ラブストーリー 「性転のへきれき」 かおりの場合

 

02_かおりの場合桜沢ゆうの「性転のへきれき」シリーズ「かおりの場合(ラブストーリー)」です。

プログラマーの私の転職先は女性だけのソフトウェア会社だった。私は少しずつ、でも着実に女性化の道を歩んで行った。

(寸評) 全編を流れる律子との恋のテーマが感動的なファンタジー大作。性転換のガイドブックと呼べ るほど詳細に記述されているが、純文学のカテゴリーに入れてもおかしくない。 桜沢らしい軽いタッチで最後まで飽きさせな い。



第1章 過去の私との出会い

秋葉原のワシントンホテルの地階にある喫茶店で週刊誌を読むともなくページをめくっていた私は、数分前から七、八メートル離れた席に座った客のことが気になっていた。その客は喫茶店に入ってきて席についた後、アメリカンコーヒーを注文するとそのまま化粧室に入った。客のいない席にコーヒーが置かれてから五分かそれ以上たっていたが、その客は化粧室から出てこなかった。コーヒーは湯気を立てるのをやめ、白いカップが不安げに怯えていた。

その客のことが気になっていたのは、冷めたかもしれないコーヒーのせいではなく、その服装のせいだった。濃紺のニットのくるぶし丈のワンピースにカーディガンをはおり、プラダのバッグを肩にかけていた。百六十三センチくらいの身長で、はやりの底の高いサンダルをはいていた。

私は十日ほど前に、あの客と同じ濃紺のニットのくるぶし丈のワンピースに同じ色のカーディガンと同じようなサンダルをはいて、同じデザインのプラダのバッグを持って、あの同じ席に座っていた。あの時の私と同じようなストレートのセミロングヘアで、同じような体格だ。あの時、私は絶望的な気持ちで待ちつづけ、コーヒーを何度か注文して、涙で流れた化粧を直すために化粧室に入ったのだ。

まもなく化粧室から私自身が出てきそうな気がして不安が高まり心臓は鼓動を早めた。私の不安が頂点に達した時、その客は化粧室のドアを開けた。結局、それは私自身ではなかった。全体像はとても似ているが顔が違うのでほっとした。目が合って二秒たったがその客は目をそらさなかった。そのとき私ははっと我に返って視線を落とし殆ど空になったコーヒーカップに口をつけた。

氷のような数分間が過ぎた。私が再びその客の方を見た時、その客は私の目を見ていた。その時、その客は自分のコーヒーカップを持って席を立ち私の席まで歩み寄った。

「ここ、よろしいですか?」

その客はややぶっきらぼうに聞いた。

「あ、ど、どうぞ。」

私が答えると、その客は微笑んで私の向かいの席に座った。

「さっき、化粧室から出てきたときに目が合ったでしょう。何か、ただ事ではないような感じだったので気になっていたんです。」

私を問い詰めるような口調ではなく、親しい友人とおしゃべりするような口調だった。

「すみません、知り合いと似てたものですから、つい。」

「そうなの。お友達なんですか、その方。」

「いえ、昔の知人です。それに、よく見ると、似ているのは背の高さと服装とバッグとサンダルだけで、顔は似てないです。」

その客はおかしそうに笑った。

「それだけ私が当たり前の格好をしているということね。あ、私、佐々木佑子。このホテルに泊まっているの。あなたもこのホテルに?」

「いえ、コンピュータのソフトを買いに秋葉原を歩き回って、足が疲れたのでこの喫茶店に入ったんです。僕、清水です。清水かおる。」

名乗り合うと垣根が取りはらわれたように話しやすくなり、昔からの友人のように会話が弾んだ。佑子は日吉の小さなアパートに三才年下の妹と住んでいるが、妹の大学時代の友人が三人上京してくるので佑子の方から申し出てホテルで二泊することになったということだった。佑子は共学の私立大学を出て赤坂の一流商社に就職したが、一般職の仕事に嫌気がさして五年前に転職して表参道にある外資系の貿易会社に総合職として勤めている。

私は関西の国立大学の情報工学科を卒業した後、大手電機メーカーのソフトウェア子会社に勤めていたが、三年前に外資系のソフトウェアメーカーに転職して、フレックスタイムのプログラマーとして働いている、と半分以上虚偽の説明をした。

佑子と私は喫茶店を出て秋葉原の中央大通りを通り抜け、徒町の小さなレストランに入った。オニオンとイカのマリネを肴にカリフォルニア産のシャブリを一本空けた。

佑子は私の心の中に立ち入るともなく打ち解けて、私を何時になく快活にしてくれた。私は久しぶりに声をあげて笑った。私は佑子の中に自分を見つけ、ワインが心地よく回ってくるにつれて、佑子が鏡の中の自分自身であるかような錯覚に陥った。佑子が微笑むと、いつしか同じ方向に顔を傾けて微笑んでいる自分に気づいていた。

