新作「失われたアイデンティティー」を出版しました

新作「失われたアイデンティティー」を出版しました。MTFのストーリーですが、分類的にはTS小説というよりは一般小説になると思います。

主人公の間宮孝太郎はアラフォーのエリート商社マンで本社の課長をしています。七月五日に間宮の課に派遣された綾瀬レイナは表紙カバー画像のような感じの二十三才の女性です。

間宮の目にはアンバランスで場違いな感じのする美人という印象でした。重めの前髪が目の上ギリギリでぱっつんに切られており本来キュートな髪形のはずですが、大人っぽ過ぎる物憂い表情によって相殺されて、人を寄せ付けないオーラが漂っています。

派遣開始の翌日の夕方、課の歓送会がありました。主人公は対面の席に座った彼女と会話を弾ませ、彼女も間宮に心を開いたかに見えました。

お酒の回った間宮だったが、酔った彼女をタクシーで家まで送る役割を引き受けることになります。アパートの玄関のドアの前までのはずが、彼女の誘いに乗って部屋に入りました。

それは間宮にとって小さな過ちでしたが、この僅かな気のゆるみのお陰で間宮は驚天動地の世界を経験することになるのでした。

物語はワールドカップのベルギー戦の朝に始まり、隅田川の花火大会が予定されていた日(台風で翌日に延期されたので花火大会が開催された前日)に終わります。それは私が実際にこの小説を書いた期間とピタリ一致しています。短期間の展開ですがぎっしりと詰まった小説です。思いを込めて書きました。



失われたアイデンティティー
第一章 危険な派遣社員

 いつになく浮沈の激しい日だった。

午前三時にキックオフしたワールドカップのベルギー戦の録画を、五時起きで見た。二対ゼロになって有頂天になっていたら、ベルギーの左からのふわっとしたヘディングがキーパーの頭を超えて入った。間もなく二点目が入り、終了間際に三点目を入れられて負けてしまった。

もし三点目が入らず延長戦になっていたら、スマホのニュースを電車の中で見て結果を知る羽目になっていたところだった。録画を最後まで見たら会社に遅れるからだ。負けたおかげで私は部下たちに午前三時からリアルタイムで観戦したふりをすることができる。

そんなことを考える自分はせこいなと思いながら出勤し、パソコンを立ち上げると、部下の花村純子から
「お話したいことがあります。お時間いただけますでしょうか」
という短いメールが入っていた。

花村純子は短大卒で入社二年目の一般職社員だが、フロアで最も人気がある女性だ。美人ランキングがあるわけではなく私の主観による順位だが、ショートボブがよく似合う小顔でセンスの良い女性で、愛想が良いだけでなくちょっとした会話がウィットに富んでいる。去年の暮れの部の飲み会で隣の課の男性社員から好きなタイプの男性について質問された際に「うちの課長みたいな人」と答えていたのが漏れ聞こえて心が躍った。純子は私に聞こえるのを承知の上でそう言ったのだと思った。計算高いのではなく、わざとそんな手法で気持ちを伝える能力を持つ女性だった。

会議室管理システムで一時間後の午前十時からの小会議室の予約を入力し、自動通知で純子に知らせた。純子はパソコンの画面から目を上げ、一瞬私に顔を向けて微笑んだ。お互いの意思が通じた瞬間だった。純子からのメールにわざわざ返信するのは無粋だと思ったので返信はしなかった。

純子は私に何を話したいのだろう? 職務上の不満、他の課員とのトラブル、先輩社員からのハラスメントの訴え……。もし「好きです」と告白されたらどうしよう。私のような男性がタイプだと言っていたことだし、二十才の年令差は決定的な障害にはならない。しかし不倫はまずい。課長が自分の娘のような年令の部下と関係を持ったことが露見したら私のサラリーマン生命は危機に晒されるだろう。結構いい関係を保ってきた妻を裏切ることにも良心の呵責を感じる。

