色っぽい水には、日本には居ない雑菌がひしめき合っているという気がする。

いけない。せっかくの東南アジア旅行なのに、清潔好きの女の子のような考え方では楽しめない。あと三日間、男らしく豪放磊落に振る舞わなければと自分を叱咤激励した。



バンコク旅行に申し込んだのは気まぐれによるものだった。八月二十三日から大学の友人と長野に行く予定だった。白馬高原に二泊してから戸隠に一泊することになっていた。ところが台風が相次いで発生し、旅行計画と同じタイミングで甲信越地方を直撃することが確実になってしまった。二十一日に友人から旅行の中止を言い渡されてガッカリした。

何気なくスマホを見ると大手旅行代理店から「超激安直前割引で行く海外旅行」というバルクメールが入っていた。クリックしたところ、二日後に出発する「バンコク五日間」が二万四千八百円でオファーされていた。あまりの安さに唖然とした。パスポートは持っていたので、発作的に申込ボタンを押してしまった。結局、空港使用料と現地税を加えて約三万円をクレジットカードで払ったが、良い買い物ができたと思った。

少し気がかりだったのは、見知らぬ客と二人部屋で同室になるという点だった。一万二千円の追加料金を払えば一人部屋が確保できるのだが、後で友達に激安を自慢するためにはトコトン安く上げたいという気持ちが強かった。

翌々日の八月二十三日の早朝、ティーシャツを四枚と下着を入れたリュックを背負ってアパートを出た。午前十時発のスクート・エアラインに搭乗することになっていた。聞いたことのない航空会社だが、この値段なら仕方ないと思った。ツアーと言っても、バンコクの空港からホテルまでのバスが付いているだけであり、自分でエアラインにチェックインしてバンコクに飛び、帰国日は自力でバンコクの空港に行ってチェックインするというセルフサービス形式になっていた。

実際に乗ってみるとスクート・エアラインは快適だった。機内では食事も飲み物も無料サービスは一切ないという徹底した内容だったが、出発ゲートの自販機で買ったウーロン茶だけで七時間のフライトを楽しんだ。

バンコクのドンムアン空港に到着し、入国審査も思いのほか順調に通過して、両替所で一万円をタイ・バーツに両替した。税関出口を出ると、予めネット検索で調べていた通りAISという通信会社のショップに直行して、スマホ用のSIMを購入した。七日間四ギガバイトまで使えるプリペイド形式のSIMが二百九十九バーツ。日本円で約千円だった。ショップでSIMを挿入してもらうと、スマホにメールとLINEが着信し始めた。試しにググってみたところ日本で使っている格安SIMよりもサクサクと動いた。

集合場所に行くとカタコトの日本語を話す女性現地スタッフが立っていた。他の乗客が集合するまで二十分ほど待ってからバスへと誘導された。その時点で、僕と相部屋になる人がどの人かは不明だった。僕以外に一人旅らしい客は見当たらず、三人組の女性グループは見かけたが、奇数の人数の男性グループは存在しないようだった。女性と相部屋になるはずがないが、もしそうなったらどうしようとドキドキした。

初めての海外だった。東南アジアとはどんなところか、テレビで見て大体分かっていたが、バスの窓の外には本物のアジアの景色が流れていく。空には白い雲が低くかかっていたが、目に入る光景はヴィヴィッドだった。初めて見る外国だから生き生きと感じられるのかもしれない。高速道路を下りて市街に差し掛かると渋滞が始まり、バスはノロノロと進んだ。バスの窓のすぐ近くをタイ人のカップルが歩いている。僕は本当にバンコクに来たのだと実感した。

まもなくバスはバンコク・センターホテルの敷地に入って玄関前に停車した。女性現地スタッフの後を追ってホテルに入った。

フロントの女性スタッフが客の名前を呼び、ルームキーを手渡し始めた。僕の名前が呼ばれて、キーを受け取った。女性現地スタッフに「一人部屋ですか?」と聞いたところ「お一人です。さびしいですか」と言われた。

うれしさで飛び上がりたい気持ちだった。きっと他には一人で参加した男性客が居なかったため、旅行会社の都合で僕は追加料金なしで一人部屋を占拠できることになったようだった。

【二日目】

目覚まし時計をセットせずに寝たが、翌朝起きると午前六時半だった。二時間の時差があるから、目が覚めて当然だ。昨夜手洗いして踏み押ししてハンガーにかけておいたズボンはまだ半乾きの状態だったので、リュックの中からスリム・パンツを出してはいた。それは薄くて軽いコットン・ライクなカーキ色のパンツで、お気に入りのズボンだった。黒地に白でDKNYとプリントされたティーシャツを着て、昨夜ヘアドライヤーで乾かした靴を履いた。

靴の内側の表面は乾いているように見えたのに、実際に履いて立ってみると、水分が浸み出して靴下がじっとりと濡れた。こんなはずじゃなかったと思いながら靴の中敷きを取り出して乾かそうとしたら、靴底に穴が開いていた。バンコク旅行を終えたら捨てるつもりで古い靴を履いてきたのが間違いだった。穴が開いていたから汚い水が靴の中まで入ったのだ。

他に履物は持っていないので仕方なく濡れた靴を履いて一階のレストランに行った。今日の観光予定にはショッピングセンターも含まれているので、まず靴屋に立ち寄って靴かサンダルを買うことにしようと思った。

ツアー料金には朝食が含まれている。朝食付きのホテル料金が三泊分含まれているというべきかもしれない。レストランはバイキング形式で、十種類を超える料理が並んでおり、パン、おかゆ、ヨーグルト、フルーツも食べ放題、コーヒーとソフトドリンクも飲み放題という天国だった。他の客の真似をして野菜入りのオムレツも注文し、お腹が一杯になるまで食べ続けた。バンコクのホテルは男子大学生にとってパラダイスだと思った。

すっかり満足して部屋に戻り、ナイロン製のナップサックに折り畳み傘とハンドタオルだけ入れてホテルを出た。

バンコク・センター・ホテルはバンコク市街の中心地からは離れているが、国鉄フアランポーン駅まで徒歩五分、地下鉄ファランポーン駅への階段はホテルのすぐ前という便利な場所に立地している。できれば国鉄を利用してタイ郊外のアユタヤ遺跡にも行きたい所だが、タイでの滞在が実質丸三日間という短い日程なので、アユタヤは断念して市内観光を中心にしようと考えていた。

バンコク市の公共交通はMRTと呼ばれる地下鉄、BTSと呼ばれる高架鉄道、バス、川や運河を運航するボートなどによって構成されている。バンコク観光に関するインターネット・サイトには、MRTやBTSの切符売り場には長い列ができるので、非接触型チップの埋め込まれたプリペイドカードを購入するのがよいと書かれていた。僕はフアランポーン駅で二百バーツを出してMRTのプリペイドカードを購入して改札を通った。

築年数が浅いせいか地下鉄の構内は真新しく、エスカレーターも、プラットフォームも日本の地下鉄に負けないほど清潔で広々としていた。地下鉄の車両が到着するとプラットフォームの自動ドアが開き、並んで待っていた乗客が整然と乗車する。乗客は大声でしゃべることもなく、スマホを片手に黙って座っている。

行儀がいいというか、落ち着いているというか、トゲトゲしたところが無くてほっとした。ネットで読んだのだが、タイ人は日本人より柔和で大人しいのかもしれない。目が優しいし、話し言葉のトーンが柔らかい。タイ語は解らないので意味は不明だが、声のトーンが柔らかだった。特に男性のしゃべり方は抑揚が無く滑らかで、自信がないかのような響きが感じられる。

もし僕が日本であんなしゃべりかたをしたら、女性的だと思われるだろう。タイはレディーボーイと呼ばれるニューハーフが大勢いる国だが、タイ人の男性は元々女性っぽい素地を持っている人が多いのかもしれない。

二駅先のシーロムという駅でMRTを下車し、BTSに乗り換える。BTSの切符売り場で百八十バーツを出してプリペイドカードを購入した。MRTとBTSは会社が違うので別々のプリペイドカードを買わねばならない。共通化の計画はあるが実施が遅れているらしい。

BTSはスカイトレインとも呼ばれる高架鉄道なので、乗り場は高い位置にあり、駅の周囲の景色が見渡せる。MRTと同じように清潔で、ホームには柔和そうな人たちが静かに立って電車を待っている。

この国に足を踏み入れてからまだ一日も経たないが、僕はバンコクが好きになってきていた。昨夜チャイナタウンで感じた汚れた息苦しさは夕立と水たまりがもたらしたものであり、普段のバンコクはきっと清潔で柔和で好ましいものだという気がしていた。

スカイトレインの車両が到着して整然と乗車した。車内はそこそこ混んでおり立っている客が多かったが、先ほどの地下鉄と同じように静かで清潔で柔和だった。その時、僕は心地よさの一つの原因に気づいた。僕より背の高い人と背の低い人がほぼ同数だったのだ。タイ人の平均身長は男性が百六十七センチで女性が百五十七センチだとネットに書いてあったのを思い出した。百六十三センチの僕は全人口の平均にあたることになる。東京の満員電車だと周囲の男性の大半よりも背が低いので居心地の悪さを感じていたのかもしれない。

女性は概して日本人より浅黒いが、南アジア人的な丸顔で骨格の小さい女性と、伸びやかな体形の女性に二分されるように思えた。後者は百六十センチ代後半の現代女性が中心で、僕の好みのタイプだ。これはネットで読んだのだが、タイ人の牛乳摂取量は国際平均の七分の一以下であり、タイ政府は学童に毎日二、三杯の牛乳を飲ませることによって平均身長を欧州諸国並みに引き上げる計画を立てているそうだ。ということは、タイ人は日本人よりも遺伝子的に欧州人に近いのだろうか?

僕の近くに立っているすらりとした若い女性は、毎日二、三杯の牛乳を飲まされて育った新世代のタイ人女性なのかもしれない。

女性のパンツ姿とスカート姿は半々ぐらいだったが、東京と比べるとレースのスカートやワンピースの人が非常に多いことに驚いた。よく見ると薄っぺらいカーテンのような光沢で立体感に乏しいレースだったので興ざめした。日本の女性なら決して着ない安物の素材だと思った。

サイアム駅でBTSを降りた。サイアム駅周辺にはいくつかの巨大ショッピングモールがあるが、午前十時前だったのでまだ閉っていた。スマホでグーグルマップを見ながら、今朝の目的地であるパンティップ・プラザに向かって歩いた。パンティップ・プラザはバンコクの秋葉原と呼ばれる場所だ。僕は秋葉原が好きで、特に用が無くても秋葉原で下車をしてブラブラすることがあるほどだった。パンティップ・プラザはバンコクで是非訪問したい場所のひとつだった。

炎天下を二十分ほど歩いてパンティップ・プラザに到着した。銀座のデパートを大きくしたようなビルの中には無数のショップが並んでいた。秋葉原からアニメ、オタク文化と家電製品を取り除き、ひとつのビルの中に押し込んだ場所と表現すべきだろうか。平たく言えばパソコンとスマホ関係のショップを集めた電脳ビルだった。雑貨のショップがあったり、コワーキング施設やフードコートが充実していたが、秋葉原を知り尽くした僕にとって特に目新しいものは無かった。

パンティップ・プラザを出て水上バスの乗り場まで歩いた。バンコクではMRT、BTSの交通網はまだまばらで、道路は渋滞が多くバスは時間通りに動かないので、川や運河を通る水上バスが重要な交通手段となっている。プラトゥナームの水上バス乗り場に着いて数分待つと、数十人は乗れそうなボートが来た。車掌がボートから岸に飛び移って艫ともづなでボートを固定する。その間、十秒もかからない。乗客も岸からボートへ、ボートから岸へと慣れた足つきで移動する。小さな子供やお年寄りには利用が困難な乗り物だ。

ボートには四、五人が並んで座れるベンチが十列ほどあり、僕はボートの縁に近い席に腰を下ろした。若い車掌がとび職のような身のこなしでボートの縁を伝って料金を集めに回る。下船予定のパンファ・リーラードという埠頭までの料金は二十バーツ、僅か七十円ほどだ。巨大なオートバイのような音を立て、水しぶきを上げながらボートが進む。チャイナタウンの水たまりと同じ色の赤茶けた水だった。ボートの左右にはビニールの幌がかかっているので、幌を上げない限り水しぶきはかかららない。

運河の両岸には家並みが続いている。大半は木造の一般家屋で、ボートから見えるのは玄関とは反対の裏戸の側だ。運河と家との間の狭い路地を普段着姿の老人が歩いている。運河ぎわに直接建っている家も多い。

家屋が途切れたところに突如寺院が現れる。それにしても、やたら寺院が多い。タイには二万五千もの寺院があるそうだ。仏教国だから寺院とは「お寺」なのだが、金箔で覆われた大きな尖塔を頂いたきらびやかな建築物がバンコク中に散在している。京都を訪れる外国人も同様な印象を受けるのかもしれない。

二十分ほどするとその水上バスの終点のパンファ・リーラードに到着し、全員がボートを降りた。向こう岸の奥にある小高い丘に黄金の仏塔が見える。あれはワット・サケットという寺院で、今回の旅行で訪れるべき場所のひとつだ。

しかし、僕は先にカオサン通りに行くことにした。カオサン通りは「バンコクの原宿の竹下通り」とも言われており、さまざまなショップが並んでいるそうだ。今朝は湿ったままの靴を履いて出てきたが、さきほどから足が蒸れた感じが気になっており、早く新しい履物を買いたかった。

グーグルマップによるとカオサン通りまでは徒歩十六分の距離だったが、トゥクトゥクで行くことにした。トゥクトゥクとは小型の三輪自動車のタクシーで、オートバイの後輪を二輪にして引き伸ばし、二人から数人が座れるようにした「オート三輪」だ。「三丁目の夕日」にも出て来るレトロな可愛い半オープンカーを見て、一度乗ってみたいと思っていた。

埠頭から階段を上がった所に数台のトゥクトゥクが客待ちをしていた。「カオサン・ロード」と言うと「ワンハンドレッド・バーツ」と言われたので、少し高いのではないかと思ったが「OK」と答えて乗り込んだ。雨よけのビニールの幌のついたオート三輪は片道三車線の道路を乗用車と競うように走った。車体が軽くてフワフワした感じだ。もし乗用車と衝突したらひとたまりもなくぶっ飛ばされるだろうと思ったが、トゥクトゥクは数分でカオサン通りの入り口に到着した。

そこはひと目で観光地とわかる場所で、車両制限された道路の両側の歩道に沿ってさまざまなショップ、飲食店やホテルが並んでいた。茶葉、オーガニック石鹸、手工芸品、衣類など、観光客を目当てにした小さなショップが立ち並ぶ。衣類店には値札が百バーツ(三百四十円)のワンピースが吊るされていたりしてバカバカしく安い。

靴屋を見つけて立ち寄り、まずスニーカーを見たが気に入ったデザインのものがなく、サイズも大きすぎるか、長さが合っても極端に細くてとても履けそうになかった。ショップの男性が諦め顔でサンダルの棚に僕を誘導した。ところが、どのサンダルも安っぽく、大きすぎてすぐに脱げそうだった。ショップの男性に「サンキュー」と言って立ち去ろうとしたところ、引き留められ「ニュー・プロダクト」と言ってグリーンのサンダルを手渡された。履いてみると僕の足にピタリとフィットしていた。長すぎも短すぎもせず、土踏まずの部分がわずかに盛り上がっているので、走っても脱げないだろうと思った。これならスニーカーと同じ感覚で歩き回ることが出来る。

僕はすっかり気に入って「ハウマッチ?」と聞いたところ、「ファイブ・ハンドレッド」と言われた。この店にある他のサンダルには百バーツから二百バーツの値札がついているので五百バーツは高すぎると思い、「ディスカウント・プリーズ」と言ったところ、「ニュー・プロダクト、ノー・ディスカウント」と値下げを拒否された。五百バーツは日本円で千七百円だから目くじらを立てることもないかと思ったが、足元を見て吹っかけられた気がしたので、わざと苦い顔をして黙っていた。するとショップの男性が「OK、フォア・ハンドレッド・フィフティ」と一割の値下げを提案してきた。

内心嬉しかったが、仕方ないと言う表情を見せながら財布から五百バーツ札を取り出そうとしたところ、後ろからポンと肩を叩かれた。振り返ると、僕より少し年上のスラリとしたタイ人女性が立っていた。彼女は僕の右肩を押して、反対側のサンダルの棚へと誘導した。そこは女性用サンダルのコーナーで、僕が気に入ったのと同じサンダルが二百バーツで展示されていた。

僕はショップの男性に「ジス・サンダル・イズ・ウィメンズ」と抗議したところ、「フォア・メン・アンド・ウィメン」という答えが返って来た。女物をつかまされそうになったことにプライドを傷つけられた気がしたが、タイ人女性のひと言で気持ちが変わった。

「とても似合う」

彼女が日本語をしゃべったのに驚いた。日本人ではないと分かる日本語だったが、少しハスキーで低めの快い響きの声だった。

僕は五百バーツ札を財布に戻して代わりに百バーツ札二枚をショップの男性に渡した。男性はタイ語で何やら彼女に話した。意味は分からないが悪態をついたのは確かだった。彼女のお陰で二百五十バーツを儲けそこなったのだ。僕はその場の雰囲気を悪化させたくないという気持ちで、ショップの男性に、サンダルはそのまま履いて帰りたいのでこの靴を捨てて欲しいと身振り手振りを交えて頼んだ。彼はOKと答えて僕から二百バーツを受け取り、取引が完了した。

湿った靴から解放されて清々しい気持ちで店を出た。

「ありがとうございました。お陰で騙されずに済みました」
お辞儀をして日本語で礼を言った。

「どういたしまして。日本人、騙されやすいから気をつけて」
彼女は微笑んでさほど不自然ではない日本語で言った。

その時、僕は彼女がとても美しい女性だったことに気づいた。

ショートのボブの髪が眉毛の位置で切りそろえられている。脛丈の黒いスリムなパンツに大き目の白のシャツをボーイッシュに着こなしている。やや浅黒いがダメージの無いしっとりとした肌に、切れ長の二重ふたえの目が映えている。厚みの無い白いサンダルを履いているが、僕より七、八センチほど背が高い。

「東京から昨日バンコクに着きました。明後日の夜のフライトで日本に帰ります。桃野翔太と申します」

不必要な自己紹介だとは分かっていたが、たとえ数秒でも長く彼女の近くに居たいと思ってしゃべった。

「私の名前はノイナ」
と彼女は微笑んだ。

それが運命の女性ノイナとの出会いだった。


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新作「失われたアイデンティティー」を出版しました

桜沢ゆうの新作小説「失われたアイデンティティー」を出版しました。MTFのストーリーですが、分類的にはTS小説というよりは一般小説になると思います。

主人公の間宮孝太郎はアラフォーのエリート商社マンで本社の課長をしています。七月五日に間宮の課に派遣された綾瀬レイナは表紙カバー画像のような感じの二十三才の女性です。

間宮の目にはアンバランスで場違いな感じのする美人という印象でした。重めの前髪が目の上ギリギリでぱっつんに切られており本来キュートな髪形のはずですが、大人っぽ過ぎる物憂い表情によって相殺されて、人を寄せ付けないオーラが漂っています。

派遣開始の翌日の夕方、課の歓送会がありました。主人公は対面の席に座った彼女と会話を弾ませ、彼女も間宮に心を開いたかに見えました。

お酒の回った間宮だったが、酔った彼女をタクシーで家まで送る役割を引き受けることになります。アパートの玄関のドアの前までのはずが、彼女の誘いに乗って部屋に入りました。

それは間宮にとって小さな過ちでしたが、この僅かな気のゆるみのお陰で間宮は驚天動地の世界を経験することになるのでした。

物語はワールドカップのベルギー戦の朝に始まり、隅田川の花火大会が予定されていた日(台風で翌日に延期されたので花火大会が開催された前日)に終わります。それは私が実際にこの小説を書いた期間とピタリ一致しています。短期間の展開ですがぎっしりと詰まった小説です。思いを込めて書きました。



失われたアイデンティティー
第一章 危険な派遣社員

 いつになく浮沈の激しい日だった。

午前三時にキックオフしたワールドカップのベルギー戦の録画を、五時起きで見た。二対ゼロになって有頂天になっていたら、ベルギーの左からのふわっとしたヘディングがキーパーの頭を超えて入った。間もなく二点目が入り、終了間際に三点目を入れられて負けてしまった。

もし三点目が入らず延長戦になっていたら、スマホのニュースを電車の中で見て結果を知る羽目になっていたところだった。録画を最後まで見たら会社に遅れるからだ。負けたおかげで私は部下たちに午前三時からリアルタイムで観戦したふりをすることができる。

そんなことを考える自分はせこいなと思いながら出勤し、パソコンを立ち上げると、部下の花村純子から
「お話したいことがあります。お時間いただけますでしょうか」
という短いメールが入っていた。

花村純子は短大卒で入社二年目の一般職社員だが、フロアで最も人気がある女性だ。美人ランキングがあるわけではなく私の主観による順位だが、ショートボブがよく似合う小顔でセンスの良い女性で、愛想が良いだけでなくちょっとした会話がウィットに富んでいる。去年の暮れの部の飲み会で隣の課の男性社員から好きなタイプの男性について質問された際に「うちの課長みたいな人」と答えていたのが漏れ聞こえて心が躍った。純子は私に聞こえるのを承知の上でそう言ったのだと思った。計算高いのではなく、わざとそんな手法で気持ちを伝える能力を持つ女性だった。

会議室管理システムで一時間後の午前十時からの小会議室の予約を入力し、自動通知で純子に知らせた。純子はパソコンの画面から目を上げ、一瞬私に顔を向けて微笑んだ。お互いの意思が通じた瞬間だった。純子からのメールにわざわざ返信するのは無粋だと思ったので返信はしなかった。

純子は私に何を話したいのだろう? 職務上の不満、他の課員とのトラブル、先輩社員からのハラスメントの訴え……。もし「好きです」と告白されたらどうしよう。私のような男性がタイプだと言っていたことだし、二十才の年令差は決定的な障害にはならない。しかし不倫はまずい。課長が自分の娘のような年令の部下と関係を持ったことが露見したら私のサラリーマン生命は危機に晒されるだろう。結構いい関係を保ってきた妻を裏切ることにも良心の呵責を感じる。

早めに会議室に行き、不安と期待が交錯する胸の内を表情に出さないようにと深呼吸をしていた時に花村純子が入ってきた。

「ベルギー戦は見られました?」
と言いながら純子は私の向かい側の席に座った。

「勿論。昨日の夜は十時に寝て、今朝早起きして見たよ」
三時に起きて実況を見たと純子は受け取ったかもしれないが、私はそうは言っていないから嘘をついたわけではない。

「私は渋谷のパブリックビューイングに行ったから一睡もしてないんです。惜しかったですよね」

乾のシュートについて解説しようかとも思ったが、サッカーの技術論を振りかざしても、純子なら興味があるフリをして私に合わせてくれるだろうが、好感度にはつながらないと判断した。それよりも、純子が誰とパブリックビューイングに行ったかが気になった。

「いい試合だっただけに悔しいよね。一緒に行った人も悔しがっていただろう?」

「あら、課長。男性じゃないですよ。アッちゃんと二人で行ったんですぅ」
と、純子は私の嫉妬を見抜いたかのように意地悪な微笑を浮かべて答えた。

「ああ、君のところによく来る、経理のアツコさんね」
私は何気ない表情で平静を装う。

「今日お話ししたかったのはワールドカップの事じゃなくて……」

「あ、そうだったね。気兼ねしないで何でも言ってくれ」

数秒間の沈黙の後、純子は私の目をじっと見ていたが、真剣な口調で語り始めた。
「私、すごく悩んだんですけど、ワールドカップの日本代表から勇気をもらって、課長にお話しする決心がつきました」

私の心臓は純子の耳に届くほどの音を立てている。純子は私に告白しようとしているのだ。次の言葉を聞くのが怖かった。

「私、会社を辞めます」

「ええっ!」

自分の耳を疑った。「好きです」ではなく「辞めます」とは!

