異性への逃避行【立ち読みページ】 | 性転のへきれき

異性への逃避行【立ち読みページ】

異性への逃避行

第一章 冤罪

ぐっと冷え込んだ十一月上旬の朝、谷津干潟の東岸を通りかかると白鷺しらさぎの群れが来ていた。毎年秋から冬になる頃、急に寒くなったと思うと決まって北方から飛来した渡り鳥が谷津干潟の東岸を賑わす。スマホのカメラをデジタルズームにして、手すりに固定してシャッターを切る。

一羽、二羽、三羽……二十七羽まで数えた所で、野鴨の動きにつられて数羽が飛び立ち、数えるのを断念した。

あの白鷺しらさぎの大半はダイサギだ。谷津干潟には四季を通してシギやチドリが見られるが、シベリア・樺太から南方へと移動する渡り鳥の通り道として、この季節には白い大きな鳥がやってくる。小学生だった頃にはもっと多くの渡り鳥で賑わっており、時々白鳥も来ていたという記憶があるが、近年は白鳥を滅多に見かけなくなった。

小さい頃、母が谷津駅前の商店街に買い物に行くのに付いて行き、谷津干潟周回歩道を通って帰った夕方、谷津干潟に二羽の白鳥が舞い降りた。

「あの白鳥はシベリヤからおばあちゃんの家の上を通って飛んできたのよ」
と母に言われて、自分も鳥になりたいと思ったことが、夕日に映える白鳥の姿と一緒に記憶に残っている。

両親のルーツは津軽で、僕が小学校に上がる前に両親は僕を連れて東京に出て来た。正確に言えば東京の会社に通勤するために千葉県習志野市の谷津干潟の周辺にある小さな家を買ったのだが、津軽の祖母の家に遊びに行くと両親は習志野の家に帰ることを「東京さけえる」と言っていた。千葉県にあっても東京ディズニーランドと呼ぶのと同じだ。

そんな父と母が今年の三月に交通事故で亡くなった。僕の千葉大の合格発表があった翌週のことだった。祖母も去年の暮れに亡くなったばかりだったので、僕はあっという間に天涯孤独の身となった。幸い、保険金と両親が残してくれた貯金のお陰で、自宅のローンの残金を払い、僕が大学を出るまでに必要な生活費の目処は立っていた。

両親は津軽出身で僕が生まれたのも津軽だが、出身地を聞かれると「谷津干潟です」と答えることにしている。僕が通った小学校と高校の校庭は谷津干潟に面しており、谷津干潟で生まれ育ったと言っても過言ではないからだ。

「千葉県出身です」と答えれば「あっそう」と言われるだけだが「谷津干潟出身です」と答えれば、「それはどこですか?」とか「新潟ですか?」などと言われて話のネタがつながるから便利だ。一度「津軽です」と答えてみたところ、津軽弁の話になり、自分が如何に津軽と縁が遠い人間かを思い知った。僕は簡単な津軽弁は聞いて理解することはできるが、話すことはできないし、僕が知っている津軽は祖母の家とその周辺だけだった。

谷津干潟には僕の過去と現在の全てがある。きっと千葉大を卒業したら東京の会社に就職して京成電鉄かJR京葉線で通勤し、結婚後もこの家に住み、首都直下地震が起きて水没でもしない限り谷津干潟で一生を送るのだろうと思っていた。

しかし、その日の夕方、僕のそんな思いを吹き飛ばす事件が起きた。

授業を終えて帰宅したのが午後四時半で、僕はすぐにジャージーに着替え、ワンショルダーのボディーバッグにスマホとパーカーを突っ込んで家を出た。夏休みが終わってからは、谷津干潟をジョギングで二周するのが日課になっていた。一周三・五キロメートルだからさほどハードでなく丁度良いジョギングコースだ。僕はリンゴが大好きで、リンゴとアーミーナイフをボディーバッグに入れて家を出て、谷津干潟周回歩道の南東部分にあるベンチに座ってリンゴを食べることを密かな楽しみにしていたが、その日は寒いのでリンゴは持たずに家を出た。

