新作「忘れな草」を出版しました(日英TS文庫)

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の新作「「忘れな草」はTSロマンス・サスペンス小説です。

舞台はロンドンの下町。小学校6年で両親を交通事故で失い、親戚をたらい回しにされたあげくホームレス同然の状況で中学を卒業した少年ノアが主人公です。ノアは16才の時に「忘れな草」というセレモニー専門の参列者派遣会社に就職し、従業員寮でベッドと温かい食事が毎日得られる環境を手に入れます。部屋は先輩従業員との同室ですが、家族のような愛に満ちた毎日を過ごします。

就職して2年目のある日、ロンドン近郊のサリー・カウンティーにある古城のような邸宅で行われる18才の少女アビゲイルの葬儀に参列することになります。魂の奥底まで揺さぶられた葬儀の後で、ノアは予期しなかった事態に遭遇することになるのでした。

***

「忘れな草(副題:モーニングサービス)」は2018年2月14日に出版された以下の英語小説の日本語版です。

Title: Abigail Resurrected
Subtitle: The Professional Mourners
Author: Yu Sakurazawa

Yu Sakurazawaは桜沢ゆうが英語の小説を出版する際のペンネームで、Abigail Resurrectedは彼女の68冊目の英語作品です。

原題を直訳すると「蘇生したアビゲイル」あるいは「アビゲイルの復活」になると思いますが、それではSF小説だと誤解されそうなので、原作の副題「プロのモーナー」の会社名である「忘れな草」を日本語版の題にしました。忘れな草(英語ではForget-Me-Not)の2つの花言葉「私を忘れないで」と「真実の愛」はこの小説のテーマと合致しています。

桜沢ゆうの作品で英語版と日本語版の両方が存在するのは「忘れな草」が3作目です。

第1作目は「第三の性への誘惑」(英語作品名:Enchanted into the 3rd Gender)です。
第2作目は「性転の秘湯」(英語作品名:A Slippery Slope in a Hotspring)です。

今後、それ以外の65作品の中で日本語化が適したストーリーの作品について日本語版の制作を行い「日英TS文庫」というレーベルで出版する予定です。



忘れな草

(副題:モーニングサービス)

桜沢ゆう

 

第一章 風変わりな職業

私の職業はモーニングサービスだ。といっても喫茶店とは何の関係も無い。喪服のことをモーニングと言うが、あのモーニングだ。葬儀屋ではなく、葬儀参列者の派遣業者と言えば分かりやすいだろうか。

世の中には孤独な人が大勢いる。親類が殆どいない人、親類がいても付き合いが全くない人、人と付き合うのが嫌いな人、一年中家に引きこもっていて近所の住人から認識すらされていない人……。事情はさまざまだ。そんな人が亡くなって葬式を行う時、声をかけるべき人がおらず、喪主以外は数人の参列者しかいないという寂しすぎる葬式になる場合がある。

そんな場合、喪主にそこそこの経済力があれば、私たちに声をかけることによって問題を解決することができる。喪主が自分で参列者のバイトを雇うとか、素性のわからない業者をネットで探して申し込むことはお勧めできない。私たちプロのモーナー”Professional Mourners”と単なるバイトではレベルが全く違うからだ。本当に故人を見送るために来た少数の友人や身内は、雇われた参列者を見抜けるだけの眼力を持っているものだ。安易な数合わせをしたために葬式が白々しいものになるのでは意味がない。

私の勤め先は「忘れな草」というモーニングサービス専門の派遣会社だ。私がこの会社に就職してからもう二年が経とうとしている。

***

二年前、私はまだ十六才になったばかりの少年だった。ロンドンの下町をあてもなく歩いていて、商業地区が住宅地区に変わる境い目の地域に昼過ぎに通りかかった際、”Forget-Me-Not”(忘れな草)と書かれた色彩感の無い看板が目に入った。それが茎の先に青い小さな花の集合体を咲かせる植物の名前であり、その名前自体が花言葉であることを私は知っていた。

――忘れな草とは、いったい何屋さんなのだろう……。

玄関のドアの横の「社員募集中。年令・学歴不問」と書かれた貼り紙を見て私は立ち止まった。年令も学歴も不問の就職口、それは当時の私にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。

