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新作「失われたアイデンティティー」を出版しました

桜沢ゆうの新作小説「失われたアイデンティティー」を出版しました。MTFのストーリーですが、分類的にはTS小説というよりは一般小説になると思います。

主人公の間宮孝太郎はアラフォーのエリート商社マンで本社の課長をしています。七月五日に間宮の課に派遣された綾瀬レイナは表紙カバー画像のような感じの二十三才の女性です。

間宮の目にはアンバランスで場違いな感じのする美人という印象でした。重めの前髪が目の上ギリギリでぱっつんに切られており本来キュートな髪形のはずですが、大人っぽ過ぎる物憂い表情によって相殺されて、人を寄せ付けないオーラが漂っています。

派遣開始の翌日の夕方、課の歓送会がありました。主人公は対面の席に座った彼女と会話を弾ませ、彼女も間宮に心を開いたかに見えました。

お酒の回った間宮だったが、酔った彼女をタクシーで家まで送る役割を引き受けることになります。アパートの玄関のドアの前までのはずが、彼女の誘いに乗って部屋に入りました。

それは間宮にとって小さな過ちでしたが、この僅かな気のゆるみのお陰で間宮は驚天動地の世界を経験することになるのでした。

物語はワールドカップのベルギー戦の朝に始まり、隅田川の花火大会が予定されていた日(台風で翌日に延期されたので花火大会が開催された前日)に終わります。それは私が実際にこの小説を書いた期間とピタリ一致しています。短期間の展開ですがぎっしりと詰まった小説です。思いを込めて書きました。



失われたアイデンティティー
第一章 危険な派遣社員

 いつになく浮沈の激しい日だった。

午前三時にキックオフしたワールドカップのベルギー戦の録画を、五時起きで見た。二対ゼロになって有頂天になっていたら、ベルギーの左からのふわっとしたヘディングがキーパーの頭を超えて入った。間もなく二点目が入り、終了間際に三点目を入れられて負けてしまった。

もし三点目が入らず延長戦になっていたら、スマホのニュースを電車の中で見て結果を知る羽目になっていたところだった。録画を最後まで見たら会社に遅れるからだ。負けたおかげで私は部下たちに午前三時からリアルタイムで観戦したふりをすることができる。

そんなことを考える自分はせこいなと思いながら出勤し、パソコンを立ち上げると、部下の花村純子から
「お話したいことがあります。お時間いただけますでしょうか」
という短いメールが入っていた。

花村純子は短大卒で入社二年目の一般職社員だが、フロアで最も人気がある女性だ。美人ランキングがあるわけではなく私の主観による順位だが、ショートボブがよく似合う小顔でセンスの良い女性で、愛想が良いだけでなくちょっとした会話がウィットに富んでいる。去年の暮れの部の飲み会で隣の課の男性社員から好きなタイプの男性について質問された際に「うちの課長みたいな人」と答えていたのが漏れ聞こえて心が躍った。純子は私に聞こえるのを承知の上でそう言ったのだと思った。計算高いのではなく、わざとそんな手法で気持ちを伝える能力を持つ女性だった。

会議室管理システムで一時間後の午前十時からの小会議室の予約を入力し、自動通知で純子に知らせた。純子はパソコンの画面から目を上げ、一瞬私に顔を向けて微笑んだ。お互いの意思が通じた瞬間だった。純子からのメールにわざわざ返信するのは無粋だと思ったので返信はしなかった。

純子は私に何を話したいのだろう? 職務上の不満、他の課員とのトラブル、先輩社員からのハラスメントの訴え……。もし「好きです」と告白されたらどうしよう。私のような男性がタイプだと言っていたことだし、二十才の年令差は決定的な障害にはならない。しかし不倫はまずい。課長が自分の娘のような年令の部下と関係を持ったことが露見したら私のサラリーマン生命は危機に晒されるだろう。結構いい関係を保ってきた妻を裏切ることにも良心の呵責を感じる。

早めに会議室に行き、不安と期待が交錯する胸の内を表情に出さないようにと深呼吸をしていた時に花村純子が入ってきた。

「ベルギー戦は見られました?」
と言いながら純子は私の向かい側の席に座った。

「勿論。昨日の夜は十時に寝て、今朝早起きして見たよ」
三時に起きて実況を見たと純子は受け取ったかもしれないが、私はそうは言っていないから嘘をついたわけではない。

「私は渋谷のパブリックビューイングに行ったから一睡もしてないんです。惜しかったですよね」

乾のシュートについて解説しようかとも思ったが、サッカーの技術論を振りかざしても、純子なら興味があるフリをして私に合わせてくれるだろうが、好感度にはつながらないと判断した。それよりも、純子が誰とパブリックビューイングに行ったかが気になった。

「いい試合だっただけに悔しいよね。一緒に行った人も悔しがっていただろう?」

「あら、課長。男性じゃないですよ。アッちゃんと二人で行ったんですぅ」
と、純子は私の嫉妬を見抜いたかのように意地悪な微笑を浮かべて答えた。

「ああ、君のところによく来る、経理のアツコさんね」
私は何気ない表情で平静を装う。

「今日お話ししたかったのはワールドカップの事じゃなくて……」

「あ、そうだったね。気兼ねしないで何でも言ってくれ」

数秒間の沈黙の後、純子は私の目をじっと見ていたが、真剣な口調で語り始めた。
「私、すごく悩んだんですけど、ワールドカップの日本代表から勇気をもらって、課長にお話しする決心がつきました」

私の心臓は純子の耳に届くほどの音を立てている。純子は私に告白しようとしているのだ。次の言葉を聞くのが怖かった。

「私、会社を辞めます」

「ええっ!」

自分の耳を疑った。「好きです」ではなく「辞めます」とは!

絶頂まで引っ張り上げられてドスンと落とされた気持ちだった。まるで今朝のベルギー戦と同じだ。

「結婚するのか……」

「うふふ、寿じゃないですぅ。私、彼氏いない歴三ヶ月で、募集中ですよ、課長」

純子は誘惑の視線で私をあしらった。

「じゃあどうして辞めるんだ? パワハラは無いと思うが、セクハラじゃないだろうな?」

パワハラは自分も部下も決してしないように気を配っているので自信があったが、セクハラは被害者本人にしか気づきにくい面があるので心配だった。

「鈴木さんのことですか? あのくらい、どうってことないですよ。あ、これ、鈴木さんには内緒ね」

「辞めたい理由を教えて欲しい」

「会社に不満はありません。快適過ぎるほどです。だから私、冒険したくなったんです。今までとは別なライフスタイルを経験したいというか……。課長もそんな気持ちになったことってありません?」

それは分からないでもない。何もかも捨てて純子と駆け落ちをするとか……。

「会社に勤めながら、アフターファイブや休日に冒険することも可能じゃないか。そうだ、五日間連続の夏休みを取って前後に土日をくっつければ九連休になるぞ」

「九日間が終わったら、元の生活に戻るというのではダメなんです。例えば香港の家庭に住み込みのメイドとして働こうと思ったら、一年は欲しいですよね」

「香港で住み込みのメイドだって? フィリピン人の出稼ぎ女性みたいに? 大事に育てられた日本人のお嬢さんに出来る仕事じゃないと思うよ」

「香港人の奥さんから住み込みの女中として見下されてプライドをズタズタにされて働く……。会社を辞めないとそんな経験ってできないじゃないですか。いえ、これは一つの例えであって、実際に香港に行くつもりはないですよ。とにかく今までとは違う日常を体験したいんです」

まるで子供だ……。ナイーヴというか、幼稚と言うか、まだ社会人になり切れていないのだ。子供を相手にする場合、頭ごなしに否定するのは逆効果であり、やんわりと翻意を促すしかないと思った。

「ご両親も心配されるんじゃないかな」

「親には今夜話します。今朝ベルギー戦を見て渋谷で決心した後、まだ家には帰っていませんから。親はどちらかというと私のすることには理解がある方ですから、何たらかんたら言った後でサポートしてくれるはずです」

こんな娘を持つと親も大変だろうと思った。

「君の気持ちは分かったが、ご両親とか友達とか、よく相談してから最終決断した方がいいと思うよ」

「あ、退職届はさっき勤務システムに入力しておきましたので、人事部にはもうコピーが行っています。課長と部長が承認をクリックしたら手続きが完了するはずです。ボーナス月の退職で恐縮ですけど、引継ぎ期間と有休残の消化を考えて七月末退職ということで」

顔には出さなかったが私の心はポキッと音を立てて折れた。あまりにも冷淡な最後通告だった。

「じゃあ課長、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんがよろしくお願いします」
と言って花村純子は会議室から出て行った。

私はしばらく立ち上がる気力がなかった。ベルギー戦と同じくらい、いやもっと取り返しがつかない種類の喪失感だった。

しかし、ぼやぼやしてはいられない。入社二年目の一般職といっても定型業務を引き継ぐには少なくとも一週間はかかるだろう。補充要員の確保が喫緊の課題だ。私は会議室の電話機から人事課長のアポを取って人事部に出向き、事情を説明して人員補充の要請をした。

「残念ながら現時点で異動させられそうな一般職女性は居ませんね。定年延長の高年男性で良ければ二、三人ほど心当たりがあるんですが……」

「それは勘弁してください。二十才の女の子の代わりに六十を超えたオジサンが来たら若手男子社員の労働意欲が急低下します。それに営業部門で中高年男性がお茶出しをしたらお客さんが逃げてしまいます」

「そういうことなら当面は派遣で凌いで、来年四月に新卒一般職を補充するしかないでしょうね」

「そうですか。じゃあ、派遣の手配をお願いします。できれば若い美人を」

「間宮さん、一般事務の派遣を依頼する際に『若い美人』という条件は付けられません。人事部の基準によって派遣を手配しますのでお任せいただくことになります。まあ、今回は急ぎということなので多くは期待しないでください」

「部下たちの勤労意欲のためです。何とかよろしくお願いします」
と、もう一押ししておいた。

***

翌日の午後、人事課長から「派遣社員の件」というタイトルのメールが入った。

「通常は少なくとも一週間のリードタイムが必要ですが、たまたますぐに勤務可能な人材が見つかり、今朝面談を実施した結果適切と判断したので、明日から派遣開始となりました。プロフィールを添付します」

メールには綾瀬レイナという女性の写真付きのプロフィールが添付されていた。派遣会社のフォームのプロフィールであり、生年月日や学歴など、通常の履歴書に書かれている内容は記載されていなかった。写真は冴えない表情だったが可もなく不可もなく、二十代前半の普通の女性という印象だった。私と部下の男性の勤労意欲が急低下するようなオバサンでなかったことにほっとしたが、身長体重等の記載はないので、現物を見るまでは何とも言えない。まあ、人事部で面談した上で判断したということなら、極端に態度や愛想が悪いということは無いだろう。

花村純子を呼んで「明日木曜日の朝から派遣社員が来ることになったから引継ぎを始めてくれ」と言ってから、課の全員あてに純子の退職と派遣社員の採用に関するメールを送った。純子ファンだった課長代理の鈴木省一は「本当ですか!」と落胆の呻きを上げたが、他の課員は純子が退職することについて先刻承知の様子だった。

***

七月五日の木曜日、私は期待に胸を膨らませて出社した。九時半に人事課長が若い女性を連れて部屋に入って来たのを見て、私は息を飲んだ。

私の左前方の席の鈴木課長代理はポカンと口を開けて虚ろな目を彼女に向けている。彼女が目に入る位置に座っている男性の表情は多かれ少なかれ鈴木と同様だった。彼女は部屋全体の雰囲気を白けさせるような種類の女性だった。二十二、三才で百六十三センチ程度のスラリとした美人だが、何かアンバランスで場違いな感じがする美しさだった。目の上ギリギリで切りそろえられた重めの前髪が醸し出すはずのキュートさが、大人っぽ過ぎる物憂い表情によって相殺されていた。彼女が放つ人を寄せ付けないオーラが私を不安にさせた。

「間宮課長、こちらが派遣の綾瀬レイナさんです」
人事課長がそう言って彼女を私に引き渡してから「文句ないでしょう?」と言わんばかりにニヤリとした目で私を見て立ち去った。

「綾瀬レイナと申します。よろしくお願いいたします」
と、投げやりな雰囲気でその美人はお辞儀をした。裾の部分だけ軽くウェーブがかかったロングヘアが前に揺れる。染めているのか地色なのか判断できない茶色がかった髪だ。

「課長の間宮孝太郎です」
と自己紹介をしてから課員の一人一人を紹介し、私から一番離れた席に座っている花村純子の向かい側の席に綾瀬レイナを座らせた。

私が席に戻ると課長代理の鈴木がヒソヒソ声で私に聞いた。

「課長、あんな美人をどうやって連れて来たんですか!?」

「まあ、色々あってね」
と私は思わせぶりに答えた。

「歓迎会をやらなきゃ。課長のご都合の悪い日を先に教えてください」

「私の予定は全てオンラインのスケジュラーにインプットしてあるが来週の水曜日以外は特に予定は入っていない。ただ、派遣社員の場合、五時半以降は拘束できないし、飲み会の費用の負担を求めるのも色々問題が……」

「そこらへんは心得てますよ。うまく話しますから僕に任せておいてください」

「くれぐれも無理強いをしないように頼むよ……」

***

花村純子と綾瀬レイナはうまくやっているようだった。アイドル的な可愛い子がタイプの違った美人と火花を散らさないかと懸念したが、杞憂だった。純子にすれば短期間の付き合いだし、レイナは大人だからなのだろう。

純子はレイナを他部門の担当者に後任として引き合わせるために社内を回り始めたが、私は内心誇らしい気持ちだった。というのは、純子は他部門の部課長連中にもファンが多く、彼らから私に「アイドルの後任にあんな美人を引っ張って来るとは凄腕ですね!」と言った類いの賛辞が寄せられたからだ。

五時を回った頃、鈴木課長代理から課の全員あてに綾瀬レイナの歓迎会の案内のメールが送られた。翌日金曜日の午後六時から近くのインド料理店で開催するとのことだった。

「新人女性の歓迎会がインド料理というのは珍しいね」

「綾瀬さんに何が食べたいかと聞いたら、スパイシーなものが好きとのことだったのでインド料理にしました。ちなみに、綾瀬さんからは会費を徴収しないことになっています」

鈴木は仕事に関しては頭が固い傾向があるのだが、私と違ってこの手の飲み会をアレンジする能力が高いことには感心させられることがある。

***

金曜日は普段より十分ほど早く出勤した。いつも会社の近くのコーヒーショップで日経新聞の電子版を読んだり海外の金融市場の動きをチェックしてから出勤するのだが、今日はつい早めにコーヒーショップを出てしまった。会社に行けば綾瀬レイナと会えるという気持ちで年甲斐もなくドキドキしている自分に気づいて失笑した。去年花村純子が入社して私の課に配属になった時も会社に来るのが楽しくなったが、その時の気持ちとは違う、焦燥感の混じった憧れを私は感じていた。

仕事をしていてもつい目を上げてレイナの顔をチラチラと見てしまう。これではいけない、我慢しようと思うほど、私の視線は勝手にレイナに吸い寄せられた。レイナには他の女性には無い特徴があった。それは表情を変えないということだった。昨日は初めての職場だから緊張しているのだろうと思っていたが、そうではないことに気づいた。表情には余裕があり、おじおじした様子は全くない。きつい目をしているわけではないが、私の見る限り一度も笑わなかった。

ただ、純子とレイナの席は私から三列離れた末席であり、私はかなり離れた場所から横斜め顔を見ているにすぎないので断言はできない。仕事中は仕事に集中し、オフになれば喜怒哀楽を顔に出す女性も居ないわけではない。見えない所では純子と笑顔で話しているのかもしれないと期待した。

待ちわびた夕方になり、レイナは五時半に席を立ったが、私は他の男性課員と一緒に六時十分前に席を立ってインド料理店へと向かった。インド料理店に行くと十人掛けのテーブルが予約されており、鈴木の計らいで私はレイナの対面の中央の席に座ることになった。

黒いフレンチ袖のカットソーのTシャツの上に、黒地に白い花柄が透けて見えるオーガンジーのスカートをはいたレイナは、会社での制服姿と違って、奔放さを匂わせる大人っぽい雰囲気が感じられた。表情にも余裕と隙が見える気がした。

「綾瀬さんは怖いタイプの美人かなと思ったけど、そうでもなさそうだから安心したよ」
と、乾杯の後で鈴木がレイナに言った。やはり鈴木も私と同じように感じているのだ。

「『美人』ではないですけど、怖い女というのは当たっているかもしれませんよ」
と、レイナは虚ろな目を鈴木ではなく私に向けて言った。

私は反応を返す必要性を感じて苦し紛れにコメントした。

「他部門の部課長連中から電話がかかって来て『アイドル的美少女の後任にあんな美女を採るとは間宮さんもすごいな』と冷やかされたよ」

レイナから一人置いて奥の席に座っている花村純子が私のコメントに笑顔を返したのが見えてほっとした。大体のところ女の子と飲む時は褒めておけば大失敗はしないものだ。

「私、自分の醜さはよく分かっていますから」
とレイナは、私ではなく鈴木の目を見ながらポツリと言った。

「アハハハ、綾瀬さんが醜いのならこの世の女性は全員がブスということになるよ」
と鈴木が周囲を見回しながら大きな声で言った。その言葉が純子と三十代半ばの総合職の羽田菜緒にかなりの不快感を与えたことを鈴木は気づいていない。

レイナの「自分の醜さ」という言葉が妙に引っかかった。謙遜なら醜いという表現は使わず「きれいではない」とか「他にずっときれいな人がいる」などと、周囲の女性たちの反感を招かない言い方をするものだ。それ以上に、レイナが本気でそう言ったことが表情で分かった。昨日の朝初めてレイナを見た時に感じたアンバランスさや場違い感と相通じるものがあった。

