性転のへきれきシリーズ新作「シングルマザー」

桜沢ゆうの性転のへきれきシリーズ新作小説「シングルマザー」が出版されました。

主人公は早海陽詩(はやみひなた)という入社二年目のサラリーマンです。陽詩は大手総合商社の営業部門に勤務しています。

課の日常業務を切り回す一般職社員が出産のため休暇を取ることになり、その穴埋めに関連企業のスタッフサービス会社から三十代後半の畑中葉子が派遣されてきます。畑中は元々同じ会社の一般職社員でしたが、数年前に寿退社して出産し、最近離婚したシングルマザーです。畑中は毎朝毎夕、子供を保育所に送り迎えする必要があるため、九時半から四時半という勤務条件で派遣契約しています。

早海陽詩は派遣社員の勤怠管理者に任命され、張り切りるのですが、シングルマザーとはどんなものかということを把握していないため、二人の関係は空回りしてしまいます。畑中が時間通りに勤務できない場合も、早海陽詩は忍耐強く畑中の仕事を手伝うのですが、不満が徐々に鬱積し、畑中に対して本来言ってはならない発言をしてしまいます。

畑中との関係から生じる軋轢により徐々に苦境へと追いやられる主人公を、職場の課長、先輩の香川、後輩の渡部晃子が暖かくサポートしてくれます。人事部も主人公をサポートする姿勢を示してくれます。しかし、会社組織は関係者の個人的な気持ち通りに動くとは限らず、主人公はのっぴきならない立場へと追い込ます。

本作品はシングルマザーの実状をメインテーマとして、主人公と三人の女性の心の機微を描くオフィスものリアル系ロマンスエンターテインメント悲喜劇の長編TS小説です。

シングルマザー

桜沢ゆう

第一章 仕事は一般職が回している 

 梅雨明けを待ち望む朝、僕は会社の席でパソコンに向かっている。

商社マンの朝は忙しい。昨日会社を出てから今朝までに入ったメールを読んで、ひとつひとつ処理することから一日が始まる。日本が寝ている間に欧米は起きているのだから仕方ない。地球は丸いのだ。

「純子さん、デュッセルドルフの永池さんから届いた資料をプリンターに流したので……」
パソコンの画面から目を離さずに、アシスタントの純子に言おうとした。

「いっけねえ。今日から純子さんは産休だった」

右斜め前の席に座っている先輩の香川浩二が僕の方を向いてニヤニヤしている。

「さっき俺も純子にコピーを頼むと言いかけちゃった」

「純子さんが居ないと本当に不便ですね。派遣社員は今日の午後から来るそうですけど、純子さんからの引継ぎ期間なしで大丈夫でしょうか?」

「俺は面識がないけど、四年前にうちの会社を結婚退職した人だそうだ。人事の竹田さんが言ってたけど、すごく優秀だったらしいよ」

「それなら伝票関係の処理に慣れているでしょうから大丈夫ですね。よかった」

商社の基本は受注、発注、出荷、配達、請求、入金などをきちんと管理して情報システムで処理することによって、一般職社員が実務を行っている。総合職社員は新規顧客や仕入れ先の開拓、関係の維持拡大、それに新規ビジネスの開発などの役割を担っているが、契約を締結さえすれば、遊んでいても商売は回っていく。つまり商社の日常業務は実質的に一般職が切り盛りしているのだ。

今日から産休に入った笠原純子はW大学を卒業して一般職として入社した五年目社員だ。永池美保は純子のW大学の同期だが、総合職として入社し、現在はデュッセルドルフ駐在員だ。笠原純子と永池美保は同じ大学の同期なのに著しく異なる人生を送っている。職種が違うから業務が全く異なるのだ。総合職の方が偉いというわけではないが、給料は総合職の方が上で、年齢が上がるほど総合職と一般職の給料差は拡大する。ちなみに僕は笠原純子を「純子さん」と呼ぶが、永池美保は「永池さん」と呼んでいる。

総合職の方が一般職より上ではなく職種が異なるだけというのは建前であり、一般的な夫婦関係と同じく、総合職が「主人」で一般職が「家内」のような立場で仕事をするのが普通だと言える。