時計回りコースを選択し、自然観察センターの裏を通って習志野緑地から湾岸道路沿いの歩道へと進むつもりだったが、僕は習志野緑地を抜ける林間の道で痛恨のミスを犯してしまった。その秋一番の寒さに下半身が冷えたためか、急に尿意が高まった。谷津干潟公園のトイレまで引き返せばよかったのだが、周囲に人影はなかったので、林の中に足を踏み入れ、木陰で立ちションをした。

服を直して周回歩道に戻ろうとしたが、間が悪いことに反対回りでジョギングをしてきた中年女性三人組に、僕が林から出てきたところを見られてしまった。立ちションをしている現場を見とがめられたわけではないが「イヤねえ」と非難する視線を浴びた気がして、僕は「天網恢恢てんもうかいかいにして漏らさず」という父の教えに背いたことを後悔した。

気を取り直して周回歩道をひた走り、谷津バラ園前の公園のトイレで手を洗ってから、普段リンゴを食べる東岸のベンチまで来た。柵の向こうには今朝と同じダイサギの群れが夕日に映えていて、じっと見ていると物悲しい気分になった。

二周目は少しラップを上げて走ることにした。谷津干潟周回コースは人通りが途切れることが少なく、女性一人でも安心して走れるジョギングコースとして知られているので、暗くなっても大丈夫だが、これからますます冷え込むだろうと思ったからだ。

営業が終了した自然観察センターの裏を通って、習志野緑地の方へと入ると、警察官が立っていて何か物々しい雰囲気だった。何があったのだろうと足を止めたところ、女性が三人立っていて、そのうちの一人と目が合ってしまった。

――まずい、さっき立ちションの後で会った三人組だ!

僕は咄嗟に目を逸らして、その場を通り過ぎようとした。オバサンたちが警官に告げ口をしても、立ちションは現行犯でない限り逮捕されることは無いだろうとは思ったが、恥ずかしい目に遭いたくなかった。

「あの男です! さっき、あの若い男がそこの林の中から出てきたのを見ました」
と一番背が高い女性が僕を指さして叫んだ。

「間違いないわ、あの男よ!」
「そうよ。私も見たわ!」
と残りの二人が同時に叫んだ。

気が付くと、僕はきびすを返して元来た方向へと全速力で走っていた。立ちションの容疑者を警官が本気で追いかけてくるとは思わなかったが、こんな場合にはとにかく連行されないことが大事だと聞いたことがあった。

自然観察センターの裏に来るとひと筋違う裏道に抜け、物陰に入ってバッグからグレーのパーカーを出し、フードを頭に被った。肩に斜め掛けにしていたボディーバッグを手に持って物陰を出て、小走りで進んだ。あと二分で僕の家に辿り着く。

これだけ変装をしたらさっきの警官に見られても分からないだろうと思った。ところが、角を曲がった所に警官が二人立っていて、

「ちょっとフードを取って顔を見せていただけますか?」

と言われた。

脱ぐのを躊躇っていると、
「さっき逃げた人ですね?」
と言われて、最早これまでと観念した。

「警察で話を聞かせてください」

「はい、分かりました」

僕は二人の警官に両脇を掴まれた。一方の警官が無線機で「容疑者を確保」と報告していた。

立ちションぐらいでここまでするのか……いや、さきほど逃げたことで公務執行妨害の罪が加わったのかもしれない。公務執行妨害の現行犯が手錠をはめられるシーンをテレビドラマで見たことがある。生まれ育った場所で恥をさらすぐらいなら、オシッコを我慢しきれずに洩らした方がまだマシだったと悔やんだ。

少し歩くとパトカーが待っていた。僕は後部座席に押し込まれ、警官に左右に座られて習志野西警察署へと連行された。

警察署に入ると、二階の取調室に連れて行かれた。中央に机がある小さな部屋だ。二人の警官は僕を机の向こう側の椅子に座らせて出て行った。ほどなく背広姿の男性二人が入って来て、一人が僕の前に座り、もう一方の男性は入り口の横のデスクに壁の方を向いて座った。