レストランを出てホテルまでゆっくりと歩いた。中央大通りの電器屋街はもうシャッターが閉まっていて、人通りの減った舗道を二人で並んで歩いた。ホテルに着いた時点で私はそのまま佑子と離れることはとてもできないと感じていた。エレベーターのドアが開いて佑子が乗り込み、ドアが閉まると、取り残された私はその場に崩れ落ちてしまうだろうと確信した。その時、佑子は私の手を引いて一緒にエレベーターに乗った。私は何も言わずに佑子について行った。

「もう少しお話ししたいもの。いいわよね。」

「うん。」

私はうなずいて部屋に入った。

「先にお風呂に入って。」

佑子に促されて私はバスルームに入り、ジャケットとズボンと下着と靴下を脱いで格子の棚の上に置いた。ゆぶねにお湯が七分ぐらいたまると私は備え付けの石鹸を使った後、ゆぶねにつかったままシャンプーをした。

そこに佑子が入ってきて、狭いゆぶねに二人がつかった。私はシャンプーの泡が目に入らないように目を閉じていたが、ゆぶねからザーッとお湯があふれ出る音が聞こえた。

「きれいなからだしてるわね。私より白いし、腋毛も無いのね。」

「ちょっと事情があって、脱毛したものだから。」

私はつい口ごもった。

「脱毛しても、すぐ生えてくるでしょう。」

佑子はいぶかしげに聞いた。

「ううん。専門のところで高周波で脱毛したから。」

佑子は私の足の甲から膝の上あたりまで右手でなでた。

「私、毛深いのって嫌いだから、あなたならほっとするわ。でも、私よりも毛が薄くてすべすべしたお肌だから、ちょっと嫉妬しちゃう。」

佑子が立って背中を洗うとき、私も立って手伝った。自分の背中を洗っているような錯覚に襲われかけたとき、佑子が振り返ったので、佑子と私は向かい合わせに立つ形になった。その時、私たちの乳房が軽くぶつかり合って、佑子は私の胸の二つのふくらみを確認した。
女性ホルモンを飲むのを止めてから十日間経過したが、Bカップを越えるところまで育ってしまった乳房は、まだしぼむ気配を見せていなかった。

「私より少し大きいわね。ホルモンの異常か何かかな。」
佑子は全く棘の無い口調で聞いた。

「あの。ちょっと事情があって。」

「いいのよ。言いたくなければ何も言わなくてもいいの。」

私の小さな男性器はいつしか硬直して、ほぼ同じ高さの佑子の陰部に時々触れていた。私のそれがこんなに固くなったのは十日ぶりだった。

佑子と私は一枚のバスタオルを使って風呂から上がった。

「どちらでも好きな方を使って。」

佑子はバッグからネグリジェを2着取り出してベッドの上にポンと置いた。私がためらっているうちに、佑子はロイヤルブルーの無地のネグリジェを選んで、もう一方のピンクに小さい花柄の方のネグリジェを私にトスした。

私たちはベッドのテレビの側に並んで座った。テレビの横の鏡に二人の姿が映っていた。姉妹か仲良しの女友達に見えた。

「こうしてみると、妹にちょっと似てるわね。妹はショートカットで私より骨格が大きいの。」

佑子は左肩を私の方に寄せてこういうと、右手を私の胸に持ってきて私の乳房を二、三度持ち上げ、いたずらっぽく笑った。女性に胸を弄ばれるのは初めてだった。みぞおちのあたりの神経がぴくぴくっとなって、せなかに軽くしびれが走った。萎えていた小さな男性器が勃起してネグリジェが盛り上がった。

「むむ。女の子なのに変だぞ。ネズミがいるのかな。」

佑子はいたずらっぽく笑い続けながら私のネグリジェの裾から右手を入れた。私は逃げようとしてベッドに仰向けに倒れたが、それが佑子には却って好都合な形になり、佑子は右手で私の男性器をつかんだ。数秒後、それはすっかり萎えて元通りに小さくなり、佑子の手から滑り抜けた。

「もう、ひどいんだから。」

ネグリジェを直しながら私は佑子に抗議の目を向けた。

「ごめん。もうしないから。」

佑子は相変わらず笑いながら一緒に座り直した。

「さっき、このホテルの喫茶店であなたに声をかけたのは、下手くそな男装をした女性だな、一目で女性とばれるのに、分かっていないなら教えてあげようかなと思ったからよ。オッパイを強調するようなティーシャツを着て、それがジャケットの襟の間から丸見えなんだから。向かい合って話してみると声が女性にしては低いから、ひょっとすると男性かな、とも思ったけど、肌もどう見ても女性の肌だしノーブラでしょ。でも、あなたは一生懸命男性として振る舞おうとしていて、話を聞いていると男性のような考え方をしている部分もあるようだから、不思議だったの。何となく昔からの友達みたいな気がしてきて、私に手伝えることがあれば手伝ってあげたいと思ったの。」