総合職の女性比率は徐々に上昇しているが、うちの会社ではまだ二割ほどだ。一方、一般職は全員が女性だ。うちの会社は表向きには男女同権を標榜しているので、一般職の採用に性別制限は設けていない。現実には一般職は女性だけで、一般職の制服はピンクのスカートスーツだ。毎年一人か二人、男子学生が一般職に応募するらしいが、当然不採用になっている。受けをねらって応募しただけかもしれないが、このご時世だからLGBTの人が真面目な気持ちで応募した可能性もないとは言いきれない。。

もし男性の一般職が採用されて、うちの課に配属されたらどうしよう。性的マイノリティーを差別すべきではないが、実際に身長百七十センチでがっしりとした髭剃り跡の青い人がお化粧をしてスカート姿で僕の前に座ったら、気持ち悪いだろうなと思う。特に来客時にお茶を出してもらうことだけは避けたいから、課長に相談して、来客用に缶コーヒーを買いだめするとか、何らかの対策が必要になるだろう。

実際には、男性が一般職に採用された場合は制服は着用せず、総合職男性と同じように背広ネクタイ姿で仕事をすることになるだろう。男性にお茶やコピーを頼むのは気持ち悪くはないが、しっくりこないし、お茶を出してくれてもうれしくない。やはり今後も一般職は女性だけにしてもらいたいものだ。

うちの課は佐藤課長、六年目社員の香川浩二、僕、新入社員の渡部晃子の総合職四名と、一般職の笠原純子の五人体制だ。

十時過ぎに佐藤課長に来客があった。佐藤課長は「第四応接にお茶……」と純子の席の方を向いて言いかけて「おっとっと」と失笑しながら席を立った。

僕は渡部晃子に「お茶を出しに行ったら好感度アップするんじゃない?」と言ってしまった。一般職が不在の際に新入社員がお茶出しを手伝うのは自然なことだという意識があったのだが、これが失敗だった。

「どうして私なんですか? 早海さんが自分でお茶を出しに行って、課長からの好感度を上げればいいじゃないですか」

「僕がお茶を出しに行くのは不自然だろう。課長が気持ち悪がって僕の好感度がダウンするよ」

「何が不自然なんですか? 理由を教えてください」

「お茶は女性が出さなきゃ、お客さんもいやがるよ」

「私は早海さんと同じ総合職で、ちゃんと担当を持って仕事しています」

渡部晃子の主張点は分っている。同じ職種なら性別を理由に仕事に差をつけるべきではないと言いたいのだ。渡部は帰国子女で Keio Academy of New York という現地高校を卒業後、K大に入ったので、入社年度は僕より一年下だが、年令は僕と同じだ。厳密に言うと僕が三月生まれで渡部は九月生まれだから、渡部の方が六カ月年上だ。渡部は何かにつけて僕の自尊心を傷つけるような態度を示す。別に、実年令は自分の方が上だとか、僕の卒業したN大よりも格上だとか、自分の方が背が高いとか、語学力が段違いだとか、言葉に出すわけではなく、僕が勝手にそう思っているだけなのかもしれないが……。

「分かったよ。渡部さんがお茶を出しに行ったら、と言ったのは失言だったから撤回する」

その場はそれで収まり、昼食も課長、香川、渡部、僕の四人で近くのカツ丼専門店に行った。

昼休みが終わる間際に席に戻った。

人事課の三隅課長が三十代半ばの暗い感じの女性を連れて佐藤課長の所に来た。

「派遣社員の畑中葉子さんです。メールでお知らせしたとおり、九時半から四時半まで一般職業務を担当するという契約ですのでよろしくお願いします」

「課長の佐藤です。機械本部に勤務されていた頃の畑中さんの評判は存じていましたよ。うちの課員は若手ぞろいですがご指導よろしくお願いします」
派遣社員に対してどうしてそこまでクソ丁寧なんだろうと不思議だった。

「私の右手に座っているのが六年目の香川浩二です。その向かい側が渡部晃子、新入社員ですがK大卒でTOEIC九百七十点の秀才です。その隣が早海{陽詩|ひなた}、二年目ですが年令的には最年少です。畑中さんは早海君の向かい側の席に座ってください」