白けた沈黙の後、鈴木が花村純子としゃべり始めたのを横目に、私はレイナの先ほどの発言を受け流すつもりで話しかけた。
「美人だと苦労の方が多いかもしれないね。何とも思っていない男や、嫌いなタイプの男から言い寄られたり、ひどい場合はストーカー被害に遭ったり……。次から次へと近寄られるのを断るのに神経をすり減らすんだろうな」

「課長は女性の気持ちが分かるんですね。以前女性だったことがあるんですか?」

唐突で意外なことを真剣な表情でレイナに言われてうろたえた。

「な、無いよ!」
と答えた後で、そんな質問をまともに受け答えした自分が恥ずかしくなった。

レイナは私の狼狽を面白がって「うふふ」と笑った。レイナと会って初めて目にした笑顔は嫌味や裏の無い無垢なものに感じられた。私も微笑を返した。レイナとの間にあった壁が、霧が引くように消失した。

それからレイナは別人のように優しくなった。私以外の課員に対する受け応えにも若干の変化が見られたが、私に対する態度は一味違うと感じた。企業の管理職として、打ち解けにくい新人の心を開けたのは格別な喜びだった。その新人が美人の女性だっただけに、私は女性を扱うテクニックを他の課長連中に自慢したい気がした。

二時間半があっという間に過ぎた。レイナは自分ではそれほど飲んでいないようだったが飲ませ上手で、私はすっかり酔いが回った。飲み会の間、私は殆どレイナと話をしていた気がする。課長として褒められたことではないが、私とレイナの会話には他の課員たちも適宜加わったし、今日はレイナの歓迎会ということで大目に見てくれるだろう。

勘定は幹事の鈴木に任せて千鳥足でレストランを出た。私の近くに立っていたレイナも脚がふらついているように見えた。

レストランから最後に出てきた鈴木が「花村ちゃん、カラオケ行こうよ」と純子を誘って軽くいなされた。

「綾瀬さんはかなり飲んだみたいですから、課長にお願いしていいですか?」
と鈴木が私と綾瀬に聞こえるように言った。私が綾瀬を気に入っていると思って気を利かせたのか、それとも若い課員と飲みに行くのに私たちが邪魔だと思ったからなのかは不明だった。

最近の世間の風潮だとちょっとしたことでセクハラの嫌疑をかけられかねないので、私は女性を家まで送る役割は御免こうむりたかった。相手が若い美人だとなおさらそうだった。

その時、綾瀬が私に身体を寄せてきた。
「すみません、課長。本当に送っていただいてよろしいんですか?」

私は反射的に「勿論だよ。私は安全な人間だから心配するな」と答え、タクシーを拾ってレイナを乗せた。私も乗ってタクシーのドアが閉まった。

「ええと、綾瀬さんの家は確か東の方だったっけ?」

レイナは「はい」と答えて、深川の住所をドライバーに告げた。タクシーが走り出すとレイナは私に軽く微笑んでから目を閉じた。レイナと言葉を交わさなくてもいい状況になって私はほっとした。二人きりで何を話せばいいか想像がつかなかったからだ。

二十分ほど走ってタクシーは薄暗い集合住宅の前に停車した。その時、レイナが疲れた様子で私に言った。

「すみません、気分が悪いので部屋まで送っていただけないでしょうか」

断れるはずがなかった。タクシー代を払うとレイナに肩を貸してアパートの玄関を通り、エレベーターまで歩いた。レイナの足取りはしっかりしており、肩を貸さなくても大丈夫そうだったが、レイナは私の肩に手を回したまま歩いた。相手が男なら肩か腰を抱きかかえて支えるところだったが、私は手を下に垂らしたままだった。

エレベーターを五階で降りて五〇五号室の玄関ドアの前に立った。玄関の鍵は番号入力式の見慣れない電子ロックだった。レイナが四桁の番号を入力するとカチッとと音がして解錠された。

「じゃあ、ここで失礼するよ」
と言って、私はエレベーターへと引き返そうとした。

「待ってください、課長。お願いですから少しだけお話をさせてください。五分間だけで結構です」

妻以外の女性のアパートに入ったことがなかった。若い女性のアパートで二人っきりになることには、ドキドキするというよりも、戸惑いの方が大きかった。

「お願いします」
ともう一押しされて
「じゃあ、五分間だけ」
と言って部屋に入った。

左右に小さなキッチンと洗面所がある廊下の向こうにリビングルームがあり、奥にベッドルームがあるようだった。私は部屋に入ると右側のソファーを示されて腰を下ろした。二人掛けのラブチェアーのようなソファーだった。

「すぐにコーヒーをいれますね」
と言ってレイナはキッチンに行った。きびきびとした様子で、足取りもしっかりとしている。家まで送って欲しいのは私の方だと思って苦笑した。

部屋を見回して殺風景さに驚いた。緑色のカーテン、シンプル過ぎる安物の家具。夏なのに部屋の隅に火鉢が置いてあった。若くて美しい女性が住んでいる部屋とは到底信じられなかった。女物の服や下着などは一切目に入らない。きっとフェミニンなものは一切合切あのベッドルームに押し込まれているのだろう。ベッドルームのドアを見て、あの向こうはどうなっているのだろうと思ってドキドキした。

レイナはペアーのデザインのマグカップを手に持って戻って来ると、右手に持っていた赤い方のマグカップを私に差し出した。

「コーヒーが切れていたのでココアにしました。ちょっと苦いココアなんですけど」

マグカップはそんなに熱くはなく、すぐに飲めそうだった。

「どうもありがとう。これを飲んだら失礼するから」

レイナは私の右側に腰を下ろし、二人でココアを飲んだ。レイナが身体を少し動かすと腰が触れ合って、私の股間のものがムクムクと大きくなったのが感じられた。早く帰らなければ、と思って、残りのココアを飲み干した。

「私の話を少しだけ聞いてくださいね」
とレイナが私の太股に左手を乗せた。

「もう五分以上経ったから」

「私、死のうと思っていたんです」

「な、なんだって! こんなにきれいなのに、どうして?」

「若い女の子とか、きれいな女の子とか、スタイルがいい女の子とか言って私を褒める人は大勢いましたが、私を一人の人間として正面から見て『きれい』と言ってくれる方は久しぶりでした」

「そ、それは……。ちょっと買いかぶり過ぎかもしれないよ」

「とても勝手な考え方で、課長さんには本当に申し訳ないとは思ったんですけど……」

「ど、どういうこと?」

「私と一緒に死んでください」

マズイ! 私はソファーから跳び起きようとした。

そう思ったが、手足が動かなかった。身体中にしびれを感じて頭が朦朧としてきた。ココアの中に薬物を入れられたのか……。

「課長、ご一緒してくださってありがとうございます」
レイナが私に唇を重ねた。私はソファーに倒れ、レイナの体重を感じながら意識を失った。


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新作「禁断の閉鎖病棟」を出版しました(日英TS文庫)

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの姉妹文庫、日英TS文庫の四冊目となる小説「禁断の閉鎖病棟」を出版しました。これはTSホラー小説です。

これは2016年5月に出版されたYu Sakurazawaの英語小説「Forbidden Asylum」の日本語訳です。Forbidden Asylumは海外TS小説のサイトでも取り上げられたことがあるTSホラー小説です。

主人公は25才の男性で2才上の愛妻が居ます。何不自由なく幸せに暮らしていたのですが、ある日、一人で郊外にドライブした時に高速道路から分岐した田舎道で自動車が動かなくなってしまいます。奥さんに電話して迎えに来てもらおうとするのですが、スマホの電池が切れていたので、どこかで電話を借りようと歩き始めます。しかし、そこは人っ子一人いない荒涼とした地域で、歩いていると大きな菩提樹の陰にある病院に行き当たり、「電話を貸してください」と入っていきます。

ところが、そこは世にも奇妙な病院でした。病院にたった一つしかない電話から奥さんに電話をすることには成功するのですが、それから後は物事が思い通りに進まなくなるのです……。

原題:Forbidden Asylum
原書の副題:Feminized in Insanity
原作者:Yu Sakurazawa

日英TS文庫の前回の作品「過去からの呪文」と同じく(それ以上に)原作に忠実に日本語版を書きました。約四万四千文字なので価格は390円に設定されています。

普段、怖い目にあいたいと思っている読者にとっては、恰好のホラー小説です。

 


禁断の閉鎖病棟
原題:Forbidden Asylum
原書の副題:Feminized in Insanity
原作者:Yu Sakurazawa
日本語版作者:桜沢ゆう

「閉鎖病棟」とは精神科病院の病棟で出入り口が常時施錠され入院患者や面会者が自由に出入りできない病棟を示す言葉で、開放病棟の対語である。

第一章 狂気の事務長
私は夢見心地で高速道路を運転していた。私の愛車、マルチ・スズキのアルト800を運転するのはこの上ない喜びだ。初めて買った車だから愛着があるというだけでなく、マニュアル・シフト車のハンドルを握り、最高のタイミングでクラッチを踏んでギアをシフトして他の車をビューンと追い抜くのは快感としか表現のしようがない。セルリアン・ブルーのアルトは私の感性に呼応して思い通りに動いてくれる。父の遺産を引き継いでいたので、その気になればBMWの5シリーズでもトヨタのSUVでも買えたが、欲しかったのはこのアルトだけだった。

カルナタカ州の旧国道4号、通称NH4は映画の題にもなったことがある趣のある国道だ。郊外に出ると窓の外の景色は退屈な田舎の風景でしかない。まだ朝なのに荒地を走るタールとコンクリートの道路を強い日差しが焼き焦がす。樹木はまばらで五十メートルに一本立っていればまだ良い方だ。でも、大都市バンガロールの気違いじみた喧噪と交通渋滞を逃れ、遠く離れた田舎を一人でぶっ飛ばす気持ちは格別だ。

気持ちよくトップギアで走っていたが、突然車がガクガクっとなった。アクセルを踏んでも反応しなくなり、緊急停止を試みたがブレーキもきかない。必死でハンドルにしがみ付き、何とか路肩に停車して、ほっと胸を撫で下ろした。

ボンネットを開けたが、特に煙や蒸気が噴出しているわけではなく、エンジンオイルをチェックしたところ正常範囲内だった。私は特にメカ音痴ではないが、何をしたらよいか分らず、お手上げだった。子供の時から住み込みの運転手兼メカニックが居る家に育ったので、自動車が故障した場合の対応を学ぶ機会はなかった。

意識しないうちにNH4から分岐する道に入っていたようで、そこは人っ子一人見当たらない荒れ果てた場所だった。車が通れば近くのカーショップまで乗せてもらえるのだが、停車してから十分間、一台の車も通らなかった。

仕方ない。家からはちょっと遠いがディンプルに電話して迎えを頼むことにしよう。ディンプル(えくぼ}は妻の愛称だ。彫りの深い顔に浮かぶ可愛いえくぼ……。私が困っていたらいつも助けに駆け付けてくれる、世界一頼りになる相棒だ。非常にしっかりしていて、家の中では頭が上がらないが、ディンプルの優しい笑顔を思い出すと気持ちが和む。

助手席に置いたバッグからギャラクシーS9を取り出す。

――あっ、電池が切れてる! 警告が出ていたからUSBプラグを挿し込もうと思ったのに、つい忘れていた。困ったぞ……。

まずいことにバッグには小銭入れしか入っていなかった。

車のキーを回すとメーターのランプが点灯したので、停車したままでスマホを充電することは多分可能だろう。後から思うと、そうしていればよかったのだが、二十五才の未熟な私は何もせずに待つことには耐えられず、小銭入れをポケットに入れて車を降り、人気がありそうな方向へと歩き出した。

イバラが生い茂った田舎道をトボトボと歩く。暑い! 日差しが高くなってとにかく暑かった。一キロ近く歩くと、ヒンヤリとした風が流れて来た。近くに川が流れているのだろうか。そのまま歩いていると大きな菩提樹が見えてきた。そして、その菩提樹の向こうに建物が忽然と姿を現した。こんもりとした木に隠れて見えなかった建物が視界に入ったというだけの話なのだが、その時の私にとっては感動の光景だった。

私は子供のようにはしゃいで駆け出した。菩提樹に近づくと背後の建物がはっきりと見えてきた。

それは外壁を白で塗装された建物で、清潔な感じがした。一般の住宅よりはずっと大きいが、大きなビルというほどではない。取り立てて特徴の無い普通の建築物であり、バンガロールには同じ形の建物が何百何千とあるだろう。「取り立てて特徴が無い」という言葉が、この建物を表すには最も適切だと思った。

何の建物かというと小さな工場、小さな役所または診療所というあたりではないだろうか。鉄でできた背の高い門に近づくと「ヴィンセント病院」という看板が目に入った。私の三つ目の推測が当たっていたわけだ。

一見してヴィンセント病院について特に不審な感じはしなかったが、ただ「高圧注意! 壁には高圧電流が流れています」という標識が目についた。どうして病院の壁に電気を流すのか意味不明だ。これは人間用の病院ではなく、猛獣を収容するアニマル・ホスピタルなのだろうか? それとも、最近産婦人科病院からの誘拐事件が相次いだ結果、門以外からの人の出入りを完全に遮断するという対策を講じたのだろうか……。

ところが、近づいてみると意外にも門番や警備員は居らず、鉄格子でできた門のラッチ式のロックを手で開けると難なく中に入ることが出来た。前庭には鉢植えが幾つか置かれており、建物の玄関ドアへとつながっていた。ドアを開けて中に入るとフロントロビーがあり、受付窓の向こうに事務所が見えた。

私は受付窓からオフィスの中を覗き込んだ。男が一人事務机に座っていた。四十代半ばぐらいだろうか。客観的に見て普通の男性だった。顔立ちはよく、白髪交じりの髪は少し縮れているが、年の割に引き締まった体型をしていた。ただ、安っぽいポリエステルのカッターシャツ、首にかけた味気の無い金メッキのチェーン、そして何よりもシャツの上から透けて見える胸毛の気持ち悪さに、ついイライラしてしまった。

しかし、そんなことはどうでもよかった。大事なことはこの男性に助けを求めることだった。

「あのう、すみません」

「はい、なんですか?」

「病院の方ですよね?」

「事務長のアショックですが」
抑揚が無くて何の特徴も無い声で返事があった。この建物の外観と共通点を感じた。

「私はレイと申します。バンガロールからNH4を走っているうちに側道に入ったみたいなんですが、車が急に故障して動かなくなってしまいました。スマホも電池が切れてしまったので、ここまで十五分ほど歩いて辿り着きました。家内に迎えに来てくれという電話をしたいので、携帯電話を使わせていただけないでしょうか?」

「それは災難でしたね。残念ながら私は携帯電話を持っていません。この病院のスタッフも誰も持っていません。この病院は……何と言うか、精神を病んでいる人のための病院なので、余計な精神的負担をかけないよう、建物の中への携帯電話やスマホの持ち込みは禁止しているんですよ」

「でも、そのパソコンはネットにつながっていますよね? そこから妻にメールを送信させていただけませんか? メールだと電話と違ってすぐには通じないかもしれませんが……」

「レイさん、恐縮ですがパソコンはネットにはつながっていませんし、WIFIもありません。もし患者が夜中に事務所に忍び込んでメールを送信したりブラウジングしたら困りますんでね。うちの患者さんは処置するために入院しているのであって、楽しむためにここに居るわけじゃありませんから」

「分かりました、アショックさん、他を当たってみます。スマホがそろそろ充電されているはずなので車まで歩いて戻るのが早いかもしれません」

それまでぶっきらぼうだった事務長の物腰が急に柔らかくなった。

「ちょっとお待ちください。この炎天下を十五分も歩いて熱射病になったら、それこそ大変です。緊急通話用に固定電話を一回線だけ引いてあって、電話機が三階にあります。お使いになりますか?」

「助かります! 是非お願いします」

「じゃあ三階までご案内しましょう」

アショックについて古風なベンガラ塗りの階段を三階まで上った。一応ちゃんとした病院のようなのにエレベーターが無いとは驚きだった。階段の途中で、だらしない服装の年配の男が階段のさび付いた手すりにしがみついているのを見かけた。

私がその男の横を通過した時、男は濃い茶色のフレームの眼鏡に右手をかけて私をにらんだ。

「ついに宇宙がその姿を現した。わしの家のジャグジーの中に宇宙があるんだ!」

急に男が叫んだので心臓が飛び出しそうになった。アショックは私の肩に手を置いて言った。

「心配ご無用、あの男は妄想しているだけです。シバという名前で、ただの貧乏人ですが壮大な幻想を抱いていて、自分のことを画期的な発見をした偉大な天体物理学者だと思い込んでいるんです」

「そうですか……」
アショックが患者の病状を説明するのに嘲るような口調で話したことに嫌悪感を覚えた。

心の病と言うものは簡単にコントロールできるものではなく、心の病を持つ人について嘲笑するのは全く非倫理的だ。アショックの無神経さにムカムカと腹が立ってきたが、電話機があるはずの三階の部屋にやっと到着して我に返った。

部屋に入って気づいた最初のことは、壁面の約二メートルの高さに長方形の金属扉があることだった。スイッチボックスの扉にしては大げさな感じだった。

それはガラス窓と造り付けの小机だけがある小部屋で椅子もない。机の上には黒い電話機が置かれていた。それは子供の時に家にあったのと同じ回転ダイヤル式の電話機で、一九九○年代にタイムスリップしたような気持になった。

――奇妙だ。

不思議な感覚だった。ヴィンセント病院には時間が流れているのだろうか……。

震える指で妻の携帯電話の番号をひとつずつダイヤルした。アショックは小部屋から出て行ってドアを閉めた。アショックがプライバシーを気遣ってくれたことには意外な気がした。ダイアルし終えて応答があるまでの時間が長く感じられた。ディンプルの少しハスキーで魅力的な声が聞えた時、私は救われた気持ちになった。

「もしもし、どなたですか?」

「僕だよ、レイだよ!」

「あなたなのね? どこから電話してるの?」

私は今日の苦労の一部始終を妻にぶちまけた。ディンプルは私たちの親友のサンジャイと一緒にショッピングモールにいるようだった。

「ヴィンセント病院はNH4から分岐した道路の近くにあるはずだよ。正確な場所はネットで調べてみて。大きな菩提樹が目印だ。出来るだけ早く来てね!」

「パニックにならないで! NH4ならよく分かっているから簡単にたどり着けると思うわ」

「NH4からどこでどう側道に入ったのか、自分でも分からないんだけど、分岐してからかなり走ったみたいなんだ。殆ど人気のない場所に来ちゃったから」

「悪い子ね、一人でそんなに遠くまで行くなんて」
ディンプルは子供に説教するような口調で私に言った。

「サンジャイと私がそこにたどり着くまでには、多分一時間半ぐらいかかりそうね。交通渋滞がひどければ二時間かかるかも」

「ごめんね……」

「まあ、いいわよ。ええと、病院の名前をもう一度言って」

「ヴィンセントだよ。ヴィンセント病院」

「ヴィンセント病院? 聞かない名前ね。ねえ、サンジャイ、ヴィンセント病院って知ってる?」

サンジャイの声は受話器には聞こえなかったが、ヴィンセント病院という名前は知らないようだ。

「すぐに出発するから心配しないで待っていて。途中で知り合いのメカニックを拾って行くとサンジャイが言ってる」

「本当にごめんね。二人に迷惑をかけて」
と言って電話を切った。

ディンプルの優しい声を聞けただけで幸せだった。妻と私の二人だけなら途方に暮れていたかもしれないが、サンジャイが居るから何とかしてくれる。本当に頼りになる最高の男だ。

妻に電話で助けを求めるという最重要課題を終えてひと息ついた。後はロビーまで下りて行って妻とサンジャイの到着を待つだけだ。知り合いのメカニックを拾ってくると言っていたから、きっと愛車のアルトに乗って家に帰れるだろう。

小部屋のドアを開けるとアショックが心配そうな表情で立っていた。

「お友達に電話は通じたかい、レイチェル?」

――はあ? レイチェルだって?