「女性だと思って部屋に入れたのに、男性だと分かって怖くありませんか。」

佑子はくくっ、と吹き出した。
「あなたのどこが怖いの。可愛いペニスに触れてしまった後も、私はあなたを同性として意識してるわ。」

「今日、喫茶店であなたのことをあんなに見つめたのは、あなたが十日前の僕と全く同じ服装で、同じようなバッグとサンダルで喫茶店に入ってきて、僕が座っていたのと同じ席に座ったからなんです。僕は本当にびっくりして、十日前の僕のことがドラマとして演じられているような錯覚に陥って、あなたの方を見ていました。」

私は、そのことをすらすらと口にできる自分が信じられなかったが、言葉とともに十日前の感覚がにわかに蘇ってきて目に涙がたまり、そのうちに涙が止まらなくなってしまった。

佑子は真面目な表情で、しかも優しく私の目を見た。

「いいのよ。言いたいことだけを言えば。そして泣きたいだけ泣けば。」

佑子は枕元の小灯を残して電気を消し、私たちは仲良く並んで狭いベッドに横たわった。佑子は右腕を私の首の下に回した。涙が声を詰まらせなくなった頃、私は一部始終を語り始めた。

 

第2章 S建設情報システム部

私はそのころ出勤するのを苦痛に感じ始めていた。関西の国立大学の情報工学科を卒業した私としては、やはり素直に電機メーカーかソフトウェアメーカーに就職すべきだったと後悔していた。

三年前に就職活動が始まった頃はバブルがはじけた後で、企業からの求人数は減り始めていたが情報工学科は例外で、私たち学生にとって売り手市場が続いていた。ある日大阪の大手建設メーカーであるS建設が「情報システム部の若い幹部候補を募集」というふれこみで午後五時から説明会をするということを掲示板で見て、晩飯代が節約できるかもしれない、と軽い気持ちで説明会の場所に行った。参加していた学生は私を含めて三名しかおらず、その建設会社の人事課長代理から期待通りに晩飯をごちそうになった。翌日、下宿に課長代理氏から電話が入り、S建設の本社に来るように言われた。私にとって会社というものを、会社と意識して訪問するのは初めての経験で、総合受付や人事部の受付の女性の美しさには圧倒された。人事部長から三十分ほど面接を受けた後、たまたま重役面接を行っている日だということで、私は初回の会社訪問で重役面接まで進み、その場で内定を伝えられた。後で聞いたところによると、私と一緒に説明会に出た二人の学生は大学受験に二浪しており、会社としては現役入学の私に的を絞ったとのことだった。その日の夜は立派な料理屋で接待を受け、その後も一、二ヶ月に一度料理屋に呼び出され、入社と同時に幹部に取り立てられるのではないかとの錯覚を覚えるほどちやほやされた。

その幻想は入社と同時にうち砕かれた。大学卒の同期入社三十人のうちで情報工学科出身は私だけで、私は情報システム部に配属された。入社前には情報システム部こそは会社の経営の中心であるかのようなことを耳打ちされていたが、事実は全く違っていた。情報システム部が情報工学系の学生を新卒で採用したのは私が初めてのケースで、上司や先輩は他の部門で失敗したり問題を起こした結果左遷された人、長期に病気で休職した人、リストラで肩たたきにあった中高年が大半で、何よりも悪いことには、上司や先輩全員が情報システム部を左遷の場所と認識していた。

夢を描いて入社した私は、自分だけは別だと意識して、一生懸命に仕事に取り組んだ。私は情報工学科に入る以前からコンピュータが趣味で在学中はボランティアで学内のネットワーク管理を手伝っていた。間もなく私は情報システム部でなくてはならない存在になった。他の部員が解決できない難題は全て私のところに持ち込まれ、部長からは特に大事にされた。もとより課長は部下に対しても「この部は墓場だ」と言ってはばからない人物で、仕事を進める意欲も無かったので、私は重要なことほど直接部長に話を持っていき、早く解決することができた。

慢心していた私は、そこに落とし穴があることに気づかなかった。入社して二年目の秋、部長が突然体調を崩して入院した。あっけないもので、ひと月で帰らぬ人となった。肺ガンだった。急遽後任の部長になったのは、なんと私の課の課長だった。その時から全ての歯車が逆回転し始めた。

私は以前から多忙だったが、輪をかけて多忙になった。以前からシステムトラブルの際の緊急呼び出し用にポケットベルを持たされていたが、その頃から緊急呼び出しは全て私のポケットベルに入るようになった。平日の夜中や、週末に自動で緊急呼び出しが入ることが多発するようになった。私は難題を取り扱う場合が多いだけにどうしてもミスの出る機会が他のひとよりは多い。以前は問題にもされなかったミスや、ミスといえないトラブルに関して、部長はことあるごとに私を呼びつけ、人前でねちねちと大きな声で叱りつけた。 私は長髪をさわやかに決めていたつもりだったが、部長は私が入社したころから長髪の男を見るとカンに障るらしく、それが私に敵意を抱いた一因だったかもしれない。

「女みたいな髪型して、仕事まで腰掛けのつもりでやってもらっちゃ迷惑だよ。」
とか、

「早く結婚退職でもしてくれないかなあ。」
というのが部長が私を叱るときの口癖だった。

 