テレビドラマに出て来る取調室と同じだった。僕が被疑者の立場で取調室に座る日が来るとは思ってもいなかった。しかし、所詮容疑は立ちションと公務執行妨害だ。立ちションが有罪になってもチ〇〇を切り取られるわけではなく、まさかその程度で退学処分にはならないだろう。普通の大学生なら逮捕されれば家族を驚かせ落胆させることへの心配がまず頭に浮かぶのだろうが、幸か不幸か僕には心配してくれる家族が居ない。

どうせ立ちション程度のことだし、一生一度の取調室体験をしっかりと味わおうという気持ちになって、僕はでーんと構えた。

取調官が
「警部補の木村です」
と名乗ったので、
「千葉大学一年の枕崎那央と申します。よろしくお願いします」
と自己紹介した。

「僕は公務執行妨害の現行犯で逮捕されたんですよね?」

木村警部補は首を横に振った。

「これは任意による取調べであり、被疑者であるあなたは何時でも退去する権利を有しています。あなた自身の意思に反して供述をする必要はありません」

教科書を棒読みするような言い方だった。その後はタメ口になったので、さっきのは決まり文句だったことが分かった。

「君がやったんだね?」

「はい、僕がやりました。林から出てきたところを三人組のオバサンに見られたし、立ちションをかけた木からDNAを採取されたら言い逃れの余地はありませんから、何もかも正直に白状します」

「それなら話が早い。供述調書を作成しようじゃないか」

名前と生年月日、住所、学校名などについて質問されて正確に答えた。家族構成について聞かれたので、去年の十二月に祖母を、今年の三月に両親を亡くして天涯孤独になったと答えると、
「非常にお気の毒です。同情します」
と言われた。

「立ちションにも情状酌量ってあるんでしょうか?」
とキワドイ冗談を言ってみたが、警部補はニコリともしなかった。

警部補に聞かれるまま、夕方に家を出てからジョギングを開始したことを話した。

「現場周辺の地理には詳しいんだね?」

「はい、自称『谷津干潟出身』でして、谷津干潟周辺なら樹木の一本一本まで把握しています。あ、これ、供述調書には不適切ですよね。言い直させてください。現場周辺の地理には非常に詳しいです」

「土地勘アリ、と。現場近くで被害者の女性に声を掛け、林の中に誘い込んで犯行に及んだんだね?」

「えっ、被害者の女性? 何のことですか? 僕は林の中に入って木に向かって立ちションしただけであって、女性に小便をかけたりしていませんよ。それだと変態じゃないですか!」

木村警部補はテーブルに両手の拳を付き、真っ赤な顔になって腰を半分上げた。

「ふざけるのもいい加減にしろ!」

「ふざけてなんかいませんよ。僕は一人で林の中に入って立ちションをしただけです」

「目撃者が三人も居るのにシラを切るのか!」

「あのオバサンたちは僕が立ちションを終えて林から出てきたところを見ただけです。それより、僕を被害者の女性に会わせてください。その人に小便をかけたのが僕でないということは、僕の顔を見ればすぐに分かるはずです。あ……もしかして、その女の人が木の陰に隠れていたのを僕が気付かずに立ちションをして、少しトバッチリがかかったんでしたら会ってお詫びしたいです」

木村警部補は僕のパーカーの襟元を掴んで締めあげながら言った。

「被害者は死んだよ。お前は婦女暴行殺人事件の犯人だ!」

身体中から力が抜けて頭の中が真っ白になった。僕が立ちションをしてから谷津干潟を一周している間に、あの林の中で強姦事件が起き、出動した警察官にあのオバサンたちが僕が林から出て来るのを見たと通報したわけだ。そしてそこに僕が通りかかった……。

「僕は立ちションをしただけです。あの辺りで三人のオバサン以外の女性は見てもいません。信じてください。あ、そうだ。強姦殺人なら遺体から精液を採取すれば僕が犯人じゃないことはすぐに分かるはずです!」

