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新作「行方不明」を出版しました(日英TS文庫)

日英TS文庫の新作「行方不明」を出版しました。原作は “Missing in Nepal : Damsel in Distress, by Yu Sakurazawa”です。

コロラド生まれの米国人ルーベン・ヤングは東京の大学に留学中に一人でインド旅行に出かけます。それはデリー2週間というツアーでしたが、ルーベンは2日でデリーの雑踏に嫌気が立ち、バスでカトマンズへの旅行を企てます。生まれ育ったコロラドと共通点のある天空の王国ネパールに憧れを感じたからでした。

三十時間かけてカトマンズに到着しましたが、ルーベンは周囲が自分を見る眼が何となくおかしいことが気になります。

翌日、ホテルで運転手付きの車を手配してもらい、ガイド付きの市内観光に出かけた時、ルーベンの心配が的中することになのでした。



 

行方不明

第一章 ヒマラヤの王国へのバス旅行

三十時間のバス旅行がやっと終わろうとしている。

初めてのインド旅行に「デリー滞在二週間」という格安ツアーを選んだのは失敗だった。東京からの往復航空券と朝食付きのホテル十二泊というフリー・プランだったが、僕は二日間でデリーに飽きてしまった。人力車でオールドデリーの隘路を巡り異国情緒を味わってからデリー市内の観光名所を回ったが、もうこれで十分だという気持ちになった。

コロラドで生まれ育ち日本に留学して東京の大学に進んだ僕にとって、デリーは確かにエキゾチックな街だった。でも、時間が過ぎるにつれ、ここは自分の肌には合わない場所だという気持ちが強くなった。

土色と原色が交錯する色彩感覚、破られることが前提の規則、親切そうな笑顔に混じる意味のない卑屈さ、そして不潔な埃が漂う雑踏……。

何が悪いというのではなかった。渋谷の雑踏と比べて、デリーの混雑が酷いかと聞かれれば、むしろ逆だった。結局僕が耐えられなかったのは不潔さだった。鼻腔や口から肺へと入って来る空気に無数の埃と雑菌が含まれている気がして、ここではもう呼吸したくないという強迫観念に憑りつかれた。

そこで、僕は残りの十日余りをデリーの外で過ごそうと決意した。夕食を済ませた後、ホテルの部屋に戻って、どこに行こうかと考えた。真っ先に頭に浮かんだのがネパールだった。ロッキー山脈の麓で生まれ育った僕にとって、ヒマラヤの王国ネパールは最も親しみやすい場所だと思った。初めから「デリー滞在二週間」ではなく「カトマンズ滞在二週間」という格安ツアーを探せばよかったと思ったが、今となっては後の祭りだった。

デリーからカトマンズに行く方法をスマホで調べた。最も簡単なのは飛行機での往復だが、カトマンズでのホテル代を含めると、懐に余裕がなくなってしまう。

最も安いのはデリーからゴラクプールまで列車で行ってそこからバスに乗り換えて国境の街スナウリに行き、徒歩で国境を越えてからカトマンズ行きのバスに乗るというルートのようだ。しかし、間違えたり騙されたりせずに何度も乗り換えられるかどうか不安だった。

それよりは少し高価だが、デリー発カトマンズ行きの直行バスサービスがあることが判明した。エアコン付きで車内映画も見られる豪華高速バスと書かれていた。僕は翌日の午前七時にデリーのマンジュカティラ駅を出るカトマンズ行きのバスの切符をネットで購入した。

デリーのホテルの宿泊代はツアー料金に含まれておりキャンセルはできないので、荷物の大半は部屋に残し、軽いリュックサックに三日分の着替え、パスポート、スマホと財布だけを入れてカトマンズに行くことにした。

翌朝、僕は市内観光に行くかのような軽装でホテルを出た。フロントで鍵を渡す時に、カトマンズで七、八泊するが、僕の部屋はそのままキープしておくようにと念のために言っておくつもりだったが、フロントには人相の悪い男性従業員が一人立っていただけだったので、何も言わずに鍵をドロップしてホテルを出た。

リクシャでマンジュカティラのバス乗り場に着いたところまでは順調だったが、カトマンズ到着は次の日の午前八時になると知って驚いた。何と二十五時間もバスで揺られることになる。おまけに、高速バスといっても日本で乗ったような豪華バスではなく、薄汚れた粗末なバスだった。

よく調べずに直行バスを選択した自分がバカだったと反省したが覆水盆に返らずだった。直行バスと言っても眠っているところを国境で起こされ、一旦バスを降りてインド出国とネパール入国の手続きをしなければならない。ビザ代として二十五ドルかかったのも誤算だった。

ネパールに入国して心なしか空気が清潔になった気がしてほっとしたが、カトマンズの中心部にさしかかるとバスの外の景色はデリーの雑踏をさらに一回り混とんとさせて、デリーの空気を二回り不潔にしたように思えたので僕はげっそりした。結局二十五時間のはずが三十時間以上かかってカトマンズに着いた時には疲労困憊で足がふらついていた。

それでも奮起して、ハエのようにたかってくる客引きを避けてタクシーに乗りこみ、ドアを閉めるとほっとした。

「タメルのホテル・シヴァまで」
とドライバーに行先を告げた。

デリーのホテルの部屋からエキスペディア経由で予約を入れたのはカトマンズ観光の中心地区であるタメルにある安ホテルだった。ドライバーは小太りの中年男性だったが、ホテル・シヴァという名前を聞いて理解したようだったので安心した。

カトマンズの市内の混雑はバスの中から見るよりもひどかった。こんな道を自動車が通れるのかと思うような場所を、タクシーが人混みをかき分けて進むのにはハラハラして罪悪感を禁じえなかった。ドライバーは好意的な口調でしゃべるのだが、運転席と助手席の間のバックミラーを見るといつも運転手と視線が合った。

「ここはごった返していますが、カトマンズから何キロか出れば美しい自然が見られますよ」
と言われて少しは慰めを感じた。

ホテルに着くまでの約三十分間、ドライバーからずっと観察されている感じがしていた。僕がいつバックミラーを見てもドライバーと視線が合うということは、ドライバーが僕の顔が映る方向にバックミラーを向けて常に見ているということであり、気味が悪かった。

東京の同じ大学の女友達が、タクシーに乗ると運転手にバックミラーでチラチラ見られるのが嫌だと言っていた。男性の運転手が若くて美しい女性客をついチラチラ見てしまうというのは分からないでもないが、ネパールの中年ドライバーが十八才のアメリカ人男性をこんな風に盗み見するというのは、ゲイでない限りあり得ない。アメリカか日本でこのような目に遭ったら、そのドライバーは高い確率でホモだと考えていい。

いや、途上国の素朴な労働者をゲイだと決めつけるのは早計かもしれない。外国人を乗せるのは珍しいことだから、運転手はウキウキした気持ちでついチラチラと視線を走らせているのだ。僕は自分が高慢だったことを反省した。

僕が彼らを見てエキゾチックだと考えるのと同じように彼らは僕を見てエキゾチックと思っているのだ。僕のルーツはフランス人で、日本の血が八分の一混じっている。肌は真っ白で眼は褐色、髪はいわゆる銅色のブロンドだ。日本の血のお陰で肌のきめが細やかで、細身でしなやかな体型だ。アメリカ人の女友達から「ルーベンは小顔で体毛が薄くて、まるで日本女性のようなデリケートな顔だから羨ましい」と言われたことがある。

タクシーは路地のような狭い道へと右折すると、オレンジ色の大きな建物の前で停車した。玄関にチベットの龍が描かれた建物だったが、立派な外観にかかわらず何か胡散臭い感じと悪い予感がした。玄関の周辺に煙草を吸いながらうろついている人が大勢いたからかもしれない。タクシーの運転手に頼んで他のホテルに連れて行ってもらおうかとも思ったが、そうすればキャンセル料を取られるので思いとどまった。

僕はリュックサックを肩にかけてホテルに入った。フロントに立っていた無表情な若い男が予約を確認した。チェックインをしている間、周囲の人からジロジロと見られている気がした。気味が悪くなって振り返ると、僕をここまで乗せてきたドライバーが玄関のところに立って僕を見ていた。ドライバーの左右にも数人の男が立って僕を見ている。ロビーから奥のレストランにかけて、ホテルのスタッフとも外部の人ともつかない多くのネパール人が、僕にじっと視線を凝らしていた。

這うような不気味な視線だった。背筋がぞくっとして、顔から髪の毛の付け根まで真っ赤になるのを感じた。

――僕の顔に何かついているのだろうか……。

チェックインを済ませて鍵を受け取り、周囲の視線を無視して階段へと向かった。軽装で来たのは正解だった。部屋は一階(グラウンドフロアーのひとつ上の階)だが、エレベーターに乗るのは怖い気がした。

階段を半分上ったところで、
「ミスター・ルーベン・ヤング!」
とフロントの男性から大声で呼び止められた。

まだ受付の手続きが残っていたのだろうかと思いながら渋々階段を下りてフロントへと歩いて行った。

僕に声をかけたのはストライプのシャツに黒いズボンの男性だった。

「ディナー?」
とブロークン・イングリッシュで僕に聞いている。

彼の手ぶりから推測すると、これからホテルのレストランで食事をするつもりかどうかと質問しているようだ。

そんな質問のために呼び戻されたと分かって腹が立った。僕は猛烈にお腹が空いていたが「ノー」と答えた。大勢の異様な視線に晒されて食事をする気にはなれなかったからだ。

とにかく一人になりたくて階段を駆け上り、部屋に入ると内側から鍵をかけた。カーテンを閉め、シャワーを浴びると何もせずにベッドに転がってスマホのスイッチを入れた。

デリーのホテルのフロントに何も言わずに出てきたことが気になっていた。メイドがベッドメイキングに来て、僕が何日も部屋に戻っていないと気づいたら荷物を勝手に片づけて部屋を他の客に貸すのではないかと心配だったので、ホテルに電話かメールを入れておこうと思った。

ところがスマホは電話もデータ通信もつながらなかった。東京で「アジア九ヶ国八日間使い放題」というSIMを買ってスマホに挿し込んで来たのだが、バスがデリーを出発した直後からインターネットにつながらなくなっていた。SIMが届いた日にスマホに挿し込んでAPNの設定をした後SIMを抜いたのだが、その日から八日目経過したために期限が切れてしまったのだろうと思い当たった。

