雷に打たれた女・「性転のへきれき」 美玖の場合

桜沢ゆうの小説「性転のへきれき」とは青天の霹靂のような性転換を連想させるシリーズ名ですが、これまで、性転のへきれきシリーズの小説の中で、超自然的な現象やSF的なテクニックによる突然の性転換は一度も起きたためしがありませんでした。今回の「雷に打たれた女」では、主人公の男性が超自然的な力により一瞬にして20才の女性に憑依します。へきれき(雷)が落ちた瞬間の転移ですので青天の霹靂本来の意味の通りです。そんな性転換は小説全体の長さの僅か1.5%地点(小説の文字数による計算値)で起きてしまい、この小説の98.5%は性転換後のお話しです。

(同人評) 従来の人格交換・憑依・転移ものの小説とは全く異なる、シリアスな男女転移ストーリー。長編小説の大半を20才のOLの心と体で体験する錯覚を覚えるほどの臨場感がある。サスペンス要素も交えつつ迎える感動のフィナーレが秀逸。


第1章 青天の霹靂

夏休み明けの第一週、怠け癖のついてしまった心と身体を叱咤して何とか勤め上げた金曜日の夕方。

5時半の終業のチャイムを待ってパソコンのスイッチを切り、帰宅し始めた女子社員たちに「お疲れさま」と声をかけつつ時計が5時40分を指すのを待つ。

茅場町駅5時46分発のJR総武線連絡の東西線快速に乗るためには、会社を5時41分までに出る必要があるが、女子社員のように終業のチャイムと同時に席を立つと、いかにも窓際を自認するようなので10分間ほどは仕事をしているようなフリをする。

私は55才。営業部部長職の肩書だが、昨年、経営企画部長の席を後任に譲り、自他共に窓際社員と認める立場だ。大手商社を8年前に早期退職し、この中堅企業に転職した。25年間勤めた商社では2度のニューヨーク勤務を経験し、猛烈社員として仕事に没頭したものだった。今は子供たちも大学を出て自活し、毎週のように女房との週末旅行を楽しむ、私生活重視型のサラリーマンだ。

女房とはうまくいっている。女房以外の女に手を出したのはたった一度だけだ。2回目のニューヨーク勤務の際、私が赴任してから家族呼び寄せまでの約2か月間、7番街のアパートで独り暮らしをしている時に、ピアノバーでアルバイトをしていた夕子と付き合ったことがある。夕子は女房がニューヨークに来るのと丁度入れ替わるようなタイミングで帰国し、その日以降は音信不通になった。だから女房は私の浮気については全く知らない。

その夕子から昨日会社に電話がかかってきた。私が携わっていたプロジェクト案件が新聞のコラムに掲載され、私の名前と小さな写真を見た夕子が会社の代表番号を調べて電話してきたのだ。私は夕子を昼食に誘い、今日21年ぶりに一緒に食事した。夕子は40才を超えたのに21年前と変わない美しさを保っていた。福島に住んでいると言っていたが、自分の帰国後の人生や家族については話題に出さず、私も質問しなかった。電話番号もメールアドレスも言わずに帰って行った。夢のような、そして不思議な1時間だった。

残りの人生で、夕子と会うことは、もう二度と無いだろう。そんな予感がした。東西線の車内で隣に立った小柄な若い女性に体が触れ合わないよう必死で踏ん張り、万一痴漢と言いがかりを付けられても大丈夫なように両手で吊革にぶり下がりながら、夕子との不思議な再会の余韻を楽しんだ。

東船橋駅に到着して北口の階段を下り、線路に沿って家路を急ぐ。お盆休み前と違って、この時刻には、もう夕方の空気が漂っている。晴天だったのに電車が総武線に入る頃から空模様が怪しくなり始め、駅を出て30秒後、にわかに黒ずんだ空から大粒の雨がぽたりぽたりと落ち始めた。

「夕立が来る。」

本降りになる前に家にたどり着こうと小走りに急ぐが、10も数えないうちにバケツをひっくり返したような土砂降りになった。黒の書類鞄を頭の上にかざし、30メートルほど先の角にある大きな木の下で雨宿りをしようと必死で走った。

