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新作「失われたアイデンティティー」を出版しました

桜沢ゆうの新作小説「失われたアイデンティティー」を出版しました。MTFのストーリーですが、分類的にはTS小説というよりは一般小説になると思います。

主人公の間宮孝太郎はアラフォーのエリート商社マンで本社の課長をしています。七月五日に間宮の課に派遣された綾瀬レイナは表紙カバー画像のような感じの二十三才の女性です。

間宮の目にはアンバランスで場違いな感じのする美人という印象でした。重めの前髪が目の上ギリギリでぱっつんに切られており本来キュートな髪形のはずですが、大人っぽ過ぎる物憂い表情によって相殺されて、人を寄せ付けないオーラが漂っています。

派遣開始の翌日の夕方、課の歓送会がありました。主人公は対面の席に座った彼女と会話を弾ませ、彼女も間宮に心を開いたかに見えました。

お酒の回った間宮だったが、酔った彼女をタクシーで家まで送る役割を引き受けることになります。アパートの玄関のドアの前までのはずが、彼女の誘いに乗って部屋に入りました。

それは間宮にとって小さな過ちでしたが、この僅かな気のゆるみのお陰で間宮は驚天動地の世界を経験することになるのでした。

物語はワールドカップのベルギー戦の朝に始まり、隅田川の花火大会が予定されていた日(台風で翌日に延期されたので花火大会が開催された前日)に終わります。それは私が実際にこの小説を書いた期間とピタリ一致しています。短期間の展開ですがぎっしりと詰まった小説です。思いを込めて書きました。



失われたアイデンティティー
第一章 危険な派遣社員

 いつになく浮沈の激しい日だった。

午前三時にキックオフしたワールドカップのベルギー戦の録画を、五時起きで見た。二対ゼロになって有頂天になっていたら、ベルギーの左からのふわっとしたヘディングがキーパーの頭を超えて入った。間もなく二点目が入り、終了間際に三点目を入れられて負けてしまった。

もし三点目が入らず延長戦になっていたら、スマホのニュースを電車の中で見て結果を知る羽目になっていたところだった。録画を最後まで見たら会社に遅れるからだ。負けたおかげで私は部下たちに午前三時からリアルタイムで観戦したふりをすることができる。

そんなことを考える自分はせこいなと思いながら出勤し、パソコンを立ち上げると、部下の花村純子から
「お話したいことがあります。お時間いただけますでしょうか」
という短いメールが入っていた。

花村純子は短大卒で入社二年目の一般職社員だが、フロアで最も人気がある女性だ。美人ランキングがあるわけではなく私の主観による順位だが、ショートボブがよく似合う小顔でセンスの良い女性で、愛想が良いだけでなくちょっとした会話がウィットに富んでいる。去年の暮れの部の飲み会で隣の課の男性社員から好きなタイプの男性について質問された際に「うちの課長みたいな人」と答えていたのが漏れ聞こえて心が躍った。純子は私に聞こえるのを承知の上でそう言ったのだと思った。計算高いのではなく、わざとそんな手法で気持ちを伝える能力を持つ女性だった。

会議室管理システムで一時間後の午前十時からの小会議室の予約を入力し、自動通知で純子に知らせた。純子はパソコンの画面から目を上げ、一瞬私に顔を向けて微笑んだ。お互いの意思が通じた瞬間だった。純子からのメールにわざわざ返信するのは無粋だと思ったので返信はしなかった。

純子は私に何を話したいのだろう? 職務上の不満、他の課員とのトラブル、先輩社員からのハラスメントの訴え……。もし「好きです」と告白されたらどうしよう。私のような男性がタイプだと言っていたことだし、二十才の年令差は決定的な障害にはならない。しかし不倫はまずい。課長が自分の娘のような年令の部下と関係を持ったことが露見したら私のサラリーマン生命は危機に晒されるだろう。結構いい関係を保ってきた妻を裏切ることにも良心の呵責を感じる。

早めに会議室に行き、不安と期待が交錯する胸の内を表情に出さないようにと深呼吸をしていた時に花村純子が入ってきた。

「ベルギー戦は見られました?」
と言いながら純子は私の向かい側の席に座った。

「勿論。昨日の夜は十時に寝て、今朝早起きして見たよ」
三時に起きて実況を見たと純子は受け取ったかもしれないが、私はそうは言っていないから嘘をついたわけではない。

「私は渋谷のパブリックビューイングに行ったから一睡もしてないんです。惜しかったですよね」

乾のシュートについて解説しようかとも思ったが、サッカーの技術論を振りかざしても、純子なら興味があるフリをして私に合わせてくれるだろうが、好感度にはつながらないと判断した。それよりも、純子が誰とパブリックビューイングに行ったかが気になった。

「いい試合だっただけに悔しいよね。一緒に行った人も悔しがっていただろう?」

「あら、課長。男性じゃないですよ。アッちゃんと二人で行ったんですぅ」
と、純子は私の嫉妬を見抜いたかのように意地悪な微笑を浮かべて答えた。

「ああ、君のところによく来る、経理のアツコさんね」
私は何気ない表情で平静を装う。

「今日お話ししたかったのはワールドカップの事じゃなくて……」

「あ、そうだったね。気兼ねしないで何でも言ってくれ」

数秒間の沈黙の後、純子は私の目をじっと見ていたが、真剣な口調で語り始めた。
「私、すごく悩んだんですけど、ワールドカップの日本代表から勇気をもらって、課長にお話しする決心がつきました」

私の心臓は純子の耳に届くほどの音を立てている。純子は私に告白しようとしているのだ。次の言葉を聞くのが怖かった。

「私、会社を辞めます」

「ええっ!」

自分の耳を疑った。「好きです」ではなく「辞めます」とは!

絶頂まで引っ張り上げられてドスンと落とされた気持ちだった。まるで今朝のベルギー戦と同じだ。

「結婚するのか……」

「うふふ、寿じゃないですぅ。私、彼氏いない歴三ヶ月で、募集中ですよ、課長」

純子は誘惑の視線で私をあしらった。

「じゃあどうして辞めるんだ? パワハラは無いと思うが、セクハラじゃないだろうな?」

パワハラは自分も部下も決してしないように気を配っているので自信があったが、セクハラは被害者本人にしか気づきにくい面があるので心配だった。

「鈴木さんのことですか? あのくらい、どうってことないですよ。あ、これ、鈴木さんには内緒ね」

「辞めたい理由を教えて欲しい」

「会社に不満はありません。快適過ぎるほどです。だから私、冒険したくなったんです。今までとは別なライフスタイルを経験したいというか……。課長もそんな気持ちになったことってありません?」

それは分からないでもない。何もかも捨てて純子と駆け落ちをするとか……。

「会社に勤めながら、アフターファイブや休日に冒険することも可能じゃないか。そうだ、五日間連続の夏休みを取って前後に土日をくっつければ九連休になるぞ」

「九日間が終わったら、元の生活に戻るというのではダメなんです。例えば香港の家庭に住み込みのメイドとして働こうと思ったら、一年は欲しいですよね」

「香港で住み込みのメイドだって? フィリピン人の出稼ぎ女性みたいに? 大事に育てられた日本人のお嬢さんに出来る仕事じゃないと思うよ」

「香港人の奥さんから住み込みの女中として見下されてプライドをズタズタにされて働く……。会社を辞めないとそんな経験ってできないじゃないですか。いえ、これは一つの例えであって、実際に香港に行くつもりはないですよ。とにかく今までとは違う日常を体験したいんです」

まるで子供だ……。ナイーヴというか、幼稚と言うか、まだ社会人になり切れていないのだ。子供を相手にする場合、頭ごなしに否定するのは逆効果であり、やんわりと翻意を促すしかないと思った。

「ご両親も心配されるんじゃないかな」

「親には今夜話します。今朝ベルギー戦を見て渋谷で決心した後、まだ家には帰っていませんから。親はどちらかというと私のすることには理解がある方ですから、何たらかんたら言った後でサポートしてくれるはずです」

こんな娘を持つと親も大変だろうと思った。

「君の気持ちは分かったが、ご両親とか友達とか、よく相談してから最終決断した方がいいと思うよ」

「あ、退職届はさっき勤務システムに入力しておきましたので、人事部にはもうコピーが行っています。課長と部長が承認をクリックしたら手続きが完了するはずです。ボーナス月の退職で恐縮ですけど、引継ぎ期間と有休残の消化を考えて七月末退職ということで」

顔には出さなかったが私の心はポキッと音を立てて折れた。あまりにも冷淡な最後通告だった。

「じゃあ課長、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんがよろしくお願いします」
と言って花村純子は会議室から出て行った。

私はしばらく立ち上がる気力がなかった。ベルギー戦と同じくらい、いやもっと取り返しがつかない種類の喪失感だった。

しかし、ぼやぼやしてはいられない。入社二年目の一般職といっても定型業務を引き継ぐには少なくとも一週間はかかるだろう。補充要員の確保が喫緊の課題だ。私は会議室の電話機から人事課長のアポを取って人事部に出向き、事情を説明して人員補充の要請をした。

「残念ながら現時点で異動させられそうな一般職女性は居ませんね。定年延長の高年男性で良ければ二、三人ほど心当たりがあるんですが……」

「それは勘弁してください。二十才の女の子の代わりに六十を超えたオジサンが来たら若手男子社員の労働意欲が急低下します。それに営業部門で中高年男性がお茶出しをしたらお客さんが逃げてしまいます」

「そういうことなら当面は派遣で凌いで、来年四月に新卒一般職を補充するしかないでしょうね」

「そうですか。じゃあ、派遣の手配をお願いします。できれば若い美人を」

「間宮さん、一般事務の派遣を依頼する際に『若い美人』という条件は付けられません。人事部の基準によって派遣を手配しますのでお任せいただくことになります。まあ、今回は急ぎということなので多くは期待しないでください」

「部下たちの勤労意欲のためです。何とかよろしくお願いします」
と、もう一押ししておいた。

***

翌日の午後、人事課長から「派遣社員の件」というタイトルのメールが入った。

「通常は少なくとも一週間のリードタイムが必要ですが、たまたますぐに勤務可能な人材が見つかり、今朝面談を実施した結果適切と判断したので、明日から派遣開始となりました。プロフィールを添付します」

メールには綾瀬レイナという女性の写真付きのプロフィールが添付されていた。派遣会社のフォームのプロフィールであり、生年月日や学歴など、通常の履歴書に書かれている内容は記載されていなかった。写真は冴えない表情だったが可もなく不可もなく、二十代前半の普通の女性という印象だった。私と部下の男性の勤労意欲が急低下するようなオバサンでなかったことにほっとしたが、身長体重等の記載はないので、現物を見るまでは何とも言えない。まあ、人事部で面談した上で判断したということなら、極端に態度や愛想が悪いということは無いだろう。

花村純子を呼んで「明日木曜日の朝から派遣社員が来ることになったから引継ぎを始めてくれ」と言ってから、課の全員あてに純子の退職と派遣社員の採用に関するメールを送った。純子ファンだった課長代理の鈴木省一は「本当ですか!」と落胆の呻きを上げたが、他の課員は純子が退職することについて先刻承知の様子だった。

***

七月五日の木曜日、私は期待に胸を膨らませて出社した。九時半に人事課長が若い女性を連れて部屋に入って来たのを見て、私は息を飲んだ。

私の左前方の席の鈴木課長代理はポカンと口を開けて虚ろな目を彼女に向けている。彼女が目に入る位置に座っている男性の表情は多かれ少なかれ鈴木と同様だった。彼女は部屋全体の雰囲気を白けさせるような種類の女性だった。二十二、三才で百六十三センチ程度のスラリとした美人だが、何かアンバランスで場違いな感じがする美しさだった。目の上ギリギリで切りそろえられた重めの前髪が醸し出すはずのキュートさが、大人っぽ過ぎる物憂い表情によって相殺されていた。彼女が放つ人を寄せ付けないオーラが私を不安にさせた。

「間宮課長、こちらが派遣の綾瀬レイナさんです」
人事課長がそう言って彼女を私に引き渡してから「文句ないでしょう?」と言わんばかりにニヤリとした目で私を見て立ち去った。

「綾瀬レイナと申します。よろしくお願いいたします」
と、投げやりな雰囲気でその美人はお辞儀をした。裾の部分だけ軽くウェーブがかかったロングヘアが前に揺れる。染めているのか地色なのか判断できない茶色がかった髪だ。

「課長の間宮孝太郎です」
と自己紹介をしてから課員の一人一人を紹介し、私から一番離れた席に座っている花村純子の向かい側の席に綾瀬レイナを座らせた。

私が席に戻ると課長代理の鈴木がヒソヒソ声で私に聞いた。

「課長、あんな美人をどうやって連れて来たんですか!?」

「まあ、色々あってね」
と私は思わせぶりに答えた。

「歓迎会をやらなきゃ。課長のご都合の悪い日を先に教えてください」

「私の予定は全てオンラインのスケジュラーにインプットしてあるが来週の水曜日以外は特に予定は入っていない。ただ、派遣社員の場合、五時半以降は拘束できないし、飲み会の費用の負担を求めるのも色々問題が……」

「そこらへんは心得てますよ。うまく話しますから僕に任せておいてください」

「くれぐれも無理強いをしないように頼むよ……」

***

花村純子と綾瀬レイナはうまくやっているようだった。アイドル的な可愛い子がタイプの違った美人と火花を散らさないかと懸念したが、杞憂だった。純子にすれば短期間の付き合いだし、レイナは大人だからなのだろう。

純子はレイナを他部門の担当者に後任として引き合わせるために社内を回り始めたが、私は内心誇らしい気持ちだった。というのは、純子は他部門の部課長連中にもファンが多く、彼らから私に「アイドルの後任にあんな美人を引っ張って来るとは凄腕ですね!」と言った類いの賛辞が寄せられたからだ。

五時を回った頃、鈴木課長代理から課の全員あてに綾瀬レイナの歓迎会の案内のメールが送られた。翌日金曜日の午後六時から近くのインド料理店で開催するとのことだった。

「新人女性の歓迎会がインド料理というのは珍しいね」

「綾瀬さんに何が食べたいかと聞いたら、スパイシーなものが好きとのことだったのでインド料理にしました。ちなみに、綾瀬さんからは会費を徴収しないことになっています」

鈴木は仕事に関しては頭が固い傾向があるのだが、私と違ってこの手の飲み会をアレンジする能力が高いことには感心させられることがある。

***

金曜日は普段より十分ほど早く出勤した。いつも会社の近くのコーヒーショップで日経新聞の電子版を読んだり海外の金融市場の動きをチェックしてから出勤するのだが、今日はつい早めにコーヒーショップを出てしまった。会社に行けば綾瀬レイナと会えるという気持ちで年甲斐もなくドキドキしている自分に気づいて失笑した。去年花村純子が入社して私の課に配属になった時も会社に来るのが楽しくなったが、その時の気持ちとは違う、焦燥感の混じった憧れを私は感じていた。

仕事をしていてもつい目を上げてレイナの顔をチラチラと見てしまう。これではいけない、我慢しようと思うほど、私の視線は勝手にレイナに吸い寄せられた。レイナには他の女性には無い特徴があった。それは表情を変えないということだった。昨日は初めての職場だから緊張しているのだろうと思っていたが、そうではないことに気づいた。表情には余裕があり、おじおじした様子は全くない。きつい目をしているわけではないが、私の見る限り一度も笑わなかった。

ただ、純子とレイナの席は私から三列離れた末席であり、私はかなり離れた場所から横斜め顔を見ているにすぎないので断言はできない。仕事中は仕事に集中し、オフになれば喜怒哀楽を顔に出す女性も居ないわけではない。見えない所では純子と笑顔で話しているのかもしれないと期待した。

待ちわびた夕方になり、レイナは五時半に席を立ったが、私は他の男性課員と一緒に六時十分前に席を立ってインド料理店へと向かった。インド料理店に行くと十人掛けのテーブルが予約されており、鈴木の計らいで私はレイナの対面の中央の席に座ることになった。

黒いフレンチ袖のカットソーのTシャツの上に、黒地に白い花柄が透けて見えるオーガンジーのスカートをはいたレイナは、会社での制服姿と違って、奔放さを匂わせる大人っぽい雰囲気が感じられた。表情にも余裕と隙が見える気がした。

「綾瀬さんは怖いタイプの美人かなと思ったけど、そうでもなさそうだから安心したよ」
と、乾杯の後で鈴木がレイナに言った。やはり鈴木も私と同じように感じているのだ。

「『美人』ではないですけど、怖い女というのは当たっているかもしれませんよ」
と、レイナは虚ろな目を鈴木ではなく私に向けて言った。

私は反応を返す必要性を感じて苦し紛れにコメントした。

「他部門の部課長連中から電話がかかって来て『アイドル的美少女の後任にあんな美女を採るとは間宮さんもすごいな』と冷やかされたよ」

レイナから一人置いて奥の席に座っている花村純子が私のコメントに笑顔を返したのが見えてほっとした。大体のところ女の子と飲む時は褒めておけば大失敗はしないものだ。

「私、自分の醜さはよく分かっていますから」
とレイナは、私ではなく鈴木の目を見ながらポツリと言った。

「アハハハ、綾瀬さんが醜いのならこの世の女性は全員がブスということになるよ」
と鈴木が周囲を見回しながら大きな声で言った。その言葉が純子と三十代半ばの総合職の羽田菜緒にかなりの不快感を与えたことを鈴木は気づいていない。

レイナの「自分の醜さ」という言葉が妙に引っかかった。謙遜なら醜いという表現は使わず「きれいではない」とか「他にずっときれいな人がいる」などと、周囲の女性たちの反感を招かない言い方をするものだ。それ以上に、レイナが本気でそう言ったことが表情で分かった。昨日の朝初めてレイナを見た時に感じたアンバランスさや場違い感と相通じるものがあった。

白けた沈黙の後、鈴木が花村純子としゃべり始めたのを横目に、私はレイナの先ほどの発言を受け流すつもりで話しかけた。
「美人だと苦労の方が多いかもしれないね。何とも思っていない男や、嫌いなタイプの男から言い寄られたり、ひどい場合はストーカー被害に遭ったり……。次から次へと近寄られるのを断るのに神経をすり減らすんだろうな」

「課長は女性の気持ちが分かるんですね。以前女性だったことがあるんですか?」

唐突で意外なことを真剣な表情でレイナに言われてうろたえた。

「な、無いよ!」
と答えた後で、そんな質問をまともに受け答えした自分が恥ずかしくなった。

レイナは私の狼狽を面白がって「うふふ」と笑った。レイナと会って初めて目にした笑顔は嫌味や裏の無い無垢なものに感じられた。私も微笑を返した。レイナとの間にあった壁が、霧が引くように消失した。

それからレイナは別人のように優しくなった。私以外の課員に対する受け応えにも若干の変化が見られたが、私に対する態度は一味違うと感じた。企業の管理職として、打ち解けにくい新人の心を開けたのは格別な喜びだった。その新人が美人の女性だっただけに、私は女性を扱うテクニックを他の課長連中に自慢したい気がした。

二時間半があっという間に過ぎた。レイナは自分ではそれほど飲んでいないようだったが飲ませ上手で、私はすっかり酔いが回った。飲み会の間、私は殆どレイナと話をしていた気がする。課長として褒められたことではないが、私とレイナの会話には他の課員たちも適宜加わったし、今日はレイナの歓迎会ということで大目に見てくれるだろう。

勘定は幹事の鈴木に任せて千鳥足でレストランを出た。私の近くに立っていたレイナも脚がふらついているように見えた。

レストランから最後に出てきた鈴木が「花村ちゃん、カラオケ行こうよ」と純子を誘って軽くいなされた。

「綾瀬さんはかなり飲んだみたいですから、課長にお願いしていいですか?」
と鈴木が私と綾瀬に聞こえるように言った。私が綾瀬を気に入っていると思って気を利かせたのか、それとも若い課員と飲みに行くのに私たちが邪魔だと思ったからなのかは不明だった。

最近の世間の風潮だとちょっとしたことでセクハラの嫌疑をかけられかねないので、私は女性を家まで送る役割は御免こうむりたかった。相手が若い美人だとなおさらそうだった。

その時、綾瀬が私に身体を寄せてきた。
「すみません、課長。本当に送っていただいてよろしいんですか?」

私は反射的に「勿論だよ。私は安全な人間だから心配するな」と答え、タクシーを拾ってレイナを乗せた。私も乗ってタクシーのドアが閉まった。

「ええと、綾瀬さんの家は確か東の方だったっけ?」

レイナは「はい」と答えて、深川の住所をドライバーに告げた。タクシーが走り出すとレイナは私に軽く微笑んでから目を閉じた。レイナと言葉を交わさなくてもいい状況になって私はほっとした。二人きりで何を話せばいいか想像がつかなかったからだ。

二十分ほど走ってタクシーは薄暗い集合住宅の前に停車した。その時、レイナが疲れた様子で私に言った。

「すみません、気分が悪いので部屋まで送っていただけないでしょうか」

断れるはずがなかった。タクシー代を払うとレイナに肩を貸してアパートの玄関を通り、エレベーターまで歩いた。レイナの足取りはしっかりしており、肩を貸さなくても大丈夫そうだったが、レイナは私の肩に手を回したまま歩いた。相手が男なら肩か腰を抱きかかえて支えるところだったが、私は手を下に垂らしたままだった。

エレベーターを五階で降りて五〇五号室の玄関ドアの前に立った。玄関の鍵は番号入力式の見慣れない電子ロックだった。レイナが四桁の番号を入力するとカチッとと音がして解錠された。

