会社の中の境界線
 今日からペットになりなさい

まえがき

 トランスボーダーとは本来国境(ボーダー)をまたぐ人間、貨物などの動きを表す言葉です。

 境界、すなわちボーダーは国と国の間だけではなく、様々な社会と社会、人と人、物と物などの間に存在します。時代と時代の間にも、思想と思想の間にも存在します。

 私たちは社会の中で生きることにより、日常、知らず知らずのうちに様々な境界にぶつかり、遮られ、ある時には意識せずに境界を越えたり、突き抜けたりしています。男性と女性、若者と老人、管理職と非管理職、総合職と一般職、仕事とマイホーム……。

 境界は人々に制限を課すのが通常です。年齢制限、挨拶や敬語使用の励行、気遣い、立ち入り禁止(例、女人禁制)等々。制限を無視・軽視して境界を超えると社会的なバッシング、嘲笑、或いは刑罰を科されることもあります。LGBTなどのマイノリティーの人々は、殊更多くの境界に行く手を阻まれる生活を余儀なくされています。

 境界の無い世界。境界が少なく自由に乗り越えられる社会。それはどんな世界でしょうか。この物語の舞台であるトランスボーダー・インクは「境界を廃した会社」という理想を掲げる社長の率いる会社です。境界を廃することにより革新的なアイデアや製品を作り出すことが狙いです。三人の創業者が社長と管理部長、営業部長としてトランスボーダー・インクを率いていますが、この三人以外は全員が標準職社員です。管理職と非管理職、総合職と一般職の区別もなく、全員がフラットな組織です。社員が創出するプロジェクトにより自然発生的にチームのリーダーが選ばれます。

 トランスボーダーという単語はいずれLGBT関係の用語として流行るのではないかと期待していますが、現時点では英語・日本語の両方でネット検索しても、本来の意味以外に使われている例は希少なようです。

第一章 入社

 夏休みに帰省した時にまだ就職が決まっていなかった僕は肩身の狭い思いをした。

 高校時代の仲間とお盆の飲み会で集まったのだが、内定が出ていないのは僕と佐知子の二人だけだった。佐知子は内定が取れなかったら父親の会社の事務を手伝うと言っていた。僕は友人たちの前では平静を装っていたが、お尻に火が着いていることは誰の目にも明らかだったと思う。

 実家の家族は僕が何十社も訪問して全部落とされたことを知っており、家では僕に気遣って就職関係の話題は出なかった。夕食時のテレビで景気回復の結果就職内定率が昨年より二割上昇したというニュースが報じられた時、妹が黙ってチャンネルを変えた。僕は余計に落ち込んだ。皆が僕の為にこんなに気を使っているなんて……。

 一番ショックだったのは、僕が東京に帰る日に玄関で靴を履いていた時に母に言われた言葉だった。

「麻有、ごめんね。もっと背が高くて男前で押しが強くて頭の良い子に産んでいたら就職で苦労をすることもなかったのに」

 母に悪気はなく慰めてくれていることは分っているが、揺らぎかけていた僕のプライドが崩れそうになった。一番の味方と思っていた母が僕をそんな風に思っていたのかと落胆した。

 僕は自分の容姿が人より劣ると思ってはいないし、頭が悪いとも思わない。背が低いのは父のDNAだから仕方がないが百六十三センチという身長は極端に低いということもない。女の子には結構人気がある。自分では美少年系と思っているのに母親から「男前で無い」などと意味不明な尺度で決めつけられると腹が立つ。一流大学に入れなかったのは高校生活を楽しみ、いわゆる受験術に興味が無く、そこそこの勉強で楽に入れる大学を選んだだけであって、頭の良しあしとは無関係だと思っている。それに、押しが強いと言われるタイプの人間になりたいとは全く思わない。

 九月になって僕は就職活動を再開した。大半の企業は事実上採用活動を終えているので、僕としては「残り福ねらい」だ。客観的に考えると企業側から見ても優秀な学生はソールド・アウトなので企業側も「残り福ねらい」ということになる。お互いに残り福としてマッチングすればハッピーだ、と思うと気持ちが軽くなる。

 卒業まで半年もある、と長期戦を覚悟で臨んだ就職活動だったが、九月に入って三社目の企業訪問で僕はあっさりと内定をもらった。

 それは「トランスボーダー・インク」という従業員数十人のIT会社だった。三年以内の上場を目指しているという説明も気に入った。社長は五十代の温厚な男性で、それまでの企業訪問で鼻についた「上から目線」が全く感じられなかった。「この会社はまさに残り福だ。僕もこの会社にとって残り福だったと思われるように頑張るぞ」と思った。

 アパートに帰って真っ先に母に電話した。先日失礼なことを言われて少し引っかかりが残っていたが、父に電話するのも気恥ずかしい。やはりこんな場合には母と話したくなる。

「母さん、取れたよ、内定が。トランスボーダーと言う会社だ」
 母の喜ぶ顔を頭に浮かべながら自慢した。

 母は浮かない感じの声で「ホテルでお客さんの荷物運びをするんだね。お前のような華奢な身体で務まるのかね」と言った。

「母さん、それはポーターだろう。内定したのはトランスボーダーだよ」

「どちらにしても運送関係の仕事なんだろう? 大丈夫なの?」

「あのねえ、母さん。それはトランスポートだ。僕が就職する会社はホに点々で、ポじゃなくてボ。トランスボーダーという社名だ」

「トランスボーダーってどういう意味なの?」

「ボーダーとは国境とか境界線を意味する言葉だよ。トランスボーダーとは境界線を越える・跨ぐという意味の新しい言葉だ」
 それは会社訪問の際の聞きかじりだった。

「麻有はその境界線を跨ぐ会社でどんな仕事をさせてもらえるの?」

「それは就職してみないと分からないよ。とにかくトランスボーダーという会社はIT企業なんだ。IT企業って分かる? グーグルとかヤフーとか楽天とか、その手の最先端分野の会社だよ」
 少しホラ吹き気味になってしまったが母にはこの程度言って丁度良いのではないかと思った。