左折気味に木の下に駆け込んで止まろうとした時、側道から同じ木を目指して駆け込んだ女性が目に入った。淡いパステルカラーのワンピース姿の若い女性だ。お互い相手に気づいて衝突回避を図ったが、二人とも壁際の方に動いてしまった。避けきれずに、文字通りおでことおでこでゴッツーン、目から火花が飛び散った。

丁度その瞬間、その木を雷が直撃した。ドッカーン。大音響とともに、身体が宙を舞った。

何秒経過しただろうか。いや、数分間経ったかもしれない。気がつくと私は道路にうつ伏せに倒れていた。雨は止んでいたが、道路は池のように水浸しで、私はびしょぬれだ。

倒れたままの姿勢で顔を上げると、すぐ前に中年男性が仰向けに倒れていた。動きが無い。大丈夫だろうか。でも、私とぶつかったのは若い女性だったから、この中年男性は私たちの後から倒れこんできたのだろうか。

どこかで見たような顔・・・

それは私の顔と酷似していた。

さっき衝突した若い女性はどこに行ったのだろう。濡れた頭をぶるぶるっと振ると、長い髪が顔にバサッとかかった。あれっ、この髪の毛はいったい誰の髪の毛なんだ。手をやるとその髪は自分の頭から生えていた。頬を手で触ると髭の感触が無くすべすべしている。

「何だ、これは。」
と言いながら膝を立てて起き上がろうとしたが、私の口から出るはずの無い黄色い高い声が耳に響いた。

「ナンダ、コレハ。」

誰がしゃべっているんだろう。

自分が着ているワンピースは太ももまでめくれて、細長い脚が伸びている。足にはハイヒールのサンダルがストラップで固定されている。これは、さっきぶつかった女性そのものだ。

高いサンダルによろけながら立ち上がると、胸にゆっさりとした重みを感じる。

女性のオッパイじゃないか。あわてて手を胸にやると、手の感触が服を通して乳房に伝わる。これは紛れも無く自分の身体だ。まさか。おそるおそる股間に手をやる。無い!

「キャーッ。」
自分では「わーっ」と言ったつもりだったのが、女性の悲鳴になっていた。

私はへなへなとその場に座り込んだ。

数人が通りかかった。

倒れた中年男性を覗き込んでいる。
「もしもし、大丈夫ですか。」
肩を揺すっても反応が無いようだ。

「生きてるのか。」

「救急車だ。」

「この木に落雷したんだ。」

「木が焼けてる。」

「この木は塀で支えられているだけだ。風が吹いたら倒れるぞ。」
通行人の一人が携帯電話で救急車を呼んでいる。

「大丈夫ですか、しゃべれますか。」
通行人が私に聞いた。

私は何と答えてよいのかわからず、座り込んだまま呆然としていた。

救急車が来た。

倒れた中年男性、というか、私の本来の身体は担架で救急車に乗せられた。

「この女性もここで落雷にあったようです。」
通行人が救急隊員に告げ、私は抱きかかえられるようにして同じ救急車に乗せられた。

救急車は津田沼総合病院に急行した。

私は呆然としていて、救急車の中で何を聞かれてもどう答えればよいのか分からなかった。

ぶつかった瞬間に頭の中身が入れ替わったのか。いや、そんなことが起こるはずが無い。

でも、目の前の中年男性の身体は確かに自分のものだし、今の自分の身体は胸に双丘があり、股間には何もなく、髭の無いすべすべした頬をしていて、高い声で、淡いパステルカラーのワンピースを着ている。

鏡で確かめないと断言できないが、どう考えても木の下で衝突した女性の身体が自分の身体になってしまっている。

「そちらの男性の身体は、私の身体なんです。」
などと自分自身さえ信じられないことを訴えても事態が改善するとは思えない。

いっそ気を失ってしまえ、と上を向いて目を閉じたところ、本当に頭がぼおっとして意識が遠のいた。

 