「じゃあ、ここで失礼するよ」
と言って、私はエレベーターへと引き返そうとした。

「待ってください、課長。お願いですから少しだけお話をさせてください。五分間だけで結構です」

妻以外の女性のアパートに入ったことがなかった。若い女性のアパートで二人っきりになることには、ドキドキするというよりも、戸惑いの方が大きかった。

「お願いします」
ともう一押しされて
「じゃあ、五分間だけ」
と言って部屋に入った。

左右に小さなキッチンと洗面所がある廊下の向こうにリビングルームがあり、奥にベッドルームがあるようだった。私は部屋に入ると右側のソファーを示されて腰を下ろした。二人掛けのラブチェアーのようなソファーだった。

「すぐにコーヒーをいれますね」
と言ってレイナはキッチンに行った。きびきびとした様子で、足取りもしっかりとしている。家まで送って欲しいのは私の方だと思って苦笑した。

部屋を見回して殺風景さに驚いた。緑色のカーテン、シンプル過ぎる安物の家具。夏なのに部屋の隅に火鉢が置いてあった。若くて美しい女性が住んでいる部屋とは到底信じられなかった。女物の服や下着などは一切目に入らない。きっとフェミニンなものは一切合切あのベッドルームに押し込まれているのだろう。ベッドルームのドアを見て、あの向こうはどうなっているのだろうと思ってドキドキした。

レイナはペアーのデザインのマグカップを手に持って戻って来ると、右手に持っていた赤い方のマグカップを私に差し出した。

「コーヒーが切れていたのでココアにしました。ちょっと苦いココアなんですけど」

マグカップはそんなに熱くはなく、すぐに飲めそうだった。

「どうもありがとう。これを飲んだら失礼するから」

レイナは私の右側に腰を下ろし、二人でココアを飲んだ。レイナが身体を少し動かすと腰が触れ合って、私の股間のものがムクムクと大きくなったのが感じられた。早く帰らなければ、と思って、残りのココアを飲み干した。

「私の話を少しだけ聞いてくださいね」
とレイナが私の太股に左手を乗せた。

「もう五分以上経ったから」

「私、死のうと思っていたんです」

「な、なんだって! こんなにきれいなのに、どうして?」

「若い女の子とか、きれいな女の子とか、スタイルがいい女の子とか言って私を褒める人は大勢いましたが、私を一人の人間として正面から見て『きれい』と言ってくれる方は久しぶりでした」

「そ、それは……。ちょっと買いかぶり過ぎかもしれないよ」

「とても勝手な考え方で、課長さんには本当に申し訳ないとは思ったんですけど……」

「ど、どういうこと?」

「私と一緒に死んでください」

マズイ! 私はソファーから跳び起きようとした。

そう思ったが、手足が動かなかった。身体中にしびれを感じて頭が朦朧としてきた。ココアの中に薬物を入れられたのか……。

「課長、ご一緒してくださってありがとうございます」
レイナが私に唇を重ねた。私はソファーに倒れ、レイナの体重を感じながら意識を失った。


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新作「制服はジェンダーレス」を出版しました

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズ新作TS小説「制服はジェンダーレス」を出版しました。

***

主人公は千葉県習志野市に住む深村絢という男子。中学三年の卒業式を終えて帰宅すると、母と姉がお祝いのケーキを用意して待っていた。姉も千葉大医学部の後期合格の発表があったばかりで、そのお祝いのケーキだった。父は出張なのか、不在だった。

その祝いの席で、母から父と離婚したことを知らされて主人公は愕然とする。

父に落ち度がある離婚ではなく、夫婦で相談した結果の協議離婚が成立したばかりだった。絢は千葉県の私立高校への進学が決まっており、高校の授業料は父が払う約束だが、それ以外の衣食住の費用は母が働いて工面するとのことだった。母親は専業主婦だったが、法律事務所に事務員として就職し、母姉弟の三人の新しい生活がスタートする。



制服はジェンダーレス
第一章 家庭の事情

 三月二十三日の金曜日、中学の卒業式が終わって帰宅すると、台所のテーブルに「おめでとう」と書いたケーキが置いてあった。

「待ってたのよ、絢(じゅん)。三人でケーキを食べてお祝いしましょう」
と笑顔いっぱいの母が言った。

「中学を卒業したくらいで、大げさだな」

「それもあるけど、亜希の大学合格とダブルでのお祝いよ!」

「えっ! お姉ちゃんが合格したの!?」

千葉大医学部の後期日程の合格発表は今日だった。合格する確率は五パーセント未満だと姉が言っていたのでまさか受かるとは思っていなかった。

「難関だったけど、これが私の実力よ」
と姉は受かったのが当然であるかのように言った。昨日の夜までは浪人を前提として暗い顔で受験勉強をしていたくせに何という変わりようだろうか!

「早く手を洗ってきなさい」
と母が言ってケーキに包丁を入れた。

僕が洗面所で手を洗って台所に戻ると、ケーキを三等分したものが三つの皿に乗せられていた。

「三人で食べちゃってもいいの? お父さんが大好きなイチゴケーキなのに」

母と姉が気まずそうに顔を見合わせた。

「お父さんは帰らないわ」
と姉が僕の目を見ずに言った。

「そう言えば水曜日ごろから見かけないけど、今日はまだ出張から帰らないのか。海外出張なの?」

「絢、卒業式が終わってから言うつもりだったんだけど、あの人はもう帰らないのよ」

「どういう意味?」

「離婚したの」

「え、え、えーっ!」
僕は絶叫した。

最近父と母が何度か口論していたのは知っていたが、昔から父と母の喧嘩には慣れていたので特に気にはしていなかった。

「何が原因の喧嘩だったんだよ? 仲直りしてくれよ」

「もう終わったのよ。今朝離婚届を出して来たから、後戻りできないわ」

「お姉ちゃんは知っていたの?」

「今週はずっと家にいたから知っていたわ。お母さんから口止めされていたから絢には黙っていたけど」

僕は全身の力が抜けてしまった。

「浮気ってやつか……」

「浮気じゃないわ。深村さんとは人生観や価値観が根本的に違うことが分かったから、別々に生きていくことにしたのよ」

「深村さん?」

「離婚して私は柏崎姓に戻ったの。あなたたちも今日から柏崎亜希と柏崎絢」

「柏崎君って呼ばれるの? 恥ずかしいよ……」

「恥ずかしいなんて言ってられないわよ。これから母子三人、助け合って生活しなくちゃならないんだから」

「お父さんの給料無しで生活できるの? 慰謝料とか養育費とか、ずっともらえるの?」

「深村さんが浮気したわけじゃなくて、話し合った結果の離婚だから慰謝料は無いわ。亜希の千葉大学の学費と、絢の逍遥高校の学費だけは深村さんが払うことになってる。このアパートの家賃を含めた衣食住はお母さんが稼ぐ。亜希は学費以外の費用はバイトでまかなってもらうしかないし、絢はできるだけお金がかからないようにお母さんに協力してちょうだい」

「勿論協力するよ。逍遥高校はバイト禁止のはずだから、僕はとにかくお金を使わないようにする。お母さんはどうやってお金を稼ぐの? 会社勤めをしたことはあるの?」

「お母さんが一流大学の法学部卒だってことを忘れないで。四月から稲毛の法律事務所で正社員として働くことになったのよ。といっても弁護士資格はないから一般事務員で、大した給料はもらえないけど」

「お母さん、卒業したら私が女医になって母さんを楽にするから、それまで六年間頑張ってね。最近は研修医でも手取りで三十万円以上もらえるところが多いらしいわ」

僕は気が滅入って、折角のイチゴケーキも美味しさ半分だった。

大変なことになってしまった。友達に深村君と呼ばれたら「実は親が離婚をして柏崎になったんだ」と言わなければならない。柏崎という姓は好きだが、中二まで同じクラスで元カノだった柏崎玲央も逍遥高校に進学するので、まるで僕が真似をしたみたいだ。柏崎玲央がニヤッと笑って僕を「柏崎君」と呼ぶ表情が目に見えるような気がした。

もう一つ気がかりだったのは、父が払う約束をしたのが姉の大学の学費と僕の高校の学費だけという点だった。僕が大学に進むための学費はどうなるのだろうか? 母の事務員としての給料で、家賃と食費を払った後いったいいくら残るのか、それが問題だ。

「絢、中学の教科書や参考書を早く片付けなさい。私は高一からずっと教科書や参考書を取っておいたから、それを絢の部屋に持って行くわね」

「うん、僕は何でもお姉ちゃんのお古でいいよ。お金を節約しなきゃ」

「さあ、これから忙しいわよ。明日は逍遥高校に行って絢の姓が柏崎に代わったこととか手続きをしてこなきゃ」

「他の友達と会ったら恥ずかしいな……」

「絢は行かなくても大丈夫よ。明日は父兄向けの入学説明会で物品購入がメインだから私一人で大丈夫よ。亜希の教科書の表紙と奥付をスマホで撮影して行って、もし改訂になっていたら新しいのを買ってくるし、同じだったら亜希のものを使ってもらう。それでいいわね?」

「勿論。何でもお姉ちゃんのお古をよろこんで使うから、できだけお金をかけないようにしてね」

***

姉は僕の誇りだった。僕が中学に入った時「深村の弟か」と何人もの先生から言われたが、先生の言葉には歓迎の響きが感じられた。深村亜希の弟ならいい生徒に違いない、と言われた気がして嬉しかった。姉は勉強がよくできる上に美人だ。僕は勉強は姉ほどにはできないし、姉は平均より背が高いが僕は姉と同じ身長で伸びが止まっていた。自分ではよく分からないが一目見て姉弟と分かるほど似ているようだ。ただ、美人の姉と似た弟が美男子とは限らない。テレビのバラエティー番組に女優の姉妹が出演することがあるが女優は当然美人なのに姉妹が驚くほどブサイクで、しかも見て家族と分かるほど似ているという例もある。

逍遥高校に行って「柏崎絢です」と言えば、先生は「どこかで見たような顔だ」と思うかもしれないが姓が違うから深村亜希を連想する人は誰も居ないだろう。「つい最近までは深村絢でしたが事情があって柏崎絢になりました」と言えば深村亜希の弟と分かってくれるだろうが、親が離婚したことはできる限り人には言いたくないと思った。

僕の部屋を片付けて姉の教科書を持って来てから、母が姉の教科書の表紙と奥付を一冊ずつスマホで写真を撮った。

姉は使っていた教科書に小さな字で色々書き込みをしていたが、外観は新品かと思うほどきれいだった。さすが女子は物を大切にする。僕も姉のように物を大切にすることがお金を節約することにつながるのではないかと思った。

英語の教科書を開くと、写真が挟まれているのを見つけた。それは姉が高校の教室で男子と腕を組んで立っているツーショットの写真だった。相手の男子は長身でヘアスタイルと全体の雰囲気が竹内涼真に似ている。

姉は僕がその写真を見ているのに気づいて言った。

「どう? その子、イケメンでしょう」

「お姉ちゃんに彼氏がいたとは知らなかった。いつから付き合っていたの?」

「高一からずっと付き合ってるわ。一緒に旅行に行ったし、同じベッドで寝たこともあるわよ」

「ウソだろう! お母さんも知っていたの?」

母は何も言わずにニコニコしている。

「勿論お母さんも知っているわ。お互いの親が公認する仲なのよ」
と姉が自慢げに言った。

「ショック……。離婚のこともそうだったけど大事なことを僕には教えてくれないんだね」

「アハハハ、引っかかったわね。それ、親友の高科紗栄子よ。私の話に紗栄子という名前がよく出てくるでしょう?」

「紗栄子さんがLGBTだとは知らなかった……」

逍遥高校は去年の四月から制服のジェンダーレス化を採用したことで全国的に有名になった高校だ。上着は男女とも濃紺のブレザーで、グレーにチェック柄のズボンとスカートを性別にかかわらず選べる制度だ。実際に異性の制服を選択した生徒が居たかどうかは公表されていなかった。

「お姉ちゃんは心は男、身体は女の性同一性傷害者と交際しているんだね。結婚とか、どうするの?」

「結婚を考えるのは早すぎるわ。ってか、紗栄子は性同一性傷害じゃないわ。まあ、男っぽいけど、お互いを女友達と認識しあってるわよ。ウォマンスってところかな」

「ウォマンスって何?」

「女どうしのロマンスで性的な関係じゃないからレズビアンとは違う。紗栄子はスカートが好きじゃないし、足が長いからパンツスタイルが似合うと自分でも意識しているから、制服のジェンダーレス制度ができてからズボンとワイシャツにしたのよ。写真をよく見てごらん。ブレザーのボタンは右が前になってるでしょ」

「本当だ。女子のブレザーと男子のズボン・シャツの組み合わせでもいいのか」

「同じ身長でも男子の方が肩幅が広いから、紗栄子は女子のブレザーのままにしたのよ。女子のブレザーは脇を絞ってあるからスタイルが良く見えるし」

「じゃあ、LGBTの男子は上着は男子用、下はスカートでもいいわけだね?」

「そうよ。でも、スカートをはく場合は白のブラウスと赤いリボンタイとの組み合わせが義務付けられているけどね」

「紗栄子さんは気分によってズボンとスカートをはき替えているの?」

「紗栄子は背が高すぎてスカートは似合わないからずっとズボンで通したけど、もし日によって着替えたければ、この一年間は可能だった。元々この制度が出来たのは性的少数者の保護の観点だったけど、検討段階で『女性でもスカートが嫌いな人がいる』という紗栄子みたいな意見とか、『真冬は寒いから女子はスラックスも選べるようにしたい』という保護者の意見が出て、『制服のジェンダーレス化』として発表されたのよ。でも、一年間運用してみて、最も深刻な課題は性同一性障害の生徒が自分が着たい制服を選べる学校にすることであって、そうでない男子が時々スカートをはいたり、普通の女子がスカートとスラックスを着ることではないという結論に達したそうよ。『服装をジェンダーレスにすることによって性的少数者が差別されない環境にする』というアプローチも将来的には有効かもしれないけど、現段階では非現実的な理想論であって、逍遥高校にはそぐわないということになったの」

「じゃあ制服のジェンダーレス化じゃなくて、LGBTの男子が簡単にスカートを選べて、LGBTの女子が簡単にズボンを選べるという制度になったわけだね」

「その通りよ。今年からは男子の制服を選んだ場合、つまり男子を自認すると届け出た場合は女子の制服には変更できない。但し半年に一度変更を申請して、審査を通れば変更できるそうよ」

「実際に男子が女子の制服を選んだ例はあったの?」

「それは校外ではしゃべっちゃいけないことになってるんだけど、絢は四月から逍遥高校の生徒だから特別に教えてあげる。私たちの学年はスカート男子はゼロだった。一つ下の二年生には女子の制服に変えた男子が一人居た。去年の新入生は男子から女子と女子から男子とも、二人ずつ居たんじゃないかと思う」

「思うってどういうこと?」

「スカートをはいてるけど多分あの子は男子だろうと思う子が一人だけ居たのよ。噂ではもう一人居るらしいんだけど、どの子かは分からない。勿論、同じクラスの人は分かってるはずだけど、学年が違うと分からない。それだけ先生たちがLGBTに配慮しているということね」

「なるほど。男子でも入学した時からスカートだったら、皆から女子だと思われるよね。最初ズボンで通って、半年後に変更申請を出してスカートにするのはハードルが高いだろうな」

「その点、絢は心配する必要は無いわ。制服はワンセットで四万円もするのよ。うちにはそんな贅沢をするお金は無いから、例え絢が十月から女子の制服で通いたいと思っても男子のままで我慢するしかないわよ」

「おあいにくさま、僕にはそんな趣味はありませんよーだ」

僕と姉との会話を聞きながら母は優しく微笑んでいた。父が居なくなったのは心細いが、これからはこの三人で支え合っていくのだと思うとファイトが湧いてきた。

***

翌日、母は逍遥高校の父兄向け入学説明会・物品購入会に出かけた。僕は友達の山下から葛西臨海公園に遊びに行こうと誘われたが用事があるからと言って断った。友達と会うと名字が変わったことを言わなければならないのが嫌だった。隠すことも出来るが柏崎になったのに深村で通すのは嘘をつくのと同じだという気がした。仲の良い友達の大半は公立高校に進学するので、このまま会わずにいれば、僕のことは忘れるのではないかとも思った。

姉は紗栄子と会う約束があると言って外出し、僕は一人でテレビを見ていたが、何かしないといけないような気がして勉強机に向かい、姉からもらった日本史の参考書を開いた。明治維新のことを書いてあるページを開き、姉が黄色のマーカーで線を引いた箇所を目で追っていると、自分が姉になって机に向かっているような気持になった。妙な気分だったが、鼓動が高まって頬が熱く感じられた。小さい時から姉は僕の憧れで、いつも姉がそばにいると嬉しかったが、姉になりたいと思ったのは初めてだった。姉のお古の教科書や参考書を引き継ぐことにこれほどの喜びが隠されていたとは新発見だった。高校の授業中も姉になった気持ちでドキドキしていられたらいいのにと思った。

母は昼までには帰ると言っていたが、午後一時になっても帰らず、連絡もなかったので僕は冷蔵庫の中にあった昨夜の残りのご飯を電子レンジで温めて、納豆と卵をかけて食べた。

午後三時になって母が疲れた顔で帰宅した。母は鞄の中から紙袋を取り出して僕に渡した。

「数学の教科書だけ版が新しくなっていたから買ってきたわ。それ以外は全部亜希のものが使える。物品購入の後で教員室に行って名字の変更とか、色々な手続きをしていたから遅くなった。絢が疎外感を味わうことがないように特別なケアをお願いしてきたけど、生徒の気持ちを分かってくれそうないい先生たちだと思ったわ」

「きっと少数者の気持ちを傷つけないという校風ができあがっているんだね。逍遥高校は偏差値が高い割には有名大学の合格実績が低いし、制服のジェンダーレス化をぶち上げたせいで僕の中学からは受験する人が減ったけど、僕は逍遥高校に進学して正解だったと思うよ」

「分かってるわよ、絢は何でもお姉ちゃんと同じがいいってことは」

「もう、お母さんったら!」

「大学も千葉大医学部に入ってくれれば申し分ないんだけど」

「それは無理だよ……」

***

姉はネットでバイト斡旋サイトに登録をして、ドーナツ店でのバイトを開始した。四月五日の入学式まではみっちりバイトをしてお金を貯めると頑張っている。母は四月から法律事務所での勤務が始まる予定だ。僕は四月七日の入学式までは暇なので、家事を手伝い始めた。それまで自分の部屋の掃除以外をさせられたことはなかったが、日を追うにつれて役目が増えて、家じゅうに掃除機をかけたり、洗濯物を干したり、畳んだり、三人分の夕食を作ったりと忙しくなった。

四月二日の月曜日、母は朝食を終えるとグレーのツーピーススーツ姿で家を出た。JRで千葉駅まで行き、徒歩五分ほどのところにある法律事務所に初出勤するとのことで緊張した面持ちだった。

姉もその少し後でバイトに行き、僕は一人で朝食の後片付けをしたが、洗濯と掃除をしながら母のことが気になっていた。母がちゃんと会社勤めができるのかどうか心配だった。結婚後は専業主婦で、一度もパートをしたことがない。父は母のことを人一倍意地っ張りで言い出したら折れない性格だと言っていた。特に父に対しては鼻っ柱が強くて、一歩も引かなかった。僕は決して口に出さなかったが、父はそんな母に愛想が尽きて離婚を考えたのだろうと思っていた。

それに母は美人だった。独身の頃は寄ってたかる男たちをあしらうのに忙しかったと自慢していた。四十三才の今でも美人だと思うが、それだけに会社勤めをすると過去の栄光が邪魔になるかもしれない。テレビドラマを見ていて分かるが、会社でもてはやされるのは若い女の子が中心であり、その二倍の年令の母が同じようにチヤホヤされることはないだろう。それは母にとって未経験の領域であり、プライドをズタズタにされても我慢して勤務を続けられるかどうかが心配だった。

その日、姉は夜遅く帰ることになっていたので、僕は母と自分の二人分の夕食を作って母の帰りを待った。

午後七時になっても母は帰宅しなかった。会社は五時半までだから遅くとも六時半には家に着くはずだった。途中でスーパーに立ち寄って買い物をしているのだろうかと心配はしなかったが、LINEで「何時ごろ帰るの?」とだけ送っておいた。そのLINEはいつまでも未読のままで、時計が八時を回り、そして九時を過ぎても母は帰ってこなかった。もしかすると事故に遭ったのではないかと心配になり、僕は駅までの道を歩いて見に行った。

駅の階段の下で列車を四本待ったが、母は姿を見せず、LINEも未読のままだった。半泣きになって家まで歩いて帰り、お腹を空かせたまま食卓の椅子に座って母と姉の帰りを待った。

十時を過ぎた時、玄関のドアが開く音がした。走って廊下に出ると母だった。駆け寄って母に抱き着いた。

「どこに行っていたの、お母さん?」

「ごめんね、昨日の夜スマホを充電するのを忘れていたのよ。夕方、私の歓迎会をしてくれることになって、飲み屋から電話をしようとした時にスマホの電池が切れていることに気付いたんだけど、ついそのまま飲み続けちゃった。私のために上司の弁護士さんや先輩たちが集まってくれたから、私事で席を外しちゃいけないと思ったの。絢がそんなに心配してくれているとは思わなかった。本当にごめんなさい」

