新作「制服はジェンダーレス」を出版しました

性転のへきれきTS文庫の新作「制服はジェンダーレス」を出版しました。

***

主人公は千葉県習志野市に住む深村絢という男子。中学三年の卒業式を終えて帰宅すると、母と姉がお祝いのケーキを用意して待っていた。姉も千葉大医学部の後期合格の発表があったばかりで、そのお祝いのケーキだった。父は出張なのか、不在だった。

その祝いの席で、母から父と離婚したことを知らされて主人公は愕然とする。

父に落ち度がある離婚ではなく、夫婦で相談した結果の協議離婚が成立したばかりだった。絢は千葉県の私立高校への進学が決まっており、高校の授業料は父が払う約束だが、それ以外の衣食住の費用は母が働いて工面するとのことだった。母親は専業主婦だったが、法律事務所に事務員として就職し、母姉弟の三人の新しい生活がスタートする。



制服はジェンダーレス
第一章 家庭の事情

 三月二十三日の金曜日、中学の卒業式が終わって帰宅すると、台所のテーブルに「おめでとう」と書いたケーキが置いてあった。

「待ってたのよ、絢(じゅん)。三人でケーキを食べてお祝いしましょう」
と笑顔いっぱいの母が言った。

「中学を卒業したくらいで、大げさだな」

「それもあるけど、亜希の大学合格とダブルでのお祝いよ!」

「えっ! お姉ちゃんが合格したの!?」

千葉大医学部の後期日程の合格発表は今日だった。合格する確率は五パーセント未満だと姉が言っていたのでまさか受かるとは思っていなかった。

「難関だったけど、これが私の実力よ」
と姉は受かったのが当然であるかのように言った。昨日の夜までは浪人を前提として暗い顔で受験勉強をしていたくせに何という変わりようだろうか!

「早く手を洗ってきなさい」
と母が言ってケーキに包丁を入れた。

僕が洗面所で手を洗って台所に戻ると、ケーキを三等分したものが三つの皿に乗せられていた。

「三人で食べちゃってもいいの? お父さんが大好きなイチゴケーキなのに」

母と姉が気まずそうに顔を見合わせた。

「お父さんは帰らないわ」
と姉が僕の目を見ずに言った。

「そう言えば水曜日ごろから見かけないけど、今日はまだ出張から帰らないのか。海外出張なの?」

「絢、卒業式が終わってから言うつもりだったんだけど、あの人はもう帰らないのよ」

「どういう意味?」

「離婚したの」

「え、え、えーっ!」
僕は絶叫した。

最近父と母が何度か口論していたのは知っていたが、昔から父と母の喧嘩には慣れていたので特に気にはしていなかった。

「何が原因の喧嘩だったんだよ? 仲直りしてくれよ」

「もう終わったのよ。今朝離婚届を出して来たから、後戻りできないわ」

「お姉ちゃんは知っていたの?」

「今週はずっと家にいたから知っていたわ。お母さんから口止めされていたから絢には黙っていたけど」

僕は全身の力が抜けてしまった。

「浮気ってやつか……」

「浮気じゃないわ。深村さんとは人生観や価値観が根本的に違うことが分かったから、別々に生きていくことにしたのよ」

「深村さん?」

「離婚して私は柏崎姓に戻ったの。あなたたちも今日から柏崎亜希と柏崎絢」

「柏崎君って呼ばれるの? 恥ずかしいよ……」

「恥ずかしいなんて言ってられないわよ。これから母子三人、助け合って生活しなくちゃならないんだから」

「お父さんの給料無しで生活できるの? 慰謝料とか養育費とか、ずっともらえるの?」

「深村さんが浮気したわけじゃなくて、話し合った結果の離婚だから慰謝料は無いわ。亜希の千葉大学の学費と、絢の逍遥高校の学費だけは深村さんが払うことになってる。このアパートの家賃を含めた衣食住はお母さんが稼ぐ。亜希は学費以外の費用はバイトでまかなってもらうしかないし、絢はできるだけお金がかからないようにお母さんに協力してちょうだい」

「勿論協力するよ。逍遥高校はバイト禁止のはずだから、僕はとにかくお金を使わないようにする。お母さんはどうやってお金を稼ぐの? 会社勤めをしたことはあるの?」

「お母さんが一流大学の法学部卒だってことを忘れないで。四月から稲毛の法律事務所で正社員として働くことになったのよ。といっても弁護士資格はないから一般事務員で、大した給料はもらえないけど」