第2章 病院にて

目が覚めると病院のベッドの上だった。

左腕に点滴の管が固定されている。頭が痛い。

ひょっとしてさっきのは夢だったのでは、と思い、右手で頭部を探ると、長い髪の毛が指にかかった。胸にはプニュプニュとした二つの塊りがあった。

作務衣のような病院着に着替えさせられていて、胸の隙間から手を差し込むと弾力のある乳房があった。裾を掻き分けて股間に手をやると、パンツの下は完全に平坦だ。思い切ってパンツの中に手をつっこむと、それは女性のアソコだった。

指を入れて確かめようとしたが、くっついているようでもあり、無理に指を入れようとすると痛かったのでやめにした。

私は木の下でぶつかった女性になってしまっていた。

そこに若い看護師が入ってきて、
「木下さん、気がつかれましたか。」
と明るい声をかけてくれた。

「木下・・・」

木の下でぶつかったから木下と呼んでいるとすれば悪いしゃれだ。

「木下さん、ご気分はどうですか。」

「私は木下って言うんですか?」

「木下美玖さんでしょう、わかりませんか。」

「何も覚えていないんです。」

「木下美玖さんですよ。」

ベッドの横の物入れの扉を開いてハンドバッグを取り出し、財布から運転免許証を出して私に手渡した。

木下美玖、平成7年3月29日生まれ。年齢で言うと何才だろう、頭がよく回らない。住所は船橋市西船橋小峰町3-15-2-326と書いてある。西船橋のアパートかマンションの326号室にすんでいるのだろう。

免許証の写真は確かにさきほどぶつかった女性だ。西船橋に住んでいて、あの木の下に私と反対の方向から歩いてきたということは、帰宅するために総武線に乗ろうとして東船橋駅に向かう道で夕立にあったのだろうか。

「そのバッグを見せてください。」
バッグの中に入っていたのはスマホ、化粧品、ハンカチ、財布、手帳と鍵だった。スマホはバッテリーが切れていた。

財布には千円札が2枚と小銭が入っている。イオンのクレジットカードと、VIEWスイカカード、それに三菱東京UFJ銀行のキャッシュカードが入っていた。

そうだ、私の身体はどうなったんだろう。もしこの女性の魂が55才の男性の身体に入り込んでしまったとすれば、彼女の方でも困っているはずだ。

「もう一度頭をガチンコしたら元通りに入れ替わるんじゃないだろうか。」
そんな考えが頭に浮かんだ。

「同じ救急車で運び込まれた男性はどうなりましたか。」
私は看護師に質問した。

「残念ですがお亡くなりになりました。落雷をまともに受けて即死だったようです。木下さんも本当に紙一重の所に居合わせて危ないところでしたね。」
なんと、私は戻るべき身体を失ったということなのか。

急に涙がどっと出てきて、嗚咽で喉が詰まった。泣くのをやめようと思っても身体が言うことを聞かない。

「ご一緒だったのですか。」

「いいえ、赤の他人です。」
泣きながら答えた。いつもの私とは違って涙もろくなっているようだ。

「一晩ぐっすり休んだらきっと良くなりますよ。ショックで一時的に記憶がなくなるというのはよくあることですから。」
看護師は出て行った。

何も考える力がなくなり、泣きながら寝てしまった。

翌朝、病室のベッドで目が覚めた。自分の身体がどうなったのか、気がかりでたまらない。

即死だったと看護師が言っていたが、もし身体が雷で黒焦げになっていないとすれば、魂が戻ると息を吹き返す可能性があるかも知れない、と思った。救急車に乗せられた時の自分の体は外観上は焼け焦げた様子は無かった。

遺体のまま時間が経つと体が腐るのではないだろうか。魂を戻したければ早くしないと手遅れになる。

とにかく遺体に近づかない限り元に戻るチャンスは無いだろうから、自宅に帰ることが最優先課題だ。

そこに昨日の看護師が入ってきた。

「元気になりましたから退院させてください。」
私は看護師に頼んだ。

「記憶が戻らないことには・・・・」

「昨日はぼおっとしていましたが、一晩寝たらすっきりしました。今日、友人と約束があるし、一刻も早く西船橋の自宅に戻りたいんです。」
と嘘を言う私。

「先生の診察の後で無いと・・・・」

「とにかく、一旦自宅に帰って用を片付けたらすぐに戻ってきます。」

「ちょっと待ってください。先生の診察の予定を確かめてきますから。」
ぐずぐずしている余裕は無い。自分の身体を取り戻すための時間はそんなに残っていないはずだ。

私はベッドの横のキャビネットの中にワンピースが折りたたんでしまわれているのを見つけて、急いで着替えた。パンツとワンピースだけを身に着けて、ベッドの下にあるハイヒールのサンダルを履き、バッグをつかんで病室を飛び出した。

