恋のセレンディピティ【立ち読みページ】 | 性転のへきれき

恋のセレンディピティ【立ち読みページ】

恋のセレンディピティ

著者:桜沢ゆう

第一章 青い目の少年

 

コーヒーの甘い香りが立ち込め、トースターがチーンと音を立てる。

バンドラ・ウェストにある高級マンションの2ベッドルームの自宅で、私はいつものようにコーヒー、トースト、フルーツとヨーグルトの軽い朝食を一人で楽しむ。始業時間まであと一時間。既に私はベージュのタイトスカート、ボルドー色のブレザーと茶系のハイヒールでいつでも出勤できる状態になっている。知的財産権絡みの訴訟案件を抱えているので、ラップトップPCで商標法関係を一通りおさらいした。

私は大手弁護士事務所に勤務する二十九歳の弁護士で、年収は約百万ルピーというところだ。自分で言うのもなんだが有能な美人弁護士として一定の評価を得ている。百七十センチの細身で、長い黒髪がチャームポイント。女としてそこそこ魅力的だと自負している。

仕事は順調なのに、しばしば虚無感に襲われて空しい気持ちになる。できるだけ思い悩まないようにしているのだが心の空白は埋まらない。

朝食を終えて食器をシンクまで運び、アッタッシュケースを持ってマンションの部屋を出る。駐車場まで歩いて、オレンジ色の愛車アルトに乗り込み、チェンバー・イーストのワダバリにあるオフィスへと車を走らせる。近年ムンバイの道路の混雑は悪化する一方で、半時間のドライブの間、対向車線を走る自動車のドライバーから浴びせられる視線にはいつもウンザリさせられる。

私はあんな男たちにはこれっぽっちの興味もない。私の心の中に居場所がある男性はアシュラフだけだ。ヘーゼルブラウン色の目をして艶のある茶色い髪のアシュラフの色白な顔が目に浮かんで、胸がキュンとなる。最後にアシュラフの姿を目にしてから既に十五年になるが、記憶は今も鮮明に残っている。

「シルヴィア、いつまでも思い出に支配されちゃダメ。十四歳の時の元カレに今でもこだわるなんてバカげてる。大昔のことは忘れて、目の前にあるものをもっと大事にしなきゃ」
と私は自分を叱咤する。

でも、アシュラフの記憶は容赦なくぶり返す。

十四歳のころの私はやたら背が高くて、クラス対抗の陸上競技の選手だった。その年、私は男女混合の五千メートル走に出場した。五千メートルは長距離種目に分類されているが、序盤のスピードも必要で、スピード配分に戦略が要求される種目だ。私は坂道でのトレーニングなどの猛練習を重ねて、持久力とスピードの両方が備わった身体を作り上げた。

競技の当日、私は一分当たり百八十歩のペースを維持して黙々と走った。最終周に差し掛かった時には、並み居る男子を押さえて私が先頭を走っていた。

「勝てる」
私は勝利を確信して同じペースのままゴールを目指してひた走った。

その時、後方から差を詰めてくる走者の気配がした。あっという間に私の右に並びかけた走者の横顔が見える。転校生のアシュラフだった。アシュラフは「ごめんね」とでも言いたげな感じの涼し気な微笑を浮かべて私を見てから、ぐいぐいと長いストライドで私を抜いて行った。

その後ろ姿を見て私は恋に落ちた。

アシュラフは四ヶ月前に転校して来たばかりだったが勉強が良くできて学期末の試験は学年で二番だった。学業だけでなく、ディベート、演説、クイズなどの課外活動も活発にやっていて、頭のいい子だなと思っていた。クラスの他の男子はガサツで女子にやたらちょっかいをかけてきたりして煩わしいが、アシュラフはいつも落ち着いていて行儀がよかった。運動もできる子だとは知らなかった。

結局、私は五千メートル走で二位に終わってしまったが、負けたにもかかわらず爽やかな気持ちだった。こんな素敵な男子に負けたことは光栄だと思った。私はアシュラフの所に歩み寄って心からおめでとうと言った。

アシュラフは私の祝福の言葉に対して控えめな返事をした。

「まぐれだよ。殆どシルヴィアが勝っていたんだけど、最後までストライドを伸ばそうとする気持ちで脚を前に出していたら何とか追い抜けた」

「アシュラフはゴール近くでぐいぐい伸びて、とても追いつけなかった。すごかったわ」

そばに居るとアシュラフの筋肉の盛り上がった太股、引き締まった腕、それに男らしい態度を否が応にも意識させられた。彼の身体から放たれる強いムスクの香りが私をメロメロにした。今まさに絶頂にある若くて健康な牡鹿が、優美な人間の姿で私の前に現れている。相反する二つの要素が私を完全に悩殺して、膝がガクガクと震えた。

自分がそんなインパクトを私に与えていることをアシュラフが気付いているかどうかは分からない。もし気づいていたとしてもそぶりは見せなかった。彼はヘーゼルブラウン色の目を輝かせながら、他の人に話すのと同じように平然と私に話しかけた。