「お母さん、卒業したら私が女医になって母さんを楽にするから、それまで六年間頑張ってね。最近は研修医でも手取りで三十万円以上もらえるところが多いらしいわ」

僕は気が滅入って、折角のイチゴケーキも美味しさ半分だった。

大変なことになってしまった。友達に深村君と呼ばれたら「実は親が離婚をして柏崎になったんだ」と言わなければならない。柏崎という姓は好きだが、中二まで同じクラスで元カノだった柏崎玲央も逍遥高校に進学するので、まるで僕が真似をしたみたいだ。柏崎玲央がニヤッと笑って僕を「柏崎君」と呼ぶ表情が目に見えるような気がした。

もう一つ気がかりだったのは、父が払う約束をしたのが姉の大学の学費と僕の高校の学費だけという点だった。僕が大学に進むための学費はどうなるのだろうか? 母の事務員としての給料で、家賃と食費を払った後いったいいくら残るのか、それが問題だ。

「絢、中学の教科書や参考書を早く片付けなさい。私は高一からずっと教科書や参考書を取っておいたから、それを絢の部屋に持って行くわね」

「うん、僕は何でもお姉ちゃんのお古でいいよ。お金を節約しなきゃ」

「さあ、これから忙しいわよ。明日は逍遥高校に行って絢の姓が柏崎に代わったこととか手続きをしてこなきゃ」

「他の友達と会ったら恥ずかしいな……」

「絢は行かなくても大丈夫よ。明日は父兄向けの入学説明会で物品購入がメインだから私一人で大丈夫よ。亜希の教科書の表紙と奥付をスマホで撮影して行って、もし改訂になっていたら新しいのを買ってくるし、同じだったら亜希のものを使ってもらう。それでいいわね?」

「勿論。何でもお姉ちゃんのお古をよろこんで使うから、できだけお金をかけないようにしてね」

***

姉は僕の誇りだった。僕が中学に入った時「深村の弟か」と何人もの先生から言われたが、先生の言葉には歓迎の響きが感じられた。深村亜希の弟ならいい生徒に違いない、と言われた気がして嬉しかった。姉は勉強がよくできる上に美人だ。僕は勉強は姉ほどにはできないし、姉は平均より背が高いが僕は姉と同じ身長で伸びが止まっていた。自分ではよく分からないが一目見て姉弟と分かるほど似ているようだ。ただ、美人の姉と似た弟が美男子とは限らない。テレビのバラエティー番組に女優の姉妹が出演することがあるが女優は当然美人なのに姉妹が驚くほどブサイクで、しかも見て家族と分かるほど似ているという例もある。

逍遥高校に行って「柏崎絢です」と言えば、先生は「どこかで見たような顔だ」と思うかもしれないが姓が違うから深村亜希を連想する人は誰も居ないだろう。「つい最近までは深村絢でしたが事情があって柏崎絢になりました」と言えば深村亜希の弟と分かってくれるだろうが、親が離婚したことはできる限り人には言いたくないと思った。

僕の部屋を片付けて姉の教科書を持って来てから、母が姉の教科書の表紙と奥付を一冊ずつスマホで写真を撮った。

姉は使っていた教科書に小さな字で色々書き込みをしていたが、外観は新品かと思うほどきれいだった。さすが女子は物を大切にする。僕も姉のように物を大切にすることがお金を節約することにつながるのではないかと思った。

英語の教科書を開くと、写真が挟まれているのを見つけた。それは姉が高校の教室で男子と腕を組んで立っているツーショットの写真だった。相手の男子は長身でヘアスタイルと全体の雰囲気が竹内涼真に似ている。