絶頂まで引っ張り上げられてドスンと落とされた気持ちだった。まるで今朝のベルギー戦と同じだ。

「結婚するのか……」

「うふふ、寿じゃないですぅ。私、彼氏いない歴三ヶ月で、募集中ですよ、課長」

純子は誘惑の視線で私をあしらった。

「じゃあどうして辞めるんだ? パワハラは無いと思うが、セクハラじゃないだろうな?」

パワハラは自分も部下も決してしないように気を配っているので自信があったが、セクハラは被害者本人にしか気づきにくい面があるので心配だった。

「鈴木さんのことですか? あのくらい、どうってことないですよ。あ、これ、鈴木さんには内緒ね」

「辞めたい理由を教えて欲しい」

「会社に不満はありません。快適過ぎるほどです。だから私、冒険したくなったんです。今までとは別なライフスタイルを経験したいというか……。課長もそんな気持ちになったことってありません?」

それは分からないでもない。何もかも捨てて純子と駆け落ちをするとか……。

「会社に勤めながら、アフターファイブや休日に冒険することも可能じゃないか。そうだ、五日間連続の夏休みを取って前後に土日をくっつければ九連休になるぞ」

「九日間が終わったら、元の生活に戻るというのではダメなんです。例えば香港の家庭に住み込みのメイドとして働こうと思ったら、一年は欲しいですよね」

「香港で住み込みのメイドだって? フィリピン人の出稼ぎ女性みたいに? 大事に育てられた日本人のお嬢さんに出来る仕事じゃないと思うよ」

「香港人の奥さんから住み込みの女中として見下されてプライドをズタズタにされて働く……。会社を辞めないとそんな経験ってできないじゃないですか。いえ、これは一つの例えであって、実際に香港に行くつもりはないですよ。とにかく今までとは違う日常を体験したいんです」

まるで子供だ……。ナイーヴというか、幼稚と言うか、まだ社会人になり切れていないのだ。子供を相手にする場合、頭ごなしに否定するのは逆効果であり、やんわりと翻意を促すしかないと思った。

「ご両親も心配されるんじゃないかな」

「親には今夜話します。今朝ベルギー戦を見て渋谷で決心した後、まだ家には帰っていませんから。親はどちらかというと私のすることには理解がある方ですから、何たらかんたら言った後でサポートしてくれるはずです」

こんな娘を持つと親も大変だろうと思った。

「君の気持ちは分かったが、ご両親とか友達とか、よく相談してから最終決断した方がいいと思うよ」

「あ、退職届はさっき勤務システムに入力しておきましたので、人事部にはもうコピーが行っています。課長と部長が承認をクリックしたら手続きが完了するはずです。ボーナス月の退職で恐縮ですけど、引継ぎ期間と有休残の消化を考えて七月末退職ということで」

顔には出さなかったが私の心はポキッと音を立てて折れた。あまりにも冷淡な最後通告だった。

「じゃあ課長、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんがよろしくお願いします」
と言って花村純子は会議室から出て行った。

私はしばらく立ち上がる気力がなかった。ベルギー戦と同じくらい、いやもっと取り返しがつかない種類の喪失感だった。

しかし、ぼやぼやしてはいられない。入社二年目の一般職といっても定型業務を引き継ぐには少なくとも一週間はかかるだろう。補充要員の確保が喫緊の課題だ。私は会議室の電話機から人事課長のアポを取って人事部に出向き、事情を説明して人員補充の要請をした。

「残念ながら現時点で異動させられそうな一般職女性は居ませんね。定年延長の高年男性で良ければ二、三人ほど心当たりがあるんですが……」

「それは勘弁してください。二十才の女の子の代わりに六十を超えたオジサンが来たら若手男子社員の労働意欲が急低下します。それに営業部門で中高年男性がお茶出しをしたらお客さんが逃げてしまいます」

「そういうことなら当面は派遣で凌いで、来年四月に新卒一般職を補充するしかないでしょうね」

「そうですか。じゃあ、派遣の手配をお願いします。できれば若い美人を」

「間宮さん、一般事務の派遣を依頼する際に『若い美人』という条件は付けられません。人事部の基準によって派遣を手配しますのでお任せいただくことになります。まあ、今回は急ぎということなので多くは期待しないでください」

「部下たちの勤労意欲のためです。何とかよろしくお願いします」
と、もう一押ししておいた。

***

翌日の午後、人事課長から「派遣社員の件」というタイトルのメールが入った。

「通常は少なくとも一週間のリードタイムが必要ですが、たまたますぐに勤務可能な人材が見つかり、今朝面談を実施した結果適切と判断したので、明日から派遣開始となりました。プロフィールを添付します」

メールには綾瀬レイナという女性の写真付きのプロフィールが添付されていた。派遣会社のフォームのプロフィールであり、生年月日や学歴など、通常の履歴書に書かれている内容は記載されていなかった。写真は冴えない表情だったが可もなく不可もなく、二十代前半の普通の女性という印象だった。私と部下の男性の勤労意欲が急低下するようなオバサンでなかったことにほっとしたが、身長体重等の記載はないので、現物を見るまでは何とも言えない。まあ、人事部で面談した上で判断したということなら、極端に態度や愛想が悪いということは無いだろう。

花村純子を呼んで「明日木曜日の朝から派遣社員が来ることになったから引継ぎを始めてくれ」と言ってから、課の全員あてに純子の退職と派遣社員の採用に関するメールを送った。純子ファンだった課長代理の鈴木省一は「本当ですか!」と落胆の呻きを上げたが、他の課員は純子が退職することについて先刻承知の様子だった。

***

七月五日の木曜日、私は期待に胸を膨らませて出社した。九時半に人事課長が若い女性を連れて部屋に入って来たのを見て、私は息を飲んだ。

私の左前方の席の鈴木課長代理はポカンと口を開けて虚ろな目を彼女に向けている。彼女が目に入る位置に座っている男性の表情は多かれ少なかれ鈴木と同様だった。彼女は部屋全体の雰囲気を白けさせるような種類の女性だった。二十二、三才で百六十三センチ程度のスラリとした美人だが、何かアンバランスで場違いな感じがする美しさだった。目の上ギリギリで切りそろえられた重めの前髪が醸し出すはずのキュートさが、大人っぽ過ぎる物憂い表情によって相殺されていた。彼女が放つ人を寄せ付けないオーラが私を不安にさせた。

「間宮課長、こちらが派遣の綾瀬レイナさんです」
人事課長がそう言って彼女を私に引き渡してから「文句ないでしょう?」と言わんばかりにニヤリとした目で私を見て立ち去った。

「綾瀬レイナと申します。よろしくお願いいたします」
と、投げやりな雰囲気でその美人はお辞儀をした。裾の部分だけ軽くウェーブがかかったロングヘアが前に揺れる。染めているのか地色なのか判断できない茶色がかった髪だ。

「課長の間宮孝太郎です」
と自己紹介をしてから課員の一人一人を紹介し、私から一番離れた席に座っている花村純子の向かい側の席に綾瀬レイナを座らせた。

私が席に戻ると課長代理の鈴木がヒソヒソ声で私に聞いた。

「課長、あんな美人をどうやって連れて来たんですか!?」

「まあ、色々あってね」
と私は思わせぶりに答えた。

「歓迎会をやらなきゃ。課長のご都合の悪い日を先に教えてください」

「私の予定は全てオンラインのスケジュラーにインプットしてあるが来週の水曜日以外は特に予定は入っていない。ただ、派遣社員の場合、五時半以降は拘束できないし、飲み会の費用の負担を求めるのも色々問題が……」

「そこらへんは心得てますよ。うまく話しますから僕に任せておいてください」

「くれぐれも無理強いをしないように頼むよ……」

***

花村純子と綾瀬レイナはうまくやっているようだった。アイドル的な可愛い子がタイプの違った美人と火花を散らさないかと懸念したが、杞憂だった。純子にすれば短期間の付き合いだし、レイナは大人だからなのだろう。

純子はレイナを他部門の担当者に後任として引き合わせるために社内を回り始めたが、私は内心誇らしい気持ちだった。というのは、純子は他部門の部課長連中にもファンが多く、彼らから私に「アイドルの後任にあんな美人を引っ張って来るとは凄腕ですね!」と言った類いの賛辞が寄せられたからだ。

五時を回った頃、鈴木課長代理から課の全員あてに綾瀬レイナの歓迎会の案内のメールが送られた。翌日金曜日の午後六時から近くのインド料理店で開催するとのことだった。

「新人女性の歓迎会がインド料理というのは珍しいね」

「綾瀬さんに何が食べたいかと聞いたら、スパイシーなものが好きとのことだったのでインド料理にしました。ちなみに、綾瀬さんからは会費を徴収しないことになっています」

鈴木は仕事に関しては頭が固い傾向があるのだが、私と違ってこの手の飲み会をアレンジする能力が高いことには感心させられることがある。

***

金曜日は普段より十分ほど早く出勤した。いつも会社の近くのコーヒーショップで日経新聞の電子版を読んだり海外の金融市場の動きをチェックしてから出勤するのだが、今日はつい早めにコーヒーショップを出てしまった。会社に行けば綾瀬レイナと会えるという気持ちで年甲斐もなくドキドキしている自分に気づいて失笑した。去年花村純子が入社して私の課に配属になった時も会社に来るのが楽しくなったが、その時の気持ちとは違う、焦燥感の混じった憧れを私は感じていた。

仕事をしていてもつい目を上げてレイナの顔をチラチラと見てしまう。これではいけない、我慢しようと思うほど、私の視線は勝手にレイナに吸い寄せられた。レイナには他の女性には無い特徴があった。それは表情を変えないということだった。昨日は初めての職場だから緊張しているのだろうと思っていたが、そうではないことに気づいた。表情には余裕があり、おじおじした様子は全くない。きつい目をしているわけではないが、私の見る限り一度も笑わなかった。

ただ、純子とレイナの席は私から三列離れた末席であり、私はかなり離れた場所から横斜め顔を見ているにすぎないので断言はできない。仕事中は仕事に集中し、オフになれば喜怒哀楽を顔に出す女性も居ないわけではない。見えない所では純子と笑顔で話しているのかもしれないと期待した。

待ちわびた夕方になり、レイナは五時半に席を立ったが、私は他の男性課員と一緒に六時十分前に席を立ってインド料理店へと向かった。インド料理店に行くと十人掛けのテーブルが予約されており、鈴木の計らいで私はレイナの対面の中央の席に座ることになった。

黒いフレンチ袖のカットソーのTシャツの上に、黒地に白い花柄が透けて見えるオーガンジーのスカートをはいたレイナは、会社での制服姿と違って、奔放さを匂わせる大人っぽい雰囲気が感じられた。表情にも余裕と隙が見える気がした。

「綾瀬さんは怖いタイプの美人かなと思ったけど、そうでもなさそうだから安心したよ」
と、乾杯の後で鈴木がレイナに言った。やはり鈴木も私と同じように感じているのだ。

「『美人』ではないですけど、怖い女というのは当たっているかもしれませんよ」
と、レイナは虚ろな目を鈴木ではなく私に向けて言った。

私は反応を返す必要性を感じて苦し紛れにコメントした。

「他部門の部課長連中から電話がかかって来て『アイドル的美少女の後任にあんな美女を採るとは間宮さんもすごいな』と冷やかされたよ」

レイナから一人置いて奥の席に座っている花村純子が私のコメントに笑顔を返したのが見えてほっとした。大体のところ女の子と飲む時は褒めておけば大失敗はしないものだ。

「私、自分の醜さはよく分かっていますから」
とレイナは、私ではなく鈴木の目を見ながらポツリと言った。

「アハハハ、綾瀬さんが醜いのならこの世の女性は全員がブスということになるよ」
と鈴木が周囲を見回しながら大きな声で言った。その言葉が純子と三十代半ばの総合職の羽田菜緒にかなりの不快感を与えたことを鈴木は気づいていない。

レイナの「自分の醜さ」という言葉が妙に引っかかった。謙遜なら醜いという表現は使わず「きれいではない」とか「他にずっときれいな人がいる」などと、周囲の女性たちの反感を招かない言い方をするものだ。それ以上に、レイナが本気でそう言ったことが表情で分かった。昨日の朝初めてレイナを見た時に感じたアンバランスさや場違い感と相通じるものがあった。

白けた沈黙の後、鈴木が花村純子としゃべり始めたのを横目に、私はレイナの先ほどの発言を受け流すつもりで話しかけた。
「美人だと苦労の方が多いかもしれないね。何とも思っていない男や、嫌いなタイプの男から言い寄られたり、ひどい場合はストーカー被害に遭ったり……。次から次へと近寄られるのを断るのに神経をすり減らすんだろうな」

「課長は女性の気持ちが分かるんですね。以前女性だったことがあるんですか?」

唐突で意外なことを真剣な表情でレイナに言われてうろたえた。

「な、無いよ!」
と答えた後で、そんな質問をまともに受け答えした自分が恥ずかしくなった。

レイナは私の狼狽を面白がって「うふふ」と笑った。レイナと会って初めて目にした笑顔は嫌味や裏の無い無垢なものに感じられた。私も微笑を返した。レイナとの間にあった壁が、霧が引くように消失した。

それからレイナは別人のように優しくなった。私以外の課員に対する受け応えにも若干の変化が見られたが、私に対する態度は一味違うと感じた。企業の管理職として、打ち解けにくい新人の心を開けたのは格別な喜びだった。その新人が美人の女性だっただけに、私は女性を扱うテクニックを他の課長連中に自慢したい気がした。

二時間半があっという間に過ぎた。レイナは自分ではそれほど飲んでいないようだったが飲ませ上手で、私はすっかり酔いが回った。飲み会の間、私は殆どレイナと話をしていた気がする。課長として褒められたことではないが、私とレイナの会話には他の課員たちも適宜加わったし、今日はレイナの歓迎会ということで大目に見てくれるだろう。

勘定は幹事の鈴木に任せて千鳥足でレストランを出た。私の近くに立っていたレイナも脚がふらついているように見えた。

レストランから最後に出てきた鈴木が「花村ちゃん、カラオケ行こうよ」と純子を誘って軽くいなされた。

「綾瀬さんはかなり飲んだみたいですから、課長にお願いしていいですか?」
と鈴木が私と綾瀬に聞こえるように言った。私が綾瀬を気に入っていると思って気を利かせたのか、それとも若い課員と飲みに行くのに私たちが邪魔だと思ったからなのかは不明だった。

最近の世間の風潮だとちょっとしたことでセクハラの嫌疑をかけられかねないので、私は女性を家まで送る役割は御免こうむりたかった。相手が若い美人だとなおさらそうだった。

その時、綾瀬が私に身体を寄せてきた。
「すみません、課長。本当に送っていただいてよろしいんですか?」

私は反射的に「勿論だよ。私は安全な人間だから心配するな」と答え、タクシーを拾ってレイナを乗せた。私も乗ってタクシーのドアが閉まった。

「ええと、綾瀬さんの家は確か東の方だったっけ?」

レイナは「はい」と答えて、深川の住所をドライバーに告げた。タクシーが走り出すとレイナは私に軽く微笑んでから目を閉じた。レイナと言葉を交わさなくてもいい状況になって私はほっとした。二人きりで何を話せばいいか想像がつかなかったからだ。

二十分ほど走ってタクシーは薄暗い集合住宅の前に停車した。その時、レイナが疲れた様子で私に言った。

「すみません、気分が悪いので部屋まで送っていただけないでしょうか」

断れるはずがなかった。タクシー代を払うとレイナに肩を貸してアパートの玄関を通り、エレベーターまで歩いた。レイナの足取りはしっかりしており、肩を貸さなくても大丈夫そうだったが、レイナは私の肩に手を回したまま歩いた。相手が男なら肩か腰を抱きかかえて支えるところだったが、私は手を下に垂らしたままだった。

エレベーターを五階で降りて五〇五号室の玄関ドアの前に立った。玄関の鍵は番号入力式の見慣れない電子ロックだった。レイナが四桁の番号を入力するとカチッとと音がして解錠された。

「じゃあ、ここで失礼するよ」
と言って、私はエレベーターへと引き返そうとした。

「待ってください、課長。お願いですから少しだけお話をさせてください。五分間だけで結構です」

妻以外の女性のアパートに入ったことがなかった。若い女性のアパートで二人っきりになることには、ドキドキするというよりも、戸惑いの方が大きかった。

「お願いします」
ともう一押しされて
「じゃあ、五分間だけ」
と言って部屋に入った。

左右に小さなキッチンと洗面所がある廊下の向こうにリビングルームがあり、奥にベッドルームがあるようだった。私は部屋に入ると右側のソファーを示されて腰を下ろした。二人掛けのラブチェアーのようなソファーだった。

「すぐにコーヒーをいれますね」
と言ってレイナはキッチンに行った。きびきびとした様子で、足取りもしっかりとしている。家まで送って欲しいのは私の方だと思って苦笑した。

部屋を見回して殺風景さに驚いた。緑色のカーテン、シンプル過ぎる安物の家具。夏なのに部屋の隅に火鉢が置いてあった。若くて美しい女性が住んでいる部屋とは到底信じられなかった。女物の服や下着などは一切目に入らない。きっとフェミニンなものは一切合切あのベッドルームに押し込まれているのだろう。ベッドルームのドアを見て、あの向こうはどうなっているのだろうと思ってドキドキした。

レイナはペアーのデザインのマグカップを手に持って戻って来ると、右手に持っていた赤い方のマグカップを私に差し出した。

「コーヒーが切れていたのでココアにしました。ちょっと苦いココアなんですけど」

マグカップはそんなに熱くはなく、すぐに飲めそうだった。

「どうもありがとう。これを飲んだら失礼するから」

レイナは私の右側に腰を下ろし、二人でココアを飲んだ。レイナが身体を少し動かすと腰が触れ合って、私の股間のものがムクムクと大きくなったのが感じられた。早く帰らなければ、と思って、残りのココアを飲み干した。

「私の話を少しだけ聞いてくださいね」
とレイナが私の太股に左手を乗せた。

「もう五分以上経ったから」

「私、死のうと思っていたんです」

「な、なんだって! こんなにきれいなのに、どうして?」

「若い女の子とか、きれいな女の子とか、スタイルがいい女の子とか言って私を褒める人は大勢いましたが、私を一人の人間として正面から見て『きれい』と言ってくれる方は久しぶりでした」

「そ、それは……。ちょっと買いかぶり過ぎかもしれないよ」

「とても勝手な考え方で、課長さんには本当に申し訳ないとは思ったんですけど……」

「ど、どういうこと?」

「私と一緒に死んでください」

マズイ! 私はソファーから跳び起きようとした。

そう思ったが、手足が動かなかった。身体中にしびれを感じて頭が朦朧としてきた。ココアの中に薬物を入れられたのか……。

「課長、ご一緒してくださってありがとうございます」
レイナが私に唇を重ねた。私はソファーに倒れ、レイナの体重を感じながら意識を失った。


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新作「制服はジェンダーレス」を出版しました

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズ新作TS小説「制服はジェンダーレス」を出版しました。

***

主人公は千葉県習志野市に住む深村絢という男子。中学三年の卒業式を終えて帰宅すると、母と姉がお祝いのケーキを用意して待っていた。姉も千葉大医学部の後期合格の発表があったばかりで、そのお祝いのケーキだった。父は出張なのか、不在だった。

その祝いの席で、母から父と離婚したことを知らされて主人公は愕然とする。

父に落ち度がある離婚ではなく、夫婦で相談した結果の協議離婚が成立したばかりだった。絢は千葉県の私立高校への進学が決まっており、高校の授業料は父が払う約束だが、それ以外の衣食住の費用は母が働いて工面するとのことだった。母親は専業主婦だったが、法律事務所に事務員として就職し、母姉弟の三人の新しい生活がスタートする。



制服はジェンダーレス
第一章 家庭の事情

 三月二十三日の金曜日、中学の卒業式が終わって帰宅すると、台所のテーブルに「おめでとう」と書いたケーキが置いてあった。

「待ってたのよ、絢(じゅん)。三人でケーキを食べてお祝いしましょう」
と笑顔いっぱいの母が言った。

「中学を卒業したくらいで、大げさだな」

「それもあるけど、亜希の大学合格とダブルでのお祝いよ!」

「えっ! お姉ちゃんが合格したの!?」

千葉大医学部の後期日程の合格発表は今日だった。合格する確率は五パーセント未満だと姉が言っていたのでまさか受かるとは思っていなかった。

「難関だったけど、これが私の実力よ」
と姉は受かったのが当然であるかのように言った。昨日の夜までは浪人を前提として暗い顔で受験勉強をしていたくせに何という変わりようだろうか!