早めに会議室に行き、不安と期待が交錯する胸の内を表情に出さないようにと深呼吸をしていた時に花村純子が入ってきた。

「ベルギー戦は見られました?」
と言いながら純子は私の向かい側の席に座った。

「勿論。昨日の夜は十時に寝て、今朝早起きして見たよ」
三時に起きて実況を見たと純子は受け取ったかもしれないが、私はそうは言っていないから嘘をついたわけではない。

「私は渋谷のパブリックビューイングに行ったから一睡もしてないんです。惜しかったですよね」

乾のシュートについて解説しようかとも思ったが、サッカーの技術論を振りかざしても、純子なら興味があるフリをして私に合わせてくれるだろうが、好感度にはつながらないと判断した。それよりも、純子が誰とパブリックビューイングに行ったかが気になった。

「いい試合だっただけに悔しいよね。一緒に行った人も悔しがっていただろう?」

「あら、課長。男性じゃないですよ。アッちゃんと二人で行ったんですぅ」
と、純子は私の嫉妬を見抜いたかのように意地悪な微笑を浮かべて答えた。

「ああ、君のところによく来る、経理のアツコさんね」
私は何気ない表情で平静を装う。

「今日お話ししたかったのはワールドカップの事じゃなくて……」

「あ、そうだったね。気兼ねしないで何でも言ってくれ」

数秒間の沈黙の後、純子は私の目をじっと見ていたが、真剣な口調で語り始めた。
「私、すごく悩んだんですけど、ワールドカップの日本代表から勇気をもらって、課長にお話しする決心がつきました」

私の心臓は純子の耳に届くほどの音を立てている。純子は私に告白しようとしているのだ。次の言葉を聞くのが怖かった。

「私、会社を辞めます」

「ええっ!」

自分の耳を疑った。「好きです」ではなく「辞めます」とは!

絶頂まで引っ張り上げられてドスンと落とされた気持ちだった。まるで今朝のベルギー戦と同じだ。

「結婚するのか……」

「うふふ、寿じゃないですぅ。私、彼氏いない歴三ヶ月で、募集中ですよ、課長」

純子は誘惑の視線で私をあしらった。

「じゃあどうして辞めるんだ? パワハラは無いと思うが、セクハラじゃないだろうな?」

パワハラは自分も部下も決してしないように気を配っているので自信があったが、セクハラは被害者本人にしか気づきにくい面があるので心配だった。

「鈴木さんのことですか? あのくらい、どうってことないですよ。あ、これ、鈴木さんには内緒ね」

「辞めたい理由を教えて欲しい」

「会社に不満はありません。快適過ぎるほどです。だから私、冒険したくなったんです。今までとは別なライフスタイルを経験したいというか……。課長もそんな気持ちになったことってありません?」

それは分からないでもない。何もかも捨てて純子と駆け落ちをするとか……。

「会社に勤めながら、アフターファイブや休日に冒険することも可能じゃないか。そうだ、五日間連続の夏休みを取って前後に土日をくっつければ九連休になるぞ」

「九日間が終わったら、元の生活に戻るというのではダメなんです。例えば香港の家庭に住み込みのメイドとして働こうと思ったら、一年は欲しいですよね」

「香港で住み込みのメイドだって? フィリピン人の出稼ぎ女性みたいに? 大事に育てられた日本人のお嬢さんに出来る仕事じゃないと思うよ」

「香港人の奥さんから住み込みの女中として見下されてプライドをズタズタにされて働く……。会社を辞めないとそんな経験ってできないじゃないですか。いえ、これは一つの例えであって、実際に香港に行くつもりはないですよ。とにかく今までとは違う日常を体験したいんです」

まるで子供だ……。ナイーヴというか、幼稚と言うか、まだ社会人になり切れていないのだ。子供を相手にする場合、頭ごなしに否定するのは逆効果であり、やんわりと翻意を促すしかないと思った。

「ご両親も心配されるんじゃないかな」

「親には今夜話します。今朝ベルギー戦を見て渋谷で決心した後、まだ家には帰っていませんから。親はどちらかというと私のすることには理解がある方ですから、何たらかんたら言った後でサポートしてくれるはずです」

こんな娘を持つと親も大変だろうと思った。

「君の気持ちは分かったが、ご両親とか友達とか、よく相談してから最終決断した方がいいと思うよ」

「あ、退職届はさっき勤務システムに入力しておきましたので、人事部にはもうコピーが行っています。課長と部長が承認をクリックしたら手続きが完了するはずです。ボーナス月の退職で恐縮ですけど、引継ぎ期間と有休残の消化を考えて七月末退職ということで」

