新作「父は僕のヒーローだった」を出版しました

日英TS文庫第8番目の作品「父は僕のヒーローだった」を出版しました。英語小説新作「My Dad Was My Hero (副題:Feminized to be a Hero)との同時出版です。

舞台はイタリアでナポリとその近郊です。主人公のヴィットーリオ・ロッシは36才、妻ダニエラと娘アンジェリーナと幸せな家庭を築いています。

ヴィットーリオは13才の時にトラックに跳ねられそうになったところを父に助けられますが、その事故で父は死亡し、父を自分の永遠のヒーローと意識して育ちます。大人になったら自分の子供のヒーローになることを夢見ていました。

そのチャンスは娘のアンジェリーナが16才になった時に訪れます。妻の運転する車が自転車に乗っていた女性を跳ね、その女性が死亡します。困ったことに自動車保険の更新を怠っており、保険が切れたばかりの時でした。それは妻には責任の無い事故でしたが、マフィアが目撃者を捏造して、ヴィットーリオとその妻は巨額の賠償金を請求されます。示談交渉に臨みますが全財産を処分しても示談金には届きません。マフィアはアンジェリーナを5年間預かることで残金に充当すると宣言し、アンジェリーナを連れ去ろうとします。

その時、ヴィットーリオは自分の身を投げ出してアンジェリーナを助けようとするのでした。



父は僕のヒーローだった

原作:My Dad was My Hero
副題:Feminized to be a Hero
原作者:Yu Sakurazawa
日本語版作者:桜沢ゆう

序章

僕はローマの中流家庭に生まれ育った。父は学校教師、母は銀行に勤めていた。

あれは十三才の時だった。近所の公園でサッカーの練習をしていた時、ボールを追いかけて道路に走り出た僕は危うくトラックに轢かれそうになった。たまたま近くを歩いていた父が駆け寄って僕を突き飛ばしてくれたおかげで、かすり傷ひとつ無く難を逃れた。しかし、父はもろにトラックに衝突して数メートル跳ね飛ばされた。頭から血を流して倒れた父は救急車で病院に運ばれたが、そのまま帰らぬ人となった。

父は自分の命を捨てて僕を守ってくれたのだった。その日から父は僕の永遠のヒーローになった。僕は父のような大人になろうと心に決めて、天国にいる父を常に意識しながら育った。

十八才で親元を離れてナポリの大学に進みマーケティングを学んだ。人とは群れず一人で時を過ごすのが好きだった。不必要な外出はしなかったが、近くのスーパーマーケットにはよく行った。レジに感じの良い子が立っていて、顔を合わせるたびに好意的な微笑みを投げかけてくれた。特に美人ではなく、アッシュ・ブロンドの髪をした普通の女性だったが、笑顔が魅力的だった。ダニエラという名前で僕より二つ年上のニ十才だとわかった。

特に買うものが無くても彼女の顔を見るために毎日スーパーマーケットに行くようになった。勇気を出して電話番号とメールアドレスを書いた紙きれを渡すと、その夜に電話がかかってきて、食事に誘うと快諾してくれた。毎日のようにデートをして、楽しい時を一緒に過ごした。

僕が十九才になって間もなくダニエラが妊娠した。普通の男なら十代で父親になると知らされたらゾッとするところかもしれないが、僕はそうではなかった。父親になるということは僕にとって極めて重要で望ましいことだった。息子であれ娘であれ、ダニエラのお腹の中にいる子供を心から大事に思った。この子のためならどんなことでもしたいと思った。父が僕のヒーローだったように、僕もこの子のヒーローになるのだと心に決めていた。

ダニエラと僕は近所の教会で結婚式を挙げた。その九ヶ月後にダニエラは世界一美しい女の子を産んだ。僕たちは天使のような娘をアンジェリーナと名付けた。アンジェリーナは赤い髪と大きな緑色の目をしていて僕にそっくりだった。

