
うちの会社のいいところ
性別による差別がない会社
第一章 告白
「深澤君、今日の夕方、時間ある?」
梅雨明けを待つ七月のある日、同期の岩倉奈帆から廊下で声をかけられた。
「うん、あるけど。どうしたの?」
「ちょっと、相談したいことがあるの。とても大事なことなの」
「六時以降ならいつでも大丈夫だよ」
「じゃあ、場所と時刻は後でメールしとくわね」
僕は心の中で「ヤッター!」とガッツポーズをした。岩倉奈帆は同期の新入社員の中でも断トツの美人だ。入社後の同期の懇親会で隣り合わせた時に勇気を出してメールアドレスを交換したが、その後は部の飲み会で立ち話をした程度だった。僕は特に内気な方ではなく女性とも気軽に話すことが出来るタイプだが奈帆だけは別だった。僕のタイプにピタリはまりすぎているというよりも、理想を越える女性なのだ。隣の課に座っている奈帆の後姿を見るだけで胸がいっぱいになった。
奈帆は超一流の国立大学を卒業したエリートで少林寺拳法の有段者でもある。ミス東京にも出たことがある百七十センチの八頭身美人だ。どこを取っても僕には釣り合わないという意識も手伝って、遠くから密かに憧れる存在だった。そんな奈帆から大事なことで相談したいと誘われるとは信じられないほどの幸運だ。
奈帆からのメールに指定されていたのは秋葉原の駅ビルの二階のカフェ・レストランだった。赤坂にある会社からは随分遠いしロマンチックな場所とは言えないが、奈帆は僕が総武線沿線の住人だと知っていて秋葉原を選んでくれたのだろう。奈帆の心遣いが嬉しかった。
「深澤君、突然呼び出してゴメンネ」
「とんでもない。男だったら岩倉さんに呼び出されれば例え親の死に目に会えなくても飛んで来るさ」
冗談っぽく聞こえたかもしれないが、それは僕の本心だった。
「大げさね。でも私たちも段々忙しくなってきたわよね。入社当初は上司から言われたことを機械的にこなすだけで精一杯だったけど、最近は自分がやっている作業の意味や位置づけが理解できるようになってきて仕事が楽しくなったわ」
「岩倉さんほどじゃないかもしれないけど僕もそんな気がする」
「二課にもCEIの調査が来てるでしょう? あれってすごいわね。アメリカの一流企業はここまで来てるのかと驚いたわ」
CEIとはCorporate Equality Indexの略で米国の人権団体がLGBTに対する職場の公平性を示すベンチマークとして構築した企業平等指数のことだ。最近アメリカの顧客から「お宅の会社はCEIに準拠していますか?」という問い合わせが急増している。その問い合わせの中に「もし準拠していなければ取引を停止する」と明確に記されておりCEIに対応することは当社にとっても死活問題だ。
「僕なんか本田さんからCorporate Equality Index 2016という百ページもあるPDFファイルを渡されて来週までに読むように言われたんだよ。月曜日に口頭でテストをして、もし不合格なら僕には営業の仕事はまかせられないと言われちゃった。お陰で今週は土日返上だ」
本田さんとは僕の所属する米州部第二課の課長代理の本田詩音のことだ。ご本人は元ニューヨーク駐在員で英語はペラペラだから僕に気軽に命令するのだが、僕にとっては大変な重圧だ。
「Corporate Equality Index 2016は絵や図表が多いから文章としては三十ページ程度よ。私も課長から言われたけどスマホにダウンロードして帰りの電車で読んだ。高校を出ている人なら誰でも簡単に読める内容よ」
僕が最初の三ページを読むのに既に二日間かかっていると言えば奈帆にバカにされるのは確実だ。この話題はまずいと思った僕は話題を変えようとして本題に切り込んだ。
「ところで大事な話ってなに? 会社で言われた時からそのことが気になっているんだけど」
「もっと色々おしゃべりしてから話そうと思ってたんだけど……。でもその話を聞いてもらいたくて呼び出したんだから勇気を出して話すわ。実は私、ある人からプロポーズされて迷っているの」
何という重大な話なのだ! 僕にラストチャンスを与えるために打ち明けてくれているのだろうか? 落ち着け、落ち着かなくっちゃ。
「相手は会社の人なの?」
「そうよ。でもその人が誰だかは言えない」
「その男性が誰だか教えてくれないと、僕は同性から見てその人が岩倉さんに相応しい人かどうかコメントしようがないじゃないか」