姉は僕がその写真を見ているのに気づいて言った。

「どう? その子、イケメンでしょう」

「お姉ちゃんに彼氏がいたとは知らなかった。いつから付き合っていたの?」

「高一からずっと付き合ってるわ。一緒に旅行に行ったし、同じベッドで寝たこともあるわよ」

「ウソだろう! お母さんも知っていたの?」

母は何も言わずにニコニコしている。

「勿論お母さんも知っているわ。お互いの親が公認する仲なのよ」
と姉が自慢げに言った。

「ショック……。離婚のこともそうだったけど大事なことを僕には教えてくれないんだね」

「アハハハ、引っかかったわね。それ、親友の高科紗栄子よ。私の話に紗栄子という名前がよく出てくるでしょう?」

「紗栄子さんがLGBTだとは知らなかった……」

逍遥高校は去年の四月から制服のジェンダーレス化を採用したことで全国的に有名になった高校だ。上着は男女とも濃紺のブレザーで、グレーにチェック柄のズボンとスカートを性別にかかわらず選べる制度だ。実際に異性の制服を選択した生徒が居たかどうかは公表されていなかった。

「お姉ちゃんは心は男、身体は女の性同一性傷害者と交際しているんだね。結婚とか、どうするの?」

「結婚を考えるのは早すぎるわ。ってか、紗栄子は性同一性傷害じゃないわ。まあ、男っぽいけど、お互いを女友達と認識しあってるわよ。ウォマンスってところかな」

「ウォマンスって何?」

「女どうしのロマンスで性的な関係じゃないからレズビアンとは違う。紗栄子はスカートが好きじゃないし、足が長いからパンツスタイルが似合うと自分でも意識しているから、制服のジェンダーレス制度ができてからズボンとワイシャツにしたのよ。写真をよく見てごらん。ブレザーのボタンは右が前になってるでしょ」

「本当だ。女子のブレザーと男子のズボン・シャツの組み合わせでもいいのか」

「同じ身長でも男子の方が肩幅が広いから、紗栄子は女子のブレザーのままにしたのよ。女子のブレザーは脇を絞ってあるからスタイルが良く見えるし」

「じゃあ、LGBTの男子は上着は男子用、下はスカートでもいいわけだね?」

「そうよ。でも、スカートをはく場合は白のブラウスと赤いリボンタイとの組み合わせが義務付けられているけどね」

「紗栄子さんは気分によってズボンとスカートをはき替えているの?」

「紗栄子は背が高すぎてスカートは似合わないからずっとズボンで通したけど、もし日によって着替えたければ、この一年間は可能だった。元々この制度が出来たのは性的少数者の保護の観点だったけど、検討段階で『女性でもスカートが嫌いな人がいる』という紗栄子みたいな意見とか、『真冬は寒いから女子はスラックスも選べるようにしたい』という保護者の意見が出て、『制服のジェンダーレス化』として発表されたのよ。でも、一年間運用してみて、最も深刻な課題は性同一性障害の生徒が自分が着たい制服を選べる学校にすることであって、そうでない男子が時々スカートをはいたり、普通の女子がスカートとスラックスを着ることではないという結論に達したそうよ。『服装をジェンダーレスにすることによって性的少数者が差別されない環境にする』というアプローチも将来的には有効かもしれないけど、現段階では非現実的な理想論であって、逍遥高校にはそぐわないということになったの」

「じゃあ制服のジェンダーレス化じゃなくて、LGBTの男子が簡単にスカートを選べて、LGBTの女子が簡単にズボンを選べるという制度になったわけだね」

「その通りよ。今年からは男子の制服を選んだ場合、つまり男子を自認すると届け出た場合は女子の制服には変更できない。但し半年に一度変更を申請して、審査を通れば変更できるそうよ」

「実際に男子が女子の制服を選んだ例はあったの?」

「それは校外ではしゃべっちゃいけないことになってるんだけど、絢は四月から逍遥高校の生徒だから特別に教えてあげる。私たちの学年はスカート男子はゼロだった。一つ下の二年生には女子の制服に変えた男子が一人居た。去年の新入生は男子から女子と女子から男子とも、二人ずつ居たんじゃないかと思う」

「思うってどういうこと?」

「スカートをはいてるけど多分あの子は男子だろうと思う子が一人だけ居たのよ。噂ではもう一人居るらしいんだけど、どの子かは分からない。勿論、同じクラスの人は分かってるはずだけど、学年が違うと分からない。それだけ先生たちがLGBTに配慮しているということね」

「なるほど。男子でも入学した時からスカートだったら、皆から女子だと思われるよね。最初ズボンで通って、半年後に変更申請を出してスカートにするのはハードルが高いだろうな」

「その点、絢は心配する必要は無いわ。制服はワンセットで四万円もするのよ。うちにはそんな贅沢をするお金は無いから、例え絢が十月から女子の制服で通いたいと思っても男子のままで我慢するしかないわよ」

