桜沢ゆうの性転のへきれきシリーズ新作小説「一般職にされた男」が出版されました。
TVでは武井咲さん主演のエイジ・ハラスメントの連ドラが終わってしまいました。色々なハラスメントが繰り広げられて、武井咲さんが解決していく痛快なシーンが魅力でした。最終回にプロポーズを断ってスッキリしましたね。
さて、性転のへきれき「一般職になった男」では主人公の浜口直樹がどんなセクハラにも負けない合法的なハラスメントに晒されるお話です。それは「一般職転換」。
おまけにフィアンセで同期入社の玲子が総合職転換されて同じ課の総合職として着任し、直樹の直属の上司になってしまいます。
【試読コーナー】
一般職になった男
第1章 婚約解消
台風の余波で雨の日が続く8月末のある日、婚約者の杉村玲子から夕食の誘いがあった。新宿にあるレストランで7時に集合だ。それは高層ビルの最上階にある展望レストランで、僕たち2人にとって大切な場所だった。僕はこの3月の卒業式の夜、そのレストランで婚約指輪を玲子の前に差し出して結婚を申し込んだ。僕たちはお互いに結婚するのが当然と思って付き合っていたので、プロポーズは儀式以上のものではなかった。でも、「僕のお嫁さんになってください。」と指輪を差し出し、テーブルに額が付くほどに頭を下げた後、頭を上げた時に見えた玲子の微笑と「はい、よろしくお願いします。」という恥じらいに満ちた言葉の響きを、僕は一生忘れない。
僕と玲子は大学に入学したばかりの頃にクラスの飲み会で親しくなり、4年間付き合った仲だ。お互いに相手のことは何でも知っていると自負しているし、気持ちの動きだって分かる。いつも一緒にいることが心地よかった。就職活動も相談しながら会社を選び、結局同じ会社に就職したのは出来すぎと言われても仕方ない。僕は総合職、玲子は一般職として採用された。リーダーシップがあって成績もトップクラスの玲子が一般職に応募したことに友人たちは驚いたが、玲子にとっては僕と十分相談して納得した上での決断だった。僕たちは十分な時間をかけて子供に愛情を注ぐことが重要であり、夫婦の一方が会社の仕事に、もう一方が家庭の仕事に重点を置くのが良いという意見を持っていた。玲子は「どちらが家庭の仕事をするか、じゃんけんで決めようよ。」と言って僕がたじろぐのを見て楽しんだ後で「会社の方を直樹に選ばせてあげる。」と言った。そして玲子は一般職採用窓口に書類を出したのだった。
玲子は経理部に、僕は国際事業部の開発課に配属された。国際事業部は僕の希望通りの部署だったが、仕事が非常に厳しい部署で毎晩残業続きだった。7月の人事で開発課の課長が交代してから残業は減ったが、仕事の厳しさは倍加した。新課長は38才の女性でニューヨークの現地法人で営業実績を上げたエリートだ。着任早々に辣腕を発揮し始め、課長代理の芝本の出向による後任人事が内定したとの噂が聞こえた。芝本は42才の男性で新課長に対してふてくされた態度を示していたので、飛ばされても仕方ないと思った。開発課には他に入社5年目の総合職の水川杏奈と、入社2年目の一般職の江川美智子がいて、僕を含めて5人の所帯だ。
僕が国際事業部を希望したのは何となく外国に行ってみたいという程度の理由だったが英語は得意ではない。入社後に受けさせられたTOEICの結果は折悪く課長が交代した後に届いたが600点にも届かない点数だった。新課長は「ふうっ」と溜息をついて僕の顔を見ただけで何も言わなかった。新課長になってから開発課の業務内容が一挙に国際化した。単に海外案件が増えたというのではなかった。新課長のスタイルとして、開発とは単なる新規顧客へのコンタクトや製品の紹介ではなく、技術や製品に関する詳細な基礎調査から開始するのが常だった。英語の特許の全文を読んだり、技術資料を隅から隅まで読むという作業が加わって、僕は遅くまで英語と格闘する毎日が続いていた。
入社後もう一つの変化は、会社が外資のファンドに買収されたということだった。外資から派遣された巨大なゴリラのような女性が8月の始めから社長室に座っており、今の社長は9月に降格して顧問になるらしい。新入社員の僕には直接の影響があるとは思えないが、中堅以上の社員は人事制度が大幅に変更になるらしいと噂し合って恐怖に怯えている。