もともと建設会社で長髪が歓迎されないことは感じており、私も髪の毛にそれほどこだわる気持ちもなかったので、人並みにショートカットにすることに抵抗はなかったのだが、それでも長髪に固執したのは、入社したばかりの頃に露骨にいやみを言った課長、すなわち今の部長に対する反抗心も影響していたと思う。

私が初めて本格的に打ちのめされた感じがしたのは年末のボーナスをもらったときだった。夏のボーナスは標準を五パーセン上回る査定だったが、冬は何と標準を二割下回っていた。労働組合との規約で、入社二年目までの最低保証が八割なので、私は最低の評価を受けたわけだった。

私は人事部に掛け合うことを決意した。早速入社説明会で私をスカウトしてくれた課長代理に会いに行った。人事課長代理は私が来ることを半ば予測していたような感じで開口一番、
「君、ミスが多かったようだね。」
と言った。

「勤労意欲を失っているので、カツを入れるために泣く泣く厳しい評価をしたと部長さんがおっしゃっている。ボーナスの評価はその期だけの評価で、翌期以降に影響しないから、落胆せずに心機一転頑張ってくれ。」
と諭され、反論の余地が与えられなかった。

それはまだ序の口に過ぎなかった。一月以降、私は総合職社員の中でただ一人、部内会議に出席させてもらえなくなった。新入社員も出席する会議に出させてもらえないのは屈辱だった。更に、部内の総合職社員の回覧印から私の名前が削除された。冷たいもので、部の同僚からも疎んじられていることが感じられるようになった。前の部長からもてはやされていたころ私にやたら親切だった同僚の女子社員も冷淡になった。

ノックアウトパンチは四月五日に訪れた。S建設では大卒入社の当初二年間を見習い期間と位置づけており、三年目にいわゆる幹部候補生である「総合職六級」に昇格し、給与も急上昇する。この昇格は一年以上病欠でもしない限り事実上全員に適用されるのが通例だった。その日私の同期全員が昇格辞令をもらったが、私ひとり例外であることがわかった。私はショックで口もきけなかった。部長の席の周囲に人が居なくなった時を見計らって、部長に歩み寄った。

「なぜ私だけ一年間遅らされるんですか。」
私は殆ど涙声で聞いた。

「一年間遅らせると言ったかな。これまで三年目に昇格しなかったやつが四年目に昇格したという話は聞いたことがないが。」
部長は私以外に聞こえないような小声で言って悪意を込めた嘲笑を口元に浮かべた。

 

第3章 転職

私は会社を早退することにした。もう上司の評価など気にする必要はなかった。

その夜はなかなか寝付けなかった。思えばボーナスで最低の評価を受けた時点で予測すべきだった事であり、それから何ヶ月も嫌な職場に耐えてきたことの方が間違いだった。私はプログラムも書けるしネットワーク管理もできる。今時私のような技術者はひっぱりだこのはずだ。ボーナス事件から今まで転職先を探す努力さえしなかったことが悔やまれた。

翌朝、私は自宅のパソコンからインターネットに接続し、fj.linuxを含むいくつかのニュースグループに投稿した。

「当方二十五才、四年制大学の情報工学科卒。ネットワーク管理経験二年以上。プログラミング経験あり。得意分野:UNIX、SQL。現在建設会社のシステム部門に勤務していますが、情報関連専門企業への転職を希望します。お心当たりの方はご一報ください。清水かおる。」

ニュースグループへの投稿を終えると、なんだか気持ちが軽くなった。私は会社に電話を入れて、今にも死にそうな声で言った。
「今日は腹痛がひどいので休ませて頂きたいのですが。」

入社以来初めての病欠だった。私は久しぶりに晴れ晴れとした気分になって、京阪電車の駅まで歩いて行くと、いつも通勤に乗る大阪方面とは反対のホームから京都行きの電車に乗った。三条京阪で下車して売店で就職情報誌を買い、久しぶりの京都をぶらぶら歩いた。鴨川べりに腰を下ろして就職情報誌を丹念に読んだ。勤務場所が大阪市内で京阪の駅から近い所にあるソフトウェアの専門企業で、UNIXのわかるデータベースプログラマーを募集していて、多少忙しくても個人の時間を大切にしてくれそうな会社で、しかも給料の悪くなさそうなところ、という観点でひとつひとつチェックし、ほぼ希望に近い会社に丸をつけ、特によさそうな会社に二重丸をつけていった。丸がついた会社が六社、二重丸がついた会社が三社あったが、そのうちの一社は完全に希望に合致していたので三重丸をつけた。ところがよく見ると「女性に限る」とあったのでがっかりした。合計八社の欄の枠に沿って折り目をつけ、指先で上手に破り取った。近くのゴミ箱に雑誌を捨てると、手元には八枚の小さな紙片が残った。私はそれを丁寧に折り畳んで財布にしまった。

応募の電話をするという勇気と苦労を伴う仕事は翌日に回すことにして、私は五条大橋の近くの喫茶店に入ってコーヒーを注文した。
久しぶりの充実した一日が過ぎ、私は京阪七条から電車に乗ってアパートに帰った。財布から八枚の紙片を取り出し、一枚ずつA4サイズの紙に貼り付けた。明日はこの八社にひとつひとつ電話せねばならない。