「ブラック企業じゃなければ良いんだけど」

「母さん、就職が内定したんだよ。祝ってくれるの、ケチをつけてるの?」

「勿論祝ってるわよ。おめでとう、麻有」

「父さんたちにもちゃんと伝えといてよね」

 いやはや、悪意は無いのだろうが、親とは面倒くさい存在だ。母は心配性なのか、物事を悪い方へ悪い方へと考える傾向がある。僕は細かいことは気にせず、どんな場合でも、きっとうまく行くだろうと気軽に構えられる方だ。僕は多分父方のDNAをより濃く受け継いでいるのだろう。

 四月四日の月曜日、僕は就活を始めた際に買った黒のスーツと白の無地のカッターシャツに紺色のネクタイでビジネスマン風にバッチリと決めて入社式に臨んだ。四月一日は創立記念日のため休みだった。毎年度の初日が休日という、余裕のある会社だ。入社式と言っても、今年の新入社員五人が会議室に集まって社長から訓示を受けただけだった。その部屋のドアには第一会議室という表示があったが中に入ると六畳ほどの小部屋で、椅子も机も無く、中央にスタンドバーのような丸テーブルが立っているだけだった。

 驚いたことに社長は赤いポロシャツにヨレヨレのズボンにビーチサンダルというちぐはぐな姿で現れた。新入社員側も正装しているのは僕だけで、もう一人の小柄な男性は社長に負けない程ヨレヨレで膝に穴の開いたジーンズを履いていた。残りの三人は女性で二人がジーンズ・パンツ、もう一人はパンティーが見えそうな短いキュロット・パンツをはいている。女性全員が圧倒されそうなほど背が高く、しかもやたらと高いハイヒールを履いていた。

「今日からトランスボーダーの社員になった諸君、ようこそ!」
 結構固いイントロだったが、社長が五十代とは思えない軽いノリで話したので僕は実際に歓迎されていると感じた。

「トランスボーダーという社名はご存知の通り境界を跨ぐ、超えるという意味だ。私たちを取り巻く社会を見てみると、至る所に境界があり、そして様々な制約や制限がある。まず国境。日本と韓国のように海という物理的な境界で隔てられている場合もあるが地続きの国境も多い。国境のこちら側とあちら側では言葉も生活習慣も異なる。

 物理的な境界線を伴わないボーダーも多い。例えば男性と女性、若者と老人、大卒と高卒、管理職と非管理職、総合職と一般職、職場と家庭、成人と未成年。私たちは毎日ボーダーにぶつかるたびに、自分はその境界のどちら側にいるのかを考えてそれに相応しい行動をすることになる。

 境界の存在は私たちの思考や行動に制限を加え、自由な発想や創造的な行動を困難にすることが多い。私は境界の無い社会、境界による壁が低い社会、境界を跨いで交流しやすい社会を作れないものだろうかと考えた。そこで先祖伝来の田畑を売り払い私財を投げうって、トランスボーダーという会社を作ったんだ。いいか? ボーダーレスではない、トランスボーダーだ。境界は必ずしも悪ではなく、社会の秩序を守るというメリットがある。

 例えば男性と女性という境界を完全に撤廃するとトイレも共通、結婚も恋愛も男性同士や女性同士も当たり前という、少なくとも私にとって居心地の悪い状況になる。誤解しないように言っておくが、私はLGBTなどのセクシュアル・マイノリティ―を差別するわけではなくむしろ暖かく保護する立場だ。しかしそれは例えば男性しか愛せない男性でも気兼ねなく働ける会社を作るということであり、性的にノーマルな社員にホモを推奨するということではない。

 私が作りたかったのは、男性だからこうすべきだとか、女性だからこうしろとか、旧来の常識にとらわれずに男女が自由に自己表現できる会社だ。私は社員の採用に関しては女性はリーダーシップがあって体格が良い人、男性は小柄で見栄えが良く従順なタイプを優先してきた。男性はどうあるべきか、女性はどうあるべきかという固定観念を打破した採用をすることによって、男女の垣根が低く、自由な発想を可能とする職場ができたと自負している。

 性別だけではなく、年齢や職級についても同様の考え方だ。当社では管理職、非管理職、総合職、一般職などの区別は無く、社長、管理部長、営業部長以外は全員が標準職だ。ちなみにソフトウェアの製造・開発・企画は社長である私の直轄となっている。標準職社員はプロジェクトに応じてチームを組み、その中でリーダーが自然発生的に決定される。人事考課及び給与は、各社員の実績、チームでの仕事ぶりなどにより、社長と各社員が一対一で考課面談を実施して決定する。従って、一般企業でありがちな上司の顔を見て仕事をするような風潮はあり得ない。私の評価だけは気にしてもらわなきゃならないがね、アッハッハ」