佐藤課長から紹介されるたびに僕たちは各々畑中に会釈をした。

「香川君と私は出張が多いので、早海君を畑中さんの勤怠管理者に任命します。うちの人事管理システムのことは頭に入っていると思いますが、畑中さんの承認者は早海君として設定しました」

「はい、承知しました」

「僕が勤怠管理するんですか? 大丈夫かなあ……」

「これもいい経験だから勉強のつもりでやってみろ」

「はあ……」

「そのためには早海君自身がしっかりとした時間管理をする必要があるな。渡部さん、早海君がちゃんとやっているか見張っていてくれ」
こんな冗談が僕を傷つけているということを、課長は分っていない……。

「了解です!」
渡部はこんな時にはノリが良い。だから上司の評価が高いのだ。

畑中葉子は純子の席に座り、引き出しを開けて何冊かのファイルを取り出して、ささっとページをめくっていった。お客さんから電話が入ると、聞いていてさすがと思わせる手際よさで注文を取ったり、伝言を受けたりしている。今朝、香川、渡部、僕がお客さんから受けて出荷を手配した取引のメモを、あっという間にインプットし、プリントアウトされた伝票類をセットして各担当者のデスクに提出してくれた。

「早い海と書いて『はやみ』と読むのは珍しいですね」
伝票に印字された担当者名を見て葉子が言った。

「下の名前の方がもっと珍しいと言われますよ。陽の字と、詩人の詩を組み合わせて陽詩を『ひなた』と読ませるのは稀なようです」

「でもそれ、女の子の名前ですよね」
ズバッと直球で言われたのには面食らった。

「早海さん、商品明細のマスターファイルはどこにありますか?」

突然畑中に聞かれたが、僕は「商品明細のマスターファイル」というものの存在すら知らなかった。

「さあ、僕、純子さんの仕事は把握していなかったので……」

「私の上司なんだから『一般職の仕事は把握していなかった』では困ります。仮に私が急病になったらどうするんですか? 早海さんの責任でしょう?」

右斜め前の席の香川がニヤニヤして僕らを見ている。課長が僕たちの会話を聞いて「畑中さんの言う通りだ」と相槌を打った。

「じゃあ、商品明細のマスターファイルがどこにあるかは、他の課の一般職の人に葉子さんが聞いて、その結果を僕に教えてください。もしもの場合のために僕もファイルのある場所を覚えておきたいから」

畑中は苦虫を噛み潰したような表情で立ち上がり、隣の課の上条真紀に聞きに行った。その結果、商品明細のマスターファイルは隣の課の近くにあるキャビネットの二段目に置いてあることが判明したようだった。

「早海さん、ちょっと来てください」

畑中に呼ばれてそのキャビネットの所に行った。

「ほら、商品明細マスターファイル以外にも、うちの課の業務を処理するために必須なファイルがこのキャビネットに入っていますから、頭に入れておいてください。分かっていないと、もしもの時に困りますよ」

どちらが上司だか分からないような言い方だった。

「それから、さっき私の事を葉子さんと呼びましたけど、まだそんな関係じゃないですから、ちゃんと名字で呼んで頂けます?」

「でも、うちの課では一般職の子は下の名前で呼ぶ習慣なんだけど」

「私は『一般職の子』なんかじゃないので」
不愛想に言って自分の席に戻って行った。

畑中は愛想は最悪だが、仕事の手際は見事だった。客先から電話で注文を受けてから、在庫からの出荷を手配したり、メーカーに発注をする様子は、まるで長年その仕事に携わってきたかのように完璧だった。その注文に関する伝票がセットされて担当者に回るまでの時間は純子の半分以下かもしれない。

四時に来客があって佐藤課長と香川が応接室に向かったが、忙しそうにパソコンに向かって仕事をしていた畑中がさっと立ち上がってお茶を出しに行った。

畑中は四時ニ十分に僕に手書きのメモを渡した。

「私の勤務は四時半までですから、今から十分後に退社します。今日の私の業務でまだ完了していないものをメモしておきましたから、フォローをお願いします」

メモには三項目書いてあった。
・五時に情報システム部に行って、今日のインプットのモニターリストをもらってくる。
・課長と香川さんが席に戻ったら第四応接室のお茶を片付ける。
・在庫からの出荷分の伝票に渡部さんのハンコをもらって、受渡部の三原さんに届ける。