幸せな十六年間があっという間に過ぎ、アンジェリーナは美しく心優しい女性になった。男子たちは競ってアンジェリーナに言い寄ったが、アンジェリーナは「私には好きな人がいる。それは私の父よ」と言って誘いを断った。僕が父を愛し尊敬したのに引けを取らないほど、アンジェリーナは僕を想っていてくれる。それはまさに僕が願っていたことだった。

 

第一章 罠に落ちて

親になってからダニエラと僕の関係は年月を経てかつての熱を失っていった。アンジェリーナの面倒を見ることに熱中するあまり、夫婦関係に注意を払う時間が徐々に枯渇したと言える。私はヘレナ社というパーソナルケア製品のメーカーの営業部に勤務し、毎日が忙しかった。ダニエラは専業主婦として家事にいそしんだ。ダニエラによると主婦業は小さな会社を経営するのと同じく手のかかる仕事だとのことだった。

アンジェリーナはダニエラと僕の関係が業務分担のように見えることを不満に感じていたようだった。十六才の娘は自分の親が恋人同士のようになることを望んでいた。

ある日アンジェリーナが真面目な顔をして僕に言った。

「私の事は放っておいてくれて大丈夫だから、ママとの関係にもっと時間をかけて」

「ママとの関係に時間をかけろと言われても、一体どうすればいいのかな……」

「簡単よ」とアンジェリーナは肩をすくめながら言った。「休みを取って二人で旅行に行くといいわ。私はシエンナのところに泊るから大丈夫」

娘のアドバイスに従い、早速ダニエラと話をしてシシリー島に旅行に行くことになった。妻の愛車フィアット500でシシリーの州都パレルモまでドライブするプランを立てた。レッジョ・ディ・カラブリアからフェリーに乗ってシシリー島に渡れば九時間でパレルモに着くはずだ。ダニエラも僕自身も娘抜きの旅行を心から楽しめるのかどうか半信半疑だった。

ダニエラの車なのでダニエラが主に運転をすることになり、僕は助手席に座ってできる限り目を閉じていた。乱暴な運転に耐えられなくて目を閉じるのではなく、慎重すぎてイライラするから目を開けていられないのだ。どんな道でも決して制限速度を越えずに運転するので、ダニエラが運転する車の後には長い列ができる。制限速度百三十キロの高速道路を時速百キロで走ることが却って危険であるということを、何度言っても理解しようとしない。アドバイスをしても聞く耳を持たないので言うだけ無駄だ。ダニエラが運転する時は目を閉じて何も言わないのがベストだということが身に染みて分かっていた。

フェリーでメッシーナ海峡を渡ったのが正午ごろで、そのままシシリー島の北岸の幹線道路一一三号をパレルモに向かって進んだ。ネブロディ公園に差し掛かり、幹線道路から外れてキャンピングテーブルのある公園まで行って昼食にした。いつもジェットボイルという登山用の湯沸かし器を車に積んでおり、二、三分で熱いコーヒーを作ることができる。家から持ってきたパンにピーナツバターを塗りゆったりとした気持ちで一時間ほど過ごした。

この分だと明るいうちにパレルモのホテルに到着できる。僕たちは車に乗って一一三号に合流する道路を進んだ。小さな田舎町を抜ける上下二車線の細い道路を走っていた。

対向車も歩行者も殆ど目に入らない田舎道だったが、ダニエラは時速四十キロで運転した。信号が赤になったので停車し、しばらくして信号が変わるとアクセルを踏んだ。

その時、左側の道から女性の乗った青い自転車が不意に飛び出して来た。ダニエラは急ブレーキを踏み、フィアット500はキーっと音を立てて停車した。しかし、信号を無視して全速力で飛び込んで来た自転車との衝突を免れることはできなかった。バンパーが自転車の後端に当たり、女性は自転車から投げ出されて反対側車線に転がった。

その六十才前後の細身の女性は路上に仰向けに横たわり、微動だにしていなかった。僕の心臓は止まりそうだった。その女性は死んだと直感したからだ。僕はすぐに車を降りて彼女の所に駆け寄り、脈を確かめようと腰をかがめた。その時、彼女はパッと目を開いて上半身を起こした。僕はほっと胸をなでおろした。