「早く手を洗ってきなさい」
と母が言ってケーキに包丁を入れた。

僕が洗面所で手を洗って台所に戻ると、ケーキを三等分したものが三つの皿に乗せられていた。

「三人で食べちゃってもいいの? お父さんが大好きなイチゴケーキなのに」

母と姉が気まずそうに顔を見合わせた。

「お父さんは帰らないわ」
と姉が僕の目を見ずに言った。

「そう言えば水曜日ごろから見かけないけど、今日はまだ出張から帰らないのか。海外出張なの?」

「絢、卒業式が終わってから言うつもりだったんだけど、あの人はもう帰らないのよ」

「どういう意味?」

「離婚したの」

「え、え、えーっ!」
僕は絶叫した。

最近父と母が何度か口論していたのは知っていたが、昔から父と母の喧嘩には慣れていたので特に気にはしていなかった。

「何が原因の喧嘩だったんだよ? 仲直りしてくれよ」

「もう終わったのよ。今朝離婚届を出して来たから、後戻りできないわ」

「お姉ちゃんは知っていたの?」

「今週はずっと家にいたから知っていたわ。お母さんから口止めされていたから絢には黙っていたけど」

僕は全身の力が抜けてしまった。

「浮気ってやつか……」

「浮気じゃないわ。深村さんとは人生観や価値観が根本的に違うことが分かったから、別々に生きていくことにしたのよ」

「深村さん?」

「離婚して私は柏崎姓に戻ったの。あなたたちも今日から柏崎亜希と柏崎絢」

「柏崎君って呼ばれるの? 恥ずかしいよ……」

「恥ずかしいなんて言ってられないわよ。これから母子三人、助け合って生活しなくちゃならないんだから」

「お父さんの給料無しで生活できるの? 慰謝料とか養育費とか、ずっともらえるの?」

「深村さんが浮気したわけじゃなくて、話し合った結果の離婚だから慰謝料は無いわ。亜希の千葉大学の学費と、絢の逍遥高校の学費だけは深村さんが払うことになってる。このアパートの家賃を含めた衣食住はお母さんが稼ぐ。亜希は学費以外の費用はバイトでまかなってもらうしかないし、絢はできるだけお金がかからないようにお母さんに協力してちょうだい」

「勿論協力するよ。逍遥高校はバイト禁止のはずだから、僕はとにかくお金を使わないようにする。お母さんはどうやってお金を稼ぐの? 会社勤めをしたことはあるの?」

「お母さんが一流大学の法学部卒だってことを忘れないで。四月から稲毛の法律事務所で正社員として働くことになったのよ。といっても弁護士資格はないから一般事務員で、大した給料はもらえないけど」

「お母さん、卒業したら私が女医になって母さんを楽にするから、それまで六年間頑張ってね。最近は研修医でも手取りで三十万円以上もらえるところが多いらしいわ」

僕は気が滅入って、折角のイチゴケーキも美味しさ半分だった。

大変なことになってしまった。友達に深村君と呼ばれたら「実は親が離婚をして柏崎になったんだ」と言わなければならない。柏崎という姓は好きだが、中二まで同じクラスで元カノだった柏崎玲央も逍遥高校に進学するので、まるで僕が真似をしたみたいだ。柏崎玲央がニヤッと笑って僕を「柏崎君」と呼ぶ表情が目に見えるような気がした。

もう一つ気がかりだったのは、父が払う約束をしたのが姉の大学の学費と僕の高校の学費だけという点だった。僕が大学に進むための学費はどうなるのだろうか? 母の事務員としての給料で、家賃と食費を払った後いったいいくら残るのか、それが問題だ。

「絢、中学の教科書や参考書を早く片付けなさい。私は高一からずっと教科書や参考書を取っておいたから、それを絢の部屋に持って行くわね」

「うん、僕は何でもお姉ちゃんのお古でいいよ。お金を節約しなきゃ」

「さあ、これから忙しいわよ。明日は逍遥高校に行って絢の姓が柏崎に代わったこととか手続きをしてこなきゃ」

「他の友達と会ったら恥ずかしいな……」

「絢は行かなくても大丈夫よ。明日は父兄向けの入学説明会で物品購入がメインだから私一人で大丈夫よ。亜希の教科書の表紙と奥付をスマホで撮影して行って、もし改訂になっていたら新しいのを買ってくるし、同じだったら亜希のものを使ってもらう。それでいいわね?」

「勿論。何でもお姉ちゃんのお古をよろこんで使うから、できだけお金をかけないようにしてね」

***

姉は僕の誇りだった。僕が中学に入った時「深村の弟か」と何人もの先生から言われたが、先生の言葉には歓迎の響きが感じられた。深村亜希の弟ならいい生徒に違いない、と言われた気がして嬉しかった。姉は勉強がよくできる上に美人だ。僕は勉強は姉ほどにはできないし、姉は平均より背が高いが僕は姉と同じ身長で伸びが止まっていた。自分ではよく分からないが一目見て姉弟と分かるほど似ているようだ。ただ、美人の姉と似た弟が美男子とは限らない。テレビのバラエティー番組に女優の姉妹が出演することがあるが女優は当然美人なのに姉妹が驚くほどブサイクで、しかも見て家族と分かるほど似ているという例もある。

逍遥高校に行って「柏崎絢です」と言えば、先生は「どこかで見たような顔だ」と思うかもしれないが姓が違うから深村亜希を連想する人は誰も居ないだろう。「つい最近までは深村絢でしたが事情があって柏崎絢になりました」と言えば深村亜希の弟と分かってくれるだろうが、親が離婚したことはできる限り人には言いたくないと思った。

僕の部屋を片付けて姉の教科書を持って来てから、母が姉の教科書の表紙と奥付を一冊ずつスマホで写真を撮った。

姉は使っていた教科書に小さな字で色々書き込みをしていたが、外観は新品かと思うほどきれいだった。さすが女子は物を大切にする。僕も姉のように物を大切にすることがお金を節約することにつながるのではないかと思った。

英語の教科書を開くと、写真が挟まれているのを見つけた。それは姉が高校の教室で男子と腕を組んで立っているツーショットの写真だった。相手の男子は長身でヘアスタイルと全体の雰囲気が竹内涼真に似ている。

姉は僕がその写真を見ているのに気づいて言った。

「どう? その子、イケメンでしょう」

「お姉ちゃんに彼氏がいたとは知らなかった。いつから付き合っていたの?」

「高一からずっと付き合ってるわ。一緒に旅行に行ったし、同じベッドで寝たこともあるわよ」

「ウソだろう! お母さんも知っていたの?」

母は何も言わずにニコニコしている。

「勿論お母さんも知っているわ。お互いの親が公認する仲なのよ」
と姉が自慢げに言った。

「ショック……。離婚のこともそうだったけど大事なことを僕には教えてくれないんだね」

「アハハハ、引っかかったわね。それ、親友の高科紗栄子よ。私の話に紗栄子という名前がよく出てくるでしょう?」

「紗栄子さんがLGBTだとは知らなかった……」

逍遥高校は去年の四月から制服のジェンダーレス化を採用したことで全国的に有名になった高校だ。上着は男女とも濃紺のブレザーで、グレーにチェック柄のズボンとスカートを性別にかかわらず選べる制度だ。実際に異性の制服を選択した生徒が居たかどうかは公表されていなかった。

「お姉ちゃんは心は男、身体は女の性同一性傷害者と交際しているんだね。結婚とか、どうするの?」

「結婚を考えるのは早すぎるわ。ってか、紗栄子は性同一性傷害じゃないわ。まあ、男っぽいけど、お互いを女友達と認識しあってるわよ。ウォマンスってところかな」

「ウォマンスって何?」

「女どうしのロマンスで性的な関係じゃないからレズビアンとは違う。紗栄子はスカートが好きじゃないし、足が長いからパンツスタイルが似合うと自分でも意識しているから、制服のジェンダーレス制度ができてからズボンとワイシャツにしたのよ。写真をよく見てごらん。ブレザーのボタンは右が前になってるでしょ」

「本当だ。女子のブレザーと男子のズボン・シャツの組み合わせでもいいのか」

「同じ身長でも男子の方が肩幅が広いから、紗栄子は女子のブレザーのままにしたのよ。女子のブレザーは脇を絞ってあるからスタイルが良く見えるし」

「じゃあ、LGBTの男子は上着は男子用、下はスカートでもいいわけだね?」

「そうよ。でも、スカートをはく場合は白のブラウスと赤いリボンタイとの組み合わせが義務付けられているけどね」

「紗栄子さんは気分によってズボンとスカートをはき替えているの?」

「紗栄子は背が高すぎてスカートは似合わないからずっとズボンで通したけど、もし日によって着替えたければ、この一年間は可能だった。元々この制度が出来たのは性的少数者の保護の観点だったけど、検討段階で『女性でもスカートが嫌いな人がいる』という紗栄子みたいな意見とか、『真冬は寒いから女子はスラックスも選べるようにしたい』という保護者の意見が出て、『制服のジェンダーレス化』として発表されたのよ。でも、一年間運用してみて、最も深刻な課題は性同一性障害の生徒が自分が着たい制服を選べる学校にすることであって、そうでない男子が時々スカートをはいたり、普通の女子がスカートとスラックスを着ることではないという結論に達したそうよ。『服装をジェンダーレスにすることによって性的少数者が差別されない環境にする』というアプローチも将来的には有効かもしれないけど、現段階では非現実的な理想論であって、逍遥高校にはそぐわないということになったの」

「じゃあ制服のジェンダーレス化じゃなくて、LGBTの男子が簡単にスカートを選べて、LGBTの女子が簡単にズボンを選べるという制度になったわけだね」

「その通りよ。今年からは男子の制服を選んだ場合、つまり男子を自認すると届け出た場合は女子の制服には変更できない。但し半年に一度変更を申請して、審査を通れば変更できるそうよ」

「実際に男子が女子の制服を選んだ例はあったの?」

「それは校外ではしゃべっちゃいけないことになってるんだけど、絢は四月から逍遥高校の生徒だから特別に教えてあげる。私たちの学年はスカート男子はゼロだった。一つ下の二年生には女子の制服に変えた男子が一人居た。去年の新入生は男子から女子と女子から男子とも、二人ずつ居たんじゃないかと思う」

「思うってどういうこと?」

「スカートをはいてるけど多分あの子は男子だろうと思う子が一人だけ居たのよ。噂ではもう一人居るらしいんだけど、どの子かは分からない。勿論、同じクラスの人は分かってるはずだけど、学年が違うと分からない。それだけ先生たちがLGBTに配慮しているということね」

「なるほど。男子でも入学した時からスカートだったら、皆から女子だと思われるよね。最初ズボンで通って、半年後に変更申請を出してスカートにするのはハードルが高いだろうな」

「その点、絢は心配する必要は無いわ。制服はワンセットで四万円もするのよ。うちにはそんな贅沢をするお金は無いから、例え絢が十月から女子の制服で通いたいと思っても男子のままで我慢するしかないわよ」

「おあいにくさま、僕にはそんな趣味はありませんよーだ」

僕と姉との会話を聞きながら母は優しく微笑んでいた。父が居なくなったのは心細いが、これからはこの三人で支え合っていくのだと思うとファイトが湧いてきた。

***

翌日、母は逍遥高校の父兄向け入学説明会・物品購入会に出かけた。僕は友達の山下から葛西臨海公園に遊びに行こうと誘われたが用事があるからと言って断った。友達と会うと名字が変わったことを言わなければならないのが嫌だった。隠すことも出来るが柏崎になったのに深村で通すのは嘘をつくのと同じだという気がした。仲の良い友達の大半は公立高校に進学するので、このまま会わずにいれば、僕のことは忘れるのではないかとも思った。

姉は紗栄子と会う約束があると言って外出し、僕は一人でテレビを見ていたが、何かしないといけないような気がして勉強机に向かい、姉からもらった日本史の参考書を開いた。明治維新のことを書いてあるページを開き、姉が黄色のマーカーで線を引いた箇所を目で追っていると、自分が姉になって机に向かっているような気持になった。妙な気分だったが、鼓動が高まって頬が熱く感じられた。小さい時から姉は僕の憧れで、いつも姉がそばにいると嬉しかったが、姉になりたいと思ったのは初めてだった。姉のお古の教科書や参考書を引き継ぐことにこれほどの喜びが隠されていたとは新発見だった。高校の授業中も姉になった気持ちでドキドキしていられたらいいのにと思った。

母は昼までには帰ると言っていたが、午後一時になっても帰らず、連絡もなかったので僕は冷蔵庫の中にあった昨夜の残りのご飯を電子レンジで温めて、納豆と卵をかけて食べた。

午後三時になって母が疲れた顔で帰宅した。母は鞄の中から紙袋を取り出して僕に渡した。

「数学の教科書だけ版が新しくなっていたから買ってきたわ。それ以外は全部亜希のものが使える。物品購入の後で教員室に行って名字の変更とか、色々な手続きをしていたから遅くなった。絢が疎外感を味わうことがないように特別なケアをお願いしてきたけど、生徒の気持ちを分かってくれそうないい先生たちだと思ったわ」

「きっと少数者の気持ちを傷つけないという校風ができあがっているんだね。逍遥高校は偏差値が高い割には有名大学の合格実績が低いし、制服のジェンダーレス化をぶち上げたせいで僕の中学からは受験する人が減ったけど、僕は逍遥高校に進学して正解だったと思うよ」

「分かってるわよ、絢は何でもお姉ちゃんと同じがいいってことは」

「もう、お母さんったら!」

「大学も千葉大医学部に入ってくれれば申し分ないんだけど」

「それは無理だよ……」

***

姉はネットでバイト斡旋サイトに登録をして、ドーナツ店でのバイトを開始した。四月五日の入学式まではみっちりバイトをしてお金を貯めると頑張っている。母は四月から法律事務所での勤務が始まる予定だ。僕は四月七日の入学式までは暇なので、家事を手伝い始めた。それまで自分の部屋の掃除以外をさせられたことはなかったが、日を追うにつれて役目が増えて、家じゅうに掃除機をかけたり、洗濯物を干したり、畳んだり、三人分の夕食を作ったりと忙しくなった。

四月二日の月曜日、母は朝食を終えるとグレーのツーピーススーツ姿で家を出た。JRで千葉駅まで行き、徒歩五分ほどのところにある法律事務所に初出勤するとのことで緊張した面持ちだった。

姉もその少し後でバイトに行き、僕は一人で朝食の後片付けをしたが、洗濯と掃除をしながら母のことが気になっていた。母がちゃんと会社勤めができるのかどうか心配だった。結婚後は専業主婦で、一度もパートをしたことがない。父は母のことを人一倍意地っ張りで言い出したら折れない性格だと言っていた。特に父に対しては鼻っ柱が強くて、一歩も引かなかった。僕は決して口に出さなかったが、父はそんな母に愛想が尽きて離婚を考えたのだろうと思っていた。

それに母は美人だった。独身の頃は寄ってたかる男たちをあしらうのに忙しかったと自慢していた。四十三才の今でも美人だと思うが、それだけに会社勤めをすると過去の栄光が邪魔になるかもしれない。テレビドラマを見ていて分かるが、会社でもてはやされるのは若い女の子が中心であり、その二倍の年令の母が同じようにチヤホヤされることはないだろう。それは母にとって未経験の領域であり、プライドをズタズタにされても我慢して勤務を続けられるかどうかが心配だった。

その日、姉は夜遅く帰ることになっていたので、僕は母と自分の二人分の夕食を作って母の帰りを待った。

午後七時になっても母は帰宅しなかった。会社は五時半までだから遅くとも六時半には家に着くはずだった。途中でスーパーに立ち寄って買い物をしているのだろうかと心配はしなかったが、LINEで「何時ごろ帰るの?」とだけ送っておいた。そのLINEはいつまでも未読のままで、時計が八時を回り、そして九時を過ぎても母は帰ってこなかった。もしかすると事故に遭ったのではないかと心配になり、僕は駅までの道を歩いて見に行った。

駅の階段の下で列車を四本待ったが、母は姿を見せず、LINEも未読のままだった。半泣きになって家まで歩いて帰り、お腹を空かせたまま食卓の椅子に座って母と姉の帰りを待った。

十時を過ぎた時、玄関のドアが開く音がした。走って廊下に出ると母だった。駆け寄って母に抱き着いた。

「どこに行っていたの、お母さん?」

「ごめんね、昨日の夜スマホを充電するのを忘れていたのよ。夕方、私の歓迎会をしてくれることになって、飲み屋から電話をしようとした時にスマホの電池が切れていることに気付いたんだけど、ついそのまま飲み続けちゃった。私のために上司の弁護士さんや先輩たちが集まってくれたから、私事で席を外しちゃいけないと思ったの。絢がそんなに心配してくれているとは思わなかった。本当にごめんなさい」

僕は泣きじゃくりながら「もういいよ。お母さんが無事でよかった」と言ったが、ほっとするとお腹がグーッと音を立てた。

「食べずに待ってくれていたのね。ありがとう、絢」
と母が僕をもう一度抱きしめてくれて、僕は完全に母を許した。

その時、姉が帰宅した。姉は食卓の上に母の夕食が手つかずで残っているのを見て自分の分だと勘違いしたようだった。

「私の夜食を作って待ってくれるとは絢はいい奥さんになれるわよ」
と言って姉が母の分を食べてくれたので努力が報われた気がした。

母も姉も働いて疲れていると思ったので、母から順に風呂に入ってもらい、僕は食事の後片付けをしてから最後に風呂に入り、掃除もした。

明日の朝も早いので、殆どおしゃべりする時間もなく各々の部屋へと散ったが、母が元気そうだったので安心した。

***

母の職場での状況については翌日の夕食時に詳しく聞いた。

どこまで本当だか眉唾物だが、母は職場の弁護士たちから美人事務職として歓迎されたとのことだった。

「二十代の女子の事務職社員が四人と三十代が二人いて、そのうち二人を除くと仕事はできるんだけど、外観的にはレベルが低いのよね。年令にかかわらず私がミス法律事務所になるのは当然の流れだった」

「本当に弁護士さんたちがそう思ってるのかなあ……」

「朝ドラに四十一才の井川遥が年が半分の女優と一緒に出ているのを知ってる? 弁護士さんたちは井川遥が断トツで美人だと言っていたわ。比べる相手の若手女優がモデル出身の美人ぞろいでもそうなるのよ。うちの法律事務所の場合は比べる相手は肌が若いだけのブスぞろいだから、私に注目が集まるのは当然よ」

「いくらなんでも井川遥に例えるのは言い過ぎじゃないかな……。それよりもお母さん、そんなことを考えていると、その気持ちが他の女の人に伝わって、そのうちにしっぺ返しを食らうことになるよ」

「そのうち亜希も絢も私のDNAを色濃く受け継いだお陰で得をしたと思うようになるわ」

「私はまだ男の子には興味がないから恩恵は感じないわ。男子に近寄ってこられるとウザイもの」

「あら、紗栄子さんは亜希が美人だから仲良くしてくれるのかもしれないわよ」

「まあ、それはあるかも」

「僕は男だからお母さんに似ていてもメリットはないけどね」

「もうすぐ似ていてよかったと思うようになるわよ」
と母が含み笑いをしながら言って、姉も「そうね」と同意したが、その時には僕は意味が分からなかった。

***

翌日も午後七時に母、姉と僕の三人がそろって夕食を食べたが、何となく慌ただしい気分だった。姉は翌日の木曜日に千葉ポートアリーナで千葉大学の入学式があり、金曜日から医学部の授業が始まるからだ。僕は金曜日が逍遥高校の入学式になっている。