アショックは今私をレイチェルと呼んだ。若々しく、男らしくてスポーティーなこの私を、女の名前で呼ぶとはどういうつもりだろうか? 私はスリムだが身長もあり、女性を連想させるところはひとつもない。

不愉快だと一瞬思ったが、真面目な顔をして性別絡みの冗談を突然言い出したアショックを見ていると、可笑しさが急にこみ上げてきた。

「アハハハ。事務長さんって、相当パンチのあるユーモア・センスがあるんですね!」

アショックは笑わなかった。それどころか、真剣で打ち沈んだ感じの心配顔になった。アショックの表情を見ていると、私が一人で笑うわけにはいかないという気がした。

気まずい沈黙の後でアショックが口を開いた。

「レイチェル、薬は時間通りにちゃんと飲んだのか?」


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「世界維新」が出版されました

桜沢ゆうの小説「世界維新(女性が全てを支配する日)」が発売されました。

この小説は「女性が全てを支配する日」(2016.1出版)をWITノベルコンテストに応募する目的で再構成した作品です。原作と比較すると、序章が削除された等、構成は大きく異なりますが、ストーリー自体は原作とほぼ同じですので原作を購入済みの方は、「世界維新」を購入されないようお勧めします。キンドル・アンリミテッドの会員の方は是非「世界維新」をダウンロードしてあの興奮をもう一度味わっていただければ幸いです。

***

静岡県のサッカー少年でチームのエースだった杉村美瑠久は準決勝の前半に得点を上げるが、その直後にアタックした際に出血して中途退場する。病院での診断は美瑠久の人生に根本的な変化をもたらす。

その一年後、中東での紛争で使用された「ある兵器」が予期せぬ変化を遂げ、数週間のうちに地球の人口の約50%に「外観では分からない小さな変化」をもたらす。その変化は数か月の間に世界を静かに、自然に、そして不可逆的に変革するのだった。

***

これは杉村美瑠久が少年から大人になるまでの生活的視点を通して「世界維新」と、はかなく美しい恋を描くSFエンターテインメント小説です。



世界維新
第一章 ある男子の初経

僕の名前は杉村美瑠久。静岡県の小学生だ。

僕が住んでいるのは人口十万人以上の立派な「市」で、僕の家は駅から歩いて数分の商店街にあった。僕は三人きょうだいの長男だった。長男といっても二才年上の姉が、二才下に妹がいる。子供の時から大事にされて育った。

家の近所には神社があり、神社の境内が子供たちの遊び場になっていた。幼稚園の頃に、近所の小学生たちが神社でサッカーの真似事をして遊んでいるのを、仲間に入れて欲しいと憧れながら見ていた。小学校に上がると「オマケ」としてサッカーに加えてくれるようになり、僕はサッカーに夢中になった。神社の境内は狭いのでサッカーといっても練習程度しかできず、マンツーマンでボールを取り合ったり、一人で石壁にキックして遊ぶ毎日だった。

小学校三年に上がった時に、学校のサッカー部に入部した。ボール・キープが上手で多彩な足技を持っている上に生まれつき敏捷だった僕は、めきめきと頭角を現し、小三なのに高学年の試合に出してもらえるようになった。勉強もできたのでクラスではスターだった。元々小柄なうえに三月生まれの僕は小一の時からずっとクラスで小さい方から三、四番目だったが、女子は誰でも僕の近くに来たがった。

小五になると自他ともに認めるチームのエース・ストライカーになった。小柄で女の子のように優しい顔なのに、試合では他校からキラー・マシンのミルクと恐れられた。ミルクというのは僕の名前のカタカナ表記だ。本名は美瑠久だが字が難しいので、出場選手のリストには「みるく」とか「ミルク」などと書かれることが多かった。小六になってサッカー部のキャプテンになった時、美と瑠に重点を置いて「ビル」と呼ばせようとしたが、下級生しか従わなかった。その下級生さえ、一週間もすると「ミルクさん」に戻ってしまった。

転機が訪れたのは小六の秋の県大会だった。僕たちのチームは順調に勝ち上がって準決勝に進んだ。その日のグラウンドは県営の球場だった。準決勝の相手は優勝候補の小学校で、小学生なのに派手で大人っぽい感じのプレイヤーが揃っていた。僕が前半終了五分前にヘッディングを決めた時、僕たちの小学校の応援団(六割が女子でその半分以上が僕の親衛隊だった)からワーッ、キャーッと歓声が上がった。

僕はVサインをしてセンターラインまで下がったが相手がセンターサークルから蹴ったボールをめがけて相手のフォワードにアタックした時、太ももに熱いものが走る感触があった。前半の終了まではあと二分。僕は気にせずにプレーを続けたが、主審が笛を吹いてプレーをストップさせた。主審が近づいてきて「大丈夫か」と僕に聞いた。「別に……」と答えたが、主審が僕の脚の付け根の辺りを指さして「出血してるぞ」と言った。白のサッカーパンツの股の辺りが真っ赤に染まっていた。

監督の先生が駆け寄った。僕は地面に寝かされて、先生がサッカーパンツを下げて中を覗いた。先生は「こりゃあ駄目だ」と言って、主審に「選手を交代します」と告げた。「先生、大丈夫です」と僕は言ったが強引に外に出された。試合は十人のままで再開し、間もなく前半が終わった。

応援席から「美瑠久!」と叫ぶ心配そうな女子たちの声が掛けられる中、たまたま応援に来ていた保健室の女の先生が下りてきて駆け寄った。

「どこの怪我ですか? 救急車を呼びますか?」

「いや、救急ではありません。すみませんが先生が病院に連れて行って頂けますか?」

「分かりました。学校の近くの整形外科に連れて行けばよいですね」

「いえ、整形外科ではなく、泌尿器科か婦人科に」

「婦人科はないでしょう。この子は男の子ですよ」

監督は女先生の耳元で短い説明をした。女先生の顔から血の気が引いた。女先生は僕のパンツを少し引き下げて中を見てから「本当ですね」とため息をついた。

「何も心配ないのよ。誰にでも起きることだから」

先生は僕の肩を優しく抱いてくれて駐車場まで行った。先生の運転する車が隣の学区にある大きな婦人科病院の駐車場に入ったので僕は当惑した。それは僕たちサッカー部員が「ピンクの病院」と呼んでいる、病院らしくない外観の建物で、僕たちには一生無縁なはずの場所だった。

「先生、他の病院にしましょうよ。こんなところに男子が来たら変な目で見られますから」

女先生は僕の言葉を無視して受付を済ませた。待合室に座っている人は例外なく全員が女性だった。

「先生、恥ずかしいです」
僕は女先生ににじり寄って俯いていた。

女先生は僕の耳元で言った。

「何も恥ずかしくないわよ。気が付かない? 誰もあなたのことを見ていないでしょう。そう思って鏡を見れば分かると思うけど、あなたの顔はとても女の子らしいわ。男の子みたいにショートカットにしたサッカー少女だと思われてるのよ」

小さい時から親戚や近所の大人から女の子のように可愛い顔だと言われる度に傷ついてきた。サッカーを始めたのは自分の男らしさをアピールしたかったからかもしれない。先生に抗議しようかと思ったが、他人が僕を見てそう思うのなら、反論しても始まらない気がして思いとどまった。

「杉村美瑠久さん、四番の診察室にお入りください」

女先生に付き添われて診察室に入った。小柄な若い女医が笑顔で僕に「こんにちわ、可愛いお名前ね」と言ってから仰向けにベッドに寝かされた。短パンとパンツを膝まで下ろされ、血が出ているらしい場所を冷たいガーゼのようなもので拭かれた。僕がベッドから首を少し起こして見ると、女医は右手に薄い手袋をはめてその付近の皮膚を押したり引っ張ったりして検査しているようだった。

「月経血ですね。外陰唇の入り口の外側の皮膚が巻き込まれるように癒着して陰嚢のように見えていたのが、初経がきっかけとなって一部剥離したのだと思います。少し広げてみましょう」

短パンとパンツを脱いでM字に開脚するように言われた。

「ちょっと痛いかもしれないけど我慢してね」
もうすぐ僕を襲うであろう激痛に備えて歯を食いしばった。

「サリチル酸ワセリン軟膏をお願い」
女医はナースから受け取った軟膏を指につけて僕の傷口の部分に塗り込み、指を突っ込んで傷口を押し広げた。

「ギャーッ」という叫びを準備していたが、ヌルッと傷口が裂けた感触があった。「イテテ」という小さな声が出てきただけだった。脚の付け根に生暖かい感触がしたので恐る恐る首を持ち上げて見たところ、おちんちんの上下が数センチ縦に裂けてドロッとした赤黒い血が出ていた。腐ったような嫌な臭いがした。

「膣洗浄しておきましょうね」

傷口を広げられ、その中に何度か液体を注入され、経験したことのない奇妙な感触をお腹の中に感じた。

「美瑠久ちゃん、最近オシッコをした時に、パンツが濡れたことはなかった?」
誰にも言えずに内緒にしていたことを突然女医に言い当てられて顔が真っ赤になった。

「はい、朝起きてすぐオシッコをしたら、ちょろちょろとしか出なくて。それなのにパンツがビショビショになっていました」

「その後のオシッコはどうしたの?」

「パンツを濡らすのが怖かったので、大便のふりをして座ってしました」

「お尻全体が濡れてなかった?」

「はい……」

女医は女先生に診察の結果を説明した。

「外陰唇の癒着は完全に剥がしました。クリトリスと外陰唇もきれいに分離させることが出来ました。肥大したクリトリスの中央に何らかの尿路が出来ていたものと考えられますが、本来の尿道口が解放されましたからもう大丈夫です。クリトリスは放置すれば徐々に小さくなって正常化する可能性がありますので、しばらく様子を見て、必要なら手術で小さくすればよろしいでしょう」

「つまり、診断結果としては……」

女先生は女医の言葉を待った。

「現時点であえて病名を付けるとすれば陰核肥大ですが、大げさに考える必要はありません。それより初経を祝ってあげてください」

「ということは、半陰陽というか、いわゆるインターセックスなのですね」

「いえいえ。美瑠久さんには男性の要素は全くなくて、百%女性です。出生時に性別を誤認されていただけです。一応、確定診断のためにCTを撮って卵巣と子宮の状況を確認しておきましょう。少しお待ちいただくかもしれませんが」

僕は二人の会話を唖然として聞いていた。要するに、僕は女子なのにガイインシンというものが癒着していたので、男子と間違えられていたのが、癒着が剥がれて「正常」に戻ったということのようだ。おチンチンと思っていたものは、放っておけば小さくなるだろうと言っていた。まさか、僕が女子だったなんて、冗談にしてはきつすぎる。でも、卵巣と子宮を確認すると言っていた。本当に卵巣と子宮が見つかったら女だということになるのだろうか……。

CT検査室の前の長椅子に座って待っていた所に母が駆け付けた。母は僕の短パンが血で真っ赤になっているのを見て心配そうにしていたが、女先生から診察結果の説明を聞いて真っ青になった。母は検査室の近くのトイレに僕を連れて行ってパンツを引き下げた。

「本当だわ。美瑠久は女の子なのに息子だと思い込んでいたのね。気付かなくてごめん。母親失格だわ」

「お母さん、そんなこと言わないで。お母さんのせいじゃないよ」

「それより、こんな血だらけの短パンをはかせておけないわ。ナプキンもしておかないとね」

検査室の前の長椅子に戻ってから、母は女先生に「近くに、しまむらがありましたから生理用ショーツと、着替えを買ってきます。ナプキンも買ってきますから、すみませんが留守の間よろしくお願いします」と言って、駐車場へ走った。

しばらくして僕の順番が来た。僕は脱衣室で検査着に着替えてCTの台に横たわった。テレビで見たことのある大きな機械に乗せられて緊張したが、何事もなく検査は終わった。CTの部屋を出ると、母が着替え室で待っていて、生理用ナプキンを張り付けた生理用ショーツをはかされ、夏だというのにその上に毛糸のパンツをはかされた。それは脚が出る部分にフリルがついているピンク色のパンツで、僕は必死で抵抗したが「生理中はお尻を冷やしては駄目」と強引にはかされた。

ピンクの毛糸のパンツをはいている姿は母に見られるのも恥ずかしかった。僕はとにかく毛糸のパンツを早く隠そうと短パンに足を通した。

「待ちなさい。新しい毛糸のパンツに血が付くじゃないの」

母は脱衣かごの中の僕の衣類をポリ袋に入れて硬く縛った。

「これを着なさい」

母から渡された赤い七分袖のシャツを着ると、首の後ろにボタンとリボンがついていることに気付いた。

「なんだよ、これ女物みたいだよ」

僕が脱ごうとしてシャツの裾に手をかけると、と母は「それでいいのよ」と言って、僕の手を払いのけた。

「さあ、これをはくのよ」
母に渡されたのは真っ赤なプリーツスカートだった。

「バ、バカ言わないでよ。こんなのはけるかよ」

「夏だけどお尻が冷えないように膝丈にしといたわ」

「お母さん、お願い。短パン返して」

母に懇願したが「生理の時はスカートの方がいいの。これ、常識よ」と言って譲らない。

その時、看護師さんが脱衣室を覗いて「次の患者さんから苦情が出ているので早く着替えを済ませて下さい」と叱られた。

「外で待ってるわよ」

母は僕にスカートを押し付けて脱衣室の外に出てしまった。

僕はやむを得ずそのスカートをはいて、右のホックを留めて脱衣室を出た。

検査室の前の長椅子に座っていた母が駆け寄ってきた。

「バカじゃないの? スカートの前後が逆よ。ホックがあるのが左!」

母は僕が履いているスカートをグルリと回した。僕はそれまで、スカートに前後があるとは知らなかった。

検査室で言われた通り四番の診察室まで歩き、受付ボックスにフォルダーを置いて待合椅子に座った。女物のシャツにスカートという姿を人目に晒してしまった。もし知っている人に見られたらお終いだ。

名前を呼ばれて母と一緒に診察室に入った。

「お子さんは健康そのものですからご心配はいりませんよ」
と女医は母を安心させた。女医はキーボードとマウスを起用に扱ってモニターにCTの画像を写しだし、断面画像を動かした。

「これが卵巣ですよ。そしてここが子宮、そしてこの子宮口から先が膣です。若くて健康な女性の身体のCTを見るのは楽しいですね。美瑠久ちゃん、ベッドに仰向けになってね。スカートをめくるわよ。あら、可愛い毛糸のパンツを買ってもらったのね。生理の時にはお腹を冷やさないことが大事よ」

女医は僕の毛糸のパンツと生理用ショーツを足首まで下ろして、おチンチンの部分をむき出しにした。

「お母さん、こちらをご覧ください。少し赤くなっていますが、この部分がこういう風に癒着していたわけです」
女医は両手の指で傷口の左右の皮膚を中央に引き寄せた。

「初経が引き金になってこの部分に剥離が生じて月経血が漏れたんです。既に剥離しやすい状態になっていましたので、薬品の助けを借りて剥離させ、外陰唇の内側、内陰唇から膣にかけて洗浄しておきました。肥大化していたクリトリスは既に委縮し始めているようですから、放置しておけば普通の大きさに戻る可能性が大ですので様子を見ましょう」