「人物評価をして欲しくて相談したわけじゃないの。その方はずっと年上で能力・経験も私が足元にも及ばないような人なの。でも私は自分の力を発揮したくてこの会社に入ったのよ。自分の力が全く及ばないような人からのプロポーズを受けるということは、その人に寄りかかる人生を送ることになるんじゃないかと思うのよ。その点がまだ納得できていないの」
「分かった、相手は阿部課長なんだね」
阿部課長とは奈帆の所属する米州部第一課の課長だ。ニューヨーク勤務経験のある四十歳のエリート課長で彫りの深い顔だちの身長百八十五センチのイケメンだがバツイチだ。うちの部で年長好みの女性は全員が阿部課長の熱烈なファンだと聞いたことがある。阿部課長が相手では僕には手も足も出ない……。
「相手が誰だかは明かさないと言ったでしょう。でも阿部課長じゃないことだけは教えてあげる。これ以上カマをかけても何も答えないわよ」
「よかった!」
「どうして?」
「阿部課長からプロポーズを受けたからどうしようと相談されたら僕は泣き寝入りするしかないもの。第一、身長が一割以上違うし」
「あらうれしい! 深澤君は私のことが好きだったの?」
予期せぬ突っ込みに僕は耳たぶまで赤くなり、シドロモドロになってしまった。
「岩倉さんは全ての男性の憧れだから……」
「深澤君のその言葉のお陰で少なくともひと月は幸せな気持ちで居られるわ。ありがとう。でもそんなことを言ってくれたのは深澤君が初めてだし、残念ながら他の男性からそんなそぶりも感じたことは無いわ。私みたいに背が高すぎる女は敬遠されるのよ。深澤君は自分より背が高い女性でも気にならないの?」
「気にならないどころか、背が高い女性の近くに来るとドキドキするんだ。でも自分より背の低い男性を好む女性は滅多に居ないから……」
「深澤君からの誤解を解くために言っておくけど、プロポーズされた相手は深澤君よりも小柄な人なのよ」
「ええっ! 国際事業部で僕より身長の低い人は二人しかいないけど二人とも既婚者だよ。岩倉さん、不倫はいけないよ。それとも他の本部の人なの?」
「さっき言ったでしょう! 相手の特定につながる質問には一切答えないから」
「ゴメン。もう聞かない。でも一体僕は何をコメントすればいいの? 岩倉さんはずっと年上で能力のある小柄な男性からプロポーズされて、もし受ければ相手に寄りかかる人生になりそうだから迷っている。女性には女性としてのライフスタイルがあるから、僕が何をアドバイスできるのか想像もつかないよ」
「深澤君がもし私と同じ立場に立ったらどうするかを聞きたいの。例えば身近な例で言うと本田詩音さん。十五歳年上のエリートで身長も私より高い。もし深澤君が自分より十五センチも背が高い本田さんからプロポーズされたと想像してみて」
「そんなことはあり得ないよ。但し、言っとくけど身長は十五センチも違わないよ。本田さんが百七十とすると僕が百六十五だから五センチしか違わないんだよ」
僕はつい自分の身長を二センチ大きめに言ってしまった。
「それ、ちょっとサバ読んでるでしょう。深澤君って小顔で華奢だから女の子の平均ぐらいかと思ってたわ」
「ということはプロポーズされた相手は女性の平均よりもチビの男性なの?」
「その手の質問は受け付けないと言ったでしょう。私の質問に答えて。もし深澤君が本田さんからプロポーズされたらどうすると思う? 本田さんは仕事でも深澤君のスキルアップを助けてくれるし色々サポートしてくれるわよ。但しあくまで上から目線で」
「そうか、そう言う質問だったのか。やっと岩倉さんの質問のポイントが理解できた気がする。そうだなあ。僕は相手が本田さんみたいに目上で能力的に絶対に足下に及ばない人でも抵抗は無いと思うよ。さっきも言った通り身長の高い女性は好きだし……。でも男女が逆転したみたいな形の結婚になるから友達に対して恥ずかしいだろうな。きっと西田美紀さんや佐村順子さんから『深澤君のご主人はお元気?』みたいなことを言われると思うな。あっ違うか。本田さんと結婚したら僕は本田明日香になっちゃう可能性が高いよね」
「子供が生まれたら深澤君が産休を取ることになるわよ。本田さんが会社を休むより深澤君が休む方が収入面で有利だから」
「僕が赤ん坊の面倒を見るのか……。それに家事も手伝わされるよね」
「手伝わされるんじゃなくて深澤君が家事をするのよ。家事育児は深澤君の責任。私はまさにその決断を迫られているの」