フロントに電話して「WIFIの設定を教えて欲しい」と質問したところ「WIFIはありません」というシンプルな答えが返って来た。


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新作「父は僕のヒーローだった」を出版しました

日英TS文庫第8番目の作品「父は僕のヒーローだった」を出版しました。英語小説新作「My Dad Was My Hero (副題:Feminized to be a Hero)との同時出版です。

舞台はイタリアでナポリとその近郊です。主人公のヴィットーリオ・ロッシは36才、妻ダニエラと娘アンジェリーナと幸せな家庭を築いています。

ヴィットーリオは13才の時にトラックに跳ねられそうになったところを父に助けられますが、その事故で父は死亡し、父を自分の永遠のヒーローと意識して育ちます。大人になったら自分の子供のヒーローになることを夢見ていました。

そのチャンスは娘のアンジェリーナが16才になった時に訪れます。妻の運転する車が自転車に乗っていた女性を跳ね、その女性が死亡します。困ったことに自動車保険の更新を怠っており、保険が切れたばかりの時でした。それは妻には責任の無い事故でしたが、マフィアが目撃者を捏造して、ヴィットーリオとその妻は巨額の賠償金を請求されます。示談交渉に臨みますが全財産を処分しても示談金には届きません。マフィアはアンジェリーナを5年間預かることで残金に充当すると宣言し、アンジェリーナを連れ去ろうとします。

その時、ヴィットーリオは自分の身を投げ出してアンジェリーナを助けようとするのでした。



父は僕のヒーローだった

原作:My Dad was My Hero
副題:Feminized to be a Hero
原作者:Yu Sakurazawa
日本語版作者:桜沢ゆう

序章

僕はローマの中流家庭に生まれ育った。父は学校教師、母は銀行に勤めていた。

あれは十三才の時だった。近所の公園でサッカーの練習をしていた時、ボールを追いかけて道路に走り出た僕は危うくトラックに轢かれそうになった。たまたま近くを歩いていた父が駆け寄って僕を突き飛ばしてくれたおかげで、かすり傷ひとつ無く難を逃れた。しかし、父はもろにトラックに衝突して数メートル跳ね飛ばされた。頭から血を流して倒れた父は救急車で病院に運ばれたが、そのまま帰らぬ人となった。

父は自分の命を捨てて僕を守ってくれたのだった。その日から父は僕の永遠のヒーローになった。僕は父のような大人になろうと心に決めて、天国にいる父を常に意識しながら育った。

十八才で親元を離れてナポリの大学に進みマーケティングを学んだ。人とは群れず一人で時を過ごすのが好きだった。不必要な外出はしなかったが、近くのスーパーマーケットにはよく行った。レジに感じの良い子が立っていて、顔を合わせるたびに好意的な微笑みを投げかけてくれた。特に美人ではなく、アッシュ・ブロンドの髪をした普通の女性だったが、笑顔が魅力的だった。ダニエラという名前で僕より二つ年上のニ十才だとわかった。

特に買うものが無くても彼女の顔を見るために毎日スーパーマーケットに行くようになった。勇気を出して電話番号とメールアドレスを書いた紙きれを渡すと、その夜に電話がかかってきて、食事に誘うと快諾してくれた。毎日のようにデートをして、楽しい時を一緒に過ごした。

僕が十九才になって間もなくダニエラが妊娠した。普通の男なら十代で父親になると知らされたらゾッとするところかもしれないが、僕はそうではなかった。父親になるということは僕にとって極めて重要で望ましいことだった。息子であれ娘であれ、ダニエラのお腹の中にいる子供を心から大事に思った。この子のためならどんなことでもしたいと思った。父が僕のヒーローだったように、僕もこの子のヒーローになるのだと心に決めていた。

ダニエラと僕は近所の教会で結婚式を挙げた。その九ヶ月後にダニエラは世界一美しい女の子を産んだ。僕たちは天使のような娘をアンジェリーナと名付けた。アンジェリーナは赤い髪と大きな緑色の目をしていて僕にそっくりだった。

幸せな十六年間があっという間に過ぎ、アンジェリーナは美しく心優しい女性になった。男子たちは競ってアンジェリーナに言い寄ったが、アンジェリーナは「私には好きな人がいる。それは私の父よ」と言って誘いを断った。僕が父を愛し尊敬したのに引けを取らないほど、アンジェリーナは僕を想っていてくれる。それはまさに僕が願っていたことだった。

 

第一章 罠に落ちて

親になってからダニエラと僕の関係は年月を経てかつての熱を失っていった。アンジェリーナの面倒を見ることに熱中するあまり、夫婦関係に注意を払う時間が徐々に枯渇したと言える。私はヘレナ社というパーソナルケア製品のメーカーの営業部に勤務し、毎日が忙しかった。ダニエラは専業主婦として家事にいそしんだ。ダニエラによると主婦業は小さな会社を経営するのと同じく手のかかる仕事だとのことだった。

アンジェリーナはダニエラと僕の関係が業務分担のように見えることを不満に感じていたようだった。十六才の娘は自分の親が恋人同士のようになることを望んでいた。

ある日アンジェリーナが真面目な顔をして僕に言った。

「私の事は放っておいてくれて大丈夫だから、ママとの関係にもっと時間をかけて」

「ママとの関係に時間をかけろと言われても、一体どうすればいいのかな……」

「簡単よ」とアンジェリーナは肩をすくめながら言った。「休みを取って二人で旅行に行くといいわ。私はシエンナのところに泊るから大丈夫」

娘のアドバイスに従い、早速ダニエラと話をしてシシリー島に旅行に行くことになった。妻の愛車フィアット500でシシリーの州都パレルモまでドライブするプランを立てた。レッジョ・ディ・カラブリアからフェリーに乗ってシシリー島に渡れば九時間でパレルモに着くはずだ。ダニエラも僕自身も娘抜きの旅行を心から楽しめるのかどうか半信半疑だった。

ダニエラの車なのでダニエラが主に運転をすることになり、僕は助手席に座ってできる限り目を閉じていた。乱暴な運転に耐えられなくて目を閉じるのではなく、慎重すぎてイライラするから目を開けていられないのだ。どんな道でも決して制限速度を越えずに運転するので、ダニエラが運転する車の後には長い列ができる。制限速度百三十キロの高速道路を時速百キロで走ることが却って危険であるということを、何度言っても理解しようとしない。アドバイスをしても聞く耳を持たないので言うだけ無駄だ。ダニエラが運転する時は目を閉じて何も言わないのがベストだということが身に染みて分かっていた。

フェリーでメッシーナ海峡を渡ったのが正午ごろで、そのままシシリー島の北岸の幹線道路一一三号をパレルモに向かって進んだ。ネブロディ公園に差し掛かり、幹線道路から外れてキャンピングテーブルのある公園まで行って昼食にした。いつもジェットボイルという登山用の湯沸かし器を車に積んでおり、二、三分で熱いコーヒーを作ることができる。家から持ってきたパンにピーナツバターを塗りゆったりとした気持ちで一時間ほど過ごした。

この分だと明るいうちにパレルモのホテルに到着できる。僕たちは車に乗って一一三号に合流する道路を進んだ。小さな田舎町を抜ける上下二車線の細い道路を走っていた。

対向車も歩行者も殆ど目に入らない田舎道だったが、ダニエラは時速四十キロで運転した。信号が赤になったので停車し、しばらくして信号が変わるとアクセルを踏んだ。

その時、左側の道から女性の乗った青い自転車が不意に飛び出して来た。ダニエラは急ブレーキを踏み、フィアット500はキーっと音を立てて停車した。しかし、信号を無視して全速力で飛び込んで来た自転車との衝突を免れることはできなかった。バンパーが自転車の後端に当たり、女性は自転車から投げ出されて反対側車線に転がった。

その六十才前後の細身の女性は路上に仰向けに横たわり、微動だにしていなかった。僕の心臓は止まりそうだった。その女性は死んだと直感したからだ。僕はすぐに車を降りて彼女の所に駆け寄り、脈を確かめようと腰をかがめた。その時、彼女はパッと目を開いて上半身を起こした。僕はほっと胸をなでおろした。

「奥さん、大丈夫ですか?」

「どうもすみません! 赤信号だと気づいていたのについ渡ってしまって……」
と彼女は申し訳なさそうに言った。

「いや、そういうこともありますよ」

特に痛がっておらず元気そうだったので安心した。

「念のために病院で検査を受けてください。数キロ手前で病院の横を通りました。病院まで車でお連れします」

「いえいえ、そんな必要はありません。私はピンピンしています。それに、家はすぐそこですから」
と言って彼女は立ち上がり、自転車を起こした。

車の中で青くなっていたダニエラもやっと運転席から降りてきた。彼女をとにかく病院に連れて行こうと、ダニエラと二人で説得に努めたが、聞く耳を持たなかった。

結局、彼女の家まで送らせてもらうことになり、彼女を助手席に乗せて妻が運転し、僕は彼女の自転車に乗って後を追いかけることになった。

彼女が言った通り、家はすぐ近くで、二人が車から降りた時に僕も自転車で追いついた。

「衝突したのに自転車は新品のようにスムーズに走りました。よかったですね」

「あら、さっきまではギーギー音を立てていたのに、不思議だわ」

「当たり所が良かったんですかね? アハハハ」

「どうぞお入りになってカフェラッテでも飲んでいってください」

ダニエラと僕は女性の言葉に甘えて家に入った。ホテル到着が遅くなっても大した問題ではない。大事故にならずに済んでよかったと改めて感じた。

家に入ると軽く九十才は越えていそうな老人が椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。明らかに腰が曲がって、白内障なのか目が白く濁っている。そんな目でにこりともせずに睨まれて、妻は居心地が悪そうだ。

僕はその老人に自己紹介をして、交通事故の事を説明した。

僕が話し終えると女性がその老人に言った。

「パパ、すごく親切な人たちなのよ。私が赤信号を無視して突っ込んだせいで、この人たちを足止めしてしまったの」

女性の言葉を聞いてその老人が父親であることが確認できた。

「念のために病院で検査を受けてもらいたかったんですが、お嬢さんがどうしても嫌だとおっしゃるもので……」

「うちの娘は病院が大嫌いなんだ」
と老人がぶっきらぼうに言った。

「万一お嬢さんが頭痛や吐き気などを訴えたら、必ず病院に連れて行ってくださるようお願いします。ここに私の電話番号を書いておきますから何かあったらご遠慮なくお電話ください」