看護師に見つからないよう、裏の非常階段から外に出た。

身体を動かすと、揺れる胸がワンピースの裏地に擦れて痛い。ヒールが7~8センチはありそうなサンダルを履いていると、まるでつま先立ちしているような感じだが、不思議にスムーズに歩くことができた。身体が覚えているのだろう。しかし、足早に歩くとつまずきそうになる。

タクシーを拾って、自宅のマンションの名前を告げた。自宅は東船橋にあるマンションで、いつも海外出張から帰国する時には京成津田沼駅から津田沼の総合病院の前を通ってタクシーで帰っていたので勝手は分かっている。

財布の中に2千円入っていたから、自宅までのタクシー代は十分払えるはずだ。

マンションの敷地内に着くと、いつものように「6号棟まで道なりにお願いします。」と運転手に言った。

一見日常的な状況なのに、スカスカのワンピースを着て高い声で運転手に話しているというのは妙な気分だ。

マンションのエレベーターの入り口に着いて料金を払った。エレベーターで12階に上がった。自宅のドアには小さな喪章が掛かっていたが、ドアは閉まっていて、チャイムを押しても応答が無かった。エレベーターを降りて、管理人室に行った。

「森村さんのお通夜はどちらですか?」
管理人は私のつま先から顔までジロジロと見た。

私はその時始めて、自分の服装が葬式には不似合いであることを認識した。

「お通夜は一昨日で、告別式は今朝終わったよ。」

「一昨日ですか?亡くなったのは昨日のはずですが。」

「一昨日の夕方の落雷で亡くなったのに間違いないよ。」

ということは、私は昨日意識が戻るまでに丸一昼夜寝ていたんだろうか。

「じゃあ、ご遺体は今どこに?」

「3時間ほど前に出棺したからから、もう火葬が終わったはずだ。」
目の前が真っ暗になった。私の身体は木下美玖の魂を宿したまま灰になってしまったのだ。

「ありがとうございました。」
管理人はまだ私を胡散臭そうな目つきで見ていた。

自宅のドアの前で妻を待って事情を話し、「僕の中身は死んではいないんだよ」と教えてあげたい。

でも、火葬場から帰ったところに、こんな服装の若い女が押しかけてくるというのは余りにも唐突だし、信じてもらえないかもしれない。

とにかく今となっては急ぐ意味がなくなったので、一旦木下美玖のアパートに行き、気持ちを落ち着けてから善後策を考えよう。

ハイヒールと格闘しながら東船橋駅まで小走りに歩き、西船橋までの切符を買うと、財布の中には300円しか残っていなかった。西船橋駅を出て、三菱東京UFJ銀行のATMにキャッシュカードを差し込んだが、暗証番号が分からないことに気づいた。

手帳に書かれている住所でマンションを探し出し、バッグの中のキーを差し込むとドアが開いた。

それは1LDKの普通のアパートだったが、私の自宅とは比較にならないほど雑然としていた。

リビングルームの真ん中に、スカートが脱ぎ捨てられていた。丸く広がったスカートの真ん中にショーツとストッキングが脱がれたまま放置されていた。木下美玖は出かけるときに余程急いでいて、このワンピースに着替えて部屋を飛び出して行ったのだろうか。

キッチンのシンクには使いっぱなしのお皿とコップが置かれていた。

急にお腹がすいてきたので、冷蔵庫を開けると、賞味期限が今日までのハムとしなびた野菜、冷凍庫には冷凍野菜が入っているだけだった。

キッチンのキャビネットにインスタントラーメンが見つかり、鍋にお湯を沸かし、ハムと冷凍野菜を入れてインスタントラーメンを作った。鍋のまま、ふうふうと冷ましながら食べた。