「困るよね……。僕はそんな人生は想像したこともなかったもの。でも愛し合ってしまったんだろう? そして本田さんがそれを希望しているし僕は本田さんの希望に沿いたいと思ってる。そんな状況でプロポーズをされたら僕なら迷いはしないと思うよ。家事をしたくないとか人からどう思われるということより、相手が僕に何を希望しているかの方が遥かに大事だもの」
「深澤君ありがとう。そうよね、深澤君の言う通りだわ。心の中のモヤモヤが晴れた気がする。深澤君に相談して本当に良かったわ」
「僕は憧れの女性が他の男性のプロポーズを受けることを後押ししちゃったわけ? トホホホ」
「お礼に一つだけ教えてあげるけど、さっきの本田さんの話は話を分かりやすくするための仮定であって、深澤君が本田さんからプロポーズされる可能性はゼロに近いわよ。だって本田さんが好きなのは女の子だから」
「ええっ! 本田さんはレズなの? ショック……」
「うちの部の若い女性の間では阿部課長より本田詩音さんの方が人気が高いのよ。そこそこのレベルの男性は殆どが既婚者でしょう。バツイチの阿部課長は別にして、うちの部の未婚男性と本田詩音さんを並べると本田さんの方がずっとセクシーだし危険な匂いがするわ」
「ショックだな。うちの部の女の子たちの意識がそこまで乱れてるなんて」
「さっきはとても良いコメントをしてくれたのに、今の発言はガッカリよ。LGBTを差別してるのね? CEIの基準で深澤君のスコアをつけると落第点がつくわよ」
「そ、そんなつもりで言ったわけじゃないんだ。本田さんがレズだと聞いてショックが大きすぎただけだよ」
「ショックついでにもう一つ教えてあげる。深澤君は私にプロポーズした人が誰かと言うことについて真っ先に阿部課長を思い浮かべたみたいだけど、阿部課長には部内に恋人がいることは女の子の間では公然の事実よ」
「誰? まさか一課の佐村順子じゃないだろうね? あいつ阿部課長に呼ばれるといつもウキウキした表情になるもの」
「深澤君が順子の表情をそんなに注視しているとは知らなかったわ。あの子とても可愛いものね」
「変な言いがかりをつけないでよ。僕は何とも思っていないんだから。それより阿部課長の恋人って誰なの?」
「橋本さんよ」
「橋本さんって欧州アフリカ部の部長席のオバサンのこと? まさか男前の代表みたいな阿部課長が四十代の太ったオバサンと恋に陥るとは!」
「ハズレよ。あの橋本さんじゃないわ。うちの課の橋本幸宏さんよ」
「ゲゲゲゲ、ゲイだったの? それも、よりによってあの汗っかきで三段腹のブサイクの代表みたいな橋本さんを相手に選ぶなんて信じられない」
「もし阿部課長の相手が深澤君だったら部の全員が納得したでしょうけど、人の心って分からないものよね。阿部課長と橋本さんはしょっちゅうアメリカに一緒に出張してるじゃない。私が聞いた話だと去年二人がアトランタに出張した時に手違いで橋本さんの部屋だけが予約取り消しになってたんだって。コンベンションでアトランタの全部のホテルが満室だったから、仕方なくキングサイズベッドの部屋に二人で泊る羽目になって、その夜にできちゃったらしいわ」
「ヒエェ、怖い話だな。僕も豊福課長と一緒に出張する時にはホテルの予約をダブルチェックするようにしないと。もし不倫関係になってしまって豊福さんの奥さんに恨まれたらいやだもの。一度豊福課長の家にお呼ばれしたけど、すごく素敵な奥様とお嬢様だった。あの人たちを敵に回すのは絶対に嫌だ」
「深澤君の場合は本田さんとの出張の方が現実的に危ないんじゃない? 本田さんが遊びのつもりで深澤君に手を付けて、その結果本田さんのレズの彼女から目の敵にされる。会社の前でナイフで刺されて二十二歳の人生に幕が下りるとか」
怖ろしい! 遠いアメリカの問題だと思っていたLGBTがうちの部でそれほどまで現実化しているとは信じられなかった。奈帆がプロポーズを受けたという話に負けないほどショックだった。
「今日私から聞いた話は絶対に他言しちゃだめよ」
と奈帆から念を押された。
***
奈帆と別れてアパートに帰ると僕の頭の中で様々な思いが錯綜した。まず第一に思ったことは僕が大変なミスを仕出かしてしまったのではないかということだ。ずっと目上で能力的に及ばない人からのプロポーズを受けると家事育児の責任が自分にかかるし仕事に打ち込めなくなるので、僕ならどうするかを質問したかったと奈帆が言っていた。でもそんなことは女性にとっての共通の問題であり、同性の友人と相談すればよいことだ。それなのに付き合ってもいない僕をわざわざ呼び出してそんな大事なことを相談するというのはどう考えても不自然だった。