「自動車保険のコピーを見せてもらえるか?」

見るからによぼよぼの老人から突然予想外の質問を受けたので驚いた。見かけよりはしっかりした人物だと分かった。僕はダニエラから鍵を借りて保険証を取りに自動車に戻った。ダッシュボードの中のフォルダーに入っていた保険証を見て恐怖のあまり頭髪が逆立った。保険は三日前に切れていた。最近メールアドレスを変えたので、保険会社からの更新通知を見逃してしまったのだろう。

奇跡的に無傷だったから良かったが、もし怪我でもしていたら、と思うと冷や汗が出た。無保険だったことをあの父親に話すのは得策ではないと思い、シラを切ることにした。

「どうも保険証を家に置いてきてしまったようです。でもご心配なく。少しでも問題があればすぐにご連絡ください」

ダニエラと私は家を出ると、グーグルマップで警察署を探した。たまたま女性に怪我は無く、自転車も壊れなかったが、衝突事故を起こした以上は警察に届け出ておいた方が無難だと思ったからだ。

警察は車で数分の距離にあり、ダニエラと僕は一時間ほどかけて届を出した。対応した警察官は「後ほど被害者の家に出向いて調書を取っておきましょう」と言った。警官の口から「被害者」という言葉を聞いて、気が重くなった。

「帰っていいですよ。被害者に怪我は無くても届けを出しに来たのは正解でした。届けを出さなかった場合、万一被害者から訴えが出たら、非常にまずい状況になりますから」

「ありがとうございました」
とダニエラが言って、僕たちは警察署を出た。車に乗るとどっと疲れが出てきた。ダニエラは僕以上に疲れている様子だった。とても旅行を続けられる気分ではなかった。呪われたような二時間だったが、それがやっと終わった。ダニエラも僕もそう思った。

ホテルに電話を入れて予約をキャンセルし、来た道を引き返した。ダニエラは魂が抜けたような様子で、とても運転させられなかったので、僕がハンドルを握った。

日付が変わった頃に家に到着し、僕たちは死んだように眠った。

***

一週間の休暇を取っていたので、残りは家でゆっくりと過ごすことにした。ロールパンとオレンジジュースで朝食を済ませると娘のアンジェリーナは学校に行った。今夜から友達のシエナの家に泊りに行く予定だったが、学校に行ったらシエナに断って普段通りに帰宅するとのことだった。

ダニエラと僕はカフェラッテを飲みながらゆっくりしていたが、玄関のベルが鳴るのを聞いてダニエラはビクッとした様子で立ち上がった。朝起きてから前日の事故の話はお互い一切口に出していなかったが、二人の心に重くのしかかったままなのだ……。ダニエラの様子を見て、改めて痛感した。僕は椅子から立ち上がり、彼女を制して自分で玄関のドアへと向かった。

ドアの外に立っていたのは四十がらみの紳士で、ベージュのダブルのスーツを着ていた。一見無邪気そうな顔をしたカールのかかった柔らかい髪の毛の人物だったが洞察力のある抜け目のない目をしていた。ブリーフケースを手に提げていて、「私は弁護士です」と顔じゅうに書いてあった。

その表情を見て、この人物がただ者ではないと直感した。心臓がバクバクし始めた。

「なにかご用でしょうか?」
と私は平静を装って聞いた。

「ウェイド・フェリと申します。ダニエラ・ロッシ様にお会いするために参りました」

私の後ろに立っていたダニエラが「ダニエラは私ですがご用件は?」と気丈に言った。

「込み入った件ですので中でお話しさせてください」

「分かりました。お入りください」

フェリ氏をリビングルームに通してソファーに腰かけさせ、僕は向かい側に座った。ダニエラは極度に緊張している様子で、立ったままだった。

「コーヒーはエスプレッソでよろしいですか?」
とダニエラは気丈にホステスの役目を果たそうとしていた。

「いえ、結構です。奥様が居ないと話が始まりませんから、奥様もそこにお座りください」

フェリ氏は氷のような微笑を浮かべて僕の横の席を手で示し、ダニエラは腰を下ろした。

数秒間の沈黙の後でフェリ氏が口を開いた。

「私はアントニオ・セラ氏の代理人としてまいりました。昨日あなたに跳ねられて亡くなったマリア・セラさんのお父さんです」

「何ですって! 彼女が亡くなったと仰るんですか?」
と僕は叫んだ。妻はアッという声を出して口に両手を当てた。血の気が引いて真っ青な表情になっている。

「しかし、昨日お別れした時にはピンピンしていましたよ」

「あなたたちお二人が立ち去った二、三時間後に容態が急変したのです。救急車が到着した時には息が絶えていたとのことです」

「ああ! どうしましょう!」
ダニエラはパニック状態だった。

「事故というものは時には起きるものです」
とフェリ氏はダニエラの顔を見ながら肩をすくめた。

「しかし何故その翌日に弁護士さんがわざわざ家まで来る必要があるのでしょうか?」
と僕が質問した。

「セラ氏は、運転者の不注意によって娘が死亡したと考え、正義の鉄槌が確実に下されるようにと、私を雇いました」

「私の不注意による事故ではありません!」
とダニエラがヒステリックに叫んだ。

「私はいつも慎重に運転していますし、制限速度も超えたことがありません。昨日も赤信号で停車して、信号が変わってから発車しました。あの女性の自転車は信号を無視して交差点に猛スピードで飛び込んできたんです。彼女は信号を無視したことを認める発言を何度もしていました。お父さんの前でも、自分が信号を無視した結果私たちを引き留めることになって申し訳ないとはっきり言っていました。その言葉はお父さんも覚えているはずです」

「嘘を言ってもらっては困ります。あなたは信号が赤なのに車を発車させたんです。奥さん、信号を見ずに何を見ていたんですか? カーラジオの選曲をしていたんですか? スマホを見ていた……まさかポケモンをしながら運転していたんじゃないでしょうね? それとも居眠り運転ですか?」

「違います。私はちゃんと前を見て運転していました。信号がグリーンになったのを確認してからアクセルを踏んだんです!」

「あなたは嘘を言っている。あなたは赤信号で発進した!」
とフェリ氏はダニエラを指さして大きな声で決めつけた。

「見てもいないのにいい加減なことを言わないでください!」

「目撃者が居たんですよ」
とフェリ氏がドスのきいた低い声で言った。

ダニエラは震え上がった。僕も凍り付いた。現場に他の人影は無かった。もし誰か居たら駆け寄っていたに違いない。僕とダニエラとあの女性の三人しか居なかったと断言してもいい。それなのに突然弁護士が現れて目撃者が居ると言い出すとは、一体どうなっているのだろうか? 僕たちは何かとんでもない共謀によって陥れられようとしているのかもしれない……。

「奥さん、あなたには責任を取ってもらわなければなりません」

フェリ氏はダニエラを見据えて言った。

「まず、過失致死という刑事責任がかかります。赤信号で突然発車して自転車を跳ねるとは悪質です。もしポケモンをしていたとか、重大な違反があったとなれば重過失致死になって、長期間刑務所で暮らすことになりますよ。並行してセラ氏による民事訴訟に晒されます。一億円レベルの賠償金を払うことは免れないでしょう」

「言いたい放題ですね。そんなことを私が信じるとでも思ってるんですか? 私は現実に交通規則を守って運転していたんですから、裁判で負けるはずがありません」

ダニエラが気丈に反論したことに驚いたが、心が木の葉のように揺れている様子が見て取れた。僕の心臓は今にも壊れそうに音を立てていた。

「奥さん、甘く見ると後悔しますよ。私は本件と同種の交通事故を三十五件扱いましたが、そのうちの三十四件で勝訴しました。今回の事故は目撃者が一人だけであり、他に一切の映像や画像はありませんから、裁判になればあなたは百パーセント敗訴すると自信を持って保証します」

フェリ氏の実績は本物だと感じた。ダニエラも同じことを考えている。大変な相手を敵に回してしまった。僕たちは絶体絶命の危機に直面している……。

「でも心配はいりません。こんな時のために自動車保険をかけているわけでしょう? 無意味な主張をするのは控えて、私に協力してください。そうすれば自動車保険の賠償責任限度額の上限以内の金額で決着がつくようにしてあげるし、刑事責任も罰金だけで済むように協力してあげましょう」

僕とダニエラは顔を見合わせた。フェリ氏が事故の直後に来訪したのは保険金を最大限に取るために加害者に協力させようとして、僕たちを脅し、釘を刺すのが目的だったのだ。ダニエラは罰金で済むと聞いて顔に血の気が戻ったようだ。しかし、僕にとってはバッドニュースだった。

「実は……。申し上げにくいんですが、保険は三日前に切れていたんです。たまたま更新を怠っていたもので……」

「何ですって! どうして今まで黙っていたのよ!」

ダニエラが真っ赤な顔で僕に食って掛かった。

「困りましたね。あなた方にとって非常に困った状況としか言いようがありません」

フェリ氏がため息をついた。ダニエラと僕も椅子の背にもたれて天を仰いだ。

しばらく沈黙が続いた後でフェリ氏が口を開いた。

「そういうことなら、払える限りのものを払って、残額は借金をして、一生をかけてでも払ってもらうしかありません」

「私、やっぱり裁判で本当のことを主張します。悪いのは彼女なんですから」

「奥さん、さっき説明した通り、あなたは百パーセント敗訴します。膨大な借金を抱えたまま刑務所で何年も過ごすことになります。私がその気になれば『何年も』程度では済まなくなりますよ」

「どうしろと仰るんですか……」

「法廷には持ち込まず、秘密裏に金銭で和解するのです。法律用語で法定外紛争解決と言います。私がセラ氏を説得して、裁判なしで済むようにアレンジしてあげましょう。刑事責任も問われないようにしてあげます」

「一体いくら払えばいいのですか?」

「五千万円で話をつけてあげましょう」

フェリ氏はそれが些細な金額であるかのようにさらりと言った。

僕の頭の中は大混乱していた。一生懸命働いた結果、この家をやっと手に入れた。家を売ってローンを返済すると差し引き二千万円程度しか残らない。貯金と債券、株式を全部合わせると一千万円。合計三千万円を払えば我が家はスッカラカンになる……。