僕は泣きじゃくりながら「もういいよ。お母さんが無事でよかった」と言ったが、ほっとするとお腹がグーッと音を立てた。

「食べずに待ってくれていたのね。ありがとう、絢」
と母が僕をもう一度抱きしめてくれて、僕は完全に母を許した。

その時、姉が帰宅した。姉は食卓の上に母の夕食が手つかずで残っているのを見て自分の分だと勘違いしたようだった。

「私の夜食を作って待ってくれるとは絢はいい奥さんになれるわよ」
と言って姉が母の分を食べてくれたので努力が報われた気がした。

母も姉も働いて疲れていると思ったので、母から順に風呂に入ってもらい、僕は食事の後片付けをしてから最後に風呂に入り、掃除もした。

明日の朝も早いので、殆どおしゃべりする時間もなく各々の部屋へと散ったが、母が元気そうだったので安心した。

***

母の職場での状況については翌日の夕食時に詳しく聞いた。

どこまで本当だか眉唾物だが、母は職場の弁護士たちから美人事務職として歓迎されたとのことだった。

「二十代の女子の事務職社員が四人と三十代が二人いて、そのうち二人を除くと仕事はできるんだけど、外観的にはレベルが低いのよね。年令にかかわらず私がミス法律事務所になるのは当然の流れだった」

「本当に弁護士さんたちがそう思ってるのかなあ……」

「朝ドラに四十一才の井川遥が年が半分の女優と一緒に出ているのを知ってる? 弁護士さんたちは井川遥が断トツで美人だと言っていたわ。比べる相手の若手女優がモデル出身の美人ぞろいでもそうなるのよ。うちの法律事務所の場合は比べる相手は肌が若いだけのブスぞろいだから、私に注目が集まるのは当然よ」

「いくらなんでも井川遥に例えるのは言い過ぎじゃないかな……。それよりもお母さん、そんなことを考えていると、その気持ちが他の女の人に伝わって、そのうちにしっぺ返しを食らうことになるよ」

「そのうち亜希も絢も私のDNAを色濃く受け継いだお陰で得をしたと思うようになるわ」

「私はまだ男の子には興味がないから恩恵は感じないわ。男子に近寄ってこられるとウザイもの」

「あら、紗栄子さんは亜希が美人だから仲良くしてくれるのかもしれないわよ」

「まあ、それはあるかも」

「僕は男だからお母さんに似ていてもメリットはないけどね」

「もうすぐ似ていてよかったと思うようになるわよ」
と母が含み笑いをしながら言って、姉も「そうね」と同意したが、その時には僕は意味が分からなかった。

***

翌日も午後七時に母、姉と僕の三人がそろって夕食を食べたが、何となく慌ただしい気分だった。姉は翌日の木曜日に千葉ポートアリーナで千葉大学の入学式があり、金曜日から医学部の授業が始まるからだ。僕は金曜日が逍遥高校の入学式になっている。

姉が変なことを言い出した。
「金曜日の絢の入学式は、お母さんは仕事だし、私も授業初日で休むのは無理だから、紗栄子が父兄代わりについてもらうように頼んでおいた」

「紗栄子さんが父兄代わり? そんなの、いいよ。入学式は僕一人で大丈夫だから」

「でも、絢が学校にちゃんと一人で行けるかどうか、心配なのよね。紗栄子が一緒だとクラスの女子たちから羨望の視線が集まって気分がいいわよ」

「あの男子高校生姿の写真からすると紗栄子さんは百八十近くあるんだろう? 僕の身長が足りない点が目立って損だよ」

「それがいいんじゃないの。ちなみに紗栄子は男子の制服じゃなくて黒のズボンに男っぽいジャケットで来るはずだけど、うっとりするほどカッコいいわよ」

「あっ、そうそう。お母さん、僕の制服は明日取りに行かないと間に合わないよね。もうできているのかな? 合格発表のすぐ後で制服の採寸をして申し込んだはずだけど」

その時、母と姉が気まずそうに顔を見合わせた。

「絢の制服はもう用意できているから心配しないで。ブラウスには明日自分でアイロンをかけなさい」

「男子はブラウスじゃなくてシャツと言うんだよ。お母さん、買ってくれたよね?」

「絢、うちにはお金がないから、高校にはお姉ちゃんの使ったもので我慢してもらうしかないのよ」

「お姉ちゃんのブラウスをシャツの代わりに着て行けというの? そんなの無理だよ。ボタンが左右反対だし、この間お姉ちゃんが言っていたようにスカートとブラウスとリボンタイがセットになっているから、ブラウスとズボンの組み合わせは禁止のはずだよ」

「ブラウスだけじゃなくて、全部お姉ちゃんのお古で学校に行くのよ。体操着も、シューズ類も鞄も全部」

「え、え、えーっ!」

僕は腰を抜かしそうだった。

「それじゃあまるでLGBTの人みたいじゃないか!」

「そうよ。入学説明会の日に申請書を出して承認してくれたから、絢は女子として逍遥高校に通うことになったのよ」

「じょ、じょ、冗談じゃないよ! 女子の恰好で高校に通うなんてイヤだ! 中学のクラスの友達に知られたらバカにされるよ。僕、絶対にイヤだからね」

「ごめんね、絢。お母さんが離婚しなかったら、こんなことをさせなくて済んだのに……。でも、お母さんはずっと我慢をしてきて、それが限界に達したのよ。絢を道連れにして無理心中することも考えた。でも最後の瞬間に思いとどまったの。生きていれば何とかなる。どうなってでもこの子と生きていこうと思ったの」

「僕だけを道連れにしようと思ったの?」

「お姉ちゃんは一人でも生きていけるし、女だから。絢は放ってはいけないと思った。ついひと月ほど前のことよ」

「思いとどまってくれてよかった……」

「制服代の四万円も出せなくて申し訳ないと思ってる。合格発表の直後に申し込んでいた男子の制服をキャンセルして四万円戻って来たから、給料日まで飢えずに生きていけるわ」

「四万円を節約するために女子になるというのは、どう考えても理屈に合わない気がするんだけど。四十万円ならとにかく、家の中の不要なものをメルカリで売るとか、借金するとかで何とかなるんじゃないの? 校則で禁止されていても、コンビニの夜のシフトでバイトをすれば四万円ぐらい稼げるよ」
と僕は必死で母の説得に努めた。母の考え方は極論に走りすぎて狂っているのではないかと感じた。

「お姉ちゃんもお母さんに何とか言って! お姉ちゃんがバイトで四万円余計に稼いでくれたら一生恩に着る。そうだ。クラスの友達の男子が要らなくなった制服をもらってきてくれない?」

「私もその方法は考えたんだけど、お母さんといろいろ相談した結果、絢を女子として高校に通わせるのが一番いいという結論に達したの。確かに制服代の四万円は大したことないわ。でも、今後数年間の洋服代が殆どかからなくなるメリットは非常に大きい。私の洋服が全部着られるんだから。洋服以外も家族三人が女物を共有出来て何かにつけて節約できる。実は私が医者になるまでの六年間の経済的困窮期間について楽観的な場合から悲観的な場合まで五つのケースの収支予想表を作って検討したんだけど、絢を男子のままにした場合は経済的に破綻をする可能性が非常に大きいことが分かったの。信じられないのならエクセルシートを見せてあげるけど」

「経済的に破綻したらどうなるの?」

「例えば私はパチンコ屋で働きながら独身寮から大学に通って、お母さんは昼は事務員、夜は水商売、絢は高校を続けられなくなるかも。とにかく家族三人が一緒に住むことはできなくなるでしょうね」

「家族がバラバラになるのは絶対イヤだ! でも、女子の制服を着るのはムリ!」

「絢、先週私とお母さんが出かけて絢が一人になった時に、私の高校の制服を着てデジカメでセルフを撮ったわよね?」

「ど、どうしてそれを……」

「デジカメのSDカードをノートパソコンのスロットに入れて、女装画像十枚をパソコンにコピーしてから削除したでしょう。そしてSDカードをデジカメに戻した。デジカメのファイル番号が連番になっていることを知ってるわよね? ファイル番号が十枚分スキップされていたから、これは絢の仕業だなと思って、私のパソコンで復元処理をしたのよ。十枚分のファイル番号は分かっているから簡単に復元できたわ」

「僕はお姉ちゃんと似ていると言われていたから、同じ制服を着たら似た感じになるかどうか試してみただけだよ。それ以上の意味は無いんだから」

「ええ、よく似ていたわ。去年髪をショートボブにした時の私の写真かなと思ったぐらいだった。あの写真を見て思ったのよ。絢は女になった方がずっとレベルが高くなって得だし、自分では気づいていないかもしれないけど心の中では女になることを望んでいるのだと」

「違うよ、違うんだ。本当に一度試してみたかっただけで、女になりたいと思ったことなんて一度も無いんだ。それにしても、お姉ちゃんもひどいよ。僕にひとことも言わずにお母さんにそんなことを提案するなんて!」

「亜希が私に提案したんじゃないわよ。私は離婚をした時点で、そうしようかなと思っていたのよ。紗栄子さんの写真を見た時に亜希から逍遥高校の制服の話を色々聞いて気持ちが固まった。だからその翌日学校に行って手続きをしたのよ。亜希に話したのはその後だった。亜希から絢の女子高生姿の写真を見せてもらって、私の決断が正しかったことを確信したわ」

「お母さん、お願い。考え直して。僕、何でもするから、これだけは許して」

「.分かって! 本当にお金が無いのよ。絢がお姉ちゃんの制服で学校に通ってくれたら、普段着や身の回りのものも全部お姉ちゃんのお古で済むから、高校三年間は食費以外は殆どお金がかからない。そうすればこのアパートで親子三人生きていける。もし協力してくれなかったら、私の給料ではとても生活できないのよ。いつ発作的に絢と無理心中したくなるか、自分が心配だわ」

「そんなことを言って脅さないで……」

「絢がどうしても女子の制服で高校には通えないというなら、残念だけど高校に行くのは諦めてもらうしかないわ」

「イヤだ! 中学の友達は勿論、小学校時代の知り合いも全員が高校に行くのに、僕だけが中卒だなんて恥ずかしい。それならまだ女子のふりをした方がマシだ! いや、そうとは言い切れないけど……。やっぱり、中卒ではイヤだよ」

「ありがとう、絢。お母さんのためにOKしてくれて」

「いや、まだOKしたわけでは……」

「じゃあ私は紗栄子に金曜日の付き添いについてLINEで念を押しておくわね」

「お願い。絢の気が変わって入学式に行かなかったら困るから、是非紗栄子さんには父兄代わりに付き添ってほしいわ」

僕のそれまでの人生で最も重大な決定が目の前でなされてしまった。必死で抵抗をしたつもりだったが、母と姉の説得になすすべもなかった。理不尽な決定とはいえ自分でOKしてしまった以上は協力するしかないと観念した。


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新作「禁断の鏡」を出版しました(日英TS文庫)

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の第七作として「禁断の鏡」を出版しました。SF的というかオカルト的とも言える要素が含まれているホラー・ミステリー小説ですが、TS小説としてはリアル系に分類されると思います。

主人公はイギリスのウィンダーミア地方に大富豪の長男として生まれたアーロン・グリーグです。アーロンは12才の時に母親を落馬事故で失いますが、その一年後に父親が若い美女シャキーラを後妻に迎えます。

アーロンは新しい母親を受け入れて親しい親子になります。敷地内には父親が立ち入りを禁じている古い石造りの倉庫があり、ある日アーロンとシャキーラは倉庫を探検します。倉庫の中はまるで中世にタイムスリップしたような場所で、二人は美しい鏡を見つけます。鏡は人間の言葉に反応するようでした。

シャキーラが鏡に「この世で一番美しい人は誰?」と問いかけると、鏡はシャキーラが最も美しい人だと答えます。

その夜、アーロンが一人で石造りの倉庫に忍び込み、この世で最も美しい人について、より突っ込んだ質問をすると、思いもよらなかった答えが鏡から返ってきたのでした……



英語に抵抗の無い方は、原作(英語)のForbidden Mirrorもお読みください。


禁断の鏡

第一章 鏡の預言

夕食の後で父に呼ばれた。
「アーロン、ちょっと話があるんだが」

普段とは全然違う口調だったので僕は身構えた。叱られるのかもしれない。きっと悪い話だと直感した。

「シャキーラは覚えているな?」

「シャキーラって、一昨日のパーティーに来ていたお姉ちゃんのこと?」

「そうだ。実はシャキーラと結婚することになった」

「誰が?」

「お父さんがだ」

「ええーっ!」
僕は絶句した。

一昨日は父の誕生日で、例年通り大勢の客を家に招いてパーティーを開いた。父は大会社のオーナー社長で政財界にも顔が広いが、誕生パーティーに呼ぶのはごく親しい人たちだけであり、家族を含めて二、三十人ほどだ。招待客の中に一人だけ僕とさほど年令が離れていない人が混じっていた。それがシャキーラだった。

クリーム色のレースのドレスを着たきれいな女の子が来たのを見て、僕より少し年上かな、と気になっていた。父と彼女がワイングラスを持って談笑し始めたので、十八才以上だと分かった。その時、父から呼ばれて彼女に紹介され、立ち話をした。

パーティーの時に僕が父の友人に紹介されて型通りの立ち話をするのはよくあることで、彼女もその一人だった。十二才の僕より少し年上の少女ではなく、お酒も飲める大人だと分かったので、僕は彼女に興味を失い、彼女のことは気にしていなかった。

「シャキーラは見かけほどは若くはないんだよ。アーロンの新しいお母さんになる人だから、暖かく迎え入れてくれ」

僕は「分かった」と返事して自分の部屋に行き、ベッドに仰向けになった。

ショックだった。

母が亡くなってもうすぐ一年になる。父が葬儀の日に「私が本気で愛した唯一人の女性だった」と言ったのが今でも耳に残っている。たった一年で母の事を忘れて、自分の娘のような年令の女性を好きになるとは……。

僕の母、ブリオニーはこのウィンダーミアで最も美しい女性と言われていた。

ストロベリー・ブロンドの長い髪は風に揺れるアザミのように鮮やかだった。僕はいつも母と一緒だった。母と二人で森に行ってキノコ採りをしたり、一日かけて山や湖を回った思い出は僕の宝物だ。僕は母には何でも話せたし、母も父には言えないことまで僕に話した。母と僕は毎日楽しく笑って時を過ごした。

その笑いがある日突然途絶えた。乗馬をしていた母が馬から落ちて首の骨を折ったのだ。溌溂としていたウィンダーミアが朦々となり小鳥たちも歌わなくなった。父は生きた亡霊となって殻に閉じこもった。

明るい父に戻ったのはごく最近だった。シャキーラと出会ったことで父は自分を取り戻したのだろう。後で聞いたところによると父はギリシャに出張した際にシャキーラと出会い、シャキーラのエキゾチックな美しさに魅了された。シャキーラというのはフルネームであり、ミドル・ネームも姓も無いとのことだった。等身大の彫刻かと見紛う完璧な肉体、褐色の顔とつりあがった目。シャキーラは生粋のギリシャ人ではなく先祖は外国からの移民だという噂もあった。それがトルコなのか、中東なのか、北アフリカなのかは誰も知らない。

結婚式の日、シャキーラがベージュのウェッディングドレスを着て穢れの無い白いバラのブーケを手にして立っている姿を見て、父の気持ちが分かる気がした。彼女が放つ捉えどころのない香り、彼女の動きのしなやかな気品、そしてオオカミを連想させる微笑みの不思議な魅力が、人々を虜にした。

僕にとって、シャキーラは世間でいう継母の典型とは程遠かった。シャキーラは僕に対してとても親切で、どこにでも一緒に連れて行ってくれた。友達の家でのカクテルパーティーや美容室にも僕を連れて行くし、ロンドンのグローブ・シアターにも一緒にシェークスピアを見に行った。

「僕、邪魔になるのはいやだから、無理してどこにでも連れて行ってくれなくてもいいよ」
と僕は十二才の少年らしい遠慮をしたことがある。

シャキーラは形の良い手で僕の頬を包んで答えた。
「アーロンは私の弟みたいなものだから、邪魔だなんて思ったことはないわ。一緒に来てくれると心強いのよ」

シャキーラのフランス語訛りが素敵だった。僕は、この上なく美しいエキゾティックなシャキーラの虜になった。もしシャキーラが義理の母親でなかったら、間違いなく恋をしていただろうと思う。

僕は広大な屋敷の敷地を、亡くなった母と一緒に散歩したものだが、シャキーラとは仲良しの姉弟のように走り回った。敷地の中央にある屋敷は灰色の三角屋根がある大きな白い建物だった。屋敷の前には大きな庭があって、季節にはバラやツツジが咲き誇った。

屋敷の横手には馬小屋があり、父の自慢のサラブレッドが居た。馬小屋の裏には、父から決して近づかないようにと言われていた石造りの倉庫があった。その倉庫は何百年も前に建てられたものらしく、ずっと鍵がかかったままだと聞いていた。

ある晴れた日曜日の昼下がり、父はフランスに行って不在だったが、シャキーラから一緒に倉庫を探検しようと誘われた。

「ダメだよ。絶対に近づかないようにとお父さんから言われているもの。シャキーラもそう言われただろう?」

「どうして入っちゃダメなのかなあ?」

「そりゃあ、お化けが出るとか、悪霊に取りつかれるとか……」

「アーロンって子供ね。すごい財宝とか、ひょっとしたら死体が隠されていたらどうする?」

僕は怖くなった。背筋に寒気が走るのを感じた。

「私がついているから大丈夫よ。さあ、冒険に行くわよ」

シャキーラからそこまで言われて断れず、渋々ついて行った。

倉庫の鍵は冷蔵庫の上にあった。馬小屋の横を通ると、石造りの倉庫が僕たち二人を手招きするかのように立っていた。二人は磁石で引き寄せられるように倉庫のドアまで行き、鍵を開けて中に入った。手をつないで足を踏み入れる。シャキーラの手は汗で湿っていた。シャキーラが小鹿のような黒い目で僕をちらりと見た時、好奇心と不安が混じった輝きが見えた。

僕はまだ髭が生えていない鼻の下に汗の粒を感じた。シャキーラと僕は父の言いつけを無視することで、大きな間違いを犯そうとしているのかもしれない。しかし、倉庫の中に足を踏み入れてしまった今となってはもう遅い。

建物の中に入ると、外の世界とは空気がガラッと変化したのが感じられた。それは何とも言えない奇妙な変化だった。地球上に存在する父の屋敷の敷地の中にいるのに、他の惑星にワープしたかのような違和感を感じた。僕の周囲の空気は濃すぎてネバネバしている。飛行機に乗っていて機内の気圧が急に変化した時のような感じだ。倉庫の中には不思議な静寂があって、夢の中を歩いているような気がした。

シャキーラも同じことを感じているのが見て取れた。シャキーラは握っていた僕の手を放し、この世のものではないものを見るような目をしてふらふらと歩いている。彼女は倉庫の中に置かれている虫食いだらけ巨大なのカーテン、数えきれないほどの陶磁器などを片っ端から手で触れながら歩き回り、僕はその後について回った。

殆どトランス状態だったかもしれないが僕たちはお互いの息吹を強く意識していた。

シャキーラは高い位置にある閉じた窓の隙間に見える光に引き寄せられるようにふらふらと歩いて行き、その下のキラッと輝くものに目を止めた。二人で近づいて見ると、それは造り付けの鏡だった。

周囲を貝殻で飾られた円形の鏡で、見たことが無いほど豪華で美しかった。不思議なことに、鏡には一点の曇りもなかった。

シャキーラは夢見心地のような顔つきで鏡の前に立った。僕がすぐ斜め後ろから覗くと、黒を基調にメイクした目、細い鼻筋とハートの形の口をした、形の良いシャキーラの顔が映っていた。東洋風の黒い髪が彼女の美しさを際立たせている。

シャキーラは自分のあまりの美しさにポカンと口を開けて鏡を見ていたが、彼女の声とは思えない歪んだ声で鏡に向かって言った。

「鏡よ鏡、鏡さん。イングランドで一番美しいのは誰?」

倉庫の中がシーンと静まり返った。ピン一本を落としても聞こえる程の静けさだった。その時、信じられないことが起きた。ほんの僅かだが、鏡の表面がピクッと浮き出るように動いた。それは地震で地球の岩盤が上に押し出されるようなイメージで、その鏡が誰かの顔のようにぼんやりと見えた。その顔から答えが返って来た。

「生きている人の中で最も美しいのはシャキーラだ。お前の美しさと優雅さには誰も敵わない」

シャキーラはブルブルと震えながら後ずさりした。僕も同じように後ずさりした。僕たちは風に揺れる葉っぱのように震えながら顔を見合わせた。

あれは年寄りの男性の声だった。ある考えが僕の頭をよぎった。こんなことが起きるはずがない。誰かが僕たちを引っかけようとしているのだ。シャキーラの小鹿のような目を覗き込むと、同じ疑いを抱いていることが分かった。

僕たちは何も言わずにドアの方へと歩いて行ってパッとドアを開けた。ドアの外には誰も居なかった。はるか遠くまで見渡す限り、人っ子一人見当たらなかった。あれは鏡の声だったのだ。

「夢を見てたんじゃないことを確かめるためにもう一度やってみましょう」
とシャキーラが言って、尻込みしている僕の手を引っ張って倉庫の中に入って行った。彼女は鏡の前に立って、先ほどと同じ質問をしっかりとした声で繰り返した。

再び誰かの顔のようになった鏡が、先ほどに劣らないほどはっきりと同じ答えを返した。

僕たちは畏れおののきながら視線を交わした。二人が見聞きしたことが幻想でなかったのは明らかだった。



その夜、僕は寝付けなかった。昼間に起きた事を何度も思い返し、倉庫の中のこの世のものではない静けさ、空気のどんよりとした重さ、それに何よりもあの鏡が顔のようになったのを見た時の怖さを改めて感じた。