ドアを開けて中に入ると、そこは建物の清楚な外観とは不似合いな空間だった。縁なしのめがねをかけた顎髭ぼうぼうの五十代の男性が奥に座っていて、私を見るとデスクの前の椅子を指さして「どうぞ」といった。

「あのう、年令と学歴が不問の社員募集って本当ですか?」

「君の名前は?」

「ノア・エドワーズです。ノアと呼んでください」

「ノア、私は忘れな草の社長のレオ・ハリスだ。履歴書は持ってきたかね?」

「履歴書? あ、すみません。書き方が分からなくて……」

「まあいいだろう。じゃあ、住所、氏名、年令と略歴を話してくれ。それから家族関係についてもね」

私は何度かその種の質問を受けたことがあった。両親が居ないと言うと同情が得られることは分かっていたし、明確な住所を言えないと相手が「引く」ことも知っていた。でも、ハリス社長にじっと見られながら話していると、ウソを言ってはいけないという気持ちになり、ホームレス同然であることを含めありのままを包み隠さず話した。

「君がこれまで大変な人生を送ってきたことはよくわかった。君の小ぶりで青白い顔から判断すると、その気になれば涙を一粒や二粒流すのは造作なさそうだね」

「涙を流すってことですか? それ、仕事と関係あります?」

「君は『泣き女』という言葉を聞いたことがあるかい?」

「ああ、葬式で泣くフリをするジプシーの女の人のことですね」

「忘れな草は葬儀の参列者を派遣する会社だ。イギリス人らしい外観の若い白人の男女を派遣できるというのがセールスポイントだ。ちょうど君のような小柄で細身の憂い顔の少年を補充したいと思っていたところだった」

「十六才ですから少年と言うのもおこがましいですが……。でも、雇って頂けるんですか?」

「採用だ!」

「ヤッター!」

ハリス社長が「大変な人生」と評したのは的外れではなかった。貧しさという点においては誰にも負けない人生だった。子供の目から見て明らかにろくでなしの代表だと分かる父親と、アル中の母親の子供として生まれたのは不運としか言いようがない。親が定職についていたかどうかはよく分からないが、私はずっとお腹をすかせていたし、しょっちゅう電気が切られて真っ暗な夜を過ごした。

そんな親でも亡くすことがどんなに悲しいものか、十二才の時に二人そろって交通事故で逝ってしまうまでは思いもしなかった。それから私は親戚をたらい回しにされたが、厄介者扱いをされて家出を繰り返し、そのうちに誰も迎えに来なくなって、ホームレス同然の状況で中学を「一応」卒業した。気候が良い時には公園で寝たり、寒くなると駅のベンチで寝ることも多かった。

「但し、不潔な身なりでクサいにおいをバラまかれるのは困る。すぐ風呂に入って頭のてっぺんからつま先まで、石けんで三回以上洗いなさい。衣服は支給する」

事務所の奥にあるシャワールームに連れて行かれて、身体を洗うように言われた。一時間以上かけて何度もシャンプーをしたり、タオルに石けんをつけて身体中をゴシゴシ洗った。足の親指と人差し指の間をこすっても白いタオルが汚れなくなったのは、五回目に洗った時だった。

生まれて以来これほど清潔になったことはなかった。「石けんの臭いがする女の子」という表現を聞いたことがあったが、私もシャワールームを出た時には自分の身体から石けんのにおいがしていた。

「ハリス社長、シャワーが終わりました」
と大声で呼びかけると、社長が下着と糊のきいたカッターシャツとズボンを持って来てくれた。

「うわあ、真っ白でパリパリですね!」

僕は巨大なパンツに足を通し、指先よりも長いアンダーシャツを三回折りして着た。大きすぎるが、信じられないほど清潔で気持ちが良かった。カッターシャツはアンダーシャツより更に袖が長く、裾は膝まであった。