「あのう、三千万円で話をつけて頂けないでしょうか?」
僕はフェリ氏に手の内をすっかり明かして相談した。

「無理です。そういうことなら裁判でかたをつけるしかありませんね」

「いや、残りの金額も何とかならないか考えさせてください」

「ちょっと待って!」
とダニエラが口をはさんだ。

「今日の話はありもしないことを目撃した証人が存在するということが前提になっているようです。その目撃者という人に会わせてもらわないと、納得できません。たとえ法定外で話をつけるにしても、目撃者と会った後になります」

「いいでしょう」

フェリ氏は不敵な笑みを浮かべた表情をダニエラに向けた。

「とにかく、奥さんの要求をセラ氏にお伝えしましょう。目撃者と加害者を面談させることをセラ氏が許すかどうかわかりませんが、改めてご連絡します」

「どうかよろしくお願いします」
と僕は懇願した。

「では、今日はこれで失礼します」
とフェリ氏は腕時計を見ながら言うとブリーフケースを持って立ち上がり、勝手に玄関へと歩いて行った。

***

フェリ氏が出て行くと、ダニエラはソファーにどんと腰を下ろし、両手を上げて怒鳴った。

「何てことなの! 交通違反をしたのはあの女よ。私は何のミスもしていないのに! 目撃者なんて全くのでっち上げよ!」

「僕もそう思う。でも、五千万円払う以外に道は無さそうだ」

「バカじゃないの? 責められるべきことをしていないのにお金を払うつもり?」

「分かってくれよ。他に方法が無いんだ。あの弁護士は相当なやり手だ。裁判に持ち込まれたら、君は刑務所に入れられるのが確実だ。その上で巨額の賠償金を請求される。一億円になるかもしれない。確かに五千万は高いが、あと二千万何とかすれば払える。一億円になったら完全にお手上げだ。君は刑務所の中、僕は一人でどうすればいいんだ?

「自分ひとりが被害者みたいな言い方ね。あなたが保険をちゃんと更新していたら何の問題も無かったのよ。これはあなたの責任だわ。それにしても二千万円をどこからひねり出すつもりなの?」

「まだ具体的なアイデアは無い。銀行かどこかから借りられないかな……」

「お金のあても無いのに金銭解決に同意するとは、あなたの頭はどうかしてるんじゃないの? 保険もかけないし、無い袖を振ろうとするし、それでもあなたはちゃんとした男なの? バカとしか言いようがないわ」

「ああ、僕はバカさ。亭主に平気で悪態をつきまくるような女と結婚した僕は大バカものだ。運動神経ゼロの女にハンドルを握らせた僕がバカだった。普段はノロノロ運転で僕をイライラさせるくせに、信号が変わってすぐに急発進したから事故になったんじゃないか!」

「急発進なんてしてないわよ、バカ!」

ダニエラは手で顔を覆って泣き始めた。

「私がいつもどんなに慎重に運転していたか、分かってるでしょう……」

ダニエラはソファーにうつ伏せになって小さな少女のようにすすり泣いている。涙で化粧が乱れた顔と泣き崩れた様子を見て、守ってやりたいという気持ちが湧きあがった。

「ゴメン、言い過ぎた。君は全く悪くない。悪いのは僕だ。君とアンジェリーナのことは僕がきっちりと守るよ」
と僕はソファーの上に泣き伏したダニエラの頭を撫でた。


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新作「禁断の鏡」を出版しました(日英TS文庫)

日英TS文庫の第七作として「禁断の鏡」を出版しました。SF的というかオカルト的とも言える要素が含まれているホラー・ミステリー小説ですが、TS小説としてはリアル系に分類されると思います。

主人公はイギリスのウィンダーミア地方に大富豪の長男として生まれたアーロン・グリーグです。アーロンは12才の時に母親を落馬事故で失いますが、その一年後に父親が若い美女シャキーラを後妻に迎えます。

アーロンは新しい母親を受け入れて親しい親子になります。敷地内には父親が立ち入りを禁じている古い石造りの倉庫があり、ある日アーロンとシャキーラは倉庫を探検します。倉庫の中はまるで中世にタイムスリップしたような場所で、二人は美しい鏡を見つけます。鏡は人間の言葉に反応するようでした。

シャキーラが鏡に「この世で一番美しい人は誰?」と問いかけると、鏡はシャキーラが最も美しい人だと答えます。

その夜、アーロンが一人で石造りの倉庫に忍び込み、この世で最も美しい人について、より突っ込んだ質問をすると、思いもよらなかった答えが鏡から返ってきたのでした……



英語に抵抗の無い方は、原作(英語)のForbidden Mirrorもお読みください。


禁断の鏡

第一章 鏡の預言

夕食の後で父に呼ばれた。
「アーロン、ちょっと話があるんだが」

普段とは全然違う口調だったので僕は身構えた。叱られるのかもしれない。きっと悪い話だと直感した。

「シャキーラは覚えているな?」

「シャキーラって、一昨日のパーティーに来ていたお姉ちゃんのこと?」

「そうだ。実はシャキーラと結婚することになった」

「誰が?」

「お父さんがだ」

「ええーっ!」
僕は絶句した。

一昨日は父の誕生日で、例年通り大勢の客を家に招いてパーティーを開いた。父は大会社のオーナー社長で政財界にも顔が広いが、誕生パーティーに呼ぶのはごく親しい人たちだけであり、家族を含めて二、三十人ほどだ。招待客の中に一人だけ僕とさほど年令が離れていない人が混じっていた。それがシャキーラだった。

クリーム色のレースのドレスを着たきれいな女の子が来たのを見て、僕より少し年上かな、と気になっていた。父と彼女がワイングラスを持って談笑し始めたので、十八才以上だと分かった。その時、父から呼ばれて彼女に紹介され、立ち話をした。

パーティーの時に僕が父の友人に紹介されて型通りの立ち話をするのはよくあることで、彼女もその一人だった。十二才の僕より少し年上の少女ではなく、お酒も飲める大人だと分かったので、僕は彼女に興味を失い、彼女のことは気にしていなかった。

「シャキーラは見かけほどは若くはないんだよ。アーロンの新しいお母さんになる人だから、暖かく迎え入れてくれ」

僕は「分かった」と返事して自分の部屋に行き、ベッドに仰向けになった。

ショックだった。

母が亡くなってもうすぐ一年になる。父が葬儀の日に「私が本気で愛した唯一人の女性だった」と言ったのが今でも耳に残っている。たった一年で母の事を忘れて、自分の娘のような年令の女性を好きになるとは……。

僕の母、ブリオニーはこのウィンダーミアで最も美しい女性と言われていた。

ストロベリー・ブロンドの長い髪は風に揺れるアザミのように鮮やかだった。僕はいつも母と一緒だった。母と二人で森に行ってキノコ採りをしたり、一日かけて山や湖を回った思い出は僕の宝物だ。僕は母には何でも話せたし、母も父には言えないことまで僕に話した。母と僕は毎日楽しく笑って時を過ごした。

その笑いがある日突然途絶えた。乗馬をしていた母が馬から落ちて首の骨を折ったのだ。溌溂としていたウィンダーミアが朦々となり小鳥たちも歌わなくなった。父は生きた亡霊となって殻に閉じこもった。

明るい父に戻ったのはごく最近だった。シャキーラと出会ったことで父は自分を取り戻したのだろう。後で聞いたところによると父はギリシャに出張した際にシャキーラと出会い、シャキーラのエキゾチックな美しさに魅了された。シャキーラというのはフルネームであり、ミドル・ネームも姓も無いとのことだった。等身大の彫刻かと見紛う完璧な肉体、褐色の顔とつりあがった目。シャキーラは生粋のギリシャ人ではなく先祖は外国からの移民だという噂もあった。それがトルコなのか、中東なのか、北アフリカなのかは誰も知らない。

結婚式の日、シャキーラがベージュのウェッディングドレスを着て穢れの無い白いバラのブーケを手にして立っている姿を見て、父の気持ちが分かる気がした。彼女が放つ捉えどころのない香り、彼女の動きのしなやかな気品、そしてオオカミを連想させる微笑みの不思議な魅力が、人々を虜にした。

僕にとって、シャキーラは世間でいう継母の典型とは程遠かった。シャキーラは僕に対してとても親切で、どこにでも一緒に連れて行ってくれた。友達の家でのカクテルパーティーや美容室にも僕を連れて行くし、ロンドンのグローブ・シアターにも一緒にシェークスピアを見に行った。

「僕、邪魔になるのはいやだから、無理してどこにでも連れて行ってくれなくてもいいよ」
と僕は十二才の少年らしい遠慮をしたことがある。

シャキーラは形の良い手で僕の頬を包んで答えた。
「アーロンは私の弟みたいなものだから、邪魔だなんて思ったことはないわ。一緒に来てくれると心強いのよ」

シャキーラのフランス語訛りが素敵だった。僕は、この上なく美しいエキゾティックなシャキーラの虜になった。もしシャキーラが義理の母親でなかったら、間違いなく恋をしていただろうと思う。

僕は広大な屋敷の敷地を、亡くなった母と一緒に散歩したものだが、シャキーラとは仲良しの姉弟のように走り回った。敷地の中央にある屋敷は灰色の三角屋根がある大きな白い建物だった。屋敷の前には大きな庭があって、季節にはバラやツツジが咲き誇った。

屋敷の横手には馬小屋があり、父の自慢のサラブレッドが居た。馬小屋の裏には、父から決して近づかないようにと言われていた石造りの倉庫があった。その倉庫は何百年も前に建てられたものらしく、ずっと鍵がかかったままだと聞いていた。