 僕は社長の話が予想以上に進歩的なことに感銘を受けた。テレビドラマやネット上の記事でよく見かけるのは、若い社員が配属された部署の直属の上司とか、無能で偏見だらけの課長や部長にいじめられ、虐げられるという話だ。トランスボーダー社の場合はこの温厚で包容力がありそうな社長が全てを握っているわけだから、万一虐めや非道な扱いを受ければ社長に直訴すれば解決してもらえそうだ。母がブラック企業ではないかと心配していたが、ここはホワイトどころか透明な会社だ。僕としては社長に嫌われないことだけに気を付けていればよい。元々人懐こくて要領が良いと言われてきた僕にはピタリの会社だ。

「何か質問はあるかね?」

「フラットな組織ということは、出世も無いわけですか? 管理部長か営業部長になれない限りは一生新入社員と横並びなのですか? 女性がリーダーシップを発揮できる会社と言われたから入社したのですが」
 颯爽としたジーンズパンツの女性が質問した。随分強気な発言をする人だなと思った。

「管理部長は管理のプロ、営業部長は業界で百戦錬磨の営業のプロだ。君たちが管理部長や営業部長になる可能性は少なくとも十年は無いと思ってくれ。いずれ分かってくると思うが、当社にはリーダーやスターが沢山いる。能力、人格、業績などの要素によって、社員からリーダーやスターと認識される人物が自然に出てくるんだ。そんなリーダーやスターはプロジェクトに応じて自然にチームを率いるポジションになる。当社の給与水準は業界平均並みだが、リーダー、スターは二十代でも平均の数倍になる場合も多い。だから君のようなリーダー志向の強い女性にとっては非常に働き甲斐のある職場だと思うよ」

「あのう、リーダーやスターになれない場合は十年選手でも新入社員と同じ扱いになるんでしょうか?」

 風采のさえない男性が自信なさそうな表情で質問した。名札を見ると柳大悟郎という見かけにそぐわない名前が書かれていたが、僕は笑いをこらえた。

「私は人事考課において経験、技能など、蓄積による部分の評価も重視している。十年選手は経験に応じた技能を持っているから新入社員と横並びということにはならない。勿論、向上心が無く勉強もしなければ、給与も上がらず、自然に篩い落とされていくだろう。それはどこの会社でも同じじゃないかな」

 何も質問をしないと消極的だと見られないかと考え、僕は「ハイ」と手を挙げて質問した。

「配属部署はいつ教えて頂けるんでしょうか? どんな仕事をさせて頂けるのか早く知りたいのですが」

 早く仕事をしたがっている前向きな新入社員と思ってもらえると期待したが、社長の反応は冷淡だった。

「配属は無い。つまり、管理部・営業部ではなく、私の直属の部下のクリエイターということになる。どんな仕事をさせてもらえるか、という受け身の考えは捨ててくれ。青葉君、君は自分で仕事を作るのだよ」

 僕は社長に受け身と言われて気まずい思いをしたが、いきなり自分で仕事を作れと言われても困る。だが、これ以上下手に質問をしていきなり社長の印象を悪くすると致命的だと思って口をつぐんだ。

「自分で仕事を作れと言われて、それ以上質問は出ないのかね?」
 社長が僕の目を見て言った。しまった、テストされていたんだ。何と答えたらいいのだろう……。

「プロジェクトは与えられるのではなく、私たちが創造するわけですね。それではチームも割り当てられるのではなく、自由に組めると考えてよろしいですか?」

 僕にとって助け舟のような質問をしたのは先ほどの颯爽とした女性だった。

「その通りだ。他のチームに所属していない人員がここに五名いる。新しいプロジェクト、それに必要な新しいチームを作る好機が君の目の前にある」

「ありがとうございます」

 この女性は何に対してお礼を言ったのだろうか? 僕には意味が分からなかったが彼女は顔を輝かせていた。

「入社式はこれで終わりだ。自由に仕事に取り掛かってくれ。困ったことがあったらいつでも相談に来なさい」
 社長は僕たち五人を会議室に残して出て行った。

「仕事に取り掛かれと言われても困るよね」
 柳大悟郎が独り言のように言った。

「この会社って何をしている会社なんだろう。さっき社長がソフトウェアの製造・開発・企画とか言ってたよね」
と僕は思っていることを口に出した。

「君、青葉麻有という名前なのね」
 さきほど社長に「ありがとうございます」と言った威勢の良い女性が僕に言った。名札を見ると香月翔と書かれていた。

「マユじゃなくてマユウと読むんだ。男だから」

「マユちゃんでもマユウくんでもどちらでもいいけど、君はトランスボーダーがどんなソフトウェアのメーカーか知らずに入社したの?」

「すみません。ソフトウェアってよく分からなくて……」

 香月は「ふうっ」とため息をついたが、バカにしている様子ではなく優しい口調で説明してくれた。

「現在のトランスボーダーの売り上げの七十は社名と同じ名前のゲームソフトよ。トランスボーダーという少女漫画のヒット作品をゲーム化したもので、プレイヤーがゲームの構成を変えられる自由度が高いのが特徴なの。トランスボーダーは女性戦士が主人公で、美少年を捕まえて女性化することによってパワーアップするのよ。私たちの世代の女子なら誰でも知ってるゲームだけど、君は知らなかったのね」