「大きすぎるな。というより、君が小さすぎると言うべきか……」

「あ、袖を折り返せば大丈夫ですから、お気になさらずに」

「気にするなと言われても、そんな恰好をしてうろうろされたら会社が評判を落とすんだよ。子供服はここには置いてないからなあ……。仕方ないからこれでも着るか」

社長が廊下の横の引き戸の中から取り出したのは女物の喪服が掛かったハンガーだった。

「じょ、じょ、冗談じゃない! 僕、絶対にイヤですから!」

「君ならヒゲも無いし、この喪服を着て帽子を深めにかぶれば、誰が見ても葬式帰りの女性に見えるよ」

「お断りします! 女装させられるぐらいならホームレスの方がマシです。僕の服を返してください」

「クサくて虫が棲みついていそうな服だったから火箸でゴミ袋に入れて外に出したよ。さっき収集車の音が聞こえたから、もう外にも無いはずだ」

「そんなのヒドすぎます! 僕、死んでもスカートははきませんからね!」

「困ったなあ、宿舎に行けば先月辞めたショーンの服があるんだが……」

「じゃあ宿舎まで、この服を貸してください。ズボンの裾を折り返してピンで留めたら何とかなると思いますから」

「いいだろう。服にはちゃんとアイロンをかけて返してくれよ」
私はほっと胸をなでおろした。

午後五時半に閉店するとハリス社長は僕を徒歩十五分ほどの距離にある赤煉瓦壁の四階建てのアパートに連れて行った。グラウンド・フロアの右奥の〇一七号室のドアを開けて、ハリス社長が「ハイジは居るか?」と叫んだ。

居間に面する左側のドアが開いて、栗色のロングヘアをパール付きのヘアゴムで束ねた二十代後半の大柄な女性が出てきた。

「ハイジ、この子が明日からうちで働くことになった。ベッドを割り振ってやってくれ」

「ええと、男の子、じゃないですよね?」
とハイジは僕を観察しながら聞いた。男物の服を着ている男子を見て何ということを言うのだろうと腹が立つと同時に恥ずかしくなって赤面した。

「いや、この子はノアという名前の男だ」

「デニスの部屋にベッドが空いてますからデニスと同室にさせますか? それともショーンの代わりに私の部屋に置いてもいいですけど」

「そうだな……悪いが君の部屋で面倒を見てくれないか?」

――まさか、男部屋が空いているのに女性と同室だなんて……。

「事務所でシャワーを浴びさせたが、着ていた服があまりにもクサかったから捨てさせて、私の喪服を着せて連れてきたんだ。ショーンの服は捨ててないよね?」

「置いてありますよ。この子ならちょうど合いそうですね」

「じゃあ、頼んだよ」
と言うとハリス社長はどこかに行ってしまった。

ハイジの後を追って部屋に入った。左右にクローゼットとベッドがあり、突き当たりの窓際にデスクが並んでいる。ドアの右手に洗面所への入り口らしいものがある。

「このジャージーに着替えなさい」
ハイジは引き出しからピンク色のジャージーの上下を出して僕に渡した。

「え、これ女物では……」

「子供用だから男も女もないわよ。ノアは何年生?」

「もう中学は卒業しましたよ。先月十六才になりました」

「へぇーっ! 小六ぐらいかと思ったわ。ショーンが小六だったから」

「ショーンって先月辞めた従業員のことだと思っていましたけど、子供だったんですか? ハイジさんの親類か何か?」

「ハリス社長の知り合いの夫婦が事故で亡くなって、その子供のショーンをしばらく預かってたのよ。お葬式の参列者として小五から中三ぐらいの少年が一人いると重宝するのよね。死んだお母さんの従姉妹夫婦がアメリカに住んでいることが分かって、ショーンは先月アメリカに引き取られて行ったわ。その夫婦は金持ちらしくて、ショーンは衣類を殆ど置いていったのよ」

小学生の時に両親を事故で亡くしたところまでは私と同じだが、私の親には金持ちの従姉妹の代わりに貧乏な兄弟と意地悪な奥さんがいるだけだった。同じ孤児でも大違いだ……。