「おあいにくさま、僕にはそんな趣味はありませんよーだ」

僕と姉との会話を聞きながら母は優しく微笑んでいた。父が居なくなったのは心細いが、これからはこの三人で支え合っていくのだと思うとファイトが湧いてきた。

***

翌日、母は逍遥高校の父兄向け入学説明会・物品購入会に出かけた。僕は友達の山下から葛西臨海公園に遊びに行こうと誘われたが用事があるからと言って断った。友達と会うと名字が変わったことを言わなければならないのが嫌だった。隠すことも出来るが柏崎になったのに深村で通すのは嘘をつくのと同じだという気がした。仲の良い友達の大半は公立高校に進学するので、このまま会わずにいれば、僕のことは忘れるのではないかとも思った。

姉は紗栄子と会う約束があると言って外出し、僕は一人でテレビを見ていたが、何かしないといけないような気がして勉強机に向かい、姉からもらった日本史の参考書を開いた。明治維新のことを書いてあるページを開き、姉が黄色のマーカーで線を引いた箇所を目で追っていると、自分が姉になって机に向かっているような気持になった。妙な気分だったが、鼓動が高まって頬が熱く感じられた。小さい時から姉は僕の憧れで、いつも姉がそばにいると嬉しかったが、姉になりたいと思ったのは初めてだった。姉のお古の教科書や参考書を引き継ぐことにこれほどの喜びが隠されていたとは新発見だった。高校の授業中も姉になった気持ちでドキドキしていられたらいいのにと思った。

母は昼までには帰ると言っていたが、午後一時になっても帰らず、連絡もなかったので僕は冷蔵庫の中にあった昨夜の残りのご飯を電子レンジで温めて、納豆と卵をかけて食べた。

午後三時になって母が疲れた顔で帰宅した。母は鞄の中から紙袋を取り出して僕に渡した。

「数学の教科書だけ版が新しくなっていたから買ってきたわ。それ以外は全部亜希のものが使える。物品購入の後で教員室に行って名字の変更とか、色々な手続きをしていたから遅くなった。絢が疎外感を味わうことがないように特別なケアをお願いしてきたけど、生徒の気持ちを分かってくれそうないい先生たちだと思ったわ」

「きっと少数者の気持ちを傷つけないという校風ができあがっているんだね。逍遥高校は偏差値が高い割には有名大学の合格実績が低いし、制服のジェンダーレス化をぶち上げたせいで僕の中学からは受験する人が減ったけど、僕は逍遥高校に進学して正解だったと思うよ」

「分かってるわよ、絢は何でもお姉ちゃんと同じがいいってことは」

「もう、お母さんったら!」

「大学も千葉大医学部に入ってくれれば申し分ないんだけど」

「それは無理だよ……」

***

姉はネットでバイト斡旋サイトに登録をして、ドーナツ店でのバイトを開始した。四月五日の入学式まではみっちりバイトをしてお金を貯めると頑張っている。母は四月から法律事務所での勤務が始まる予定だ。僕は四月七日の入学式までは暇なので、家事を手伝い始めた。それまで自分の部屋の掃除以外をさせられたことはなかったが、日を追うにつれて役目が増えて、家じゅうに掃除機をかけたり、洗濯物を干したり、畳んだり、三人分の夕食を作ったりと忙しくなった。

四月二日の月曜日、母は朝食を終えるとグレーのツーピーススーツ姿で家を出た。JRで千葉駅まで行き、徒歩五分ほどのところにある法律事務所に初出勤するとのことで緊張した面持ちだった。

姉もその少し後でバイトに行き、僕は一人で朝食の後片付けをしたが、洗濯と掃除をしながら母のことが気になっていた。母がちゃんと会社勤めができるのかどうか心配だった。結婚後は専業主婦で、一度もパートをしたことがない。父は母のことを人一倍意地っ張りで言い出したら折れない性格だと言っていた。特に父に対しては鼻っ柱が強くて、一歩も引かなかった。僕は決して口に出さなかったが、父はそんな母に愛想が尽きて離婚を考えたのだろうと思っていた。