バッグの中のスマホを充電器の上に置いた。通話記録やメールを見れば木下美玖についての情報が得られるだろう。

とても風呂に入りたい気がして、浴槽にお湯を張った。

スポンジにボディソープを含ませて身体の隅から隅までやさしく洗った。乳房が湯船の中で泳ぐ感触が新鮮だ。くたびれた肌のゴツゴツとした55才の男性の肉体に慣れた私にとって、シミひとつ無い白いマシュマロのような乳房は衝撃的なほど美しかった。

初老の男性の身体に閉じ込められて焼かれてしまった木下美玖の魂に対して申し訳ないという気持が強くなった。

シャンプーを付けて頭皮を念入りにマッサージした。髪を頭の上に盛り上げて、湯船に顎までつかった。

口と鼻だけ出して湯船に全身を漬けて数分間放心したようにリラックスした。

シャワーをして風呂から上がった。

タンスの引き出しを開けて着るものを物色し、ピンクのブラジャーとパンティを身に着けた。ブラジャーを着けるのは気が引けたが、乳首が服に擦れる痛みはとても我慢できるものではないし、ノーブラでは乳房の存在が気になって仕方がない。

その時、充電器の上に置いたスマホから着信音が鳴り響いた。

どう応答すればいいのか分からないが、とりあえず「はい」と返事した。

「木下さん?」

「はい。」

「バカヤロウ。忙しいときに無断欠勤して。今、どこにいるんだ。」
これは会社からの電話だ。さきほどの管理人の発言から判断すると今日は月曜日で、もう昼過ぎだから、木下美玖は欠勤しているわけだ。

「すみません。雷に打たれて、救急車で病院に運び込まれたんです。昨夜意識を回復したばかりなんです。」

「大丈夫か。どこの病院に入院しているんだ。」

「津田沼の総合病院です。」

「どこか怪我してないのか。火傷してるのか。」

「外傷はありません。」

「いつ退院できるんだ。」

「それは、先生に聞いてみないと。」

「わかった。それじゃあ、後で誰かを見舞いに行かせるから。」
結局、自分の名前を名乗りもせずにその男性は一方的に電話を切った。

会社から誰かが見舞いに来るまでに病院に帰るのが賢明だ。

落雷に合って意識不明で入院したということなら無断欠勤にはならないだろうが、家でぶらぶらしていたら話は別だ。もし会社をクビになったら木下美玖やそのご家族に申し訳が立たない。

それに、私はヤドカリのように木下美玖の身体を借りて生きていくしかなさそうである。私自身が木下美玖ということになるわけだから、木下美玖が職を失うと自分が食べていけなくなる。評判が落ちないよう気をつけなければならない。

クローゼットを開けて病院に着て帰れそうな服を物色したところ、くるぶし丈の黒のパンツとブラウンのおとなしい柄のチュニックがセットになってハンガーに掛かっているのが目に入った。