待てよ……。そうだ、奈帆は僕のことが好きだったのだ! プロポーズをした相手が僕より身長が低い事をわざわざ伝えることにより僕からプロポーズがあればOKであるとヒントをくれたのではないだろうか? それに対して僕は奈帆がプロポーズを受けることを後押しするような発言をしてしまった。最悪だ! 僕は人生最大のチャンスを棒に振ってしまったのだ。
このままでは一生後悔すると思った僕は明日もう一度奈帆に会って結婚を申し込むことを決心した。
プロポーズに必要なものは指輪だ。普通預金口座の残高と財布の中の現金を合計すると二十二万五千円あった。クレジットカードの未決済残高と電気ガス水道料金を差し引き、月末の給料日までに必要な食費を計算すると十七万円残った。借金をしてはいけないというのは深澤家の家訓であり結婚指輪をクレジットで購入することは僕の主義が許さない。明日の夕方六時半ごろに奈帆の約束を取り付けて、明日の昼休みか終業後にでも赤坂の会社の近くの宝石店で指輪を買って持って行こう。
奈帆の指輪のサイズはどのくらいだろうか? ネットで身長体重や体型から推測する方法を調べると奈帆だと十号前後ではないかと推測された。明日宝石屋に行ったら買った後でサイズの変更をしてくれるかどうか確かめてから購入しなければならない。
翌朝、僕は奈帆に
「昨日の話を聞いて、ちょっと渡したいものがあるのですが今日午後六時半に昨日と同じ場所で会えないでしょうか?」
というメールを送った。
送信ボタンを押した後で硬い文体になったことを後悔したが幸い奈帆からすぐに絵文字付きで「いいわよ」という返信があった。僕は昼休みにATMで十七万円を下ろして赤坂通りを入った所にある宝石店へと走った。十七万円で買える婚約指輪は僕のイメージよりも貧相なものしか置いてなかった。店員からは婚約指輪ではなく結婚指輪として使えるシンプルな指輪を勧められた。迷った挙句、可愛いデザインで小さなダイヤを幾つかあしらった指輪に決めた。もしサイズが合わない場合は調節するとの約束を取りつけた上で購入した。その日の夕方五時半までにイニシャルを刻印してくれることになった。
昼休みが終わって席に着くと、上司の本田詩音に「今日は大事な用があって五時半丁度に失礼します」と言っておいた。
「二日連続ね。まあ、急な仕事ができても西田さんに残業を頼めば大丈夫だから、全く問題ないけど」
と冷たく言われた。
「西田さん」というのはうちの課の一般職の西田美紀のことだが一流の私立大学を出て三年目の女性だ。帰国子女で英語はペラペラだし貿易実務試験も上級をA合格している。客観的に見て美紀の方が僕より能力的にはずっと上だ。僕が美紀に勝っているのは身長だけだった。それも一センチかそこらの差だが。美紀はそんなことは百も承知の上で一般職として僕をそれとなくサポートしてくれる。本田からは事あるたびに「西田さんを総合職転換して深澤君を一般職にするのが最も合理的なんだけど」とイヤミを言われている。
上司のイヤミなど、大事の前の小事だ。五時半が来て僕は隣の課で僕に背を向けて座っている岩倉奈帆にテレパシーでラブコールを送りながら立ち上がり、宝石屋へと走って行った。濃紺のベルベットの小箱に入った指輪を袋に入れてくれた。僕はその袋をバッグに入れて千代田線に乗り新御茶ノ水で総武線に乗り換えて秋葉原に行った。
ドキドキしながら奈帆を待った。一世一代の告白の時間が迫る。
奈帆は約束の時間に十分ほど遅れてレストランに到着した。
「遅くなってゴメンネ。急な仕事を言われて断れなかったの」
「岩倉さんのためなら一時間でも二時間でも喜んで待つよ」
「で、渡したいものって何なの?」
僕は奈帆の目をじっと見ながら人生で最も大事な告白をした。
「昨日岩倉さんがプロポーズされたと聞いて、家に帰って途方もない喪失感に襲われたんだ。そして僕がどんなに岩倉さんのことを想っていたのかを実感した。僕は岩倉さんのためならどんなことでもできる。家事や育児も岩倉さんと公平に分担する。いや、岩倉さんが仕事の方を優先したいという気持ちなら家事は六四か七三で引き受けてもいい。どうしてもと言うなら八二でも良いよ。僕は岩倉さんの人生を応援しながら一緒に歩みたいんだ。岩倉奈帆さん、僕と結婚してください」
僕は頭を下げて結婚指輪を差し出した。奈帆が結婚指輪の箱を受け取ってくれた時、僕は天にも昇る気持ちだった。
「オーケーしてくれるんだね?」