それに母は美人だった。独身の頃は寄ってたかる男たちをあしらうのに忙しかったと自慢していた。四十三才の今でも美人だと思うが、それだけに会社勤めをすると過去の栄光が邪魔になるかもしれない。テレビドラマを見ていて分かるが、会社でもてはやされるのは若い女の子が中心であり、その二倍の年令の母が同じようにチヤホヤされることはないだろう。それは母にとって未経験の領域であり、プライドをズタズタにされても我慢して勤務を続けられるかどうかが心配だった。

その日、姉は夜遅く帰ることになっていたので、僕は母と自分の二人分の夕食を作って母の帰りを待った。

午後七時になっても母は帰宅しなかった。会社は五時半までだから遅くとも六時半には家に着くはずだった。途中でスーパーに立ち寄って買い物をしているのだろうかと心配はしなかったが、LINEで「何時ごろ帰るの?」とだけ送っておいた。そのLINEはいつまでも未読のままで、時計が八時を回り、そして九時を過ぎても母は帰ってこなかった。もしかすると事故に遭ったのではないかと心配になり、僕は駅までの道を歩いて見に行った。

駅の階段の下で列車を四本待ったが、母は姿を見せず、LINEも未読のままだった。半泣きになって家まで歩いて帰り、お腹を空かせたまま食卓の椅子に座って母と姉の帰りを待った。

十時を過ぎた時、玄関のドアが開く音がした。走って廊下に出ると母だった。駆け寄って母に抱き着いた。

「どこに行っていたの、お母さん?」

「ごめんね、昨日の夜スマホを充電するのを忘れていたのよ。夕方、私の歓迎会をしてくれることになって、飲み屋から電話をしようとした時にスマホの電池が切れていることに気付いたんだけど、ついそのまま飲み続けちゃった。私のために上司の弁護士さんや先輩たちが集まってくれたから、私事で席を外しちゃいけないと思ったの。絢がそんなに心配してくれているとは思わなかった。本当にごめんなさい」

僕は泣きじゃくりながら「もういいよ。お母さんが無事でよかった」と言ったが、ほっとするとお腹がグーッと音を立てた。

「食べずに待ってくれていたのね。ありがとう、絢」
と母が僕をもう一度抱きしめてくれて、僕は完全に母を許した。

その時、姉が帰宅した。姉は食卓の上に母の夕食が手つかずで残っているのを見て自分の分だと勘違いしたようだった。

「私の夜食を作って待ってくれるとは絢はいい奥さんになれるわよ」
と言って姉が母の分を食べてくれたので努力が報われた気がした。

母も姉も働いて疲れていると思ったので、母から順に風呂に入ってもらい、僕は食事の後片付けをしてから最後に風呂に入り、掃除もした。

明日の朝も早いので、殆どおしゃべりする時間もなく各々の部屋へと散ったが、母が元気そうだったので安心した。

***

母の職場での状況については翌日の夕食時に詳しく聞いた。

どこまで本当だか眉唾物だが、母は職場の弁護士たちから美人事務職として歓迎されたとのことだった。

「二十代の女子の事務職社員が四人と三十代が二人いて、そのうち二人を除くと仕事はできるんだけど、外観的にはレベルが低いのよね。年令にかかわらず私がミス法律事務所になるのは当然の流れだった」

「本当に弁護士さんたちがそう思ってるのかなあ……」

「朝ドラに四十一才の井川遥が年が半分の女優と一緒に出ているのを知ってる? 弁護士さんたちは井川遥が断トツで美人だと言っていたわ。比べる相手の若手女優がモデル出身の美人ぞろいでもそうなるのよ。うちの法律事務所の場合は比べる相手は肌が若いだけのブスぞろいだから、私に注目が集まるのは当然よ」

「いくらなんでも井川遥に例えるのは言い過ぎじゃないかな……。それよりもお母さん、そんなことを考えていると、その気持ちが他の女の人に伝わって、そのうちにしっぺ返しを食らうことになるよ」

「そのうち亜希も絢も私のDNAを色濃く受け継いだお陰で得をしたと思うようになるわ」

「私はまだ男の子には興味がないから恩恵は感じないわ。男子に近寄ってこられるとウザイもの」

「あら、紗栄子さんは亜希が美人だから仲良くしてくれるのかもしれないわよ」

「まあ、それはあるかも」

「僕は男だからお母さんに似ていてもメリットはないけどね」

「もうすぐ似ていてよかったと思うようになるわよ」
と母が含み笑いをしながら言って、姉も「そうね」と同意したが、その時には僕は意味が分からなかった。

***

翌日も午後七時に母、姉と僕の三人がそろって夕食を食べたが、何となく慌ただしい気分だった。姉は翌日の木曜日に千葉ポートアリーナで千葉大学の入学式があり、金曜日から医学部の授業が始まるからだ。僕は金曜日が逍遥高校の入学式になっている。