寝る前にいつもの習慣でインターネットに接続しメールをチェックした。メールが一通届いていた。

「清水かおる様。fj.linuxで見ました。あなたにぴったりの仕事があります。厚遇します。急いでいます。できれば明日、何時でも結構ですからご来社ください。予めお電話を入れていただく必要もありません。とにかくお越しください。地図を添付します。株式会社DBWアソーシエーツ 代表取締役社長 前川清子。」

一方的で押しつけがましい内容だったが、私はそのメールに不思議な魅力を感じた。小さな会社かもしれないが社長自らのメールだ。添付ファイルとしてわかりやすい地図がついている。京阪淀屋橋から二、三分の距離で、通勤にも便利だ。DBWアソーシエーツという名前はどこかで聞いたことがあるような名前だ。

翌朝、一番に自分の会社に電話を入れて、昨日よりもさらに死にそうな声で言った。
「すみません。腹痛が続いていてひどい下痢なんです。少しでも回復すれば午後から出社しますので。」

課長は本気にしている様子で、無理をしないで養生するように言ってくれた。

八社に電話するのは後にして、まず電子メールをくれたDBWアソーシエーツの前川社長を訪問することにした。電話せずに直接来てもよいといっているし、他の八社はそのあとで大阪市内から電話すればよい。

DBWは淀川沿いの小さな五階建てのビルの三、四、五階を占めていた。一、二階は別の会社の事務所になっており、三階がDBWの受付だった。

「清水かおると申しますが、前川社長にお目にかかりたいのですが。実はメールを頂いて、何時でもよいから来るようにと言われております。」

全部言い終わらないうちに受付の女性は理解したようで、
「はい、うかがっております。」
と感じのよい返事をして、奥の応接室に通された。

お茶が出され、十分ほど待ったあと、応接室のドアが開いて三十代半ばのスタイルのよい颯爽とした感じの女性が入ってきた。

「あっ。」
彼女は私を見ると小声で短い驚きの声を上げた。私は立ち上がって言った。

「清水かおるです。」

彼女は一瞬困ったような顔をしたが、その後微笑んで私に席をすすめた。

「かおる、っていうから女性だと思ったの。うちはデータベースウィメンズアソーシエーツと言って、女性が細やかな配慮の行き届いたプログラムを作って行き届いたサービスをするというのが売り物の会社なの。従業員二十七人のうち男性は総務経理関係の三人だけ。」

その時、私はDBWアソーシエーツという社名をどこで見たのかやっと思い出した。それは昨日、就職情報誌に三重丸をつけたが、女性に限ると書いてあったので破り捨てた会社だった。私は昨日の鴨川べりでの作業のことを社長に説明した。社長はおかしそうに笑った。
「じゃあ、僕はこれで失礼します。今度女に生まれてきたら、また応募しに来るかもしれません。」

私は帰ろうとして立ち上がった。

「ちょっと待って。実は、女性に限ると言っていられない緊急事態なの。うちはUNIXのSQLに関しては後発で、わずか三人でUNIXチームを組んでいるの。四月一日にUNIXの虫のような新卒が入社して補強する予定だったのに、ドタキャンをくらってしまって。明日から三人のうち一人が産休に入る予定なので、それまでに誰でもいいから入ってもらわないと、大変なことになるの。」

彼女は一気にしゃべった。

「事情はわかりますが、僕も転職するからには、後でUNIXの経験のある女性を採用できたからと言ってクビになったり、総務経理にまわされたり、というのでは困ります。」

私は三重丸だが女性しか入れないはずだった会社から突然掌を返したように歓迎され、その場で快諾したかったが、気を取り直して強気に発言した。

「勿論、あなたをUNIXの仕事から外したり、男性であることを理由に不利な扱いをしないことは約束します。」

「わかりました。そう約束していただけるのなら。」

「ちょっと待って。勿論、簡単なテストを受けてもらって合格することが大前提です。」

ここで、また立場ががらりと逆転し、テストされる側に追いやられた。社長はUNIXグループのリーダーの島崎洋子に電話をかけ、三十分ほどの採用試験をするよう依頼した。五分ほどすると、社長より少し若い長身の女性がノート型のパソコンを持って応接室に入ってきた。

「あ、女性じゃないんですか。」
島崎は落胆が私に伝わるような言い方をした。

「背に腹は代えられないでしょう。男性でも、能力があれば採用すべき事態なんだから。」

島崎がノートブック型のパソコンのスイッチを入れるとLINUXが立ち上がった。

「これが何かわかるわね。」
島崎は、わからなければその場で失格だ、というような口調で言った。

「勿論です。」

「ルートでログインしなさい。パスワードは当社の社名を六文字で。」

私が全部小文字でDBWASSとタイプして一発でログインに成功すると島崎は意外だ、という表情で言った。
「カンは良さそうね。」

島崎はUNIXのコマンドやデータベースに関する基本的な質問をしたあと、カーネルの構築、ネットワーク管理に関するいくつかの例題を出し、私はパソコンを使ってやってみせることができた。