「やっぱり誤解されちゃったか。無駄に高い買い物をさせてゴメンネ。それにしても可愛い指輪だわ」
「ダ、ダメなの?」
「ごめんなさい。私、深澤君のことは大好きよ。でも、結婚対象としてじゃなく友達として好きなの。女友達は口が軽いし親友だと思っていても心のどこかで私をライバル視していたりするのよ。深澤君なら安心して心を打ち明けられると思ったから……。実際に話をしたらその通りの結果だった。深澤君のお陰で何もかも吹っ切れたから、昨日の夜プロポーズをお受けしますと電話で返事したのよ」
「そうだったのか……。岩倉さん、一つだけ教えて。もし昨日僕が岩倉さんの話を聞いてその場でプロポーズしていたら間に合った?」
「いいえ。深澤君は何というか……私にとって異性じゃないの。だからこれからも仲良くしてね。いえ、私の親友になって」
二十二年間の人生でこれほど打ちのめされたことは無かった。小学校二年の時に僕を可愛がってくれた祖母が亡くなった時でさえ、今日よりもマシだった気がする。僕が奈帆にとって異性でないとは酷すぎる一撃だった。
「この指輪、刻印しちゃったから返品や買取はしてもらえないわね。指輪なんて買ってこなくてもプロポーズできたのに」
「刻印を削って他の客に売れないのかな?」
「ムリムリ。買取価格はプラチナの重量分だから、多分数千円にしかならないわよ」
「十七万円が数千円……」
「可哀想。ねえ深澤君、この指輪、今日の告白の思い出として私にプレゼントしてくれない? いえ、一番の親友への貢物として」
「親友になるのに貢物というのは理屈に合わないだろう! 数千円で店に買い取ってもらうのはバカバカしいからプレゼントするよ。でも、旦那さまになる人に対してどう説明するの? きっと彼氏は他の男からもらった指輪なんか捨てろと言うに決まってる」
「いいえ、決してそんなことは仰らないわ。深澤君への感謝の証として相手が誰だかを教えてあげる。正式に発表するまでは絶対に誰にも言わないと約束してくれる?」
「絶対に言わない。もし僕がしゃべったら、一般職の制服を着て社内を歩き回ってもいい。約束する」
「じゃあ教えるわ。うちの部の部長さんよ」
「ぶ、ぶ、ぶ、ぶちょう? でも藤井部長は女性だよ。この場に及んでつまらない冗談はやめて本当の事を言ってよ」
「本当よ。入社して一週間後に部長から飲みに誘われて告白されたの。私は藤井部長にとって『なりたいけれど決してなれない理想の女性』なんだって。お話しすればするほど部長のことが好きになった。ひと月ほど前に結ばれてからは部長のお傍に近づくだけで胸から太ももまでジンジンするようになった。誰にも言わないでね。一番の親友の深澤君だから言ってるのよ」
何ということだ!
僕は絶句した。
それ以上言葉が続かなかった。
「指輪をプレゼントしてくれて本当にありがとう。この指輪のことは部長にも自慢できる。心の広い方だから喜んでくれると思うわ。これからは何でも相談があったら気軽に声をかけてね。親友として、いつでもお茶したり飲みに行ったりしようね」
奈帆と別れて帰る道、ショックが大きすぎて涙も出なかった。結局のところ、有り金をはたいて買った指輪は無駄にはならなかった。だってミス東京に出たことのある美人から一番の親友にしてもらったのだから。
あまりにも虚しすぎる一日だった。
第二章 カミングアウト
それから二週間ほど僕は夢遊病者のようだった。
仕事をしていても課長や本田が言うことは耳には入るのだが、もう一方の耳から素通りして宇宙空間に拡散してしまう。注意されても機械的に謝るだけだった。Corporate Equality Index 2016を読めという本田からの宿題に関する口頭テストの結果は「零点」と言われた。
「深澤君は総合職の仕事には向いてないようね。西田さんを総合職転換して深澤君を一般職にする話は本気で進めさせてもらうことにする」
「本田さん、今の深澤君にそこまで厳しいことを仰らないでください。失恋による痛手が癒されるまで大目に見てあげてください。それまでは私が穴を埋められるように頑張りますから」
西田美紀の優しさが心に響いた。
「女子高生なら大目に見るところだけど、深澤君は社会人よ。失恋したからといって何日間も頭が空っぽになる人に大事なことは任せられない。深澤君には補佐的な仕事しか無理だわ。西田さんも冷静に自分の事を考えなさい。例え今はその気が無くても総合職転換の申請書は早めに出しておいた方がいいわよ」