顔には出さなかったが私の心はポキッと音を立てて折れた。あまりにも冷淡な最後通告だった。

「じゃあ課長、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんがよろしくお願いします」
と言って花村純子は会議室から出て行った。

私はしばらく立ち上がる気力がなかった。ベルギー戦と同じくらい、いやもっと取り返しがつかない種類の喪失感だった。

しかし、ぼやぼやしてはいられない。入社二年目の一般職といっても定型業務を引き継ぐには少なくとも一週間はかかるだろう。補充要員の確保が喫緊の課題だ。私は会議室の電話機から人事課長のアポを取って人事部に出向き、事情を説明して人員補充の要請をした。

「残念ながら現時点で異動させられそうな一般職女性は居ませんね。定年延長の高年男性で良ければ二、三人ほど心当たりがあるんですが……」

「それは勘弁してください。二十才の女の子の代わりに六十を超えたオジサンが来たら若手男子社員の労働意欲が急低下します。それに営業部門で中高年男性がお茶出しをしたらお客さんが逃げてしまいます」

「そういうことなら当面は派遣で凌いで、来年四月に新卒一般職を補充するしかないでしょうね」

「そうですか。じゃあ、派遣の手配をお願いします。できれば若い美人を」

「間宮さん、一般事務の派遣を依頼する際に『若い美人』という条件は付けられません。人事部の基準によって派遣を手配しますのでお任せいただくことになります。まあ、今回は急ぎということなので多くは期待しないでください」

「部下たちの勤労意欲のためです。何とかよろしくお願いします」
と、もう一押ししておいた。

***

翌日の午後、人事課長から「派遣社員の件」というタイトルのメールが入った。

「通常は少なくとも一週間のリードタイムが必要ですが、たまたますぐに勤務可能な人材が見つかり、今朝面談を実施した結果適切と判断したので、明日から派遣開始となりました。プロフィールを添付します」

メールには綾瀬レイナという女性の写真付きのプロフィールが添付されていた。派遣会社のフォームのプロフィールであり、生年月日や学歴など、通常の履歴書に書かれている内容は記載されていなかった。写真は冴えない表情だったが可もなく不可もなく、二十代前半の普通の女性という印象だった。私と部下の男性の勤労意欲が急低下するようなオバサンでなかったことにほっとしたが、身長体重等の記載はないので、現物を見るまでは何とも言えない。まあ、人事部で面談した上で判断したということなら、極端に態度や愛想が悪いということは無いだろう。

花村純子を呼んで「明日木曜日の朝から派遣社員が来ることになったから引継ぎを始めてくれ」と言ってから、課の全員あてに純子の退職と派遣社員の採用に関するメールを送った。純子ファンだった課長代理の鈴木省一は「本当ですか!」と落胆の呻きを上げたが、他の課員は純子が退職することについて先刻承知の様子だった。

***

七月五日の木曜日、私は期待に胸を膨らませて出社した。九時半に人事課長が若い女性を連れて部屋に入って来たのを見て、私は息を飲んだ。

私の左前方の席の鈴木課長代理はポカンと口を開けて虚ろな目を彼女に向けている。彼女が目に入る位置に座っている男性の表情は多かれ少なかれ鈴木と同様だった。彼女は部屋全体の雰囲気を白けさせるような種類の女性だった。二十二、三才で百六十三センチ程度のスラリとした美人だが、何かアンバランスで場違いな感じがする美しさだった。目の上ギリギリで切りそろえられた重めの前髪が醸し出すはずのキュートさが、大人っぽ過ぎる物憂い表情によって相殺されていた。彼女が放つ人を寄せ付けないオーラが私を不安にさせた。

「間宮課長、こちらが派遣の綾瀬レイナさんです」
人事課長がそう言って彼女を私に引き渡してから「文句ないでしょう?」と言わんばかりにニヤリとした目で私を見て立ち去った。

「綾瀬レイナと申します。よろしくお願いいたします」
と、投げやりな雰囲気でその美人はお辞儀をした。裾の部分だけ軽くウェーブがかかったロングヘアが前に揺れる。染めているのか地色なのか判断できない茶色がかった髪だ。