姉が変なことを言い出した。
「金曜日の絢の入学式は、お母さんは仕事だし、私も授業初日で休むのは無理だから、紗栄子が父兄代わりについてもらうように頼んでおいた」

「紗栄子さんが父兄代わり? そんなの、いいよ。入学式は僕一人で大丈夫だから」

「でも、絢が学校にちゃんと一人で行けるかどうか、心配なのよね。紗栄子が一緒だとクラスの女子たちから羨望の視線が集まって気分がいいわよ」

「あの男子高校生姿の写真からすると紗栄子さんは百八十近くあるんだろう? 僕の身長が足りない点が目立って損だよ」

「それがいいんじゃないの。ちなみに紗栄子は男子の制服じゃなくて黒のズボンに男っぽいジャケットで来るはずだけど、うっとりするほどカッコいいわよ」

「あっ、そうそう。お母さん、僕の制服は明日取りに行かないと間に合わないよね。もうできているのかな? 合格発表のすぐ後で制服の採寸をして申し込んだはずだけど」

その時、母と姉が気まずそうに顔を見合わせた。

「絢の制服はもう用意できているから心配しないで。ブラウスには明日自分でアイロンをかけなさい」

「男子はブラウスじゃなくてシャツと言うんだよ。お母さん、買ってくれたよね?」

「絢、うちにはお金がないから、高校にはお姉ちゃんの使ったもので我慢してもらうしかないのよ」

「お姉ちゃんのブラウスをシャツの代わりに着て行けというの? そんなの無理だよ。ボタンが左右反対だし、この間お姉ちゃんが言っていたようにスカートとブラウスとリボンタイがセットになっているから、ブラウスとズボンの組み合わせは禁止のはずだよ」

「ブラウスだけじゃなくて、全部お姉ちゃんのお古で学校に行くのよ。体操着も、シューズ類も鞄も全部」

「え、え、えーっ!」

僕は腰を抜かしそうだった。

「それじゃあまるでLGBTの人みたいじゃないか!」

「そうよ。入学説明会の日に申請書を出して承認してくれたから、絢は女子として逍遥高校に通うことになったのよ」

「じょ、じょ、冗談じゃないよ! 女子の恰好で高校に通うなんてイヤだ! 中学のクラスの友達に知られたらバカにされるよ。僕、絶対にイヤだからね」

「ごめんね、絢。お母さんが離婚しなかったら、こんなことをさせなくて済んだのに……。でも、お母さんはずっと我慢をしてきて、それが限界に達したのよ。絢を道連れにして無理心中することも考えた。でも最後の瞬間に思いとどまったの。生きていれば何とかなる。どうなってでもこの子と生きていこうと思ったの」

「僕だけを道連れにしようと思ったの?」

「お姉ちゃんは一人でも生きていけるし、女だから。絢は放ってはいけないと思った。ついひと月ほど前のことよ」

「思いとどまってくれてよかった……」

「制服代の四万円も出せなくて申し訳ないと思ってる。合格発表の直後に申し込んでいた男子の制服をキャンセルして四万円戻って来たから、給料日まで飢えずに生きていけるわ」

「四万円を節約するために女子になるというのは、どう考えても理屈に合わない気がするんだけど。四十万円ならとにかく、家の中の不要なものをメルカリで売るとか、借金するとかで何とかなるんじゃないの? 校則で禁止されていても、コンビニの夜のシフトでバイトをすれば四万円ぐらい稼げるよ」
と僕は必死で母の説得に努めた。母の考え方は極論に走りすぎて狂っているのではないかと感じた。

「お姉ちゃんもお母さんに何とか言って! お姉ちゃんがバイトで四万円余計に稼いでくれたら一生恩に着る。そうだ。クラスの友達の男子が要らなくなった制服をもらってきてくれない?」

「私もその方法は考えたんだけど、お母さんといろいろ相談した結果、絢を女子として高校に通わせるのが一番いいという結論に達したの。確かに制服代の四万円は大したことないわ。でも、今後数年間の洋服代が殆どかからなくなるメリットは非常に大きい。私の洋服が全部着られるんだから。洋服以外も家族三人が女物を共有出来て何かにつけて節約できる。実は私が医者になるまでの六年間の経済的困窮期間について楽観的な場合から悲観的な場合まで五つのケースの収支予想表を作って検討したんだけど、絢を男子のままにした場合は経済的に破綻をする可能性が非常に大きいことが分かったの。信じられないのならエクセルシートを見せてあげるけど」

「経済的に破綻したらどうなるの?」

「例えば私はパチンコ屋で働きながら独身寮から大学に通って、お母さんは昼は事務員、夜は水商売、絢は高校を続けられなくなるかも。とにかく家族三人が一緒に住むことはできなくなるでしょうね」

「家族がバラバラになるのは絶対イヤだ! でも、女子の制服を着るのはムリ!」

「絢、先週私とお母さんが出かけて絢が一人になった時に、私の高校の制服を着てデジカメでセルフを撮ったわよね?」

「ど、どうしてそれを……」

「デジカメのSDカードをノートパソコンのスロットに入れて、女装画像十枚をパソコンにコピーしてから削除したでしょう。そしてSDカードをデジカメに戻した。デジカメのファイル番号が連番になっていることを知ってるわよね? ファイル番号が十枚分スキップされていたから、これは絢の仕業だなと思って、私のパソコンで復元処理をしたのよ。十枚分のファイル番号は分かっているから簡単に復元できたわ」

「僕はお姉ちゃんと似ていると言われていたから、同じ制服を着たら似た感じになるかどうか試してみただけだよ。それ以上の意味は無いんだから」

「ええ、よく似ていたわ。去年髪をショートボブにした時の私の写真かなと思ったぐらいだった。あの写真を見て思ったのよ。絢は女になった方がずっとレベルが高くなって得だし、自分では気づいていないかもしれないけど心の中では女になることを望んでいるのだと」

「違うよ、違うんだ。本当に一度試してみたかっただけで、女になりたいと思ったことなんて一度も無いんだ。それにしても、お姉ちゃんもひどいよ。僕にひとことも言わずにお母さんにそんなことを提案するなんて!」

「亜希が私に提案したんじゃないわよ。私は離婚をした時点で、そうしようかなと思っていたのよ。紗栄子さんの写真を見た時に亜希から逍遥高校の制服の話を色々聞いて気持ちが固まった。だからその翌日学校に行って手続きをしたのよ。亜希に話したのはその後だった。亜希から絢の女子高生姿の写真を見せてもらって、私の決断が正しかったことを確信したわ」

「お母さん、お願い。考え直して。僕、何でもするから、これだけは許して」

「.分かって! 本当にお金が無いのよ。絢がお姉ちゃんの制服で学校に通ってくれたら、普段着や身の回りのものも全部お姉ちゃんのお古で済むから、高校三年間は食費以外は殆どお金がかからない。そうすればこのアパートで親子三人生きていける。もし協力してくれなかったら、私の給料ではとても生活できないのよ。いつ発作的に絢と無理心中したくなるか、自分が心配だわ」

「そんなことを言って脅さないで……」

「絢がどうしても女子の制服で高校には通えないというなら、残念だけど高校に行くのは諦めてもらうしかないわ」

「イヤだ! 中学の友達は勿論、小学校時代の知り合いも全員が高校に行くのに、僕だけが中卒だなんて恥ずかしい。それならまだ女子のふりをした方がマシだ! いや、そうとは言い切れないけど……。やっぱり、中卒ではイヤだよ」

「ありがとう、絢。お母さんのためにOKしてくれて」

「いや、まだOKしたわけでは……」

「じゃあ私は紗栄子に金曜日の付き添いについてLINEで念を押しておくわね」

「お願い。絢の気が変わって入学式に行かなかったら困るから、是非紗栄子さんには父兄代わりに付き添ってほしいわ」

僕のそれまでの人生で最も重大な決定が目の前でなされてしまった。必死で抵抗をしたつもりだったが、母と姉の説得になすすべもなかった。理不尽な決定とはいえ自分でOKしてしまった以上は協力するしかないと観念した。


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新作「行方不明」を出版しました(日英TS文庫)

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の新作「行方不明」を出版しました。原作は “Missing in Nepal : Damsel in Distress, by Yu Sakurazawa”です。

コロラド生まれの米国人ルーベン・ヤングは東京の大学に留学中に一人でインド旅行に出かけます。それはデリー2週間というツアーでしたが、ルーベンは2日でデリーの雑踏に嫌気が差し、バスでカトマンズへの旅行を企てます。生まれ育ったコロラドと共通点のある天空の王国ネパールに憧れを感じたからでした。

三十時間かけてカトマンズに到着しましたが、ルーベンは周囲が自分を見る眼が何となくおかしいことが気になります。

翌日、ホテルで運転手付きの車を手配してもらい、ガイド付きの市内観光に出かけた時、ルーベンの心配が的中することになのでした。



 

行方不明

第一章 ヒマラヤの王国へのバス旅行

三十時間のバス旅行がやっと終わろうとしている。

初めてのインド旅行に「デリー滞在二週間」という格安ツアーを選んだのは失敗だった。東京からの往復航空券と朝食付きのホテル十二泊というフリー・プランだったが、僕は二日間でデリーに飽きてしまった。人力車でオールドデリーの隘路を巡り異国情緒を味わってからデリー市内の観光名所を回ったが、もうこれで十分だという気持ちになった。

コロラドで生まれ育ち日本に留学して東京の大学に進んだ僕にとって、デリーは確かにエキゾチックな街だった。でも、時間が過ぎるにつれ、ここは自分の肌には合わない場所だという気持ちが強くなった。

土色と原色が交錯する色彩感覚、破られることが前提の規則、親切そうな笑顔に混じる意味のない卑屈さ、そして不潔な埃が漂う雑踏……。

何が悪いというのではなかった。渋谷の雑踏と比べて、デリーの混雑が酷いかと聞かれれば、むしろ逆だった。結局僕が耐えられなかったのは不潔さだった。鼻腔や口から肺へと入って来る空気に無数の埃と雑菌が含まれている気がして、ここではもう呼吸したくないという強迫観念に憑りつかれた。

そこで、僕は残りの十日余りをデリーの外で過ごそうと決意した。夕食を済ませた後、ホテルの部屋に戻って、どこに行こうかと考えた。真っ先に頭に浮かんだのがネパールだった。ロッキー山脈の麓で生まれ育った僕にとって、ヒマラヤの王国ネパールは最も親しみやすい場所だと思った。初めから「デリー滞在二週間」ではなく「カトマンズ滞在二週間」という格安ツアーを探せばよかったと思ったが、今となっては後の祭りだった。

デリーからカトマンズに行く方法をスマホで調べた。最も簡単なのは飛行機での往復だが、カトマンズでのホテル代を含めると、懐に余裕がなくなってしまう。

最も安いのはデリーからゴラクプールまで列車で行ってそこからバスに乗り換えて国境の街スナウリに行き、徒歩で国境を越えてからカトマンズ行きのバスに乗るというルートのようだ。しかし、間違えたり騙されたりせずに何度も乗り換えられるかどうか不安だった。

それよりは少し高価だが、デリー発カトマンズ行きの直行バスサービスがあることが判明した。エアコン付きで車内映画も見られる豪華高速バスと書かれていた。僕は翌日の午前七時にデリーのマンジュカティラ駅を出るカトマンズ行きのバスの切符をネットで購入した。

デリーのホテルの宿泊代はツアー料金に含まれておりキャンセルはできないので、荷物の大半は部屋に残し、軽いリュックサックに三日分の着替え、パスポート、スマホと財布だけを入れてカトマンズに行くことにした。

翌朝、僕は市内観光に行くかのような軽装でホテルを出た。フロントで鍵を渡す時に、カトマンズで七、八泊するが、僕の部屋はそのままキープしておくようにと念のために言っておくつもりだったが、フロントには人相の悪い男性従業員が一人立っていただけだったので、何も言わずに鍵をドロップしてホテルを出た。

リクシャでマンジュカティラのバス乗り場に着いたところまでは順調だったが、カトマンズ到着は次の日の午前八時になると知って驚いた。何と二十五時間もバスで揺られることになる。おまけに、高速バスといっても日本で乗ったような豪華バスではなく、薄汚れた粗末なバスだった。

よく調べずに直行バスを選択した自分がバカだったと反省したが覆水盆に返らずだった。直行バスと言っても眠っているところを国境で起こされ、一旦バスを降りてインド出国とネパール入国の手続きをしなければならない。ビザ代として二十五ドルかかったのも誤算だった。

ネパールに入国して心なしか空気が清潔になった気がしてほっとしたが、カトマンズの中心部にさしかかるとバスの外の景色はデリーの雑踏をさらに一回り混とんとさせて、デリーの空気を二回り不潔にしたように思えたので僕はげっそりした。結局二十五時間のはずが三十時間以上かかってカトマンズに着いた時には疲労困憊で足がふらついていた。

それでも奮起して、ハエのようにたかってくる客引きを避けてタクシーに乗りこみ、ドアを閉めるとほっとした。

「タメルのホテル・シヴァまで」
とドライバーに行先を告げた。

デリーのホテルの部屋からエキスペディア経由で予約を入れたのはカトマンズ観光の中心地区であるタメルにある安ホテルだった。ドライバーは小太りの中年男性だったが、ホテル・シヴァという名前を聞いて理解したようだったので安心した。

カトマンズの市内の混雑はバスの中から見るよりもひどかった。こんな道を自動車が通れるのかと思うような場所を、タクシーが人混みをかき分けて進むのにはハラハラして罪悪感を禁じえなかった。ドライバーは好意的な口調でしゃべるのだが、運転席と助手席の間のバックミラーを見るといつも運転手と視線が合った。

「ここはごった返していますが、カトマンズから何キロか出れば美しい自然が見られますよ」
と言われて少しは慰めを感じた。

ホテルに着くまでの約三十分間、ドライバーからずっと観察されている感じがしていた。僕がいつバックミラーを見てもドライバーと視線が合うということは、ドライバーが僕の顔が映る方向にバックミラーを向けて常に見ているということであり、気味が悪かった。

東京の同じ大学の女友達が、タクシーに乗ると運転手にバックミラーでチラチラ見られるのが嫌だと言っていた。男性の運転手が若くて美しい女性客をついチラチラ見てしまうというのは分からないでもないが、ネパールの中年ドライバーが十八才のアメリカ人男性をこんな風に盗み見するというのは、ゲイでない限りあり得ない。アメリカか日本でこのような目に遭ったら、そのドライバーは高い確率でホモだと考えていい。

いや、途上国の素朴な労働者をゲイだと決めつけるのは早計かもしれない。外国人を乗せるのは珍しいことだから、運転手はウキウキした気持ちでついチラチラと視線を走らせているのだ。僕は自分が高慢だったことを反省した。

僕が彼らを見てエキゾチックだと考えるのと同じように彼らは僕を見てエキゾチックと思っているのだ。僕のルーツはフランス人で、日本の血が八分の一混じっている。肌は真っ白で眼は褐色、髪はいわゆる銅色のブロンドだ。日本の血のお陰で肌のきめが細やかで、細身でしなやかな体型だ。アメリカ人の女友達から「ルーベンは小顔で体毛が薄くて、まるで日本女性のようなデリケートな顔だから羨ましい」と言われたことがある。

タクシーは路地のような狭い道へと右折すると、オレンジ色の大きな建物の前で停車した。玄関にチベットの龍が描かれた建物だったが、立派な外観にかかわらず何か胡散臭い感じと悪い予感がした。玄関の周辺に煙草を吸いながらうろついている人が大勢いたからかもしれない。タクシーの運転手に頼んで他のホテルに連れて行ってもらおうかとも思ったが、そうすればキャンセル料を取られるので思いとどまった。

僕はリュックサックを肩にかけてホテルに入った。フロントに立っていた無表情な若い男が予約を確認した。チェックインをしている間、周囲の人からジロジロと見られている気がした。気味が悪くなって振り返ると、僕をここまで乗せてきたドライバーが玄関のところに立って僕を見ていた。ドライバーの左右にも数人の男が立って僕を見ている。ロビーから奥のレストランにかけて、ホテルのスタッフとも外部の人ともつかない多くのネパール人が、僕にじっと視線を凝らしていた。

這うような不気味な視線だった。背筋がぞくっとして、顔から髪の毛の付け根まで真っ赤になるのを感じた。

――僕の顔に何かついているのだろうか……。

チェックインを済ませて鍵を受け取り、周囲の視線を無視して階段へと向かった。軽装で来たのは正解だった。部屋は一階(グラウンドフロアーのひとつ上の階)だが、エレベーターに乗るのは怖い気がした。

階段を半分上ったところで、
「ミスター・ルーベン・ヤング!」
とフロントの男性から大声で呼び止められた。

まだ受付の手続きが残っていたのだろうかと思いながら渋々階段を下りてフロントへと歩いて行った。

僕に声をかけたのはストライプのシャツに黒いズボンの男性だった。

「ディナー?」
とブロークン・イングリッシュで僕に聞いている。

彼の手ぶりから推測すると、これからホテルのレストランで食事をするつもりかどうかと質問しているようだ。

そんな質問のために呼び戻されたと分かって腹が立った。僕は猛烈にお腹が空いていたが「ノー」と答えた。大勢の異様な視線に晒されて食事をする気にはなれなかったからだ。

とにかく一人になりたくて階段を駆け上り、部屋に入ると内側から鍵をかけた。カーテンを閉め、シャワーを浴びると何もせずにベッドに転がってスマホのスイッチを入れた。

デリーのホテルのフロントに何も言わずに出てきたことが気になっていた。メイドがベッドメイキングに来て、僕が何日も部屋に戻っていないと気づいたら荷物を勝手に片づけて部屋を他の客に貸すのではないかと心配だったので、ホテルに電話かメールを入れておこうと思った。

ところがスマホは電話もデータ通信もつながらなかった。東京で「アジア九ヶ国八日間使い放題」というSIMを買ってスマホに挿し込んで来たのだが、バスがデリーを出発した直後からインターネットにつながらなくなっていた。SIMが届いた日にスマホに挿し込んでAPNの設定をした後SIMを抜いたのだが、その日から八日目経過したために期限が切れてしまったのだろうと思い当たった。

フロントに電話して「WIFIの設定を教えて欲しい」と質問したところ「WIFIはありません」というシンプルな答えが返って来た。


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新作「父は僕のヒーローだった」を出版しました

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の第8番目の小説「父は僕のヒーローだった」を出版しました。英語小説新作「My Dad Was My Hero (副題:Feminized to be a Hero)との同時出版です。

舞台はイタリアでナポリとその近郊です。主人公のヴィットーリオ・ロッシは36才、妻ダニエラと娘アンジェリーナと幸せな家庭を築いています。

ヴィットーリオは13才の時にトラックに跳ねられそうになったところを父に助けられますが、その事故で父は死亡し、父を自分の永遠のヒーローと意識して育ちます。大人になったら自分の子供のヒーローになることを夢見ていました。

そのチャンスは娘のアンジェリーナが16才になった時に訪れます。妻の運転する車が自転車に乗っていた女性を跳ね、その女性が死亡します。困ったことに自動車保険の更新を怠っており、保険が切れたばかりの時でした。それは妻には責任の無い事故でしたが、マフィアが目撃者を捏造して、ヴィットーリオとその妻は巨額の賠償金を請求されます。示談交渉に臨みますが全財産を処分しても示談金には届きません。マフィアはアンジェリーナを5年間預かることで残金に充当すると宣言し、アンジェリーナを連れ去ろうとします。

その時、ヴィットーリオは自分の身を投げ出してアンジェリーナを助けようとするのでした。



父は僕のヒーローだった

原作:My Dad was My Hero
副題:Feminized to be a Hero
原作者:Yu Sakurazawa
日本語版作者:桜沢ゆう

序章

僕はローマの中流家庭に生まれ育った。父は学校教師、母は銀行に勤めていた。

あれは十三才の時だった。近所の公園でサッカーの練習をしていた時、ボールを追いかけて道路に走り出た僕は危うくトラックに轢かれそうになった。たまたま近くを歩いていた父が駆け寄って僕を突き飛ばしてくれたおかげで、かすり傷ひとつ無く難を逃れた。しかし、父はもろにトラックに衝突して数メートル跳ね飛ばされた。頭から血を流して倒れた父は救急車で病院に運ばれたが、そのまま帰らぬ人となった。

父は自分の命を捨てて僕を守ってくれたのだった。その日から父は僕の永遠のヒーローになった。僕は父のような大人になろうと心に決めて、天国にいる父を常に意識しながら育った。

十八才で親元を離れてナポリの大学に進みマーケティングを学んだ。人とは群れず一人で時を過ごすのが好きだった。不必要な外出はしなかったが、近くのスーパーマーケットにはよく行った。レジに感じの良い子が立っていて、顔を合わせるたびに好意的な微笑みを投げかけてくれた。特に美人ではなく、アッシュ・ブロンドの髪をした普通の女性だったが、笑顔が魅力的だった。ダニエラという名前で僕より二つ年上のニ十才だとわかった。