「知らなかった。女性戦士が主人公のゲームなんて僕たち男子には縁が無かったもの。でも、美少年を捕まえて女性化するとは変態ゲームみたいだね」

 三人の女性が声を揃えて笑った。

「よりによってキミがそれを知らずにトランスボーダーに入社するというのが笑いのポイントなんだけどな」

 名札に三枝琴子と書かれたミニのキュロットの女性が僕をからかうように言った。

「社長は元々ゲームソフトのプログラマーだったけど、トランスボーダーをゲーム化する権利を買い取って独立して、ひと山あてたわけよ。さっきの社長の演説は随分理屈っぽかったけど、女性戦士が活躍して美少年に性別の境界を越えさせるというのがトランスボーダーの本質よ。それ以外の理屈は後付けでわざとらしい気がしたわ」

「じゃあ、僕たちはゲームを作れば良いんだね」

「勿論そうよ。当社の強みはジェンダーが交差するゲームだけど、少女漫画の読者層という境界から離脱できていない。その境界を乗り越えることをチームのコンセプトとして、新らしいゲームソフトを企画しようよ」
と香月翔が答えた。

「アダルト・ゲームにしてしまうとトランスボーダーの良さが消えてドロドロしたつまらないものになる可能性があると思う」
と三枝琴子。

「私もそう思う。メイン・ターゲットは二十~三十代の女性でいいんじゃないかな」
と言った女性の名札には近藤秋絵と書かれていた。

「そうね、ターゲットとして男性層を意識したゲームにすると、トランスボーダーを読んで育った既存顧客基盤から離れることになって不利だわ」
と三枝。

「でも、メイン・ターゲットの二十~三十代の女性の趣味趣向に賛同し追随する男性、例えば彼氏、夫などを引き込めれば市場規模が大きくなるわよ」
と香月が言った。

「賛成、その方が面白いわね。それで行こう」

 三人の女性はやる気満々と言った感じだ。

「僕もそんなことができればいいんだけど、ソフトウェアの作り方も知らないし……。僕ひとりで他に仕事が作れるはずも無いし、どうしよう……」

 能力の無い人間はこんな形で篩い落とされて失業者~フリーター~ホームレスという道をたどる運命なのだろうか。

「コードは書けるの?」
と三枝が僕に聞いた。

「コードって何?」

「プログラム言語は何が得意なの?」

「???」

「C言語は出来るわよね?」

「ごめんなさい、僕、言語は日本語以外は英語が少しわかるだけで……」

「まいったなあ、どうしてこの会社に応募したのよ? よく採用されたわね」
 三枝は僕を見放したようだった。

「……」

「大丈夫よ。コードを書けなくても色々仕事はあるわよ」
 香月が天使に見えた。

「僕も入れてくれるの?」
 僕は三人の女性の顔をひとりひとり見て「イエス」の答えが返って来ることを祈った。

「まあ、トランスボーダーのゲームの中から抜け出したような子がアシスタントとして加わっても邪魔にはならないわよね。会社が青葉君を採ったのはそういう考え方なんじゃない」

 近藤秋絵が言って香月と三枝が
「ウフフ、そりゃそうね。それに、異なる感性を持った人をチームに入れるのは良いことよね」
と賛成した。
 僕はひとり除け者にされる恐れが無くなって思わず「やったあ!」とガッツポーズをした。チームの中での位置づけはアシスタントでも、技能が無いのだから仕方がない。

「柳君はどうするの?」

 僕は柳大悟郎ひとりが仲間はずれにされないかと他人事ながら心配した。

「僕は3Dレンダリングでお役に立てると思うよ」
と柳がボソッと言った。

「ええっ! やっぱりあなたがあの伝説の柳大悟郎さんなの?」
と三枝が素っ頓狂な声を上げた。近藤と香月が
「ウソでしょう!」
と息を飲んだ。

「このかた、3Dゲームでは世界的に有名な方なのよ」
 香月が僕に教えてくれた。

「じゃあ、これで決まりね。良いチームが出来そうだわ」
 香月が目を輝かせて言った。

「リーダーは言い出しっぺの香月さんね。よろしくっ!」
 近藤が言って全員が賛同した。

第二章 トランスボーダーでの仕事

「じゃあ、第一回企画会議をやろうよ」
 香月が言って、五人がスタンドの周りに集まった。

「まず、ターゲット・オーディエンスはトランスボーダーを読んだことがある二十~三十代の女性、及び彼らの趣味趣向に賛同し追随する男性ということでいいわね」

「潜在的にアクティブでリーダーシップのある女性が実世界で発揮できないリーダーシップをゲームの中で実現する」

「さっき青葉君が変態と称したけれど美少年の女性化がメインテーマでいいかな?」

「美少年に限らず一般男性の女性化も含められないかな? 長身のイケメン男性の女性化まで含めると女性客層が拡大するわよ」

「一般男性の女性化だとゲームの世界から美しさが損なわれないかな?」

「ゲームをプレイしている女性はトランスボーダーの長身美女になりきっているから、一般男性を女性化させたような、美しさが劣る女性を見て優越感を味わえるんじゃないかな」

「でもブスの男性は含めない方が良いわよね。例えば、プレイヤーが貯めたコインによって、自分が目を付けた男性をパワーアップして美少年化できるというのはどうかな?」

「それ、実にいい考えだわ。その線でアイデアを練りましょう」

「長身イケメン男性の女性化はどうする?」

「私は反対。トランスボーダーにとって男性は戦利品だったりペット的なものだったり、自分に従属すべき存在よ。長身イケメン男性を女性化するとなると、トランスボーダー自身より背が高い美女になるわけでしょう。ライバルを作る感じにならないかな」