これなら外を歩いても、さほど抵抗は感じない。

バッグを持ってローヒールの黒のパンプスでアパートを出た。24センチと表示されたこんなに細い靴に自分の足がすっぽりと入るとは驚きだ。

西船橋駅で総武線に乗って津田沼駅で下車し、病院まで歩いた。

病室に帰るとベッドは元のままだった。畳んで置いてあった病院着に着替えてベッドに入った。

「木下さん、困ります。勝手に外出しては。」

「すみません。スマホの充電器を取りに自宅に帰って、お風呂に入ってきました。」

「記憶が戻ったんですね。」

「そうとも言えないんですけれど。」

「とにかく回診があるまでおとなしく寝ていてください。」

「はい。」
6時に夕食があった。いかにも病院食という感じの無機質な食事だったが、空腹だったので案外抵抗なく食べられた。

米は自分の期待する味より甘く感じられた。本来好きではない煮魚が美味しいと感じられる。私の身体と木下美玖の身体では味覚が微妙に異なるようだ。

夕食のトレーをワゴンに返して間もなく、見舞い客が来た。

「美玖、怪我はないの。雷に打たれたって聞いたから心配したわよ。」
それは20代前半で木下美玖と同じような体格の女性だった。

「はい。身体は一応大丈夫みたいです。」

「何よ。いきなり敬語みたいな言葉遣いして。雷に打たれて頭が変になったの。」

「目上の方じゃないんですか。」

「冗談だったらぶん殴るわよ。」

「落雷に合うまでの記憶が全くなくなったんです。あなたが誰だか覚えてないんです。」

「本当なの。」

「うそだったら、殴っていいですよ。」

ふーっ、とため息をついて、その女性はベッドにドカリと腰をかけた。
「私は栗山洋子。美玖と同期入社の友達よ。そう、親友。」

「栗山さん、ですか。よろしくお願いします。」
私としては栗山洋子にすがるしかない。

「まず、その言葉遣いはやめてくれない。洋子、美玖って呼び合う仲だし。」

「わかりました。じゃあ、洋子、まず会社のことを教えて。社名は何?」

「菱村物産よ。」

「菱村物産って、赤坂にある一部上場の商社?」

「そうよ。」

「そこで私はどんな仕事をしているの?」

「どんな仕事って、精密化学品部の普通の一般職よ。」

「一般職って、補佐の事務職のことよね。」

「そういう言い方もあるかしら。変なことを言うわね。」

「私は入社何年目なの?」

「本当に覚えてないの?今年の4月入社の新入社員でしょ。私と同じ。」

「ということは23才なの。」

「何を言ってんの。3月生まれで短大を出たばかりだから20才でしょ。」

「そんなに若いの。じゃあ、洋子も20才なの?」

「悪うござんしたわね。私は一浪で4年制大学出の7月生まれだから24才のババアよ。」

「すみません。やっぱり年上だったんですね。失礼しました。」

「だから、その言葉はやめなさいって。一緒に入社した日からずっとため口でしょ。」

「そうなのね。じゃあ、敬語はやめます。私が出た短大ってどこだか知ってる?」

「小紫女子短期大学の英文科よ。入社の日にジャパンをJAPPANってスペルしたようなレベルの英文科だけど。」

「小紫女子ってお嬢さん学校で有名な、西荻窪にある大学ね。」

「確かにお嬢さん学校で知られてるわ。美玖がお嬢さんかどうかは全くの別問題だけど。」

「もう、洋子ってサディスティックなことばかり言って。シニカルなのね。」

「あんた、やっぱりおかしいわ。シニカルなんて単語がすらすら口に出るような子じゃないのに。」

「ということは、私って、賢いタイプとして位置づけられてはいないわけね。」

「そうね。位置づけ、なんて言葉が似合わない、お茶漬け、という感じの子というか。」

「なんじゃそりゃ。」

「いつものノリに戻ったようね。」

「じゃあ、次の質問。私は西船橋のアパートに一人で住んでいるみたいだけど、実家とかあるのかしら。」

「実家は福島でしょ。」

「じゃあ、短大も西船橋から通っていたのかしら?」

「短大のときは荻窪のアパートだったと聞いたわ。」

「ふうん、そうなんだ。」

「あんた、自分に関することは忘れてしまっても、地名とか、会社名とか、一般常識は覚えてるのね。」

「そうみたい。会社についてもっと教えて。洋子は私と同じ部署なの?」

「同じ精密化学品部の隣の課よ。あなたは医薬品原料課で、私は電子材料課。」

「精密化学品部の人たちの名前と役職をこの手帳に書いてくれる?」
洋子はぶつぶつ言いながら、手帳2ページ分に部の机の配置を描いて、30数名の部員の役職と名前を記入してくれた。その手際と仕上がりを見ると、洋子の頭脳レベルが相当高いことが分かった。