昼間にシャキーラと僕に父の言いつけを破らせたのと同じ衝動が、もう一度あの倉庫に行くようにと僕を駆り立てた。もし父に知られたら叱られる。僕は懐中電灯を手に、パジャマ姿のまま寝室を出て、音を立てないように階段を下りた。冷蔵庫の上の鍵を取り、そっとドアを開けて玄関を出た。誰にも気づかれなかったようだ。

外に出るとひんやりとした夜の空気が頬を洗った。満月の夜だったが、懐中電灯で足元を照らしながら歩いた。

馬小屋の横を通って古い石造りの倉庫に着いた。入り口の鍵を開けて中に入った。昼間来た時に濃すぎてネバネバしていると感じた空気は、今はもうドロドロになっている。倉庫の中は昼間よりも更に静かで、不気味なほどの静寂に覆われている。右の奥の窓の下に鏡が見えた。僕は夢遊病者のような足取りで鏡に近づき、畏敬と恐怖の混じった気持ちで鏡の前に立った。

僕の顔が映り、アーモンドの形の大きな目と青みがかったグリーンの瞳、すっきりとした鼻、形の良い唇と桃のような顎が鏡の中に見える。母譲りのストロベリー・ブロンドの髪が懐中電灯の光を受けて輝いている。

「鏡よ鏡、鏡さん。過去と現在と未来において、イングランドで一番美しいのは誰ですか?」
と僕は声を震わせながら恐る恐る質問した。

鏡の表面がピクッと浮き出るように動いて、顔のようなものがぼんやりと浮かび上がった。今日の昼に聞いたのと同じ年寄りの男性の声で答えが返った。

「お前のお母さんのブリオニーが最も美しかったが、ブリオニーが死んでからはシャキーラが一番になった。そして、将来はアーロン、お前がイングランドで一番美しい人になるだろう」


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新作「呪いのバービー人形」を出版しました(日英TS文庫)

「呪いのバービー人形」は2016年8月に桜沢ゆう(Yu Sakurazawa)が出版した英語小説「Forbidden Memories」の日本語版で、TSホラー・ミステリー小説です。桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫「日英TS文庫」の五作目になります。

主人公は若くしてジャーナリストとして成功したイギリス人男性のディーン・ベイカーですが。舞台はイタリアのフローレンス(フィレンツェ)~ペルージャです。ディーンは突然誘拐されて北イタリアの荒地にある建物に幽閉され、恐ろしい目に遭わされます。目に見えない犯人が送りつけて来る謎のメッセージを解読しようと頭を巡らせますが、なかなかその意図は読めず、最終段階に近づいた時に全てがつながるのでした。



原作のタイトルはForbidden Memories(副題:Feminized as a Punishment)です。

副題を見ると内容の想像がついてしまうので、見なかったことにして日本語版をお読みください。まあ、性転のへきれきの読者なら誘拐された段階で想像はつくでしょうが……。

 

 


呪いのバービー人形

第一章 フローレンスの怪物

私が妻と小さな息子を連れて二ヶ月ほど前にフローレンスに引っ越して来たのは、一九六八年から一九八五年にかけて花の都フィレンツェ(英語名フローレンス)でおびただしい数の殺人を犯しながら逮捕されなかった犯罪者「フローレンスの怪物」に関する本を書くためだった。

私は物書きとしてある程度の成功を収めていた。大手新聞であるガーディアン紙にジャーナリストとして就職したが、ロンドンの出版社に移り、三十二才になった今、本を書くために休職できるほどの蓄財ができた。

私は「フローレンスの怪物」と呼ばれた犯罪者について本を書くという任務を楽しんでいたが、題材の生臭さが時に私を不安にさせた。私は頭をスッキリさせるためにアルノ川を横切ってミケランジェロ広場まで歩く習慣があった。今、ブラブラといつもの道を横切ったところだが、普段なら人が溢れているのに、今日は人がまばらだったので何となく不安を感じた。道端のベンチに座って気持ちを落ち着けた。

大きく深呼吸していると、ポンコツ車が私のすぐ近くに停車した。ドライバーが窓を開けて私に呼びかけた。

「あんた、ライターを持ってないか?」
彼は手にタバコを持っていた。強いイタリアなまりの英語だったが、英語でしゃべるのに相当苦労しているという感じだった。

とにかくそのドライバーは私を見て土地の者ではないと分かっているようだった。

私はドライバーを観察した。彼はまるで十分な餌を与えられていないグレイハウンド犬のように痩せていて、お腹を空かせているように見えた。せいぜい二十八、九才と思われるが、おそらく育ちの悪さのせいで実際よりは老けて見える。

私はベンチから立ち上がってそのドライバーの要求に従った。ポケットからライターを取り出してドライバーの煙草に火をつけ、立ち去ろうとしたところ、後部座席のドアがサッと開いた。何が起きたのか自分でも理解できないうちに、私は黒くて強い腕で後部座席に引き込まれた。私を掴んだ男を見ると若い黒人で、おそらく二十代前半だろうと思った。北アフリカから何年も前にイタリアに移住した男ではないかと推測したのは、流ちょうなイタリア語をしゃべったからだ。

私はイタリア語には自信が無いが、その黒人が私を口汚く罵っていることは分かった。彼の太い眉は怒ったように左右がつながり、非常に恐ろしい顔をしていた。

その黒人が私を後部座席に引っ張り込むのに成功するや否や、ドライバーがエンジンをふかしてポンコツ車が走り出した。私は鞭でしばかれたように現実が見えてきた。誘拐されたのだ! どうにかしなければならない……今すぐに! 私は大声を上げようと口を開いたが、毛むくじゃらの白い手で口をふさがれた。私の口をふさいだのが三人目の人物で、三十代後半の黒い髪の白人だということが数マイル走った後で分かった。その人物は私と同程度の初歩的なイタリア語しかしゃべれないようだった。ハンガリーとかルーマニアなどの東欧から最近移民してきたのではないかと推測した。

その日から二年半私が幽閉されていた間、彼らの名前は分からなかった。話を分かりやすくするため、三人を三銃士に見立ててアトス、ポルトス、アルテミスと呼ぶことにする。

普段見慣れた広場や運河や塔が窓の外に見えなくなった。フローレンスの外まで来たのだと分かった。犯人は私が車の進路を目で辿っていることに気付いたらしく、私を眠らせた。

アルテミス(毛むくじゃらの東欧人)が皮のバッグから注射器を取り出して私の腕に突き立てた。私はそれから何時間かの間、死んだように眠っていたようだ。

目を開けた時、アトス(私が煙草に火をつけてやったイタリア人)は、殆ど人が住んでいない山間の不毛地帯を運転していた。一目見て、その地帯は耕作が不可能で、例え建設機械を使っても家を建てるのが困難な荒涼とした場所だった。

空気も冷えてきた。鳥肌が立ってきた腕を手でこすって温めた。フローレンスから遠く離れた北イタリアのどこかまで連れて来られたのは確かだった。息が苦しく不規則になり、喉が渇いてきた。

「水!」
と私は動揺した声で呟いた。
「水をいただけませんか?」

「待て」
とポルトス(北アフリカ人)が唸った。

アトスが私に強いイタリアなまりの英語で吠えた。

「俺たちに命令するな。お前の召使じゃない。目的地に着くまで待て。そうすれば水を飲ませてやる」

アトスの声を聞いて怖くなり、私は反対側を向いて身体を丸めた。狭い車中で何時間も座っていたので足がしびれていた。私の身長は百七十三センチだから背は高いと言うほどでないが、足は長いので、身長百八十センチの人と同じぐらいのレッグスペースが必要だった。

誘拐犯人たちの表情も段々厳しくなってきていた。私の身体中の筋肉が緊張していた。

突然、車が周囲を花に囲まれた建物の前で停まった。三棟が繋がった形の建物の周囲は雑草が伸び放題で、人が住んでいるとは思えなかった。建物にはバルコニーやテラスにつながる戸外の階段は無かったが、駐車スペースと呼ぶべき場所があり、アトスはそこにポンコツ車を停めた。

建物の中に引っ張り込まれた。中をざっと見たところ、最初の棟にはリビングルームと、三段ベッドのある寝室、キッチンと浴室があった。

二つ目の棟は研究所のような感じで、ホルムアルデヒドと消毒剤の臭いがしていた。二つ目の棟の中を通りながら、この犯人たちは何を生業にしているのだろうかと考えた。科学者だろうか? いや、あり得ない。三人はブルーカラーの労働者のように見えた。

その後で私が引っ張り込まれて閉じ込められたのは縦二メートル、横二メートル半ほどの部屋で、壁はむき出しで床はセメントのままだった。外からカチャリと鍵がかけられた。私は罠にかかった動物のように気持ちが動揺していた。神経質になって、ドアをドンドンと力任せに叩いた。

「開けてくれ!」

私は絶望に身体をすくませながら叫んだ。

「頼むから、ここから出してくれ!」

犯人たちが近くにいるのは確かだったが、私をどうすべきか決めかねているようだった。しばらくすると三人の足音が遠ざかっていき、やがてその響きも聞こえなくなった。

私は失望のあまり地団太を踏んだ。自分がどんな場所に閉じ込められたのか、大体の状況が理解できた。

その部屋は豚小屋と言っても誇張ではなかった。

壁にはカビが生えていて、部屋中にカビくさい臭いが立ち込めており、豚小屋と呼ぶにふさわしい。ただ、その部屋には豚小屋には無い文化的痕跡があった。弾力のある折り畳みベッド、小さなコーヒーテーブルと壊れそうな椅子だ。少し欠けた小さな花瓶がコーヒーテーブルの上に置いてある。等身大の鏡と、いわゆるお爺さんの時計のようなノッポの古時計が立っていた。

隣りの部屋へのドアとおぼしきものがあったので蹴り開けた。そこには浴槽、便器と洗面台があった。

浴室のドアを閉じて等身大の鏡の前にゾンビのような姿で立った。自分は感じのいい外観だと思っていたが、鏡の中の私はひどい格好だった。体格は逞しいというよりはやせ細った感じであり、本来健康的なはずの顔色はまるで漂白されたように蒼白だった。緑の目の瞳孔は開き、手が震えている。

さまざまな想いが頭の中を横切った。あいつらは一体誰で、私に何をしようとしているのだろうか? 身代金が目的だろうか? それはあり得る。一応金持ちの部類だから、誘拐のターゲットにされてもおかしくない。身代金目的の誘拐ならやつらは既に妻に連絡し、身代金を要求しただろう。そうなれば私の妻のシーナは間違いなく要求された金額を送金したに違いない。シーナは私の命が危機に陥っていることを知ったら、一時たりとも無駄にせず行動に移すことができる女性だ。そう考えれば、さほど心配する必要はない。

しかし私の神経はズタズタになっている。背丈より高い古時計がチクタクと大きな音を立てて時を刻み、その音が私の不安を増大した。

ただ、心の奥底で、これは身代金目的の誘拐では無いという予感があった。きっと何か見えないものが隠れているという気がする。

私はその時、バラの香りがするピンク色の封筒をコーヒーテーブルの上に見つけた。


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新作「禁断の閉鎖病棟」を出版しました(日英TS文庫)

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の四冊目となる小説「禁断の閉鎖病棟」を出版しました。これはTSホラー小説です。

これは2016年5月に出版されたYu Sakurazawaの英語小説「Forbidden Asylum」の日本語訳です。Forbidden Asylumは海外TS小説のサイトでも取り上げられたことがあるTSホラー小説です。

主人公は25才の男性で2才上の愛妻が居ます。何不自由なく幸せに暮らしていたのですが、ある日、一人で郊外にドライブした時に高速道路から分岐した田舎道で自動車が動かなくなってしまいます。奥さんに電話して迎えに来てもらおうとするのですが、スマホの電池が切れていたので、どこかで電話を借りようと歩き始めます。しかし、そこは人っ子一人いない荒涼とした地域で、歩いていると大きな菩提樹の陰にある病院に行き当たり、「電話を貸してください」と入っていきます。

ところが、そこは世にも奇妙な病院でした。病院にたった一つしかない電話から奥さんに電話をすることには成功するのですが、それから後は物事が思い通りに進まなくなるのです……。

原題:Forbidden Asylum
原書の副題:Feminized in Insanity
原作者:Yu Sakurazawa

日英TS文庫の前回の作品「過去からの呪文」と同じく(それ以上に)原作に忠実に日本語版を書きました。約四万四千文字なので価格は390円に設定されています。

普段、怖い目にあいたいと思っている読者にとっては、恰好のホラー小説です。

 


禁断の閉鎖病棟
原題:Forbidden Asylum
原書の副題:Feminized in Insanity
原作者:Yu Sakurazawa
日本語版作者:桜沢ゆう

「閉鎖病棟」とは精神科病院の病棟で出入り口が常時施錠され入院患者や面会者が自由に出入りできない病棟を示す言葉で、開放病棟の対語である。

第一章 狂気の事務長
私は夢見心地で高速道路を運転していた。私の愛車、マルチ・スズキのアルト800を運転するのはこの上ない喜びだ。初めて買った車だから愛着があるというだけでなく、マニュアル・シフト車のハンドルを握り、最高のタイミングでクラッチを踏んでギアをシフトして他の車をビューンと追い抜くのは快感としか表現のしようがない。セルリアン・ブルーのアルトは私の感性に呼応して思い通りに動いてくれる。父の遺産を引き継いでいたので、その気になればBMWの5シリーズでもトヨタのSUVでも買えたが、欲しかったのはこのアルトだけだった。

カルナタカ州の旧国道4号、通称NH4は映画の題にもなったことがある趣のある国道だ。郊外に出ると窓の外の景色は退屈な田舎の風景でしかない。まだ朝なのに荒地を走るタールとコンクリートの道路を強い日差しが焼き焦がす。樹木はまばらで五十メートルに一本立っていればまだ良い方だ。でも、大都市バンガロールの気違いじみた喧噪と交通渋滞を逃れ、遠く離れた田舎を一人でぶっ飛ばす気持ちは格別だ。

気持ちよくトップギアで走っていたが、突然車がガクガクっとなった。アクセルを踏んでも反応しなくなり、緊急停止を試みたがブレーキもきかない。必死でハンドルにしがみ付き、何とか路肩に停車して、ほっと胸を撫で下ろした。

ボンネットを開けたが、特に煙や蒸気が噴出しているわけではなく、エンジンオイルをチェックしたところ正常範囲内だった。私は特にメカ音痴ではないが、何をしたらよいか分らず、お手上げだった。子供の時から住み込みの運転手兼メカニックが居る家に育ったので、自動車が故障した場合の対応を学ぶ機会はなかった。

意識しないうちにNH4から分岐する道に入っていたようで、そこは人っ子一人見当たらない荒れ果てた場所だった。車が通れば近くのカーショップまで乗せてもらえるのだが、停車してから十分間、一台の車も通らなかった。

仕方ない。家からはちょっと遠いがディンプルに電話して迎えを頼むことにしよう。ディンプル(えくぼ}は妻の愛称だ。彫りの深い顔に浮かぶ可愛いえくぼ……。私が困っていたらいつも助けに駆け付けてくれる、世界一頼りになる相棒だ。非常にしっかりしていて、家の中では頭が上がらないが、ディンプルの優しい笑顔を思い出すと気持ちが和む。

助手席に置いたバッグからギャラクシーS9を取り出す。

――あっ、電池が切れてる! 警告が出ていたからUSBプラグを挿し込もうと思ったのに、つい忘れていた。困ったぞ……。

まずいことにバッグには小銭入れしか入っていなかった。

車のキーを回すとメーターのランプが点灯したので、停車したままでスマホを充電することは多分可能だろう。後から思うと、そうしていればよかったのだが、二十五才の未熟な私は何もせずに待つことには耐えられず、小銭入れをポケットに入れて車を降り、人気がありそうな方向へと歩き出した。

イバラが生い茂った田舎道をトボトボと歩く。暑い! 日差しが高くなってとにかく暑かった。一キロ近く歩くと、ヒンヤリとした風が流れて来た。近くに川が流れているのだろうか。そのまま歩いていると大きな菩提樹が見えてきた。そして、その菩提樹の向こうに建物が忽然と姿を現した。こんもりとした木に隠れて見えなかった建物が視界に入ったというだけの話なのだが、その時の私にとっては感動の光景だった。

私は子供のようにはしゃいで駆け出した。菩提樹に近づくと背後の建物がはっきりと見えてきた。

それは外壁を白で塗装された建物で、清潔な感じがした。一般の住宅よりはずっと大きいが、大きなビルというほどではない。取り立てて特徴の無い普通の建築物であり、バンガロールには同じ形の建物が何百何千とあるだろう。「取り立てて特徴が無い」という言葉が、この建物を表すには最も適切だと思った。

何の建物かというと小さな工場、小さな役所または診療所というあたりではないだろうか。鉄でできた背の高い門に近づくと「ヴィンセント病院」という看板が目に入った。私の三つ目の推測が当たっていたわけだ。

一見してヴィンセント病院について特に不審な感じはしなかったが、ただ「高圧注意! 壁には高圧電流が流れています」という標識が目についた。どうして病院の壁に電気を流すのか意味不明だ。これは人間用の病院ではなく、猛獣を収容するアニマル・ホスピタルなのだろうか? それとも、最近産婦人科病院からの誘拐事件が相次いだ結果、門以外からの人の出入りを完全に遮断するという対策を講じたのだろうか……。

ところが、近づいてみると意外にも門番や警備員は居らず、鉄格子でできた門のラッチ式のロックを手で開けると難なく中に入ることが出来た。前庭には鉢植えが幾つか置かれており、建物の玄関ドアへとつながっていた。ドアを開けて中に入るとフロントロビーがあり、受付窓の向こうに事務所が見えた。

私は受付窓からオフィスの中を覗き込んだ。男が一人事務机に座っていた。四十代半ばぐらいだろうか。客観的に見て普通の男性だった。顔立ちはよく、白髪交じりの髪は少し縮れているが、年の割に引き締まった体型をしていた。ただ、安っぽいポリエステルのカッターシャツ、首にかけた味気の無い金メッキのチェーン、そして何よりもシャツの上から透けて見える胸毛の気持ち悪さに、ついイライラしてしまった。

しかし、そんなことはどうでもよかった。大事なことはこの男性に助けを求めることだった。

「あのう、すみません」

「はい、なんですか?」

「病院の方ですよね?」

「事務長のアショックですが」
抑揚が無くて何の特徴も無い声で返事があった。この建物の外観と共通点を感じた。

「私はレイと申します。バンガロールからNH4を走っているうちに側道に入ったみたいなんですが、車が急に故障して動かなくなってしまいました。スマホも電池が切れてしまったので、ここまで十五分ほど歩いて辿り着きました。家内に迎えに来てくれという電話をしたいので、携帯電話を使わせていただけないでしょうか?」

「それは災難でしたね。残念ながら私は携帯電話を持っていません。この病院のスタッフも誰も持っていません。この病院は……何と言うか、精神を病んでいる人のための病院なので、余計な精神的負担をかけないよう、建物の中への携帯電話やスマホの持ち込みは禁止しているんですよ」

「でも、そのパソコンはネットにつながっていますよね? そこから妻にメールを送信させていただけませんか? メールだと電話と違ってすぐには通じないかもしれませんが……」

「レイさん、恐縮ですがパソコンはネットにはつながっていませんし、WIFIもありません。もし患者が夜中に事務所に忍び込んでメールを送信したりブラウジングしたら困りますんでね。うちの患者さんは処置するために入院しているのであって、楽しむためにここに居るわけじゃありませんから」

「分かりました、アショックさん、他を当たってみます。スマホがそろそろ充電されているはずなので車まで歩いて戻るのが早いかもしれません」

それまでぶっきらぼうだった事務長の物腰が急に柔らかくなった。

「ちょっとお待ちください。この炎天下を十五分も歩いて熱射病になったら、それこそ大変です。緊急通話用に固定電話を一回線だけ引いてあって、電話機が三階にあります。お使いになりますか?」

「助かります! 是非お願いします」

「じゃあ三階までご案内しましょう」

アショックについて古風なベンガラ塗りの階段を三階まで上った。一応ちゃんとした病院のようなのにエレベーターが無いとは驚きだった。階段の途中で、だらしない服装の年配の男が階段のさび付いた手すりにしがみついているのを見かけた。

私がその男の横を通過した時、男は濃い茶色のフレームの眼鏡に右手をかけて私をにらんだ。

「ついに宇宙がその姿を現した。わしの家のジャグジーの中に宇宙があるんだ!」

急に男が叫んだので心臓が飛び出しそうになった。アショックは私の肩に手を置いて言った。

「心配ご無用、あの男は妄想しているだけです。シバという名前で、ただの貧乏人ですが壮大な幻想を抱いていて、自分のことを画期的な発見をした偉大な天体物理学者だと思い込んでいるんです」

「そうですか……」
アショックが患者の病状を説明するのに嘲るような口調で話したことに嫌悪感を覚えた。

心の病と言うものは簡単にコントロールできるものではなく、心の病を持つ人について嘲笑するのは全く非倫理的だ。アショックの無神経さにムカムカと腹が立ってきたが、電話機があるはずの三階の部屋にやっと到着して我に返った。

部屋に入って気づいた最初のことは、壁面の約二メートルの高さに長方形の金属扉があることだった。スイッチボックスの扉にしては大げさな感じだった。

それはガラス窓と造り付けの小机だけがある小部屋で椅子もない。机の上には黒い電話機が置かれていた。それは子供の時に家にあったのと同じ回転ダイヤル式の電話機で、一九九○年代にタイムスリップしたような気持になった。

――奇妙だ。

不思議な感覚だった。ヴィンセント病院には時間が流れているのだろうか……。

震える指で妻の携帯電話の番号をひとつずつダイヤルした。アショックは小部屋から出て行ってドアを閉めた。アショックがプライバシーを気遣ってくれたことには意外な気がした。ダイアルし終えて応答があるまでの時間が長く感じられた。ディンプルの少しハスキーで魅力的な声が聞えた時、私は救われた気持ちになった。

「もしもし、どなたですか?」

「僕だよ、レイだよ!」

「あなたなのね? どこから電話してるの?」

私は今日の苦労の一部始終を妻にぶちまけた。ディンプルは私たちの親友のサンジャイと一緒にショッピングモールにいるようだった。

「ヴィンセント病院はNH4から分岐した道路の近くにあるはずだよ。正確な場所はネットで調べてみて。大きな菩提樹が目印だ。出来るだけ早く来てね!」

「パニックにならないで! NH4ならよく分かっているから簡単にたどり着けると思うわ」

「NH4からどこでどう側道に入ったのか、自分でも分からないんだけど、分岐してからかなり走ったみたいなんだ。殆ど人気のない場所に来ちゃったから」

「悪い子ね、一人でそんなに遠くまで行くなんて」
ディンプルは子供に説教するような口調で私に言った。

「サンジャイと私がそこにたどり着くまでには、多分一時間半ぐらいかかりそうね。交通渋滞がひどければ二時間かかるかも」

「ごめんね……」

「まあ、いいわよ。ええと、病院の名前をもう一度言って」

「ヴィンセントだよ。ヴィンセント病院」

「ヴィンセント病院? 聞かない名前ね。ねえ、サンジャイ、ヴィンセント病院って知ってる?」

サンジャイの声は受話器には聞こえなかったが、ヴィンセント病院という名前は知らないようだ。

「すぐに出発するから心配しないで待っていて。途中で知り合いのメカニックを拾って行くとサンジャイが言ってる」

「本当にごめんね。二人に迷惑をかけて」
と言って電話を切った。

ディンプルの優しい声を聞けただけで幸せだった。妻と私の二人だけなら途方に暮れていたかもしれないが、サンジャイが居るから何とかしてくれる。本当に頼りになる最高の男だ。

妻に電話で助けを求めるという最重要課題を終えてひと息ついた。後はロビーまで下りて行って妻とサンジャイの到着を待つだけだ。知り合いのメカニックを拾ってくると言っていたから、きっと愛車のアルトに乗って家に帰れるだろう。

小部屋のドアを開けるとアショックが心配そうな表情で立っていた。

「お友達に電話は通じたかい、レイチェル?」

――はあ? レイチェルだって?