「そうね。女性がアクティブにリーダーシップを発揮するのがトランスボーダーの基本だから、イケメン男性の女性化はやめとこうよ。イケメン男性はトランスボーダーのプレイヤーから見て恋愛対象の男性という位置づけにしておこう」

「賛成」

「女性のプレイヤー自身が男性に変身するのはアリかなあ? 双方向に境界を行き来できたら面白いんじゃない?」

「難しい問題だわ。トランスボーダーのコンセプトが根本的に影響を受けるもの。私たちが男性になりたいかどうか、という問題になって来る」

「たとえば美少年を女性化させて自分のものにするとして、結婚しようとしたら同性婚になるわ。少女漫画だと詳しく考える必要は無かったけど、二十~三十代をターゲットにしたゲームだと結婚も想定に入れる必要があるんじゃない? LGBT問題までカバーしようとすると泥臭くなるかも」

「とりあえずプレイヤーの男性化は度外視して、走りながら考えることにしようよ。ケースバイケースならアリかもしれないわよ。例えば私が青葉君を女性化した場合には、自分が男性化した方がしっくりくる気もする」

「香月さん、マユが居づらそうにしてるわよ。セクハラになるからそういう話には気を付けようよ」

「ご指摘の通りだわ。ごめんね、マユ」

「マユじゃなくてマユウなんだけど……」

「かなりクリアーになってきたわね。並行してキャラクター案を作ろうか」

 香月がそう言ったところで、ドアがノックされて三十代半ばのキャリヤーっぽい美しい女性が部屋に入って来た。

「管理部長の飛山英里佳とびやまえりかです。入社式は楽しめたかしら? これから先輩たちへの紹介かたがた社内を案内するわ。ついてきてちょうだい」

 管理部長と言う肩書から僕は五十代の男性を想像していたが、美しくセンスの良さそうな女性だったので驚いた。飛山はベージュの上品なツーピース・スーツを着ていた。七~八センチのハイヒールのパンプスを履いていたが香月たちと違って見上げるほどの長身ではなく、百六十五~百六十六センチ程度のようだ。勿論女性としては背が高い部類であり僕より二~三センチ高いのだが、大女ぞろいのトランスボーダー女子社員の間に立つと小柄で華奢な感じに見えた。

「君が青葉マユね」
 突然名前を呼ばれた。
「は、はいっ」
と答えた後、
「マユじゃなくマユウと読みます、男ですから」
と念のために申し添えた。

「今、どうしてこの女性だけがこんなにチビなのかという目で私を観察していたでしょう」

 飛山は僕の前に至近距離で立ち、僕を見下ろしながら言った。

「チビだなんてとんでもございません。フェミニンで美しい方だと思って見ていました」

「良い答えね。この会社は十二年前に社長と私と営業部長の結城さんが立ち上げたのよ。だから私と結城さんは身長制限の対象外なの、アハハハハ。結城さんはたまたま百七十五センチのスポーツウーマンだったんだけど」

「創立者の一人とはすごいですね」
と無難なコメントをしておいた。

「設立後の社員の採用について女性は社長の好みで、男性は私と結城さんの好みで選ぶことになったのよ。だから女性社員は社長の好みと思想を反映して全員が百七十センチ以上、男性社員は全員美少年系になった。結城さんと私が合意できるほどの美少年はどこにでもいるわけじゃないから一昨年・昨年は男性採用がゼロだったの。だから今年は外観以外の選考基準を大幅に緩和した結果やっと一人採れた。それがマユちゃんよ」

 選考基準を大幅に緩和したと言われて僕は恥ずかしい思いだった。香月たちが僕を見ながら笑いを堪えているのがわかった。
「だからコードもかけないのに採用されたのか」
という三人の心の声が聞こえる気がした。

「恥ずかしがらなくていいわよ。マユちゃんはそれだけ貴重な存在なんだから。大変だと思うけど頑張ってね。もし行き過ぎたセクハラを受けたりしたら私のところに相談に来なさい。そうそう、柳大悟郎さんはマユちゃんとは異なる基準による選考よ。柳さんも高身長女子がお好みだから当社に応募して頂いたそうで本当に当社としてはラッキーだったわ。柳さん、当社の3D技術の核になってくださることを期待していますね」

 柳は満更でもないという表情をしていた。いきなり役員から敬語まじりで話しかけられる存在であり、僕とは全く扱いが違う。

「さあ、ここがカフェテリアよ。トランスボーダーの社員は一日中好きな時にコーヒーやソフトドリンクが飲めるし、昼食時にはサンドイッチ類、定食、豚骨ラーメンが食べられる。ここの豚骨ラーメンは本場の味で好評なのよ。完全無料で、食べたいとき、飲みたいときに自由に来てもいい。ほら、先輩社員が三人、打ち合わせをしながらコーヒーを飲んでいるでしょう」

「すっごい! 全部タダだなんて! 毎日会社に来るのが楽しみになりますね」

 僕が感動して言うと、同期の四人から白い目で見られた。無料カフェテリアについて知らなかったのは僕だけだったようだ。

「カフェテリアの隣にはクリエイティブ・ルームが二部屋続いている。それが企画、開発の作業室。君たちの仕事場よ」

 カフェテリアに隣接するクリエイティブ・ルームはがらんとした広い部屋で、会議室で見かけたような円形のテーブルスタンドが数か所にあり、壁際にはパソコンが点在していた。

