「男が妊娠・出産する世界 」性転のへきれき(純弥の場合)

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新作「男が妊娠・出産する世界 」が性転のへきれき第12弾(純弥の場合)として7月10日にAmazonで出版されました。

主人公(僕)は3人の仲間と卒業旅行に出かけるのですが、旅行の企画と手配は彼女に任せます。彼女は未来シミュレーターによる別世界での体験に関するブログ記事を見かけ、未来シミュレーターの代理店で旅行を手配しました。

3月27日出発の卒業旅行のメンバーと4月1日からの就職内定先は以下の通りです。

  • 大沢純弥(僕) 中堅メーカーの総合職
  • 原口玲央(彼女) 超一流企業の総合職
  • 水口 弦(親友) 証券会社の総合職
  • 沢尻真理(弦の彼女) 商社のOL

彼女が手配した旅行は別の惑星への旅行でした。その惑星では日本語を話していて、一見日本と同じように見えたのですが、主人公達はすぐに根本的な違いがあることに気付きます。その惑星では「根本的な」女性上位で男性は徹底的な支配下におかれています。その原因は、妊娠・出産するのが女性ではなく男性である点にあるようだったのです。

未来シミュレーターシリーズの「危険な誘惑」を読んだ方は未来シミュレーターの仕組みについて詳しくご存知と思いますが、「危険な誘惑」をまだ読んでいない方のために、簡単にご説明しておきたいと思います。

未来シミュレーターは東京都千代田区の秋葉原の本通りから一本西に入った裏通りで、ツクモ電機の手前を左に曲がって少し行った小さなビルの5階にある施設です。受付のマシンに必要な情報をインプットし、その奥の左の入り口から小部屋に入ると、そこから別世界に飛びます。

「危険な誘惑」では、未来シミュレーターが被験者の脳を潜在意識の領域まで隈なくスキャンして、願望、欲望、欲求、妄想などの情報を読み取った上で、被験者(および同伴者)を、その願望が実現された別世界に連れて行きました。

未来シミュレーターは受付のマシンで被験者が乖離度を設定することができます。願望が実現された別世界に行く訳ですが、その別世界が現実世界からどの程度乖離しているかについて乖離度を1から5の範囲で設定できるのです。ちなみに推奨設定は乖離度2となっています。「危険な誘惑」では主人公が乖離度1の旅を2回と、乖離度5の旅を1回選択しましたが、乖離度5を設定した時はマシンから「危険です」との警告が出ましたが主人公が警告を無視して乖離度5を選択したので極度に異常な世界に飛ぶ結果になりました。また、乖離度1でも性の転換が起きたほどですので侮れません。今回のストーリーでは被験者が乖離度4を選択する予定であり、現実世界との乖離度は相当なものとなるはずです。

もうひとつの重要事項としては、別世界での滞在時間があります。別世界での滞在がどんなに長くても、滞在時間が終了すると、元の世界では出発時の数分後に帰着します。別世界での滞在時間は支払う料金によって長くも短くも設定できます。千円で2時間、2千円で4時間、3千円で8時間、4千円で16時間、すなわち「n千円」払うと「2のn乗時間」だけ別世界で滞在できます。例えば1万円だと2の10乗で1024時間(約42日間)、2万円だと2の20乗で約120年間(一生より長い)となるわけです。別世界で死ぬまで過ごしても、その後は元の世界(数分後)に戻ることになります。

「現実からの乖離度を設定した上で、近未来の別世界をリアルに疑似体験させてくれる」のが未来シミュレーターということになりそうです。他人事のように申しましたが、作者自身、まだ未来シミュレーターについて真相を十分には知らないのです。

未来シミュレーターは「被験者と同伴者の脳内だけで体験される架空の世界」であるというのが、第1弾の「危険な誘惑」を読んだ上での認識でした。つまり、リアルではない想像だけの世界、と思っていました。しかし、今回の被験者は未来シミュレーターの実態がそのような単なるデジタル・システムではなく、遥かに複雑かつ壮大でリアルなものであるかも知れないということを実感することになるのです。

 