「奥さん、大丈夫ですか?」

「どうもすみません! 赤信号だと気づいていたのについ渡ってしまって……」
と彼女は申し訳なさそうに言った。

「いや、そういうこともありますよ」

特に痛がっておらず元気そうだったので安心した。

「念のために病院で検査を受けてください。数キロ手前で病院の横を通りました。病院まで車でお連れします」

「いえいえ、そんな必要はありません。私はピンピンしています。それに、家はすぐそこですから」
と言って彼女は立ち上がり、自転車を起こした。

車の中で青くなっていたダニエラもやっと運転席から降りてきた。彼女をとにかく病院に連れて行こうと、ダニエラと二人で説得に努めたが、聞く耳を持たなかった。

結局、彼女の家まで送らせてもらうことになり、彼女を助手席に乗せて妻が運転し、僕は彼女の自転車に乗って後を追いかけることになった。

彼女が言った通り、家はすぐ近くで、二人が車から降りた時に僕も自転車で追いついた。

「衝突したのに自転車は新品のようにスムーズに走りました。よかったですね」

「あら、さっきまではギーギー音を立てていたのに、不思議だわ」

「当たり所が良かったんですかね? アハハハ」

「どうぞお入りになってカフェラッテでも飲んでいってください」

ダニエラと僕は女性の言葉に甘えて家に入った。ホテル到着が遅くなっても大した問題ではない。大事故にならずに済んでよかったと改めて感じた。

家に入ると軽く九十才は越えていそうな老人が椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。明らかに腰が曲がって、白内障なのか目が白く濁っている。そんな目でにこりともせずに睨まれて、妻は居心地が悪そうだ。

僕はその老人に自己紹介をして、交通事故の事を説明した。

僕が話し終えると女性がその老人に言った。

「パパ、すごく親切な人たちなのよ。私が赤信号を無視して突っ込んだせいで、この人たちを足止めしてしまったの」

女性の言葉を聞いてその老人が父親であることが確認できた。

「念のために病院で検査を受けてもらいたかったんですが、お嬢さんがどうしても嫌だとおっしゃるもので……」

「うちの娘は病院が大嫌いなんだ」
と老人がぶっきらぼうに言った。

「万一お嬢さんが頭痛や吐き気などを訴えたら、必ず病院に連れて行ってくださるようお願いします。ここに私の電話番号を書いておきますから何かあったらご遠慮なくお電話ください」

「自動車保険のコピーを見せてもらえるか?」

見るからによぼよぼの老人から突然予想外の質問を受けたので驚いた。見かけよりはしっかりした人物だと分かった。僕はダニエラから鍵を借りて保険証を取りに自動車に戻った。ダッシュボードの中のフォルダーに入っていた保険証を見て恐怖のあまり頭髪が逆立った。保険は三日前に切れていた。最近メールアドレスを変えたので、保険会社からの更新通知を見逃してしまったのだろう。

奇跡的に無傷だったから良かったが、もし怪我でもしていたら、と思うと冷や汗が出た。無保険だったことをあの父親に話すのは得策ではないと思い、シラを切ることにした。

「どうも保険証を家に置いてきてしまったようです。でもご心配なく。少しでも問題があればすぐにご連絡ください」

ダニエラと私は家を出ると、グーグルマップで警察署を探した。たまたま女性に怪我は無く、自転車も壊れなかったが、衝突事故を起こした以上は警察に届け出ておいた方が無難だと思ったからだ。

警察は車で数分の距離にあり、ダニエラと僕は一時間ほどかけて届を出した。対応した警察官は「後ほど被害者の家に出向いて調書を取っておきましょう」と言った。警官の口から「被害者」という言葉を聞いて、気が重くなった。

「帰っていいですよ。被害者に怪我は無くても届けを出しに来たのは正解でした。届けを出さなかった場合、万一被害者から訴えが出たら、非常にまずい状況になりますから」

「ありがとうございました」
とダニエラが言って、僕たちは警察署を出た。車に乗るとどっと疲れが出てきた。ダニエラは僕以上に疲れている様子だった。とても旅行を続けられる気分ではなかった。呪われたような二時間だったが、それがやっと終わった。ダニエラも僕もそう思った。