「この部屋と隣の第二クリエイティブ・ルームに約四十台のワークステーションがあって、君たちはどれでも好きなワークステーションからログインして作業が出来る。他社のように決まった席は無いし、会議は基本的に全て立って行うからスペースも時間も最小限で済む。必要なときにサッと集まって、話が終わったらサッと散ってワークステーションで作業するというイメージね」

「立って会議するというのは合理的なシステムですね。社長が考案されたのですか?」
 三枝が質問した。

「社長は嫌がっていたのよ。社長は百六十三センチしかないチビだから、結城さんや私がハイヒールを履いて立つと、社長は私たちを見上げて話す感じになるのよ。立って会議をしていると背が高い方が優位に立てるから女子社員は必ずハイヒールを履くようになったの。五、六年前に結城さんが男性社員のペッタンコ靴推進ルールを打ち出して、今は男性が二センチ以上のソールの靴を履くことは禁止されている。社長がビーチサンダルを履いているのはそのためよ。このルールは女性がリーダーシップを発揮する社風の醸成に役立ったと思うわ」

「そりゃあそうなりますよね。例えば私たちとマユだと元々十センチ前後の身長差があって、さらにヒールの高さが五センチ違うから、私たちから見るとマユは子供みたいに見えるもの」
と近藤秋絵が言った。

「でもマユ、あんたが履いてる靴は踵が高いんじゃない? 二センチ以上はあるわよね」
と三枝に聞かれた。

「ごめんなさい、知らなかったもので……」
と答えると飛山部長が
「入社前に皆さんに送ったルールブックにちゃんと書いてあるわよ。男性の希望者だけに支給する既定の革靴があるから、あとで履き替えなさい」
と僕に言った。

「さあ、次はワークステーションへのログイン方法を教えるわ」
 飛山が近くの端末の所に行き、モニターの横に付いているボックスに香月の社員カードを近づけるとピッとログイン画面がポップアップした。

「香月さん、あなたのログインIDは社員カードに書いてある社員番号よ。パスワードは八ケタの生年月日に仮設定してあるから、初回のログイン時にアカウント設定メニューからパスワードを変更しなさい。プロジェクトを設定する度にリーダーがメンバーを選んで入力すると、プロジェクトごとのワークショップができるのよ。日常業務はそのワークショップの中で実施することが多いと思うわ。じゃあ、皆、ログインしてパスワードの設定をしてみて」

 新入社員五人はそれぞれにワークステーションでログインし、パスワードを設定した。香月は先ほど結成したばかりのプロジェクトを早速登録したようだった。というのは、僕のデスクトップに「トランスボーダー・ニュージェネレーション」という、プロジェクトのアイコンが突然現れたからだ。それをクリックすると、ワークショップに入ることが出来て、現在ワークショップに在室中の五名のアバターが右下に表示されていた。

「さあ、皆、社員カードでタッチしたらログアウトのスクリーンが出るから、ひとまずログアウトしてからここに集まって」
 飛山に言われてログアウトし、飛山の周りに集合した。

「もう一つのクリエイティブ・ルームは、この部屋よりもう少しにぎやかよ」

 飛山の後について第二クリエイティブ・ルームに入ると、打って変わって賑やかな光景が目の前に広がった。

 部屋の中央のテーブルで会議をしていた三人組の一人は銀色に輝くボディーフィットの衣装で、メタリックなヘッドギア―とブルーの超合金のロングブーツで身を固めた長身の女性戦士だった。胸は真っ赤な超合金ブラに覆われた巨乳だ。右手にはブーツと同じ色の長い超合金ソードをかざしている。ロングブーツは十五センチはあろうかと思われる高さだ。

 女性戦士の向かいには黒づくめのレザーに身を包んだキャットウーマンのような女性が、これもやたら高いブーツ姿で立っていた。黒い方が悪役なのだろうか。

 その横にマイメロディーのようなピンクのウサギ頭巾をかぶり、クラシックバレーのチュチュ風のスカートを履いた白いタイツの小柄な少女が立っている。この会社の女性社員は飛山管理部長を除いて全員百七十センチ以上のはずだから、マイメロディー風の少女は先輩男性社員である可能性が高い。

 銀色の女性戦士と黒ずくめのキャットウーマンが何やら激論を交わしていて、マイメロディー風の少女が二人を見上げながら時々口を挟んでいた。近づいてみると女性戦士とキャットウーマンは喧嘩をしているのではなく、ストーリーの展開について議論をしているようだった。

「ゲーム関係のプロジェクトの場合は、当初からチームメンバーの各々に主要な役が割り当てられる場合が多いのよ。ゲームの中の役に相応しいコスチュームに身を固めて作業を進めるからリアルな作品が作れるわけなの。製作が佳境に入るとあんなコスチュームのまま何日も会社に寝泊まりする場合もあるのよ」

「あのう、マイメロディーの女の子の中身は男性社員でしょうか?」
 僕は小声で飛山に質問した。

「勿論よ。キャットウーマンが美少年を女性化してウサちゃん少女にしちゃったわけね。それをあの戦士が救い出して自分の妻にするつもりなんじゃないかな」

 飛山はそう言ってから三人に近づき、キャットウーマンに質問した。

「あなたが美少年をウサちゃんに変えてしまって、この戦士が救出するというストーリーなの?」

「部長、そんなクラシックな展開のゲームでは売れませんよ。美少年が女性戦士を誘惑して殺害しようとして、感づかれてウサギに変えられてしまうんです。それを私が救出して人間に戻してやろうとしているところです。私がこの戦士を倒さないとウさちゃん少女は再び動物のウサギに戻されるんですよ」