アショックは今私をレイチェルと呼んだ。若々しく、男らしくてスポーティーなこの私を、女の名前で呼ぶとはどういうつもりだろうか? 私はスリムだが身長もあり、女性を連想させるところはひとつもない。

不愉快だと一瞬思ったが、真面目な顔をして性別絡みの冗談を突然言い出したアショックを見ていると、可笑しさが急にこみ上げてきた。

「アハハハ。事務長さんって、相当パンチのあるユーモア・センスがあるんですね!」

アショックは笑わなかった。それどころか、真剣で打ち沈んだ感じの心配顔になった。アショックの表情を見ていると、私が一人で笑うわけにはいかないという気がした。

気まずい沈黙の後でアショックが口を開いた。

「レイチェル、薬は時間通りにちゃんと飲んだのか?」


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新作「過去からの呪文」を出版しました(日英TS文庫)


桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の新作「「過去からの呪文」は3月11日に出版した英語小説 “Voices from the Past”の日本語翻訳版です。主人公のピーター・ライトはロンドンに住む21才の若者です。大学を卒業したばかりですが、シェイクスピア・シアターに演劇を見に行った時に、隣に立っていた同年代の女性リビーと知り合い、意気投合して結婚します。新婚旅行先を決めるにあたって、ピーターの頭に浮かんだのはインドのコルカタでした。ピーターは両親の仕事のせいで8才から10才までの2年間コルカタに住んでいたことがあるのですが、そのころの記憶は殆どありませんでした。コルカタに行くと二人はカーリー寺院というガンジス河畔の有名な寺院に観光に行きます。カーリー寺院で瞑想をしている時、地底から湧き出るような声がピーターに聞こえ、寺院を出てガンジス河畔に向かうよう命令されます。言う通りにしなければリビーを殺すとその声に脅迫されます。ガンジス河畔で沐浴している人たちの横を通り、ユーカリやハイビスカスの木立の中に足を踏み入れると、その声はピーターに驚くべき命令を下します。ピーターの人生は思いもよらない形で翻弄されることになっていきます。


Title: Voices from the Past
Author: Yu Sakurazawa
これはYu Sakurazawaの69冊目の英語小説です。

これまでの三作と違い、過去からの呪文は原作をかなり忠実に翻訳した小説です。(結婚式に関するくだりで原文には無い数小節が挿入されていますが……。)原文はかなり濃くて切迫感のある英語で、それを膨らませずに日本語にしたので、日本語小説としては短めです。

桜沢ゆうの小説の価格設定は:
長編(約10万文字~)980円
長編に満たないもの(概ね5~9万文字)590円
英語小説 US$3.99

「過去からの呪文」は37000文字で、390円に設定しました。

Yu Sakurazawaの英語小説は直訳して日本語化すると4万文字前後になるものが多いです。まだ日本語にしていない英語小説が65作品あり、将来日英TS文庫のレーベルで出版する本には390円の設定になるものが増える可能性があります。



過去からの呪文

第一章 ハネムーン

初めてリビー・ブラウンと会ったのはロメオとジュリエットを観るためにグローブ座に行った時のことだった。私は大学を卒業したばかりで彼女はおらず、一人でテムズ川の南岸の劇場に行った。一番安い立見席の平土間でロメオとジュリエットを観劇した。

二人の薄幸な恋人たちの描写が琴線に触れて、私は周囲の人には構わず、涙があふれ、すすり泣いた。たまたま隣に立っていた背の高い女性が私をバカにしたように見下ろして、いかにも無慈悲な様子でせせら笑った。

「男が人前でワンワン泣くとは女々しいわね」
とリビーが言った。
「まあ、あなたのフェミニンな側面がつい前に出たんでしょうけど……。あなたみたいに感情的な男性は初めて見たわ」
と、リビーは忍び笑いした。

「人それぞれだから、放っといてくれよ」
初対面の相手に対してあまりの言い方だと腹が立ったので、私は少し意地悪な言葉を返した。
「僕もこんなに心を打たれる劇を見て涙ひとつ流さない女性を見たのは初めてだよ」

「私の男性的な側面が出たということでしょうね。私を強くて精神的に独立した、そして感情的ではない女性に育てるということが私の両親のモットーだったから」

あっけらかんとした言い方だったので、彼女に対して感じていた反感が消えた。
「じゃあ、僕たち二人がカップルになったら丁度いいんじゃないの?」
と軽い気持ちで冗談を言った。

劇場を出てから一緒にそのあたりをブラブラして、コーヒーショップに入った。

リビーは背が高くてしっかりとした骨格のブロンド美人だった。大らかな感じで、くったくなく笑う女性だった。一方、私は黒い髪で、身長は百六十八センチとイギリス人男性としては小柄な方で、骨格は小作りと、リビーとは正反対だった。でも二人には共通点があった。二人とも二十一才と若く、大学を卒業したばかりで、自分たちをどんな人生が待ち受けているのだろうかとワクワクしているということだった。

何週間かデートを重ねて、リビーと私は結婚した。二人とも家族はあまり結婚には乗り気でなかった。私たちの家族からすると、そんなに若くして特定の相手につなぎ止められてしまっていいのかということと、まだお互いを十分知らないのではないかという心配が先に立ったようだ。でも、リビーと私は結婚して幸せそのものだった。今後の人生を一緒に生きていくという判断をするために十分なほど長く付き合ったと考えていた。

少なくとも私はそう思っていた。

新婚旅行をどこにするかという話になって、リビーは私にまかせると言い出した。

「ピートは誠実な気持ちでこの私を妻にしてくれたんだから、家の中では主人として立ててあげる」
とリビーが言い出したので少し当惑した。

「気持ちはありがたいけど、僕としては主人になりたいわけじゃなくて、対等の関係を築きたいんだ」

「とにかく、どこに新婚旅行に行くかはあなたが決めてちょうだい」

それはある意味で親切な申し出であり、リビーは非常に寛大だと思った。私はどこに行くのがいいだろうかと頭を巡らせた。とある外国の光景が頭に浮かんできた。巨大なカンチレバー橋、ドラムを打ち鳴らす音、ホラ貝を高らかに吹き鳴らす音、マスタード・オイルで調理した魚の芳香……。私はきらびやかな豊饒の地を想像したが、そこには暗くて恐ろしい何かが流れているような気もした。

その地がコルカタであると認識するまでに時間はかからなかった。インドの西ベンガル州の州都で、以前はカルカッタと呼ばれていた大都市だ。

私の両親は旅が好きで、若い頃には色々な国に住んでいた。インドには私が八才から十才までの二年間住み、コルカタで英語を教えて生計を立てていたそうだ。インドの次はタイにしばらく住んでいた。

当時の私はあまりのカルチャーショックやコルカタのきらびやかな光景と音に圧倒されたのか、不思議なことにその時期の記憶が殆ど無い。家で両親から教育を受けていたのか、現地の学校に通っていたのかさえ覚えておらず、友達が居たのかどうか、両親が近所づきあいをしていたのかどうかについても記憶が無い。八才から十才という年令なら詳しく覚えているのが普通だと思うのだが、その部分の記憶が完全に欠落しているのは不可解なことだった。

私の心に残るコルカタの印象は「美しい町」だったが、その表面的な栄光の下に横たわる得体のしれない悪意というべきものがうっすらと記憶に残っている。しかしその悪意が何だったのかは私には分からなかった。それでも私は是非あのカリスマチックな町に行きたいという強い願望を抑えられなかった。まるで超自然的な力が私を妻と一緒にそのガンジス河畔の町へと誘っている気がした。

「コルカタにしよう。君と一緒にコルカタに行ってロマンチックな時を過ごしたいんだ」

「かなり変わった選択ね」
とリビーは好奇の目で私の顔をのぞき込みながらコメントした。
「エキゾチックな趣向が強い人だとは分かっていたけど、インドを選ぶとはちょっとびっくりしちゃった」

「ゴメン。それほど君をがっかりさせるとは思わなかったんだ。勿論ほかの場所でも良いんだよ。例えばもっと平凡なところで、パリとか」

「いやよ、パリなんて! 陳腐すぎるわ。新婚旅行というと誰でもパリに行こうとするもの。喜んでインドに行くわ。すごくいい雰囲気の国だと聞いているし」

リビーがインドに行くことを意外にあっさりと了承したので拍子抜けした。

「インド全体が同じだみたいな言い方は間違ってるよ。一見同じように見えても地方によって全く異なるんだから」

リビーと私は九十日間有効の観光ビザを取得し、一ヶ月間の新婚旅行の予定を組んでコルカタ行きのフライトに乗った。コルカタ国際空港、通称ダムダム空港に到着し、タクシーでエスプレナード地区にあるホテルに向かった。エスプレナード地区はコルカタ市の中心部に位置し、どの観光スポットに行くのにも便利な場所だ。

到着した日にレンタカーでコルカタ市を一巡りして、観光スポットの豊富さと、豊かな光景と音に改めて感銘を受けた。ロンドンは華麗な大都会だが保守的な不毛さとでも言うべきものがあり、それに対してコルカタの官能的な肥沃さは好対照だと感じた。コルカタは豊富な文化、文学、宗教、芸術的な趣で満ちており、何かにつけて私の感覚が動揺させられる気がした。

しかし、この美しい大都会の奥底に私にとって意味のある暗い秘密が隠されているという気持ちがぬぐいきれなかった。

そんなことを考えるのはコルカタの暑さと旅の疲れのせいだと自分に言い聞かせた。ホテルの部屋に入るとリビーと私は交代してシャワーを浴び、ルームサービスで食事を注文した。しばらく休憩した後、リビーは旅行の日程表を眺めていた。

「コルカタは色んな場所を折衷したような町なのね。どこから手をつけたらいいのかさっぱりアイデアが浮かばないわ。ピート、どこに行くかはあなたが決めてちょうだい」

「またかよ……。僕は深刻な決断不能症の女性と結婚してしまったみたいだね」
私は怒ったふりをして唸った。

「その通りよ。私があなたと結婚したのは人生の決断を全部任せられる人を見つけたからだもの」

「はいはい、分かりました。でも、あきれたね。じゃあ、旅程に書いてある行き先を一つ一つ読み上げてみて」

「いいわよ。ヴィクトリア・メモリアル、インド博物館、科学博物館、ファイン・アーツ美術館……」

「美術館や博物館ならイギリスに腐るほどあって、僕は飽き飽きしてる。もっとインドならではのユニークな場所に行こう。例えば宗教的な名所とか」

「じゃあダクシネーシュワルのカーリー寺院はどうかな? インドで最も聖なる川と言われるガンジス川を近くで見られると書いてあるわ」

「それはグッド・チョイスだ。明日、朝食を終えたら出発しよう」


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新作「忘れな草」を出版しました(日英TS文庫)

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の新作「「忘れな草」はTSロマンス・サスペンス小説です。

舞台はロンドンの下町。小学校6年で両親を交通事故で失い、親戚をたらい回しにされたあげくホームレス同然の状況で中学を卒業した少年ノアが主人公です。ノアは16才の時に「忘れな草」というセレモニー専門の参列者派遣会社に就職し、従業員寮でベッドと温かい食事が毎日得られる環境を手に入れます。部屋は先輩従業員との同室ですが、家族のような愛に満ちた毎日を過ごします。

就職して2年目のある日、ロンドン近郊のサリー・カウンティーにある古城のような邸宅で行われる18才の少女アビゲイルの葬儀に参列することになります。魂の奥底まで揺さぶられた葬儀の後で、ノアは予期しなかった事態に遭遇することになるのでした。

***

「忘れな草(副題:モーニングサービス)」は2018年2月14日に出版された以下の英語小説の日本語版です。

Title: Abigail Resurrected
Subtitle: The Professional Mourners
Author: Yu Sakurazawa

Yu Sakurazawaは桜沢ゆうが英語の小説を出版する際のペンネームで、Abigail Resurrectedは彼女の68冊目の英語作品です。

原題を直訳すると「蘇生したアビゲイル」あるいは「アビゲイルの復活」になると思いますが、それではSF小説だと誤解されそうなので、原作の副題「プロのモーナー」の会社名である「忘れな草」を日本語版の題にしました。忘れな草(英語ではForget-Me-Not)の2つの花言葉「私を忘れないで」と「真実の愛」はこの小説のテーマと合致しています。

桜沢ゆうの作品で英語版と日本語版の両方が存在するのは「忘れな草」が3作目です。

第1作目は「第三の性への誘惑」(英語作品名:Enchanted into the 3rd Gender)です。
第2作目は「性転の秘湯」(英語作品名:A Slippery Slope in a Hotspring)です。

今後、それ以外の65作品の中で日本語化が適したストーリーの作品について日本語版の制作を行い「日英TS文庫」というレーベルで出版する予定です。



忘れな草

(副題:モーニングサービス)

桜沢ゆう

 

第一章 風変わりな職業

私の職業はモーニングサービスだ。といっても喫茶店とは何の関係も無い。喪服のことをモーニングと言うが、あのモーニングだ。葬儀屋ではなく、葬儀参列者の派遣業者と言えば分かりやすいだろうか。

世の中には孤独な人が大勢いる。親類が殆どいない人、親類がいても付き合いが全くない人、人と付き合うのが嫌いな人、一年中家に引きこもっていて近所の住人から認識すらされていない人……。事情はさまざまだ。そんな人が亡くなって葬式を行う時、声をかけるべき人がおらず、喪主以外は数人の参列者しかいないという寂しすぎる葬式になる場合がある。

そんな場合、喪主にそこそこの経済力があれば、私たちに声をかけることによって問題を解決することができる。喪主が自分で参列者のバイトを雇うとか、素性のわからない業者をネットで探して申し込むことはお勧めできない。私たちプロのモーナー”Professional Mourners”と単なるバイトではレベルが全く違うからだ。本当に故人を見送るために来た少数の友人や身内は、雇われた参列者を見抜けるだけの眼力を持っているものだ。安易な数合わせをしたために葬式が白々しいものになるのでは意味がない。

私の勤め先は「忘れな草」というモーニングサービス専門の派遣会社だ。私がこの会社に就職してからもう二年が経とうとしている。

***

二年前、私はまだ十六才になったばかりの少年だった。ロンドンの下町をあてもなく歩いていて、商業地区が住宅地区に変わる境い目の地域に昼過ぎに通りかかった際、”Forget-Me-Not”(忘れな草)と書かれた色彩感の無い看板が目に入った。それが茎の先に青い小さな花の集合体を咲かせる植物の名前であり、その名前自体が花言葉であることを私は知っていた。

――忘れな草とは、いったい何屋さんなのだろう……。

玄関のドアの横の「社員募集中。年令・学歴不問」と書かれた貼り紙を見て私は立ち止まった。年令も学歴も不問の就職口、それは当時の私にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。

ドアを開けて中に入ると、そこは建物の清楚な外観とは不似合いな空間だった。縁なしのめがねをかけた顎髭ぼうぼうの五十代の男性が奥に座っていて、私を見るとデスクの前の椅子を指さして「どうぞ」といった。

「あのう、年令と学歴が不問の社員募集って本当ですか?」

「君の名前は?」

「ノア・エドワーズです。ノアと呼んでください」

「ノア、私は忘れな草の社長のレオ・ハリスだ。履歴書は持ってきたかね?」

「履歴書? あ、すみません。書き方が分からなくて……」

「まあいいだろう。じゃあ、住所、氏名、年令と略歴を話してくれ。それから家族関係についてもね」

私は何度かその種の質問を受けたことがあった。両親が居ないと言うと同情が得られることは分かっていたし、明確な住所を言えないと相手が「引く」ことも知っていた。でも、ハリス社長にじっと見られながら話していると、ウソを言ってはいけないという気持ちになり、ホームレス同然であることを含めありのままを包み隠さず話した。

「君がこれまで大変な人生を送ってきたことはよくわかった。君の小ぶりで青白い顔から判断すると、その気になれば涙を一粒や二粒流すのは造作なさそうだね」

「涙を流すってことですか? それ、仕事と関係あります?」

「君は『泣き女』という言葉を聞いたことがあるかい?」

「ああ、葬式で泣くフリをするジプシーの女の人のことですね」

「忘れな草は葬儀の参列者を派遣する会社だ。イギリス人らしい外観の若い白人の男女を派遣できるというのがセールスポイントだ。ちょうど君のような小柄で細身の憂い顔の少年を補充したいと思っていたところだった」

「十六才ですから少年と言うのもおこがましいですが……。でも、雇って頂けるんですか?」

「採用だ!」

「ヤッター!」

ハリス社長が「大変な人生」と評したのは的外れではなかった。貧しさという点においては誰にも負けない人生だった。子供の目から見て明らかにろくでなしの代表だと分かる父親と、アル中の母親の子供として生まれたのは不運としか言いようがない。親が定職についていたかどうかはよく分からないが、私はずっとお腹をすかせていたし、しょっちゅう電気が切られて真っ暗な夜を過ごした。

そんな親でも亡くすことがどんなに悲しいものか、十二才の時に二人そろって交通事故で逝ってしまうまでは思いもしなかった。それから私は親戚をたらい回しにされたが、厄介者扱いをされて家出を繰り返し、そのうちに誰も迎えに来なくなって、ホームレス同然の状況で中学を「一応」卒業した。気候が良い時には公園で寝たり、寒くなると駅のベンチで寝ることも多かった。

「但し、不潔な身なりでクサいにおいをバラまかれるのは困る。すぐ風呂に入って頭のてっぺんからつま先まで、石けんで三回以上洗いなさい。衣服は支給する」

事務所の奥にあるシャワールームに連れて行かれて、身体を洗うように言われた。一時間以上かけて何度もシャンプーをしたり、タオルに石けんをつけて身体中をゴシゴシ洗った。足の親指と人差し指の間をこすっても白いタオルが汚れなくなったのは、五回目に洗った時だった。

生まれて以来これほど清潔になったことはなかった。「石けんの臭いがする女の子」という表現を聞いたことがあったが、私もシャワールームを出た時には自分の身体から石けんのにおいがしていた。

「ハリス社長、シャワーが終わりました」
と大声で呼びかけると、社長が下着と糊のきいたカッターシャツとズボンを持って来てくれた。

「うわあ、真っ白でパリパリですね!」

僕は巨大なパンツに足を通し、指先よりも長いアンダーシャツを三回折りして着た。大きすぎるが、信じられないほど清潔で気持ちが良かった。カッターシャツはアンダーシャツより更に袖が長く、裾は膝まであった。