「こんなの明日でもいいんじゃないのかな?」

「早海さんは私の上司としてうちの課の一般職業務の責任を負ってるんですよ。一般職業務は時間との戦いです。その日のうちに片付けるべき基本作業ですから、必ずフォローしてください」

「分かったよ……。でも、僕にお茶を片付けろと言われても……」

「私たちはチームです。いいわね、絶対にやっとくのよ」
最後は命令口調で言ってから「皆さん、お先に失礼します」と言って席を立った。

僕は深いため息をついて、渡部にこぼした。

「ホント、やりにくいよね。多少ドジでもいいから若くて愛想の良い派遣の女の子を雇ってくれたらいいのに」

「畑中さんが来てくれて助かりましたよ。特に在庫からの出荷手配は簡単じゃないから、ちゃんと処理してもらえるかどうか心配だったんです。ドジな人だったら担当者に負担がかかります。その点、畑中さんは完璧だと思います」

「でも、僕にお茶を下げろだなんてヒドくない? 渡部さんも手伝ってくれるよね?」

「早海さんは畑中さんの上司として一般職業務をカバーをする義務があるんだから、自分でやってください」

「冷たいことを言うなよ……」

「はい、この伝票、受渡部の三原さんに届けてきてください」

「まさか、先輩の僕に使い走りをさせるつもりかよ?」

「早海さんが畑中さんに言われた仕事でしょう? もしすぐに届けなかったら、明日畑中さんに言いつけるわよ」

渡部は意地悪そうな笑みを浮かべて僕に言った。仕方なく僕は伝票を受渡部に届けに行った。

受渡部の三原は香川浩二と同期入社の一般職社員で、最初の三年間はうちの課に所属していたが、経理部から異動してきた笠原純子に仕事を引き継いで受渡部に移ったそうだ。三原は「サンキュー」と言って僕から伝票を受け取った。

「畑中さんにこきつかわれることになって、早海君も大変ね。あの人、優秀だけど厳しいから」

「九時半から四時半の勤務なので、僕がとばっちりを食ってしまいました。どうして九時から五時半まで働いてくれないんでしょうね」

「子供さんを保育園に送り迎えするからでしょう。四年前に寿退社したけど、できちゃった婚だったから、三才の子供がいるはずよ。最近離婚したと聞いてるわ」

「そりゃあ旦那もあれほどガンガン言われたら離婚したくなりますよね」

「早海君、滅多なことは言わない方がいいわよ。畑中さんは顔が広いんだから、もし筒抜けになったらどうするの?」

「ひぇーっ。それはご勘弁を。畑中さんは昔は可愛かった面影があるし、賢いから、さぞモテたと思います」

「もう遅いわよ」

自分の席に戻ると、渡部晃子に「ちゃんと届けてくれた?」と聞かれて、つい「はい」と答えてしまった。渡部はにっこりして「ありがとう」と上から目線で僕にお礼を言った。

しばらくすると課長と香川が接客を終えて席に戻った。渡部に「早海さん、お客さんが帰ったわよ」と促された。手伝ってくれる気配は微塵もなかったので、一人で第四応接室に片付けに行った。湯飲み茶わんを給湯室のシンクの中に置いて出て行こうとしたら、部長席の横山と目が合って非難がましくにらまれた。僕はやむなくスポンジに洗剤を付けて茶碗を洗った。

給湯室からの帰り道に、情報システム部に立ち寄り、今日のインプットのモニターリストをピックアップして、渡部の席に置いた。

やっと畑中から押し付けられた用事を終えて自分の席に座ると、どっと疲れが出てきた。慣れないことを、他人から言われてするのは非常にストレスのたまることだと改めて実感した。僕は定刻に会社を出てアパートに帰った。

それは僕の悪夢のほんの始まりに過ぎなかった。


続きを読みたい方はこちらをクリック


 

★ 未発表作品に関する情報はTwitterで発信します! ★

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です