「じゃあ、女性戦士の方が悪役なのね?」

「善悪は決めません。オンライン対戦ゲームですから、ゲーマーは戦士にもなれるし、キャットウーマンにもなることができるんです。戦士は動物のウサギが好きで、キャットウーマンはウサちゃん少女が好みというわけです」

「へえ、そうなんだ。面白い作品が出来ることを期待してるわ。邪魔してごめんね。新入社員たちに聞かれたから質問させてもらったのよ」

「これが噂の子ですね!」
女性戦士とキャットウーマンがツカツカと僕に歩み寄った。
「可愛い! 肌がプルンプルンだわ」
という言葉を聞いてマイメロディー風の少女が傷つけられたという表情をした。

「あなたがマユね。電話番号を教えて」
 女性戦士が僕を見下ろして言った。

「マユじゃなくてマユウなんです。男性ですので」
と答えると、
「うーっ、何て可愛い返事なの!」
と僕の両肩に手を置いた。

「ボディータッチはだめでしょう。セクハラよ」
とキャットウーマンが抗議した。
「私にも電話番号を教えて」

「ちょっと、あんたたち、業務中でしょう。ナンパは昼休みか終業後にしなさい」
と飛山が言うと、二人は「ハーイ」と答え、僕にウィンクしてからテーブルに戻った。

 窓に近いテーブルで会議していたのは女子高生戦士たちだった。何故女子高生戦士なのかというと、ふつうの女子高の制服を着た女性がマシンガンを斜めに持っていたからだ。普通の女子高生と違うのは身体のプロポーションだった。少なくとも十五センチはあるブーツを履いていて、スカートはパンツが見えるほど短いので、足が極端に長く見える。三人の女子高生戦士の真ん中に小柄で華奢な本物の女子高生が立っている。僕の推理が正しければあの女子高生は四年目の男性社員だ。というのは、彼女(彼)は化粧もしていない様子なのに僕の同期と思えるほど若いからだ。僕が入社するまで一番若かった男性社員はあの人なのだろうと推測した。

「どう、君たち、プロジェクトは順調に進んでる?」
 飛山は女子高生戦士軍団に声をかけた。

「手応えのある作品が出来そうですよ」
 女子高生戦士の中でひときわ背の高い一人が答えた。日焼けした彫りの深い顔がショートカットの髪型に映えている。僕はその女性を見ると太ももに鳥肌が立って背筋がジーンとした。彼女は僕のすぐ前まで歩いて来て僕を見下ろし
「君がマユとかいう新入社員だな?」
と男性のような口調で聞いた。僕は心臓が止まりそうになり
「は、はい」
と答えるのがやっとだった。

「次のシリーズには新しいキャラクターを追加する予定なんだ。マユも参加してくれ」

 僕は彼女に誘われて頭がぼーっとしてしまい、「はい」と答えようと口を開きかけた。

「マユは今日立ち上げた新しいプロジェクトに登録したところです」
と香月が口を挟んだ。

「そうか、一足遅かったか。じゃあ、また声をかけるよ」
と言って彼女はテーブルに戻った。

「バカ、ぼーっとしていないで、ちゃんと断りなさいよ。今、ハイと言いかけてたでしょう」
 香月が僕の頭をげんこつで軽く殴った。

「ご、ごめんなさい」
 僕は香月に頭を下げた。

「この子、ぽーっとして口を半開きにしていたわ。あんなワイルドな女が好きなのね。マユと呼ばれたから、いつものようにかわいこぶって『男だからマユウですぅ』とかなんとか言うかと思ったのに、ハイと答えたからびっくりしちゃった」
と三枝が僕をバカにしたように言った。

「こんな子をチームに入れて大丈夫なの?」

「ごめんなさい、これからはしっかりするから、許して」
と三枝に深く頭を下げた。

 僕と女子高生戦士が言葉を交わしている間、飛山は小柄で華奢な女子高生の所に行って親しそうに話をしていた。
「マユ、ちょっと来て」
と飛山に呼ばれて行くと
「雪村君、これが青葉マユちゃんよ。ユキにしか教えられないことがあるでしょうから、頼んだわよ」
と紹介された。

「青葉マユウです。麻に有りと書いてマユウと読みます。よろしくお願いします」
と自己紹介した。

「雪村航太です。こちらこそよろしく。会社で後輩ができたのは初めてだからうれしいよ」
と雪村が微笑みながら答えてくれた。

「雪村君は優秀なプログラマーでもあるのよ。天が二物を与えたというか……。私が彼を採用したんだから」
と飛山が自慢した。それは僕が外観だけで採用されたことの裏返しのようにも聞こえて、特別な能力のない自分が恥ずかしかった。

「木曜日に若手男性社員だけの飲み会があるから青葉君たちにもメールを流しておくよ。これまでは僕が最年少だったから君たちが入ってくれて助かるな」

 僕と似た体格の女子高生に先輩男性のような口調で話をされたので少し違和感があったが、社内で似たような立場の男性社員と知り合いになれて、何かほっとした気持ちになった。きっと先ほどのマイメロディー風の少女もその飲み会に来るのだろう。

 飛山は第二クリエイティブ・ルームに居た他のグループにも声をかけて僕たちを紹介してくれた。そのたびに
「うわさのマユね、電話番号を交換して」
と言われ、飛山が
「仕事中でしょう」
と彼らをたしなめた。僕は先ほど三枝に『かわいこぶって、男だからマユウですぅ』と真似されたことで傷ついていたので、マユと呼ばれても否定しないことにした。