「会社の始業は何時なの?」

「9時15分だから、遅くとも9時には更衣室に入らないと。」

「更衣室ということは、制服があるの?」

「そうよ。」

「どんな制服?」

「美玖がいつもダサイって言ってる制服よ。来ればわかるわ。」

「更衣室はどこにあるの?」

「14階にエレベータで上がって、精密化学品部の入り口と逆方向に20歩行った左側が更衣室よ。」

「そこから私の席へはどう行くの?」

「そのために書いてあげたんでしょう。」
洋子はブツブツいいながら先ほど書いてくれたページを開き、更衣室の場所と私の席を指で示した。

「もし迷ったら、記憶を無くしましたって言って、私の席はどこですか、って周りにいる人に聞きなさい。」
洋子は私の相手をするのに飽きてきたようだ。

「出社したら私が教えてあげるわ。その状態じゃ、誰に会ってもトンチンカンな対応をしそうだし、記憶を無くしたことを初めから正直に言う方がいいわよ。」

「そんなことがばれて、クビになったらどうするの。業務内容の記憶も無くしてしまったんだから、使い物にならないってクビにならないかしら。」

「美玖ねえ、あんたは業務内容と言えるほどのことはさせられていないから、クビになったりしないわよ。頭はクラゲなのに、愛嬌だけで採用されたって、あんたの敵は言ってるわ。まあ、あながちウソとも言えないけど。」

「ひどい。私はそんなに低能なイメージなの?その敵って誰なの?」

「農薬課の尾崎彩子よ。美玖にとっては小柴女子短期大学の一年先輩で昨年入社。吉崎さんと付き合っていたのに、吉崎さんが新入社員の美玖に目移りして捨てられたから美玖を恨んでるという噂よ。」

「私はその吉崎さんと付き合ってるの?」

「何度か誘われたのは確かよ。でも、美玖は吉崎さんについてはしゃべりたがらなかったから、どこまでできてるのか、私は知らないわ。」

「できてるって・・・」

「吉崎さんはプレイボーイだから、まず、最後まで行ってるでしょうね。」

「そ、そんなあ。」

「会って確かめなさいよ。でも海外出張中みたいだから、すぐには会えないけど。」

看護師が入ってきて、面会の時間は終わったから帰るよう洋子に促した。

「じゃあ、退院の予定が決まったら私の携帯に電話しなさい。美玖の携帯に登録されてるから。」

「わかったわ。ありがとう、洋子。」

洋子が去ると全身をどっと疲労感が襲った。病室の天井のモザイクを数えながら、洋子から聞いたことを色々考えた。

私の新しいアイデンティティである木下美玖は、短大を出たばかりの20才のOLなのだ。驚くべき若さというか、ほんの2、3年前までは高校生だったわけであり、まだ子供だ。だからこんなに弾力性があってきめ細かい透き通るような肌をしているわけだ。そんなに若いのに会社勤めして、敵もいて、多分私がしたのとは違った種類の苦労をしているのかも知れない。若い女の子も楽じゃない。

灰になってしまった元の身体ではもう55才で、それなりに人生を楽しんでいたが、身体の老化も容赦なく進み始めていた。あと5年か10年働けばいわゆる老後が残っているだけ。

それが突然20才になって、人生の元気な部分を二度経験できるのだから、とてつもなくラッキーかもしれない。

女性として生きるというのも趣向が変わって面白いかもしれない。全く違った服装や生活様式にはとまどうが、まあそのうち慣れるだろう。

それにしても吉崎というボーイフレンドのことが気になる。洋子が、プレイボーイと言っていた。木下美玖はそんな男と手を組んだり、キスをしたり、考えるのも恐ろしい行為に到ったのだろうか。

胸に手をやって乳房の感触をもう一度確かめた。自分がこの身体を気に入りかけているのは、それが若い女性の身体であり、この身体に内接している感触が快いからだ。

栗山洋子と二人で温泉に行って肌を触れ合ったら気持ちいいに違いない。でも吉崎という男と身体を触れ合うのは想像するのも悍ましい。自分はレズとしてしか生きていけないのではないだろうか。

翌朝、回診があった。

「記憶は戻りましたか。」
と主治医の先生が私に聞いた。

「何となく思い出せそうな感じになりかけるんですけど、まだ記憶は戻りません。体調は完璧なんですが。」

「CTとMRIでは異常は見当たらなかったので、経過を見るしかありませんね。」

「日常生活に戻ったら色々思い出すでしょうから、退院していいですか。会社も休みたくないですし。」

「本来はもう少し入院して様子を見たほうが良いのですが、どうしてもということなら退院を許可しましょう。但し、頭痛などの異常があったら必ず直ぐに来院してください。当分、異常がなくても週一回通院してください。お薬を処方しておきますから、朝夕飲んでください。」