ある晴れた日曜日の昼下がり、父はフランスに行って不在だったが、シャキーラから一緒に倉庫を探検しようと誘われた。

「ダメだよ。絶対に近づかないようにとお父さんから言われているもの。シャキーラもそう言われただろう?」

「どうして入っちゃダメなのかなあ?」

「そりゃあ、お化けが出るとか、悪霊に取りつかれるとか……」

「アーロンって子供ね。すごい財宝とか、ひょっとしたら死体が隠されていたらどうする?」

僕は怖くなった。背筋に寒気が走るのを感じた。

「私がついているから大丈夫よ。さあ、冒険に行くわよ」

シャキーラからそこまで言われて断れず、渋々ついて行った。

倉庫の鍵は冷蔵庫の上にあった。馬小屋の横を通ると、石造りの倉庫が僕たち二人を手招きするかのように立っていた。二人は磁石で引き寄せられるように倉庫のドアまで行き、鍵を開けて中に入った。手をつないで足を踏み入れる。シャキーラの手は汗で湿っていた。シャキーラが小鹿のような黒い目で僕をちらりと見た時、好奇心と不安が混じった輝きが見えた。

僕はまだ髭が生えていない鼻の下に汗の粒を感じた。シャキーラと僕は父の言いつけを無視することで、大きな間違いを犯そうとしているのかもしれない。しかし、倉庫の中に足を踏み入れてしまった今となってはもう遅い。

建物の中に入ると、外の世界とは空気がガラッと変化したのが感じられた。それは何とも言えない奇妙な変化だった。地球上に存在する父の屋敷の敷地の中にいるのに、他の惑星にワープしたかのような違和感を感じた。僕の周囲の空気は濃すぎてネバネバしている。飛行機に乗っていて機内の気圧が急に変化した時のような感じだ。倉庫の中には不思議な静寂があって、夢の中を歩いているような気がした。

シャキーラも同じことを感じているのが見て取れた。シャキーラは握っていた僕の手を放し、この世のものではないものを見るような目をしてふらふらと歩いている。彼女は倉庫の中に置かれている虫食いだらけ巨大なのカーテン、数えきれないほどの陶磁器などを片っ端から手で触れながら歩き回り、僕はその後について回った。

殆どトランス状態だったかもしれないが僕たちはお互いの息吹を強く意識していた。

シャキーラは高い位置にある閉じた窓の隙間に見える光に引き寄せられるようにふらふらと歩いて行き、その下のキラッと輝くものに目を止めた。二人で近づいて見ると、それは造り付けの鏡だった。

周囲を貝殻で飾られた円形の鏡で、見たことが無いほど豪華で美しかった。不思議なことに、鏡には一点の曇りもなかった。

シャキーラは夢見心地のような顔つきで鏡の前に立った。僕がすぐ斜め後ろから覗くと、黒を基調にメイクした目、細い鼻筋とハートの形の口をした、形の良いシャキーラの顔が映っていた。東洋風の黒い髪が彼女の美しさを際立たせている。

シャキーラは自分のあまりの美しさにポカンと口を開けて鏡を見ていたが、彼女の声とは思えない歪んだ声で鏡に向かって言った。

「鏡よ鏡、鏡さん。イングランドで一番美しいのは誰?」

倉庫の中がシーンと静まり返った。ピン一本を落としても聞こえる程の静けさだった。その時、信じられないことが起きた。ほんの僅かだが、鏡の表面がピクッと浮き出るように動いた。それは地震で地球の岩盤が上に押し出されるようなイメージで、その鏡が誰かの顔のようにぼんやりと見えた。その顔から答えが返って来た。

「生きている人の中で最も美しいのはシャキーラだ。お前の美しさと優雅さには誰も敵わない」

シャキーラはブルブルと震えながら後ずさりした。僕も同じように後ずさりした。僕たちは風に揺れる葉っぱのように震えながら顔を見合わせた。

あれは年寄りの男性の声だった。ある考えが僕の頭をよぎった。こんなことが起きるはずがない。誰かが僕たちを引っかけようとしているのだ。シャキーラの小鹿のような目を覗き込むと、同じ疑いを抱いていることが分かった。

僕たちは何も言わずにドアの方へと歩いて行ってパッとドアを開けた。ドアの外には誰も居なかった。はるか遠くまで見渡す限り、人っ子一人見当たらなかった。あれは鏡の声だったのだ。

「夢を見てたんじゃないことを確かめるためにもう一度やってみましょう」
とシャキーラが言って、尻込みしている僕の手を引っ張って倉庫の中に入って行った。彼女は鏡の前に立って、先ほどと同じ質問をしっかりとした声で繰り返した。

再び誰かの顔のようになった鏡が、先ほどに劣らないほどはっきりと同じ答えを返した。

僕たちは畏れおののきながら視線を交わした。二人が見聞きしたことが幻想でなかったのは明らかだった。



その夜、僕は寝付けなかった。昼間に起きた事を何度も思い返し、倉庫の中のこの世のものではない静けさ、空気のどんよりとした重さ、それに何よりもあの鏡が顔のようになったのを見た時の怖さを改めて感じた。

昼間にシャキーラと僕に父の言いつけを破らせたのと同じ衝動が、もう一度あの倉庫に行くようにと僕を駆り立てた。もし父に知られたら叱られる。僕は懐中電灯を手に、パジャマ姿のまま寝室を出て、音を立てないように階段を下りた。冷蔵庫の上の鍵を取り、そっとドアを開けて玄関を出た。誰にも気づかれなかったようだ。

外に出るとひんやりとした夜の空気が頬を洗った。満月の夜だったが、懐中電灯で足元を照らしながら歩いた。

馬小屋の横を通って古い石造りの倉庫に着いた。入り口の鍵を開けて中に入った。昼間来た時に濃すぎてネバネバしていると感じた空気は、今はもうドロドロになっている。倉庫の中は昼間よりも更に静かで、不気味なほどの静寂に覆われている。右の奥の窓の下に鏡が見えた。僕は夢遊病者のような足取りで鏡に近づき、畏敬と恐怖の混じった気持ちで鏡の前に立った。

僕の顔が映り、アーモンドの形の大きな目と青みがかったグリーンの瞳、すっきりとした鼻、形の良い唇と桃のような顎が鏡の中に見える。母譲りのストロベリー・ブロンドの髪が懐中電灯の光を受けて輝いている。

「鏡よ鏡、鏡さん。過去と現在と未来において、イングランドで一番美しいのは誰ですか?」
と僕は声を震わせながら恐る恐る質問した。

鏡の表面がピクッと浮き出るように動いて、顔のようなものがぼんやりと浮かび上がった。今日の昼に聞いたのと同じ年寄りの男性の声で答えが返った。

「お前のお母さんのブリオニーが最も美しかったが、ブリオニーが死んでからはシャキーラが一番になった。そして、将来はアーロン、お前がイングランドで一番美しい人になるだろう」


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新作「禁断のインスピレーション」(日英TS文庫)を出版しました

新作「禁断のインスピレーション」を出版しました。これは4月3日に出版したYu Sakurazawaの英語小説”Feminized for Inspiration”の日本語版、TSミステリー小説です。

主人公はテオと言う名前の卒業間近のイギリス人男子高校生ですが、ストーリーは34才のイタリア人女流作家アリシアの第一人称で語られます。アリシア(私)は由緒ある文学賞の受賞者として有名になった作家ですが、17年前にレイプされ同級生の恋人のリアを失った過去を背負っています。アリシアは受賞記念パーティーでテオと出会い、リアと似たテオに心をときめかせるのでした。

主な舞台はローマ時代からテルメ(温泉)で栄えた保養地、シルミオーネという湖畔の街です。

【日英TS文庫】
「禁断のインスピレーション」は日英TS文庫の第六作目の小説です。

第1作「第三の性への誘惑」(原作:Enchanted into the 3rd Gender)
第2作「性転の秘湯」(原作:Slippery Slope in a Hotspring)
第3作「忘れな草」(原作:Abigail Resurrected)
第4作「禁断の閉鎖病棟」(原作:Forbidden Asylum)
第5作「呪いのバービー人形」(原作:Forbidden Memories)
第6作「禁断のインスピレーション」(原作:Feminized for Inspiration)


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禁断のインスピレーション

原作:Feminized for Inspiration
著者:Yu Sakurazawa

第一章 受賞と結婚

彼氏いない歴三十四年の私の人生にテオが入り込んできたのはつい最近のことだった。

私は十七才の時に書いた短編小説がマイナーなミステリー小説のコンテストで銅賞を受賞してから、大学時代、そして就職後も創作活動を続けている小説家だ。昨年、大手文芸誌のコンテストで大賞を受賞したことで新進気鋭の女流作家として注目されるようになった。大賞作品の印税だけでなく、過去に出版済みの小説十数作品の売上も急激に伸びたので、それまで勤めていた会社を退職し、女流作家として生計を立てるようになった。

アリシア・ティンリーというペンネームは私の本名だが、知名度が一気に高まったのは、今年の春に出版した小説「失われた冒涜」が著名な文学賞であるブルックナー賞の候補作品にノミネートされてからだった。昨年の文芸誌のコンテストで大賞を受賞した作家がブルックナー賞の候補に挙がったということで、新聞や雑誌から取材を受け、活躍する女性に関するテレビのノンフィクション番組で私の画像がたった二、三分だが放映された。

最終的に三月末にブルックナー賞の発表があり、私の「失われた冒涜」が受賞の栄誉に輝いた。それから二週間ほどは新聞雑誌の取材やテレビの出演依頼も相次いで目の回るような忙しさだった。

テオと出会ったのは四月十五日にミラノのホテルで開催されたブルックナー賞の受賞記念パーティーの会場だった。そのパーティーには十人の一般参加者枠があり、ネットで受け付けた千人を超える応募者の中から抽選で十名が選ばれ、テオもその一人だった。

「僕、先生の小説は全部読みました」
グレーのスーツにネクタイ姿で、赤みがかった金髪をした美しい青年がグリーンの目をキラキラと輝かせながら私を見上げて、よどみのないイギリス英語で言った。

「君に先生なんて呼ばれると年寄りになった気がするから、アリシアと呼んで」

「えっ、そんな……。じゃあ心の中で『先生』と付け加えながらアリシアと呼ばせていただきますね。僕は十七才ですから、アリシアの丁度半分です。七月に十八才になりますけど」

十五才ぐらいかと思ったのに大人の入り口の年令だということを知って意外だった。飾り気がなく、優しくて甘い声だった。男性の声を聞いてそのような安らぎを感じるのは初めてだった。杏仁豆腐を連想させる白い肌と小さな赤い唇が私の目からたった数十センチ先にある……。