その日の夕方、アシュラフは私をコーヒーに誘った。私はとっておきのワンピースに着替えて待ち合わせの場所に行った。アシュラフは既にそのカフェに来ていた。彼は黒のジーンズ・パンツとそれに合わせたポロシャツを着て、粋な感じにまとめていた。私が店の前まで来たのに遠くから気付いて、アシュラフはきらきらとした目を輝かせながら手を振り、ドアまで駆けて来て私の為にドアを開けてくれた。

彼は私をテーブルまでエスコートして私の為に椅子を引いてくれた。私たちはコーヒーを飲みながらよもやま話をした。アシュラフはユーモアがあって、私はずっとクスクスと笑いっぱなしだった。あんなに楽しかったのは生まれて初めてだった。

店を出る時、アシュラフは私に払わせようとしなかった。男女の区別なく割り勘にするのがルールだったので私も払いたかった。

「私にも払わせて。割り勘にしようよ」

「じゃあ、今日は僕が払うから、次はシルヴィアが払って」
と言ってアシュラフが払ってくれた。それは、もう一度行こうという誘いと同じだった。思わず頬が熱くなった。

「わかったわ。今度は私に払わせてね」
と恥ずかしさを押し隠して答えた。

***

それをきっかけにデートが始まった。毎日学校が終わるとコーヒーショップや海岸に行くか、私の家に来てもらって部屋でデートを重ねた。アシュラフは両親が中近東で働いているので一人で学生寮に住んでいた。

アシュラフのことを考えていると、みぞおちに奇妙な甘い衝動を感じることが何度もあった。私はそれが性的な欲望なのではないかと思うようになった。でも、私のアシュラフに対する感情はそんな単純な性欲的なものではなかった。私はアシュラフの中身を深く愛していた。優しさ、ユーモア、心と魂を。

アシュラフも私に対して同じように感じていることは分かっていた。彼が愛情をこめて私を見る視線でそれが分かった。

私が心酔していることを知っていても、アシュラフは私の弱みに付け込もうとはしなかった。もし彼に誘われていたら私は何でも捧げていただろう。付き合い始めてから四ヶ月の間、彼は手をつなぐ以上のことは一切しなかった。

クリスマスイブに呪縛が解かれた。彼が私に始めてキスをしたのだった。軽く唇を触れ合わせただけだったが、どんなディープキスよりも情熱のこもったキスだった。胸がキューンとなって上半身に痺れが走った。アシュラフはあまりにも紳士的で、それ以上のことをしようとする気配は無かった。でも、私は淑女では居られなかった。私は彼に抱き着いて激しいキスを返し、ほどなくアシュラフも応じて私にキスをした。

お互いに抱き合ってキスを続けたが、それ以上エスカレートする前にアシュラフは私を腕から離し、優しく、でもきっぱりとした口調で「おやすみ」と言って学生寮へと帰って行った。そして私は夜道を家まで歩いて帰った。

その夜、私はこの上なく幸せな眠りについた。

翌日のクリスマスの日は家族や親類と楽しい時を過ごした。何度もアシュラフのことが頭に浮かんだが、家族の手前、学生寮に電話をしてまでアシュラフと話をするのは控えた。

クリスマスの翌朝、私はスッキリとした気持ちで目を覚ましておしゃれな服を着た。一昨日の夜、アシュラフと私の関係は第二段階へと進んだ。これからも付き合いを重ねる毎日を頭に描く。出来る限り早く一緒になりたい。二人が成人したらその年に結婚するのだ。

世間には何人もの人と付き合い、しっくりくる人に出会うことなく年を重ねる人たちが大勢いる。私はたった十四歳なのに、既に最良のパートナーを見つけたのだ!

スクールバスに乗り、アシュラフの茶色い髪が朝の光に輝いているのを見たくて、バスの中を探した。しかし、彼がいつも座っている席には誰も居なかった。私はがっかりして、近くの席にドスンと腰を下ろした。クリスマスの日に会いたいのに会えなかったので、一刻も早く愛する人の顔を見たかったのに……。

アシュラフは次の日も、そしてその次の日も学校に来なかった。学生寮に電話をしたら不在だと言われた。一体どうしたのだろうか? 不安に駆られて、その翌日メアリー・アン先生に聞きに行った。

「クリスマス明けから休んでいたから心配していたんだけど、昨日の午後保護者の方から事務局に退学するという電話があったそうよ。確か、お父さんはドバイで勤めているから、何かの理由で急に中近東に引っ越しすることになったんじゃないかしら」

私はショックで物も言えなかった。中近東の親元に引っ越すなら、クリスマスイブには分かっていたはずだ。あのキスは何だったんだろう? 一生の絆を確かめ合うようなキスを交わしながら、私に何も言わずに行ってしまうなんて……。

十四歳の私の心はズタズタに引き裂かれたのだった。


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