「課長の間宮孝太郎です」
と自己紹介をしてから課員の一人一人を紹介し、私から一番離れた席に座っている花村純子の向かい側の席に綾瀬レイナを座らせた。

私が席に戻ると課長代理の鈴木がヒソヒソ声で私に聞いた。

「課長、あんな美人をどうやって連れて来たんですか!?」

「まあ、色々あってね」
と私は思わせぶりに答えた。

「歓迎会をやらなきゃ。課長のご都合の悪い日を先に教えてください」

「私の予定は全てオンラインのスケジュラーにインプットしてあるが来週の水曜日以外は特に予定は入っていない。ただ、派遣社員の場合、五時半以降は拘束できないし、飲み会の費用の負担を求めるのも色々問題が……」

「そこらへんは心得てますよ。うまく話しますから僕に任せておいてください」

「くれぐれも無理強いをしないように頼むよ……」

***

花村純子と綾瀬レイナはうまくやっているようだった。アイドル的な可愛い子がタイプの違った美人と火花を散らさないかと懸念したが、杞憂だった。純子にすれば短期間の付き合いだし、レイナは大人だからなのだろう。

純子はレイナを他部門の担当者に後任として引き合わせるために社内を回り始めたが、私は内心誇らしい気持ちだった。というのは、純子は他部門の部課長連中にもファンが多く、彼らから私に「アイドルの後任にあんな美人を引っ張って来るとは凄腕ですね!」と言った類いの賛辞が寄せられたからだ。

五時を回った頃、鈴木課長代理から課の全員あてに綾瀬レイナの歓迎会の案内のメールが送られた。翌日金曜日の午後六時から近くのインド料理店で開催するとのことだった。

「新人女性の歓迎会がインド料理というのは珍しいね」

「綾瀬さんに何が食べたいかと聞いたら、スパイシーなものが好きとのことだったのでインド料理にしました。ちなみに、綾瀬さんからは会費を徴収しないことになっています」

鈴木は仕事に関しては頭が固い傾向があるのだが、私と違ってこの手の飲み会をアレンジする能力が高いことには感心させられることがある。

***

金曜日は普段より十分ほど早く出勤した。いつも会社の近くのコーヒーショップで日経新聞の電子版を読んだり海外の金融市場の動きをチェックしてから出勤するのだが、今日はつい早めにコーヒーショップを出てしまった。会社に行けば綾瀬レイナと会えるという気持ちで年甲斐もなくドキドキしている自分に気づいて失笑した。去年花村純子が入社して私の課に配属になった時も会社に来るのが楽しくなったが、その時の気持ちとは違う、焦燥感の混じった憧れを私は感じていた。

仕事をしていてもつい目を上げてレイナの顔をチラチラと見てしまう。これではいけない、我慢しようと思うほど、私の視線は勝手にレイナに吸い寄せられた。レイナには他の女性には無い特徴があった。それは表情を変えないということだった。昨日は初めての職場だから緊張しているのだろうと思っていたが、そうではないことに気づいた。表情には余裕があり、おじおじした様子は全くない。きつい目をしているわけではないが、私の見る限り一度も笑わなかった。

ただ、純子とレイナの席は私から三列離れた末席であり、私はかなり離れた場所から横斜め顔を見ているにすぎないので断言はできない。仕事中は仕事に集中し、オフになれば喜怒哀楽を顔に出す女性も居ないわけではない。見えない所では純子と笑顔で話しているのかもしれないと期待した。

待ちわびた夕方になり、レイナは五時半に席を立ったが、私は他の男性課員と一緒に六時十分前に席を立ってインド料理店へと向かった。インド料理店に行くと十人掛けのテーブルが予約されており、鈴木の計らいで私はレイナの対面の中央の席に座ることになった。

黒いフレンチ袖のカットソーのTシャツの上に、黒地に白い花柄が透けて見えるオーガンジーのスカートをはいたレイナは、会社での制服姿と違って、奔放さを匂わせる大人っぽい雰囲気が感じられた。表情にも余裕と隙が見える気がした。