「何のお薬ですか。」

「脳神経保護と代謝改善剤、それにビタミン剤です。」

しばらくすると看護師が戻ってきて、会計で退院手続きをするように言われた。健康保険証の呈示を求められたが、バッグの中に健康保険証は入ってなかった。
「自宅に帰って取ってきます。」
と言ったが、その場合は保証金10万円を現金で預けて欲しいという。キャッシュカードの暗証番号が判らないから現金は無い。

結局、勤務先を聞かれ、その場で会社の健康保険組合と色々電話でやりとりして必要情報が得られたようだ。

本人負担部分については本来この場で現金で払う必要があるが、
「キャッシュカードの暗証番号も記憶喪失したので直ぐには現金が引き出せません。思い出すまで入院しなきゃダメでしょうか。」と泣くようにいったところ、次回来院時に払うということで渋々了解してくれた。

電車を乗り継いで西船橋のアパートに帰った。まず、洋子の携帯に電話をして退院を知らせ、私の上司に伝えてくれるよう頼んだ。

片っ端から引き出しを開けて、お金や預金通帳を探した。自分が泥棒に入ったようで可笑しかった。

鏡台の引き出しに1万円札が1枚入っていた。

私の自宅でも妻は鏡台の上の見えるところに1万円を置いていた。万一泥棒が入ったら、1万円だけ見つけて出て行ってくれれば、という期待をこめたお守りのようなものだ。木下美玖もそんな目的で置いたのだろうか。とにかく1万円あれば何日かは食いつなげるだろう。

役に立ちそうに無いカードが何枚か見つかったが、預金通帳は見当たらなかった。印鑑は木下と書かれた丸い三文判が二つ見つかった。

キャッシュカードの暗証番号が分からないと身動きが取れない。

テーブルの上のノートパソコンにスイッチをいれたところ、幸いパスワード入力なしで起動できた。デスクトップに「ひみつ.zip」という名前のファイルがあったのでダブルクリックしたところ、パスワード入力を求められた。

もしや、と思い、「ごみ箱」を確かめると、「ひみつ」というフォルダーが残ったままだった。「元に戻す」をクリックすると、デスクトップにフォルダーが復元され、パスワードや口座番号が全て記入されたワードファイルが入っていた。

「これじゃあ、頭はクラゲと言われても文句は言えないな。」
ごみ箱の中のファイルを見られるのだからパスワード付き圧縮ファイルにする意味が無い。この子にはセキュリティの教育が必要だ。

その情報を使って三菱東京UFJ銀行のホームページにログインし、木下美玖の口座の入出金記録を調べると25万円の残高があった。

「入社5か月目で25万円の残高があるとは、意外にしっかりとした子だな。」
少し安心した。

キャッシュカードを使ってお金を引き出すのに必要な4桁の暗証番号はどこを探しても手がかりは得られなかった。

木下美玖はキャッシュカードの暗証番号だけはファイルに記入したりせず記憶だけに収めていたようだ。

明日の昼休みにでも銀行に行って、パスワード紛失の手続きをしようかな。新しい銀行口座を開いて会社の給与振込みをそちらに変更してもらう必要があるかもしれない。最悪、ゆうちょ銀行にでも新たに口座を開設して、三菱東京UFJ銀行のホームページからオンラインで振り込むという手はある。

明日は菱村物産に初出社だ。商社勤務経験のある私にとって菱村物産に勤務すること自体は苦にならないが、OLとして出社したらどんなことになるのか、想像がつかない。

親友の洋子以外は知らない人ばかりの中に飛び込んでいくことになる。私はちゃんとやっていけるだろうか。

それ以前に、どんな格好をして会社に行けばよいのだろう。クローゼットを物色して、結局、一番上等そうな服、すなわちグレーのスーツを選んだ。靴もヒールが5センチほどのグレーのパンプスが見つかったので、玄関にそろえて置いた。

冷凍野菜の残りとインスタントラーメンで夕食にした。シャワーを浴びて早めにベッドに横たわった。


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