【試読コーナー】

第1章 お手軽な卒業旅行

「ねえ、3月末に卒業旅行に行かない?できれば海外に。」
そう言いだしたのは玲央だった。今日はもう3月15日で、大学生という自由な身分もあと2週間で終わりだ。

玲央は僕の彼女で、僕の親友の弦と、その彼女の真理を含めた4人は大学入学直後から何かにつけて一緒に行動している仲間だ。僕、大沢純弥は4月1日から江東区にある中堅メーカーの社員になるし、他の3人も都内の企業への就職が内定している。

僕の彼女の原口玲央は4人の中で断トツに成績が良く、僕や弦が留年せずに一緒に卒業できるのは玲央のお陰と言っても過言ではない。玲央は身長167センチの長身の美人で、4月には日本を代表する超一流企業に総合職として就職予定のエリートウーマンだ。玲央という名前は漢字で見ると女の子の名前に見えるが、アルファベットで書くとLEOで、男子でしかありえない名前だ。僕がそのことを玲央に冷やかすと、「純弥はジュンヤじゃなく、アヤミと読む場合の方が多いこと知らなかったの?普通、男なら純也と書くわよ。今日からアヤミちゃんと呼ぼうかな。」と反撃した。

僕は玲央に頭脳的に遠く及ばないだけでなく、身長も4センチ低い163センチで、玲央に勝る点といえば視力がマサイ族並みに良いということぐらいだが、玲央は僕を見下すこともなく、2人は結婚を前提に付き合う仲だった。

玲央と僕の組み合わせとは対照的に、水口弦と沢尻真理のカップルは大柄で男性的な弦と、女性らしい真理の組み合わせだ。弦は証券会社への就職が内定しており、真理は容姿を武器に六本木の商社に一般職として入社予定だ。

「僕は明日から福島に帰省して3月25日に高校の同窓会があるから、東京に戻れるのは3月26日になるよ。海外は無理だな。」
僕は玲央に率直に答えた。

「26日以降なら私も大丈夫よ。入社前に日焼けしたくないからその点だけは配慮してね。」
都内の実家に住む真理が僕の次に答えた。真理は肌をベスト・コンディションにして4月1日のOL初日を迎えたいのだ。

「俺も26日以降は空いてるけど、4月1日の出社前日はゆっくりしたいな。30日までに帰れるようにしてくれる?」
と弦が最後に答えた。

「じゃあ3月27日と28日の2日間を私に預けてくれる?予算は1人1万円で海外旅行を手配してみるから。」
玲央の話に耳を疑った。

「1人29,800円の韓国旅行というのは聞いたことがあるけど、1万円は無理だろう。羽田発の深夜便で釜山に飛んで、空港の食堂でビビンバを食べてすぐに早朝便で羽田に戻るとか、ひどいツアーじゃないの?燃料サーチャージで別途2万円取られるとか・・・。」
弦のコメントに、真理と僕も「うんうん。」と頷いた。

「深夜発の早朝着でも楽しいんじゃない?卒業前の地獄ツアーとして一生思い出に残るし。」
僕が言うと弦と真理も賛同した。玲央が必ず1万円で仕上げると自信をもって約束し、結局僕たちは財布から1万円札を出して玲央に預けた。

「じゃあこれから手配に取り掛かるわ。3月27日の集合場所とかはメールで流すから。」
玲央にまかせて僕たちは卒業旅行を楽しみに待つことになった。

「卒業旅行手配完了」と題したメールが玲央から届いたのは3月20日だった。

「海外旅行が手配できました。3月27日正午にJR秋葉原駅の電気街口の改札をAKBカフェ方向に出た所に集合してください。

出発日:3月27日
帰着日:3月28日
行き先:サプライズツアー
業者名:未来シミュレーター
服装:カジュアル、着替えは不要
その他:パスポート不要、手ぶらでOK
費用:追加費用は一切ありません。