特に買うものが無くても彼女の顔を見るために毎日スーパーマーケットに行くようになった。勇気を出して電話番号とメールアドレスを書いた紙きれを渡すと、その夜に電話がかかってきて、食事に誘うと快諾してくれた。毎日のようにデートをして、楽しい時を一緒に過ごした。

僕が十九才になって間もなくダニエラが妊娠した。普通の男なら十代で父親になると知らされたらゾッとするところかもしれないが、僕はそうではなかった。父親になるということは僕にとって極めて重要で望ましいことだった。息子であれ娘であれ、ダニエラのお腹の中にいる子供を心から大事に思った。この子のためならどんなことでもしたいと思った。父が僕のヒーローだったように、僕もこの子のヒーローになるのだと心に決めていた。

ダニエラと僕は近所の教会で結婚式を挙げた。その九ヶ月後にダニエラは世界一美しい女の子を産んだ。僕たちは天使のような娘をアンジェリーナと名付けた。アンジェリーナは赤い髪と大きな緑色の目をしていて僕にそっくりだった。

幸せな十六年間があっという間に過ぎ、アンジェリーナは美しく心優しい女性になった。男子たちは競ってアンジェリーナに言い寄ったが、アンジェリーナは「私には好きな人がいる。それは私の父よ」と言って誘いを断った。僕が父を愛し尊敬したのに引けを取らないほど、アンジェリーナは僕を想っていてくれる。それはまさに僕が願っていたことだった。

 

第一章 罠に落ちて

親になってからダニエラと僕の関係は年月を経てかつての熱を失っていった。アンジェリーナの面倒を見ることに熱中するあまり、夫婦関係に注意を払う時間が徐々に枯渇したと言える。私はヘレナ社というパーソナルケア製品のメーカーの営業部に勤務し、毎日が忙しかった。ダニエラは専業主婦として家事にいそしんだ。ダニエラによると主婦業は小さな会社を経営するのと同じく手のかかる仕事だとのことだった。

アンジェリーナはダニエラと僕の関係が業務分担のように見えることを不満に感じていたようだった。十六才の娘は自分の親が恋人同士のようになることを望んでいた。

ある日アンジェリーナが真面目な顔をして僕に言った。

「私の事は放っておいてくれて大丈夫だから、ママとの関係にもっと時間をかけて」

「ママとの関係に時間をかけろと言われても、一体どうすればいいのかな……」

「簡単よ」とアンジェリーナは肩をすくめながら言った。「休みを取って二人で旅行に行くといいわ。私はシエンナのところに泊るから大丈夫」

娘のアドバイスに従い、早速ダニエラと話をしてシシリー島に旅行に行くことになった。妻の愛車フィアット500でシシリーの州都パレルモまでドライブするプランを立てた。レッジョ・ディ・カラブリアからフェリーに乗ってシシリー島に渡れば九時間でパレルモに着くはずだ。ダニエラも僕自身も娘抜きの旅行を心から楽しめるのかどうか半信半疑だった。

ダニエラの車なのでダニエラが主に運転をすることになり、僕は助手席に座ってできる限り目を閉じていた。乱暴な運転に耐えられなくて目を閉じるのではなく、慎重すぎてイライラするから目を開けていられないのだ。どんな道でも決して制限速度を越えずに運転するので、ダニエラが運転する車の後には長い列ができる。制限速度百三十キロの高速道路を時速百キロで走ることが却って危険であるということを、何度言っても理解しようとしない。アドバイスをしても聞く耳を持たないので言うだけ無駄だ。ダニエラが運転する時は目を閉じて何も言わないのがベストだということが身に染みて分かっていた。

フェリーでメッシーナ海峡を渡ったのが正午ごろで、そのままシシリー島の北岸の幹線道路一一三号をパレルモに向かって進んだ。ネブロディ公園に差し掛かり、幹線道路から外れてキャンピングテーブルのある公園まで行って昼食にした。いつもジェットボイルという登山用の湯沸かし器を車に積んでおり、二、三分で熱いコーヒーを作ることができる。家から持ってきたパンにピーナツバターを塗りゆったりとした気持ちで一時間ほど過ごした。

この分だと明るいうちにパレルモのホテルに到着できる。僕たちは車に乗って一一三号に合流する道路を進んだ。小さな田舎町を抜ける上下二車線の細い道路を走っていた。

対向車も歩行者も殆ど目に入らない田舎道だったが、ダニエラは時速四十キロで運転した。信号が赤になったので停車し、しばらくして信号が変わるとアクセルを踏んだ。

その時、左側の道から女性の乗った青い自転車が不意に飛び出して来た。ダニエラは急ブレーキを踏み、フィアット500はキーっと音を立てて停車した。しかし、信号を無視して全速力で飛び込んで来た自転車との衝突を免れることはできなかった。バンパーが自転車の後端に当たり、女性は自転車から投げ出されて反対側車線に転がった。

その六十才前後の細身の女性は路上に仰向けに横たわり、微動だにしていなかった。僕の心臓は止まりそうだった。その女性は死んだと直感したからだ。僕はすぐに車を降りて彼女の所に駆け寄り、脈を確かめようと腰をかがめた。その時、彼女はパッと目を開いて上半身を起こした。僕はほっと胸をなでおろした。

「奥さん、大丈夫ですか?」

「どうもすみません! 赤信号だと気づいていたのについ渡ってしまって……」
と彼女は申し訳なさそうに言った。

「いや、そういうこともありますよ」

特に痛がっておらず元気そうだったので安心した。

「念のために病院で検査を受けてください。数キロ手前で病院の横を通りました。病院まで車でお連れします」

「いえいえ、そんな必要はありません。私はピンピンしています。それに、家はすぐそこですから」
と言って彼女は立ち上がり、自転車を起こした。

車の中で青くなっていたダニエラもやっと運転席から降りてきた。彼女をとにかく病院に連れて行こうと、ダニエラと二人で説得に努めたが、聞く耳を持たなかった。

結局、彼女の家まで送らせてもらうことになり、彼女を助手席に乗せて妻が運転し、僕は彼女の自転車に乗って後を追いかけることになった。

彼女が言った通り、家はすぐ近くで、二人が車から降りた時に僕も自転車で追いついた。

「衝突したのに自転車は新品のようにスムーズに走りました。よかったですね」

「あら、さっきまではギーギー音を立てていたのに、不思議だわ」

「当たり所が良かったんですかね? アハハハ」

「どうぞお入りになってカフェラッテでも飲んでいってください」

ダニエラと僕は女性の言葉に甘えて家に入った。ホテル到着が遅くなっても大した問題ではない。大事故にならずに済んでよかったと改めて感じた。

家に入ると軽く九十才は越えていそうな老人が椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。明らかに腰が曲がって、白内障なのか目が白く濁っている。そんな目でにこりともせずに睨まれて、妻は居心地が悪そうだ。

僕はその老人に自己紹介をして、交通事故の事を説明した。

僕が話し終えると女性がその老人に言った。

「パパ、すごく親切な人たちなのよ。私が赤信号を無視して突っ込んだせいで、この人たちを足止めしてしまったの」

女性の言葉を聞いてその老人が父親であることが確認できた。

「念のために病院で検査を受けてもらいたかったんですが、お嬢さんがどうしても嫌だとおっしゃるもので……」

「うちの娘は病院が大嫌いなんだ」
と老人がぶっきらぼうに言った。

「万一お嬢さんが頭痛や吐き気などを訴えたら、必ず病院に連れて行ってくださるようお願いします。ここに私の電話番号を書いておきますから何かあったらご遠慮なくお電話ください」

「自動車保険のコピーを見せてもらえるか?」

見るからによぼよぼの老人から突然予想外の質問を受けたので驚いた。見かけよりはしっかりした人物だと分かった。僕はダニエラから鍵を借りて保険証を取りに自動車に戻った。ダッシュボードの中のフォルダーに入っていた保険証を見て恐怖のあまり頭髪が逆立った。保険は三日前に切れていた。最近メールアドレスを変えたので、保険会社からの更新通知を見逃してしまったのだろう。

奇跡的に無傷だったから良かったが、もし怪我でもしていたら、と思うと冷や汗が出た。無保険だったことをあの父親に話すのは得策ではないと思い、シラを切ることにした。

「どうも保険証を家に置いてきてしまったようです。でもご心配なく。少しでも問題があればすぐにご連絡ください」

ダニエラと私は家を出ると、グーグルマップで警察署を探した。たまたま女性に怪我は無く、自転車も壊れなかったが、衝突事故を起こした以上は警察に届け出ておいた方が無難だと思ったからだ。

警察は車で数分の距離にあり、ダニエラと僕は一時間ほどかけて届を出した。対応した警察官は「後ほど被害者の家に出向いて調書を取っておきましょう」と言った。警官の口から「被害者」という言葉を聞いて、気が重くなった。

「帰っていいですよ。被害者に怪我は無くても届けを出しに来たのは正解でした。届けを出さなかった場合、万一被害者から訴えが出たら、非常にまずい状況になりますから」

「ありがとうございました」
とダニエラが言って、僕たちは警察署を出た。車に乗るとどっと疲れが出てきた。ダニエラは僕以上に疲れている様子だった。とても旅行を続けられる気分ではなかった。呪われたような二時間だったが、それがやっと終わった。ダニエラも僕もそう思った。

ホテルに電話を入れて予約をキャンセルし、来た道を引き返した。ダニエラは魂が抜けたような様子で、とても運転させられなかったので、僕がハンドルを握った。

日付が変わった頃に家に到着し、僕たちは死んだように眠った。

***

一週間の休暇を取っていたので、残りは家でゆっくりと過ごすことにした。ロールパンとオレンジジュースで朝食を済ませると娘のアンジェリーナは学校に行った。今夜から友達のシエナの家に泊りに行く予定だったが、学校に行ったらシエナに断って普段通りに帰宅するとのことだった。

ダニエラと僕はカフェラッテを飲みながらゆっくりしていたが、玄関のベルが鳴るのを聞いてダニエラはビクッとした様子で立ち上がった。朝起きてから前日の事故の話はお互い一切口に出していなかったが、二人の心に重くのしかかったままなのだ……。ダニエラの様子を見て、改めて痛感した。僕は椅子から立ち上がり、彼女を制して自分で玄関のドアへと向かった。

ドアの外に立っていたのは四十がらみの紳士で、ベージュのダブルのスーツを着ていた。一見無邪気そうな顔をしたカールのかかった柔らかい髪の毛の人物だったが洞察力のある抜け目のない目をしていた。ブリーフケースを手に提げていて、「私は弁護士です」と顔じゅうに書いてあった。

その表情を見て、この人物がただ者ではないと直感した。心臓がバクバクし始めた。

「なにかご用でしょうか?」
と私は平静を装って聞いた。

「ウェイド・フェリと申します。ダニエラ・ロッシ様にお会いするために参りました」

私の後ろに立っていたダニエラが「ダニエラは私ですがご用件は?」と気丈に言った。

「込み入った件ですので中でお話しさせてください」

「分かりました。お入りください」

フェリ氏をリビングルームに通してソファーに腰かけさせ、僕は向かい側に座った。ダニエラは極度に緊張している様子で、立ったままだった。

「コーヒーはエスプレッソでよろしいですか?」
とダニエラは気丈にホステスの役目を果たそうとしていた。

「いえ、結構です。奥様が居ないと話が始まりませんから、奥様もそこにお座りください」

フェリ氏は氷のような微笑を浮かべて僕の横の席を手で示し、ダニエラは腰を下ろした。

数秒間の沈黙の後でフェリ氏が口を開いた。

「私はアントニオ・セラ氏の代理人としてまいりました。昨日あなたに跳ねられて亡くなったマリア・セラさんのお父さんです」

「何ですって! 彼女が亡くなったと仰るんですか?」
と僕は叫んだ。妻はアッという声を出して口に両手を当てた。血の気が引いて真っ青な表情になっている。

「しかし、昨日お別れした時にはピンピンしていましたよ」

「あなたたちお二人が立ち去った二、三時間後に容態が急変したのです。救急車が到着した時には息が絶えていたとのことです」

「ああ! どうしましょう!」
ダニエラはパニック状態だった。

「事故というものは時には起きるものです」
とフェリ氏はダニエラの顔を見ながら肩をすくめた。

「しかし何故その翌日に弁護士さんがわざわざ家まで来る必要があるのでしょうか?」
と僕が質問した。

「セラ氏は、運転者の不注意によって娘が死亡したと考え、正義の鉄槌が確実に下されるようにと、私を雇いました」

「私の不注意による事故ではありません!」
とダニエラがヒステリックに叫んだ。

「私はいつも慎重に運転していますし、制限速度も超えたことがありません。昨日も赤信号で停車して、信号が変わってから発車しました。あの女性の自転車は信号を無視して交差点に猛スピードで飛び込んできたんです。彼女は信号を無視したことを認める発言を何度もしていました。お父さんの前でも、自分が信号を無視した結果私たちを引き留めることになって申し訳ないとはっきり言っていました。その言葉はお父さんも覚えているはずです」

「嘘を言ってもらっては困ります。あなたは信号が赤なのに車を発車させたんです。奥さん、信号を見ずに何を見ていたんですか? カーラジオの選曲をしていたんですか? スマホを見ていた……まさかポケモンをしながら運転していたんじゃないでしょうね? それとも居眠り運転ですか?」

「違います。私はちゃんと前を見て運転していました。信号がグリーンになったのを確認してからアクセルを踏んだんです!」

「あなたは嘘を言っている。あなたは赤信号で発進した!」
とフェリ氏はダニエラを指さして大きな声で決めつけた。

「見てもいないのにいい加減なことを言わないでください!」

「目撃者が居たんですよ」
とフェリ氏がドスのきいた低い声で言った。

ダニエラは震え上がった。僕も凍り付いた。現場に他の人影は無かった。もし誰か居たら駆け寄っていたに違いない。僕とダニエラとあの女性の三人しか居なかったと断言してもいい。それなのに突然弁護士が現れて目撃者が居ると言い出すとは、一体どうなっているのだろうか? 僕たちは何かとんでもない共謀によって陥れられようとしているのかもしれない……。

「奥さん、あなたには責任を取ってもらわなければなりません」

フェリ氏はダニエラを見据えて言った。

「まず、過失致死という刑事責任がかかります。赤信号で突然発車して自転車を跳ねるとは悪質です。もしポケモンをしていたとか、重大な違反があったとなれば重過失致死になって、長期間刑務所で暮らすことになりますよ。並行してセラ氏による民事訴訟に晒されます。一億円レベルの賠償金を払うことは免れないでしょう」

「言いたい放題ですね。そんなことを私が信じるとでも思ってるんですか? 私は現実に交通規則を守って運転していたんですから、裁判で負けるはずがありません」

ダニエラが気丈に反論したことに驚いたが、心が木の葉のように揺れている様子が見て取れた。僕の心臓は今にも壊れそうに音を立てていた。

「奥さん、甘く見ると後悔しますよ。私は本件と同種の交通事故を三十五件扱いましたが、そのうちの三十四件で勝訴しました。今回の事故は目撃者が一人だけであり、他に一切の映像や画像はありませんから、裁判になればあなたは百パーセント敗訴すると自信を持って保証します」

フェリ氏の実績は本物だと感じた。ダニエラも同じことを考えている。大変な相手を敵に回してしまった。僕たちは絶体絶命の危機に直面している……。

「でも心配はいりません。こんな時のために自動車保険をかけているわけでしょう? 無意味な主張をするのは控えて、私に協力してください。そうすれば自動車保険の賠償責任限度額の上限以内の金額で決着がつくようにしてあげるし、刑事責任も罰金だけで済むように協力してあげましょう」

僕とダニエラは顔を見合わせた。フェリ氏が事故の直後に来訪したのは保険金を最大限に取るために加害者に協力させようとして、僕たちを脅し、釘を刺すのが目的だったのだ。ダニエラは罰金で済むと聞いて顔に血の気が戻ったようだ。しかし、僕にとってはバッドニュースだった。

「実は……。申し上げにくいんですが、保険は三日前に切れていたんです。たまたま更新を怠っていたもので……」

「何ですって! どうして今まで黙っていたのよ!」

ダニエラが真っ赤な顔で僕に食って掛かった。

「困りましたね。あなた方にとって非常に困った状況としか言いようがありません」

フェリ氏がため息をついた。ダニエラと僕も椅子の背にもたれて天を仰いだ。

しばらく沈黙が続いた後でフェリ氏が口を開いた。

「そういうことなら、払える限りのものを払って、残額は借金をして、一生をかけてでも払ってもらうしかありません」

「私、やっぱり裁判で本当のことを主張します。悪いのは彼女なんですから」

「奥さん、さっき説明した通り、あなたは百パーセント敗訴します。膨大な借金を抱えたまま刑務所で何年も過ごすことになります。私がその気になれば『何年も』程度では済まなくなりますよ」

「どうしろと仰るんですか……」

「法廷には持ち込まず、秘密裏に金銭で和解するのです。法律用語で法定外紛争解決と言います。私がセラ氏を説得して、裁判なしで済むようにアレンジしてあげましょう。刑事責任も問われないようにしてあげます」

「一体いくら払えばいいのですか?」

「五千万円で話をつけてあげましょう」

フェリ氏はそれが些細な金額であるかのようにさらりと言った。

僕の頭の中は大混乱していた。一生懸命働いた結果、この家をやっと手に入れた。家を売ってローンを返済すると差し引き二千万円程度しか残らない。貯金と債券、株式を全部合わせると一千万円。合計三千万円を払えば我が家はスッカラカンになる……。

「あのう、三千万円で話をつけて頂けないでしょうか?」
僕はフェリ氏に手の内をすっかり明かして相談した。

「無理です。そういうことなら裁判でかたをつけるしかありませんね」

「いや、残りの金額も何とかならないか考えさせてください」

「ちょっと待って!」
とダニエラが口をはさんだ。

「今日の話はありもしないことを目撃した証人が存在するということが前提になっているようです。その目撃者という人に会わせてもらわないと、納得できません。たとえ法定外で話をつけるにしても、目撃者と会った後になります」

「いいでしょう」

フェリ氏は不敵な笑みを浮かべた表情をダニエラに向けた。

「とにかく、奥さんの要求をセラ氏にお伝えしましょう。目撃者と加害者を面談させることをセラ氏が許すかどうかわかりませんが、改めてご連絡します」

「どうかよろしくお願いします」
と僕は懇願した。

「では、今日はこれで失礼します」
とフェリ氏は腕時計を見ながら言うとブリーフケースを持って立ち上がり、勝手に玄関へと歩いて行った。

***

フェリ氏が出て行くと、ダニエラはソファーにどんと腰を下ろし、両手を上げて怒鳴った。

「何てことなの! 交通違反をしたのはあの女よ。私は何のミスもしていないのに! 目撃者なんて全くのでっち上げよ!」

「僕もそう思う。でも、五千万円払う以外に道は無さそうだ」

「バカじゃないの? 責められるべきことをしていないのにお金を払うつもり?」

「分かってくれよ。他に方法が無いんだ。あの弁護士は相当なやり手だ。裁判に持ち込まれたら、君は刑務所に入れられるのが確実だ。その上で巨額の賠償金を請求される。一億円になるかもしれない。確かに五千万は高いが、あと二千万何とかすれば払える。一億円になったら完全にお手上げだ。君は刑務所の中、僕は一人でどうすればいいんだ?