姉が変なことを言い出した。
「金曜日の絢の入学式は、お母さんは仕事だし、私も授業初日で休むのは無理だから、紗栄子が父兄代わりについてもらうように頼んでおいた」

「紗栄子さんが父兄代わり? そんなの、いいよ。入学式は僕一人で大丈夫だから」

「でも、絢が学校にちゃんと一人で行けるかどうか、心配なのよね。紗栄子が一緒だとクラスの女子たちから羨望の視線が集まって気分がいいわよ」

「あの男子高校生姿の写真からすると紗栄子さんは百八十近くあるんだろう? 僕の身長が足りない点が目立って損だよ」

「それがいいんじゃないの。ちなみに紗栄子は男子の制服じゃなくて黒のズボンに男っぽいジャケットで来るはずだけど、うっとりするほどカッコいいわよ」

「あっ、そうそう。お母さん、僕の制服は明日取りに行かないと間に合わないよね。もうできているのかな? 合格発表のすぐ後で制服の採寸をして申し込んだはずだけど」

その時、母と姉が気まずそうに顔を見合わせた。

「絢の制服はもう用意できているから心配しないで。ブラウスには明日自分でアイロンをかけなさい」

「男子はブラウスじゃなくてシャツと言うんだよ。お母さん、買ってくれたよね?」

「絢、うちにはお金がないから、高校にはお姉ちゃんの使ったもので我慢してもらうしかないのよ」

「お姉ちゃんのブラウスをシャツの代わりに着て行けというの? そんなの無理だよ。ボタンが左右反対だし、この間お姉ちゃんが言っていたようにスカートとブラウスとリボンタイがセットになっているから、ブラウスとズボンの組み合わせは禁止のはずだよ」

「ブラウスだけじゃなくて、全部お姉ちゃんのお古で学校に行くのよ。体操着も、シューズ類も鞄も全部」

「え、え、えーっ!」

僕は腰を抜かしそうだった。

「それじゃあまるでLGBTの人みたいじゃないか!」

「そうよ。入学説明会の日に申請書を出して承認してくれたから、絢は女子として逍遥高校に通うことになったのよ」

「じょ、じょ、冗談じゃないよ! 女子の恰好で高校に通うなんてイヤだ! 中学のクラスの友達に知られたらバカにされるよ。僕、絶対にイヤだからね」

「ごめんね、絢。お母さんが離婚しなかったら、こんなことをさせなくて済んだのに……。でも、お母さんはずっと我慢をしてきて、それが限界に達したのよ。絢を道連れにして無理心中することも考えた。でも最後の瞬間に思いとどまったの。生きていれば何とかなる。どうなってでもこの子と生きていこうと思ったの」

「僕だけを道連れにしようと思ったの?」

「お姉ちゃんは一人でも生きていけるし、女だから。絢は放ってはいけないと思った。ついひと月ほど前のことよ」

「思いとどまってくれてよかった……」

「制服代の四万円も出せなくて申し訳ないと思ってる。合格発表の直後に申し込んでいた男子の制服をキャンセルして四万円戻って来たから、給料日まで飢えずに生きていけるわ」

「四万円を節約するために女子になるというのは、どう考えても理屈に合わない気がするんだけど。四十万円ならとにかく、家の中の不要なものをメルカリで売るとか、借金するとかで何とかなるんじゃないの? 校則で禁止されていても、コンビニの夜のシフトでバイトをすれば四万円ぐらい稼げるよ」
と僕は必死で母の説得に努めた。母の考え方は極論に走りすぎて狂っているのではないかと感じた。

「お姉ちゃんもお母さんに何とか言って! お姉ちゃんがバイトで四万円余計に稼いでくれたら一生恩に着る。そうだ。クラスの友達の男子が要らなくなった制服をもらってきてくれない?」