ホテルに電話を入れて予約をキャンセルし、来た道を引き返した。ダニエラは魂が抜けたような様子で、とても運転させられなかったので、僕がハンドルを握った。

日付が変わった頃に家に到着し、僕たちは死んだように眠った。

***

一週間の休暇を取っていたので、残りは家でゆっくりと過ごすことにした。ロールパンとオレンジジュースで朝食を済ませると娘のアンジェリーナは学校に行った。今夜から友達のシエナの家に泊りに行く予定だったが、学校に行ったらシエナに断って普段通りに帰宅するとのことだった。

ダニエラと僕はカフェラッテを飲みながらゆっくりしていたが、玄関のベルが鳴るのを聞いてダニエラはビクッとした様子で立ち上がった。朝起きてから前日の事故の話はお互い一切口に出していなかったが、二人の心に重くのしかかったままなのだ……。ダニエラの様子を見て、改めて痛感した。僕は椅子から立ち上がり、彼女を制して自分で玄関のドアへと向かった。

ドアの外に立っていたのは四十がらみの紳士で、ベージュのダブルのスーツを着ていた。一見無邪気そうな顔をしたカールのかかった柔らかい髪の毛の人物だったが洞察力のある抜け目のない目をしていた。ブリーフケースを手に提げていて、「私は弁護士です」と顔じゅうに書いてあった。

その表情を見て、この人物がただ者ではないと直感した。心臓がバクバクし始めた。

「なにかご用でしょうか?」
と私は平静を装って聞いた。

「ウェイド・フェリと申します。ダニエラ・ロッシ様にお会いするために参りました」

私の後ろに立っていたダニエラが「ダニエラは私ですがご用件は?」と気丈に言った。

「込み入った件ですので中でお話しさせてください」

「分かりました。お入りください」

フェリ氏をリビングルームに通してソファーに腰かけさせ、僕は向かい側に座った。ダニエラは極度に緊張している様子で、立ったままだった。

「コーヒーはエスプレッソでよろしいですか?」
とダニエラは気丈にホステスの役目を果たそうとしていた。

「いえ、結構です。奥様が居ないと話が始まりませんから、奥様もそこにお座りください」

フェリ氏は氷のような微笑を浮かべて僕の横の席を手で示し、ダニエラは腰を下ろした。

数秒間の沈黙の後でフェリ氏が口を開いた。

「私はアントニオ・セラ氏の代理人としてまいりました。昨日あなたに跳ねられて亡くなったマリア・セラさんのお父さんです」

「何ですって! 彼女が亡くなったと仰るんですか?」
と僕は叫んだ。妻はアッという声を出して口に両手を当てた。血の気が引いて真っ青な表情になっている。

「しかし、昨日お別れした時にはピンピンしていましたよ」

「あなたたちお二人が立ち去った二、三時間後に容態が急変したのです。救急車が到着した時には息が絶えていたとのことです」

「ああ! どうしましょう!」
ダニエラはパニック状態だった。

「事故というものは時には起きるものです」
とフェリ氏はダニエラの顔を見ながら肩をすくめた。

「しかし何故その翌日に弁護士さんがわざわざ家まで来る必要があるのでしょうか?」
と僕が質問した。

「セラ氏は、運転者の不注意によって娘が死亡したと考え、正義の鉄槌が確実に下されるようにと、私を雇いました」

「私の不注意による事故ではありません!」
とダニエラがヒステリックに叫んだ。

「私はいつも慎重に運転していますし、制限速度も超えたことがありません。昨日も赤信号で停車して、信号が変わってから発車しました。あの女性の自転車は信号を無視して交差点に猛スピードで飛び込んできたんです。彼女は信号を無視したことを認める発言を何度もしていました。お父さんの前でも、自分が信号を無視した結果私たちを引き留めることになって申し訳ないとはっきり言っていました。その言葉はお父さんも覚えているはずです」