「自分ひとりが被害者みたいな言い方ね。あなたが保険をちゃんと更新していたら何の問題も無かったのよ。これはあなたの責任だわ。それにしても二千万円をどこからひねり出すつもりなの?」

「まだ具体的なアイデアは無い。銀行かどこかから借りられないかな……」

「お金のあても無いのに金銭解決に同意するとは、あなたの頭はどうかしてるんじゃないの? 保険もかけないし、無い袖を振ろうとするし、それでもあなたはちゃんとした男なの? バカとしか言いようがないわ」

「ああ、僕はバカさ。亭主に平気で悪態をつきまくるような女と結婚した僕は大バカものだ。運動神経ゼロの女にハンドルを握らせた僕がバカだった。普段はノロノロ運転で僕をイライラさせるくせに、信号が変わってすぐに急発進したから事故になったんじゃないか!」

「急発進なんてしてないわよ、バカ!」

ダニエラは手で顔を覆って泣き始めた。

「私がいつもどんなに慎重に運転していたか、分かってるでしょう……」

ダニエラはソファーにうつ伏せになって小さな少女のようにすすり泣いている。涙で化粧が乱れた顔と泣き崩れた様子を見て、守ってやりたいという気持ちが湧きあがった。

「ゴメン、言い過ぎた。君は全く悪くない。悪いのは僕だ。君とアンジェリーナのことは僕がきっちりと守るよ」
と僕はソファーの上に泣き伏したダニエラの頭を撫でた。


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新作「禁断の鏡」を出版しました(日英TS文庫)

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の第七作として「禁断の鏡」を出版しました。SF的というかオカルト的とも言える要素が含まれているホラー・ミステリー小説ですが、TS小説としてはリアル系に分類されると思います。

主人公はイギリスのウィンダーミア地方に大富豪の長男として生まれたアーロン・グリーグです。アーロンは12才の時に母親を落馬事故で失いますが、その一年後に父親が若い美女シャキーラを後妻に迎えます。

アーロンは新しい母親を受け入れて親しい親子になります。敷地内には父親が立ち入りを禁じている古い石造りの倉庫があり、ある日アーロンとシャキーラは倉庫を探検します。倉庫の中はまるで中世にタイムスリップしたような場所で、二人は美しい鏡を見つけます。鏡は人間の言葉に反応するようでした。

シャキーラが鏡に「この世で一番美しい人は誰?」と問いかけると、鏡はシャキーラが最も美しい人だと答えます。

その夜、アーロンが一人で石造りの倉庫に忍び込み、この世で最も美しい人について、より突っ込んだ質問をすると、思いもよらなかった答えが鏡から返ってきたのでした……



英語に抵抗の無い方は、原作(英語)のForbidden Mirrorもお読みください。


禁断の鏡

第一章 鏡の預言

夕食の後で父に呼ばれた。
「アーロン、ちょっと話があるんだが」

普段とは全然違う口調だったので僕は身構えた。叱られるのかもしれない。きっと悪い話だと直感した。

「シャキーラは覚えているな?」

「シャキーラって、一昨日のパーティーに来ていたお姉ちゃんのこと?」

「そうだ。実はシャキーラと結婚することになった」

「誰が?」

「お父さんがだ」

「ええーっ!」
僕は絶句した。

一昨日は父の誕生日で、例年通り大勢の客を家に招いてパーティーを開いた。父は大会社のオーナー社長で政財界にも顔が広いが、誕生パーティーに呼ぶのはごく親しい人たちだけであり、家族を含めて二、三十人ほどだ。招待客の中に一人だけ僕とさほど年令が離れていない人が混じっていた。それがシャキーラだった。

クリーム色のレースのドレスを着たきれいな女の子が来たのを見て、僕より少し年上かな、と気になっていた。父と彼女がワイングラスを持って談笑し始めたので、十八才以上だと分かった。その時、父から呼ばれて彼女に紹介され、立ち話をした。

パーティーの時に僕が父の友人に紹介されて型通りの立ち話をするのはよくあることで、彼女もその一人だった。十二才の僕より少し年上の少女ではなく、お酒も飲める大人だと分かったので、僕は彼女に興味を失い、彼女のことは気にしていなかった。

「シャキーラは見かけほどは若くはないんだよ。アーロンの新しいお母さんになる人だから、暖かく迎え入れてくれ」

僕は「分かった」と返事して自分の部屋に行き、ベッドに仰向けになった。

ショックだった。

母が亡くなってもうすぐ一年になる。父が葬儀の日に「私が本気で愛した唯一人の女性だった」と言ったのが今でも耳に残っている。たった一年で母の事を忘れて、自分の娘のような年令の女性を好きになるとは……。

僕の母、ブリオニーはこのウィンダーミアで最も美しい女性と言われていた。

ストロベリー・ブロンドの長い髪は風に揺れるアザミのように鮮やかだった。僕はいつも母と一緒だった。母と二人で森に行ってキノコ採りをしたり、一日かけて山や湖を回った思い出は僕の宝物だ。僕は母には何でも話せたし、母も父には言えないことまで僕に話した。母と僕は毎日楽しく笑って時を過ごした。

その笑いがある日突然途絶えた。乗馬をしていた母が馬から落ちて首の骨を折ったのだ。溌溂としていたウィンダーミアが朦々となり小鳥たちも歌わなくなった。父は生きた亡霊となって殻に閉じこもった。

明るい父に戻ったのはごく最近だった。シャキーラと出会ったことで父は自分を取り戻したのだろう。後で聞いたところによると父はギリシャに出張した際にシャキーラと出会い、シャキーラのエキゾチックな美しさに魅了された。シャキーラというのはフルネームであり、ミドル・ネームも姓も無いとのことだった。等身大の彫刻かと見紛う完璧な肉体、褐色の顔とつりあがった目。シャキーラは生粋のギリシャ人ではなく先祖は外国からの移民だという噂もあった。それがトルコなのか、中東なのか、北アフリカなのかは誰も知らない。

結婚式の日、シャキーラがベージュのウェッディングドレスを着て穢れの無い白いバラのブーケを手にして立っている姿を見て、父の気持ちが分かる気がした。彼女が放つ捉えどころのない香り、彼女の動きのしなやかな気品、そしてオオカミを連想させる微笑みの不思議な魅力が、人々を虜にした。

僕にとって、シャキーラは世間でいう継母の典型とは程遠かった。シャキーラは僕に対してとても親切で、どこにでも一緒に連れて行ってくれた。友達の家でのカクテルパーティーや美容室にも僕を連れて行くし、ロンドンのグローブ・シアターにも一緒にシェークスピアを見に行った。

「僕、邪魔になるのはいやだから、無理してどこにでも連れて行ってくれなくてもいいよ」
と僕は十二才の少年らしい遠慮をしたことがある。

シャキーラは形の良い手で僕の頬を包んで答えた。
「アーロンは私の弟みたいなものだから、邪魔だなんて思ったことはないわ。一緒に来てくれると心強いのよ」

シャキーラのフランス語訛りが素敵だった。僕は、この上なく美しいエキゾティックなシャキーラの虜になった。もしシャキーラが義理の母親でなかったら、間違いなく恋をしていただろうと思う。

僕は広大な屋敷の敷地を、亡くなった母と一緒に散歩したものだが、シャキーラとは仲良しの姉弟のように走り回った。敷地の中央にある屋敷は灰色の三角屋根がある大きな白い建物だった。屋敷の前には大きな庭があって、季節にはバラやツツジが咲き誇った。

屋敷の横手には馬小屋があり、父の自慢のサラブレッドが居た。馬小屋の裏には、父から決して近づかないようにと言われていた石造りの倉庫があった。その倉庫は何百年も前に建てられたものらしく、ずっと鍵がかかったままだと聞いていた。

ある晴れた日曜日の昼下がり、父はフランスに行って不在だったが、シャキーラから一緒に倉庫を探検しようと誘われた。

「ダメだよ。絶対に近づかないようにとお父さんから言われているもの。シャキーラもそう言われただろう?」

「どうして入っちゃダメなのかなあ?」

「そりゃあ、お化けが出るとか、悪霊に取りつかれるとか……」

「アーロンって子供ね。すごい財宝とか、ひょっとしたら死体が隠されていたらどうする?」

僕は怖くなった。背筋に寒気が走るのを感じた。

「私がついているから大丈夫よ。さあ、冒険に行くわよ」

シャキーラからそこまで言われて断れず、渋々ついて行った。

倉庫の鍵は冷蔵庫の上にあった。馬小屋の横を通ると、石造りの倉庫が僕たち二人を手招きするかのように立っていた。二人は磁石で引き寄せられるように倉庫のドアまで行き、鍵を開けて中に入った。手をつないで足を踏み入れる。シャキーラの手は汗で湿っていた。シャキーラが小鹿のような黒い目で僕をちらりと見た時、好奇心と不安が混じった輝きが見えた。

僕はまだ髭が生えていない鼻の下に汗の粒を感じた。シャキーラと僕は父の言いつけを無視することで、大きな間違いを犯そうとしているのかもしれない。しかし、倉庫の中に足を踏み入れてしまった今となってはもう遅い。

建物の中に入ると、外の世界とは空気がガラッと変化したのが感じられた。それは何とも言えない奇妙な変化だった。地球上に存在する父の屋敷の敷地の中にいるのに、他の惑星にワープしたかのような違和感を感じた。僕の周囲の空気は濃すぎてネバネバしている。飛行機に乗っていて機内の気圧が急に変化した時のような感じだ。倉庫の中には不思議な静寂があって、夢の中を歩いているような気がした。

シャキーラも同じことを感じているのが見て取れた。シャキーラは握っていた僕の手を放し、この世のものではないものを見るような目をしてふらふらと歩いている。彼女は倉庫の中に置かれている虫食いだらけ巨大なのカーテン、数えきれないほどの陶磁器などを片っ端から手で触れながら歩き回り、僕はその後について回った。

殆どトランス状態だったかもしれないが僕たちはお互いの息吹を強く意識していた。

シャキーラは高い位置にある閉じた窓の隙間に見える光に引き寄せられるようにふらふらと歩いて行き、その下のキラッと輝くものに目を止めた。二人で近づいて見ると、それは造り付けの鏡だった。

周囲を貝殻で飾られた円形の鏡で、見たことが無いほど豪華で美しかった。不思議なことに、鏡には一点の曇りもなかった。

シャキーラは夢見心地のような顔つきで鏡の前に立った。僕がすぐ斜め後ろから覗くと、黒を基調にメイクした目、細い鼻筋とハートの形の口をした、形の良いシャキーラの顔が映っていた。東洋風の黒い髪が彼女の美しさを際立たせている。

シャキーラは自分のあまりの美しさにポカンと口を開けて鏡を見ていたが、彼女の声とは思えない歪んだ声で鏡に向かって言った。

「鏡よ鏡、鏡さん。イングランドで一番美しいのは誰?」

倉庫の中がシーンと静まり返った。ピン一本を落としても聞こえる程の静けさだった。その時、信じられないことが起きた。ほんの僅かだが、鏡の表面がピクッと浮き出るように動いた。それは地震で地球の岩盤が上に押し出されるようなイメージで、その鏡が誰かの顔のようにぼんやりと見えた。その顔から答えが返って来た。

「生きている人の中で最も美しいのはシャキーラだ。お前の美しさと優雅さには誰も敵わない」

シャキーラはブルブルと震えながら後ずさりした。僕も同じように後ずさりした。僕たちは風に揺れる葉っぱのように震えながら顔を見合わせた。

あれは年寄りの男性の声だった。ある考えが僕の頭をよぎった。こんなことが起きるはずがない。誰かが僕たちを引っかけようとしているのだ。シャキーラの小鹿のような目を覗き込むと、同じ疑いを抱いていることが分かった。

僕たちは何も言わずにドアの方へと歩いて行ってパッとドアを開けた。ドアの外には誰も居なかった。はるか遠くまで見渡す限り、人っ子一人見当たらなかった。あれは鏡の声だったのだ。

「夢を見てたんじゃないことを確かめるためにもう一度やってみましょう」
とシャキーラが言って、尻込みしている僕の手を引っ張って倉庫の中に入って行った。彼女は鏡の前に立って、先ほどと同じ質問をしっかりとした声で繰り返した。

再び誰かの顔のようになった鏡が、先ほどに劣らないほどはっきりと同じ答えを返した。

僕たちは畏れおののきながら視線を交わした。二人が見聞きしたことが幻想でなかったのは明らかだった。



その夜、僕は寝付けなかった。昼間に起きた事を何度も思い返し、倉庫の中のこの世のものではない静けさ、空気のどんよりとした重さ、それに何よりもあの鏡が顔のようになったのを見た時の怖さを改めて感じた。

昼間にシャキーラと僕に父の言いつけを破らせたのと同じ衝動が、もう一度あの倉庫に行くようにと僕を駆り立てた。もし父に知られたら叱られる。僕は懐中電灯を手に、パジャマ姿のまま寝室を出て、音を立てないように階段を下りた。冷蔵庫の上の鍵を取り、そっとドアを開けて玄関を出た。誰にも気づかれなかったようだ。

外に出るとひんやりとした夜の空気が頬を洗った。満月の夜だったが、懐中電灯で足元を照らしながら歩いた。

馬小屋の横を通って古い石造りの倉庫に着いた。入り口の鍵を開けて中に入った。昼間来た時に濃すぎてネバネバしていると感じた空気は、今はもうドロドロになっている。倉庫の中は昼間よりも更に静かで、不気味なほどの静寂に覆われている。右の奥の窓の下に鏡が見えた。僕は夢遊病者のような足取りで鏡に近づき、畏敬と恐怖の混じった気持ちで鏡の前に立った。

僕の顔が映り、アーモンドの形の大きな目と青みがかったグリーンの瞳、すっきりとした鼻、形の良い唇と桃のような顎が鏡の中に見える。母譲りのストロベリー・ブロンドの髪が懐中電灯の光を受けて輝いている。

「鏡よ鏡、鏡さん。過去と現在と未来において、イングランドで一番美しいのは誰ですか?」
と僕は声を震わせながら恐る恐る質問した。

鏡の表面がピクッと浮き出るように動いて、顔のようなものがぼんやりと浮かび上がった。今日の昼に聞いたのと同じ年寄りの男性の声で答えが返った。

「お前のお母さんのブリオニーが最も美しかったが、ブリオニーが死んでからはシャキーラが一番になった。そして、将来はアーロン、お前がイングランドで一番美しい人になるだろう」


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新作「禁断のインスピレーション」(日英TS文庫)を出版しました

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の新作小説「禁断のインスピレーション」を出版しました。これは4月3日に出版したYu Sakurazawaの英語小説”Feminized for Inspiration”の日本語版、TSミステリー小説です。

主人公はテオと言う名前の卒業間近のイギリス人男子高校生ですが、ストーリーは34才のイタリア人女流作家アリシアの第一人称で語られます。アリシア(私)は由緒ある文学賞の受賞者として有名になった作家ですが、17年前にレイプされ同級生の恋人のリアを失った過去を背負っています。アリシアは受賞記念パーティーでテオと出会い、リアと似たテオに心をときめかせるのでした。

主な舞台はローマ時代からテルメ(温泉)で栄えた保養地、シルミオーネという湖畔の街です。

【日英TS文庫】
「禁断のインスピレーション」は日英TS文庫の第六作目の小説です。

第1作「第三の性への誘惑」(原作:Enchanted into the 3rd Gender)
第2作「性転の秘湯」(原作:Slippery Slope in a Hotspring)
第3作「忘れな草」(原作:Abigail Resurrected)
第4作「禁断の閉鎖病棟」(原作:Forbidden Asylum)
第5作「呪いのバービー人形」(原作:Forbidden Memories)
第6作「禁断のインスピレーション」(原作:Feminized for Inspiration)


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禁断のインスピレーション

原作:Feminized for Inspiration
著者:Yu Sakurazawa

第一章 受賞と結婚

彼氏いない歴三十四年の私の人生にテオが入り込んできたのはつい最近のことだった。

私は十七才の時に書いた短編小説がマイナーなミステリー小説のコンテストで銅賞を受賞してから、大学時代、そして就職後も創作活動を続けている小説家だ。昨年、大手文芸誌のコンテストで大賞を受賞したことで新進気鋭の女流作家として注目されるようになった。大賞作品の印税だけでなく、過去に出版済みの小説十数作品の売上も急激に伸びたので、それまで勤めていた会社を退職し、女流作家として生計を立てるようになった。

アリシア・ティンリーというペンネームは私の本名だが、知名度が一気に高まったのは、今年の春に出版した小説「失われた冒涜」が著名な文学賞であるブルックナー賞の候補作品にノミネートされてからだった。昨年の文芸誌のコンテストで大賞を受賞した作家がブルックナー賞の候補に挙がったということで、新聞や雑誌から取材を受け、活躍する女性に関するテレビのノンフィクション番組で私の画像がたった二、三分だが放映された。

最終的に三月末にブルックナー賞の発表があり、私の「失われた冒涜」が受賞の栄誉に輝いた。それから二週間ほどは新聞雑誌の取材やテレビの出演依頼も相次いで目の回るような忙しさだった。

テオと出会ったのは四月十五日にミラノのホテルで開催されたブルックナー賞の受賞記念パーティーの会場だった。そのパーティーには十人の一般参加者枠があり、ネットで受け付けた千人を超える応募者の中から抽選で十名が選ばれ、テオもその一人だった。

「僕、先生の小説は全部読みました」
グレーのスーツにネクタイ姿で、赤みがかった金髪をした美しい青年がグリーンの目をキラキラと輝かせながら私を見上げて、よどみのないイギリス英語で言った。

「君に先生なんて呼ばれると年寄りになった気がするから、アリシアと呼んで」

「えっ、そんな……。じゃあ心の中で『先生』と付け加えながらアリシアと呼ばせていただきますね。僕は十七才ですから、アリシアの丁度半分です。七月に十八才になりますけど」

十五才ぐらいかと思ったのに大人の入り口の年令だということを知って意外だった。飾り気がなく、優しくて甘い声だった。男性の声を聞いてそのような安らぎを感じるのは初めてだった。杏仁豆腐を連想させる白い肌と小さな赤い唇が私の目からたった数十センチ先にある……。

「僕の名前はセオドア・ウィズリーです」

「テオと呼んでいいかしら?」

「はい、先生。じゃなかった、アリシア。友達からもテオと呼ばれています」

「テオはミラノの高校生なの?」

「いえ、シルミオーネの高校です」

「イタリア人じゃないわよね?」

「イギリス人です。五年前にイタリアに渡って来てシルミオーネに住んでいるんですけど、去年父がロンドンの本社に転勤になって、僕を残して家族は帰国しました。来年の四月にはイギリスの大学に進むつもりなので、それまでに帰国します」

イタリアの年度は九月に始まるが、イギリスは四月からなので、半年の空白があるのだ。

「イギリス人にしては小柄ね」

私は女性としては長身で百七十六センチあるが、今日は九センチのハイヒールを履いてきたので普段より背が高い。テオは私の目の高さしかなかった。

「平均よりは少し低いですけど、そんなに小さくはないです」
とテオはムキになった表情で言った。紅潮した頬はまるで桃のようで、食べてしまい衝動に駆られた。
「百六十七センチです。やっぱり小さいのはお嫌いですか……」

「私の昔の恋人も百六十七センチだったわ」

そう言うとテオはパッと顔を輝かせた。

「テオのメールアドレスを教えてくれる?」

「はい、先生。電話番号とメールアドレスとワッツアップのIDを今すぐ送ります」

私がワッツアップのIDを教えるとテオはあっという間にワッツアップで連絡先を送ってくれた。

「じゃあ、また連絡するかも」
と思わせぶりに言ってその場は別れた。

ほんの二、三分間の会話だったが、それは心躍る時間だった。テオは私がこの人生で手に入れることをほぼ諦めていたものをすべて持っていた。美しさ、優しさ、そしてそばにいるだけで得られる安らぎ。私に話しかけてきた時のキラキラと輝く目、ムキになった時の表情、自分が昔の恋人と同身長と知った時のうれしそうな顔……。地球上にそんな男性が何人も存在するとは思えなかった。そのうちのひとりが私の手の届く距離に来たのは奇跡だと思った。

私はきっとテオと結婚することになると思った。三十四才の名の知られた作家が十七才の高校生との結婚を意識することが不自然だということはよく分かっていた。

テオには私の昔の恋人と似ている点が沢山あった。周囲から妨害されなければ今も一緒に人生を送っているはずの恋人だった……。

その時司会者から呼び出され、私は壇上で記者たちからインタビューを受けた。テレビ局の記者から「ご両親にひと言」と聞かれて私はカメラのレンズを見ながらこう答えた。

「私がブルックナー賞を取れたのはお父さんのお陰です。お父さん、あなたがいなければこの小説は書けませんでした」



私は子供の時から男性は苦手だった。

初経があるまで性別というものを意識していなかった。学校でも、下校してからも、男の子と一緒に遊んでいたが、男の子が好きだったからではなく、彼らがしたいことと私がしたいことが同じだったからだ。私と同程度にサッカーが上手な子は一人か二人いたが、私は常にスターだった。

第二次性徴が始まった時に、特に絶望を感じたわけではない。私は母と似ていたので大人になったら母のような外見になるのが当然と思っていたし、毛むくじゃらで腹がポッコリと出た父の裸を見ると身震いするほどの嫌悪感を感じた。それまで遊び仲間だった男の子たちの身体の変化は、彼らが将来私の父と同じような身体に向かうことを示唆していて、気の毒だと思ったし、かかわりたくない気がした。

そして、私は十三才の時に恋をした。相手はリア・コスタという同級生の女の子で、赤みがかった金髪とグリーンの目をした、繊細な造りの美しい顔立ちの少女だった。学校では休み時間も昼食もトイレに行くのもいつも一緒で、二人で下校するとお互いの部屋に入り浸った。

ある日、彼女の家でベッドの縁に座っておしゃべりをしていたらうとうととしてしまい、目が覚めるとリアの唇が私の口をふさいでいた。それが私のファースト・キスで、頬から太ももまでジンジンして戸惑ったのを覚えている。それから私たちは会うたびにお互いを求め合う関係になった。

やがて母に現場を見つかり、こっぴどく叱られた。母が父に告げ口をして、父は私にびんたを食らわせた後で髪を掴んで引っ張り倒して足で踏みつけにした。二度と同じことをしたら髪を剃って坊主にすると脅された。保守的なクリスチャンの家だったので、両親にとってショックだったということは理解できる。父は私が十三才という若さで肉体関係を持ったことと、その相手が女性だったという二つの点に(多分後者をより強く)激怒したのだった。

私のリアに対する気持ちは父の叱責と脅しの結果、却って強くなった。父のお陰でリアと私はより慎重かつ巧妙に逢瀬を重ねるようになり、高校を卒業するまでの四年間、私たちは密かに絆を深め合った。

あの事件が起きたのは卒業式の日の午後、二人が時々デートに使っていた廃工場の事務室だった。私がリアにキスをしながらリアの制服のスカートのホックを外してスカートがするりと床に落ちた時、黒い目出し帽をかぶった若い男がナイフを左手に部屋に入ってきた。私は同級生の男子ならある程度対等に渡り合える自信があったが、その男の体格は規格外で、ナイフを見て、刃向かえば殺されると直感した。男は私たちの足をはらって床に転がしてから私を後ろ手に縛りあげて口にタオルを押し込み、私が見ている前でリアを犯した。リアは泣きながら抵抗したが全く歯が立たず、男のおぞましいものを奥底まで突き立てられた。