玲子は僕より一足先にレストランに到着してビールを飲んでいた。窓に沿った席で都心側の夜景が壮観だ。
「火曜日の夕方なのに、急に呼び出してゴメンね、直樹。」
「ホント、大変だったんだよ。新しい英語の資料を今日中に読む必要があったけど、課長には父が出張で東京に出てくるとウソをついて出てきたんだから。」
「本当にゴメン。」
「ごめん、ごめんって玲子らしくないな。週末まで待てないほど大事な話があるんなら仕方ないけど。」
「大切なことが明日発表されることになったから、今日中に直樹に話をつけておきたかったの。」
「何が発表されるの?僕に話をつけておくだなんて、何だか怖いな。」
「ゴメン、本当にゴメン。」
玲子はバッグから小箱を取り出して僕の目の前に差し出し、テーブルに頭がつくほど深くお辞儀した。それは3月に僕が玲子にあげた婚約指輪だった。
「えっ。」
口を半開きにしたまま、身体が凍り付いた。これは別れ話のようだ。目の前が真っ暗になり、気づかないうちに頬を伝わった涙がポタポタとテーブルクロスを濡らし始めた。
「ど、どうして?」
泣き声と同時に、叱られた子供のような高い声が僕の口から出てきた。
「嫌だ、そんなの嫌。玲子と別れるなんて想像もできない。」
玲子が顔を上げて、僕にハンカチを差し出した。
「ごめんね、突然。」
「お願い、考え直して。何でもするから、別れるなんて言わないで。」
泣きじゃくりながら玲子に訴えた。
「私の話を聞いて。ちゃんと説明するから。」
玲子の話を聞こうと目を上げたが、涙が止まらない。
「3月に直樹からお嫁さんになってくれと言われて、はいと答えたわ。私は一般職になって家庭を優先する約束だった。でも、事情が変わったの。先週の終りに部長から呼ばれて、異動の内示が出たの。総合職に転換して事業部門に移るという内容よ。7月に若手全員が受けさせられた貿易実務試験と常識試験で私がトップだったらしいの。それにTOEICが870点ということで白羽の矢が立ったんですって。部長は私を社長の部屋に連れて行って、異動先の課の上司も交えて英語で面談したのよ。私は家庭を優先するために一般職に応募したことを説明してお断りしようとしたけど、説得されちゃった。必ず女性が働きやすい職場に変えることを約束する、と社長が私の手を握ったから、分かりましたと返事してしまったの。」
「すごいじゃないか。社長と英語で議論したなんて、僕には想像もできないよ。でも、それがどうして別れ話につながるんだよ。総合職になるのなら、家庭の仕事を2人で分担すればいいじゃないか。僕もできるだけ協力して家事も分担するから。別れるなんて言わないでよ。」
「話はそれだけじゃないの。」
「まさか、それは男に関する話じゃないだろうね?」
僕は最悪の言葉を予想した。
「確かに、一人の男性に関する話ね。」
一旦止まっていた涙がワッと湧き出て来た。
「直樹という名前の男性よ。」
「お願いだからじらさないで。」
泣き声で言った。
「実は移動先の上司というのは国際事業部の課長、そうあなたの上司の黒沢亜希さんのことよ。開発課の総合職の新入社員の英語力と基礎知識レベルが低すぎて仕事にならないということで即戦力になりそうな人材を探してたらしいの。要するに直樹の代わりとして私が開発課に行くことになったのよ。」
「そうか、僕は他所の課に異動させられるんだね。でも、それでいいよ。今の仕事は確かに僕には向いていないから。」
「直樹は開発課から外に出すつもりはないんだって。」
「すごいじゃないか。じゃあ、玲子と同じ課で仕事できるんだね。」
「そうよ。同じ課になるのよ。江川美智子と言う人が9月一杯で退職することになったから、直樹はその人の後任になるらしいわ。」
「美智子さんが退職するとは知らなかったな。でも、彼女は一般職だよ。総合職の僕が彼女の後任になれるはずがないと思うけど。」
「そうなの。直樹には一般職転換の辞令が出ることが決まったのよ。」
「そ、そんなのアリかよ。」
「新社長が進める新人事制度では能力に劣る総合職を一般職に降格させることができるらしいわ。あ、ゴメン。直樹のことを能力に劣るだなんて言って。総合職に要求される能力プロファイルに合わない人材を、適材適所の観点で一般職に転換するという意味よ。」
「酷いよ。僕は新人事制度での一般職降格の第1号に選ばれたわけなの?」