「社長、合格です。男性だと色々制約はありますが、この子なら明日からでも戦力になると思います。」

社長も満足そうに頷いた。

「じゃあ、これで採用です。給与その他は当社の規定通り。当社は取締役をアソーシエート、いわゆる総合職をエンジニア、それ以外をアシスタントという三種類の職掌に区別しています。中核である総合職は全員がプログラマーないしはシステムエンジニアで、専門職かつ営業です。7年前の創業以来アソーシエートとエンジニアは全員が女性で、あなたは四ヶ月間のアシスタントとしての見習い期間経過後、順調にいけばエンジニアに昇格することになります。男性としては初めてのエンジニアになるわけだから誇りを持って頑張ってください。」

「あのう、先ほど男性が三人とおっしゃいませんでしたか。」

「他の会社を定年退職された六十代の方たちで、三人とも総務経理のアシスタントです。うちは対外的には女性が女性の感性で行き届いたサービスをする会社だから、経理でもお客様とお話しする可能性のあるポジションは女性のエンジニアが担当しています。」

私が次の質問をしようとしたとき島崎洋子が割って入った。

「明日から来てくれるのね。今日、今からでもいいのよ。」

「待ってください。僕はまだS建設の従業員なので、これから出社して退職届を出してきます。」

「すぐに辞めさせてもらえるの。何ヶ月か前に通知しないと円満退社にならないんじゃないの。」

「いいんです。その点は。」

私は退職金などもらえてもわずかだし、円満退社など全く興味のないことだった。

「じゃあ、早く行ってらっしゃい。明日は九時十五分出社、良いわね。」

社長は元気よく席を立って、私の方をポンと叩いて送り出した。

私は最後の出社のためS建設に行った。情報システム部には立ち寄らずに直接人事部に行って退職届の書類をもらい、人事部長に手渡した。

「君、ちょっと待ちたまえ。」
人事部長の声を背にして、そのまま情報システム部に行って、自分の机から私物をバッグに入れ、パソコンやネットワークドライブからから個人的なファイルを全て削除した。

「おい、清水、人事部長から電話がかかってきたが。」

部長が私の席の横に来て言った。

「ええ、今、退職届を出してきました。」

「ほかにあてでもあるのか。」

私は部長の言葉の端の嘲笑的な響きにカチンときた。

「UNIX経験の長いデータベースプログラマーはどこでもひっぱりだこです。前任の部長が死んだおかげで番狂わせで生き延びられたどこかの素人部長には無縁のことですがね。」

その三秒後、部長の顔はゆでだこよりも赤くなった。

「き、貴様、おれを侮辱する気か。」

「じゃ、失礼します。」

情報システム部のドアから出ようとしたとき、私の背中にマウスが当たった。部長がパソコンから引きちぎって投げたらしい。私は振り向かず、右手の親指をあげて立ち去った。

 

第4章 新しい職場

四月七日日午前九時、DBWアソーシエーツ勤務初日、私は生まれ変わったようなすがすがしい気持ちで出社した。

「おはようございます。今日からお世話になる清水です。よろしくお願いします。」
私は一人一人に挨拶した。

九時十五分、前川社長は私を四階に連れていった。三階は受付と商談室、四階が営業部門すなわちプログラマー件営業ウーマン十六名が活躍するメインの階で、五階には役員室と総務経理部がある。

社長は四階の全員を集めて私を紹介した。

「今日入社の清水かおる君です。UNIX関係のニュースグループに転職希望、清水かおると投稿しているのを一昨日私が見つけて、女性と思って昨日面接に来てもらいました。皆さんおわかりでしょうが、当社は女性が女性の感性で行き届いたサービスを提供する会社で、男性のエンジニアが加わったことが知られるだけで営業上はマイナスです。一部のお客様は女性だけの会社ということでごひいき頂いているので、露見すると商売が無くなる可能性もあります。そんな不便を覚悟の上で、来てもらったのは優秀なUNIXのプログラマーが採用難で、当社のUNIXグループの状況をなんとかするのが緊急課題だったからです。清水君の立場は、男性ばかりの会社に女性がひとりだけ就職したのと同じような立場ですから、アシスタントとしての見習い期間の後、予定通りエンジニアに昇格できるよう、皆さん暖かく助けてあげてください。」

「清水君というのも不便だから、かおる、と呼びたいところだけど、となりの斉藤リーダーもかおるだから、かおり、にしたらどうかしら。」
島崎リーダーが言うと拍手がおこり、私はかおりということになってしまった。

男性であるための不便さは、昨日聞いていたのに輪をかけて大変そうだ。四階にかかってくる電話は外部からの電話、それも客先からの電話が大半だ。私が電話に出ると男性が勤務していることがばれてしまうので、決して外線からの電話には出ないように申し渡された。
女性が完全に主流の職場に、ひとり男性が入るというのは思っていた以上に大変なことなのかもしれない。私はかおりなどという女の名前で呼ばれながら、社外にはわからないようにいつまでも隠れ続けなければならないのだろうか。ひょっとしたら私は大変な間違いをしでかしたのかも知れない。でも、今更引き下がるわけにもいかない。