 僕がナンパ的な言葉を先輩社員からかけられるたびに三枝は露骨に不快感を表した。僕自身がチャラチャラした態度を先輩に示しているわけでないのに
「あんた何が目的で就職したの?」
と三枝に言われて腹が立った。香月と近藤は僕が大勢から声をかけられるのを面白そうに横目で見ていて、呆れ顔で
「苦労するわね」
と声をかけてくれた。僕は生まれてから今年までのバレンタインデー全部を合計したよりも女性からチヤホヤされて、
「生まれてきてよかった」
と母に感謝したい気持ちになった。

「次は管理部に行くわよ」
 飛山に続いて次の部屋に入ると、そこは三十代と思われる男性ばかり五名の事務室だった。

「総務、経理、財務、人事などの管理業務を担当する部署よ。困ったことがあったら優しいお兄さんたちが助けてくれるからいつでも相談に来てね。若手男性には厳しいという噂もあるけど、ウフフ」
 飛山の言葉を裏付けるかのように、管理部の男性社員たちの突き刺すような視線が僕に集まった。

「そうそう、マユちゃんに靴を支給しなくちゃ。ええと、二十四・五ぐらいかな?」

「二十四の方が合うんですけど」

 飛山が持ってきたのは女子高生が学校に履いて行くような靴だった。

「女子高校生用の革靴みたいなデザインですね」

「近くの女子高の指定の靴よ。ちょっとチープな感じはするけど、一番安くて丈夫だから」

 履いてみるとサイズはピタリだったが、底の厚みが一センチあるかないかという感じだった。僕は七センチのシークレットシューズを履いていたので、目の高さが一気に六センチほど下がってしまった。

「こんなに小さかったのね」
 飛山に見下ろされて赤面してしまった。

「まるで小学生ね。さっきまでは同期のぶりっ子と思ってムカッとしたけど、腹を立てた自分が恥ずかしくなった」
と三枝がわざと接近して立って僕を見下ろした。

 管理部の次は営業部に連れて行かれた。結城部長の下に二十代後半の女性社員が一人いるだけの小さな部だった。結城部長に挨拶したところ、
「本当は君をうちの部に採りたかったんだけどなあ」
と言われた後、電話番号とメールアドレスを交換してくれと言われた。助け舟を出して欲しくて飛山を見たが視線を逸らされた。仕方なくスマホを出して電話番号とメールアドレスの交換に応じた。

 営業部の部屋を出た後、
「結城部長はマユに相当興味を持っているわよ。手が早いから気をつけなさい」
と飛山に耳元で言われた。

 次に連れて行かれたのは二階の奥にある「男子更衣室」と表示された部屋だった。
「あなたたちがこの部屋に入れるのは一生でこれが最後よ」
と飛山が三人の女子に言った。

 その部屋には四十センチ幅の立派なロッカーが八基並んでいた。

「一般更衣室のロッカーは二十二・五センチ幅しかないのよ。着せ替え人形の男の子だけに大きなロッカーが与えられるの」

「着せ替え人形……?」

「あっ、ゴメンゴメン。ソフトウェアの企画・開発担当の若い男子社員は毎日色んなコスチュームを着て仕事をするから、そんな隠語で呼ばれることがあるのよ。本人の前で使っちゃいけない言葉だったわ」

「……」

「なんて顔をしてるの? 若くて可愛い子だけがそう呼んでもらえるんだから、賛辞と思って欲しいわ。コスチュームを着る必要のない業務になったら一般更衣室に移ってもらうことになるんだから」

「一般更衣室って、女性社員が着替える部屋じゃないんですか?」

「そりゃそうよ。うちの会社は男女の境界が無いもの。マユちゃんは自分よりずっと大きくて腕力の強い女子社員たちに混じって一般更衣室で着替えるのは怖いでしょう? だから若くて可愛い男の子には男子専用更衣室のロッカーを割り当てるのよ。柳大悟郎さんは着せ替え人形じゃないけど特別待遇で男子専用更衣室を割り当てた」

 それまで柳は複雑な表情で話を聞いていたが、特別待遇と聞いて表情が明るくなった。

「この部屋にはロッカーが八個しかありませんよね。男子社員は十五人と聞きましたが、七人は一般更衣室ということですか? 管理部のお兄さんたちは仕方ないでしょうけど、他にも三人が一般更衣室を使わされているんですか……」

「マユちゃんのような若くてかわいい子は当分そんなことは心配しなくていいのよ」

「当分」という言葉が胸にズシンとこたえた。来年ピチピチの男子新入社員が採用されたら、この八人のうち誰かが、恐らくは年増の男性が一般更衣室に移らされることになるのだろう。数年たったら僕にも「明日から一般更衣室に移りなさい」と言われる日が来るのだ。その時はどんな気持ちがするのだろうと思うと鬱々とした気分になる。僕も若さに衰えが出るまでにソフトウェアの開発者として力をつけなければと身が引き締まる思いがした。

 男子更衣室の後、一般更衣室に行った時、
「マユちゃんも参考のために見ておきたい?」
と飛山に聞かれたが、僕はドアの外で待たせてもらうことにした。僕が立ち入るべきではない神聖な部屋のように思えたからだった。柳が気軽に見学に入って行ったので驚いた。

 会社の主な施設を実際に見学して、僕もトランスボーダー・インクの一員になったのだという自覚が湧いてきた。


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