「僕の名前はセオドア・ウィズリーです」

「テオと呼んでいいかしら?」

「はい、先生。じゃなかった、アリシア。友達からもテオと呼ばれています」

「テオはミラノの高校生なの?」

「いえ、シルミオーネの高校です」

「イタリア人じゃないわよね?」

「イギリス人です。五年前にイタリアに渡って来てシルミオーネに住んでいるんですけど、去年父がロンドンの本社に転勤になって、僕を残して家族は帰国しました。来年の四月にはイギリスの大学に進むつもりなので、それまでに帰国します」

イタリアの年度は九月に始まるが、イギリスは四月からなので、半年の空白があるのだ。

「イギリス人にしては小柄ね」

私は女性としては長身で百七十六センチあるが、今日は九センチのハイヒールを履いてきたので普段より背が高い。テオは私の目の高さしかなかった。

「平均よりは少し低いですけど、そんなに小さくはないです」
とテオはムキになった表情で言った。紅潮した頬はまるで桃のようで、食べてしまい衝動に駆られた。
「百六十七センチです。やっぱり小さいのはお嫌いですか……」

「私の昔の恋人も百六十七センチだったわ」

そう言うとテオはパッと顔を輝かせた。

「テオのメールアドレスを教えてくれる?」

「はい、先生。電話番号とメールアドレスとワッツアップのIDを今すぐ送ります」

私がワッツアップのIDを教えるとテオはあっという間にワッツアップで連絡先を送ってくれた。

「じゃあ、また連絡するかも」
と思わせぶりに言ってその場は別れた。

ほんの二、三分間の会話だったが、それは心躍る時間だった。テオは私がこの人生で手に入れることをほぼ諦めていたものをすべて持っていた。美しさ、優しさ、そしてそばにいるだけで得られる安らぎ。私に話しかけてきた時のキラキラと輝く目、ムキになった時の表情、自分が昔の恋人と同身長と知った時のうれしそうな顔……。地球上にそんな男性が何人も存在するとは思えなかった。そのうちのひとりが私の手の届く距離に来たのは奇跡だと思った。

私はきっとテオと結婚することになると思った。三十四才の名の知られた作家が十七才の高校生との結婚を意識することが不自然だということはよく分かっていた。

テオには私の昔の恋人と似ている点が沢山あった。周囲から妨害されなければ今も一緒に人生を送っているはずの恋人だった……。

その時司会者から呼び出され、私は壇上で記者たちからインタビューを受けた。テレビ局の記者から「ご両親にひと言」と聞かれて私はカメラのレンズを見ながらこう答えた。

「私がブルックナー賞を取れたのはお父さんのお陰です。お父さん、あなたがいなければこの小説は書けませんでした」



私は子供の時から男性は苦手だった。

初経があるまで性別というものを意識していなかった。学校でも、下校してからも、男の子と一緒に遊んでいたが、男の子が好きだったからではなく、彼らがしたいことと私がしたいことが同じだったからだ。私と同程度にサッカーが上手な子は一人か二人いたが、私は常にスターだった。

第二次性徴が始まった時に、特に絶望を感じたわけではない。私は母と似ていたので大人になったら母のような外見になるのが当然と思っていたし、毛むくじゃらで腹がポッコリと出た父の裸を見ると身震いするほどの嫌悪感を感じた。それまで遊び仲間だった男の子たちの身体の変化は、彼らが将来私の父と同じような身体に向かうことを示唆していて、気の毒だと思ったし、かかわりたくない気がした。

そして、私は十三才の時に恋をした。相手はリア・コスタという同級生の女の子で、赤みがかった金髪とグリーンの目をした、繊細な造りの美しい顔立ちの少女だった。学校では休み時間も昼食もトイレに行くのもいつも一緒で、二人で下校するとお互いの部屋に入り浸った。

ある日、彼女の家でベッドの縁に座っておしゃべりをしていたらうとうととしてしまい、目が覚めるとリアの唇が私の口をふさいでいた。それが私のファースト・キスで、頬から太ももまでジンジンして戸惑ったのを覚えている。それから私たちは会うたびにお互いを求め合う関係になった。

やがて母に現場を見つかり、こっぴどく叱られた。母が父に告げ口をして、父は私にびんたを食らわせた後で髪を掴んで引っ張り倒して足で踏みつけにした。二度と同じことをしたら髪を剃って坊主にすると脅された。保守的なクリスチャンの家だったので、両親にとってショックだったということは理解できる。父は私が十三才という若さで肉体関係を持ったことと、その相手が女性だったという二つの点に(多分後者をより強く)激怒したのだった。

私のリアに対する気持ちは父の叱責と脅しの結果、却って強くなった。父のお陰でリアと私はより慎重かつ巧妙に逢瀬を重ねるようになり、高校を卒業するまでの四年間、私たちは密かに絆を深め合った。

あの事件が起きたのは卒業式の日の午後、二人が時々デートに使っていた廃工場の事務室だった。私がリアにキスをしながらリアの制服のスカートのホックを外してスカートがするりと床に落ちた時、黒い目出し帽をかぶった若い男がナイフを左手に部屋に入ってきた。私は同級生の男子ならある程度対等に渡り合える自信があったが、その男の体格は規格外で、ナイフを見て、刃向かえば殺されると直感した。男は私たちの足をはらって床に転がしてから私を後ろ手に縛りあげて口にタオルを押し込み、私が見ている前でリアを犯した。リアは泣きながら抵抗したが全く歯が立たず、男のおぞましいものを奥底まで突き立てられた。

私は自分の無力さに絶望した。男が入ってきた時に敵わないと思っても椅子でも棒でも振り上げて立ち向かうべきだった。そうしなかった自分に腹が立った。目の前でリアを犯されるぐらいなら、立ち向かって殺された方がマシだった。

リアが犯された後、更に恐ろしいことが起きた。その男はリアが見ている前で私を犯したのだった。私はリアに対して彼氏のような立場で、リアを一生守る覚悟でいたし、リアもそのつもりだったと思う。自分が男性に対してこんな形で力なく屈服する時が来るとは考えたことが無く、無残な敗北の姿をリアに晒している自分が耐えられなかった。

男は高笑いを残して立ち去り、リアは私を後ろ手に縛っていたロープを解き、私とリアはお互いの股間からこぼれ出る粘液を見て、抱き合って泣いた。警察に届けることはできなかった。警察に届ければ必ず両親が呼ばれて、私とリアが廃工場の事務室で四年間逢瀬を重ねたことが露見してしまう。私たちは一刻も早くあの男の体液を身体から洗い流したくて、各々の家に帰った。

帰宅すると廃工場で経験したのとは別の種類の、更にショッキングな事態が私を待っていた。私は自分の部屋に戻る前に浴室に入って身体のあらゆる隙間まで汚れを完全に洗い流したが、夕食は殆ど喉を通らず、誰とも口を聞かずに自分の部屋に戻った。しばらくして父がノックもせずに私の部屋に入ってきて私に言った。

「お前が女だということは、今日よく分かったはずだ。大学に行ったら色々な男性と友達になり視野を広げて将来の伴侶を探しなさい」

それを聞いて、一瞬、父が何を言いたいのか理解できなかったが、まもなく恐ろしいことに気付いた。父は私がレイプされたことを知っている……。

その点について確認するため、私は可能な限り平静を装い、声を震わせないように言った。

「よく分かったわ。今日のは教育的指導だったということね」

父は痴呆めいた微笑を浮かべて「分かればいい」と言ってうなずいた。これでリアと私を犯したのは父が雇った男だったと分かった。なんと、父は娘に自分が女であることを分からせるためには、チンピラの精液を自分の娘の身体の中に注入させることさえ厭わなかったのだった。父にとって女同士が交わるというのはそれほどの悪行だったということだろう。

父に犯されたのと同じだと思うと、私の愛するリアを犯させた父に対する殺意が湧いてきた。私は立ち上がって父に体当たりして部屋の外へと突き飛ばし、中から鍵を締めた。



翌日から父とは一切口を聞かなくなった。父がしたことを母が知っているのかどうかはその時は判断できなかったが、少なくとも私たちをレイプさせることを事前に承知していたわけではないのは確かだと思った。母は明らかに抑うつ状態にあった私に対して、問い詰めることなく何かにつけて気遣ってくれた。母親が自分のお腹から生まれた娘が暴漢にレイプされることを事前に容認するはずがない。もし後で父から聞かされていたとしたら、そんな男性を夫として寄り添わなければならない母は気の毒だとしか言いようがない。

四月から私は大学に進学し、アルバイトをするようになった。すぐにでも家を出て一人で住みたかったが、経済的に無理なので家で寝起きしたが、父とは視線を合わせず会話もしなかった。

リアに会いに行きたかったが、なかなかその勇気が出なかった。リアをレイプさせた犯人が自分の父であることをリアに言うべきかどうか分からず、犯人の家族である私はリアに顔を合わせる勇気が無かった。リアに会って全てを話そうと決心したのは大学が始まって最初の土曜日の朝だった。

リアに連絡を取ろうとしたが、電話に出ず、ワッツアップにもメールにも応答が無かった。リアの家に電話をするとお母さんが電話に出た。

「リアは昨日の夜亡くなったの。寝る前にお風呂に入ったのに出てきた気配が無かったから私が気になって見に行ったら手首を切って死んでいた。アリシア、どうしてもっと早く会いに来てくれなかったの?!」
と言って電話の向こうでリアのお母さんが泣きじゃくった。

レイプされたことのトラウマで自殺したのか、私が疎遠になったことを苦にして自殺したのかは分からなかった。

葬儀の日に見た棺の中のリアの顔は不自然なほど安らかで微笑んでいるようにさえ思えた。

それから何日も眠れない夜が続いた。リアをレイプした真犯人は私の父だったが、リアを自殺に追いやったのはすぐにでも慰めに行くことを怠ったこの私かもしれないという思いが私を責め続けた。

人間とは強いもので、二ヶ月もすると私は普通に大学に通ってまるで何事もなかったかのように生活が送れるようになった。男女とも友達はできたが、誰とも深い付き合いはしなかった。

私をデートに誘う男友達も何人か現れた。私のように背が高くボーイッシュな体格で性格も男っぽい女性に魅力を感じる男性は意外に多いのだ。

そんな時には、
「ごめん、他に好きな人がいるから」
と言って断るのが最も手間がかからない撃退方法だった。そうすればその男性が好ましいかどうかを評価する立場にないことが相手にも理解できるので無難だし、浅い友達のままでいることができる。