「僕は小学生が着ていた服を着せられるんですか……。これでも大人の男なんですけど」

「自分に与えられた役を演じるのがプロのモーナーよ。小学生でも、中学生でも、高校生の役でも演じなきゃなきゃならない。場合によっては若い女性の役もね」

「女性の役はイヤです! ハリス社長にもはっきり言いましたけど、死んでも女装はお断りしますから」

「アハハハ。そんなにムキになられると、却ってやらせたくなるわ。ノアじゃなくてノラという名前でみんなに紹介しようかな。そのジャージーのズボンの代わりにスカートを出してあげるから待っていなさい、ノラちゃん」

僕は既に喪服のズボンを脱いで膝丈のカッターシャツ姿になっていたが、そのままこのアパートから逃げだそうかなと本気で思った。

「冗談よ、冗談。ショーンにも一度も女装はさせたことがないから安心しなさい。私が言いたかったのは、参列者としてどんな役でも演じられるように努力しろということ」

「分かりました。ああよかった……」

「でも、毎日私の言うことをちゃんと聞かないと、女役へのコンバートを社長に進言したくなるかも」
とハイジがにやっと笑って言った。

ジャージーに着替えるとグーッとお腹が鳴った。

「もうすぐ七時ね。食堂に行くわよ」

寝る場所が確保できていて、ご飯も食べられる。今日「忘れな草」の看板が目にとまらなければ今夜も公園で汚い毛布にくるまってひもじい思いをしていただろう。私は神様に感謝した。

食堂はキッチンの横の小さな部屋で、六人の若い男女がカウンターの前に列を作っていた。十七、八才と思われる女性が一人、二十代の女性が二人と、二十才から三十才ぐらいの男性が三人だった。

「みなさん、新メンバーのノアを紹介させて」

「ノア・エドワーズ、十六才です。よろしくお願いします」

「ショーンの代わりよ。私と同室」
と言って、ハイジは一人一人に紹介してくれた。

大きなスープ皿に入った料理をカウンターで受け取り、テーブルに持って行ってハイジの横に座った。

テーブルの真ん中にはパンが山積みになった大きなかごが置かれていた。それは私にとって夢のような光景だった。

「今日はボルドー風のシチューね。シチューと言うよりはスープに近いけど」

大きなジャガイモ、ニンジンとオニオン、それに豚肉の塊がたっぷりと入っている。ニンニクの匂いがして、私は唾をゴクンと飲み込んだ。ハイジが手を組んで祈る仕草をするのを真似してから、ハイジが料理を口にするのを待って豚肉を口に運んだ。

――なんておいしいんだ、ここはパラダイスだ! 教会の炊き出しで、こんな感じのスープは何度も食べたが、しょっぱくて肉はまばらだった。

「ここでは毎日こんなにおいしいご飯を食べさせてもらえるんですか?」
と聞くとハイジはにっこりと微笑んで「ノアって思ったより行儀がよくて素直でいい子ね」と言った。

対面には、私と年が近そうなキャサリンと、二十代半ばのシンクレアという憂い顔の美人が座っていたが、キャサリンが微笑みながら僕に話しかけた。

「ハイジさんがブロンドのショートヘアの女の子を連れてきたと思っていたのに、胸が無いからどっちだろうかと迷っていたのよ。小さいけど私と一才しか違わないのね」

「小さいって……僕は百六十二センチあるんですよ」

「イギリス人の女性の平均は百六十二だから平均並みね。私は百六十八よ。ハイジさんは百八十二」
キャサリンが私を大人の男性のカテゴリーに含めていないのは明らかだった。

「ここで私の身長を言う必要があるのかなあ?」
とハイジがキャサリンをにらみつけ、四人で笑った。

「キャサリンの弟みたいにしてお葬式に行けばいい感じになりそうね」

「ショーンが居なくなって困っていたから、ちょうどよかったわ」

「僕、頑張ります!」

女性はもう一人クリスティンというきれいな人がいたが、隣のテーブルで三人の男性と談笑していた。その四人は私には全く興味が無いようだったが、私が普段人気の多い場所で慣れっこになっていた敵意や蔑視というものは全く感じなかった。

食事が終わると各々が自分の食器をキッチンのシンクまで運んだ。キッチンには私の死んだ母より少し年上と思われる太った女性が立っていて、私の頭を撫でて「男の子だったのね」と言った。後でハイジから聞いたところによると、そのジョーゼフィンという女性と夫のデイヴィッドが、グラウンド・フロアの従業員寮のまかないと、このアパートの三階にあるハリス社長宅の雑務をしているとのことだった。