「えらく自信があるようだな。射精を伴わない婦女暴行だと知った上でそう言っているのか? じゃあ、持ち物を見せてもらおう」

木村警部補ともう一人の刑事はゴム手袋をしてから僕のボディーバッグの中身を机の上に並べた。リンゴを剥くためにバッグに入れていたアーミーナイフが出て来た。

「これが凶器だな。被害者は鋭利な刃物で一突きされていた。被害者の服でナイフの血を拭って現場を離れ、谷津干潟の対岸のバラ園のトイレで石鹸を使って血液を洗い落とし、バッグにしまった。そうだな?」

「僕はきれい好きですから、バラ園のトイレに置いてあった石鹸で手を洗ったのは事実です。でも、警察物のドラマだと、ナイフで人を刺したら返り血を浴びるし、石鹸で洗ったぐらいでは血液反応が残ったりしますよね。お願いですからナイフも服も科捜研に送って完璧に検査してください」

「用意周到な知能犯ということか……」
と警部補が呟くのを見て背筋が寒くなった。警察はあくまで僕を犯人に仕立て上げるつもりだ。このままだと大変なことになると思った。僕は必死で頭を回転させた。

「誘導尋問で犯人に仕立て上げられるのは嫌ですから、当番弁護士を呼んでください。弁護士が来るまで黙秘します」

当番弁護士とは無料で弁護士の相談を一回だけ受けられる制度であり、冤罪えんざいで警察に連れて行かれた場合には黙秘権を行使して当番弁護士を呼んでくれと取調官に要求することが重要だ。刑事もののドラマで得た知識が役立った。

木村警部補は「チェッ」と舌打ちしてから、
「当番弁護士を呼べるのは逮捕状が出てからだ」
と吐き捨てるように言った。

「しばらく休憩だ」
と言って木村警部補は取調室から出て行った。

――そうか、まだ任意同行の段階なんだ!

木村警部補が開口一番に「何時でも退去する権利を有しています」と言っていたことを思い出した。逮捕状が出る前にここから逃げ出さなければと思った。

「すみません、トイレに行きたいんですけど」
と筆記役の若い刑事に言うと「どうぞ」と答えてドアを開けてくれた。そのまま正面玄関まで行って警察署から出て行こうと思っていたが、若い刑事が僕について来た。仕方なくトイレに入り、「お腹を下しそうなので」と言って一番奥の大便の部屋に入った。刑事は立小便の便器が並んでいる前をうろついているようだ。僕は身軽さを活かして隣のブースに移ろうと思いつき、大便器のノブに足をかけて水を流してから隣のブースとの仕切りの上に飛び上がり、更に一つ置いた隣の小部屋へと下りた。誰も座っていなかったのが幸いだった。僕は自分の印象を変えるためにパーカーを脱ぎ棄て、髪に唾を付けてヘヤスタイルを変えた。

「まだか、開けろ!」
僕が入った小部屋のドアを若い刑事がドンドンと叩いている。水を流す音がしたのに僕が出て来ないから心配になったのだろう。

「どうした?」

「被疑者が腹を下したと言って入ったっきり出て来ないんです」

もう一人の男性と一緒にドアを開けようとしているようだ。僕はそっとドアを開けて、何食わぬ顔で音を立てないようにトイレの出口へと歩いた。一階への階段を下り、小走りで出口を目指した。通用門らしい出口があるのを見つけて、そのドアから出た。背をかがめて駐車場を走り抜けて道路に出ると振り返らずに一目散に走った。

ここから家までは普通に歩いて二、三十分の距離だ。車が通らない裏道を選んで必死で走る。ボディーバッグとスマホは取調室に置いて来たが、今日財布を持たずにジョギングに出たのは幸いだった。キャッシュカードが入った財布とアイパッドと、できれば衣類を少し持ち出せれば、僕は警察の目から逃れられる場所を転々とすることが出来る。いつまで逃げるのかは分からない。とにかく真犯人が逮捕されるまでは警察に捕まるわけにはいかない。