「手術はしないんですか? お薬は?」

「現状、やや陰核肥大ですが健康体です。薬は生理痛がひどくない限り不要です」

「この子の性別はどうなるのでしょうか」

「染色体検査の結果が出次第、診断書を書きますので、それを持って戸籍課に相談に行ってください。先ほど学校の先生からも質問を受けましたが、半陰陽ではなく、完全な女性の身体なのに、出生時に男性と誤認されたままになっているわけですから、早く訂正するのがお嬢さんのためだと思います」

お嬢さん、と言われて頭をガーンと殴られた気がした。

「二週間後に経過をチェックしますので、予約を入れましょう。FISH法での染色体の検査結果が届くのに十日ほどかかりますので、その時に診断書を出せると思います」

母は手帳を見ながら二週間後の診察の予約を取った。

「美瑠久ちゃん、おめでとう。今日から大人の女性になったのよ」

女医さんにおめでとうと言われて反射的に「ありがとうございます」と答えたが、何もおめでたいことではなかった。僕は奈落の底に突き落とされた。

帰りにスーパーで買い物をしたが、僕は助手席に座って待つことにした。まさかスカート姿でスーパーの中に入って行けるはずがない。

外から顔を見られないように、リクライニングを倒して寝て待った。その時、窓をコンコンと叩く音がした。窓の外にはサッカー部の仲間が五人立って、覗き込んでいた。

「おい、美瑠久。窓を開けろ」

暑いのを我慢して窓を閉めていたのに気づかれてしまったのだった。

「喜べ、一対ゼロで勝ったぞ。お前の入れた一点を守り切ったんだ。来週の土曜日は決勝だ。ところでお前、女だったんだってな。だからスカートをはいてるのか。監督から聞いたよ。決勝はお前抜きで戦うことになるだろうって」

僕はリクライニングを起こして五人の仲間と顔を突き合わせた。皆、僕のスカートを興味深そうに見ている。

「病院で調べたけど健康だと言われたよ。何も悪いところは無いんだ。だから決勝は一緒に頑張ろうな」

「監督が言ってたけど大会規約で女子は出られないんだって。だから、お前の出番はもう無いよ。中学に入ってから女子サッカー部で頑張れ」

「そんな……」

「お前、今日が初めての月経なんだってな。この間、男子の特別授業で習ったやつだろ、初経とかいうアレだな。お赤飯を炊いてお祝いするんだろう。おめでとう」

残りの四人の仲間が口を合わせて、「美瑠久、初経おめでとう」と言ったところを、駐車場に居たオバサンたちが聞いて笑っていた。僕は恥ずかしくて両手で顔を覆った。そこに母が帰って来た。

「あ、杉村君のお母さん。今日は杉村君が前半に得点した後に退場しましたが、その一点を守りきって決勝に進みました。それから、監督から聞きましたけど、初経、おめでとうございました」

「あら、皆さん知っていたのね。女の子になっても美瑠久と仲良くしてやってね」

五人の仲間は「はい」と大きな声で答えて立ち去った。

「どうしよう、スカートをはいているところを見られちゃった」

「監督さんがしゃべったみたいね。前半に起きたことがハーフタイムに応援席の人たちに伝わったんだわ。インパクトのある話題だから、サッカーに来ていた人にはきっと全員伝わってるわよ。よかったじゃない、説明の手間が省けて。月曜日はスカートで登校しなさい」

「じょじょじょ、冗談じゃないよ」

家に帰ると姉の美咲が僕を見て飛んできた。

「美瑠久、女の子になったのね。私、妹がもう一人欲しいと思っていたかったから丁度良かったわ」

「そうよ。美瑠久は女の子だったことが分かったのよ」

母が真顔で言って僕が顔を真っ赤にして黙っていたので、美咲は、自分が言ったことが全くの的外れではなかったと悟った。美咲は僕のスカートをめくって毛糸のパンツと生理用のショーツを下ろし、ナプキンに血がついていることを確認した。

「う、うっそー。私とおんなじ! でも、クリトリスが少し大きすぎるんじゃないかな?」

「美咲、美瑠久の気持ちを考えて言葉を慎みなさい。美瑠久が泣きそうな顔をしてるじゃない。美瑠久のクリトリスはこれから段々腫れが引いて、普通の大きさになるから手術も必要ないとお医者さんが言ってたわよ」

妹の美幸が二階から降りてきて驚いた様子で叫んだ。
「お兄ちゃんがスカートはいてる! 仮装大会か何かがあるの?」

「美瑠久は女の子だったことが分かったの。だからお兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんになったのよ」

「嫌だなあ。サッカー部のエースの美瑠久の妹だと自慢できなくなる」
と美幸はしょげていた。

「美瑠久、サッカー場から直接病院に行ったんでしょう。汗臭いからお風呂に入りなさい」

僕はとぼとぼと浴室まで歩いて行ってスカート、毛糸のパンツとTシャツを脱ぎ、最後に生理用のショーツを脱いだ。また血がついていたナプキンをショーツから剥がして洗濯機の横のごみ箱に捨てた。お風呂を出たら新しいナプキンが必要だ。

「お母さーん」
と呼ぶと母が来た。

「あのね、ナプキンの新しいのはあるかな」
小さな声で聞いた。

「美瑠久がお風呂に入っている間に持ってきておいてあげる。汚れたのはちゃんとトイレに捨てたの?」

「ううん、ここに捨てたけど」

「美瑠久、ナプキンを捨てて良いところは一ヶ所だけよ。それに、こうやって内側に丸めるの」

母は厳しい顔をして叱るような口調で僕に言って、トイレの便座の後ろの黄色いプラスティックケースを指さした。以前からそのプラスティックケースの存在には気付いていたが、何の入れ物なのか今まで知らなかった。

シャンプーをしてから、スポンジにボディーソープを付けて身体中を丁寧に洗った。昨日まで普通の男子だったのに、突然立ちしょんもできなくなった。おチンチンとはこんなものだと思い込んでいたし、他の男子のおチンチンと同じだと思っていた。癒着が剥離したらしいが、今はそのおチンチンは割れ目の間から洩れ出た小さな突起物になってしまって、見る影もない。これでは誰が見てもおチンチンとは呼べないのは確かだった。

スポンジで胸を擦るときには注意が必要だった。ひと月ほど前から乳首をスポンジで擦るとチクチクしていた。乳首が一センチほど前に飛び出して、小さなトンガリ帽子を胸に伏せたような形になっている。前から押すと飛び上がるほど痛い。今日の試合でもボールを胸でトラップした時には痛みのため顔をしかめた。

これはきっと月経と関係があるのに違いないと、本能的に感じた。おチンチンだったものが段々と萎むのと並行して、お乳が段々前に尖って来るのかもしれない。どうしよう、と焦りで胸が苦しくなる。姉の美咲の胸も母のように大きくなって、前にツンと突き出ている。ああ、僕も姉と同じような胸になってしまうんだ。絶望に襲われて涙が出た。泣きじゃくりながらシャワーをして浴室を出た。

バスタオルで身体を拭くと、畳んだショーツの上に母が新しいナプキンを置いてくれていた。Tシャツを着て、毛糸のパンツとスカートをはいた。二階の僕の部屋に行くと、母がタンスから僕の衣類を全部出して、二つの大きいごみ袋が一杯になっていた。

「うちは三人娘になってしまったから男の子の服はもう要らないわ」

母はそう言ってごみ袋の端を括り、階下に持って行ったが、すぐに段ボール箱を抱えて戻って来た。

「これは美咲には小さくなった服よ。美幸が大きくなる時のために取っておいたけど、早く役に立ってよかったわ」

母は僕を立たせ、服を一つ一つ取り出してサイズをチェックしては僕のタンスに入れた。こんな女の子っぽいチャラチャラした服やひらひらのワンピースを、本気でこの僕に着せようというのだろうか。その段ボール箱が空っぽになると、もう一度階下の物置に段ボール箱を取りに行った。美咲がこんなに沢山洋服を持っていたとは驚いた。

「下着は明日一緒に買いに行こうね。昨日まで気が付かなかったけど、乳首が大分出て来てたのね。服が擦れると痛いでしょう。明日スポーツブラを買ってあげるわ」

「ブブブ、ブラだなんて……。ねえ、お母さん。学校にはしばらく僕の服を着て行って、皆の反応を見ながら少しずつ暖色系のシャツを増やしていきたいんだけど」

いつも母のご機嫌を取るときの口調でねだってみた。

「もし美瑠久がお母さんの言うことを全部聞いて、月曜の朝まで良い子にしていたら、このキュロットをはくのを許してあげる。言うことを聞かない場合は、このミニのワンピースにするわよ」

「どっちにしてもスカートじゃないか」

「よくごらんなさい。股がズボンみたいになってるでしょう。これをキュロットというのよ」

「僕の目にはスカートにしか見えないよ……」

***

夕方、父がゴルフから帰ってきて、「優勝したぞ、この商品を見ろ」と意気揚々とリビングルームに入って来た。美咲と美幸ともう一人スカートをはいた子がテレビを見ているのに気付いて、「お友達が来てたのか、いらっしゃい」と僕たちに向かって言った。母が台所から「ちょっと、あなた。大事な話があるから聞いてちょうだい」と父に声をかけた。父は「なんだ、大事な話って」と言いながら台所に行ったが、しばらくして「な、な、なにーっ!」と素っ頓狂な声を上げた。「あなた、落ち着いて」という母の声が聞こえた。

「ごはんよ」
母の声を聞いて、僕たちはテレビのスイッチを切って食卓に座った。

手を洗い終えた父が食卓のいつもの席にドシリと座った。僕は父の顔を見るのが怖くて下を向いていた。

母がお茶碗にご飯をよそっていた。いつもなら父に真っ先に出すのに、今日はまず僕の目の前にお茶碗を置いてくれた。それは赤飯だった。全員のご飯が配られたのを見てから、父が「え、えへん」と咳払いした。

「今日は美瑠久に初経があったと聞いた。美瑠久が大人になった……いや、そのう、大人の女性になった目出度い日だ。家族一緒に心から祝おう。おめでとう、美瑠久」

僕が女性になったという事実を父が平然と受け入れたことに驚いた。そして心から感謝した。

こうして僕は杉村家の次女になった。


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新作「三つの願い」

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズの新作小説「三つの願い」がAmazon KDPから出版されました。

主人公は外資兼保険会社の入社二年目社員で、彼女のいない冴えない感じの男性です。

テレビでお笑いコンビが「三つの願い」というネタをやっているのを見て、もし神さまが自分の前に現れて三つの願いをする機会を与えられたらどんな願いを言うべきかということを考えました。

彼は即座に考えをまとめることができました。「長身のイケメンになって、いつも女の子が自分の周りに群がるようになってほしい」という単純な願いです。

そして、ある日、ひょんなことから彼は三つの願いを唱える機会を与えられることになります。

その結果は……

それは読んでのお楽しみ。「三つの願い」がリアル系TSエンターテインメント作品か、非リアル系ファンタジー小説のどちらに属するかは読者の皆さんの判断次第です。



三つの願い

by 桜沢ゆう

 

序章 トホホな願い

 昨夜、祖母、母と僕の三人でテレビのお笑い番組を見ていたら『もし神さまが現れて三つの願いを叶えてやろうと言われたら、何をお願いするか』というネタを売れっ子芸人コンビがやっていた。

背が高い馬顔の方の男の願いは、きりっとした小顔になって、金持ちの女と結婚することであり、残りのひとつの願いは内緒だと言う。もう一方の小柄で整った顔の男性は、宝くじに当たること、背が高くなることが願いだが、三つ目の願いはこの場では言いにくいとのことだった。

結局二人は三つの願いをメモ書きして交換するのだが、別れた後でメモを読み、相方の三つ目の願いが自分と同じだったことを知る。それはコンビを解消したいという願いだった、というのがオチだ。

そのオチは面白くないと感じたが、二人の願いはとどのつまり、女にモテる外観になりたいということと、金持ちになりたいということだった。人間誰でも同じようなことを考えているのだなあと思った。

一緒にテレビを見ていた祖母に「おばあちゃんなら三つの願いは何にする?」と聞いてみた。。

「そうねえ、膝の痛みが取れて元気に歩けるようになること、老眼鏡なしに本が読めるようになること、三つ目は、病気せずに長生きしてから、おじいちゃんが待っている天国に行くことかなぁ」

「三つ目の願いは長生きすることと天国に行くことの二つの願いが入っているからダメだよ」
と言うと祖母は「私って欲張りね」と笑った。

ちっとも欲張りだとは思わなかった。「完全な健康体になる」という願いにすれば、祖母の三つの願いのうち、長生きするという点以外は全てカバーできる。三つの願いを口に出す時に最も大事なことは、一つ一つの願いを、できる限り包括的な表現にするということだ。

母にも同じ質問をした。

「小じわがなくなることと、少しだけ若返ることかな。もし二十才も若返ったら柚葉たちと親子でいられなくなるから、十年でいいわ。もう一つは、お父さんの給料が上がることよ」

母も祖母に似て欲のない人だなと思った。二十才の美女になってIT会社の青年社長と結婚したいと願うこともできるのに、家族との関係を保つことを大事にした三つの願いにこじんまりとまとめてしまった。

元々「三つの願い」はシャルル・ペロー作の「ばかげた願い」という童話(”Les Souhaits ridicules”, Charles Perrault, 1697)が起源らしい。

ある日森の中でジュピターという神さまが貧しい木こりの前に姿を現して、三つの願いを叶えてやろうと言う。木こりはじっくり考えてから願いを言うことにして帰宅するが、暖炉の前で休んでいて「デカいソーセージを焼いて食べたい」という考えが頭に浮かび、つい口に出してしまう。すると一メートル以上もあるソーセージが目の前に現れる。夫が一つ目の願いをつまらないことに使ってしまった事に腹を立てた木こりの女房がイジイジと文句を言うと、木こりは逆ギレして「ソーセージはお前の鼻にでもぶら下げてろ」と悪態をつき、それが二つ目の願いとして実現してしまう。結局三つ目の願いは、女房の鼻からソーセージを剥がしとることに使うしかなかった、というトホホなお話だ。

この童話には別なバージョンがあって、ソーセージの代わりにデカいプリンだったりする。ちなみに、スーパーで売っているプリンではなく、本来のプディング(小麦粉、米、ラード、肉、卵、牛乳、バター、果物などの材料を混ぜて、砂糖、塩などの調味料や香辛料で味付けし、煮たり蒸したり焼いたりして固めた料理の総称)なので、いずれにしても木こりにとってはごちそうを意味している。ソーセージにしてもプリンにしても、僕なら自分で奥さんの鼻からナイフで切るとか食いちぎるとかして、三つ目の願いはもっと賢く使うところだ。

木こりに三つの願いを叶えてやった神さまはジュピターと言って、ローマ神話の天空の神ユピテルの英語名だが、この神さまは最高位の女神ユーノーの夫でありながら、時として女性化・女体化して女神となることもあるそうだ。この童話の別バージョンではジュピターではなく木の霊が木こりの前に表れて三つの願いを叶えてやろうと提案する。

僕が生きている間に神さまが目の前に現れるような事態になることは期待していないが、木とか、水とか、草花とか、自然の中に棲み付く霊が現れる程度のことなら絶対に無いとは言い切れない気がする。万一そうなった場合に備えて、つまらない願いを口にしてしまわないように準備しておくのが賢明だ。

僕の願いの根幹は、何といっても女性にモテることだ。モテるための要件は三高、すなわち、高身長、高収入、高学歴というのが通説だ。つまり、イケメン男性になること、稼ぐ力のある男になること、いい大学を出ることだ。

僕の場合は一流半の大学を出てしまったので今更高学歴という条件をクリアするのは困難だが、二十代で年収一千万あれば、僕の学歴でも女性はワンサカ寄って来るだろう。結論として高身長のイケメンになることと、年収一千万円以上になることを二つの願いにするのがいい。三つ目をどんな願いにするかはもう少し考えてみたい。

 

第一章 誤解が生んだ間接キス

 僕の名前は秋森柚葉、二十四才、東陽町にある外資系保険会社の二年目社員だ。英国にある親会社は超一流の世界的大手企業だが、日本法人は業界シェアでいうと中位であり、就職希望ランキングの観点では一流半というところだろう。

卒業した大学も一流半なので、それに見合った就職先と言える。

一流半と聞くと二番手と捉えがちだがそうではない。大学でも就職先でもまず超一流があって、その下に一流が存在する。二流よりはマシだろうと本人が解釈しているのが一流半の大学・企業だが、本人以外は二流と認識している場合が多い。つまり、超一流、一流の下の、その他大勢が「一流半」の実態なのだ。

入社一、二年目の段階での給料は超一流も二流も大差はないから、「貧しい感」は感じない。しかし不思議なことに女性たちは、三年目以降どんな差が出るのかをよく知っていて、一流半企業の男性社員に対する態度は冷淡だ。

僕が女子にモテなくなってから十年以上が経つ。中二の頃まではかなりモテる方だったが、高校、大学は全然ダメだった。最大の原因は身長だった。僕の身長は中三の春の時点で百五十九センチだったが、その後は伸びが止まり、百六十三で頭を打った。高校になると女子たちが身長にこだわり始め、ブサイクな顔でも背の高い男子がモテ始める。そのトタンに僕は異性としての魅力の対象外になってしまった。大学時代もずっとそんな感じだった。

だが、やっと僕にも春が訪れようとしている。吉村真凛が僕に目を向けてくれたのだ。

同期入社は三十人で男女十五名ずつだったが、入社式で真凛を見た瞬間、僕は恋に落ちた。優しさと憂いが混在する笑顔、切れ長の目、そしてスラリとした長身。まさに理想のタイプの女性だった。真凛は法人営業部、僕は総務部に配属されたので仕事上の接点は殆ど無かった。普段は遠くから見ているだけで、会話できるのは同期の飲み会だけだったが、真凛はいつも大勢の男子に取り囲まれていたので、僕は真凛とじっくりと話したことが無かった。

ところが、先週の金曜日に突然状況が変わった。朝、混雑しているエレベーターに真凛と乗り合わせ、僕の背中が真凛の胸に触れる状態が数秒間続いた。僕に否があるわけではなかったがエレベーターを降りる時に振り返って「ごめんね」と謝った。驚いたことに真凛は「こちらこそ」と言って僕に微笑んだ。

今週、僕は特に用がなくても、昼休み前後や午後五時前後になると法人営業部のある四階に行って廊下をぶらぶらした。気持ちが通じたのだろうか。僕が四階に行くと不思議なほど高い確率で真凛が部屋から出て来て、廊下ですれ違う。そのたびに笑顔で会釈すると、彼女らしい笑顔で会釈を返してくれる。

切れ長の美しい目は真凛の魅力の一つだ。知性と、男を簡単には寄せ付けないような強さと、憂いを併せ持つ目だ。僕を見た瞬間、真凛の顔に優しい微笑がふわっと浮き出て来て、恥じらいさえ感じさせる表情になる。

相思相愛とはこういうことなのだ。先週エレベーターで身体が触れ合った時に、運命の歯車が動き始めたのだ!