騙されたと思って気軽に来てね!玲央」

海外旅行が手配できたと言いながらパスポート不要と書いてある。集合場所も空港ではなく秋葉原ということは、隅田川で遊覧船に乗るのをシャレて「海外」と言っているのかも知れない。それとも、深夜バスツアーで「海外」という名前の安ホテルに行って宴会・宿泊するという企画ではないだろうか。いずれにしても人を驚かせるのが好きな玲央の考えそうなことだ。しかし、着替えが不要と書いてあるのが腑に落ちない。女性なのだから、ホテルで1泊するなら「下着のみ持参」とでも書くはずだ。1万円ということは、深夜バスで大阪に行って、翌日の深夜に長距離バスで東京に帰るなどという地獄のバスツアーかも知れない。玲央のように体力の有り余っている人種は、時々とんでもない行動を平気でするから、ついて行くのが一苦労だ。とにかく、今となっては玲央のシャレに乗っかるまでだ。

僕は玲央のメールに書いてあった通り、3月27日正午の集合時間の10分前にJR秋葉原駅の電気街口に手ぶらで行った。白いスラックスと、ラコステのポロシャツに薄手のジャケットという軽装だった。

既に玲央と真理が来ていた。玲央は手ぶらで、白っぽいジーンズ・パンツ、グレーのティーシャツの上にシンプルなジーンズ・ジャケットというボーイッシュな服装だ。いつもと同じように格好良い玲央を前にして僕の胸がキュンとなった。

真理はパフスリーブでチェックのコンビワンピースという真理らしいフェミニンな装いだった。どう見ても強行日程のツアーに行く格好ではなく、真理も玲央の企画を何かのシャレと受け止めていることが窺える。

弦はダークグリーンのコットンニットのセーターとジーンズを着て、約束の時間の15秒前に姿を現した。

「全員時間通りに来てくれたのね。じゃあ、これから説明会をしてから出発よ。」
玲央はすぐ前の角のビルの右手の階段を上がって2階のダイニングバーに行き、僕たちは後を追った。

「ランチ代は1万円に含まれているからご心配なく。それに、ソフトドリンクは飲み放題だから。」

僕たち4人は窓際の奥の席に陣取って、日替わりランチを注文した。

「ねえ玲央、何時にどこから出発するの?こんなところでゆっくりしていて大丈夫なの?」
真理が僕たちを代表して質問した。

「出発は2~3時間後で、出発する場所はここから歩いて5分ぐらいかな。中央大通りを超えた1筋目を右に曲がって、ツクモ電機の手前を秋月電子の方向に左折したところの左側にあるビルの5階から出発するのよ。」
玲央が理解不可能な回答をした。

「浅草まで歩いて隅田川の観光船に乗るか、深夜バスに乗るのかと思ってたよ。」
僕が言うと、弦が「俺もそう思ってた。」と言った。

「秋月電子の手前の道は知っているけど、駐車場は右側だよ。左側には小さいビルが並んでいるだけだと思うけれど。」
そこで受付をして、右側の駐車場に停めてあるレンタカーでどこかに行こうという趣向だろうか。

「まあ、私の説明をよく聞いてちょうだい。
飛行機、バス、船、自動車などの輸送手段は使わずに、その5階にある未来シミュレーターの施設から別の惑星までテレポートするの。その惑星で旅行を楽しんだ後で、またテレポートで同じ所に戻って来るのよ。今日の4時に出発する場合、帰還は今日の4時5分になるわ。その後で、打ち上げ会をする費用まで含めて1万円。28日に帰還と書いたのは旅行らしく見せるためで、実は今日の夕方に解散するというスケジュールになってるわ。」
玲央の話を聞いて3人に落胆の表情が広がった。

「じゃあ、未来シミュレーターとかで5分間旅行の夢を見て、その前後に食事をするだけという企画なのか。」
弦がつぶやいた。

「地球の時間で言うと5分後に帰るわけだけど、テレポート先の惑星では何日も滞在できるのよ。私たちは相当長い旅行を体験するけれど、帰ってみれば5分しか経っていない、ということになるの。」
玲央の真剣な表情を見ると、冗談を言っているのではないことが分かった。もし、玲央以外の人が、特に僕か弦が同じことをしゃべったとすると「バカなことを言うな、お金を返せ」と言われるのが必須の内容だった。

「いいじゃない。他の誰も聞いたことが無いような卒業旅行の思い出を4人で作るんだから。」
真理の言葉に「そりゃそうだけど」と弦が賛同し、「玲央に任せたんだからついて行くだけだ。」と僕が続けた。