パトカーのサイレンの音が聞こえる。僕が警察署から逃走したことに気付いて探しに来たのだろうか? 住所氏名を言うのではなかったと悔やまれる。

家の近くまで来ると大きなサイレンの音が近づきパトカーが止まる音がした。次の角で覗き見ると、二ブロック先の自宅の前にパトカーが三台停まっていて、何人もの警官や私服の刑事がうろついていた。

――遅かった。家に入るのは無理だ……。

警官が一人、こちらの方に歩いてくるのが見えた。僕は元来た方へと引き返そうとしたが、遠くから警官二名が僕の方向に向かって歩いて来るのが見えた。まだ僕には気づいていないようだ。

――このままだと挟み撃ちになる……。

丁度左に人が通れるか通れないかの路地があった。僕は身体を横にして真っ暗な路地に入り、低いブロック塀に沿って蟹歩きで通り抜けようとした。四、五メートルでブロック塀を通り抜けてその家屋の裏庭に出た。丁度その時、その家の裏戸が開き、同時に電気が点灯した。裏戸から出てきた女性はゴミの袋を右手に持っていた。

「あ、那央ちゃん! こんなところで何してるの?」

吉村のおばちゃんだった。

「おばちゃん、助けて! 悪い奴らに追われてるんだ」
僕はとっさに思い付いた言い訳をした。

「早くお入り」
と言って彼女は僕を裏戸から家の中に入れてくれた。

「もし誰かが僕を探しに来たら居ないと言ってね、お願い!」

「分かってるわよ。この家には私だけしかいないと言えばいいのね。でも那央ちゃん、寒いのにこんな恰好で……風邪をひくわよ。お風呂にお湯を入れた所だから身体を温めなさい」

僕は風呂場へと案内され、服を脱いで風呂に入った。お湯を頭からかぶり、シャンプーをして、タオルに石鹸を付けて身体を洗うとほっとした。地獄に仏とはまさにこんなことだ。湯船に首まで浸かって温まった。

吉村は僕の亡くなった母の年上の友人だ。地域の集会所で毎週木曜日にお花の会をやっていて、僕が小学校に上がったばかりの頃から母は毎週参加していた。母は僕を家に一人で残したくないのか、あるいは僕と離れたくないからか、僕を時々お花の会に連れて行った。僕は男の子としては珍しいほど良い子だったので、お花が終わるまで大人しく待っていた。その時に一番僕を可愛がってくれたのが吉村だった。中学に上がっても僕を見かけると家に上げてお菓子を食べさせてくれた。母が亡くなってしばらくしてから、大学の帰りに通りがかった時に声を掛けてくれて、しばらく立ち話をした。

吉村はご主人を随分前に亡くし、今は年金生活者だ。長女は結婚して大阪に住んでいるとのことで、長女の娘が千葉大学に通う間、この家に下宿していた。僕はその孫娘を「沙也加ねえちゃん」と呼んでいたが、僕から見ると十歳近く年上の大人だった。沙也加は一昨年に千葉大学の法科大学院を卒業して、それ以来吉村のおばちゃんは一人暮らしだった。

「ピンポーン」
と来客を知らせるチャイムが鳴った。

「はーい」
と吉村がドアホンに応答している。

「警察です。ちょっとお顔を見せてください」

「はーい。お待ちください」
と吉村が玄関に向かう気配がした。

――まずい! 逃げなきゃ!