金曜日の昼休み、意を決して社内メールで真凛を誘った。社内メールを私用で使うことは禁止されているが、彼女のプライベートなメールアドレスや携帯電話の番号は分らなかった。

「お話ししたいことがあるのですが、お時間をいただけませんでしょうか? もしご都合がつけば明日金曜日の午後五時四十分に、会社の向かいのドトールの南東角の席までお越しください。よろしくお願いいたします。秋森」

「十七時四十分のドトールでの面談の件、了解いたしました。吉村真凛」
という短い返信があったのは午後一時過ぎだった。僕は思わずこぶしを握り締めてヨッシャーと声を出した。

***

五時半の終業のメロディーが流れ始めるのと同時に席を立ち、トイレで髪を整えてからエレベーターに乗った。ドトールに入り、アメリカンコーヒーを買って南東角の席についたのは五時三十七分だった。

女性と違って着替えたり化粧をしたりする時間が不要だから五時三十七分に来ることが出来たが、真凛に五時四十分に来いというのは無茶だったかなと反省した。それに、総務部と違って営業部門では定時に退社するのは簡単ではないかもしれない。

僕は待たされることを覚悟した。次回からデートは六時あるいはそれ以降からにしよう。

その時、背後から女性の声がした。

「失礼します。総務部の方でしょうか?」

真凛だった。ヨソヨソしい言い方だが、真凛も緊張しているのだろう。僕は立ち上がって真凛を迎えた。

真凛は僕の正面の席に座る。

「来ていただいてありがとうございます」

「いいえ。で、ご用件は?」

単刀直入に用件を聞かれて言葉が詰まった。こんな会話の方が楽かもしれない……。

僕は隠し持っていた小さな花束をバッグから取り出して両手で差し出した。

「ずっと真凛さんに憧れていました。僕と付き合ってください!」

真凛はポカンと口を開けて僕を見ていたが、数秒後に表情が険しくなった。

「仕事を装って呼び出すなんてルール違反じゃないですか」

「社内メールを使ったことはお詫びします。携帯メールのアドレスを知らなかったので」

「本当にうちの会社の方ですか? 名刺を出してください」

真凛は怒りのあまりこんな言い方をするのだろうか? ともかく名刺を差し出した。

「入社式の日に真凛さんを見て恋に陥ったんです」

「秋森柚葉さん? 同期にそんな名前の人が居たかしら」

「先週の金曜日にエレベーターの中で挨拶しから、毎日廊下で笑顔を交わしているじゃないですか」

「金曜日にエレベーターの中で挨拶? そんな記憶はないわ」

「ほら、朝混雑していた時に僕の背中が真凛さんの胸に押し付けられる格好になって、僕がエレベーターを降りる時に『ゴメンナサイ』と言ったら、笑顔で許してくれたじゃないですか!」

「ああ、覚えているけど、あれは女性だったわよ。このぐらいの背の、ショートボブでピンクのブラウスの子だった」

「僕はあの日にはピンクのカッターシャツを着ていましけど……」

「ちょっと立ってみて。あのシーンを再現してみるから」

真凛は僕を立たせて僕の背中に胸を押し付けた。ブラジャーのカップが当たる感触で、背中にビリビリと電気が走る。真凛の生暖かい息が僕のつむじの下に当たって身震いした。

「確かにこんな感じの子だったかもしれない……」

「男女の区別がつかなかったんですか!」

「ゴメン。あの日の朝は目がゴロゴロしていたから、コンタクトレンズを外していたのよ。やっと治って、今朝からまたコンタクトをし始めたの」

「毎日廊下で僕に向けてくれた優しい笑顔と会釈は、いったい何だったんですか?」

「コンタクトをしていないから誰だか分からなかったのよ。そんな場合には微笑んで会釈しておくのが常識というか、無難でしょ」

「そうだったんだ……」

「ゴメン。それほど落胆されると後味が悪いわ」

「付き合ってもらうのは、やっぱり無理ですか?」

「そんな風にドラマチックに花束を差し出されるのは苦手なの。そういうのはプロポーズの時だけでいいわ」

「いきなりプロポーズしてもOKしていただけませんよね?」

「悪いけど、自分より背が低い男性は結婚相手として考えられないわ。秋森君は、なんというか、正反対の人だから」

もうお終いだ……。全てが誤解で、僕の一人芝居だったのだ。

「そんなに落ち込まないでよ。私にも非があったから、男女関係とかいうんじゃなくて、友達の一人ということなら付き合ってあげてもいいわよ」

「本当ですか!」

「本当よ。念のためにもう一度言っておくけど、異性としては全く興味が無いんだからね」

「それで異存ありません。じゃあ、LINEで友達登録お願いできますか?」

「一応友達登録はしてあげるけど、必要不可欠な場合以外は勝手にLINEしないでよね。それからもうひとつ、同期なんだから敬語はヤメテ。気持ち悪いから」

真凛は不承不承スマホにQRコードを表示してくれて、LINEの友達登録をしてくれた。

「ありがとう! 真凛さんと言葉を交わせる関係になれて僕は超、超、超、シアワセだよ」

「大げさねえ。ま、いいけど。じゃあ私、会社に戻るわね。法人営業はバックオフィスと違って忙しいから六時前に退社するなんて夢のまた夢よ」

営業部門の人は優越感を込めてバックオフィスと言うものだが、真凛に言われても全く腹は立たず、僕はつい「お仕事ご苦労さま」と口に出してしまった。真凛は満足げな笑顔を浮かべて立ち上がり、少し口をつけただけのコーヒーをテーブルに置いたまま足早に店の出口へと去って行った。

運命の歯車が回り始めたのではなかった。強度の近視の真凛がずっとコンタクトを外していたことが招いた誤解だった。でも、真凛が僕と付き合うなんて、元々あり得ないことだったのだ。勇気を振り絞って真凛を呼び出し告白した結果、こうやって言葉を交わしてもらえる関係を勝ち取ることが出来た。ある意味で大きな収穫だったといえるのではないだろうか。

そう自分に言い聞かせながらアメリカンコーヒーの残りを飲み終え、真凛が残して行ったブレンドコーヒーをすすった。

甘くて苦い間接キスだった。

 

第二章 三つの願い

 ドトールを出て東陽町駅への階段を下りる。駅は夕方のラッシュでごった返している。もう慣れっことはいえ東西線の通勤ラッシュは非人道的だ。東葉勝田台行きの列車が到着し、お尻から乗車した。

ドアのガラスにへばりつくように立って混雑を耐えながら、心の中で「痴漢被害に遭いませんように」と神さまに祈る。それは「痴漢にお尻を触られませんように」という祈りではない。「僕が痴漢をしたと疑われたり言いがかりをつけられることがありませんように」という祈りだ。僕の場合は西葛西駅で痴漢冤罪の恐怖がピークに達する。

東西線の混雑率は東京の主要四十八路線の中で最悪だそうだ。東西線沿線の家に生まれついたのは不運と言うしかない。

それでも夕方のラッシュは朝のラッシュよりずっとマシだ。朝の通勤時間帯は僕の家の最寄り駅である行徳で乗車する時には楽に乗れるが、ひと駅ごとに東京に向かう人が乗り込んで、西葛西から南砂町で混雑はピークに達し、次の東陽町から徐々に下車する。行徳から東陽町に通勤する僕は多分日本で一番ひどい通勤ラッシュに晒されているはずだ。

僕の駅は行徳駅から徒歩十分ほどで、宮内庁の鴨場の手前にある。残念ながら高貴な家柄ではなく、中小企業に勤める父が行徳近郊緑地の野鳥の楽園まで歩いて行ける場所に売地を探して小さな家を建てただけだ。

真凛のことを考えながら歩く。告白して興味ないと言われた以上デートには誘えないが、真凛が同僚の女性とカラオケに行く際に仲間に入れてもらうとか、女友達に「秋森君が彼女を欲しがっているけどアンタ興味ない?」と声をかけてもらうとか、頭の中でプランを巡らせる。

郵便局を左前方に見ながら夜道を進む。次の角に差し掛かる手前で信号が赤に変わり、真凛の顔が頭に浮かんでひとりニヤニヤしながら信号待ちをする。

対岸には三、四才の女の子の手を引いた若い母親がスマホをしながら信号待ちをしている。ポケモンをしているのだろうか。ウェストリボンのワイドパンツをはいた、スタイルの良い母親だ。それにしても可愛い女の子だなあ……。

母親が女の子とつないでいた右手を離し、人差し指を立ててスマホをスーッとスワイプした。ポケモンが出て来たからボールを投げているのだろう。

その時、何を思ったのか少女が横断歩道に足を踏み出して赤信号を渡り始めた。交差する道路の信号が青から黄色に変わり、軽トラが猛スピードで交差点に突っ込んで来た。女の子が軽トラを見て横断歩道の真ん中で立ちすくむ。危ない!

僕は本能的に飛び出し、女の子を抱いて車道の端へと転がった。

ドーン!

身体が宙に舞った。女の子を抱きかかえたまま道路を転がり、何かにガーンと身体がぶち当たった。

激しい痛みに身体をよじるが、声は出ない。

「ルリカ、ルリカ!」
若い母親が僕の腕の中から少女を奪うように抱き上げる。

「ママ」
少女の声だ。よかった、助かったんだ。

「大丈夫ですか?」

「救急車だ!」

男性の声が響く。周囲に人が集まって来る。

痛みに喘ぎつつ意識が遠のいた。


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桜沢ゆうの性転のへきれきシリーズ新作小説「マリオマリヤ:40歳若返った男」

「スミカスミレ:45歳若返った女」というテレビドラマをご覧になりましたか?

65才の松坂慶子さんが45歳若返って20才の大学生の桐谷美玲さんに変身するという、面白いドラマでした。子の刻(午後11時から午前1時)には元の身体に戻るため、桐谷美玲さんが次の瞬間に同じ服装の松坂慶子さんに入れ替わるというのが一つの見ものでした。

性転のへきれき新作は「スミカスミレ:45歳若返った女」とタイトルがパロディーっぽいですが、筋は似ていません。共通点と言えば(変身する時間は異なりますが)毎日元に戻ってしまうという点です。性転のへきれきシリーズということは、自然な流れとして男性が若い女性になることは想像に難くありません。ということは、時々男性に戻る時が非常に大きな問題になります。桐谷美玲さんが松坂慶子さんになることは、知人に見られるとまずいのですが、赤の他人が見ても、「年の割に若い服を着ている」と思われるだけです。「マリオマリヤ:40歳若返った男」の場合は、通勤電車の中にミニスカ姿の60才男性が突然現れることになるので、これは大事件です。その分余計にハラハラすることになります。

それ以外の点は筋も違うし化け猫も出てこないので、結論として「マリオマリヤ:40歳若返った男」は「スミカスミレ:45歳若返った女」のパロディーではないと考える次第です。(でもタイトルは明らかに・・・)

【ご注意】 「マリオマリヤ:40歳若返った男」は性的表現は相当マイルドで清々しい小説だと思いますが、原作は何故かAmazonによってアダルト分類されてしまいました。当初の内容説明に「ちょっぴりエッチな」と書いたことが原因ではないかと思いますが、アダルト分類されると一般検索では表示されない等の不便がありますので性的表現をクリーンにした非R18版を急きょ出版しました。この結果、Amazonに2つのそっくりの本が並行して販売されるという状況になってしまいました。ストーリーは全く同じで、余程入念に比較しない限り分からない程度の差ですので、決して重複購入されないようお願いいたします。

通常版:

 

マリオマリヤ:40歳若返った男

第1章 再会

60才になることを「還暦を迎える」ということぐらいは誰でも知っている。干支(えと)には甲子(きのえ・ね)から癸亥(みずのと・い)まで60種類がある。僕の場合は丙申 (ひのえ・さる )生まれで今年目出度く干支が巡って来たというわけだ。

還暦というと「赤いちゃんちゃんこ」がつきものだ。60年生きて再び赤ちゃんに戻るという意味と赤には魔除けや厄除けの力があるので年寄りには赤を着せておこうという安易な発想らしい。とんでもない!水戸黄門じゃあるまいし、赤いちゃんちゃんこなんて着られるはずがない。もし家族や親類が還暦祝いに赤いちゃんちゃんこを持ってきたりしたら、その場で躊躇なく引き裂いてしまうだろう。

それに僕はまだ3月末までは現役サラリーマンだ。お腹も出ていないし、髪の毛もフサフサだ。2年前の役職定年で部長の肩書は失ったが、仕事の腕は落ちていない。パソコンやインターネットの知識は20代の連中に負けない。5.5インチのスマホを身体の一部のように使いこなし、エンタメのネタは女子大生と互角に渡り合える自信がある。だから若い女子社員とは話が合う。同じ60才でもジイサンのような同期も居れば、僕のようにその気になれば後10年は平気で現役を続けられる人間もいるのだ。一律に「60才定年」を押し付けるのは全く非合理的だ。うちの会社では数年前から再雇用制度ができて65才まではクビにならないが、60才になると給与がほぼ半分になってしまう。

僕は妻とも相談した結果、再雇用制度には応募せず60才できっぱりと退職するという道を選択した。ある程度の財産形成は出来ているから、あくせく働かなくても生活レベルは維持できる。3月末に退職したら、しばらくは旅行をしたり羽を伸ばしてから再就職先を探すか起業でもしようと考えた。仮にうちの会社に残ったところで5年後には退職することになるし、それなら気力も体力も十分な現時点で退職して新しいライフスタイルを模索する方が理に適っているというものだ。

僕の60才の誕生日は3月6日の日曜日で、前々日の金曜日にうちの部の連中が退職記念パーティーを開催してくれた。パーティーといっても近くのレストランの一室を借り切った飲み会なのだが、部員25人の殆どが出席してくれた。一応3月31日までは社員の身分だが、明日から有給休暇の未消化分を取得するので、今日が事実上の最終勤務日だ。

「来週からは麻生さんのダジャレが聞けなくなると思うと寂しいですよ。」
芹沢君が僕にワインを注ぎながら言った。芹沢は僕が10年ほど前に中途採用した課長で僕とは相性が良くいつも一緒に仕事をしたものだ。しかし、ダジャレが聞けなくて寂しいと言われてもちっとも嬉しくなかった。その程度なのか。芹沢でさえこれだから、他の連中は僕が辞めても何とも思わないのだろう。

「麻生さん、会社を辞められても、分からないことがあったら質問して良いですか?」
そう言ってLineの友達になりたいと申し出たのは入社2年目の水田亜希子だった。僕たちはスマホをフルフルして友達登録した。歓送会の最後にもらった花束と記念品よりも、水田亜希子の友達登録の方が僕にとっては何倍も価値があると感じた。退職で一番悲しいことは、会社の女の子たちに会えなくなることだ。勿論、しょっちゅう無駄話をしていたわけではなく、たまたま昼食が一緒になった時とか飲み会とか何か仕事の用事とか、一日にほんの数回言葉を交すだけだったが、若い女の子たちとのさりげない交流は僕の生きがいだった。明日からは4才年下の女房と話す以外は、盆や正月に帰省して姪と会う時ぐらいしか女性と話しをする機会がなくなる。それは本当に悲しいことだ。

パーティーが終りに近づくと、うちの会社での38年間のサラリーマン生活が本当に終わってしまったことを実感して虚しさが込み上げてきた。最後に万歳三唱されて、さらに虚しくなった。花束を持って一人とぼとぼと帰宅した。

* * *

3月6日の日曜日の朝、目を覚ますと妻の多恵子が「還暦おめでとう。」と笑顔で言ってくれた。僕は本当に60才になってしまった。

今日はひと月ほど前から楽しみにしていた同窓会の日だ。それは中学の「第1回東京同窓会」だった。中学の同窓会は既に何度か福島で開催されたが、2年前の同窓会の際に、東京近辺の在住者で「東京同窓会」を開こうということになった。小、中、高と一緒だった勝浦が幹事を引き受けて企画してくれた。今日の参加予定者8名のうち7名は福島での同窓会などでちょくちょく顔を合わせる連中だが、残りの1人は中学を卒業して以来1度も会っていない人物だった。それは後藤田美咲さんという、僕の中学時代の憧れの女性だ。彼女が中3の夏に父親の転勤で東京に引っ越して以来の再会だから、正確に言うと45年と7か月ぶりということになる。