それに、好きな人がいるというのはウソではなかった。リアが死んでから何年間もの間、私は自分の恋人はリアだと本気で思っていたからだ。

口には出さなかったが、男性と友達以上の関係になる気はなかった。父やあのレイプ犯人と同じ性器を股間にぶら下げているということが「男性」の定義であり、そのカテゴリーの生き物と裸で身体を合わせることは一生あり得ないというのが正直な気持ちだった。

大学の女友達の中にはリアに負けないほどの美人や、リアと同じように透き通るふわふわした肌を持った女性や、優しかったり話していて面白い人もいたが、全てを兼ね備えている人はいなかった。仮に居たにしても、その人が女同士の愛を受け入れる可能性は低いはずだった。

私の体格や性格のせいで、そして気づかないうちに放つオーラがあるのかもしれないが、私に抱かれたくて近づいて来る女性には不自由しなかった。大学四年の時に一度だけそんな女性を抱いたことがある。真っ白な肌、髪は赤みがかったブロンドでグリーンの目をした新入生で、一瞬リアが生き返ったかのような錯覚を覚えた。でも、ベッドの中で私は失望した。リアと似ていたのは外観だけで、何の安らぎも感じさせない薄っぺらな女性だった。リアのような人はこの世界には居ないし、リアは二度と帰ってこないのだと思い知らされた夜だった。

そんなことがあってから、私は自分が一生伴侶を得られない運命にあると自覚するようになった。



ブルックナー賞の受賞記念パーティーの翌日、テオにワッツアップでメッセージを送り、金曜の夜の食事に誘った。テオが住むシルミオーネはミラノから車で約一時間半ほどの距離だが私はホテルを予約した。シルミオーネはテルメ(温泉)で有名なローマ時代からの保養地で、ガルダ湖に突き出た半島にある旧市街は私が好きな場所のひとつだった。

金曜日の午後、湖畔に面したホテルにチェックインして、テオが来るのを待った。彼は黒のタイトパンツにゆったりとしたストライプのシャツという姿でホテルのロビーに現れた。受賞記念パーティーで会ったときには髪をハードジェルでバック気味に決めてスーツにネクタイという姿だったが、今日は長めのボブをパウダーワックスでふわっとさせたヘアスタイルだった。赤みがかったブロンドの髪がテオの笑顔のはにかみを更に魅力的に見せている。

「すみません、遅くなっちゃって」
私を見上げるテオの瞳は澄みきっていた。微かな若い男性特有の汗の臭いがボディーソープの香りと混じって私の胸をときめかせた。テオは高校の授業が終わってから自分のアパートに帰って、私と会うためにシャワーを浴びてきたのだろう。

――テオは私に抱かれるつもりで来てくれた……。

ホテルのレストランで食事をして、そのまま部屋に連れて行った。三十四才の女が男子高校生を一対一で夕食に誘うこと自体が軽率であり、部屋に連れて行くのは犯罪的と言われても仕方がないことは自分でも認識していた。でも私は倫理的な行動基準を失うほどテオに魅かれていた。

テオは何の抵抗もなくさりげなく自然に、私に身をゆだねてくれた。テオは男性であり解剖学的には父やあの男と同じものを持っていたが、本質的に異なるものだった。それが女に挿入することにより支配権を確立するための道具だと認識している男性は多い。でもテオのそれは私から喜びを与えられ支配されるために存在しているようだった。

テオは男性でありながら男性ではなかった。テオの心と魂はリアと同じぐらい女性だった。彼は自己本位ではなく、私の微かな感情の変化、衝動、自分でも気付かないレベルの恐怖の芽生えを理解することができた。独占欲を出さずに人を愛せる能力を持っていた。

彼はベッドの上で恐れることなく私に身を預け、私はリアの時と同じように持って生まれた支配欲を気兼ねなく発揮することができた。私に言われた通り後ろ手に緊縛されたり、お尻をベルトでしばかれたり、言葉で奴隷扱いされることも厭わなかった。

テオが生まれつきマゾヒスティックで被支配欲が強いのか、作家としての私を崇拝しているから言う通りにしてくれたのかは定かではない。ただ、テオにとって大事なのは自分がどうされたいかということより、私が何をしたいかということなのだと感じられた。

私は土曜日の朝テオにプロポーズした。

「本当に僕なんかでいいんですか? 僕はアリシアが少しでも気持ちよく感じられるためなら何でもします。一生そばにいられるだけで幸せです」

テオはまだ十七才なので入籍するには親の承諾が必要だった。しかし、年令が倍の私としてはテオの両親の承認を得る自信は無かった。テオは七月十日の誕生日に自分の意志で結婚できる年令に達するので、その日を待って入籍することになった。

私はミラノのアパートを引き払い、シルミオーネにある小さなヴィラを購入して移り住んだ。

二人のママゴトのような同居生活がスタートした。


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新作「呪いのバービー人形」を出版しました(日英TS文庫)

「呪いのバービー人形」は2016年8月に桜沢ゆう(Yu Sakurazawa)が出版した英語小説「Forbidden Memories」の日本語版で、TSホラー・ミステリー小説です。日英TS文庫の五作目になります。

主人公は若くしてジャーナリストとして成功したイギリス人男性のディーン・ベイカーですが。舞台はイタリアのフローレンス(フィレンツェ)~ペルージャです。ディーンは突然誘拐されて北イタリアの荒地にある建物に幽閉され、恐ろしい目に遭わされます。目に見えない犯人が送りつけて来る謎のメッセージを解読しようと頭を巡らせますが、なかなかその意図は読めず、最終段階に近づいた時に全てがつながるのでした。



原作のタイトルはForbidden Memories(副題:Feminized as a Punishment)です。

副題を見ると内容の想像がついてしまうので、見なかったことにして日本語版をお読みください。まあ、性転のへきれきの読者なら誘拐された段階で想像はつくでしょうが……。

 

 


呪いのバービー人形

第一章 フローレンスの怪物

私が妻と小さな息子を連れて二ヶ月ほど前にフローレンスに引っ越して来たのは、一九六八年から一九八五年にかけて花の都フィレンツェ(英語名フローレンス)でおびただしい数の殺人を犯しながら逮捕されなかった犯罪者「フローレンスの怪物」に関する本を書くためだった。

私は物書きとしてある程度の成功を収めていた。大手新聞であるガーディアン紙にジャーナリストとして就職したが、ロンドンの出版社に移り、三十二才になった今、本を書くために休職できるほどの蓄財ができた。

私は「フローレンスの怪物」と呼ばれた犯罪者について本を書くという任務を楽しんでいたが、題材の生臭さが時に私を不安にさせた。私は頭をスッキリさせるためにアルノ川を横切ってミケランジェロ広場まで歩く習慣があった。今、ブラブラといつもの道を横切ったところだが、普段なら人が溢れているのに、今日は人がまばらだったので何となく不安を感じた。道端のベンチに座って気持ちを落ち着けた。

大きく深呼吸していると、ポンコツ車が私のすぐ近くに停車した。ドライバーが窓を開けて私に呼びかけた。

「あんた、ライターを持ってないか?」
彼は手にタバコを持っていた。強いイタリアなまりの英語だったが、英語でしゃべるのに相当苦労しているという感じだった。

とにかくそのドライバーは私を見て土地の者ではないと分かっているようだった。

私はドライバーを観察した。彼はまるで十分な餌を与えられていないグレイハウンド犬のように痩せていて、お腹を空かせているように見えた。せいぜい二十八、九才と思われるが、おそらく育ちの悪さのせいで実際よりは老けて見える。

私はベンチから立ち上がってそのドライバーの要求に従った。ポケットからライターを取り出してドライバーの煙草に火をつけ、立ち去ろうとしたところ、後部座席のドアがサッと開いた。何が起きたのか自分でも理解できないうちに、私は黒くて強い腕で後部座席に引き込まれた。私を掴んだ男を見ると若い黒人で、おそらく二十代前半だろうと思った。北アフリカから何年も前にイタリアに移住した男ではないかと推測したのは、流ちょうなイタリア語をしゃべったからだ。

私はイタリア語には自信が無いが、その黒人が私を口汚く罵っていることは分かった。彼の太い眉は怒ったように左右がつながり、非常に恐ろしい顔をしていた。

その黒人が私を後部座席に引っ張り込むのに成功するや否や、ドライバーがエンジンをふかしてポンコツ車が走り出した。私は鞭でしばかれたように現実が見えてきた。誘拐されたのだ! どうにかしなければならない……今すぐに! 私は大声を上げようと口を開いたが、毛むくじゃらの白い手で口をふさがれた。私の口をふさいだのが三人目の人物で、三十代後半の黒い髪の白人だということが数マイル走った後で分かった。その人物は私と同程度の初歩的なイタリア語しかしゃべれないようだった。ハンガリーとかルーマニアなどの東欧から最近移民してきたのではないかと推測した。

その日から二年半私が幽閉されていた間、彼らの名前は分からなかった。話を分かりやすくするため、三人を三銃士に見立ててアトス、ポルトス、アルテミスと呼ぶことにする。

普段見慣れた広場や運河や塔が窓の外に見えなくなった。フローレンスの外まで来たのだと分かった。犯人は私が車の進路を目で辿っていることに気付いたらしく、私を眠らせた。

アルテミス(毛むくじゃらの東欧人)が皮のバッグから注射器を取り出して私の腕に突き立てた。私はそれから何時間かの間、死んだように眠っていたようだ。

目を開けた時、アトス(私が煙草に火をつけてやったイタリア人)は、殆ど人が住んでいない山間の不毛地帯を運転していた。一目見て、その地帯は耕作が不可能で、例え建設機械を使っても家を建てるのが困難な荒涼とした場所だった。

空気も冷えてきた。鳥肌が立ってきた腕を手でこすって温めた。フローレンスから遠く離れた北イタリアのどこかまで連れて来られたのは確かだった。息が苦しく不規則になり、喉が渇いてきた。