僕は湯船から上がって風呂場のドアを開けた。しかし、さきほど脱ぎ捨てた服が無くなっていた。この寒い夜、素っ裸で逃げるのは無理だ。

「今日の夕方に谷津干潟の自然観察センターの裏側の林で婦女暴行殺人事件が起きたことをご存知ですか?」

「ええ、さっきニュースで見ました」

「容疑者が逃走中です。この近所を立ちまわる可能性があるのでご注意ください」

「容疑者は特定されているのですか?」

「はい、この近所に住んでいる枕崎那央という十八歳の男です。ご存知ですか?」

もう一刻の猶予も許されない。脱衣場の洗濯機の蓋を開けると、僕の服が水に浸かっていた。濡れていても着るしかないと思って引っ張り出そうとしたが洗剤でヌルヌルしており、吉村の服と絡まっていた。

「ええ、枕崎さんの息子さんは知っています」

「くれぐれもご注意ください。あれっ、奥に誰かいるんですか?」
心臓が止まるかと思った。僕は息をひそめた。

「孫娘が遊びに来ていて、お風呂に入ってるんです」
よかった、吉村は僕を警察に突き出さなかった……。

「何かあったらすぐこの番号にお電話ください」
と言ってから、玄関のドアが閉まる音がした。

僕は大きなため息をついて風呂場に入り、もう一度湯船に浸かった。

間もなく風呂場のドアが開いて、吉村が中を覗き込んだ。僕はおへその下を手で隠し、吉村の顔を見上げた。

「おばちゃん、僕を警察に突き出さなくてありがとう」

「那央ちゃんは犯人じゃないわよね?」

「僕は絶対に女の人に乱暴なんかしないよ」

「那央ちゃんがそんな子じゃないってことは、亡くなったお母さんの次に私がよく知っているわ」

「ありがとう、僕を信じてくれて」

「犯人じゃないのならどうして逃げるの?」

「警察が僕を犯人にしようとしてるからなんだ」

僕は今日起きたことを詳しく話した。

「那央ちゃんは女の子のように大人しくていい子だったのに、どうして周回歩道で立ち小便するような子になったの?! おチンチンなんかがついているのがいけないんだわ」
さもがっかりしたという口調だったので、僕は悲しくなった。やはり立ちションが諸悪の根源だったのだ。

「本当だね。もしタイムマシンで昨日に戻れるのなら、こんなものは切り取ってしまいたいよ」

「真犯人がつかまるまでここに隠れていた方がいいわ」

「本当? いいの?」

「私がお母さんの代わりに那央ちゃんを守ってあげる。でも、ここに居ることが誰にも勘付かれないように息をひそめているのよ。窓の近くに立たないように。それに裏のお宅の二階から見られる恐れがあるから庭にも出ちゃダメ」

「ありがとう。家の中の仕事なら何でもするから言いつけてね」

「沙也加のパジャマを出しておくから、それを着なさい。主人のは全部整理しちゃったから男物の服はないのよ」

風呂を出ると黄色の地に花柄のパジャマと女物のパンツが置いてあった。沙也加ねえちゃんのものだ。恥ずかしかったが、文句を言える立場ではないので着た。女物のパンツをはいて、右前のボタンをひとつひとつ苦労して留めていると股間のものが固く大きくなってパジャマのズボンにテントが張った。強姦殺人は冤罪だと言いながら、こんな姿を吉村に見られるのは非常にまずい。僕はパンツを下ろして股間の物を後ろへと折り曲げ、太ももの間に挟んでヨチヨチ歩きで台所に行った。

「さっきの話だと晩御飯はまだ食べていないんでしょう? 何もないけど座って食べなさい」

「僕、そんなにお腹は空いていないから……」
と言いながらお腹がグーッと鳴ったのが聞こえて吉村が笑った。

「主人は定年まで鉄鋼会社に勤めていたから年金は結構出ているの。那央ちゃんの食費ぐらいは何ともないわよ。だから遠慮しないで食べなさい」

「おばちゃん、本当にありがとう」

ご飯を食べていると、吉村の後ろに母が立っているような気がして涙が出た。

食事の後、沙也加が使っていた二階の部屋に連れて行ってくれて、布団を出してくれた。

「目が覚めてもうっかり窓から顔を出さないように注意しなさい」
と念を押された。

長くて重すぎる運命の一日の幕が下りようとしていた。布団に入るとあっという間に睡魔に襲われて深い眠りに落ちた。


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