「綾瀬さんは怖いタイプの美人かなと思ったけど、そうでもなさそうだから安心したよ」
と、乾杯の後で鈴木がレイナに言った。やはり鈴木も私と同じように感じているのだ。

「『美人』ではないですけど、怖い女というのは当たっているかもしれませんよ」
と、レイナは虚ろな目を鈴木ではなく私に向けて言った。

私は反応を返す必要性を感じて苦し紛れにコメントした。

「他部門の部課長連中から電話がかかって来て『アイドル的美少女の後任にあんな美女を採るとは間宮さんもすごいな』と冷やかされたよ」

レイナから一人置いて奥の席に座っている花村純子が私のコメントに笑顔を返したのが見えてほっとした。大体のところ女の子と飲む時は褒めておけば大失敗はしないものだ。

「私、自分の醜さはよく分かっていますから」
とレイナは、私ではなく鈴木の目を見ながらポツリと言った。

「アハハハ、綾瀬さんが醜いのならこの世の女性は全員がブスということになるよ」
と鈴木が周囲を見回しながら大きな声で言った。その言葉が純子と三十代半ばの総合職の羽田菜緒にかなりの不快感を与えたことを鈴木は気づいていない。

レイナの「自分の醜さ」という言葉が妙に引っかかった。謙遜なら醜いという表現は使わず「きれいではない」とか「他にずっときれいな人がいる」などと、周囲の女性たちの反感を招かない言い方をするものだ。それ以上に、レイナが本気でそう言ったことが表情で分かった。昨日の朝初めてレイナを見た時に感じたアンバランスさや場違い感と相通じるものがあった。

白けた沈黙の後、鈴木が花村純子としゃべり始めたのを横目に、私はレイナの先ほどの発言を受け流すつもりで話しかけた。
「美人だと苦労の方が多いかもしれないね。何とも思っていない男や、嫌いなタイプの男から言い寄られたり、ひどい場合はストーカー被害に遭ったり……。次から次へと近寄られるのを断るのに神経をすり減らすんだろうな」

「課長は女性の気持ちが分かるんですね。以前女性だったことがあるんですか?」

唐突で意外なことを真剣な表情でレイナに言われてうろたえた。

「な、無いよ!」
と答えた後で、そんな質問をまともに受け答えした自分が恥ずかしくなった。

レイナは私の狼狽を面白がって「うふふ」と笑った。レイナと会って初めて目にした笑顔は嫌味や裏の無い無垢なものに感じられた。私も微笑を返した。レイナとの間にあった壁が、霧が引くように消失した。

それからレイナは別人のように優しくなった。私以外の課員に対する受け応えにも若干の変化が見られたが、私に対する態度は一味違うと感じた。企業の管理職として、打ち解けにくい新人の心を開けたのは格別な喜びだった。その新人が美人の女性だっただけに、私は女性を扱うテクニックを他の課長連中に自慢したい気がした。

二時間半があっという間に過ぎた。レイナは自分ではそれほど飲んでいないようだったが飲ませ上手で、私はすっかり酔いが回った。飲み会の間、私は殆どレイナと話をしていた気がする。課長として褒められたことではないが、私とレイナの会話には他の課員たちも適宜加わったし、今日はレイナの歓迎会ということで大目に見てくれるだろう。

勘定は幹事の鈴木に任せて千鳥足でレストランを出た。私の近くに立っていたレイナも脚がふらついているように見えた。

レストランから最後に出てきた鈴木が「花村ちゃん、カラオケ行こうよ」と純子を誘って軽くいなされた。

「綾瀬さんはかなり飲んだみたいですから、課長にお願いしていいですか?」
と鈴木が私と綾瀬に聞こえるように言った。私が綾瀬を気に入っていると思って気を利かせたのか、それとも若い課員と飲みに行くのに私たちが邪魔だと思ったからなのかは不明だった。

最近の世間の風潮だとちょっとしたことでセクハラの嫌疑をかけられかねないので、私は女性を家まで送る役割は御免こうむりたかった。相手が若い美人だとなおさらそうだった。