「そういうことね。気の毒だけれど、それが現実なの。私も直樹の一般職転換の話を聞いた時には冷徹過ぎると思った。でも、よくよく考えてみると、社長や開発課長の仰ることには一理あると思ったわ。直樹に今の仕事は難易度的に無理があるし、他の部署に移ったところで総合職の仕事には向いてないような気がするの。社長の話を聞いていて、これからのうちの会社は、私のような頭脳と英語力とリーダーシップを持つタイプの人間が能力を発揮しやすい場所になると確信したの。直樹のタイプは一般職の方がより適しているし、幸せになれると思うわ。
「男なのに一般職だなんて・・・、僕はもう生きていけないよ。玲子に捨てられて、しかも一般職に降格させられるなんて。どちらか一方でも耐えられないほどの悲劇が同時に起きるとは、神様はむごい!」
「ちょっと待って。話はまだ終わっていないわ。」
「聞きたくないよ。悲劇の第3弾が出たら、僕はこの場で自殺するかもしれない。」
「悪い話じゃないから、最後まで聞いて、お願い。」
「玲子にお願いと言われたら仕方ない。聞くよ。」
玲子はバッグからピンクの包装紙に赤いリボンの小箱を取り出した。
「これを直樹に受け取って欲しいの。」
「お別れのプレゼントなんて欲しくないよ。見る度に悲しくなるから。」
「いいから、とにかく開けて頂戴。」
リボンを解いて包装紙を開くと、ビロードの赤い小箱だった。ふたを開けると、小さなダイヤのちりばめられた指輪が出てきた。
「直樹、私と結婚して。必ず直樹を幸せにするから、私のお嫁さんとして私についてきて欲しいの。私は総合職として頑張って、直樹は一般職として働きながら家庭を守って欲しい。今度の辞令で直樹と私の立場が入れ替わるから、結婚といっても、全く意味が変わってしまうでしょう。だから一旦婚約を解消した上で、改めて私からプロポーズすることにしたの。お願い、結婚してください。」
僕の目から今までよりもさらに大粒の涙がポタポタと落ちた。今度は喜びの涙だった。
「どうしてまとめて話してくれなかったんだよ。一旦地獄の底に突き落として、絶望させた後で天国に引き上げるなんて・・・。」
歓喜のあまり泣きじゃくりながら言った。
「受けてくれるのね。」
「はい、よろしくお願いします。」
返事をするのに緊張している自分に気づいた。3月に僕がプロポーズした時に玲子はどんな気持でこの言葉を口に出したのだろうか。
「指輪を嵌めてみて。左手の薬指よ。」
その指輪は僕の左手の薬指に完璧にフィットした。
「でも、女の子の指輪みたい。会社では外していい?」
「絶対に外しちゃダメよ。直樹が売約済みだということを第三者に分からせるためだから。」
玲子は話を続けた。
「誤解があるといけないから確認しておくけど、会社の人への婚約の発表のタイミングは私が決めるから、まだ誰にも行っちゃダメよ。上司達が私の総合職としての異動や育成計画を考える際に結婚がマイナスになる場合があるから、発表のタイミングは慎重に選びたいの。」
「わかった。玲子が良いと言うまでは誰にもしゃべらないよ。」
「もうひとつ、直樹の会社での行状はいずれ私の評価につながってくるんだから、一般職になっても仕事は一生懸命すること。ふてくされたり、いい加減な仕事をしちゃだめ。私を含めて職場の上司に気に入られるように仕事しなさい。困ったことがあったら必ず私に相談して、私の指示に従うこと。」
「わかった。一般職にされても真面目に仕事するよ。」
「最後に私生活の話よ。私が主人、直樹は私のお嫁さんになるということの意味を理解しているでしょうね。重要事項は十分議論した上で私が判断する。例え直樹にとって不本意な結論になっても私の最終判断に従うこと。いいわね。」
「離婚という以外の判断なら従っても良いけど...」
「今私が行ったことを直樹が守る限り、私が直樹を捨てることは無いわ。約束する。」
「それなら了解。玲子の言うとおりにするよ。」
幸せが頂点に達したような機がした。一旦全てを失って絶望の淵に立たされたからだろうか。玲子と結婚できるなら、それ以外のことは大した問題ではないと良いという気持だった。
しかし、社会はそんなに甘くないことを、僕は翌日から骨身にしみて味わうことになった。
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