幹事の勝浦からのメールには昔のままの苗字で後藤田美咲と書かれていた。結婚しなかったのだろうか?いや、養子を取ったか、離婚して後藤田姓に戻ったのかも知れない。旧姓を通称として使っている女性も多いし、死に別れということもあり得る・・・。僕には多恵子という妻がいて仲良く暮らしているのだから、後藤田美咲が独身だろうが夫のいる身だろうが同じことだ。でも美咲に会えると思うだけでワクワクした。僕の頭の中にあるのは中学の卒業アルバムに載っている顔だ。女優に例えると広瀬すずの2年前頃とよく似た、切れ長の目をした美人だ。僕よりも少し小柄だがスポーツウーマンで爽やかな感じの子だった。中3の春の時点での僕の身長は159センチだったから、後藤田美咲は156~157センチといったところだろうか。しかし、同窓会に来るのはあれから45年の年輪を重ねた女性だ。あまり当時のイメージを頭に描いて期待をすると実物を見て落胆するかも知れない。

同窓会の会場は秋葉原駅から中央大通りの裏筋を上野方向に行ったところにあるイタリアン・レストランだった。午後6時半開始だったが僕は6時過ぎにレストランに着いた。後藤田美咲の前か、最悪でも斜め前の席に座りたいので早めに行って良い席を取ろうと思ったからだ。レストランの入り口で勝浦の名前を言うと、左奥の個室に案内された。勝浦が先に来ていて、8人がけのテーブルの手前側の2つ目の席に座っていた。

「おお、麻生。久しぶりだな。」

「何が久しぶりだ。年末に高校の同窓会で会ったばかりじゃないか。」

「年末からはもう70日近くになる。久しぶりと言うべきだ。とにかく麻生、俺の横に座れよ。」

勝浦の右の席を指さされた。手前の右端の席だ。

「もっと真ん中の席に座っちゃだめかな・・・。」

「だめだ。俺の周囲の中央部分の3席は女の子を座らせる。参加者8人のうちで女の子は3人しかいないから、俺の左と、その正面と、俺の正面に座ってもらう。」
あっさりと拒否されて、僕は渋々手前の端の席に座った。

「ということは、僕は斜め前にしか女の子が居ないわけだな。せめて、奥の端に座らせてくれないか。そうすれば隣と斜め前が女の子ということになる。」

「麻生、セコイことを言うなよ。奥に座ったら俺と離れてしまうじゃないか。俺は麻生とも話がしたいんだ。」

「いいなあ、勝浦君は女の子3人と話せる席で。」

「バカ野郎。幹事の特権だ。」

幹事にそう言われると仕方ない。僕は後藤田美咲が左斜め前の席、すなわち勝浦の正面に座るように上手く誘導しようと心を決めた。

いい年して女の子、女の子、と言っているが、よく考えると60のオバサン、いや、悪く言えばバアサンだ。昔からのクセでそう言っているだけだ。高校の同窓会でも女性の事を女の子と呼ぶし、女の子たちは自分の事を女子と言う。可笑しなものだ。

6時20分を回ってほぼ同時に4人が到着した。男女2名ずつだった。勝浦が女の子たちを所定の場所に座らせようとして必死に交通整理していた。勝浦の苦労が実って、勝浦と僕の前の2つの空席を残して6人が着席した。よかった!これで後藤田美咲が僕の左斜め前に座ることが確定した。

6時半丁度に男女1名ずつが息を切らせて駈け込んで来た。同窓会のたびに会う秋葉浩二と、もう1人は長身で颯爽とした感じの女性だった。後藤田美咲を今か今かと待っていた僕の心の緊張がプッツリと切れた。僕は心から落胆した。美咲は来られなかったのだ。

この女性は誰だろう?50代半ば並みの肉体を自認する僕よりも更に若く見える。50才と言っても通りそうな体型と肌のハリだった。中学の同期で170センチもある女子は宮沢さんと須藤さんぐらいだった。記憶の糸を手繰ってもこんな女子は出てこなかった。

先に入って来た秋葉浩二が勝浦に言われて僕の前に座った。勝浦はその女性を自分の正面の席に座らせようとしたが、その女性が秋葉に言った。

「秋葉君、悪いけど、真ん中の席に移ってくれない?私、そこに座りたいから。」

秋葉は怪訝そうな表情で「ああ、良いよ。」と言って右の席に移ろうと立ち上がった。

「いや、女子が真ん中に座るルールだから。」と勝浦が秋葉を制した。

「ごめん、私、どうしても麻生君の前に座りたいの。お願い。」

「仕方ないなあ・・・。」と勝浦が譲り、秋葉が席を移動して、その女性が僕の前に座った。今、彼女は確かに「麻生君の前に座りたい。」と言った。この女性は一体誰なのだろう?

勝浦が「今日は後藤田美咲さんも来てくれて8人で第1回の東京同窓会を開催することが出来てうれしく思います。」と校長先生のような挨拶をして生ビールで乾杯した。ということは、この長身の女性が美咲なのか!おかしい。僕の頭の中の画像記憶領域がウィルスに侵されたのだろうか、それとも別人が成り替わって後藤田美咲のフリをしているのだろうか・・・。

「麻生君、今日で60才ね。お誕生日おめでとう。」
どうして僕の誕生日を知っているのだろうか。この女性は邪悪な意図で周到な調査を行ったうえで僕に近づいた詐欺師なのかもしれない。僕は身構えた。

「どうしたの、その顔?私を覚えていないの?後藤田美咲よ。中2の時に学園祭で演劇の台本を2人で作ったじゃない。」

この長身の女詐欺師はそんなことまで調べて来たのか・・・。

「後藤田美咲さんのことは勿論覚えているよ。ていうか、憧れていた人だから今日会えるのを楽しみにしてたんだ。でも君は後藤田さんじゃない。後藤田さんはこのぐらいの背で、広瀬すずみたいな顔の子だったもの。」

「アハハハハハ。麻生君、私の顔をよく見て。」
その女性は顔を僕に近づけて、目を丸く見開いて僕の目を覗きこんだ。

それは確かに後藤田美咲の切れ長の目だった!

「ほんとだ。目がそっくりだ。全体の印象が全然違うから気がつかなかったよ。後藤田さんの妹さんとか従姉妹なの?」

「まだ信じてないのね。私、高校に入ってから急に背が伸びたのよ。バスケ部とサッカー部を掛け持ちしていたから体型や性格も変わったかも。麻生君の顔は中3から全然変わってないわね。こうやって向かい合っていると、あの頃に戻ったみたいでドキドキする。」

「そうなんだ・・・。」
ドキドキすると言われて僕も嬉しかったが、本当に後藤田美咲本人だろうか?

「まだ納得していないようね。じゃあ、何か質問してみて。私たちだけしか知らないこととか。」

「図書館の裏とかで、何か特別な思い出はない?」
それはファーストキスのことだった。中3の夏休みの前に転校の話を打ち明けられた時に、目の前でうつむいた美咲の額に僕がチュッとキスをしたのだ。

「引っかけようとしているのね。図書館の裏じゃなくて体育館の裏よ。麻生君がここにキスをしたのは。」
美咲は僕がキスした場所を正確に指さした。

「後藤田さん!」
それは確かに後藤田美咲だった。僕は美咲の手を握った。目が涙で潤んだ。

「よかった。初恋の人にやっと信じてもらえて。私、転校してからもずっと麻生君のことを考えていたのよ。」

「それならもっと早く情報を流してくれればよかったのに。」

「忙しかったのよ。高校はバスケとサッカーと勉強で忙しかった上に、文芸活動もしていた。東大に入学後はバスケとサッカーから足を洗って文芸活動と女性の地位向上のための活動で飛び回っていた。学生結婚して、3人の娘を育てながら会社勤めをして、店頭上場企業の役員になって、55才で女性の地位向上の関係のNPOに移った。それからも土、日も無しに飛び回ってきたのよ。去年の秋に60才になった時に後進に道を譲って、顧問的な立場になったから、やっと自分のことを考える時間ができたの。それで真っ先に思ったのが麻生君に会いたいということだった。」

「後藤田さんが上場企業の役員になったことは風のうわさで聞いたことがある。すごいね、カッコいい人生だ。」

「ありがとう。私、カッコいいと言ってもらうのが一番うれしいのよ。麻生君にそう言ってもらえたなんて夢みたい。」

「苗字は後藤田さんのままなんだね?」

「いきなりその質問?娘たちがまだ小さい時に離婚したのよ。私が女性の地位向上の活動をすることをサポートしてくれる人だと思ったからプロポーズを受けて結婚したんだけれど、蓋を開けてみたら昭和初期並みの性差別意識の男だった。失敗だった。実は私、32才の時に探偵を雇って麻生君のことを調べさせたことがあるのよ。でも麻生君が幸せな結婚生活を送っていることが分かったから断念した。」

「断念って?」

「独身だったらプロポーズしようと思ったのよ。そのころ母が病気になって、小5、小3、小1の娘の面倒を見てもらえなくなったの。麻生君なら私についてきてくれると思ったから。」

「僕に娘さんたちの面倒を見させるということ?」

「麻生君を私の奥さんにしようと思ったの。麻生君は女性を主人として受け入れることのできる、心の広い人だから。」
心が広いと言われるのは嬉しいが、女性を主人として受け入れられると決めつけられても・・・。中学時代の僕はそんな印象の少年だったのだろうか?

「その時に僕がもし独身だったら家事と子育ての人生を歩んでいたわけか・・・。東大出のエリート女性の奥さんになるというのは恥ずかしいな。ママ友との付き合いとか、舅姑との関係とか・・・。僕の実家の家族からも冷やかされるだろうな。」

「麻生君が私にプロポーズされたらOKするという前提で話してくれるのを聞いて嬉しいわ。」

見透かしたように言われて、自分の顔が真っ赤になるのが分かった。

「でも僕、今も女房と仲良くしているから。」

「うふふふ、分かってるわよ。今、麻生君に結婚を迫っているわけじゃないわよ。」

既に紅潮していた顔がゆでだこのように真っ赤になった。顔から火が出そうだった。

「今日麻生君の前に座った目的は離婚して私の奥さんになるように口説くためじゃないの。全くそんな期待が無かったといえばウソになるけど・・・。麻生君、若返りたいと思わない?」

「な、何だよ、突然。そりゃあ、若くなりたいさ。でも、サプリとか、化粧品とか、エステとか、新興宗教とかは興味無いよ。」

「麻生君、私がそんな勧誘をしようとしていると疑っているの?」

「そ、そんなことはないけど。」

「少し若く見えるようになる、という類の話じゃないのよ。60才の私たちの身体が20才に若返るという話に興味があるかどうかと聞いてるの。」

「勿論興味はあるよ。若返りをテーマにした映画とか小説のこと?」

「若返りの秘湯のことを覚えてる?裏磐梯の山中に秘密の温泉があって、ひと晩浸かると老人が若者になったという話よ。」

「中2の時に一緒に調べた会津の伝説の中に確かそんな話があったよね。」

「そう。その温泉が見つかったのよ。」

「ウソだろう!」

「うちのNPOに相談に来て私が対応した20才の女性から秘密裏に聞いた話なの。その人が76才だった時に、ある山奥の温泉の従業員に教えられて、その温泉の奥の林の中を通り抜けた所にある秘湯に入って20才に若返ったんだって。会社勤めを始めたところセクハラを受けて困っているという相談だった。」

「それで、その女性から秘湯の場所を教えてもらったわけ?」

「そうよ。スマホの地図にその山奥の温泉の建物の場所が表示されたから、露天風呂からどちらの方向に入って行くのかを教えてもらった。温泉の裏は絶壁になっていて下に川が流れているのよ。絶壁沿いに左に歩くということで、地形から判断してたどり着ける場所は限定されているから、その秘湯の場所がほぼ特定できたの。」

「裏磐梯の山中なら標高によってはまだ雪が残っているかも知れないね。」
「それが、秘湯の場所は裏磐梯じゃなかったのよ。見せてあげようか?」

美咲はスマホの地図を拡大して僕に見せた。それは長野県佐久市から八ヶ岳連峰の北の端の方向に上がって行ったところにある温泉だった。

「その女性は気が狂っているか、想像力が豊かな人なんだよ、きっと。」

「それでもいいじゃない。夢を見ましょうよ。万一本当に若返ったらラッキーということで。」

「長野か、遠いなあ。」

「佐久インターから僅か半時間よ。東京から2時間半ってところかな。麻生君の場合は奥さんにどう説明するかが一番の問題ね。」

「うちの女房は25日の金曜日に福島の実家に帰るからその週末なら大丈夫だけど。」

「麻生君は一緒に帰らないの?」

「女房の父が老人介護施設に入ってるんだけど、女房のお姉さん夫婦が実家に住んでいていつも面倒を見てるんだ。女房はそのことを申し訳なく思っていて、春休みにお姉さん夫婦を旅行に行かせてあげるために実家に帰る予定なんだ。僕は邪魔になるだけだから一緒には行かないことになっている。」

「良い奥さんなのね。でも、同窓会で再開した初恋の女性と浮気する為に温泉旅行に行くわけじゃないから、良心の呵責にさいなまれる必要は無いわよ。」

「後藤田さんが僕の初恋の人だとは言っていないけど。」

「言わなくても分かってるわ。」

「女房に内緒で行って、もし本当に若返ったら困ったことになるよね。」

「その時は体当たりして率直に話し合えばいいのよ。」

「そりゃそうだね。ていうか、本当に若返るはずが無いよ。まあ一度ぐらい女房に内緒で、中学の友達と長野に冒険旅行に行くぐらいなら万一バレても許されるよね、きっと。」

「じゃあ約束よ。私が車を出すから三鷹まで電車で来てくれない?26日の土曜日の朝にJR三鷹駅の北口で麻生君を車でピックアップするということでどうかな?」

「何か用意すべきものは無い?」

「林の中を歩いて秘湯を探すから、山歩きのような服装とトレッキングシューズがあれば良いわね。それから、翌朝、若返った後でも似合いそうなスポーツウェアを着替えとして持ってきて。ドローンは私のを持って行く。」

「ドローンって、あのUFOみたいなやつ?後藤田さんがあんなものを持っているの?」

「そうよ。林の中を歩いて探しても見つからない場合は上空から捜索するのが一番だから。私の三女の夫が去年ドローンを買って河原で飛ばすのについて行ったのよ。面白くて夢中になったから、自分用に1台買ったの。まだ1度しか使っていないけど、私はドローンの操縦に関しては才能があるみたい。」

美咲と僕はずっと2人だけの会話に夢中になっていた。

「これから一人一人の近況報告ということで後藤田さんからお願いします。」
勝浦の言葉が耳に入って「今日は同窓会なんだった。」と現実の世界に引き戻された。

美咲はさっき僕に言ったような内容の近況報告をした。絵に描いたようなエリート人生で、55才で上場企業の役員のポジションを捨てて、自分の思想を実現する為にNPOに移ったというところがカッコいい。皆も「へえー、すごいな。」と口々に言っていた。僕が多恵子と結婚していなければ32才のときに、この人の奥さんになっていたかも知れないんだと思うと、誇らしいような、恥かしいような複雑な気持ちになった。

最後に僕が「今月末で定年退職します。一昨日が最終勤務日でした。」と近況報告すると、「英断だ。実に素晴らしい。」と勝浦が言って皆から拍手された。しかし、今日参加している女子3人のうち2人は医者で、男子5人のうち僕以外は65才まで働く意向なので、結局退職するのは僕1人であり、拍手されても素直に喜べなかった。外観的には僕が一番若いのに・・・。

「暇だったら後藤田さんのNPOで働けばいいのに。」と吉峰由紀子に言われた。

「アシスタントの女の子が3月末で辞めるから、麻生君が来てくれるなら大歓迎よ。」と美咲が本気な感じで言った。

「いっそ、後藤田さんの奥さんになったらどうだ。」酔いが回った秋葉がつまらない冗談を言ったが、僕は「結婚してるから」と言い訳をするつもりは無く、秋葉を無視した。

「私としては大歓迎よ。」美咲が僕に顔を近づけて、他の人に聞こえない声で言った。

その時にウェイターが来て「5分後がラストオーダーです」と僕たちに言った。飲み放題2時間半のコースだったが、やはり飲み放題というシステムには弊害がある。どうしても飲む量が増えてしまうので、先ほどの吉峰由紀子や秋葉浩二のように、素面なら言わないような失礼なことを平気で発言する人が出てくる。誰でも酔うと気が大きくなって相手の気持ちに配慮せずに本音が出てしまうのだ。

吉峰と秋葉の発言に続けて美咲が「大歓迎よ」と2回言ったが、それは本気なのだろうか・・・。僕はこの同窓会に来てよかったのかどうか分からなくなった。僕は多恵子と平穏に暮らしていたのに、初恋の人が45年ぶりに目の前に現れて、僕の心に踏み込んで来て、僕の心は柳のように揺れている。

「えー、宴たけなわではありますが本日はこの辺でお開きにさせていただきます。次回の幹事は秋葉君が引き受けてくれました。よろしくお願いします。」

全員がフラフラと立ち上がった。美咲と僕は他の6人の後姿を見てから立ち上がった。

「あれれれっ!麻生君、中3の時のままなのね。」
美咲が僕の前に立って言った。僕の目の高さに美咲の唇があった。

「中3の時は159で今は162.7センチあるから少しは伸びたんだけど・・・。後藤田さんは僕より小さかったのになあ。」

「私は172.9センチだけど人には172センチと言ってるの。麻生君よりも丁度10センチ高いのね。こんなだと、おでこにキスをするのは私の方になっちゃうわね。」

突然、美咲は僕の肩に両手を置いて額にキスした。予期せぬ出来事で心臓が止まりそうになった。

「真理夫、今日会えて本当に良かったわ。26日が楽しみね。」
中学の時には麻生君と呼ばれていた。美咲からファーストネームで呼び捨てにされたのは生まれて初めてだった。

「は、はい。」
僕は美咲を見上げて思わず敬語で答えてしまった。


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女性が全てを支配する日 「性転のへきれき」

桜沢ゆう「性転のへきれき」シリーズの非リアル系の小説で「昔男性が支配していた世界」という著者自身にとっては大好きな作品があるのですが、売り上げはシリーズ中の「低迷ランキング」の常連です。