「でも、その未来シミュレーターというのは、一体どこで見つけたの?」

「ネットで、未来シミュレーターによる不思議な体験についての記事を読んだのよ。秋葉原のビルの中にあるタイムマシン的な装置で別世界に飛んで40日後に帰って来たという話なんだけど、ある程度の希望条件をインプットすると、その条件に合う世界に移動するんだって。その人は設定を間違えたばかりに首輪をつけられて犬のように鎖につながれたりして大変な経験をしたらしいわ。

これは面白いと思って、ネットで一生懸命検索した結果、未来シミュレーターの代理店のウェブサイトが見つかったのよ。メンバーズサイトになっていて、そこに入るパスワードを見つけるのに苦労したけど、何日目かに入ることができたの。英語のサイトだけどね。

それで希望条件をインプットして、クレジットカードで未来シミュレーターの料金と代理店手数料の合計で24,000円を払ったら、このカードが届いたの。」
玲央は財布から深いロイヤルブルーの色をしたプラスティックの薄手のカードを僕たちに見せた。小さな文字で出発場所として東京都千代田区外神田1丁目の住所が記されていた。

「もし嘘だとすれば手の込んだ詐欺だな。ところで玲央はどんな希望条件をインプットしたの?」
玲央の話をまだ信じていない弦の言葉を聞いて、玲央は少し腹を立てていた。

「万一詐欺だと判ったらその24,000円は私が負担するわよ。」
と玲央が言ったので、僕は、
「僕たちは玲央に任せたんだから、どうなっても4人全員の責任だよ。」
と玲央をサポートした。

「希望条件は、漢字4文字よ。内緒にしておきたかったけど、どうせその惑星に着いたら分かるから教えようかな。あててみて。」
玲央が元気を取り戻して言った。

「漢字4文字か・・・。わかった、美男美女、じゃない?」
「ブブー、はずれ。」
「無病息災、てなことないわよね。」
「ないない。」
「快眠美食?」

「ゲスするのは無理ね。じゃあ教えてあげる。女性上位よ。女性が上位な世界という希望条件をインプットしたの。」

「げえっ・・・・。上司が全員女性だけの会社に勤めるってこと?」
と弦。

「夫婦の力関係が逆みたいな世界かしら?」
と真理。

「僕と玲央は普段から女性上位だから、同じことだけど。」
と僕が言うと、残りの3人が「そりゃそうだ」と笑った。

「具体的にどのように女性が上位なのかは行ってみないと分からないわ。私たち来週には企業という男性上位の社会に飛び込むわけじゃない。私もある程度は覚悟が出来ているけど、就職する前に、逆に女性が上位の社会を経験できれば面白いと思ったのよ。別に純弥に対して偉そうにしたいというわけじゃないわよ。そんなこと、その気になればいつでもできるから。」
玲央の発言の最後の部分が少し引っかかった。

「滞在日数は何日なの?」
真理が質問をした。

「2の6乗時間で64時間、つまり2日と16時間のはずなんだけど、説明を読んでも良くわからなかったのよ。料金計算が1人当たりなのか、4人分なのかによって計算が違うんだけど、説明は難しい英語だし、結局よくわからなかったの。」
玲央にとって難しいことなら、僕たちに分かるはずがない。

「そこで何日いても、同じ日に帰れるんだからどうでもいいんじゃない。サプライズということで。」
弦の言葉に全員が同意した。

ウェイトレスが日替わりランチを配り、僕たちはコーヒーと紅茶だけの飲み放題バーに何度も足を運びながら話をした。女性上位がどんな形で盛り込まれた世界に行くのか、ということがメインの話題になった。

「パートナーの男性の毎日の服装は女性が決めて、男性は従わなければいけないの。私は弦にショートパンツで白いストッキングの王子様の恰好をさせるつもりよ。」
真理が想像の世界について語った。

「純弥には毎日ヒラヒラのスカートをはかせるわ。それもノーパンにして、純弥がエッチなことを想像したらスカートの真ん中がピーンと前に立ってバレるようにするの。面白いでしょう。それから、赤ちゃんが産まれたら、純弥のオッパイが大きくなって、家事と子育ては純弥がするのよ。私は命令するだけ。想像するだけでも楽しいわ。」