「大きすぎるな。というより、君が小さすぎると言うべきか……」

「あ、袖を折り返せば大丈夫ですから、お気になさらずに」

「気にするなと言われても、そんな恰好をしてうろうろされたら会社が評判を落とすんだよ。子供服はここには置いてないからなあ……。仕方ないからこれでも着るか」

社長が廊下の横の引き戸の中から取り出したのは女物の喪服が掛かったハンガーだった。

「じょ、じょ、冗談じゃない! 僕、絶対にイヤですから!」

「君ならヒゲも無いし、この喪服を着て帽子を深めにかぶれば、誰が見ても葬式帰りの女性に見えるよ」

「お断りします! 女装させられるぐらいならホームレスの方がマシです。僕の服を返してください」

「クサくて虫が棲みついていそうな服だったから火箸でゴミ袋に入れて外に出したよ。さっき収集車の音が聞こえたから、もう外にも無いはずだ」

「そんなのヒドすぎます! 僕、死んでもスカートははきませんからね!」

「困ったなあ、宿舎に行けば先月辞めたショーンの服があるんだが……」

「じゃあ宿舎まで、この服を貸してください。ズボンの裾を折り返してピンで留めたら何とかなると思いますから」

「いいだろう。服にはちゃんとアイロンをかけて返してくれよ」
私はほっと胸をなでおろした。

午後五時半に閉店するとハリス社長は僕を徒歩十五分ほどの距離にある赤煉瓦壁の四階建てのアパートに連れて行った。グラウンド・フロアの右奥の〇一七号室のドアを開けて、ハリス社長が「ハイジは居るか?」と叫んだ。

居間に面する左側のドアが開いて、栗色のロングヘアをパール付きのヘアゴムで束ねた二十代後半の大柄な女性が出てきた。

「ハイジ、この子が明日からうちで働くことになった。ベッドを割り振ってやってくれ」

「ええと、男の子、じゃないですよね?」
とハイジは僕を観察しながら聞いた。男物の服を着ている男子を見て何ということを言うのだろうと腹が立つと同時に恥ずかしくなって赤面した。

「いや、この子はノアという名前の男だ」

「デニスの部屋にベッドが空いてますからデニスと同室にさせますか? それともショーンの代わりに私の部屋に置いてもいいですけど」

「そうだな……悪いが君の部屋で面倒を見てくれないか?」

――まさか、男部屋が空いているのに女性と同室だなんて……。

「事務所でシャワーを浴びさせたが、着ていた服があまりにもクサかったから捨てさせて、私の喪服を着せて連れてきたんだ。ショーンの服は捨ててないよね?」

「置いてありますよ。この子ならちょうど合いそうですね」

「じゃあ、頼んだよ」
と言うとハリス社長はどこかに行ってしまった。

ハイジの後を追って部屋に入った。左右にクローゼットとベッドがあり、突き当たりの窓際にデスクが並んでいる。ドアの右手に洗面所への入り口らしいものがある。

「このジャージーに着替えなさい」
ハイジは引き出しからピンク色のジャージーの上下を出して僕に渡した。

「え、これ女物では……」

「子供用だから男も女もないわよ。ノアは何年生?」

「もう中学は卒業しましたよ。先月十六才になりました」

「へぇーっ! 小六ぐらいかと思ったわ。ショーンが小六だったから」

「ショーンって先月辞めた従業員のことだと思っていましたけど、子供だったんですか? ハイジさんの親類か何か?」

「ハリス社長の知り合いの夫婦が事故で亡くなって、その子供のショーンをしばらく預かってたのよ。お葬式の参列者として小五から中三ぐらいの少年が一人いると重宝するのよね。死んだお母さんの従姉妹夫婦がアメリカに住んでいることが分かって、ショーンは先月アメリカに引き取られて行ったわ。その夫婦は金持ちらしくて、ショーンは衣類を殆ど置いていったのよ」

小学生の時に両親を事故で亡くしたところまでは私と同じだが、私の親には金持ちの従姉妹の代わりに貧乏な兄弟と意地悪な奥さんがいるだけだった。同じ孤児でも大違いだ……。

「僕は小学生が着ていた服を着せられるんですか……。これでも大人の男なんですけど」

「自分に与えられた役を演じるのがプロのモーナーよ。小学生でも、中学生でも、高校生の役でも演じなきゃなきゃならない。場合によっては若い女性の役もね」

「女性の役はイヤです! ハリス社長にもはっきり言いましたけど、死んでも女装はお断りしますから」

「アハハハ。そんなにムキになられると、却ってやらせたくなるわ。ノアじゃなくてノラという名前でみんなに紹介しようかな。そのジャージーのズボンの代わりにスカートを出してあげるから待っていなさい、ノラちゃん」

僕は既に喪服のズボンを脱いで膝丈のカッターシャツ姿になっていたが、そのままこのアパートから逃げだそうかなと本気で思った。

「冗談よ、冗談。ショーンにも一度も女装はさせたことがないから安心しなさい。私が言いたかったのは、参列者としてどんな役でも演じられるように努力しろということ」

「分かりました。ああよかった……」

「でも、毎日私の言うことをちゃんと聞かないと、女役へのコンバートを社長に進言したくなるかも」
とハイジがにやっと笑って言った。

ジャージーに着替えるとグーッとお腹が鳴った。

「もうすぐ七時ね。食堂に行くわよ」

寝る場所が確保できていて、ご飯も食べられる。今日「忘れな草」の看板が目にとまらなければ今夜も公園で汚い毛布にくるまってひもじい思いをしていただろう。私は神様に感謝した。

食堂はキッチンの横の小さな部屋で、六人の若い男女がカウンターの前に列を作っていた。十七、八才と思われる女性が一人、二十代の女性が二人と、二十才から三十才ぐらいの男性が三人だった。

「みなさん、新メンバーのノアを紹介させて」

「ノア・エドワーズ、十六才です。よろしくお願いします」

「ショーンの代わりよ。私と同室」
と言って、ハイジは一人一人に紹介してくれた。

大きなスープ皿に入った料理をカウンターで受け取り、テーブルに持って行ってハイジの横に座った。

テーブルの真ん中にはパンが山積みになった大きなかごが置かれていた。それは私にとって夢のような光景だった。

「今日はボルドー風のシチューね。シチューと言うよりはスープに近いけど」

大きなジャガイモ、ニンジンとオニオン、それに豚肉の塊がたっぷりと入っている。ニンニクの匂いがして、私は唾をゴクンと飲み込んだ。ハイジが手を組んで祈る仕草をするのを真似してから、ハイジが料理を口にするのを待って豚肉を口に運んだ。

――なんておいしいんだ、ここはパラダイスだ! 教会の炊き出しで、こんな感じのスープは何度も食べたが、しょっぱくて肉はまばらだった。

「ここでは毎日こんなにおいしいご飯を食べさせてもらえるんですか?」
と聞くとハイジはにっこりと微笑んで「ノアって思ったより行儀がよくて素直でいい子ね」と言った。

対面には、私と年が近そうなキャサリンと、二十代半ばのシンクレアという憂い顔の美人が座っていたが、キャサリンが微笑みながら僕に話しかけた。

「ハイジさんがブロンドのショートヘアの女の子を連れてきたと思っていたのに、胸が無いからどっちだろうかと迷っていたのよ。小さいけど私と一才しか違わないのね」

「小さいって……僕は百六十二センチあるんですよ」

「イギリス人の女性の平均は百六十二だから平均並みね。私は百六十八よ。ハイジさんは百八十二」
キャサリンが私を大人の男性のカテゴリーに含めていないのは明らかだった。

「ここで私の身長を言う必要があるのかなあ?」
とハイジがキャサリンをにらみつけ、四人で笑った。

「キャサリンの弟みたいにしてお葬式に行けばいい感じになりそうね」

「ショーンが居なくなって困っていたから、ちょうどよかったわ」

「僕、頑張ります!」

女性はもう一人クリスティンというきれいな人がいたが、隣のテーブルで三人の男性と談笑していた。その四人は私には全く興味が無いようだったが、私が普段人気の多い場所で慣れっこになっていた敵意や蔑視というものは全く感じなかった。

食事が終わると各々が自分の食器をキッチンのシンクまで運んだ。キッチンには私の死んだ母より少し年上と思われる太った女性が立っていて、私の頭を撫でて「男の子だったのね」と言った。後でハイジから聞いたところによると、そのジョーゼフィンという女性と夫のデイヴィッドが、グラウンド・フロアの従業員寮のまかないと、このアパートの三階にあるハリス社長宅の雑務をしているとのことだった。

ハイジと一緒に部屋に戻った。私はベッドの縁に腰を掛け、ハイジは窓際のデスクの前に座ってお化粧を落とし始めた。

「私が先にシャワーを浴びるわね。ノアは私の後でシャワーを使ったら、髪の毛や汚れが残っていないように掃除するのよ。私は不潔なのが大嫌いだから」

「はい、分かりました」
と私は上司に対する口調で答えた。

ハイジは化粧落としを終えて立ち上がるとベッドの縁に腰掛けてセーターを脱ぎ、ブラウスのボタンを外し始めた。私の目の前、数十センチの距離で女性が服を脱ごうとしている。三年半前に母を失ってから私は女性の下着姿を見たことがなかったので慌てた。お辞儀するような姿勢で真下を向いて目を閉じた。

「いいわよ、気にしなくても。同じ部屋で暮らすんだから、お互いの裸を見ることに慣れないとやっていけないわ」

「でも、異性ですから……」

「バカねえ。私にとってノアは一回り年下の弟というか親子みたいなものよ。ノアに裸を見られても何とも思わないし、ノアのオチンチンを見ても襲おうと思ったりしないから心配しなくていいわよ。さあ、目を開けて前を見なさい」

目を上げるとハイジのおへそがすぐ前に会った。ハイジは全裸だった。

「私は暴力で無理やり言うことを聞かせるタイプの人間じゃないから安心して」
とハイジは穏やかな表情で私を見下ろして言うと、シャワールームへと歩いて行った。

中学二年の時に同級生からオナニーの仕方を教えられてから、自分は大人の男になったと自覚していた。まだ実際にセックスをしたことはないが、大人の男と大人の女が同じ部屋で服を脱いだらどうなるかは理解しているつもりだった。男が女にのしかかって事を成すというイメージが頭の中にあった。

ついさっきまで、見上げるほど大きくて強そうな女性を目の前にして、自分はいったいどのように振舞えば良いのか想像できずに戸惑っていた。ハイジに完全に子ども扱いされたお陰で、私はそんな気苦労から解放された気がした。

***

翌朝、朝食が終わると、私は白いカッターシャツと黒の上下に着替えた。ショーンはかなり体格のいい小学生だったことが判明した。ショーンが残して行った服の肩幅や首周りはちょうどよかったが、袖とズボンの裾は私には少し長めだった。

「まあ、このままでも着られないことは無いわね。今日はこのまま出かけるからズボンの裾を汚さないように注意して歩きなさい。裾を二センチ上げるよう、後でジョーゼフィンに頼んであげる」

ハイジは膝をかがめて私の前に立ち、黒のネクタイを結んでくれた。ネクタイをするのは生まれて初めてだった。

タイトなツーピーススーツを着てヴェールの付いた小さな帽子を頭に乗せたハイジはとても気品があった。私はこんな美しい女性と同じ部屋で生活しているのだと思うと鼓動が高まった。

「さあ、食堂でブリーフィングが始まるわよ」

「ブリーフィング?」

「ハリス社長から今日の仕事について説明と指示を受けるためのミーティングよ。棺桶の中に眠っているのがどんな人かを分かっていないと、お葬式でどう振舞うべきなのかが分からないし、もし他の参列者から話しかけられた時に自然な受け答えができないでしょう? そのための準備会議なのよ」

「へぇーっ、そこまでやるんですね」
私は感心しながらハイジと一緒に食堂に行った。

既に食堂には十人以上が集まっており、昨夜の夕食の時は見かけなかった人も何人かいた。黒いレースのドレスを着た小学校高学年から中学生と思われる美しい少女が母親と並んで立っていた。

「自宅から通っている社員もいるんですか?」
と聞くとハイジは頷いた。

間もなくハリス社長が入ってきて、A4の印刷物を全員に配った。

「皆さん、おはよう。今日のブリーフィングを始める前に忘れな草の新しいメンバーを紹介しておく。ノア・エドワーズ君だ。ショーンの後任として、小学校高学年から中学生の少年の役回りを中心にやってもらうことになる」

「あのう、僕の年令は……」
私が義務教育を終えた十六才であることは、昨夜の夕食に来ていなかった人に伝えておかないと子供扱いされる恐れがあると思い、手を挙げて発言しようとした。

「ノア、与えられた役割をプロの役者として演じるのが君の仕事だ。十三才の少年の役を与えられたら、例え君が十八才の女性だとしてもそんなことは関係ない。私が指示した通りに演じてもらう」

叱責口調で言われて「はい、すみませんでした」と謝った。黒のレースのドレスの少女が目を丸くして私を見つめているのに気づいた。社長が変な言い方をしたから、あの少女は私が十八才の女性だと勘違いしたのかもしれないと思い、恥ずかしさがこみ上げてきた。

ハイジが笑いを押し殺した表情で私を見下ろしながら、そっと肩を叩いて慰めてくれた。

「今日の仕事は二件だ。一件目は先週土曜日に亡くなった六十七才のオースティン・ベネットだ。略歴は配布したメモの通りだが、ミスター・ベネットはロンドンに引っ越す前の十数年間レディングの中学校で校長をしていたことになっている。君たちは尊敬する恩師の訃報を聞いてレディングからバスを仕立ててやってきた元生徒たちという想定だ。各自の卒業年次と役割はそこに書いた通りだ。このメモは一昨日作成したからノアの名前は書いてないが、ノアはソフィアの同級生の男子中学生の役割を演じてくれ」

ソフィアとはあの少女のことに違いない。中学生の役とはいえ、きれいな少女の同級生を演じられるというのは朗報だ。もし彼女が私について誤解しているとすれば早くその誤解を解かねば……。

「二件目の仕事は八十八才のシャーロット・サマーズの墓地での埋葬に立ち会うだけだ。シャーロットは七年前に娘夫婦がスコットランドに引っ越して以来、老人ホームに住んでいた。今日確実に埋葬に来るのは老人ホームのスタッフ二名とその娘さんだけだ。そのメモの通り参列するだけの仕事だが、心を込めてシャーロットを見送って欲しい・ブリーフィングは以上だ。マイクロバスは十分後に発車する」
と言ってハリス社長は出て行った。

「ハイジさん、質問していいですか?」

「その通りよ、ソフィアというのはあのかわいい子のことよ」
とハイジは勝手に僕の質問を想像して答えた。

「ブブーッ、ハズレです。質問はレディングのことです。レディングで最近まで十何年も住んでいたのなら、レディングからお葬式に来る人も居るはずです。ここに書いてある中学を出た人も居るかもしれませんし、レディングのどの通りに住んでいるのかとか聞かれたら、僕たちがホンモノじゃないことはすぐにバレると思うんですけど……」

「これは私の推測だけど、レディングで校長をしていたという経歴がフェイクなんだと思うわ。ハリス社長の言い回しから察すると、人に言えない場所で十数年過ごした可能性が高い」

「人に言えない場所って、もしかして刑務所とか……」

「それは私たちが詮索すべきことじゃないわ。ハリス社長が賢明かつ安全と考えて書いた脚本に従って、私たちは与えられた役を演じる。それ以外は忘れるのよ。ノアはソフィアにくっついて真似をしていれば大丈夫。もし何か困ったことが起きたら私に相談に来なさい。さあ、部屋に帰ってオシッコをしてからマイクロバスに乗るのよ」

ハイジと一緒に一旦部屋に戻ってからアパートの玄関前に停まっているマイクロバスに乗りに行った。ソフィアのお母さんと思われる女性から手招きされて、ソフィアの横の席に座った。ソフィアは私の胸に目を遣りながら聞いた。

「ノアの本名は何?」

「本名? ノアだけど」

「やっぱり、十八才の女性じゃないわよね。胸が無さすぎるもの……」

「ははぁ、社長があんな言い方をしたから誤解したんだね。僕は十六才の男だ。もう中学は卒業したから、ソフィアよりお兄さんだよ」

「ウフフフ。私は三月に高校を卒業したのよ。服装とメイクで十二才から二十二、三才まではこなせるの。ハリス社長は平日の朝の仕事に十六才未満の子供を雇ったりしないわよ。ショーンがいなくなってからは子供の役をさせられることが多かったけど、ノアが入ったお陰で子役から解放されそうだわ」

「なんだ、年上だったのか……」

「ハリス社長の話からすると、今度中学生の女の子が必要になったらノアに任せられそうだし」

「それは無いよ。昨日の面接の時に、僕は絶対に女装はしませんと宣言してあるから」

「性別とは関係なく与えられた役を演じろと社長に言われて『はい、すみません』と謝っていたくせに」

「それはあの時の雰囲気で……」

「それに、中学生の女の子が必要な仕事の依頼が来た時に、私がどうしても都合がつかないと断ったら、ノアにお鉢が回るわよ、ウフフ」

「頼むから断ったりしないで、お願いだから……」

「私が断らなくても、もし中学女子が二名必要な仕事だったらどうなるかなぁ? まあ仲良くやろうね」

マイクロバスは一時間かけてカンタベリーの教会に到着した。

レディングから恩師をしのんでやってきた十二名の教え子たちは、ハイジに率いられて教会の中に入り、後方の空席の一角に席を取った。最前列に座っている黒のチュールのベールで顔を覆った黒のロングドレスの女性が故人の妻で五十二才のはずだ。その横に座っている二十五才と二十七才の女性が独身の娘たちだろう。確かに見栄っ張りな感じがする。ハリス社長からもらったメモを見れば大体の想像がつく。

「ノア、現場でメモを取り出すのは禁止よ」
ソフィアの母親に耳元で言われたので、私はメモをポケットにしまった。

葬儀の間、私は出来る限り悲しそうな顔をして大人しく座っていたが、ミサが始まると周囲からすすり泣きの声が聞えた。それはすぐ近くから聞こえていた。隣に座っているソフィアを見ると、目から涙があふれていた。

――ウソだろう……。ソフィアは本気で泣いているみたいだ。

チラリと振り返って後ろの列に座っている忘れな草の人たちを見ると、女性は例外なく目に涙をたたえてすすり泣いていた。男性も殆どの人の目が濡れていて、一人はむせび泣いていた。悲しい顔を「繕っている」のは私一人だった。

目薬を手に持っている人は一人もおらず、涙は実際に目から出て来たもののようだった。

社長やハイジがプロのモーナーとか、役者とか言っていたのは、こういうことだったのかと感心した。

ミサが終わり、聖歌を歌いながら自分は中学生で、故ベネット氏は大好きな校長先生なのだと自分に言い聞かせ、ある程度その気持ちになったが、涙を出すことには成功しなかった。

葬儀が終わりに近づき、献花が始まった。私たちレディングからの一行は一般会葬者の大半が献花を終えてから立ち上がった。他の参列者との会話を避けることがボロを出さないためには大事だからだ。献花をしてから故人の奥様にお悔やみを言って退出するのだが、先頭のハイジの演技には度肝を抜かれた。

「私が非行に走らずに中学を卒業できたのはベネット先生のお陰なんです」
百八十二センチのハイジは目を泣きはらして少女のように震える手で奥さんの手を握って告白した。もう周囲には故人の家族しかいなかった。忘れな草にモーニングサービスを申し込んだのは奥さん本人のはずなのに、ハイジはそんなことには構わず教え子として心情を吐露した。ハイジの後に続いた献花者も、どう見てもベネット校長の教え子にしか見えなかった。ソフィアの番になり、すすり泣きながらソフィアが奥さんに行った。

「私たち二人とも校長先生が大好きだったんです」

私はその時、自分はレディングの中学生なのだと本気で感じた。涙が溢れ出て、奥さんに何か気の利いたお悔やみを言おうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。

「ありがとう、あなたたち」
奥さんはソフィアと私の手を改めて強く握って礼を言った。

ソフィアと二人ですすり泣きながら教会の外に出てマイクロバスに乗り込んだ。

マイクロバスがカンタベリーの町から出たころには悲しい気持ちがウソのように消えていた。

「初めてにしては、なかなかやるじゃない」
とソフィアが私の肩を指ではじいた。


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2018 原作開発プロジェクト 応募作品「未来が見える少女」

桜沢ゆうの新作小説「未来が見える少女」が出版されました。前作の「エキストラ」に続き 2018 原作開発プロジェクトに応募するため「五万文字、テーマは映画」という制約の中で書いた小説です。

主人公の深沢芽依は女子高生です。私が書いた小説で主人公が女性なのは「危険な誘惑」だけでした。「危険な誘惑」も主人公を男性にしたMTF版を後で出版したという経緯があります。

「未来が見える少女」にはMTF版はありません。TSは主人公ではなく、別の登場人物に起きますが、第三章に起きるので、読んでのお楽しみということでお願いします。

未来予知能力を身につけた女子高生はひょんなことから国際情勢に翻弄されることになるのですが、一応SF小説とも言えるし、リアル系TS小説でもあり、どのカテゴリーに入れるべきかは読者の方がご判断ください。



未来が見える少女

第一章 落ちるドングリ

部活が終わっての帰り道、公園の遊歩道を歩いていたら何かが頭に落ちて来た。

痛くは無かった。

コツン、ではなく、ポトンという感じで頭に当たった。

何だったのだろう?

その時、風が吹いて何かがパラパラと落ちて来た。ひとつではなく、二つ、三つ。

足元に転がったのはドングリだった。

二、三日前から急に冷え込んだからだろうか、風が吹いて熟したドングリが木から落ちて来たのだ。

足元を注意してみると沢山のドングリが散らばっている。遊歩道の舗装された部分には少なくて道路の端っこの、土との境の部分に沢山のドングリが転がっていた。雨水が道路わきへと流れるように、ドングリも高い所から低い所に転がったのだろう。

よく見ると、木製の高級家具のような光沢のあるドングリは少数派で、土ほこりで汚れたり、割れ目が入って腐りかけのドングリが多い。

「ドングリって美味しいのよ」
田舎の叔母が言っていたのを思い出した。

「シイの実ならそのまま食べられるし、それ以外のドングリはアクを抜いて食べるの」
そう思って見回すと美味しそうなドングリが沢山あった。

でも、きたない!