面白い小説なのに、どうして売れないんだろう?と悩んだ結果、ひとつ思い当たりました。それは題名です。「昔男性が支配していた」と言えば「今はそうじゃないんだな」と連想してもらえると思って回りくどいタイトルを付けたわけですが、もっとストレートに内容を表すタイトルにしないと分かりにくいのだ!と気付いたのです。

そこで・・・
女性が全てを支配する日

こんなふうに「女性が全てを支配する日」という新タイトルに変更しました。


昔男性が支配していた世界タイトル変更前の表紙はこちらです。 タイトル変更後も旧タイトルを「副題」として表示してありますが、「昔男性が支配していた世界」を購入済みの方は重複して「女性が全てを支配する日」を購入されないようご注意ください。


私はクローン・性転のへきれき(里奈の場合)

桜沢ゆう性転のへきれきシリーズ新作小説「私はクローン(里奈の場合)」が出版されました。

向坂大吾は32才のIT会社社長です。末期癌におかされ余命3ヶ月を宣告され、それをFacebook、Twitter、公式HPなどで公開し、癌克服の方法について公募します。

その結果、2つの新規技術に救いを求めて奮闘します。

一つはAEDという治験段階以前の強力な新薬候補物質(天然物の誘導体)です。

もう一つは向坂大吾の細胞からクローン人間を作って脳の中の情報を転写するというとてつもない方法でした。

AEDは濃度を上げた段階でアナフィラキシーショックを起こし向坂大吾は意識を失います。冷たいベッドの上で目を覚ました「私」は、何となく元の身体とは少し違っているような気もしましたが、クローンの実験が成功したことを悟ります。そして・・・・。



 性転のへきれき(里奈の場合)

私はクローン

第1章 人生最大の危機

9月30日(水)

精神的な強さが自慢だった。

どんな逆境でも平然として立ち向かうことが出来ると自認してきた。受験に失敗して一流半の私立大学に進学したがクヨクヨせずに大学生活を楽しんだ。就職した一部上場企業が倒産した時も、その後友人と設立した会社が行き詰まった時も、気力を失わずに前進した。

自分は運の強い人間だと信じ、何があっても頑張った。その結果として今の自分がある。背水の陣で開始した音楽検索サービス「トゥルヴェ」が成功し、株式会社トゥルヴェのJASDAQ上場を果たした32才のIT会社社長である向坂大悟、それが私だ。

「苦境を与えてくれた神様に感謝しよう。逆境に会ったら嬉々として前を向こう。苦境こそが私たちの資産だ。」という社是を掲げて社員を鼓舞してきた。

それが何というざまだ。今の私には前進するどころか、立ち上がる気力もない。数分前に医者からCT検査の画像を見せられ末期癌の宣告を受けた私はその場では平然を装ったが、診察室を出た瞬間に鼓動が異様に高まり脳の血管が今にも破裂しそうになった。しばらくすると全身から血の気が引いて膝が諤々と震えた。かろうじて近くの長椅子に辿り着き、腰を下ろして頭を抱え込んだ。

長椅子での茫然自失の状態がどれほどの間続いたのかは覚えていない。思考は完全に停止していたが、それでも私の脳の中には結論が醸成されていた。

「この逆境は乗り越えなければならない。」

余命3ヶ月と言われたが、定期検診の腹部エコーの結果の再診で癌が確認されたという経緯であり、これといった症状の自覚はない。病状を知らされて敏感になった私に、これから雪崩のように苦痛が襲いかかるのかもしれないが、まだ戦うための体力と時間は残っている。

昨年、星陵高校が石川県大会決勝で8対ゼロでリードされて迎えた9回裏、彼らは諦めることなく戦い続けて逆転し2年連続の甲子園出場を決めた。私は今、10対ゼロでリードされた9回裏2アウトのバッターボックスに立っているのかも知れないが、戦い続けてこそ勝利の可能性が出てくるのだ。

だからといって戦いの具体策を持っているわけではない。

こんな場合は人に聞くに限る。まず、私は6万人のフォロワーがいるTwitterで病状について詳細に公表するとともに、この苦境を必ず乗り越えるという決意を表明した。次に1200名の厳選した友達がいるFacebook、及び公式ウェブサイトで更に詳細な病状を記し、私が苦境を乗り越えるための協力を依頼した。続いて、Google AdsenseとFacebook広告で、医学、医薬、分子生物学、免疫学、癌研究、等々のキーワードによりターゲットを絞った広告を掲載して公式ウェブサイトへのクリックを誘導した。

これらの記事には「予算:50億円」と明記した。上場を経て私の持株の時価は約70億円に達している。病状を公開すれば株価が下落する可能性が高いが、それでも50億円程度の価値は残るだろう。全財産を使っても生き残ればまたゼロからスタートすればよい。

午前零時になった。私は人生最大の危機に遭遇したが、今日のうちにできる事は全て実施したという達成感を枕に眠りについた。


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「性転の秘湯」性転のへきれきシリーズ

性転の秘湯

桜沢ゆうの性転のへきれきシリーズ新作小説「性転の秘湯」が出版されました。

以下は「あとがき」からの引用です。

私は温泉が大好きで、少なくとも2時間をかけて楽しむことにしています。この小説は先月末に春日温泉の露天風呂でプロットを(頭の中で)書き上げたものです。

春日温泉は美肌の湯として有名です。お肌に優しい泉質ですが、本当にしっとり、さらさらの肌になり驚きます。露天風呂は少し異なる造りの岩風呂が2つあって交互に男湯・女湯として使用しているそうです。私が行ったのは六角形の屋根のある方の岩風呂で、風呂から和風の落ち着いた建物を見たときの光景が非常に美しいと思いました。37.4度という低めの温度なので、たっぷり2時間浸かりっぱなしでも平気でした。

この小説を読んで、秘密の動物の湯にも行きたいと思われた方は、春日温泉に2,3泊されればチャンスが訪れるかも知れませんよ。

2015年9月 桜沢ゆう


 


性転の秘湯

副題:「春日温泉の湯守」

序章

晴れた天空から星が降る夜、傷ついた牡鹿が人里に迷い込み、湯気の立つ一画を見つけた。晩夏の高地の夜は肌寒い。鹿は湯気の立つ方へと魅せられたように重い足を進めた。生垣の割れ目をやっとの思いで跳び越えると、岩場に足を滑らせて池に落ちてしまった。暖かかった。それは岩に囲まれた浅い湯だまりで底は平らで滑らかだった。鹿は体験したことのない暖かな安堵に身を委ねて目を閉じた。

北八ヶ岳から蓼科山の自然の中で雄々しく生きてきたが、牡鹿は自分の人生が残りわずかになったことを自覚していた。角はかつての輝きを失い、皮は化石のように固くなってしまった。跳躍しても前脚が次の岩に届かず不格好に転ぶ自分が惨めに感じられて、つい嘆息してしまう。早朝に人間の仕掛けた罠に右脚を挟まれ、何とか逃れることが出来たものの、その傷が牡鹿の体力をじわじわと奪った。鹿曲川の沢沿いに下って人里に来てしまい、尾根へと迂回しようと徘徊するうちに春日温泉の一角に迷い込んだのだった。

朝霧の白い影と小鳥のさえずりに目を覚ました牡鹿は、温泉の心地良さにもうしばらく浸っていたいと思った。その時、岩風呂に接する建物の扉が開いて若く美しい青年が出てきた。青年は露天風呂に浸かる鹿を見た。鹿と視線が合って、青年の顔に微笑が浮かんだ。鹿は跳び起きて露天風呂の奥の木立の中に消えて行った。

青年は湯守だった。露天風呂の排水口を開き、風呂を綺麗に清掃した。鹿の居た辺りには特に念入りにタワシをかけてからホースで何度も放水し、源泉からの配管の蛇口をひねって露天風呂に湯を満たした。

露天風呂から木立へと逃げた鹿は身体の異変に気づいた。傷が殆ど癒えて足取りが軽い。化石のように固かった皮膚が昔の潤いをいくらか取り戻したように感じられる。木立を分け入ると、灌木の茂みの中に先ほどの温泉と似た臭いが漂う場所があった。茂みに潜ると、立ってやっと通れる高さの洞窟の狭い入り口があった。身体を滑り込ませて進むと、岩と木々に周囲を囲まれた美しい泉に辿り着いた。

それは天然の岩風呂で、鳥たちに加えて猿、イノシシ、リス、野兎などの先客がいた。眠っているかのように静かで、お互いの存在を全く気にしていない。牡鹿は身体に残る露天風呂の暖かい余韻に背中を押されるように岩風呂の湯の中に身体を委ねた。牡鹿は長い安堵の吐息を洩らして目を閉じた。

はっと気がつくと太陽は頭上を西方に過ぎていた。湯の中で半日も休んでいたのだ。鹿は照れ臭さに微笑んで立ち上がり、岩へと跳び上がった。身体が軽い。右脚の傷は跡形もなく消えて、全身を包む皮が明るく潤っている。鹿は岩の縁に立ち、水面に映る自分の姿を見て目を疑った。映っているのは若い女鹿だった。頭を左右に振るとその女鹿の頭も左右に揺れた。頭から角の重みが消えている。

遠い彼方から群れの牡鹿の声が耳に届いた。その声には自分に発情を促す不思議な響きと魅力が含まれている。鹿は乳房に体験したことの無いハリを感じながら洞窟をすり抜け、尾根へと駆け上がって行った。


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「男が妊娠・出産する世界 」性転のへきれき(純弥の場合)

Amazon 男が妊娠出産する世界(性転のへきれき)純弥の場合

桜沢ゆうの新作小説「男が妊娠・出産する世界 」が性転のへきれき第12弾(純弥の場合)として7月10日にAmazonで出版されました。

主人公(僕)は3人の仲間と卒業旅行に出かけるのですが、旅行の企画と手配は彼女に任せます。彼女は未来シミュレーターによる別世界での体験に関するブログ記事を見かけ、未来シミュレーターの代理店で旅行を手配しました。

3月27日出発の卒業旅行のメンバーと4月1日からの就職内定先は以下の通りです。

  • 大沢純弥(僕) 中堅メーカーの総合職
  • 原口玲央(彼女) 超一流企業の総合職
  • 水口 弦(親友) 証券会社の総合職
  • 沢尻真理(弦の彼女) 商社のOL

彼女が手配した旅行は別の惑星への旅行でした。その惑星では日本語を話していて、一見日本と同じように見えたのですが、主人公達はすぐに根本的な違いがあることに気付きます。その惑星では「根本的な」女性上位で男性は徹底的な支配下におかれています。その原因は、妊娠・出産するのが女性ではなく男性である点にあるようだったのです。

未来シミュレーターシリーズの「危険な誘惑」を読んだ方は未来シミュレーターの仕組みについて詳しくご存知と思いますが、「危険な誘惑」をまだ読んでいない方のために、簡単にご説明しておきたいと思います。

未来シミュレーターは東京都千代田区の秋葉原の本通りから一本西に入った裏通りで、ツクモ電機の手前を左に曲がって少し行った小さなビルの5階にある施設です。受付のマシンに必要な情報をインプットし、その奥の左の入り口から小部屋に入ると、そこから別世界に飛びます。

「危険な誘惑」では、未来シミュレーターが被験者の脳を潜在意識の領域まで隈なくスキャンして、願望、欲望、欲求、妄想などの情報を読み取った上で、被験者(および同伴者)を、その願望が実現された別世界に連れて行きました。

未来シミュレーターは受付のマシンで被験者が乖離度を設定することができます。願望が実現された別世界に行く訳ですが、その別世界が現実世界からどの程度乖離しているかについて乖離度を1から5の範囲で設定できるのです。ちなみに推奨設定は乖離度2となっています。「危険な誘惑」では主人公が乖離度1の旅を2回と、乖離度5の旅を1回選択しましたが、乖離度5を設定した時はマシンから「危険です」との警告が出ましたが主人公が警告を無視して乖離度5を選択したので極度に異常な世界に飛ぶ結果になりました。また、乖離度1でも性の転換が起きたほどですので侮れません。今回のストーリーでは被験者が乖離度4を選択する予定であり、現実世界との乖離度は相当なものとなるはずです。

もうひとつの重要事項としては、別世界での滞在時間があります。別世界での滞在がどんなに長くても、滞在時間が終了すると、元の世界では出発時の数分後に帰着します。別世界での滞在時間は支払う料金によって長くも短くも設定できます。千円で2時間、2千円で4時間、3千円で8時間、4千円で16時間、すなわち「n千円」払うと「2のn乗時間」だけ別世界で滞在できます。例えば1万円だと2の10乗で1024時間(約42日間)、2万円だと2の20乗で約120年間(一生より長い)となるわけです。別世界で死ぬまで過ごしても、その後は元の世界(数分後)に戻ることになります。

「現実からの乖離度を設定した上で、近未来の別世界をリアルに疑似体験させてくれる」のが未来シミュレーターということになりそうです。他人事のように申しましたが、作者自身、まだ未来シミュレーターについて真相を十分には知らないのです。

未来シミュレーターは「被験者と同伴者の脳内だけで体験される架空の世界」であるというのが、第1弾の「危険な誘惑」を読んだ上での認識でした。つまり、リアルではない想像だけの世界、と思っていました。しかし、今回の被験者は未来シミュレーターの実態がそのような単なるデジタル・システムではなく、遥かに複雑かつ壮大でリアルなものであるかも知れないということを実感することになるのです。

 

【試読コーナー】

第1章 お手軽な卒業旅行

「ねえ、3月末に卒業旅行に行かない?できれば海外に。」
そう言いだしたのは玲央だった。今日はもう3月15日で、大学生という自由な身分もあと2週間で終わりだ。

玲央は僕の彼女で、僕の親友の弦と、その彼女の真理を含めた4人は大学入学直後から何かにつけて一緒に行動している仲間だ。僕、大沢純弥は4月1日から江東区にある中堅メーカーの社員になるし、他の3人も都内の企業への就職が内定している。

僕の彼女の原口玲央は4人の中で断トツに成績が良く、僕や弦が留年せずに一緒に卒業できるのは玲央のお陰と言っても過言ではない。玲央は身長167センチの長身の美人で、4月には日本を代表する超一流企業に総合職として就職予定のエリートウーマンだ。玲央という名前は漢字で見ると女の子の名前に見えるが、アルファベットで書くとLEOで、男子でしかありえない名前だ。僕がそのことを玲央に冷やかすと、「純弥はジュンヤじゃなく、アヤミと読む場合の方が多いこと知らなかったの?普通、男なら純也と書くわよ。今日からアヤミちゃんと呼ぼうかな。」と反撃した。

僕は玲央に頭脳的に遠く及ばないだけでなく、身長も4センチ低い163センチで、玲央に勝る点といえば視力がマサイ族並みに良いということぐらいだが、玲央は僕を見下すこともなく、2人は結婚を前提に付き合う仲だった。

玲央と僕の組み合わせとは対照的に、水口弦と沢尻真理のカップルは大柄で男性的な弦と、女性らしい真理の組み合わせだ。弦は証券会社への就職が内定しており、真理は容姿を武器に六本木の商社に一般職として入社予定だ。

「僕は明日から福島に帰省して3月25日に高校の同窓会があるから、東京に戻れるのは3月26日になるよ。海外は無理だな。」
僕は玲央に率直に答えた。

「26日以降なら私も大丈夫よ。入社前に日焼けしたくないからその点だけは配慮してね。」
都内の実家に住む真理が僕の次に答えた。真理は肌をベスト・コンディションにして4月1日のOL初日を迎えたいのだ。

「俺も26日以降は空いてるけど、4月1日の出社前日はゆっくりしたいな。30日までに帰れるようにしてくれる?」
と弦が最後に答えた。

「じゃあ3月27日と28日の2日間を私に預けてくれる?予算は1人1万円で海外旅行を手配してみるから。」
玲央の話に耳を疑った。

「1人29,800円の韓国旅行というのは聞いたことがあるけど、1万円は無理だろう。羽田発の深夜便で釜山に飛んで、空港の食堂でビビンバを食べてすぐに早朝便で羽田に戻るとか、ひどいツアーじゃないの?燃料サーチャージで別途2万円取られるとか・・・。」
弦のコメントに、真理と僕も「うんうん。」と頷いた。

「深夜発の早朝着でも楽しいんじゃない?卒業前の地獄ツアーとして一生思い出に残るし。」
僕が言うと弦と真理も賛同した。玲央が必ず1万円で仕上げると自信をもって約束し、結局僕たちは財布から1万円札を出して玲央に預けた。

「じゃあこれから手配に取り掛かるわ。3月27日の集合場所とかはメールで流すから。」
玲央にまかせて僕たちは卒業旅行を楽しみに待つことになった。

「卒業旅行手配完了」と題したメールが玲央から届いたのは3月20日だった。

「海外旅行が手配できました。3月27日正午にJR秋葉原駅の電気街口の改札をAKBカフェ方向に出た所に集合してください。

出発日:3月27日
帰着日:3月28日
行き先:サプライズツアー
業者名:未来シミュレーター
服装:カジュアル、着替えは不要
その他:パスポート不要、手ぶらでOK
費用:追加費用は一切ありません。

騙されたと思って気軽に来てね!玲央」

海外旅行が手配できたと言いながらパスポート不要と書いてある。集合場所も空港ではなく秋葉原ということは、隅田川で遊覧船に乗るのをシャレて「海外」と言っているのかも知れない。それとも、深夜バスツアーで「海外」という名前の安ホテルに行って宴会・宿泊するという企画ではないだろうか。いずれにしても人を驚かせるのが好きな玲央の考えそうなことだ。しかし、着替えが不要と書いてあるのが腑に落ちない。女性なのだから、ホテルで1泊するなら「下着のみ持参」とでも書くはずだ。1万円ということは、深夜バスで大阪に行って、翌日の深夜に長距離バスで東京に帰るなどという地獄のバスツアーかも知れない。玲央のように体力の有り余っている人種は、時々とんでもない行動を平気でするから、ついて行くのが一苦労だ。とにかく、今となっては玲央のシャレに乗っかるまでだ。