「総合職転換を希望するという書類は前回の考課面談の際に部長と課長に無理やり書かされましたから、一応提出済みです。でも総合職の深澤君を一般職に降格するというのは無茶ですよ。犯罪とか不祥事があったわけじゃないので」
「総合職で入った新入社員は半年間は飽くまで仮採用よ。つまり十月から総合職社員にする予定で採用したという状態なのよ。仮採用期間を終えて深澤君は一般職としてしか採用できないと上司が判断したら、一般職になるか辞めるかの二者択一になる。西田さんと深澤君が入れ替わるのは極めて自然で現実的なことよ。西田さんもそう思うでしょう?」
「そりゃあ思いますけど可哀想ですよ」
「お二人とも毎回ブラックジョークで僕を虐めないでください。でもどうして僕が失恋したことが分かったんですか? 同期の親友にさえ話していないし、相手の女性もそんなことを言いふらす人じゃないんですけど」
「相手は女性だったの?」
本田と西田が同時に叫んだ。
「ま、まさか僕が男性に失恋したと思ったんですか!」
「だって、先週深澤君が二日続けて五時半に帰った日は二日とも阿部課長が一人で顧客訪問をして直帰した日だったもの。私はてっきり深澤君が阿部課長に二日連続でお持ち帰りされた後で捨てられたんだと思っていたわ。順子もきっとそうだと言ってたし」
「私も信頼できる筋からそんな噂を聞いて、そうだと思っていたけど」
と本田も言った。
「失礼な。僕はノーマルそのものですよ。本田さん、セクハラです」
「ゴメンゴメン、海よりも深く反省した。だからと言って深澤君に対する業務上の評価が上がるわけじゃないけど」
「西田さんも同罪ですよ」
「悪かったわ、一応。相手の女性とやらが誰なのかを聞くまでは百パーセント信じたわけじゃないけど」
僕は同じ課の女性二人にそんな風に思われていたことを知って愕然とした。大学時代にもLGBTという言葉は知っていたが実際にLGBTの人は僕の回りには居なかった。居たのかもしれないが僕には分からなかった。うちの会社はLGBTを当然と考えるアメリカの会社と付き合っているうちに感化されてきて、LGBTが当たり前だと思うようになったのだろうか。同じ課の人がこの僕を見てホモセクシュアルだと想像するという環境は異常としか言いようがない。
しかし、本田と西田から際どいことを色々言われた結果、僕もいつまでも失恋の余韻に浸っていたら本当に無能な社員だと評価されるかもしれないとの危機感を抱いた。つい先日まで口も聞けなかった憧れの奈帆から「親友」と言われたのだから角度を変えて考えれば運気が上がったと言えなくもない状況だ。よし、これからは心を入れ替えて仕事に励もう。
***
社長名で「LGBTに対する基本方針」という題の通達が出たのは三連休明けの七月十九日の朝だった。
「当社は米国を中心とする顧客企業からセクシュアル・マイノリティーの人たちの権利を尊重し差別を禁止する企業であることを求められており、LGBTに関するグローバル・スタンダードに対応しない限り国際市場での生き残りは不可能である。会社としてLGBTの従業員を差別しないことを宣言し、LGBTのカップルに対して夫婦に準じた人事的配慮を行う。手始めとして同性のカップルが夫婦の場合と同様の産前産後休暇、育児休暇、介護休暇を取得できるよう人事規定を改正する。また同性カップルから届け出があれば結婚祝い金を支給する。今後更にLGBTの従業員が働きやすいように諸規定の改正を行う」
その翌日の七月二十日の朝、藤井部長が声をかけて全員を部長席の周りに集めた。
「米州部の皆さん。昨日社長から発表があったLGBTに関する取組について、うちの部でも同性カップルが二組届け出ましたのでお知らせします」
部員の間からざわめきが湧きあがり、自分の周囲に立っている人たちに探るような視線を投げかけた。
「まず阿部課長、パートナーをご紹介ください」
「ウソでしょう、阿部さんがゲイだなんて」
数人の女性がいかにもショッキングだという声を上げた。
「皆さん、今まで隠していて申し訳ありません。というより、私と橋本幸宏君が愛し合っていることを公然とお話しできる日が来るとは思いませんでした」
女性部員の半分程度が阿部課長と橋本幸宏の仲について既に知っていた様子だった。男性部員は全員が信じられないと言う表情をしていた。
「そしてもう一組のカップルは私と岩倉奈帆さんです。年齢が二倍という年の差カップルですが、お互いを信頼し、支え合って生きていく所存です。どうか暖かく見守って頂けますようお願いいたします」