午前九時半には私は新しい席についていた。UNIXグループは、島崎洋子リーダー、山村律子、私の三人と、空席ひとつの合計4席で成っていた。律子先輩は私より二才年上でレザーのパンツが似合う長身の美人だ。島崎リーダーも律子先輩も身長が百七十センチ近くある。私も外見ではハイヒールとは見えない、高い踵のビジネスシューズを履いているので、三人並ぶと結構かっこいいUNIX軍団の誕生だ。
早速島崎リーダーと律子先輩のプロジェクトの打ち合わせに参加させてもらい、私は律子先輩の下請けでプレゼンテーション資料の作成の仕事が与えられた。前の会社での仕事は社内のシステム管理で、受け身に近い仕事だったが、今度の職場はユーザーがお客様で、気に入ってもらえる仕事ができないと、お客様を失ってしまう。とても創造的で胸が弾む思いがする。島崎リーダーも律子先輩も、さすが、と思わせるような発想をあちこちで見せてくれた。

島崎リーダーは営業の面でも多忙で、客先との交渉に出かけることが多く、プログラミングの仕事の六割以上を律子先輩がこなしていた。客先からの電話も結構多く、電話がかかると律子先輩の仕事は中断された。私は外線からの電話に出ることを禁じられているので、仕事の手が空いていても電話にでられない。律子先輩のフラストレーションが伝わってくるだけに、私としてもじれったく、電話に出られないことが恥ずかしかった。

職場には、コーヒー沸かし器が設置されていて、インスタントでないコーヒーを好きなだけ飲むことができた。最後に飲んだ人が次のポットの分を沸かすという習慣になっていた。他のグループではアシスタントの人たちがエンジニアの人たちに定期的にコーヒーを出しているようだ。私も今はアシスタントなので他のグループを真似して三時に島崎リーダーと律子先輩にコーヒーを持っていった。
「わあ、ありがとう。かおりが入れてくれたコーヒーだときっとおいしいわ。」
律子先輩が、喜んでくれたので私はうれしかった。

「かおり、見習い期間はアシスタントの資格だからといって、コーヒー入れまでしなくて良いのよ。私たちは同じチームのエンジニアなんだから。」
島崎リーダーは苦笑しながらそう言ってくれた。

「いえ、僕、電話に出られなかったりで心苦しいし、雑用でも何でも言いつけてください。」

雑用でも何でもしたいというのは本心だった。二人の先輩たちは経験も知識も、足下にも及ばないぐらい優れていて、S建設入社直後に自分が天狗になっていたことを思い出すと恥ずかしかった。ここは、まるでレベルの違うプロの世界なのだ。

それから時々律子先輩は私にコーヒーを頼むようになった。

「かおり、コーヒーお願い。かおりが入れてくれるとおいしさが違うのよ。」

私はいつも快く応じた。

一日一日がとても充実していて、私は出勤するのにうきうきしていた。職場で唯一の若い男性という立場も、不便を上回るメリットがあることを実感した。二十五人全員がそうではないが、私は何かにつけて特別扱いされて、優しくされた。

みんな私に話しかけたがり、何かにつけ視線を感じた。私はまさに職場の花だった。私は本当は小柄なのだが踵の高い靴を履いた状態で百七十センチある。以前から顔は人気グループのKという歌手に似ているといわれ、髪型も真似して長髪をジェルで固めていた。

同じフロアにいる二、三人は明らかに私を異性として、、、結婚対象の異性として意識していた。こんなにもてた経験は無いので、新しい職場は私にとって天国のように見え始めていた。

入社から一週間目の午後、前川社長が四階に降りてきてフロア全員を集めて言った。

「先ほどK商事の社長さんがいらして役員室にお連れしたんだけど四階と五階の階段の間で、この部屋をのぞき込んで、かおりの姿を見たらしいの。お宅は男性のプログラマーを雇うことにしたのか、会社の方針を変更したのか、とすごい剣幕だったわ。私は、あれは出入りの業者の人間で、コーヒー沸かし器の保守に来ているだけです、と何とか逃げたんだけど。とにかく、お客様がこの部屋の中を見ることが無いように細心の注意をはらってください。」

「社長、そうはいってもこのビルの構造からして、どうしても見えてしまう部分があります。絶対に見せないというのは無理です。」
と、島崎リーダーが指摘した。

「かおりはいつもダンディーな服装や髪型をしてるので遠くからでも一目で男性とわかるわ。ネクタイと背広をやめて、セーターとかカーディガンにするだけで、問題はかなり解決すると思うけど。」

