「性転の秘湯」性転のへきれきシリーズ

性転の秘湯


以下は「あとがき」からの引用です。

私は温泉が大好きで、少なくとも2時間をかけて楽しむことにしています。この小説は先月末に春日温泉の露天風呂でプロットを(頭の中で)書き上げたものです。

春日温泉は美肌の湯として有名です。お肌に優しい泉質ですが、本当にしっとり、さらさらの肌になり驚きます。露天風呂は少し異なる造りの岩風呂が2つあって交互に男湯・女湯として使用しているそうです。私が行ったのは六角形の屋根のある方の岩風呂で、風呂から和風の落ち着いた建物を見たときの光景が非常に美しいと思いました。37.4度という低めの温度なので、たっぷり2時間浸かりっぱなしでも平気でした。

この小説を読んで、秘密の動物の湯にも行きたいと思われた方は、春日温泉に2,3泊されればチャンスが訪れるかも知れませんよ。

2015年9月 桜沢ゆう


 


性転の秘湯

副題:「春日温泉の湯守」

序章

晴れた天空から星が降る夜、傷ついた牡鹿が人里に迷い込み、湯気の立つ一画を見つけた。晩夏の高地の夜は肌寒い。鹿は湯気の立つ方へと魅せられたように重い足を進めた。生垣の割れ目をやっとの思いで跳び越えると、岩場に足を滑らせて池に落ちてしまった。暖かかった。それは岩に囲まれた浅い湯だまりで底は平らで滑らかだった。鹿は体験したことのない暖かな安堵に身を委ねて目を閉じた。

北八ヶ岳から蓼科山の自然の中で雄々しく生きてきたが、牡鹿は自分の人生が残りわずかになったことを自覚していた。角はかつての輝きを失い、皮は化石のように固くなってしまった。跳躍しても前脚が次の岩に届かず不格好に転ぶ自分が惨めに感じられて、つい嘆息してしまう。早朝に人間の仕掛けた罠に右脚を挟まれ、何とか逃れることが出来たものの、その傷が牡鹿の体力をじわじわと奪った。鹿曲川の沢沿いに下って人里に来てしまい、尾根へと迂回しようと徘徊するうちに春日温泉の一角に迷い込んだのだった。

朝霧の白い影と小鳥のさえずりに目を覚ました牡鹿は、温泉の心地良さにもうしばらく浸っていたいと思った。その時、岩風呂に接する建物の扉が開いて若く美しい青年が出てきた。青年は露天風呂に浸かる鹿を見た。鹿と視線が合って、青年の顔に微笑が浮かんだ。鹿は跳び起きて露天風呂の奥の木立の中に消えて行った。

青年は湯守だった。露天風呂の排水口を開き、風呂を綺麗に清掃した。鹿の居た辺りには特に念入りにタワシをかけてからホースで何度も放水し、源泉からの配管の蛇口をひねって露天風呂に湯を満たした。

露天風呂から木立へと逃げた鹿は身体の異変に気づいた。傷が殆ど癒えて足取りが軽い。化石のように固かった皮膚が昔の潤いをいくらか取り戻したように感じられる。木立を分け入ると、灌木の茂みの中に先ほどの温泉と似た臭いが漂う場所があった。茂みに潜ると、立ってやっと通れる高さの洞窟の狭い入り口があった。身体を滑り込ませて進むと、岩と木々に周囲を囲まれた美しい泉に辿り着いた。

それは天然の岩風呂で、鳥たちに加えて猿、イノシシ、リス、野兎などの先客がいた。眠っているかのように静かで、お互いの存在を全く気にしていない。牡鹿は身体に残る露天風呂の暖かい余韻に背中を押されるように岩風呂の湯の中に身体を委ねた。牡鹿は長い安堵の吐息を洩らして目を閉じた。

はっと気がつくと太陽は頭上を西方に過ぎていた。湯の中で半日も休んでいたのだ。鹿は照れ臭さに微笑んで立ち上がり、岩へと跳び上がった。身体が軽い。右脚の傷は跡形もなく消えて、全身を包む皮が明るく潤っている。鹿は岩の縁に立ち、水面に映る自分の姿を見て目を疑った。映っているのは若い女鹿だった。頭を左右に振るとその女鹿の頭も左右に揺れた。頭から角の重みが消えている。

遠い彼方から群れの牡鹿の声が耳に届いた。その声には自分に発情を促す不思議な響きと魅力が含まれている。鹿は乳房に体験したことの無いハリを感じながら洞窟をすり抜け、尾根へと駆け上がって行った。


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