部長と奈帆の関係は奈帆と僕以外にとって完全に寝耳に水だったようだ。本田と西田も心底驚いていた。
「つきましては今週の金曜日に立食形式の飲み会を開催することになりました。阿部さんと私が費用を折半して皆さんをご招待します。なれそめ等についてはその際にお話ししたいと思います」
部員たちが席に散った後も衝撃のニュースの余韻が部内に充満したままだった。
「深澤さんの失恋の真相がやっと分かったわ。そりゃあショックだったでしょうね」
と西田が慰めてくれた。
「バカなことを言わないでよ」
と僕は抗議したが、西田は噂の方を信じているようだった。
本田はガッカリした表情で言った。
「なあんだ、深澤君はノーマルだったのか。つまんない」
***
同性カップル二組の披露パーティーは金曜日の午後六時から会社の近くの居酒屋の一室で行われた。当初は簡単なビアパーティーの予定だったのが本部長が十万円もの協賛金を出してくれたので立派な立食パーティーになった。
先に藤井部長が奈帆とのなれそめについてスピーチをした。
「なりたいけれど決してなれない理想の女性」である奈帆を見た時の興奮や心の動揺について語る藤井部長の目は少女のように輝いていた。なれそめの話は奈帆から聞いて知っていたが藤井部長本人が語るのを聞いていると、藤井部長も僕と同じような気持ちで奈帆に憧れたんだなと実感した。いわばライバルである藤井に対して親しみを感じた。奈帆は恥ずかし気な面持ちで藤井部長の半歩後ろに立っている。七センチはありそうなヒールを履いている奈帆の横に立つ藤井は実際以上に小柄に見えたが「どんなもんだい」と言いたげに胸を張っている姿が、僕には羨ましく感じられた。今僕があの場所に立っていても不思議では無かったのだと思うと奈帆を失った悲しみがぶり返す。
僕は心からの祝福を伝えるために藤井カップルに近づいた。奈帆は右腕を恥じらい気味に藤井の脇に絡ませ左手は真下に垂らしている。僕は奈帆の左手を見てハッとした。左薬指には僕がプレゼントした指輪が藤井に貰ったのであろうシンプルなプラチナのリングと一緒にはめられていた。
「深澤君、いつも奈帆に良くしてくれてありがとう」
藤井から思いがけない言葉をかけられて戸惑った。
「その指輪はとてもセンスがいいわ。婚約指輪や結婚指輪は誰でも貰えるけれど親友から友情の証の指輪を貰える女性は滅多に居ないと言って奈帆が自慢していたわよ」
奈帆がそんなことまでも藤井にしゃべったことには軽い怒りと敗北感を覚えたが、奈帆がそう思ってくれていることを知って悪い気はしなかった。ただ、奈帆が明らかに藤井のものであることを否応でも印象付ける一言だった。
「あなた、深澤君とは今後も二人で飲みに行ったりケーキを食べに行ったりしておしゃべりしたいんですけど、よろしいですか?」
「勿論よ。奈帆の一番の親友なんだから私に気兼ねをすることは無いのよ。但し、私が家で夕食を食べる予定の日に深澤君と食事に行く場合は会社を出るまでにメールか何かで知らせてね。帰宅して奈帆もいなくてメシも無いということになったらガックリと来るもの」
「はい、あなた。必ずお知らせいたします」
「深澤君、今後も奈帆のことを支えてやってね。奈帆はとても優秀だけど集中力があり過ぎて身の回りのことが見えなくなる傾向があるのよ。そんな時に奈帆の足りない部分をそっと補完してくれる人が傍に居れば、奈帆は思う存分に能力を発揮できる。もし将来奈帆と同じ部署で働くようになったらよろしくね」
僕の上司である藤井部長が無意識のうちに奈帆が主役で僕は補佐役と認識していることがミエミエな発言をするのを聞いていい気はしなかったが、藤井から頼まれなくても奈帆を支えたいという気持ちは誰にも負けない。
「はい、部長。勿論です。奈帆さんは僕なんか足下に及ばないほど優秀な人ですからそのうち僕の上司になるのが目に見えていますけど、部下としてしっかりと支えることをお約束します」
「もう、深澤君ったら」
奈帆は照れ臭そうに笑いながら言った。
「深澤君がそう思ってくれていることが分かってほっとしたわ」
そこに中村本部長が近づいて来た。殆どの男性がクールビズのカジュアルな服装で来ている場に、白っぽいサマースーツにネクタイ姿の紳士が居ると場が絞まって見えた。阿部課長より二、三センチ身長は低いが肩幅の広い中村本部長は同じぐらい大きく見えた。