「嘘を言ってもらっては困ります。あなたは信号が赤なのに車を発車させたんです。奥さん、信号を見ずに何を見ていたんですか? カーラジオの選曲をしていたんですか? スマホを見ていた……まさかポケモンをしながら運転していたんじゃないでしょうね? それとも居眠り運転ですか?」

「違います。私はちゃんと前を見て運転していました。信号がグリーンになったのを確認してからアクセルを踏んだんです!」

「あなたは嘘を言っている。あなたは赤信号で発進した!」
とフェリ氏はダニエラを指さして大きな声で決めつけた。

「見てもいないのにいい加減なことを言わないでください!」

「目撃者が居たんですよ」
とフェリ氏がドスのきいた低い声で言った。

ダニエラは震え上がった。僕も凍り付いた。現場に他の人影は無かった。もし誰か居たら駆け寄っていたに違いない。僕とダニエラとあの女性の三人しか居なかったと断言してもいい。それなのに突然弁護士が現れて目撃者が居ると言い出すとは、一体どうなっているのだろうか? 僕たちは何かとんでもない共謀によって陥れられようとしているのかもしれない……。

「奥さん、あなたには責任を取ってもらわなければなりません」

フェリ氏はダニエラを見据えて言った。

「まず、過失致死という刑事責任がかかります。赤信号で突然発車して自転車を跳ねるとは悪質です。もしポケモンをしていたとか、重大な違反があったとなれば重過失致死になって、長期間刑務所で暮らすことになりますよ。並行してセラ氏による民事訴訟に晒されます。一億円レベルの賠償金を払うことは免れないでしょう」

「言いたい放題ですね。そんなことを私が信じるとでも思ってるんですか? 私は現実に交通規則を守って運転していたんですから、裁判で負けるはずがありません」

ダニエラが気丈に反論したことに驚いたが、心が木の葉のように揺れている様子が見て取れた。僕の心臓は今にも壊れそうに音を立てていた。

「奥さん、甘く見ると後悔しますよ。私は本件と同種の交通事故を三十五件扱いましたが、そのうちの三十四件で勝訴しました。今回の事故は目撃者が一人だけであり、他に一切の映像や画像はありませんから、裁判になればあなたは百パーセント敗訴すると自信を持って保証します」

フェリ氏の実績は本物だと感じた。ダニエラも同じことを考えている。大変な相手を敵に回してしまった。僕たちは絶体絶命の危機に直面している……。

「でも心配はいりません。こんな時のために自動車保険をかけているわけでしょう? 無意味な主張をするのは控えて、私に協力してください。そうすれば自動車保険の賠償責任限度額の上限以内の金額で決着がつくようにしてあげるし、刑事責任も罰金だけで済むように協力してあげましょう」

僕とダニエラは顔を見合わせた。フェリ氏が事故の直後に来訪したのは保険金を最大限に取るために加害者に協力させようとして、僕たちを脅し、釘を刺すのが目的だったのだ。ダニエラは罰金で済むと聞いて顔に血の気が戻ったようだ。しかし、僕にとってはバッドニュースだった。

「実は……。申し上げにくいんですが、保険は三日前に切れていたんです。たまたま更新を怠っていたもので……」

「何ですって! どうして今まで黙っていたのよ!」

ダニエラが真っ赤な顔で僕に食って掛かった。

「困りましたね。あなた方にとって非常に困った状況としか言いようがありません」

フェリ氏がため息をついた。ダニエラと僕も椅子の背にもたれて天を仰いだ。

しばらく沈黙が続いた後でフェリ氏が口を開いた。

「そういうことなら、払える限りのものを払って、残額は借金をして、一生をかけてでも払ってもらうしかありません」

「私、やっぱり裁判で本当のことを主張します。悪いのは彼女なんですから」

「奥さん、さっき説明した通り、あなたは百パーセント敗訴します。膨大な借金を抱えたまま刑務所で何年も過ごすことになります。私がその気になれば『何年も』程度では済まなくなりますよ」