僕は玲央のメールに書いてあった通り、3月27日正午の集合時間の10分前にJR秋葉原駅の電気街口に手ぶらで行った。白いスラックスと、ラコステのポロシャツに薄手のジャケットという軽装だった。

既に玲央と真理が来ていた。玲央は手ぶらで、白っぽいジーンズ・パンツ、グレーのティーシャツの上にシンプルなジーンズ・ジャケットというボーイッシュな服装だ。いつもと同じように格好良い玲央を前にして僕の胸がキュンとなった。

真理はパフスリーブでチェックのコンビワンピースという真理らしいフェミニンな装いだった。どう見ても強行日程のツアーに行く格好ではなく、真理も玲央の企画を何かのシャレと受け止めていることが窺える。

弦はダークグリーンのコットンニットのセーターとジーンズを着て、約束の時間の15秒前に姿を現した。

「全員時間通りに来てくれたのね。じゃあ、これから説明会をしてから出発よ。」
玲央はすぐ前の角のビルの右手の階段を上がって2階のダイニングバーに行き、僕たちは後を追った。

「ランチ代は1万円に含まれているからご心配なく。それに、ソフトドリンクは飲み放題だから。」

僕たち4人は窓際の奥の席に陣取って、日替わりランチを注文した。

「ねえ玲央、何時にどこから出発するの?こんなところでゆっくりしていて大丈夫なの?」
真理が僕たちを代表して質問した。

「出発は2~3時間後で、出発する場所はここから歩いて5分ぐらいかな。中央大通りを超えた1筋目を右に曲がって、ツクモ電機の手前を秋月電子の方向に左折したところの左側にあるビルの5階から出発するのよ。」
玲央が理解不可能な回答をした。

「浅草まで歩いて隅田川の観光船に乗るか、深夜バスに乗るのかと思ってたよ。」
僕が言うと、弦が「俺もそう思ってた。」と言った。

「秋月電子の手前の道は知っているけど、駐車場は右側だよ。左側には小さいビルが並んでいるだけだと思うけれど。」
そこで受付をして、右側の駐車場に停めてあるレンタカーでどこかに行こうという趣向だろうか。

「まあ、私の説明をよく聞いてちょうだい。
飛行機、バス、船、自動車などの輸送手段は使わずに、その5階にある未来シミュレーターの施設から別の惑星までテレポートするの。その惑星で旅行を楽しんだ後で、またテレポートで同じ所に戻って来るのよ。今日の4時に出発する場合、帰還は今日の4時5分になるわ。その後で、打ち上げ会をする費用まで含めて1万円。28日に帰還と書いたのは旅行らしく見せるためで、実は今日の夕方に解散するというスケジュールになってるわ。」
玲央の話を聞いて3人に落胆の表情が広がった。

「じゃあ、未来シミュレーターとかで5分間旅行の夢を見て、その前後に食事をするだけという企画なのか。」
弦がつぶやいた。

「地球の時間で言うと5分後に帰るわけだけど、テレポート先の惑星では何日も滞在できるのよ。私たちは相当長い旅行を体験するけれど、帰ってみれば5分しか経っていない、ということになるの。」
玲央の真剣な表情を見ると、冗談を言っているのではないことが分かった。もし、玲央以外の人が、特に僕か弦が同じことをしゃべったとすると「バカなことを言うな、お金を返せ」と言われるのが必須の内容だった。

「いいじゃない。他の誰も聞いたことが無いような卒業旅行の思い出を4人で作るんだから。」
真理の言葉に「そりゃそうだけど」と弦が賛同し、「玲央に任せたんだからついて行くだけだ。」と僕が続けた。

「でも、その未来シミュレーターというのは、一体どこで見つけたの?」

「ネットで、未来シミュレーターによる不思議な体験についての記事を読んだのよ。秋葉原のビルの中にあるタイムマシン的な装置で別世界に飛んで40日後に帰って来たという話なんだけど、ある程度の希望条件をインプットすると、その条件に合う世界に移動するんだって。その人は設定を間違えたばかりに首輪をつけられて犬のように鎖につながれたりして大変な経験をしたらしいわ。

これは面白いと思って、ネットで一生懸命検索した結果、未来シミュレーターの代理店のウェブサイトが見つかったのよ。メンバーズサイトになっていて、そこに入るパスワードを見つけるのに苦労したけど、何日目かに入ることができたの。英語のサイトだけどね。

それで希望条件をインプットして、クレジットカードで未来シミュレーターの料金と代理店手数料の合計で24,000円を払ったら、このカードが届いたの。」
玲央は財布から深いロイヤルブルーの色をしたプラスティックの薄手のカードを僕たちに見せた。小さな文字で出発場所として東京都千代田区外神田1丁目の住所が記されていた。

「もし嘘だとすれば手の込んだ詐欺だな。ところで玲央はどんな希望条件をインプットしたの?」
玲央の話をまだ信じていない弦の言葉を聞いて、玲央は少し腹を立てていた。

「万一詐欺だと判ったらその24,000円は私が負担するわよ。」
と玲央が言ったので、僕は、
「僕たちは玲央に任せたんだから、どうなっても4人全員の責任だよ。」
と玲央をサポートした。

「希望条件は、漢字4文字よ。内緒にしておきたかったけど、どうせその惑星に着いたら分かるから教えようかな。あててみて。」
玲央が元気を取り戻して言った。

「漢字4文字か・・・。わかった、美男美女、じゃない?」
「ブブー、はずれ。」
「無病息災、てなことないわよね。」
「ないない。」
「快眠美食?」

「ゲスするのは無理ね。じゃあ教えてあげる。女性上位よ。女性が上位な世界という希望条件をインプットしたの。」

「げえっ・・・・。上司が全員女性だけの会社に勤めるってこと?」
と弦。

「夫婦の力関係が逆みたいな世界かしら?」
と真理。

「僕と玲央は普段から女性上位だから、同じことだけど。」
と僕が言うと、残りの3人が「そりゃそうだ」と笑った。

「具体的にどのように女性が上位なのかは行ってみないと分からないわ。私たち来週には企業という男性上位の社会に飛び込むわけじゃない。私もある程度は覚悟が出来ているけど、就職する前に、逆に女性が上位の社会を経験できれば面白いと思ったのよ。別に純弥に対して偉そうにしたいというわけじゃないわよ。そんなこと、その気になればいつでもできるから。」
玲央の発言の最後の部分が少し引っかかった。

「滞在日数は何日なの?」
真理が質問をした。

「2の6乗時間で64時間、つまり2日と16時間のはずなんだけど、説明を読んでも良くわからなかったのよ。料金計算が1人当たりなのか、4人分なのかによって計算が違うんだけど、説明は難しい英語だし、結局よくわからなかったの。」
玲央にとって難しいことなら、僕たちに分かるはずがない。

「そこで何日いても、同じ日に帰れるんだからどうでもいいんじゃない。サプライズということで。」
弦の言葉に全員が同意した。

ウェイトレスが日替わりランチを配り、僕たちはコーヒーと紅茶だけの飲み放題バーに何度も足を運びながら話をした。女性上位がどんな形で盛り込まれた世界に行くのか、ということがメインの話題になった。

「パートナーの男性の毎日の服装は女性が決めて、男性は従わなければいけないの。私は弦にショートパンツで白いストッキングの王子様の恰好をさせるつもりよ。」
真理が想像の世界について語った。

「純弥には毎日ヒラヒラのスカートをはかせるわ。それもノーパンにして、純弥がエッチなことを想像したらスカートの真ん中がピーンと前に立ってバレるようにするの。面白いでしょう。それから、赤ちゃんが産まれたら、純弥のオッパイが大きくなって、家事と子育ては純弥がするのよ。私は命令するだけ。想像するだけでも楽しいわ。」

女性上位のアイデアに関する発言は玲央と真理に偏りがちだった。僕と弦には陳腐なアイデアしか浮かばず、例え突飛なことを思いついてもアイデアとして提案するのは恥ずかしい気がする。男性2人は少しマゾヒスティックな感傷に浸りながら聞き手に回った。玲央は発想が豊かなだけに、次から次へと恐ろしいアイデアを思いついては披露した。

ソフトドリンク飲み放題に時間制限は無かったが2時半を過ぎると、ウェイトレスが早く出ていって欲しそうなそぶりを何度も見せるようになり、僕たちは3時過ぎにそのダイニングバーを出て中央大通りを渡り、東京ラジオデパートの前を通って秋月電子の方向に歩いて行った。

ツクモ電子の手前を左折して少し行った左側のビルの狭くて急な階段を5階まで上った。ギャラクシー・コスモスの真上にあるそのショップはいたってシンプルな造りで、ロイヤルブルーに白抜きで「未来シミュレーター」と書いたロゴのあるガラスの自動ドアを通ると、正面に銀行のATMのようなマシンがあった。マシンの左側に「入口」と表示された自動ドアがあり、右側には「出口」と表示された自動ドアらしきものが見える。無人のショップのようだ。

「会員番号を入力するかサービスカードを挿入してください。」
という女声の合成音声が聞こえて、カードの挿入口に赤いランプが点滅した。

玲央は代理店から送られてきたロイヤルブルーのプラスチックカードをそこに挿入した。すると、マシンの画面に「あなたの会員番号は19xxxxxxLHです。緑の点滅をご覧ください。」と表示された。画面の上の緑の点滅を見つめると、約2秒後に点滅が消えて画面に「虹彩の登録が完了しました」と表示された。

「事前登録により乖離度は4に設定されています。変更を希望しますか?」
と画面に表示され、玲央が「いいえ」のボタンをタッチした。

「事前登録により女性上位の世界が条件として設定されています。変更を希望しますか?」
と画面に表示され、玲央が「いいえ」のボタンにタッチした。

最後に「料金は事前決済ずみです。乖離度4のサービスが13.5単位提供されます。左の入り口からお入りください。」と表示された。

マシンの左側にタッチ式の自動ドアがあり、「開く」と書かれた場所をタッチするとドアが開き、4人が中に入るとドアが閉じた。それは真ん中に長いソファーがあるだけの小部屋で深いロイヤルブルーの単一色で塗装されていた。入口のドアだろうと推定される接合部分があることは分かったが、出入り口も何もない、約2畳の完全に閉鎖された空間だった。

奥から真理、弦、玲央、僕の順にソファーに腰を下ろした。座る以外の選択肢は思いつかなかった。その部屋は無機質で誰かに見られているような感覚は一切なく、僕たちは何かが起こるのを待った。

段々と4人の緊張が高まるとともに、部屋が暗くなってきた。ドヴォルザークの新世界を編曲した交響曲が静かに流れ始め、部屋が真っ暗になった時点では身体全体が揺さぶられる程の大音量になっていた。バイオリン奏者の一人一人がどこにいるかが認識できるほどのリアルな音響と臨場感だった。オーケストラの指揮者の後ろに奏者と向かい合わせにソファーが置かれているような気がした。

僕の頭の中に引っかかっていた不安や期待を大音響が跡形もなく吹き飛ばし、コントラバスの響きが背骨を震わせ、木管楽器から流れるメロディーが僕の身体全体と共鳴した。それは至高の安らぎの空間だった。これを味わうだけでも玲央について来た価値があったと思った。玲央がダイニングバーで言っていた女性上位の世界のイメージが突然頭に浮かび、脇の下を擽られるような感触を覚えた。隣に座っている玲央を見ると、丁度玲央も僕を見て、2人で笑顔を交わし、僕たちはつないだ手をしっかりと握り合った。

まもなく、軽いしびれが全身を包み、身体が空中に浮いている感覚があった。完全な漆黒の闇の中に、何もかもがきらきらと光り輝いていた。

クライマックスの後、音量が徐々に低下し、しばらくすると静かになった。それは耳の中のキーンという音が大きすぎると感じられるほどの完全な静寂だった。僕たちは静かな暗闇の中でしばらく放心状態に置かれた。

その時、真っ暗だった空間から僕たちは一瞬にして明るい日差しの中に投げ出された。気がつくと、そこは切り立った渓谷の底にある河原で、僕たち4人は川岸の小石の上に横たわっていた。

「ここはどこでしょう?本当にテレポートしたみたいよ。」
真理の言葉を聞いて僕たちはお互いの存在を確認し顔を見合わせた。

「目的地は地球外の惑星のはずだよね。どう見ても長野県辺りの山の中じゃないかな。日本みたいな気がするけど。」
と僕は周りの景色を見た印象を口にした。

「やっぱり、あの代金では別の惑星は無理だよね。」
と弦。

「日本アルプスのどこかの山の谷間で、宇宙旅行したつもりになれってことかな。意外と楽しいかも。」
玲央が言った。

そこは切り立った崖に挟まれた30~50メートルの渓谷で、深緑色の淵が延々と続いていた。僕たちの居る川岸は赤褐色の光沢のある石が敷き詰められたような平坦な場所だったが、上流方向も下流方向も数十メートル先で川幅が広がり、川岸は岩場になっている。川伝いにそれ以上先に行くことは不可能だ。この谷間から脱出するには、山側の斜面を登るしかない。

「それにしても美しい渓谷ね。深い緑と赤褐色と、葉っぱの緑が、透き通った空気の中で輝いている。私は登山好きな父に連れられて百名山の半分は登ったけれど、こんな色彩の渓谷はどこにも無かった。本当に、ここは地球じゃないかも知れないわね。」
と玲央が言った。

「地球じゃなくて、別の惑星とすると、もし無人の星ならこの谷底からどこに行けば良いんだろう?食料も無いし、もうすぐ日が暮れるよ。地球外の猛獣が襲ってきたらどうする?」
と僕。

「そうだな。この裏の崖を上って山中で夜を迎えるのは危険だ。今夜はこの河原で過ごして明日の朝早くここから脱出しよう。」
実戦モードに入るとスポーツマンの弦は力になりそうだ。

「脱出して、どこを目指すの?もしここが地球じゃなくて私たちだけしかいない星なら、どこまで行っても山や森が続くんじゃないかしら?ここならまだ水があるだけマシじゃないかしら?」
と玲央。

「雨で増水したらどうするの?それに、食べるものが無くなったら、ここで何を待つの?」
真理の発言は僕の頭にあった心配と同じだった。

僕たち4人の頭の中に「死」という言葉が浮かび、僕たちはブルっと震えた。僕たちは手持ちのお菓子を出して1か所に集めた。食べられるものはスナックとチョコレートだけで、今夜分けて食べたらそれでおしまいだ。釣り道具は無いが、川の中に魚や蟹など食べられるものがいないかと目を凝らしたが、生き物は全く見当たらなかった。そういえば、昆虫も、ハエも、蚊も、鳥も全く見ていないことに気づいた。鳥や動物の鳴き声も聞こえず、植物以外の生命体の気配は無かった。少なくともこの河原とその周辺には。

弦のジャケットのポケットにタバコとライターが入っていたのが救いだった。僕たちは枯れ枝を集めて積み上げた。今夜、猛獣を遠ざけるために火を燃やしておきたかった。もし夜になって気温が下がれば暖を取るのに必要だ。

でも誰か一人は見張りをした方が良い。じゃんけんで順番を決めて、2時間ごとに次の人を起こして見張りをバトンタッチすることになった。

日が暮れて、たき火を囲んでスナックとチョコレートを食べながらキャンプファイヤーの気分で楽しく盛り上がろうとしたが、共通の気がかりな話題に行きついた。明日、この裏の崖の上には一体何があるのかということだった。考えても仕方のないことだ。ぐっすりと寝て体力と気力を取り戻すのが一番だ。

一人目の見張りは僕だ。一人、二人と寝息を立て始めた。皆、疲れているからこんな場所ででも寝られるのだろう。僕は全く眠くない。ちゃんと見張り番をしよう。

そう思ってから1分もしないうちに、急に睡魔に襲われて僕はあっという間に眠り込んでしまった。


危険な誘惑・MTF版(犬になった女)性転のへきれきバージョン

桜沢ゆうの小説「危険な誘惑」の性転のへきれきバージョン「危険な誘惑・MTF版(犬になった女)」が6月25日に出版されました。

危険な誘惑MTF版

これは「危険な誘惑・未来シミュレーターシリーズ」のMTF版です。

原作の「危険な誘惑」は未来シミュレーターシリーズの第1弾で「凛子」という28歳のOLが主人公の作品です。

原作は女性の感覚により描かれた官能性とM度の高い小説ですが、ジェンダー・スワップが絡んでいるので、性転のへきれきの読者の方にも十分楽しめる作品だと思っていました。

しかし、性転のへきれきを全作品読んだという愛読者の方から、「あくまで凛子という女性の視点で書かれており、女性の友人が男性に性転換する小説なので、感情移入できなかった。面白いストーリーなのに残念だ。」とのコメントを頂きました。他にも似たような反響がありました。

そこで、危険な誘惑のMTF版を書き下ろし、「性転のへきれき・凛子の場合」として出版したのがこの作品です。「性転のへきれき」の従来の読者の皆様に感情移入して読んでいただける内容になっています。

主人公の凛子が凜太郎に置き換わったことで、前半の凛子と優樹菜の濃厚な変形レズシーンが成立しえなくなった結果、18禁ではなく、一般書としての出版となりました。

若いサラリーマンの凜太郎と恋人の優樹菜が奇妙な世界に送り込まれて、極限的な状況の中で一生忘れることのない体験をするお話しです。