その時、綾瀬が私に身体を寄せてきた。
「すみません、課長。本当に送っていただいてよろしいんですか?」

私は反射的に「勿論だよ。私は安全な人間だから心配するな」と答え、タクシーを拾ってレイナを乗せた。私も乗ってタクシーのドアが閉まった。

「ええと、綾瀬さんの家は確か東の方だったっけ?」

レイナは「はい」と答えて、深川の住所をドライバーに告げた。タクシーが走り出すとレイナは私に軽く微笑んでから目を閉じた。レイナと言葉を交わさなくてもいい状況になって私はほっとした。二人きりで何を話せばいいか想像がつかなかったからだ。

二十分ほど走ってタクシーは薄暗い集合住宅の前に停車した。その時、レイナが疲れた様子で私に言った。

「すみません、気分が悪いので部屋まで送っていただけないでしょうか」

断れるはずがなかった。タクシー代を払うとレイナに肩を貸してアパートの玄関を通り、エレベーターまで歩いた。レイナの足取りはしっかりしており、肩を貸さなくても大丈夫そうだったが、レイナは私の肩に手を回したまま歩いた。相手が男なら肩か腰を抱きかかえて支えるところだったが、私は手を下に垂らしたままだった。

エレベーターを五階で降りて五〇五号室の玄関ドアの前に立った。玄関の鍵は番号入力式の見慣れない電子ロックだった。レイナが四桁の番号を入力するとカチッとと音がして解錠された。

「じゃあ、ここで失礼するよ」
と言って、私はエレベーターへと引き返そうとした。

「待ってください、課長。お願いですから少しだけお話をさせてください。五分間だけで結構です」

妻以外の女性のアパートに入ったことがなかった。若い女性のアパートで二人っきりになることには、ドキドキするというよりも、戸惑いの方が大きかった。

「お願いします」
ともう一押しされて
「じゃあ、五分間だけ」
と言って部屋に入った。

左右に小さなキッチンと洗面所がある廊下の向こうにリビングルームがあり、奥にベッドルームがあるようだった。私は部屋に入ると右側のソファーを示されて腰を下ろした。二人掛けのラブチェアーのようなソファーだった。

「すぐにコーヒーをいれますね」
と言ってレイナはキッチンに行った。きびきびとした様子で、足取りもしっかりとしている。家まで送って欲しいのは私の方だと思って苦笑した。

部屋を見回して殺風景さに驚いた。緑色のカーテン、シンプル過ぎる安物の家具。夏なのに部屋の隅に火鉢が置いてあった。若くて美しい女性が住んでいる部屋とは到底信じられなかった。女物の服や下着などは一切目に入らない。きっとフェミニンなものは一切合切あのベッドルームに押し込まれているのだろう。ベッドルームのドアを見て、あの向こうはどうなっているのだろうと思ってドキドキした。

レイナはペアーのデザインのマグカップを手に持って戻って来ると、右手に持っていた赤い方のマグカップを私に差し出した。

「コーヒーが切れていたのでココアにしました。ちょっと苦いココアなんですけど」

マグカップはそんなに熱くはなく、すぐに飲めそうだった。

「どうもありがとう。これを飲んだら失礼するから」

レイナは私の右側に腰を下ろし、二人でココアを飲んだ。レイナが身体を少し動かすと腰が触れ合って、私の股間のものがムクムクと大きくなったのが感じられた。早く帰らなければ、と思って、残りのココアを飲み干した。

「私の話を少しだけ聞いてくださいね」
とレイナが私の太股に左手を乗せた。

「もう五分以上経ったから」

「私、死のうと思っていたんです」

「な、なんだって! こんなにきれいなのに、どうして?」

「若い女の子とか、きれいな女の子とか、スタイルがいい女の子とか言って私を褒める人は大勢いましたが、私を一人の人間として正面から見て『きれい』と言ってくれる方は久しぶりでした」

「そ、それは……。ちょっと買いかぶり過ぎかもしれないよ」

「とても勝手な考え方で、課長さんには本当に申し訳ないとは思ったんですけど……」

「ど、どういうこと?」

「私と一緒に死んでください」

マズイ! 私はソファーから跳び起きようとした。

そう思ったが、手足が動かなかった。身体中にしびれを感じて頭が朦朧としてきた。ココアの中に薬物を入れられたのか……。

「課長、ご一緒してくださってありがとうございます」
レイナが私に唇を重ねた。私はソファーに倒れ、レイナの体重を感じながら意識を失った。


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