女性上位のアイデアに関する発言は玲央と真理に偏りがちだった。僕と弦には陳腐なアイデアしか浮かばず、例え突飛なことを思いついてもアイデアとして提案するのは恥ずかしい気がする。男性2人は少しマゾヒスティックな感傷に浸りながら聞き手に回った。玲央は発想が豊かなだけに、次から次へと恐ろしいアイデアを思いついては披露した。

ソフトドリンク飲み放題に時間制限は無かったが2時半を過ぎると、ウェイトレスが早く出ていって欲しそうなそぶりを何度も見せるようになり、僕たちは3時過ぎにそのダイニングバーを出て中央大通りを渡り、東京ラジオデパートの前を通って秋月電子の方向に歩いて行った。

ツクモ電子の手前を左折して少し行った左側のビルの狭くて急な階段を5階まで上った。ギャラクシー・コスモスの真上にあるそのショップはいたってシンプルな造りで、ロイヤルブルーに白抜きで「未来シミュレーター」と書いたロゴのあるガラスの自動ドアを通ると、正面に銀行のATMのようなマシンがあった。マシンの左側に「入口」と表示された自動ドアがあり、右側には「出口」と表示された自動ドアらしきものが見える。無人のショップのようだ。

「会員番号を入力するかサービスカードを挿入してください。」
という女声の合成音声が聞こえて、カードの挿入口に赤いランプが点滅した。

玲央は代理店から送られてきたロイヤルブルーのプラスチックカードをそこに挿入した。すると、マシンの画面に「あなたの会員番号は19xxxxxxLHです。緑の点滅をご覧ください。」と表示された。画面の上の緑の点滅を見つめると、約2秒後に点滅が消えて画面に「虹彩の登録が完了しました」と表示された。

「事前登録により乖離度は4に設定されています。変更を希望しますか?」
と画面に表示され、玲央が「いいえ」のボタンをタッチした。

「事前登録により女性上位の世界が条件として設定されています。変更を希望しますか?」
と画面に表示され、玲央が「いいえ」のボタンにタッチした。

最後に「料金は事前決済ずみです。乖離度4のサービスが13.5単位提供されます。左の入り口からお入りください。」と表示された。

マシンの左側にタッチ式の自動ドアがあり、「開く」と書かれた場所をタッチするとドアが開き、4人が中に入るとドアが閉じた。それは真ん中に長いソファーがあるだけの小部屋で深いロイヤルブルーの単一色で塗装されていた。入口のドアだろうと推定される接合部分があることは分かったが、出入り口も何もない、約2畳の完全に閉鎖された空間だった。

奥から真理、弦、玲央、僕の順にソファーに腰を下ろした。座る以外の選択肢は思いつかなかった。その部屋は無機質で誰かに見られているような感覚は一切なく、僕たちは何かが起こるのを待った。

段々と4人の緊張が高まるとともに、部屋が暗くなってきた。ドヴォルザークの新世界を編曲した交響曲が静かに流れ始め、部屋が真っ暗になった時点では身体全体が揺さぶられる程の大音量になっていた。バイオリン奏者の一人一人がどこにいるかが認識できるほどのリアルな音響と臨場感だった。オーケストラの指揮者の後ろに奏者と向かい合わせにソファーが置かれているような気がした。

僕の頭の中に引っかかっていた不安や期待を大音響が跡形もなく吹き飛ばし、コントラバスの響きが背骨を震わせ、木管楽器から流れるメロディーが僕の身体全体と共鳴した。それは至高の安らぎの空間だった。これを味わうだけでも玲央について来た価値があったと思った。玲央がダイニングバーで言っていた女性上位の世界のイメージが突然頭に浮かび、脇の下を擽られるような感触を覚えた。隣に座っている玲央を見ると、丁度玲央も僕を見て、2人で笑顔を交わし、僕たちはつないだ手をしっかりと握り合った。

まもなく、軽いしびれが全身を包み、身体が空中に浮いている感覚があった。完全な漆黒の闇の中に、何もかもがきらきらと光り輝いていた。

クライマックスの後、音量が徐々に低下し、しばらくすると静かになった。それは耳の中のキーンという音が大きすぎると感じられるほどの完全な静寂だった。僕たちは静かな暗闇の中でしばらく放心状態に置かれた。