私は自分の無力さに絶望した。男が入ってきた時に敵わないと思っても椅子でも棒でも振り上げて立ち向かうべきだった。そうしなかった自分に腹が立った。目の前でリアを犯されるぐらいなら、立ち向かって殺された方がマシだった。

リアが犯された後、更に恐ろしいことが起きた。その男はリアが見ている前で私を犯したのだった。私はリアに対して彼氏のような立場で、リアを一生守る覚悟でいたし、リアもそのつもりだったと思う。自分が男性に対してこんな形で力なく屈服する時が来るとは考えたことが無く、無残な敗北の姿をリアに晒している自分が耐えられなかった。

男は高笑いを残して立ち去り、リアは私を後ろ手に縛っていたロープを解き、私とリアはお互いの股間からこぼれ出る粘液を見て、抱き合って泣いた。警察に届けることはできなかった。警察に届ければ必ず両親が呼ばれて、私とリアが廃工場の事務室で四年間逢瀬を重ねたことが露見してしまう。私たちは一刻も早くあの男の体液を身体から洗い流したくて、各々の家に帰った。

帰宅すると廃工場で経験したのとは別の種類の、更にショッキングな事態が私を待っていた。私は自分の部屋に戻る前に浴室に入って身体のあらゆる隙間まで汚れを完全に洗い流したが、夕食は殆ど喉を通らず、誰とも口を聞かずに自分の部屋に戻った。しばらくして父がノックもせずに私の部屋に入ってきて私に言った。

「お前が女だということは、今日よく分かったはずだ。大学に行ったら色々な男性と友達になり視野を広げて将来の伴侶を探しなさい」

それを聞いて、一瞬、父が何を言いたいのか理解できなかったが、まもなく恐ろしいことに気付いた。父は私がレイプされたことを知っている……。

その点について確認するため、私は可能な限り平静を装い、声を震わせないように言った。

「よく分かったわ。今日のは教育的指導だったということね」

父は痴呆めいた微笑を浮かべて「分かればいい」と言ってうなずいた。これでリアと私を犯したのは父が雇った男だったと分かった。なんと、父は娘に自分が女であることを分からせるためには、チンピラの精液を自分の娘の身体の中に注入させることさえ厭わなかったのだった。父にとって女同士が交わるというのはそれほどの悪行だったということだろう。

父に犯されたのと同じだと思うと、私の愛するリアを犯させた父に対する殺意が湧いてきた。私は立ち上がって父に体当たりして部屋の外へと突き飛ばし、中から鍵を締めた。



翌日から父とは一切口を聞かなくなった。父がしたことを母が知っているのかどうかはその時は判断できなかったが、少なくとも私たちをレイプさせることを事前に承知していたわけではないのは確かだと思った。母は明らかに抑うつ状態にあった私に対して、問い詰めることなく何かにつけて気遣ってくれた。母親が自分のお腹から生まれた娘が暴漢にレイプされることを事前に容認するはずがない。もし後で父から聞かされていたとしたら、そんな男性を夫として寄り添わなければならない母は気の毒だとしか言いようがない。

四月から私は大学に進学し、アルバイトをするようになった。すぐにでも家を出て一人で住みたかったが、経済的に無理なので家で寝起きしたが、父とは視線を合わせず会話もしなかった。

リアに会いに行きたかったが、なかなかその勇気が出なかった。リアをレイプさせた犯人が自分の父であることをリアに言うべきかどうか分からず、犯人の家族である私はリアに顔を合わせる勇気が無かった。リアに会って全てを話そうと決心したのは大学が始まって最初の土曜日の朝だった。

リアに連絡を取ろうとしたが、電話に出ず、ワッツアップにもメールにも応答が無かった。リアの家に電話をするとお母さんが電話に出た。

「リアは昨日の夜亡くなったの。寝る前にお風呂に入ったのに出てきた気配が無かったから私が気になって見に行ったら手首を切って死んでいた。アリシア、どうしてもっと早く会いに来てくれなかったの?!」
と言って電話の向こうでリアのお母さんが泣きじゃくった。

レイプされたことのトラウマで自殺したのか、私が疎遠になったことを苦にして自殺したのかは分からなかった。

葬儀の日に見た棺の中のリアの顔は不自然なほど安らかで微笑んでいるようにさえ思えた。

それから何日も眠れない夜が続いた。リアをレイプした真犯人は私の父だったが、リアを自殺に追いやったのはすぐにでも慰めに行くことを怠ったこの私かもしれないという思いが私を責め続けた。

人間とは強いもので、二ヶ月もすると私は普通に大学に通ってまるで何事もなかったかのように生活が送れるようになった。男女とも友達はできたが、誰とも深い付き合いはしなかった。

私をデートに誘う男友達も何人か現れた。私のように背が高くボーイッシュな体格で性格も男っぽい女性に魅力を感じる男性は意外に多いのだ。

そんな時には、
「ごめん、他に好きな人がいるから」
と言って断るのが最も手間がかからない撃退方法だった。そうすればその男性が好ましいかどうかを評価する立場にないことが相手にも理解できるので無難だし、浅い友達のままでいることができる。

それに、好きな人がいるというのはウソではなかった。リアが死んでから何年間もの間、私は自分の恋人はリアだと本気で思っていたからだ。

口には出さなかったが、男性と友達以上の関係になる気はなかった。父やあのレイプ犯人と同じ性器を股間にぶら下げているということが「男性」の定義であり、そのカテゴリーの生き物と裸で身体を合わせることは一生あり得ないというのが正直な気持ちだった。

大学の女友達の中にはリアに負けないほどの美人や、リアと同じように透き通るふわふわした肌を持った女性や、優しかったり話していて面白い人もいたが、全てを兼ね備えている人はいなかった。仮に居たにしても、その人が女同士の愛を受け入れる可能性は低いはずだった。

私の体格や性格のせいで、そして気づかないうちに放つオーラがあるのかもしれないが、私に抱かれたくて近づいて来る女性には不自由しなかった。大学四年の時に一度だけそんな女性を抱いたことがある。真っ白な肌、髪は赤みがかったブロンドでグリーンの目をした新入生で、一瞬リアが生き返ったかのような錯覚を覚えた。でも、ベッドの中で私は失望した。リアと似ていたのは外観だけで、何の安らぎも感じさせない薄っぺらな女性だった。リアのような人はこの世界には居ないし、リアは二度と帰ってこないのだと思い知らされた夜だった。

そんなことがあってから、私は自分が一生伴侶を得られない運命にあると自覚するようになった。



ブルックナー賞の受賞記念パーティーの翌日、テオにワッツアップでメッセージを送り、金曜の夜の食事に誘った。テオが住むシルミオーネはミラノから車で約一時間半ほどの距離だが私はホテルを予約した。シルミオーネはテルメ(温泉)で有名なローマ時代からの保養地で、ガルダ湖に突き出た半島にある旧市街は私が好きな場所のひとつだった。

金曜日の午後、湖畔に面したホテルにチェックインして、テオが来るのを待った。彼は黒のタイトパンツにゆったりとしたストライプのシャツという姿でホテルのロビーに現れた。受賞記念パーティーで会ったときには髪をハードジェルでバック気味に決めてスーツにネクタイという姿だったが、今日は長めのボブをパウダーワックスでふわっとさせたヘアスタイルだった。赤みがかったブロンドの髪がテオの笑顔のはにかみを更に魅力的に見せている。

「すみません、遅くなっちゃって」
私を見上げるテオの瞳は澄みきっていた。微かな若い男性特有の汗の臭いがボディーソープの香りと混じって私の胸をときめかせた。テオは高校の授業が終わってから自分のアパートに帰って、私と会うためにシャワーを浴びてきたのだろう。

――テオは私に抱かれるつもりで来てくれた……。

ホテルのレストランで食事をして、そのまま部屋に連れて行った。三十四才の女が男子高校生を一対一で夕食に誘うこと自体が軽率であり、部屋に連れて行くのは犯罪的と言われても仕方がないことは自分でも認識していた。でも私は倫理的な行動基準を失うほどテオに魅かれていた。

テオは何の抵抗もなくさりげなく自然に、私に身をゆだねてくれた。テオは男性であり解剖学的には父やあの男と同じものを持っていたが、本質的に異なるものだった。それが女に挿入することにより支配権を確立するための道具だと認識している男性は多い。でもテオのそれは私から喜びを与えられ支配されるために存在しているようだった。

テオは男性でありながら男性ではなかった。テオの心と魂はリアと同じぐらい女性だった。彼は自己本位ではなく、私の微かな感情の変化、衝動、自分でも気付かないレベルの恐怖の芽生えを理解することができた。独占欲を出さずに人を愛せる能力を持っていた。

彼はベッドの上で恐れることなく私に身を預け、私はリアの時と同じように持って生まれた支配欲を気兼ねなく発揮することができた。私に言われた通り後ろ手に緊縛されたり、お尻をベルトでしばかれたり、言葉で奴隷扱いされることも厭わなかった。

テオが生まれつきマゾヒスティックで被支配欲が強いのか、作家としての私を崇拝しているから言う通りにしてくれたのかは定かではない。ただ、テオにとって大事なのは自分がどうされたいかということより、私が何をしたいかということなのだと感じられた。

私は土曜日の朝テオにプロポーズした。

「本当に僕なんかでいいんですか? 僕はアリシアが少しでも気持ちよく感じられるためなら何でもします。一生そばにいられるだけで幸せです」

テオはまだ十七才なので入籍するには親の承諾が必要だった。しかし、年令が倍の私としてはテオの両親の承認を得る自信は無かった。テオは七月十日の誕生日に自分の意志で結婚できる年令に達するので、その日を待って入籍することになった。

私はミラノのアパートを引き払い、シルミオーネにある小さなヴィラを購入して移り住んだ。

二人のママゴトのような同居生活がスタートした。


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新作「呪いのバービー人形」を出版しました(日英TS文庫)

「呪いのバービー人形」は2016年8月に桜沢ゆう(Yu Sakurazawa)が出版した英語小説「Forbidden Memories」の日本語版で、TSホラー・ミステリー小説です。桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫「日英TS文庫」の五作目になります。

主人公は若くしてジャーナリストとして成功したイギリス人男性のディーン・ベイカーですが。舞台はイタリアのフローレンス(フィレンツェ)~ペルージャです。ディーンは突然誘拐されて北イタリアの荒地にある建物に幽閉され、恐ろしい目に遭わされます。目に見えない犯人が送りつけて来る謎のメッセージを解読しようと頭を巡らせますが、なかなかその意図は読めず、最終段階に近づいた時に全てがつながるのでした。



原作のタイトルはForbidden Memories(副題:Feminized as a Punishment)です。

副題を見ると内容の想像がついてしまうので、見なかったことにして日本語版をお読みください。まあ、性転のへきれきの読者なら誘拐された段階で想像はつくでしょうが……。

 

 


呪いのバービー人形

第一章 フローレンスの怪物

私が妻と小さな息子を連れて二ヶ月ほど前にフローレンスに引っ越して来たのは、一九六八年から一九八五年にかけて花の都フィレンツェ(英語名フローレンス)でおびただしい数の殺人を犯しながら逮捕されなかった犯罪者「フローレンスの怪物」に関する本を書くためだった。

私は物書きとしてある程度の成功を収めていた。大手新聞であるガーディアン紙にジャーナリストとして就職したが、ロンドンの出版社に移り、三十二才になった今、本を書くために休職できるほどの蓄財ができた。

私は「フローレンスの怪物」と呼ばれた犯罪者について本を書くという任務を楽しんでいたが、題材の生臭さが時に私を不安にさせた。私は頭をスッキリさせるためにアルノ川を横切ってミケランジェロ広場まで歩く習慣があった。今、ブラブラといつもの道を横切ったところだが、普段なら人が溢れているのに、今日は人がまばらだったので何となく不安を感じた。道端のベンチに座って気持ちを落ち着けた。

大きく深呼吸していると、ポンコツ車が私のすぐ近くに停車した。ドライバーが窓を開けて私に呼びかけた。

「あんた、ライターを持ってないか?」
彼は手にタバコを持っていた。強いイタリアなまりの英語だったが、英語でしゃべるのに相当苦労しているという感じだった。

とにかくそのドライバーは私を見て土地の者ではないと分かっているようだった。

私はドライバーを観察した。彼はまるで十分な餌を与えられていないグレイハウンド犬のように痩せていて、お腹を空かせているように見えた。せいぜい二十八、九才と思われるが、おそらく育ちの悪さのせいで実際よりは老けて見える。

私はベンチから立ち上がってそのドライバーの要求に従った。ポケットからライターを取り出してドライバーの煙草に火をつけ、立ち去ろうとしたところ、後部座席のドアがサッと開いた。何が起きたのか自分でも理解できないうちに、私は黒くて強い腕で後部座席に引き込まれた。私を掴んだ男を見ると若い黒人で、おそらく二十代前半だろうと思った。北アフリカから何年も前にイタリアに移住した男ではないかと推測したのは、流ちょうなイタリア語をしゃべったからだ。

私はイタリア語には自信が無いが、その黒人が私を口汚く罵っていることは分かった。彼の太い眉は怒ったように左右がつながり、非常に恐ろしい顔をしていた。

その黒人が私を後部座席に引っ張り込むのに成功するや否や、ドライバーがエンジンをふかしてポンコツ車が走り出した。私は鞭でしばかれたように現実が見えてきた。誘拐されたのだ! どうにかしなければならない……今すぐに! 私は大声を上げようと口を開いたが、毛むくじゃらの白い手で口をふさがれた。私の口をふさいだのが三人目の人物で、三十代後半の黒い髪の白人だということが数マイル走った後で分かった。その人物は私と同程度の初歩的なイタリア語しかしゃべれないようだった。ハンガリーとかルーマニアなどの東欧から最近移民してきたのではないかと推測した。

その日から二年半私が幽閉されていた間、彼らの名前は分からなかった。話を分かりやすくするため、三人を三銃士に見立ててアトス、ポルトス、アルテミスと呼ぶことにする。

普段見慣れた広場や運河や塔が窓の外に見えなくなった。フローレンスの外まで来たのだと分かった。犯人は私が車の進路を目で辿っていることに気付いたらしく、私を眠らせた。

アルテミス(毛むくじゃらの東欧人)が皮のバッグから注射器を取り出して私の腕に突き立てた。私はそれから何時間かの間、死んだように眠っていたようだ。

目を開けた時、アトス(私が煙草に火をつけてやったイタリア人)は、殆ど人が住んでいない山間の不毛地帯を運転していた。一目見て、その地帯は耕作が不可能で、例え建設機械を使っても家を建てるのが困難な荒涼とした場所だった。

空気も冷えてきた。鳥肌が立ってきた腕を手でこすって温めた。フローレンスから遠く離れた北イタリアのどこかまで連れて来られたのは確かだった。息が苦しく不規則になり、喉が渇いてきた。

「水!」
と私は動揺した声で呟いた。
「水をいただけませんか?」

「待て」
とポルトス(北アフリカ人)が唸った。

アトスが私に強いイタリアなまりの英語で吠えた。

「俺たちに命令するな。お前の召使じゃない。目的地に着くまで待て。そうすれば水を飲ませてやる」

アトスの声を聞いて怖くなり、私は反対側を向いて身体を丸めた。狭い車中で何時間も座っていたので足がしびれていた。私の身長は百七十三センチだから背は高いと言うほどでないが、足は長いので、身長百八十センチの人と同じぐらいのレッグスペースが必要だった。

誘拐犯人たちの表情も段々厳しくなってきていた。私の身体中の筋肉が緊張していた。

突然、車が周囲を花に囲まれた建物の前で停まった。三棟が繋がった形の建物の周囲は雑草が伸び放題で、人が住んでいるとは思えなかった。建物にはバルコニーやテラスにつながる戸外の階段は無かったが、駐車スペースと呼ぶべき場所があり、アトスはそこにポンコツ車を停めた。

建物の中に引っ張り込まれた。中をざっと見たところ、最初の棟にはリビングルームと、三段ベッドのある寝室、キッチンと浴室があった。

二つ目の棟は研究所のような感じで、ホルムアルデヒドと消毒剤の臭いがしていた。二つ目の棟の中を通りながら、この犯人たちは何を生業にしているのだろうかと考えた。科学者だろうか? いや、あり得ない。三人はブルーカラーの労働者のように見えた。

その後で私が引っ張り込まれて閉じ込められたのは縦二メートル、横二メートル半ほどの部屋で、壁はむき出しで床はセメントのままだった。外からカチャリと鍵がかけられた。私は罠にかかった動物のように気持ちが動揺していた。神経質になって、ドアをドンドンと力任せに叩いた。

「開けてくれ!」

私は絶望に身体をすくませながら叫んだ。

「頼むから、ここから出してくれ!」

犯人たちが近くにいるのは確かだったが、私をどうすべきか決めかねているようだった。しばらくすると三人の足音が遠ざかっていき、やがてその響きも聞こえなくなった。

私は失望のあまり地団太を踏んだ。自分がどんな場所に閉じ込められたのか、大体の状況が理解できた。

その部屋は豚小屋と言っても誇張ではなかった。

壁にはカビが生えていて、部屋中にカビくさい臭いが立ち込めており、豚小屋と呼ぶにふさわしい。ただ、その部屋には豚小屋には無い文化的痕跡があった。弾力のある折り畳みベッド、小さなコーヒーテーブルと壊れそうな椅子だ。少し欠けた小さな花瓶がコーヒーテーブルの上に置いてある。等身大の鏡と、いわゆるお爺さんの時計のようなノッポの古時計が立っていた。

隣りの部屋へのドアとおぼしきものがあったので蹴り開けた。そこには浴槽、便器と洗面台があった。

浴室のドアを閉じて等身大の鏡の前にゾンビのような姿で立った。自分は感じのいい外観だと思っていたが、鏡の中の私はひどい格好だった。体格は逞しいというよりはやせ細った感じであり、本来健康的なはずの顔色はまるで漂白されたように蒼白だった。緑の目の瞳孔は開き、手が震えている。

さまざまな想いが頭の中を横切った。あいつらは一体誰で、私に何をしようとしているのだろうか? 身代金が目的だろうか? それはあり得る。一応金持ちの部類だから、誘拐のターゲットにされてもおかしくない。身代金目的の誘拐ならやつらは既に妻に連絡し、身代金を要求しただろう。そうなれば私の妻のシーナは間違いなく要求された金額を送金したに違いない。シーナは私の命が危機に陥っていることを知ったら、一時たりとも無駄にせず行動に移すことができる女性だ。そう考えれば、さほど心配する必要はない。

しかし私の神経はズタズタになっている。背丈より高い古時計がチクタクと大きな音を立てて時を刻み、その音が私の不安を増大した。

ただ、心の奥底で、これは身代金目的の誘拐では無いという予感があった。きっと何か見えないものが隠れているという気がする。

私はその時、バラの香りがするピンク色の封筒をコーヒーテーブルの上に見つけた。


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新作「禁断の閉鎖病棟」を出版しました(日英TS文庫)

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の四冊目となる小説「禁断の閉鎖病棟」を出版しました。これはTSホラー小説です。

これは2016年5月に出版されたYu Sakurazawaの英語小説「Forbidden Asylum」の日本語訳です。Forbidden Asylumは海外TS小説のサイトでも取り上げられたことがあるTSホラー小説です。

主人公は25才の男性で2才上の愛妻が居ます。何不自由なく幸せに暮らしていたのですが、ある日、一人で郊外にドライブした時に高速道路から分岐した田舎道で自動車が動かなくなってしまいます。奥さんに電話して迎えに来てもらおうとするのですが、スマホの電池が切れていたので、どこかで電話を借りようと歩き始めます。しかし、そこは人っ子一人いない荒涼とした地域で、歩いていると大きな菩提樹の陰にある病院に行き当たり、「電話を貸してください」と入っていきます。

ところが、そこは世にも奇妙な病院でした。病院にたった一つしかない電話から奥さんに電話をすることには成功するのですが、それから後は物事が思い通りに進まなくなるのです……。

原題:Forbidden Asylum
原書の副題:Feminized in Insanity
原作者:Yu Sakurazawa

日英TS文庫の前回の作品「過去からの呪文」と同じく(それ以上に)原作に忠実に日本語版を書きました。約四万四千文字なので価格は390円に設定されています。

普段、怖い目にあいたいと思っている読者にとっては、恰好のホラー小説です。

 


禁断の閉鎖病棟
原題:Forbidden Asylum
原書の副題:Feminized in Insanity
原作者:Yu Sakurazawa
日本語版作者:桜沢ゆう

「閉鎖病棟」とは精神科病院の病棟で出入り口が常時施錠され入院患者や面会者が自由に出入りできない病棟を示す言葉で、開放病棟の対語である。

第一章 狂気の事務長
私は夢見心地で高速道路を運転していた。私の愛車、マルチ・スズキのアルト800を運転するのはこの上ない喜びだ。初めて買った車だから愛着があるというだけでなく、マニュアル・シフト車のハンドルを握り、最高のタイミングでクラッチを踏んでギアをシフトして他の車をビューンと追い抜くのは快感としか表現のしようがない。セルリアン・ブルーのアルトは私の感性に呼応して思い通りに動いてくれる。父の遺産を引き継いでいたので、その気になればBMWの5シリーズでもトヨタのSUVでも買えたが、欲しかったのはこのアルトだけだった。