例え何回も洗ったとしても、犬がオシッコをする道端に落ちているものを食べることは私にはできない。

そうだ! ドングリが地面に落ちる前に手で受け止めればいいんだ!
それは突拍子もない発想かもしれない。ポケットを落ちて来るドングリで一杯にするには何時間もかかるのではないだろうか?

いや、そんな後ろ向きな姿勢からは何も生まれない。とにかくやってみよう。

さっき風が吹いた時にパラパラと落ちる音がした辺りに行って歩行者の通行の邪魔にならない場所に立った。木の枝を見上げて、落ちてきたら受け止めようと精神集中した。

一、二、三、四、五、六……

十一まで数えた時に小さな黒いものがスーッと落ちて来てポトリと地面に落ちた。

速い! 思ったよりはるかに速いスピードで落下した。

イチローのような動体視力があればドングリが止まって見えるかもしれないし、サッと手を動かしてつかみ取るのも不可能ではないだろうが、私には無理かもしれない……。

数秒後にもう一つ、更に十数秒後にまとめて数個落ちて来た。

さすがに速いが、だんだん「球筋」が見えるようになってきた。

数分間見ていると、一瞬だが目の数十センチ前にドングリが止まって見えた。よし、これなら捕れるかもしれない。私の動体視力はイチロー並みなのだろうか?!

次に落ちて来たドングリをさっと手でつかもうとしたが、間に合わなかった。脳が視覚からの情報を受けて手に「動け」いう指令を出し、実際に手が動くまでにはタイムラグがあるのだ。そして手を動かすスピードの問題もある。

やはり一介の女子高生がイチローにかなうはずがない。

でも私はあきらめずに次のドングリを待った。

段々手の動きが俊敏になった。しかし、私の手はドングリが落ちた直後に虚しく空を切り続けた。

やっぱり、私には無理なんだ……。

そう思うと、ふぅーっと力が抜けた。自分が持っている動体視力と瞬発力を最大限に絞り出そうと極度に張りつめていた緊張状態が解けた。

気が付くと、何気なく動かした右手が落下してきたドングリをキャッチしていた。

なんだ、できるじゃない!

次に落ちて来たドングリは左手で捕った。簡単だった。

それまでは落ちて来るドングリをできるだけ高い所で見つけようとして必死で上の方を見ていたのだが、先ほどから目の前に止まった状態のドングリが、実際に落ちて来る前に見えるようになっていた。それを手で横からはたくようにして掴めばいい。

手の中のドングリをスカートのポケットに入れた。
それから後は簡単だった。手の届く範囲に落ちて来るドングリは全て難なくキャッチできた。いや、「全て」というのは言い過ぎだった。ほぼ同時に落ちて来るドングリの数が二個なら右手と左手で一個ずつ捕れるが、三つ以上だと無理だった。

半時間ほどで制服のスカートのポケットがドングリで一杯になった。

気が付くと陽が落ちかけて、辺りが暗くなっていた。

いけない、早く帰ろう。

公園で木から落ちて来るドングリを空中で採取していた女子高生が痴漢に遭う。それではシャレにならない。友達から一生「ドングリ」と呼ばれることになる。私はポケットからドングリが飛び出さないように手で押さえながら、家まで走って帰った。

***

「遅かったわね。またどこかで道草を食っていたの?」
母がニンジンの皮をむく手を止めて私を迎えた。

「私は犬のオシッコがかかった道端の草なんて食べないわよ」

「今のは座布団一枚あげてもいいわ。あらっ、ポケットが膨らんでいるわね。制服のスカートのポケットにむやみに物を入れちゃダメよ。プリーツの形が崩れるから」

「そうよね。制服のスカートの左右にポケットがあればバランスがとれるんだけど……。今日は大事なものが入ってるの。ママにも見せてあげる」

私はシンクの上の棚から手鍋を取って、ポケットの中のドングリを全部入れた。

「まあ、汚い! 女の子が土の上に落ちていたものを洗わずにお鍋の中に入れるなんて信じられない」

「おあいにくさま。この中に落ちていたドングリはひとつもないわ。落ちてくるところを空中で掴んで取ったものばかりよ」

「芽依ったら、よくそんな作り話を思いつくわね」

「本当だってば! 嘘と思うのなら、明日一緒に公園に行って実演してあげる」

「動いている物をさっとつかみ取るなんて、宮本武蔵じゃあるまいし」

「誰、それ? 野球選手? イチローよりもすごいの?」

「宮本武蔵を知らないの? 巌流島で佐々木小次郎と決闘した、江戸時代の剣豪よ。ご飯を食べているときにハエがうるさく飛び回っていたのを、空中でお箸で挟んだのよ。そして何事も無かったかのように食べ続けた」

「ムカつく! 超フケツな人ね。私ならそんなお箸は洗剤でゴシゴシ洗っても二度と使えないわ」

「江戸時代の話よ。男の人だから仕方ないわ」

「いくら有名な剣士でもそんな男にキスされたら耐えられない」

「話を逸らさないで。やってみれば分かるけど、飛んでいるハエを空中でお箸で掴むというのは誰にでもできることじゃないわよ」

「ふーん、確かにそうかも。ハエってすごく速いスピードで飛ぶものね。動体視力の問題というより、いくら速くお箸を動かしても追っつかないわ。多分その宮本武蔵とかいう不潔な男には、次の瞬間に空中でハエが止まる姿が見えたのよ」

「宮本武蔵には未来を予知する能力があったというわけ? 芽依らしい仮説ね」

「ちょっと違うのよね。未来を予知するというほどのものじゃなくて、動いている物の次の瞬間の姿が止まって見えるの。だからそこにお箸を持っていくと簡単に掴める。私もそうやってドングリを捕ったのよ」

「芽依に悪気があってウソを言ってるんじゃないことをママは分っているけど、ヨソの人にそんなことを言うと芽依には虚言癖があると思われるわよ」

「ハァ? 信じないの? 見てよ、このドングリ。全然ホコリがついていなくて、ツヤがあるでしょう? もし落ちているのを拾ったのなら、実とハカマの間に土やホコリがついていると思わない? 落ちていたドングリを水で洗ったとしたら濡れているはず」

「ホントだ! 芽依の言う通りだわ。お鍋の中のドングリは全部が同じように新しくて、木から手で摘み取ったみたいだわ」

「ほら、私が本当のことを言っていたことが分かったでしょう?」

「早く着替えてらっしゃい。ベランダでポケットを裏返しにして、木くずとかが残っていないようにきれいにするのよ」

母が認めたのはドングリが粒ぞろいで汚れていないということだけだった。次の瞬間を見る力を私が持っていると信じたわけではないのだ。

大人ってどうしてこんなに頭が固いのだろう? 私も自分の隠れた能力に気づいたのは偶然だった。緊張がふと緩んだ時に、それまで息を潜めていた能力が出てきたのだ。もしあの時に「見えるはずはない」と思って見過ごしていたら、私は一生自分の能力に気づかなかっただろう。

私のDNAの半分は母から来ているのだから、母にも同じ能力があるかもしれないのに……。

宮本武蔵という男性は、剣の道を究める修行の中で、きっと偶然ある瞬間に自分の能力に気づいたのだと思う。対戦相手の次の瞬間の剣先が見えれば、相手を倒すのは簡単だ。だから勝ち続けて生き残り、剣豪と呼ばれるまでになったのではないだろうか。

イチローには残念ながらその能力は無さそうだ。動体視力と卓越した身体能力、それに経験値を重ねてあれほどの実績を残しているのだ。

多分、偉大な王貞治さんを含む野球選手には、宮本武蔵や私と同じ能力は無かったはずだ。もしあれば、バッティングはティーの上に乗せたボールを叩くのと同じぐらい簡単だから、打率が三割や四割で収まるはずがない。待てよ、ボールを楽に打てても打球が内野手の守備範囲内に飛んだり、外野まで飛球が行っても外野手が捕ればアウトだから、五割、六割もの打率は難しいんだろうか……。

私は自分の部屋に行って、スチーマーのスイッチを入れてから制服のスカートをハンガーに吊るし、ウェストがゴムのロングスカートに履き替えた。

スチーマーを手に持ってプリーツがシワになっている部分に集中的にスチームを浴びせる。毎日二、三分の作業だが、母がそのためにスチーマーを買ってくれて、スイッチを入れれば一分後には使えるように置いてある。私が毎日シワの無いスカートで学校に通えるのはこのスチーマーのお陰だ。

明日も公園でドングリを集めようかな。能力を研ぎ澄ます訓練のためにはそれもいいかもしれないが、王貞治さんやイチロー選手さえ授からなかったほどの超能力を、ドングリ集めにしか使わないというのは宝の持ち腐れだ。他に使い道は無いだろうか?

野球選手になるのはどうだろう?

高校野球連盟は石器時代のような脳ミソで凝り固まっていて、女子が選手になることを認めていないが、プロ野球は女性にも門戸を開いていると聞いたことがある。確か、クラスの男子が読んでいたマンガに女性のピッチャーが出ていた。

私が実際に野球をしたのは体育の授業だけで、それもソフトボールだが、中学時代に父と一緒にテレビで野球を見るのが好きだったので、野球にはうるさい。止まっているボールなら私でも打てるようになるはずだ。

しかし、私の目には止まっているボールでも、実際には時速百数十キロで動いているのだから、私の力で打っても前に飛ばないかもしれない。振る度にバットに当たっても、ボールがチョロチョロと転がるだけなら、観客から失笑を買うだけだ。

それにデッドボールが問題だ。次の瞬間に胸を直撃するボールが見えたとしても、俊敏に身体を動かしてボールをよけることが出来るだろうか? バットを胸の前にサッと持ってきてバントをすることぐらいならできるかもしれないが……。

強いボールを投げる力が無いのも私の弱点だ。ということは守備は無理だ。パリーグには指名打者制度があるが、普通、指名打者はホームランバッターだ。弱いゴロしか打てない私は指名打者としては使ってもらえないだろう。

野球の始球式で女優が投げるのをテレビで何度か見た。ノーバウンドでキャッチャーに届くとアナウンサーが大げさに褒める。長身女優の菜々緒が始球式でノーバウンド投球をする動画をユーチューブで見て、女性としてはカッコいいと思ったけれど、プロの野球選手と比べるとまるで子供の投球だった。

私は小さい時から体育は得意で足も速いし、身長も女子の平均より高いが、残念なことにパワーが無い。やはりスポーツ選手になることは、選択肢から外した方がいいだろう。

ベッドに寝転がって超能力を活かす方法について脳ミソを絞ったが、グッドアイデアは浮かんでこなかった。

「あっ、ドングリの事を忘れていた」

スマホでドングリの調理方法について調べた。シイの実以外のドングリは皮をむいて数日間天日干しした後、ミキサーで粉砕したものを水に漬けてアクを抜くという、面倒な処理をする必要があることが分かった。

「ドングリなんて食べなくても百均でムキ栗を買う方が賢いかも」

ひとり言を言いながら台所に行った。

「ママ、私のドングリはどこ?」

「玄関に置いたわ。見てきてごらん」

玄関に行くと、クリスタルグラスにドングリを盛り付けて棚の上に置いてあった。秋の訪れを感じさせる、さりげないオブジェだった。

「ママの超能力の方がずっと素敵だわ」

私は自分の負けを認めた。


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2018 原作開発プロジェクト 応募作品「エキストラ」

桜沢ゆうの新作小説「エキストラ」が出版されました。

「2017Amazon・よしもと原作開発プロジェクトで「採用面接」が優秀賞を受賞しましたが、その快感が忘れられず、2018年2月末締め切りのAmazon・よしもと原作開発プロジェクトに応募するために「エキストラ」を書きました。今回は「映画」に関するテーマというのが応募規定になっており、しかも五万文字以内という規制が入っています。私の長編小説(980円のもの)は十万字以上なので、その半分になります。書いてみると半分の字数でストーリーを収めるのは困難を伴いましたが、校閲でバサバサとぜい肉を切り落として五万文字に収めました。

題名から想像できる通り、主人公は彼女と一緒に映画のエキストラに応募します。主人公が大ファンである若手女優が出演する映画だからです。エキストラに行ってみると、大勢のエキストラの中から十数名の特別エキストラが選ばれることになり、主人公と彼女も選ばれます。ところが、実際の撮影時にNGが出て役を外され、ガッカリするのですが、撮影後に監督に呼び出されて、驚くべきオファーを受けることになります。

そのオファーとは?

最後まで息をつかせないハプニングの連続です。どうぞお楽しみください。



第一章 エキストラ

僕の名前は水沢詩音。千葉市にある大学の一年生で早瀬美玖の大ファンだ。インスタグラム、ツイッターとオフィシャルブログは常時フォローしており、早瀬美玖の事なら誰よりもよく知っているつもりだ。
木曜日の昼休みに学食で僕の彼女の長尾幸子に言われた。
「詩音、映画のエキストラの募集にはもう申し込んだ?」
「何のこと?」
「知らないの? 早瀬美玖のことは完全フォローしてると自慢していたくせに。杉内数馬と早瀬美玖の共演で『黄色い蕾』という映画を撮っていることは知ってるでしょう? 今週末の撮影に高校生のエキストラが足りなくなって、緊急募集しているらしいわ。私は杉内数馬からのツイートを見て知ったところよ」
僕と幸子は付き合っていることを公言する仲だが、幸子が杉内数馬に、僕が早瀬美玖に憧れることについては許容するという合意が成立している。
「行く行く! 早瀬美玖の映画に共演できるんだったら、僕、何でもする」
「共演と言ってもエキストラだから、ほんの二、三秒映るだけよ。それに、早瀬美玖の撮影と同じ現場で撮るとは限らないから、エキストラに行っても早瀬美玖本人を近くで見られるとは限らないわ」
「最悪の場合でも『僕は早瀬美玖と同じ映画に出演した』と孫子の代まで語り継ぐことができる」
「発想がナイーブね。私は杉内数馬を近くで見られるならエキストラをやってもいいけど、そうじゃなきゃ行きたくないわ」
「そんなこと言わないで一緒に行こうよ!」
「ま、詩音の頼みならむげには断れないわね。じゃあ、申し込むわ。応募申込ページのリンクを送ってあげる」
幸子からのリンクの着信とほぼ同時に早瀬美玖のツイート通知がポップアップした。

「【拡散希望】撮影中の『黄色い蕾』でエキストラさんが足りなくなったみたい。緊急募集中だからヨロシクネ! 詳しくはこちら」
そのリンクをクリックすると幸子から届いたリンクと同じページが開いた。

エキストラ急募
■作品名:黄色い蕾
■監督:魚沼腰光
■主演:早瀬美玖 X 杉内数馬
■募集内容:高校生に見える男女十名から二十名程度。
■撮影場所:江戸川堤防(JR市川駅より徒歩二十五分、バス送迎あり)
■撮影日時:十一月二十五日(土) 午前八時から日没まで
■待遇内容:出演料、交通費、食事代は出ません。小さな謝礼品を差し上げます。
■応募要領:yuszjp@gmail.comあてに「エキストラ希望」という題で住所、氏名、携帯電話番号、年齢、職業(学校名と学年)、身長、体重を記入し、顔写真(メール記入と同時に自撮りしたもの、アプリ使用禁止)を添付したメールをお送りください。二十四時間以内に結果を返信します。