「私もその方法は考えたんだけど、お母さんといろいろ相談した結果、絢を女子として高校に通わせるのが一番いいという結論に達したの。確かに制服代の四万円は大したことないわ。でも、今後数年間の洋服代が殆どかからなくなるメリットは非常に大きい。私の洋服が全部着られるんだから。洋服以外も家族三人が女物を共有出来て何かにつけて節約できる。実は私が医者になるまでの六年間の経済的困窮期間について楽観的な場合から悲観的な場合まで五つのケースの収支予想表を作って検討したんだけど、絢を男子のままにした場合は経済的に破綻をする可能性が非常に大きいことが分かったの。信じられないのならエクセルシートを見せてあげるけど」

「経済的に破綻したらどうなるの?」

「例えば私はパチンコ屋で働きながら独身寮から大学に通って、お母さんは昼は事務員、夜は水商売、絢は高校を続けられなくなるかも。とにかく家族三人が一緒に住むことはできなくなるでしょうね」

「家族がバラバラになるのは絶対イヤだ! でも、女子の制服を着るのはムリ!」

「絢、先週私とお母さんが出かけて絢が一人になった時に、私の高校の制服を着てデジカメでセルフを撮ったわよね?」

「ど、どうしてそれを……」

「デジカメのSDカードをノートパソコンのスロットに入れて、女装画像十枚をパソコンにコピーしてから削除したでしょう。そしてSDカードをデジカメに戻した。デジカメのファイル番号が連番になっていることを知ってるわよね? ファイル番号が十枚分スキップされていたから、これは絢の仕業だなと思って、私のパソコンで復元処理をしたのよ。十枚分のファイル番号は分かっているから簡単に復元できたわ」

「僕はお姉ちゃんと似ていると言われていたから、同じ制服を着たら似た感じになるかどうか試してみただけだよ。それ以上の意味は無いんだから」

「ええ、よく似ていたわ。去年髪をショートボブにした時の私の写真かなと思ったぐらいだった。あの写真を見て思ったのよ。絢は女になった方がずっとレベルが高くなって得だし、自分では気づいていないかもしれないけど心の中では女になることを望んでいるのだと」

「違うよ、違うんだ。本当に一度試してみたかっただけで、女になりたいと思ったことなんて一度も無いんだ。それにしても、お姉ちゃんもひどいよ。僕にひとことも言わずにお母さんにそんなことを提案するなんて!」

「亜希が私に提案したんじゃないわよ。私は離婚をした時点で、そうしようかなと思っていたのよ。紗栄子さんの写真を見た時に亜希から逍遥高校の制服の話を色々聞いて気持ちが固まった。だからその翌日学校に行って手続きをしたのよ。亜希に話したのはその後だった。亜希から絢の女子高生姿の写真を見せてもらって、私の決断が正しかったことを確信したわ」

「お母さん、お願い。考え直して。僕、何でもするから、これだけは許して」

「.分かって! 本当にお金が無いのよ。絢がお姉ちゃんの制服で学校に通ってくれたら、普段着や身の回りのものも全部お姉ちゃんのお古で済むから、高校三年間は食費以外は殆どお金がかからない。そうすればこのアパートで親子三人生きていける。もし協力してくれなかったら、私の給料ではとても生活できないのよ。いつ発作的に絢と無理心中したくなるか、自分が心配だわ」

「そんなことを言って脅さないで……」

「絢がどうしても女子の制服で高校には通えないというなら、残念だけど高校に行くのは諦めてもらうしかないわ」

「イヤだ! 中学の友達は勿論、小学校時代の知り合いも全員が高校に行くのに、僕だけが中卒だなんて恥ずかしい。それならまだ女子のふりをした方がマシだ! いや、そうとは言い切れないけど……。やっぱり、中卒ではイヤだよ」

「ありがとう、絢。お母さんのためにOKしてくれて」

「いや、まだOKしたわけでは……」

「じゃあ私は紗栄子に金曜日の付き添いについてLINEで念を押しておくわね」

「お願い。絢の気が変わって入学式に行かなかったら困るから、是非紗栄子さんには父兄代わりに付き添ってほしいわ」

僕のそれまでの人生で最も重大な決定が目の前でなされてしまった。必死で抵抗をしたつもりだったが、母と姉の説得になすすべもなかった。理不尽な決定とはいえ自分でOKしてしまった以上は協力するしかないと観念した。


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