その時、真っ暗だった空間から僕たちは一瞬にして明るい日差しの中に投げ出された。気がつくと、そこは切り立った渓谷の底にある河原で、僕たち4人は川岸の小石の上に横たわっていた。

「ここはどこでしょう?本当にテレポートしたみたいよ。」
真理の言葉を聞いて僕たちはお互いの存在を確認し顔を見合わせた。

「目的地は地球外の惑星のはずだよね。どう見ても長野県辺りの山の中じゃないかな。日本みたいな気がするけど。」
と僕は周りの景色を見た印象を口にした。

「やっぱり、あの代金では別の惑星は無理だよね。」
と弦。

「日本アルプスのどこかの山の谷間で、宇宙旅行したつもりになれってことかな。意外と楽しいかも。」
玲央が言った。

そこは切り立った崖に挟まれた30~50メートルの渓谷で、深緑色の淵が延々と続いていた。僕たちの居る川岸は赤褐色の光沢のある石が敷き詰められたような平坦な場所だったが、上流方向も下流方向も数十メートル先で川幅が広がり、川岸は岩場になっている。川伝いにそれ以上先に行くことは不可能だ。この谷間から脱出するには、山側の斜面を登るしかない。

「それにしても美しい渓谷ね。深い緑と赤褐色と、葉っぱの緑が、透き通った空気の中で輝いている。私は登山好きな父に連れられて百名山の半分は登ったけれど、こんな色彩の渓谷はどこにも無かった。本当に、ここは地球じゃないかも知れないわね。」
と玲央が言った。

「地球じゃなくて、別の惑星とすると、もし無人の星ならこの谷底からどこに行けば良いんだろう?食料も無いし、もうすぐ日が暮れるよ。地球外の猛獣が襲ってきたらどうする?」
と僕。

「そうだな。この裏の崖を上って山中で夜を迎えるのは危険だ。今夜はこの河原で過ごして明日の朝早くここから脱出しよう。」
実戦モードに入るとスポーツマンの弦は力になりそうだ。

「脱出して、どこを目指すの?もしここが地球じゃなくて私たちだけしかいない星なら、どこまで行っても山や森が続くんじゃないかしら?ここならまだ水があるだけマシじゃないかしら?」
と玲央。

「雨で増水したらどうするの?それに、食べるものが無くなったら、ここで何を待つの?」
真理の発言は僕の頭にあった心配と同じだった。

僕たち4人の頭の中に「死」という言葉が浮かび、僕たちはブルっと震えた。僕たちは手持ちのお菓子を出して1か所に集めた。食べられるものはスナックとチョコレートだけで、今夜分けて食べたらそれでおしまいだ。釣り道具は無いが、川の中に魚や蟹など食べられるものがいないかと目を凝らしたが、生き物は全く見当たらなかった。そういえば、昆虫も、ハエも、蚊も、鳥も全く見ていないことに気づいた。鳥や動物の鳴き声も聞こえず、植物以外の生命体の気配は無かった。少なくともこの河原とその周辺には。

弦のジャケットのポケットにタバコとライターが入っていたのが救いだった。僕たちは枯れ枝を集めて積み上げた。今夜、猛獣を遠ざけるために火を燃やしておきたかった。もし夜になって気温が下がれば暖を取るのに必要だ。

でも誰か一人は見張りをした方が良い。じゃんけんで順番を決めて、2時間ごとに次の人を起こして見張りをバトンタッチすることになった。

日が暮れて、たき火を囲んでスナックとチョコレートを食べながらキャンプファイヤーの気分で楽しく盛り上がろうとしたが、共通の気がかりな話題に行きついた。明日、この裏の崖の上には一体何があるのかということだった。考えても仕方のないことだ。ぐっすりと寝て体力と気力を取り戻すのが一番だ。

一人目の見張りは僕だ。一人、二人と寝息を立て始めた。皆、疲れているからこんな場所ででも寝られるのだろう。僕は全く眠くない。ちゃんと見張り番をしよう。

そう思ってから1分もしないうちに、急に睡魔に襲われて僕はあっという間に眠り込んでしまった。

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