ハイジと一緒に部屋に戻った。私はベッドの縁に腰を掛け、ハイジは窓際のデスクの前に座ってお化粧を落とし始めた。

「私が先にシャワーを浴びるわね。ノアは私の後でシャワーを使ったら、髪の毛や汚れが残っていないように掃除するのよ。私は不潔なのが大嫌いだから」

「はい、分かりました」
と私は上司に対する口調で答えた。

ハイジは化粧落としを終えて立ち上がるとベッドの縁に腰掛けてセーターを脱ぎ、ブラウスのボタンを外し始めた。私の目の前、数十センチの距離で女性が服を脱ごうとしている。三年半前に母を失ってから私は女性の下着姿を見たことがなかったので慌てた。お辞儀するような姿勢で真下を向いて目を閉じた。

「いいわよ、気にしなくても。同じ部屋で暮らすんだから、お互いの裸を見ることに慣れないとやっていけないわ」

「でも、異性ですから……」

「バカねえ。私にとってノアは一回り年下の弟というか親子みたいなものよ。ノアに裸を見られても何とも思わないし、ノアのオチンチンを見ても襲おうと思ったりしないから心配しなくていいわよ。さあ、目を開けて前を見なさい」

目を上げるとハイジのおへそがすぐ前に会った。ハイジは全裸だった。

「私は暴力で無理やり言うことを聞かせるタイプの人間じゃないから安心して」
とハイジは穏やかな表情で私を見下ろして言うと、シャワールームへと歩いて行った。

中学二年の時に同級生からオナニーの仕方を教えられてから、自分は大人の男になったと自覚していた。まだ実際にセックスをしたことはないが、大人の男と大人の女が同じ部屋で服を脱いだらどうなるかは理解しているつもりだった。男が女にのしかかって事を成すというイメージが頭の中にあった。

ついさっきまで、見上げるほど大きくて強そうな女性を目の前にして、自分はいったいどのように振舞えば良いのか想像できずに戸惑っていた。ハイジに完全に子ども扱いされたお陰で、私はそんな気苦労から解放された気がした。

***

翌朝、朝食が終わると、私は白いカッターシャツと黒の上下に着替えた。ショーンはかなり体格のいい小学生だったことが判明した。ショーンが残して行った服の肩幅や首周りはちょうどよかったが、袖とズボンの裾は私には少し長めだった。

「まあ、このままでも着られないことは無いわね。今日はこのまま出かけるからズボンの裾を汚さないように注意して歩きなさい。裾を二センチ上げるよう、後でジョーゼフィンに頼んであげる」

ハイジは膝をかがめて私の前に立ち、黒のネクタイを結んでくれた。ネクタイをするのは生まれて初めてだった。

タイトなツーピーススーツを着てヴェールの付いた小さな帽子を頭に乗せたハイジはとても気品があった。私はこんな美しい女性と同じ部屋で生活しているのだと思うと鼓動が高まった。

「さあ、食堂でブリーフィングが始まるわよ」

「ブリーフィング?」

「ハリス社長から今日の仕事について説明と指示を受けるためのミーティングよ。棺桶の中に眠っているのがどんな人かを分かっていないと、お葬式でどう振舞うべきなのかが分からないし、もし他の参列者から話しかけられた時に自然な受け答えができないでしょう? そのための準備会議なのよ」

「へぇーっ、そこまでやるんですね」
私は感心しながらハイジと一緒に食堂に行った。

既に食堂には十人以上が集まっており、昨夜の夕食の時は見かけなかった人も何人かいた。黒いレースのドレスを着た小学校高学年から中学生と思われる美しい少女が母親と並んで立っていた。

「自宅から通っている社員もいるんですか?」
と聞くとハイジは頷いた。

間もなくハリス社長が入ってきて、A4の印刷物を全員に配った。

「皆さん、おはよう。今日のブリーフィングを始める前に忘れな草の新しいメンバーを紹介しておく。ノア・エドワーズ君だ。ショーンの後任として、小学校高学年から中学生の少年の役回りを中心にやってもらうことになる」