「髪型もジェルとかヘアーリキッドとか止めて、トリートメントだけのさらっとした髪にするほうが安全よ。今の髪型、男っぽいもの。」

「靴もその大きなビジネスシューズじゃ駄目ね。女性用をはくべきよ。」

「女性用はかわいそうよ。男女どちらでもはけるようなスニーカーでいいわ。」

「今の靴、踵が高いんじゃない。少しでも背が低く見えるように、底の薄い靴をはけば目立たないわ。」

「ズボンも女性用をはかせましょうよ。スカートは可哀想だから、キュロットならいいかな。」

「いいわよ。スカートはかせましょうよ。」
無責任な意見が出され、興味本位に流れてきたので社長がまとめた。

「じゃあ、これから背広ネクタイは禁止。できるだけ中性的乃至は女性的な服を選んでください。いいわね。靴はいま島崎リーダーが履いているような感じのペタンコの靴にしなさい。踵のないやつよ。髪型も変えてちょうだい。今から美容院に行って来なさい、今日の分のお金は会社で出すから。」

私は泣きたくなった。外から見ると踵が高いようには見えないが七センチ以上のハイヒールを履いているのがばれてしまう。

島崎リーダーが自分の履いているヒールが五ミリしか無いような靴を脱いで差し出した。

「これ貸したげるから履きなさい。私はロッカーにサンダルが入っているから。それからセーターも私のロッカーにあるからそれを着なさい。」
と言ってロッカーからセーターを取ってきた。

「はい。この件はこれでひとまず解決ね。すぐ着替えなさい。私が美容院に連れていって説明しとくから。」

私はほとんど無理矢理背広とネクタイを取られて島崎リーダーの赤いタートルネックのセーターを着せられ、靴を履き替えさせられた。

「ええっ。かおり、そんなにちびだったの。」
隣のグループの美香が嬉しそうに叫んだ。

私は恥ずかしさで真っ赤になって、社長について逃げるように部屋を出た。

社長は会社から徒歩四、五分のところにある行きつけの美容院に私を連れていった。

「まずシャンプー、トリートメントと、それからこの子の髪型を女性的なさらっとした感じにカットして、ブローして欲しいの。そう、前髪はたらして、このあたりでカットして、ここはシャギーにして、後ろはそろえて。あ、それから、この子に希望とか聞いても駄目よ、わかってないから。」

私の自慢の髪型は無惨に変えられてしまう羽目になってしまった。社長は先に代金を払って会社に帰っていった。

私は前髪が無惨に切られるのを見たくなかったので、カットが進む間、ずっと目を閉じていた。二時間で私の髪型の改造は完了した。鏡に映った私は、自分でも自分と認識できないような変わり果てた姿だった。どうみても、そこらへんのOLのような髪だ。あんなに大胆にカットしたのに、ブローした髪は前から上にかけてふわっと膨れ上がっている。頭を動かすと髪がさらさらゆれる。こんな髪型で外を歩くなんて信じられない。

私は走って会社に帰り、部屋に駆け込んだ。

「かおり、あんた、かおりなのね。よその人かと思ったわ。」

皆、うそー、と言いながら私に近寄って私であることを確かめ、笑った。

「ほんと、さっきまではダンディーですらっとした現代風の男性だったのが、そこらへんの普通の女の子に変わっちゃったみたい。」
私は恥ずかしさで真っ赤になりながらUNIXグループの席に戻った。律子先輩は私を見てただ微笑んでいた。
「かおり、コーヒーお願い。」

しばらくして律子先輩に言われてコーヒーを持って来る途中、本棚の資料を取ろうとして席を立った律子先輩とすれ違った。律子先輩は私の目の前で立ち止まって言った。

「すぐ戻るから机の上に置いといて。」

靴が変わって、目の位置が七センチ違った。律子先輩は私の目を見下ろし、私は上目遣いに答えていた。

「かおり、その髪型、前よりかわいいよ。ずっといいわよ。」
と言われて私は目を伏せてしまった。

髪型と服装と身長の急激な変化は、即時に職場での私の身分に重大な変化をもたらした。まず、私に結婚対象の異性として熱い視線を投げていた二、三人の態度ががらりと変わって、私を無視するようになった。無視と言っても決して悪意のあるものではなく、私を単なる同僚として別段の興味もなく扱うようになったのだ。次に私に対する丁寧な感じが誰からも消え去ってしまった。私は相変わらず職場でただ一人の若い男性として大事にされたが、一歩離れた丁寧さや敬意や注目が消失した。

島崎リーダーと律子先輩も以前より気軽に私に雑用を言いつけるようになった。

通勤には不便が出てきた。この髪で、婦人物のセーターを着ていると、私は後ろ姿では女性と認識されるようになってしまったようだ。満員の電車で男性に背後から体をすり寄せられるという不愉快な経験が何度かあった。また、すれ違う女性から殆ど顔を覗かれなくなった。中性的な服装や、髪型から、私は一目で男性として認識されない場合が多いようで、仮に男性として認識されても、殆どの女性は身長の低い、女のような髪型をした男には興味がないのだ。すれ違う男性や電車で向かい合わせに座っている人たちから「男?女?」というような好奇と嘲笑の目つきで顔をしげしげと見られることが増えた。私は体毛は薄い方だがよく見れば顔には髭があるし、顔や体のつくりも当然男性のものだ。それが普通のOLのような髪型をしているのは確かにおかしい。


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