――えっ、バイト料なしかよ! 交通費も自己負担とはケチだな……。
エキストラに応募するのは始めてだったが、出演料がゼロで交通費も出ないとは知らなかった。まあ、早瀬美玖を十メートル以内で一分間見ることができるなら、一日分のバイト代を払ってでもエキストラになってもいいと思った。
もう一つ面白いと思ったのはメール記入時に自撮りした顔写真を添付、それもアプリの使用を禁止するという点だった。これなら、確かに普段通りの素顔が分かる。女の子が美人になるアプリやメイク・アプリを使うことも禁止するというのも理に適っている。
僕は早速スマホを右斜め上にかざして自撮りした。それは幸子から教わった、僕が最もカッコよく写る角度だった。その画像を添付してエキストラ希望のメールを送信した。
僕と幸子は応募メールをほぼ同時に送信し「結果の返信が届いたらLINEで連絡するね」と言って別れた。
午後の美術史学の講義が終わってスマホを見ると「エキストラご応募の件」というメールが入っており、ドキドキしながらクリックすると採用されたとの知らせだった。幸子に連絡すると、幸子にも同じ内容のメールが届いたとのことだった。
その次の講義は心理学だったが、顔に見覚えがある女性が隣の席に座っていたので「僕、早瀬美玖が出演する映画に出ることになったんだよ」と話しかけた。
「えっ、オーディションを受けたの?」
「まさか。今日、緊急募集に応募したら、OKのメールが来たんだ」
「なあんだ、エキストラか。『映画に出る』というのはちょっと言い過ぎじゃない?ところで、あんた誰?」
「水沢詩音、国際コミュニケーション学科の一年だけど」
「ああ、どこかで見かけたことがある気がしたわ。これって、ナンパじゃないわよね?」
「ち、違うよ。僕、彼女がいるから……」
「あっそう。私は英米語学科一年の宮田節子よ。水沢君は早瀬美玖のファンなんだね。どんな映画のエキストラ?」
「『黄色い蕾』という映画で、早瀬美玖は高校生の役だよ。共演は杉内数馬だから学園恋愛ものじゃないかと思うんだけど、ストーリーは発表されていないんだ」
「早瀬美玖と杉内数馬という配役だけで観客を集めようという安易なラブコメなのかもね」
「違うよ! 早瀬美玖は可愛いだけじゃなくて女優としての演技力も抜群なんだよ! そんな安易な映画なら出演を引き受けたりしないよ」
「分かった分かった。ムキにならないで」
心理学の講義が始まったので宮田節子との会話はそこまでで終わった。
講義が終わった後、大学構内で会う人ごとに「早瀬美玖の映画にエキストラで出演することになった」と言いまくった。社交辞令で「よかったね、おめでとう」と言ってくれる人は多かったが、僕が期待していた「羨ましい」という感じの反応は得られなかった。うちの大学は四人に三人が女子なので「杉内数馬の映画」と言えば、もっとポジティブな反応があったかもしれないが、僕のプライドとして、杉内数馬をネタに友達の関心を集める気はなかった。
翌日の金曜日の朝、参加要領がメールで届いた。集合場所はJR市川駅から徒歩二十五分の撮影場所に自分で行くか、市川駅近くの指定場所でバスにピックアップしてもらうかのいずれかということで、地図のリンクが示されていた。服装は出来る限り高校の制服、不可能な場合は高校生らしい服装、と書いてあった。
僕の高校の制服は福島の実家に置いてあり、今から送ってもらっても間に合わないので、ジーンズパンツにセーターを着て行くことにした。幸子は高校の制服で来ると言っていた。
土曜日の午前七時半、紺の上着にプリーツスカート姿の長尾幸子と市川駅の改札で落ち合い、指定場所に行くと、既に二、三十人が集まっていた。高校の制服を着ている人が四分の三程度、他は僕と同じようなラフな服装だったが、ひいき目に見ても二十代後半にしか見えない人も混じっていた。
バスが間もなく来て、僕は幸子と一緒にバスに乗った。
普段はスリムパンツのボーイッシュな服装が多い幸子だが、今日は別人に見えた。膝が隠れる長さのプリーツスカートをはいている幸子は、僕が高校時代に秘かに憧れていた吉田美香を思い出させた。高校時代にタイムスリップしたような気がして、バスが揺れて幸子と肩が触れ合うたびに鼓動が高まった。
幸子とは入学直後の学内の飲み会で知り合った。同じクラスの男子から『参加予定者十二人のうち男子は二、三人だからキャバクラ状態だぞ』と言って誘われ、実際に行ってみたら男子は僕を含めて三人だったので『やったあ、キャバクラだ!』と胸が高鳴った。
ところが、女子にはキャバ嬢役で来たという意識の人は一人もいなかった。僕以外の男子二人も押しが強いタイプではなく、女子の話題でガンガン盛り上がる中、僕たちは控えめに話を合わせるか、女子からの質問には防戦一方だった。
元々女子の方が口数が多いが、特に弁の立つ女子が二、三人居て、その人たちが中心になって、時々僕たちが耳の付け根まで真っ赤になるような質問を浴びせかけられた。確かにキャバクラ状態の飲み会だったが、僕たち三人はキャバ嬢の側の立場になってしまった。
可愛い女の子を探して仲良くなるつもりで言ったのに、女子の外観を鑑賞したり評価するどころではなく、女子たちから評価される方の立場に置かれて、委縮した。
自分が女子から見ていじりやすいタイプだと自覚したのは、その飲み会が初めてだった。というのは、他の二人の男子を合わせたよりも多くの質問が僕に浴びせかけられたし、他の二人は僕ほど真っ赤にはなっていなかったからだ。
僕が女子たちの質問にたじたじとして立ち往生しかけると、決まって幸子が助け舟になるような発言をしてくれた。それが、僕が幸子を意識したきっかけだった。もしあの飲み会に幸子がいなかったら、と思うと今でも冷汗が出る。
その飲み会以降、僕は大学構内で幸子を見かけると近づくようになった。そこにオアシスがあるような気がしたからだ。もし幸子が相当なブスでも同じような間柄になっただろうと思う。美醜とは全く関係のない理由で、僕は幸子を選んだのだった。
今、女子高生姿の幸子を見て、もう一つの出会いが始まったと実感した。この女子高生は顔も、スタイルも、雰囲気も最高だ。同じクラスだったら、一目で恋に陥っただろうと思う。自分の彼女がこれほどの美人だったことが分かってラッキーだと思った。
バスは十分ほどで目的地に着いた。
バスを降りると、係員に誘導されて土手の方に歩いて行った。
驚いたことに、そこには既に四、五十人の高校生風の人たちが集まっていた。バスで来たのが約四十人だから、エキストラの数は全部で八、九十名ということになる。
「歩いて来た人が大勢いたのね。近所に住んでいる高校生がこぞって応募したのかもしれないわ」
「募集広告には『十名から二十名程度』と書いてあったから、早瀬美玖が僕を見てくれるかもしれないと思ったのに、百人近くも居たら、絶対気づいてくれないよね。ガッカリだ」
「例え十人でも、早瀬美玖の方から意識してエキストラの顔を見たり覚えたりするはずがないでしょ。詩音の方から早瀬美玖の実物を見られるだけで御の字よ。それにしても杉内数馬と早瀬美玖の姿が見えないわよね」
僕はさっきから必死で探していたが、早瀬美玖らしい姿はどこにも見当たらなかった。
「エキストラの皆さん、こちらにお集まりください」
メガホンを持った男性と、二、三人のスタッフが立っていた。僕たちはその人たちの辺りへと移動した。
「本日はボランティア・エキストラに応募していただきありがとうございました。私は助監督の森と申します。募集広告に『小さな謝礼品を差し上げる』と書きましたが、これから配布します。謝礼品はこのカードです」
助監督は名刺のようなカードを持った手を頭の上にかざした。
「プレゼントは早瀬美玖と杉内数馬のスマホ待ち受け画面用の画像です。カードにプリントされたQRコードを読み取ってダウンロードしてください」
僕は「やったあ」と思った。周囲からは喜びの声と「たったそれだけかよ」とがっかりした声が入り混じって聞えた。
「皆さんは『その他大勢』の役になりますが、同級生の役で若干名のエキストラが必要なので、まず一次選考させていただきます」
――もし選ばれたら早瀬美玖のすぐ近くに行ける!
周囲の人たちも僕と同じことを考え、ざわついた。
「ここに一列に並んで、謝礼品のカードを受け取ってください。その際に、指名された人は、この辺りに残ってください。一次選考で残った人の中から若干名を最終的に指名させていただきます」
助監督の前に列ができ、僕と幸子は真ん中より少し後ろに並んだ。一人一人にカードが手渡され、何人かに一人が「はい、あなた」と言われて助監督の左側に残り、指名されなかった人は落胆した表情で元居た場所に戻って行った。
僕らの番が近づいた。見ていると助監督一人の判断で選んでいるのではなく、助監督の左側に立っている四十絡みの男性、右側の三十才前後の女性が言葉を交わして選んでいるようだ。
一次選考には気軽に選ばれても、二次選考は厳しいだろうから、仮に残ってもぬか喜びはできないなと思った。
僕の番が来た。心臓がパンクしそうなほど音を立てている。
助監督の前に立ってカードを受け取った。左側の男性が「いいね」と言って、右側の女性も「OK」と言った。助監督から「キミ、残って」と言われて、僕は一次選考を通った人たちの群れに加わった。
僕の後に並んでいた幸子もOKをもらって、僕の所に来た。
「やったね!」とハイタッチした。
最後の人がカードを受け取り、八、九十人のエキストラたちは、幸せな表情の約二十人と、がっかりした表情の六、七十人の二つの群れに分かれた。
助監督の指示で、男女に分かれて身長順に横一列に整列した。男子は十一名で僕は小さい方から二人目だった。女子は九名で、合計二十人が一次選考を通過したことになる。
女子の列の背の高い方から順に審査が開始された。審査といっても、一人当たり十秒ほどの目視だけの審査だ。助監督たち三人は殆ど言葉を交わさずに目配せで合意に達するようで、「一歩前に出てください」と言われた人は「はい」と表情を輝かせて足を踏み出した。
残念ながら幸子は一歩前に出るようには言われなかった。女子で選ばれたのは三名だけだった。
男子は僕の番が来るまでに既に五人が選ばれてしまったので、多分ダメだろうと思った。幸子が落ちて僕だけ受かるよりは、一緒に落ちた方がいいかもしれないと思った。
予想通り、僕は選ばれなかった。
「最終選考が完了しました。一歩前に出た八名の方は、一般エキストラの方へとお戻りください。残った男女六名ずつ、合計十二名の方は篠塚さんの指示に従って、更衣室に行ってください」
一歩前に出ていた八人は気の毒なほど落胆した表情でその他大勢の群れへと戻って行った。
「どうして一歩下がらせなかったんだろう? 一歩前に出ろと言われたら誰だって合格したと思うよね。期待させておいて梯子を外すようなやり方はよくないよ」
と、もし幸子が横にいれば僕は言うはずだった。
助監督が「篠塚さん」と呼んだのは横に立っていたアラサーの女性のことで、僕たち十二名は篠塚の後について歩いた。僕と幸子は自然に一緒になって並んで歩いた。友達どうしで来て二人とも最終選考に残ったのは僕たちだけのようだった。
篠塚に連れて行かれた「更衣室」は簡易テントで設営された男女別の小屋で、僕たち男性六人は紺色のジャージーの上下を手渡されて着替えた。
幸子たち六人の女子はえんじ色のジャージー姿で更衣室から出てきた。高校時代にタイムスリップしたような妙な気持ちになった。
「それでは皆さん、これから撮影現場にご案内します。杉内数馬さんと早瀬美玖さんが所属するリズムダンス・チームが、荒川区予選に出場するシーンです。近隣の高校生たちがラフな格好で観戦しています。皆さんは、杉内数馬さんたちの前にパフォーマンスを終えた、他校の生徒たちです。杉内数馬さんたちが並んでいる横に帰って来てすれ違うシーンを撮影します。すれ違いざまに杉内数馬さん、早瀬美玖さんの方を見ないように、自然に前を向いて歩いてください」
エキストラの中から一次選考を経て十二名が選ばれたのが、たった数秒のすれ違いのシーンのためだと分かってがっかりした。まあ、一瞬とはいえ早瀬美玖と数十センチの距離まで接近できる。一般エキストラは十メートル以内に近づくことはできないだろうから、確かに選ばれただけの価値はあるのだが……。
撮影場所まで歩いて行くと、一般エキストラたちは審査員席に近い土手に集まっていた。助監督が一般エキストラの前に立ち、メガホンで「私が左手を上げたら歓声を上げてください」などと言って練習させているところだった。
そこから二、三十メートル離れた場所に出場者の出入り口があり、僕たち十二人はパフォーマンスを終えて出場者出口まで戻る練習を四、五回させられた。しばらくすると、更衣室の方向から杉内数馬、早瀬美玖を含む十名がジャージー姿で歩いて来た。
一般エキストラたちから大歓声が上がった。助監督に言われて歓声の練習をしていた時とは違う、本物の歓声だった。
早瀬美玖たちは僕たちのすぐ近くを通って出場者出入り口まで歩いて行き、スタッフの指示に従って整列した。
監督が早瀬美玖達に指示をして、リハーサルが始まった。カメラは右斜め前の方向から十人を狙っている。
「テイク・ワン」
という声が掛かり、撮影がスタートした。出場を待つ十人の生徒たちの緊張した表情をカメラが捕らえる。
何度か撮り直しをしてOKが出た。次は僕たちが帰って来てすれ違うシーンだ。僕たちはグラウンドから出場者出入り口を目指して歩き、杉内数馬たちの右側を通ってすれ違う。
僕は今まで杉内数馬には全く興味が無かったが、実際に大スターを目の前にすると胸がドキドキした。
「デカッ!」
こんなに背が高かったのか……。すれ違う時に、思わず杉内数馬の顔を見上げた。
「カーット!」
と監督が声を上げた。
「そこの小柄な男子! すれ違いざまにスターの顔を見るな!」
僕のせいだった。僕は監督に「すみません」とお辞儀をして、グラウンドの方へと引き返した。
二回目の撮影が始まった。巨大な杉内数馬の顔を見上げずに通り過ぎたが、早瀬美玖の横を通る時、ついチラッと見てしまった。早瀬美玖の左ひじと僕の左ひじの距離はほんの十センチほどだった。今まで生きていてよかったと思った。
「カーット! 撮り直しだ! さっきと同じ小柄な男子、すれちがいざまに早瀬美玖の顔を見ただろう!」
僕は「すみませんでした」と深くお辞儀をして謝った。
三回目の撮影になり、さすがの僕もまっすぐ前を向いてスターたちの横を通り過ぎた。
「さっきの小柄な男子を抜きで撮り直しだ」
「僕、今度は誰の顔も見ませんでしたよ!」
「男女五人ずつの十名にして撮り直す。女子は前から三番目の人、抜けてくれ」
それは長尾幸子の事だった。結局、四回目は僕と幸子が抜けて撮り直し、一発でOKになった。
「バカ、詩音が杉内数馬と早瀬美玖の顔を見たお陰で、私まで除外されちゃったじゃないの。あーあ、十二人に選ばれなけば観衆役で映画に出られたのに、全く映らなくなったのよ。どうしてくれるの!」
「ゴメン、でも、三回目の時にはまっすぐ前を向いて歩いたんだけどなあ……」
幸子の剣幕に、僕はすっかりしょげて涙目でうつむいた。
「泣くな! 男でしょう。まあ、杉内数馬を至近距離で見られたから、それでよしということにしてあげる。詩音も憧れの早瀬美玖と会えてよかったじゃない」
「幸子、ありがとう。大好き」
と僕は幸子の手を握った。
出入り口のシーンの撮影が終わり、僕は他の十人からの冷ややかな視線を意識しながら、グラウンドでの撮影風景を見学した。
十人のパフォーマンスが見られると楽しみにして見学していたが、グラウンドでの短いシーンを幾つか撮っただけで、撮影は終了した。近くにいたスタッフに幸子が質問した結果、リズムダンスのパフォーマンス自体はまとめて撮影済みだと分かった。
助監督がマイクでエキストラたちにアナウンスした。
「エキストラの皆さま、本日はご協力ありがとうございました。市川駅までのバスは三十分後に発車します。皆さま、お気をつけてお帰り下さい」
「じゃあ、僕たちも着替えてバスに乗ろうか」
篠塚について更衣室に行こうとしたところ、監督からメガホンで呼び止められた。
「ちょっと、キミたち! NG三回の小柄な男子と、そこの女子、ちょっと待ってくれ」
――撮影から外しただけでは気が済まずに、説教をするつもりなのだろうか……。
「監督、お言葉ですが、NGは二回だけですよ。三回目はちゃんとやったのに、どうしてダメだったんですか?」
「失礼した。キミが言う通りNGは二回だ」
「それに、皆の前で『小柄な男子』と三回も言うのは失礼だと思いますけど」
「どうして? 『小柄な』とは『悪い』とか『劣った』という意味なのかね? 『可愛い』とか『好ましい』という意味でもあり得るぞ」
「屁理屈みたいに聞こえますけど……」
「キミたち二人に話があるんだ。ちょっと時間をもらえないか?」
「でも、市川駅行きのバスが三十分後に出るので、それに遅れないようにお願いします」
「もし遅れたら車で送るよ」
監督は、森助監督に声をかけ、僕と幸子を含めた四人で、更衣室の近くの大型ワゴン車に入ってドアを閉めた。
「森君が言った通りだった。この二人なら代役に使えるぞ」
「そうでしょう! 本当にグッドタイミングでした」
「さっきカメラアングルで確かめたが、思った以上にいい感じだった」
「代役って何のことですか?」
「実は『ある問題』が起きて、役者二人が降板することになったんだ。その問題の詳細は明日になるまで言えないが、キミたち二人は降板する役者と似ているから白羽の矢を立てたんだ」
「私たち、映画デビューできるんですか!?」
「その通りだ! といってもセリフは少ないが、印象に残る登場人物だ。引き受けてくれるね?」
僕は天にも昇る気持ちだった。何と、早瀬美玖と映画で共演するチャンスが巡ってきたのだ!


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「支配する女」は「女性上司の妻になった男」を読んだ方は購入しないでください

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの新作小説「支配する女」が出版されました。

これは2016年2月に出版された「女性上司の妻になった男」をベースにした本であり、ストーリーは原作と同じですので、原作を読んだ方は購入されないようお願い致します。

Kindle Unlimitedの会員の方は是非もう一度読んであの時の感動を再体験されることをお勧めいたします!

***

主人公の名前は本郷咲良、営業部門に勤務している入社二年目の社員です。本郷の上司の小芝課長代理は学生時代にミス東京の一位を惜しくも逃した長身美女で、三十五才になっても独身で彼氏がいる形跡はありません。実はレズだと言う噂が流れたことがありますが事実無根のようです。

十二才も年上ですが本郷は小芝課長代理に秘かに憧れていました。ある日の夕方、小芝のお供で客先訪問をした帰り道、本郷は小芝から「頼みたいことがある」と言われて食事に誘われます。レストランで頼みごとを聞いて本郷は自分の耳が信じられませんでした。

「明日、富山から両親が上京するの。本郷君に私のフィアンセとして両親に会って欲しいのよ」

小芝の両親との面談は、本郷の人生の軌道を大きく変えることになるのでした。

支配する女

第一章 美しすぎる上司

 うちの会社には七不思議がある。
その一つは公式の七不思議で社長が今年の抱負として年始に披露したものだ。二十年前の創立以来、うちの会社が赤字になったことは三回だけだが、赤字の翌年は必ず記録的な黒字を達成したそうだ。「これは当社の七不思議であり、業界では都市伝説とも言われている」と社長は胸を張って全社員を鼓舞した。社員の二十人に十九人は「なあんだ、つまんない」と思ったはずだが表情には出さずに黙って聞いていた。
七不思議の中でも非公式な不思議には結構興味深いものがある。その代表が僕が所属する部の小芝怜央(こしばれお)に関する不思議だった。小芝は超一流大学卒で学生時代にミス東京の一位を惜しくも逃したことがあるスーパー美女だ。バドミントンでインターハイに出たというから、まさに文武両道といえる。三十五才になっても独身で浮いた噂は全く無いし、過去に社内外に彼氏がいた形跡も無いらしい。百七十三センチの長身でもあり、男性が気後れして声をかけにくいという不利があるのかもしれないが、性格は明るくサッパリとしていて非の打ち所がない。しかも営業成績は群を抜いており、TOEICも九百二十点で、近々最年少で課長かニューヨークの部長になるのではないかと噂されている。
小芝怜央にはレズビアン説も流れていた。性格の良い美人に男っ気が無い原因としてレズビアン説には説得力があるが、小芝が女性と付き合っているとか、うちの会社の女子社員が小芝に誘われたという形跡は全くない。
運輸管理部の吉澤美津子という三十代前半の女性が「忘年会の後で小芝さんとカラオケに行った時に肩に手を回されてドキッとしたことがあったわ。小芝さんってレズっ気があるんじゃないかしら」と言っているのがレズビアン説の発信源らしい。しかし吉澤美津子はBLコミックのファンで長身美女に憧れている亜流腐女子という噂がある。吉澤の顔と名前が結びつく人は「あれは吉澤さんが夢を語っているだけだ。小芝さんがレズなら他の女性を誘うだろう」と言っている。レズビアン説がガセであることはうちの部の人なら誰でも分かっていた。
僕はそんな清廉潔白な小芝が課長代理をしている海外営業第二課の入社二年目の総合職社員だ。小芝のアシスタントのような立場であり、去年までは社内で勉強をしながらもっぱら電話番をしていたが、二年目になって小芝の客先訪問にも連れて行ってもらえるようになった。
「本郷君、良かったわね。頑張って行って来てね」
僕が初めて小芝に連れられて客先訪問することになった時、小芝と同期入社で海外営業第二課の一般職をしている柳原浅子に励まされた。柳原はうちの課でお姉さんというよりはお母さんのような存在で、僕は入社した時からずっと柳原に可愛がられている。
営業第二課の総合職は五十才の温厚な能上課長、小芝課長代理、二十八才の毒島五郎、二年目で二十三才の僕と、四月に入社したばかりの藤丘慶子の五名だ。藤丘慶子は一浪で十月生まれだから実年齢は僕より五ヶ月上だ。小芝と同じ超一流大学卒で小芝並みの長身だ。中学から高校にかけて親の転勤の関係でニューヨークに住んでいたらしく英語力は小芝にも負けないらしい。慶子は一年上の僕に対して少なくとも表面的には敬意を払って敬語で話してくれるが、小芝が僕と慶子を連れて客先を訪問する時とか、エレベーターに三人で乗ったり、立ち話をする時には、十センチも身長が高い小芝と慶子が僕の頭越しに話をするので僕は居たたまれない気持ちになることが多い。
ある日、小芝と僕の二人で午後四時に渋谷の客先を訪問し、五時半ごろに客先のオフィスを出た。小芝が「今日は帰社せずに、直帰しようか」と僕に言ってから課長にその旨電話した。
「本郷君、これから空いてる? たまには晩メシでもご馳走するわ」
「はいっ、ありがとうございます」
上司と言っても小芝はミス東京クラスの抜群の美人だ。そんな女性と一対一で食事できるなんて夢ではないかと思った。
小芝が連れて行ってくれたのはイタリアン風のワインレストランだった。
赤のハウスワインのデカンタと「今日のお勧めアンティパスト」がテーブルに届いて、とりあえず乾杯した。仕事を離れて向かい合う小芝には普段とは違う魅力が感じられて、何も言葉を交わさなくても胸がドキドキした。
「本郷君、今日は折り入ってキミに相談があるの。個人的なことなんだけど聞いてくれる?」
突然そんなことを言われて天にも昇る気持ちだった。
「何でしょう。小芝さんから個人的な相談を受けるなんて光栄です。ご遠慮なくおっしゃってください」
「ありがとう。じゃあ、言い難いけど言うわね。実は、明日、富山から両親が上京するの。本郷君に私のフィアンセとして両親に会って欲しいのよ」
僕は驚きの余り椅子からずれ落ちそうになった。頭に血が上って、こめかみにドクドクと脈が打つのが感じられた。
「も、もしかして、それはプロポーズなんでしょうか」
僕は胸の高鳴りを押さえながら小芝の目を見て聞いた。小芝は僕の真剣な表情に気づき、大きな目で僕を見た。徐々に小芝の表情が緩んできて微笑を湛えた表情になった。次の瞬間、小芝は「プッ」と吹き出した。
「ごめん。説明不足だったわね。プロポーズじゃないのよ。実は、私の両親は私が三五才になっても彼氏の気配もないことを心配して時々見合い写真を送って来るんだけど、私が全く興味を示さないから、私はレズじゃないかと心配しているのよ。しょっちゅう電話がかかって来てうるさくて仕方ないの。だから、本郷君が去年入社してから付き合い始めて、最近結婚の約束をしたということにして両親に紹介したいのよ。ね、いいでしょう?」
「小芝さんの婚約者の役なら光栄ですけど、本当に僕なんかで良いんですか? もっと年齢が近くて、背の高い人じゃないと、ご両親も本気にしないと思いますけど」
「私は昔から年下で可愛い系の男子が好きで、両親もそれはよく分かっているのよ。だから両親が送ってくる見合いの話も、その手の男性が多いんだけど、レベルが低すぎてお話しにならないの。レベルが数段違う本郷君を両親に見せれば、私が何故これまでの見合いを断ってきたが一目瞭然だから、当分静かになると思うわ」
「レベルが数段違うだなんて……」
僕は恥ずかしさと誇らしさで自分の顔が紅潮するのが分かった。
「やってくれるのね?」
元気に「はい」と答えて大きく頷いた。テレビドラマや小説の世界なら、こんな経緯で婚約者の代役を引き受けた場合には、それがキッカケで恋が芽生えたり、結婚することになるというのが最もよくあるパターンだ。僕にもチャンスが回って来たぞ、と思った。
小芝はテーブルの上で僕の両手を掴んで「ありがとう、恩に着るわ」と言った。
会社では駆け出しの僕が、十二歳も年上のエリート上司と恋に落ちる、ということには若干の不安要因が残ることが否定できない。普通に考えると僕と小芝ではどう見ても恋人同士として釣り合わない。身長は小芝の方が十センチも大きい。もし僕たちが付き合っていることが会社の人に知られたら逆転カップルと噂されるのは確実で、僕は婦唱夫随願望とか、専業主夫志望とか、倒錯チビなどと言われて後ろ指を指されるのがオチだ。結婚しても僕が小芝にタメ口をきくことは考えられないから、一生敬語で話すことになるだろう。でも僕は耐えられる。背の高い女性は僕の憧れだし、こんな美人と一緒になれれば実家の両親や高校時代の友達に対しても自慢できる。
小芝と一緒の夢のような時間はあっという間に過ぎた。
「両親とはこのレストランで集合する約束なの。一緒に来るところを見せたいから、先に私のアパートに来てくれる? 私のアパートで一緒に入念なリハーサルをしておきたいから、午前十時ごろ来てくれるとありがたいわ。土曜日に早起きさせて申し訳ないけど十時でもいいかな?」
「勿論です。午前七時でも八時でも大丈夫ですよ」
「じゃあ十時に来てね。私のアパートの場所はグーグルマップのリンクを送っておくわね」
小芝が勘定を済ませてくれた。女性と食事をして全額払ってもらうのは生まれて初めてだった。いくら収入に二倍の開きがあっても、一緒に食事をして小芝に払ってもらっていいのだろうか? でも小芝は自分が払うのが当たり前のように振舞っていた。もしこの話が発展して今度は恋人としてデートをしようということになったら、少なくとも割り勘で払いたいと意思表示をすべきかなと思った。
満たされた気持ちでアパートに帰り、翌日の仮想デートを楽しみにしながら眠りについた。


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