「あのう、僕の年令は……」
私が義務教育を終えた十六才であることは、昨夜の夕食に来ていなかった人に伝えておかないと子供扱いされる恐れがあると思い、手を挙げて発言しようとした。

「ノア、与えられた役割をプロの役者として演じるのが君の仕事だ。十三才の少年の役を与えられたら、例え君が十八才の女性だとしてもそんなことは関係ない。私が指示した通りに演じてもらう」

叱責口調で言われて「はい、すみませんでした」と謝った。黒のレースのドレスの少女が目を丸くして私を見つめているのに気づいた。社長が変な言い方をしたから、あの少女は私が十八才の女性だと勘違いしたのかもしれないと思い、恥ずかしさがこみ上げてきた。

ハイジが笑いを押し殺した表情で私を見下ろしながら、そっと肩を叩いて慰めてくれた。

「今日の仕事は二件だ。一件目は先週土曜日に亡くなった六十七才のオースティン・ベネットだ。略歴は配布したメモの通りだが、ミスター・ベネットはロンドンに引っ越す前の十数年間レディングの中学校で校長をしていたことになっている。君たちは尊敬する恩師の訃報を聞いてレディングからバスを仕立ててやってきた元生徒たちという想定だ。各自の卒業年次と役割はそこに書いた通りだ。このメモは一昨日作成したからノアの名前は書いてないが、ノアはソフィアの同級生の男子中学生の役割を演じてくれ」

ソフィアとはあの少女のことに違いない。中学生の役とはいえ、きれいな少女の同級生を演じられるというのは朗報だ。もし彼女が私について誤解しているとすれば早くその誤解を解かねば……。

「二件目の仕事は八十八才のシャーロット・サマーズの墓地での埋葬に立ち会うだけだ。シャーロットは七年前に娘夫婦がスコットランドに引っ越して以来、老人ホームに住んでいた。今日確実に埋葬に来るのは老人ホームのスタッフ二名とその娘さんだけだ。そのメモの通り参列するだけの仕事だが、心を込めてシャーロットを見送って欲しい・ブリーフィングは以上だ。マイクロバスは十分後に発車する」
と言ってハリス社長は出て行った。

「ハイジさん、質問していいですか?」

「その通りよ、ソフィアというのはあのかわいい子のことよ」
とハイジは勝手に僕の質問を想像して答えた。

「ブブーッ、ハズレです。質問はレディングのことです。レディングで最近まで十何年も住んでいたのなら、レディングからお葬式に来る人も居るはずです。ここに書いてある中学を出た人も居るかもしれませんし、レディングのどの通りに住んでいるのかとか聞かれたら、僕たちがホンモノじゃないことはすぐにバレると思うんですけど……」

「これは私の推測だけど、レディングで校長をしていたという経歴がフェイクなんだと思うわ。ハリス社長の言い回しから察すると、人に言えない場所で十数年過ごした可能性が高い」

「人に言えない場所って、もしかして刑務所とか……」

「それは私たちが詮索すべきことじゃないわ。ハリス社長が賢明かつ安全と考えて書いた脚本に従って、私たちは与えられた役を演じる。それ以外は忘れるのよ。ノアはソフィアにくっついて真似をしていれば大丈夫。もし何か困ったことが起きたら私に相談に来なさい。さあ、部屋に帰ってオシッコをしてからマイクロバスに乗るのよ」

ハイジと一緒に一旦部屋に戻ってからアパートの玄関前に停まっているマイクロバスに乗りに行った。ソフィアのお母さんと思われる女性から手招きされて、ソフィアの横の席に座った。ソフィアは私の胸に目を遣りながら聞いた。

「ノアの本名は何?」

「本名? ノアだけど」

「やっぱり、十八才の女性じゃないわよね。胸が無さすぎるもの……」

「ははぁ、社長があんな言い方をしたから誤解したんだね。僕は十六才の男だ。もう中学は卒業したから、ソフィアよりお兄さんだよ」

「ウフフフ。私は三月に高校を卒業したのよ。服装とメイクで十二才から二十二、三才まではこなせるの。ハリス社長は平日の朝の仕事に十六才未満の子供を雇ったりしないわよ。ショーンがいなくなってからは子供の役をさせられることが多かったけど、ノアが入ったお陰で子役から解放されそうだわ」