カルナタカ州の旧国道4号、通称NH4は映画の題にもなったことがある趣のある国道だ。郊外に出ると窓の外の景色は退屈な田舎の風景でしかない。まだ朝なのに荒地を走るタールとコンクリートの道路を強い日差しが焼き焦がす。樹木はまばらで五十メートルに一本立っていればまだ良い方だ。でも、大都市バンガロールの気違いじみた喧噪と交通渋滞を逃れ、遠く離れた田舎を一人でぶっ飛ばす気持ちは格別だ。

気持ちよくトップギアで走っていたが、突然車がガクガクっとなった。アクセルを踏んでも反応しなくなり、緊急停止を試みたがブレーキもきかない。必死でハンドルにしがみ付き、何とか路肩に停車して、ほっと胸を撫で下ろした。

ボンネットを開けたが、特に煙や蒸気が噴出しているわけではなく、エンジンオイルをチェックしたところ正常範囲内だった。私は特にメカ音痴ではないが、何をしたらよいか分らず、お手上げだった。子供の時から住み込みの運転手兼メカニックが居る家に育ったので、自動車が故障した場合の対応を学ぶ機会はなかった。

意識しないうちにNH4から分岐する道に入っていたようで、そこは人っ子一人見当たらない荒れ果てた場所だった。車が通れば近くのカーショップまで乗せてもらえるのだが、停車してから十分間、一台の車も通らなかった。

仕方ない。家からはちょっと遠いがディンプルに電話して迎えを頼むことにしよう。ディンプル(えくぼ}は妻の愛称だ。彫りの深い顔に浮かぶ可愛いえくぼ……。私が困っていたらいつも助けに駆け付けてくれる、世界一頼りになる相棒だ。非常にしっかりしていて、家の中では頭が上がらないが、ディンプルの優しい笑顔を思い出すと気持ちが和む。

助手席に置いたバッグからギャラクシーS9を取り出す。

――あっ、電池が切れてる! 警告が出ていたからUSBプラグを挿し込もうと思ったのに、つい忘れていた。困ったぞ……。

まずいことにバッグには小銭入れしか入っていなかった。

車のキーを回すとメーターのランプが点灯したので、停車したままでスマホを充電することは多分可能だろう。後から思うと、そうしていればよかったのだが、二十五才の未熟な私は何もせずに待つことには耐えられず、小銭入れをポケットに入れて車を降り、人気がありそうな方向へと歩き出した。

イバラが生い茂った田舎道をトボトボと歩く。暑い! 日差しが高くなってとにかく暑かった。一キロ近く歩くと、ヒンヤリとした風が流れて来た。近くに川が流れているのだろうか。そのまま歩いていると大きな菩提樹が見えてきた。そして、その菩提樹の向こうに建物が忽然と姿を現した。こんもりとした木に隠れて見えなかった建物が視界に入ったというだけの話なのだが、その時の私にとっては感動の光景だった。

私は子供のようにはしゃいで駆け出した。菩提樹に近づくと背後の建物がはっきりと見えてきた。

それは外壁を白で塗装された建物で、清潔な感じがした。一般の住宅よりはずっと大きいが、大きなビルというほどではない。取り立てて特徴の無い普通の建築物であり、バンガロールには同じ形の建物が何百何千とあるだろう。「取り立てて特徴が無い」という言葉が、この建物を表すには最も適切だと思った。

何の建物かというと小さな工場、小さな役所または診療所というあたりではないだろうか。鉄でできた背の高い門に近づくと「ヴィンセント病院」という看板が目に入った。私の三つ目の推測が当たっていたわけだ。

一見してヴィンセント病院について特に不審な感じはしなかったが、ただ「高圧注意! 壁には高圧電流が流れています」という標識が目についた。どうして病院の壁に電気を流すのか意味不明だ。これは人間用の病院ではなく、猛獣を収容するアニマル・ホスピタルなのだろうか? それとも、最近産婦人科病院からの誘拐事件が相次いだ結果、門以外からの人の出入りを完全に遮断するという対策を講じたのだろうか……。

ところが、近づいてみると意外にも門番や警備員は居らず、鉄格子でできた門のラッチ式のロックを手で開けると難なく中に入ることが出来た。前庭には鉢植えが幾つか置かれており、建物の玄関ドアへとつながっていた。ドアを開けて中に入るとフロントロビーがあり、受付窓の向こうに事務所が見えた。

私は受付窓からオフィスの中を覗き込んだ。男が一人事務机に座っていた。四十代半ばぐらいだろうか。客観的に見て普通の男性だった。顔立ちはよく、白髪交じりの髪は少し縮れているが、年の割に引き締まった体型をしていた。ただ、安っぽいポリエステルのカッターシャツ、首にかけた味気の無い金メッキのチェーン、そして何よりもシャツの上から透けて見える胸毛の気持ち悪さに、ついイライラしてしまった。

しかし、そんなことはどうでもよかった。大事なことはこの男性に助けを求めることだった。

「あのう、すみません」

「はい、なんですか?」

「病院の方ですよね?」

「事務長のアショックですが」
抑揚が無くて何の特徴も無い声で返事があった。この建物の外観と共通点を感じた。

「私はレイと申します。バンガロールからNH4を走っているうちに側道に入ったみたいなんですが、車が急に故障して動かなくなってしまいました。スマホも電池が切れてしまったので、ここまで十五分ほど歩いて辿り着きました。家内に迎えに来てくれという電話をしたいので、携帯電話を使わせていただけないでしょうか?」

「それは災難でしたね。残念ながら私は携帯電話を持っていません。この病院のスタッフも誰も持っていません。この病院は……何と言うか、精神を病んでいる人のための病院なので、余計な精神的負担をかけないよう、建物の中への携帯電話やスマホの持ち込みは禁止しているんですよ」

「でも、そのパソコンはネットにつながっていますよね? そこから妻にメールを送信させていただけませんか? メールだと電話と違ってすぐには通じないかもしれませんが……」

「レイさん、恐縮ですがパソコンはネットにはつながっていませんし、WIFIもありません。もし患者が夜中に事務所に忍び込んでメールを送信したりブラウジングしたら困りますんでね。うちの患者さんは処置するために入院しているのであって、楽しむためにここに居るわけじゃありませんから」

「分かりました、アショックさん、他を当たってみます。スマホがそろそろ充電されているはずなので車まで歩いて戻るのが早いかもしれません」

それまでぶっきらぼうだった事務長の物腰が急に柔らかくなった。

「ちょっとお待ちください。この炎天下を十五分も歩いて熱射病になったら、それこそ大変です。緊急通話用に固定電話を一回線だけ引いてあって、電話機が三階にあります。お使いになりますか?」

「助かります! 是非お願いします」

「じゃあ三階までご案内しましょう」

アショックについて古風なベンガラ塗りの階段を三階まで上った。一応ちゃんとした病院のようなのにエレベーターが無いとは驚きだった。階段の途中で、だらしない服装の年配の男が階段のさび付いた手すりにしがみついているのを見かけた。

私がその男の横を通過した時、男は濃い茶色のフレームの眼鏡に右手をかけて私をにらんだ。

「ついに宇宙がその姿を現した。わしの家のジャグジーの中に宇宙があるんだ!」

急に男が叫んだので心臓が飛び出しそうになった。アショックは私の肩に手を置いて言った。

「心配ご無用、あの男は妄想しているだけです。シバという名前で、ただの貧乏人ですが壮大な幻想を抱いていて、自分のことを画期的な発見をした偉大な天体物理学者だと思い込んでいるんです」

「そうですか……」
アショックが患者の病状を説明するのに嘲るような口調で話したことに嫌悪感を覚えた。

心の病と言うものは簡単にコントロールできるものではなく、心の病を持つ人について嘲笑するのは全く非倫理的だ。アショックの無神経さにムカムカと腹が立ってきたが、電話機があるはずの三階の部屋にやっと到着して我に返った。

部屋に入って気づいた最初のことは、壁面の約二メートルの高さに長方形の金属扉があることだった。スイッチボックスの扉にしては大げさな感じだった。

それはガラス窓と造り付けの小机だけがある小部屋で椅子もない。机の上には黒い電話機が置かれていた。それは子供の時に家にあったのと同じ回転ダイヤル式の電話機で、一九九○年代にタイムスリップしたような気持になった。

――奇妙だ。

不思議な感覚だった。ヴィンセント病院には時間が流れているのだろうか……。

震える指で妻の携帯電話の番号をひとつずつダイヤルした。アショックは小部屋から出て行ってドアを閉めた。アショックがプライバシーを気遣ってくれたことには意外な気がした。ダイアルし終えて応答があるまでの時間が長く感じられた。ディンプルの少しハスキーで魅力的な声が聞えた時、私は救われた気持ちになった。

「もしもし、どなたですか?」

「僕だよ、レイだよ!」

「あなたなのね? どこから電話してるの?」

私は今日の苦労の一部始終を妻にぶちまけた。ディンプルは私たちの親友のサンジャイと一緒にショッピングモールにいるようだった。

「ヴィンセント病院はNH4から分岐した道路の近くにあるはずだよ。正確な場所はネットで調べてみて。大きな菩提樹が目印だ。出来るだけ早く来てね!」

「パニックにならないで! NH4ならよく分かっているから簡単にたどり着けると思うわ」

「NH4からどこでどう側道に入ったのか、自分でも分からないんだけど、分岐してからかなり走ったみたいなんだ。殆ど人気のない場所に来ちゃったから」

「悪い子ね、一人でそんなに遠くまで行くなんて」
ディンプルは子供に説教するような口調で私に言った。

「サンジャイと私がそこにたどり着くまでには、多分一時間半ぐらいかかりそうね。交通渋滞がひどければ二時間かかるかも」

「ごめんね……」

「まあ、いいわよ。ええと、病院の名前をもう一度言って」

「ヴィンセントだよ。ヴィンセント病院」

「ヴィンセント病院? 聞かない名前ね。ねえ、サンジャイ、ヴィンセント病院って知ってる?」

サンジャイの声は受話器には聞こえなかったが、ヴィンセント病院という名前は知らないようだ。

「すぐに出発するから心配しないで待っていて。途中で知り合いのメカニックを拾って行くとサンジャイが言ってる」

「本当にごめんね。二人に迷惑をかけて」
と言って電話を切った。

ディンプルの優しい声を聞けただけで幸せだった。妻と私の二人だけなら途方に暮れていたかもしれないが、サンジャイが居るから何とかしてくれる。本当に頼りになる最高の男だ。

妻に電話で助けを求めるという最重要課題を終えてひと息ついた。後はロビーまで下りて行って妻とサンジャイの到着を待つだけだ。知り合いのメカニックを拾ってくると言っていたから、きっと愛車のアルトに乗って家に帰れるだろう。

小部屋のドアを開けるとアショックが心配そうな表情で立っていた。

「お友達に電話は通じたかい、レイチェル?」

――はあ? レイチェルだって?

アショックは今私をレイチェルと呼んだ。若々しく、男らしくてスポーティーなこの私を、女の名前で呼ぶとはどういうつもりだろうか? 私はスリムだが身長もあり、女性を連想させるところはひとつもない。

不愉快だと一瞬思ったが、真面目な顔をして性別絡みの冗談を突然言い出したアショックを見ていると、可笑しさが急にこみ上げてきた。

「アハハハ。事務長さんって、相当パンチのあるユーモア・センスがあるんですね!」

アショックは笑わなかった。それどころか、真剣で打ち沈んだ感じの心配顔になった。アショックの表情を見ていると、私が一人で笑うわけにはいかないという気がした。

気まずい沈黙の後でアショックが口を開いた。

「レイチェル、薬は時間通りにちゃんと飲んだのか?」


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新作「過去からの呪文」を出版しました(日英TS文庫)


桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の新作「「過去からの呪文」は3月11日に出版した英語小説 “Voices from the Past”の日本語翻訳版です。主人公のピーター・ライトはロンドンに住む21才の若者です。大学を卒業したばかりですが、シェイクスピア・シアターに演劇を見に行った時に、隣に立っていた同年代の女性リビーと知り合い、意気投合して結婚します。新婚旅行先を決めるにあたって、ピーターの頭に浮かんだのはインドのコルカタでした。ピーターは両親の仕事のせいで8才から10才までの2年間コルカタに住んでいたことがあるのですが、そのころの記憶は殆どありませんでした。コルカタに行くと二人はカーリー寺院というガンジス河畔の有名な寺院に観光に行きます。カーリー寺院で瞑想をしている時、地底から湧き出るような声がピーターに聞こえ、寺院を出てガンジス河畔に向かうよう命令されます。言う通りにしなければリビーを殺すとその声に脅迫されます。ガンジス河畔で沐浴している人たちの横を通り、ユーカリやハイビスカスの木立の中に足を踏み入れると、その声はピーターに驚くべき命令を下します。ピーターの人生は思いもよらない形で翻弄されることになっていきます。


Title: Voices from the Past
Author: Yu Sakurazawa
これはYu Sakurazawaの69冊目の英語小説です。

これまでの三作と違い、過去からの呪文は原作をかなり忠実に翻訳した小説です。(結婚式に関するくだりで原文には無い数小節が挿入されていますが……。)原文はかなり濃くて切迫感のある英語で、それを膨らませずに日本語にしたので、日本語小説としては短めです。

桜沢ゆうの小説の価格設定は:
長編(約10万文字~)980円
長編に満たないもの(概ね5~9万文字)590円
英語小説 US$3.99

「過去からの呪文」は37000文字で、390円に設定しました。

Yu Sakurazawaの英語小説は直訳して日本語化すると4万文字前後になるものが多いです。まだ日本語にしていない英語小説が65作品あり、将来日英TS文庫のレーベルで出版する本には390円の設定になるものが増える可能性があります。



過去からの呪文

第一章 ハネムーン

初めてリビー・ブラウンと会ったのはロメオとジュリエットを観るためにグローブ座に行った時のことだった。私は大学を卒業したばかりで彼女はおらず、一人でテムズ川の南岸の劇場に行った。一番安い立見席の平土間でロメオとジュリエットを観劇した。

二人の薄幸な恋人たちの描写が琴線に触れて、私は周囲の人には構わず、涙があふれ、すすり泣いた。たまたま隣に立っていた背の高い女性が私をバカにしたように見下ろして、いかにも無慈悲な様子でせせら笑った。

「男が人前でワンワン泣くとは女々しいわね」
とリビーが言った。
「まあ、あなたのフェミニンな側面がつい前に出たんでしょうけど……。あなたみたいに感情的な男性は初めて見たわ」
と、リビーは忍び笑いした。

「人それぞれだから、放っといてくれよ」
初対面の相手に対してあまりの言い方だと腹が立ったので、私は少し意地悪な言葉を返した。
「僕もこんなに心を打たれる劇を見て涙ひとつ流さない女性を見たのは初めてだよ」

「私の男性的な側面が出たということでしょうね。私を強くて精神的に独立した、そして感情的ではない女性に育てるということが私の両親のモットーだったから」

あっけらかんとした言い方だったので、彼女に対して感じていた反感が消えた。
「じゃあ、僕たち二人がカップルになったら丁度いいんじゃないの?」
と軽い気持ちで冗談を言った。

劇場を出てから一緒にそのあたりをブラブラして、コーヒーショップに入った。

リビーは背が高くてしっかりとした骨格のブロンド美人だった。大らかな感じで、くったくなく笑う女性だった。一方、私は黒い髪で、身長は百六十八センチとイギリス人男性としては小柄な方で、骨格は小作りと、リビーとは正反対だった。でも二人には共通点があった。二人とも二十一才と若く、大学を卒業したばかりで、自分たちをどんな人生が待ち受けているのだろうかとワクワクしているということだった。

何週間かデートを重ねて、リビーと私は結婚した。二人とも家族はあまり結婚には乗り気でなかった。私たちの家族からすると、そんなに若くして特定の相手につなぎ止められてしまっていいのかということと、まだお互いを十分知らないのではないかという心配が先に立ったようだ。でも、リビーと私は結婚して幸せそのものだった。今後の人生を一緒に生きていくという判断をするために十分なほど長く付き合ったと考えていた。

少なくとも私はそう思っていた。

新婚旅行をどこにするかという話になって、リビーは私にまかせると言い出した。

「ピートは誠実な気持ちでこの私を妻にしてくれたんだから、家の中では主人として立ててあげる」
とリビーが言い出したので少し当惑した。

「気持ちはありがたいけど、僕としては主人になりたいわけじゃなくて、対等の関係を築きたいんだ」

「とにかく、どこに新婚旅行に行くかはあなたが決めてちょうだい」

それはある意味で親切な申し出であり、リビーは非常に寛大だと思った。私はどこに行くのがいいだろうかと頭を巡らせた。とある外国の光景が頭に浮かんできた。巨大なカンチレバー橋、ドラムを打ち鳴らす音、ホラ貝を高らかに吹き鳴らす音、マスタード・オイルで調理した魚の芳香……。私はきらびやかな豊饒の地を想像したが、そこには暗くて恐ろしい何かが流れているような気もした。

その地がコルカタであると認識するまでに時間はかからなかった。インドの西ベンガル州の州都で、以前はカルカッタと呼ばれていた大都市だ。

私の両親は旅が好きで、若い頃には色々な国に住んでいた。インドには私が八才から十才までの二年間住み、コルカタで英語を教えて生計を立てていたそうだ。インドの次はタイにしばらく住んでいた。

当時の私はあまりのカルチャーショックやコルカタのきらびやかな光景と音に圧倒されたのか、不思議なことにその時期の記憶が殆ど無い。家で両親から教育を受けていたのか、現地の学校に通っていたのかさえ覚えておらず、友達が居たのかどうか、両親が近所づきあいをしていたのかどうかについても記憶が無い。八才から十才という年令なら詳しく覚えているのが普通だと思うのだが、その部分の記憶が完全に欠落しているのは不可解なことだった。

私の心に残るコルカタの印象は「美しい町」だったが、その表面的な栄光の下に横たわる得体のしれない悪意というべきものがうっすらと記憶に残っている。しかしその悪意が何だったのかは私には分からなかった。それでも私は是非あのカリスマチックな町に行きたいという強い願望を抑えられなかった。まるで超自然的な力が私を妻と一緒にそのガンジス河畔の町へと誘っている気がした。

「コルカタにしよう。君と一緒にコルカタに行ってロマンチックな時を過ごしたいんだ」

「かなり変わった選択ね」
とリビーは好奇の目で私の顔をのぞき込みながらコメントした。
「エキゾチックな趣向が強い人だとは分かっていたけど、インドを選ぶとはちょっとびっくりしちゃった」

「ゴメン。それほど君をがっかりさせるとは思わなかったんだ。勿論ほかの場所でも良いんだよ。例えばもっと平凡なところで、パリとか」

「いやよ、パリなんて! 陳腐すぎるわ。新婚旅行というと誰でもパリに行こうとするもの。喜んでインドに行くわ。すごくいい雰囲気の国だと聞いているし」

リビーがインドに行くことを意外にあっさりと了承したので拍子抜けした。

「インド全体が同じだみたいな言い方は間違ってるよ。一見同じように見えても地方によって全く異なるんだから」

リビーと私は九十日間有効の観光ビザを取得し、一ヶ月間の新婚旅行の予定を組んでコルカタ行きのフライトに乗った。コルカタ国際空港、通称ダムダム空港に到着し、タクシーでエスプレナード地区にあるホテルに向かった。エスプレナード地区はコルカタ市の中心部に位置し、どの観光スポットに行くのにも便利な場所だ。

到着した日にレンタカーでコルカタ市を一巡りして、観光スポットの豊富さと、豊かな光景と音に改めて感銘を受けた。ロンドンは華麗な大都会だが保守的な不毛さとでも言うべきものがあり、それに対してコルカタの官能的な肥沃さは好対照だと感じた。コルカタは豊富な文化、文学、宗教、芸術的な趣で満ちており、何かにつけて私の感覚が動揺させられる気がした。

しかし、この美しい大都会の奥底に私にとって意味のある暗い秘密が隠されているという気持ちがぬぐいきれなかった。

そんなことを考えるのはコルカタの暑さと旅の疲れのせいだと自分に言い聞かせた。ホテルの部屋に入るとリビーと私は交代してシャワーを浴び、ルームサービスで食事を注文した。しばらく休憩した後、リビーは旅行の日程表を眺めていた。

「コルカタは色んな場所を折衷したような町なのね。どこから手をつけたらいいのかさっぱりアイデアが浮かばないわ。ピート、どこに行くかはあなたが決めてちょうだい」

「またかよ……。僕は深刻な決断不能症の女性と結婚してしまったみたいだね」
私は怒ったふりをして唸った。

「その通りよ。私があなたと結婚したのは人生の決断を全部任せられる人を見つけたからだもの」

「はいはい、分かりました。でも、あきれたね。じゃあ、旅程に書いてある行き先を一つ一つ読み上げてみて」

「いいわよ。ヴィクトリア・メモリアル、インド博物館、科学博物館、ファイン・アーツ美術館……」

「美術館や博物館ならイギリスに腐るほどあって、僕は飽き飽きしてる。もっとインドならではのユニークな場所に行こう。例えば宗教的な名所とか」

「じゃあダクシネーシュワルのカーリー寺院はどうかな? インドで最も聖なる川と言われるガンジス川を近くで見られると書いてあるわ」

「それはグッド・チョイスだ。明日、朝食を終えたら出発しよう」


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