「どうしろと仰るんですか……」

「法廷には持ち込まず、秘密裏に金銭で和解するのです。法律用語で法定外紛争解決と言います。私がセラ氏を説得して、裁判なしで済むようにアレンジしてあげましょう。刑事責任も問われないようにしてあげます」

「一体いくら払えばいいのですか?」

「五千万円で話をつけてあげましょう」

フェリ氏はそれが些細な金額であるかのようにさらりと言った。

僕の頭の中は大混乱していた。一生懸命働いた結果、この家をやっと手に入れた。家を売ってローンを返済すると差し引き二千万円程度しか残らない。貯金と債券、株式を全部合わせると一千万円。合計三千万円を払えば我が家はスッカラカンになる……。

「あのう、三千万円で話をつけて頂けないでしょうか?」
僕はフェリ氏に手の内をすっかり明かして相談した。

「無理です。そういうことなら裁判でかたをつけるしかありませんね」

「いや、残りの金額も何とかならないか考えさせてください」

「ちょっと待って!」
とダニエラが口をはさんだ。

「今日の話はありもしないことを目撃した証人が存在するということが前提になっているようです。その目撃者という人に会わせてもらわないと、納得できません。たとえ法定外で話をつけるにしても、目撃者と会った後になります」

「いいでしょう」

フェリ氏は不敵な笑みを浮かべた表情をダニエラに向けた。

「とにかく、奥さんの要求をセラ氏にお伝えしましょう。目撃者と加害者を面談させることをセラ氏が許すかどうかわかりませんが、改めてご連絡します」

「どうかよろしくお願いします」
と僕は懇願した。

「では、今日はこれで失礼します」
とフェリ氏は腕時計を見ながら言うとブリーフケースを持って立ち上がり、勝手に玄関へと歩いて行った。

***

フェリ氏が出て行くと、ダニエラはソファーにどんと腰を下ろし、両手を上げて怒鳴った。

「何てことなの! 交通違反をしたのはあの女よ。私は何のミスもしていないのに! 目撃者なんて全くのでっち上げよ!」

「僕もそう思う。でも、五千万円払う以外に道は無さそうだ」

「バカじゃないの? 責められるべきことをしていないのにお金を払うつもり?」

「分かってくれよ。他に方法が無いんだ。あの弁護士は相当なやり手だ。裁判に持ち込まれたら、君は刑務所に入れられるのが確実だ。その上で巨額の賠償金を請求される。一億円になるかもしれない。確かに五千万は高いが、あと二千万何とかすれば払える。一億円になったら完全にお手上げだ。君は刑務所の中、僕は一人でどうすればいいんだ?

「自分ひとりが被害者みたいな言い方ね。あなたが保険をちゃんと更新していたら何の問題も無かったのよ。これはあなたの責任だわ。それにしても二千万円をどこからひねり出すつもりなの?」

「まだ具体的なアイデアは無い。銀行かどこかから借りられないかな……」

「お金のあても無いのに金銭解決に同意するとは、あなたの頭はどうかしてるんじゃないの? 保険もかけないし、無い袖を振ろうとするし、それでもあなたはちゃんとした男なの? バカとしか言いようがないわ」

「ああ、僕はバカさ。亭主に平気で悪態をつきまくるような女と結婚した僕は大バカものだ。運動神経ゼロの女にハンドルを握らせた僕がバカだった。普段はノロノロ運転で僕をイライラさせるくせに、信号が変わってすぐに急発進したから事故になったんじゃないか!」

「急発進なんてしてないわよ、バカ!」

ダニエラは手で顔を覆って泣き始めた。

「私がいつもどんなに慎重に運転していたか、分かってるでしょう……」

ダニエラはソファーにうつ伏せになって小さな少女のようにすすり泣いている。涙で化粧が乱れた顔と泣き崩れた様子を見て、守ってやりたいという気持ちが湧きあがった。

「ゴメン、言い過ぎた。君は全く悪くない。悪いのは僕だ。君とアンジェリーナのことは僕がきっちりと守るよ」
と僕はソファーの上に泣き伏したダニエラの頭を撫でた。


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