「なんだ、年上だったのか……」

「ハリス社長の話からすると、今度中学生の女の子が必要になったらノアに任せられそうだし」

「それは無いよ。昨日の面接の時に、僕は絶対に女装はしませんと宣言してあるから」

「性別とは関係なく与えられた役を演じろと社長に言われて『はい、すみません』と謝っていたくせに」

「それはあの時の雰囲気で……」

「それに、中学生の女の子が必要な仕事の依頼が来た時に、私がどうしても都合がつかないと断ったら、ノアにお鉢が回るわよ、ウフフ」

「頼むから断ったりしないで、お願いだから……」

「私が断らなくても、もし中学女子が二名必要な仕事だったらどうなるかなぁ? まあ仲良くやろうね」

マイクロバスは一時間かけてカンタベリーの教会に到着した。

レディングから恩師をしのんでやってきた十二名の教え子たちは、ハイジに率いられて教会の中に入り、後方の空席の一角に席を取った。最前列に座っている黒のチュールのベールで顔を覆った黒のロングドレスの女性が故人の妻で五十二才のはずだ。その横に座っている二十五才と二十七才の女性が独身の娘たちだろう。確かに見栄っ張りな感じがする。ハリス社長からもらったメモを見れば大体の想像がつく。

「ノア、現場でメモを取り出すのは禁止よ」
ソフィアの母親に耳元で言われたので、私はメモをポケットにしまった。

葬儀の間、私は出来る限り悲しそうな顔をして大人しく座っていたが、ミサが始まると周囲からすすり泣きの声が聞えた。それはすぐ近くから聞こえていた。隣に座っているソフィアを見ると、目から涙があふれていた。

――ウソだろう……。ソフィアは本気で泣いているみたいだ。

チラリと振り返って後ろの列に座っている忘れな草の人たちを見ると、女性は例外なく目に涙をたたえてすすり泣いていた。男性も殆どの人の目が濡れていて、一人はむせび泣いていた。悲しい顔を「繕っている」のは私一人だった。

目薬を手に持っている人は一人もおらず、涙は実際に目から出て来たもののようだった。

社長やハイジがプロのモーナーとか、役者とか言っていたのは、こういうことだったのかと感心した。

ミサが終わり、聖歌を歌いながら自分は中学生で、故ベネット氏は大好きな校長先生なのだと自分に言い聞かせ、ある程度その気持ちになったが、涙を出すことには成功しなかった。

葬儀が終わりに近づき、献花が始まった。私たちレディングからの一行は一般会葬者の大半が献花を終えてから立ち上がった。他の参列者との会話を避けることがボロを出さないためには大事だからだ。献花をしてから故人の奥様にお悔やみを言って退出するのだが、先頭のハイジの演技には度肝を抜かれた。

「私が非行に走らずに中学を卒業できたのはベネット先生のお陰なんです」
百八十二センチのハイジは目を泣きはらして少女のように震える手で奥さんの手を握って告白した。もう周囲には故人の家族しかいなかった。忘れな草にモーニングサービスを申し込んだのは奥さん本人のはずなのに、ハイジはそんなことには構わず教え子として心情を吐露した。ハイジの後に続いた献花者も、どう見てもベネット校長の教え子にしか見えなかった。ソフィアの番になり、すすり泣きながらソフィアが奥さんに行った。

「私たち二人とも校長先生が大好きだったんです」

私はその時、自分はレディングの中学生なのだと本気で感じた。涙が溢れ出て、奥さんに何か気の利いたお悔やみを言おうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。

「ありがとう、あなたたち」
奥さんはソフィアと私の手を改めて強く握って礼を言った。

ソフィアと二人ですすり泣きながら教会の外に出てマイクロバスに乗り込んだ。

マイクロバスがカンタベリーの町から出たころには悲しい気持ちがウソのように消えていた。

「初めてにしては、なかなかやるじゃない」
とソフィアが私の肩を指ではじいた。


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