「深澤君、元気にしているかね? そうか、新婦の岩倉奈帆さんとは新入社員どうしなんだね」
「はい、本部長。岩倉さんは同期の男子全員の憧れの存在でしたので」
「本田詩音君に次ぐ長身で優秀な頭脳を持つ期待の若手だ。深澤君は本田君の部下で岩倉さんとも相性がいいということは今後の為に大いにプラスだな。アッハッハ」
「はい、今藤井部長にも申し上げましたが岩倉さんの部下になるのは時間の問題だと自覚しています」
「素直でよろしい。君は確か西田美紀さんの部下だったね。うちの部でTOEICの持ち点が最高でK大卒の優秀な女性だ」
「ええ、でも西田さんは僕の二年上の一般職ですけど」
「優秀な女性たちと強いコネクションを持っているのは非常に良いことだ」
「はあ。お褒め頂いたようなそうでもないような……」
「君は女性のように優しい目をしているし実に物腰が柔らかかつ爽やかで会津出身とは思えないね」
「僕の出身地を覚えていて下さったんですか! ありがとうございます」
「私も会津出身だから君が入社した時から気にかけていたんだよ。君ほど会津男子のイメージとかけ離れた人は見たことが無いよ、アッハッハ」
「はあ、それはよく言われるんですが……」
「まあ会津出身どうし仲良くしてくれ。そうだ。メルアドを交換しよう。いや、LINEの友達になってくれないかな? 実は同窓会で友人に言われてスマホにLINEのアプリをインストールしたんだが、どうやったら友達を登録できるのかがよく分からないんだ。だからまだその男だけしか友達がいない」
「簡単ですよ。今スマホでLINEを開いていただけますか?」
僕は中村と僕のスマホでふるふるをしてお互いを友達登録した。
「ご用があればここをクリックして下の枠の中にメッセージをタイプしてください」
「ありがとう、じゃあそのうちに飲みに誘うよ」
「はい、楽しみにしています」
中村は僕の肩をポンと叩いて立ち去った。藤井部長と奈帆は他の人たちと話し始めていたので僕は阿部課長にお祝いを言おうと歩いて行った。
「阿部課長、おめでとうございます」
「まあ、俺もそろそろ責任を取るべき時期が来たと言う訳さ」
責任を取るなどと言われると橋本幸宏が怒るのではないかと心配したが橋本は他の男性三人と大声で話していて聞こえなかったようだ。
「会社中の女性の憧れとの噂を聞いていたのでLGBTの発表を聞いて驚きました」
「俺が深澤君を抱いたという噂も出ていたらしいよ。俺としては光栄だが、深澤君には迷惑だったな」
「いえ、とんでもない。あっ、というか僕は女性しか愛せないタイプですので」
「そんな風に決めつけない方がいいよ。人生には思わぬ展開が待っている場合があるから」
「あのう、男性どうしのカップルの場合は男性役と女性役が居るんですよね? 阿部課長が女性役ということは考えられませんし……」
「アハハハ。いきなり激しい突っ込みだな。俺はBすなわちバイセクシュアルだがゲイとして交わる場合相手に女役を演じることは求めない。そもそも橋本が女っぽい仕草をしたら気持ち悪いだろう。正味男性どうしが交わるのが本当のゲイだよ。俺がもし深澤君を抱くとすればゲイとしてではなくバイセクシュアルの感覚でのセックスになるかもしれない。ゲイの男性でも深澤君みたいな女っぽい男性が好きな人もいるから人それぞれさ。要するに生まれながらの生物学的性別にこだわらないのがLGBTなんじゃないの?」
「お言葉ですけど僕は女っぽいところなんて全く無いですよ。女性を愛する、男性らしい男性です」
「自分でどう思おうが勝手だが、俺にはそう見えるのさ。生まれつきの性別を固定的に考えない俺たちのような人種から見ると深澤君は男には見えないよ。隣の課に入社した時からそう思っていた」
「阿部さん、深澤君を口説いてるんじゃないでしょうね」
突然橋本が割り込んで来たので僕は後ずさりした。元々橋本は苦手だった。いつも脂汗が滲み出ている感じのする男性は生理的に寄せ付けない。阿部と橋本の関係について知った後も阿部とは以前と同じように接することができたが、橋本とは同じ空気を吸うのも汚らわしい気がした。いけないいけない、こんなことを考えているようでは米国の先進企業と付き合う資格が無い。
「深澤君、阿部課長はもう僕の物なんだから、他の人を当たってくれ」
橋本の言葉に冗談の響きは感じられなかった。僕は阿部に一礼して橋本には返事もせずに立ち去った。
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