「水!」
と私は動揺した声で呟いた。
「水をいただけませんか?」

「待て」
とポルトス(北アフリカ人)が唸った。

アトスが私に強いイタリアなまりの英語で吠えた。

「俺たちに命令するな。お前の召使じゃない。目的地に着くまで待て。そうすれば水を飲ませてやる」

アトスの声を聞いて怖くなり、私は反対側を向いて身体を丸めた。狭い車中で何時間も座っていたので足がしびれていた。私の身長は百七十三センチだから背は高いと言うほどでないが、足は長いので、身長百八十センチの人と同じぐらいのレッグスペースが必要だった。

誘拐犯人たちの表情も段々厳しくなってきていた。私の身体中の筋肉が緊張していた。

突然、車が周囲を花に囲まれた建物の前で停まった。三棟が繋がった形の建物の周囲は雑草が伸び放題で、人が住んでいるとは思えなかった。建物にはバルコニーやテラスにつながる戸外の階段は無かったが、駐車スペースと呼ぶべき場所があり、アトスはそこにポンコツ車を停めた。

建物の中に引っ張り込まれた。中をざっと見たところ、最初の棟にはリビングルームと、三段ベッドのある寝室、キッチンと浴室があった。

二つ目の棟は研究所のような感じで、ホルムアルデヒドと消毒剤の臭いがしていた。二つ目の棟の中を通りながら、この犯人たちは何を生業にしているのだろうかと考えた。科学者だろうか? いや、あり得ない。三人はブルーカラーの労働者のように見えた。

その後で私が引っ張り込まれて閉じ込められたのは縦二メートル、横二メートル半ほどの部屋で、壁はむき出しで床はセメントのままだった。外からカチャリと鍵がかけられた。私は罠にかかった動物のように気持ちが動揺していた。神経質になって、ドアをドンドンと力任せに叩いた。

「開けてくれ!」

私は絶望に身体をすくませながら叫んだ。

「頼むから、ここから出してくれ!」

犯人たちが近くにいるのは確かだったが、私をどうすべきか決めかねているようだった。しばらくすると三人の足音が遠ざかっていき、やがてその響きも聞こえなくなった。

私は失望のあまり地団太を踏んだ。自分がどんな場所に閉じ込められたのか、大体の状況が理解できた。

その部屋は豚小屋と言っても誇張ではなかった。

壁にはカビが生えていて、部屋中にカビくさい臭いが立ち込めており、豚小屋と呼ぶにふさわしい。ただ、その部屋には豚小屋には無い文化的痕跡があった。弾力のある折り畳みベッド、小さなコーヒーテーブルと壊れそうな椅子だ。少し欠けた小さな花瓶がコーヒーテーブルの上に置いてある。等身大の鏡と、いわゆるお爺さんの時計のようなノッポの古時計が立っていた。

隣りの部屋へのドアとおぼしきものがあったので蹴り開けた。そこには浴槽、便器と洗面台があった。

浴室のドアを閉じて等身大の鏡の前にゾンビのような姿で立った。自分は感じのいい外観だと思っていたが、鏡の中の私はひどい格好だった。体格は逞しいというよりはやせ細った感じであり、本来健康的なはずの顔色はまるで漂白されたように蒼白だった。緑の目の瞳孔は開き、手が震えている。

さまざまな想いが頭の中を横切った。あいつらは一体誰で、私に何をしようとしているのだろうか? 身代金が目的だろうか? それはあり得る。一応金持ちの部類だから、誘拐のターゲットにされてもおかしくない。身代金目的の誘拐ならやつらは既に妻に連絡し、身代金を要求しただろう。そうなれば私の妻のシーナは間違いなく要求された金額を送金したに違いない。シーナは私の命が危機に陥っていることを知ったら、一時たりとも無駄にせず行動に移すことができる女性だ。そう考えれば、さほど心配する必要はない。

しかし私の神経はズタズタになっている。背丈より高い古時計がチクタクと大きな音を立てて時を刻み、その音が私の不安を増大した。

ただ、心の奥底で、これは身代金目的の誘拐では無いという予感があった。きっと何か見えないものが隠れているという気がする。

私はその時、バラの香りがするピンク色の封筒をコーヒーテーブルの上に見つけた。


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新作「禁断の閉鎖病棟」を出版しました(日英TS文庫)

日英TS文庫四冊目となる小説「禁断の閉鎖病棟」を出版しました。これはTSホラー小説です。

これは2016年5月に出版されたYu Sakurazawaの英語小説「Forbidden Asylum」の日本語訳です。Forbidden Asylumは海外TS小説のサイトでも取り上げられたことがあるTSホラー小説です。

主人公は25才の男性で2才上の愛妻が居ます。何不自由なく幸せに暮らしていたのですが、ある日、一人で郊外にドライブした時に高速道路から分岐した田舎道で自動車が動かなくなってしまいます。奥さんに電話して迎えに来てもらおうとするのですが、スマホの電池が切れていたので、どこかで電話を借りようと歩き始めます。しかし、そこは人っ子一人いない荒涼とした地域で、歩いていると大きな菩提樹の陰にある病院に行き当たり、「電話を貸してください」と入っていきます。

ところが、そこは世にも奇妙な病院でした。病院にたった一つしかない電話から奥さんに電話をすることには成功するのですが、それから後は物事が思い通りに進まなくなるのです……。

原題:Forbidden Asylum
原書の副題:Feminized in Insanity
原作者:Yu Sakurazawa

日英TS文庫の前回の作品「過去からの呪文」と同じく(それ以上に)原作に忠実に日本語版を書きました。約四万四千文字なので価格は390円に設定されています。

普段、怖い目にあいたいと思っている読者にとっては、恰好のホラー小説です。

 


禁断の閉鎖病棟
原題:Forbidden Asylum
原書の副題:Feminized in Insanity
原作者:Yu Sakurazawa
日本語版作者:桜沢ゆう

「閉鎖病棟」とは精神科病院の病棟で出入り口が常時施錠され入院患者や面会者が自由に出入りできない病棟を示す言葉で、開放病棟の対語である。

第一章 狂気の事務長
私は夢見心地で高速道路を運転していた。私の愛車、マルチ・スズキのアルト800を運転するのはこの上ない喜びだ。初めて買った車だから愛着があるというだけでなく、マニュアル・シフト車のハンドルを握り、最高のタイミングでクラッチを踏んでギアをシフトして他の車をビューンと追い抜くのは快感としか表現のしようがない。セルリアン・ブルーのアルトは私の感性に呼応して思い通りに動いてくれる。父の遺産を引き継いでいたので、その気になればBMWの5シリーズでもトヨタのSUVでも買えたが、欲しかったのはこのアルトだけだった。

カルナタカ州の旧国道4号、通称NH4は映画の題にもなったことがある趣のある国道だ。郊外に出ると窓の外の景色は退屈な田舎の風景でしかない。まだ朝なのに荒地を走るタールとコンクリートの道路を強い日差しが焼き焦がす。樹木はまばらで五十メートルに一本立っていればまだ良い方だ。でも、大都市バンガロールの気違いじみた喧噪と交通渋滞を逃れ、遠く離れた田舎を一人でぶっ飛ばす気持ちは格別だ。

気持ちよくトップギアで走っていたが、突然車がガクガクっとなった。アクセルを踏んでも反応しなくなり、緊急停止を試みたがブレーキもきかない。必死でハンドルにしがみ付き、何とか路肩に停車して、ほっと胸を撫で下ろした。

ボンネットを開けたが、特に煙や蒸気が噴出しているわけではなく、エンジンオイルをチェックしたところ正常範囲内だった。私は特にメカ音痴ではないが、何をしたらよいか分らず、お手上げだった。子供の時から住み込みの運転手兼メカニックが居る家に育ったので、自動車が故障した場合の対応を学ぶ機会はなかった。

意識しないうちにNH4から分岐する道に入っていたようで、そこは人っ子一人見当たらない荒れ果てた場所だった。車が通れば近くのカーショップまで乗せてもらえるのだが、停車してから十分間、一台の車も通らなかった。

仕方ない。家からはちょっと遠いがディンプルに電話して迎えを頼むことにしよう。ディンプル(えくぼ}は妻の愛称だ。彫りの深い顔に浮かぶ可愛いえくぼ……。私が困っていたらいつも助けに駆け付けてくれる、世界一頼りになる相棒だ。非常にしっかりしていて、家の中では頭が上がらないが、ディンプルの優しい笑顔を思い出すと気持ちが和む。

助手席に置いたバッグからギャラクシーS9を取り出す。

――あっ、電池が切れてる! 警告が出ていたからUSBプラグを挿し込もうと思ったのに、つい忘れていた。困ったぞ……。

まずいことにバッグには小銭入れしか入っていなかった。

車のキーを回すとメーターのランプが点灯したので、停車したままでスマホを充電することは多分可能だろう。後から思うと、そうしていればよかったのだが、二十五才の未熟な私は何もせずに待つことには耐えられず、小銭入れをポケットに入れて車を降り、人気がありそうな方向へと歩き出した。

イバラが生い茂った田舎道をトボトボと歩く。暑い! 日差しが高くなってとにかく暑かった。一キロ近く歩くと、ヒンヤリとした風が流れて来た。近くに川が流れているのだろうか。そのまま歩いていると大きな菩提樹が見えてきた。そして、その菩提樹の向こうに建物が忽然と姿を現した。こんもりとした木に隠れて見えなかった建物が視界に入ったというだけの話なのだが、その時の私にとっては感動の光景だった。

私は子供のようにはしゃいで駆け出した。菩提樹に近づくと背後の建物がはっきりと見えてきた。

それは外壁を白で塗装された建物で、清潔な感じがした。一般の住宅よりはずっと大きいが、大きなビルというほどではない。取り立てて特徴の無い普通の建築物であり、バンガロールには同じ形の建物が何百何千とあるだろう。「取り立てて特徴が無い」という言葉が、この建物を表すには最も適切だと思った。

何の建物かというと小さな工場、小さな役所または診療所というあたりではないだろうか。鉄でできた背の高い門に近づくと「ヴィンセント病院」という看板が目に入った。私の三つ目の推測が当たっていたわけだ。

一見してヴィンセント病院について特に不審な感じはしなかったが、ただ「高圧注意! 壁には高圧電流が流れています」という標識が目についた。どうして病院の壁に電気を流すのか意味不明だ。これは人間用の病院ではなく、猛獣を収容するアニマル・ホスピタルなのだろうか? それとも、最近産婦人科病院からの誘拐事件が相次いだ結果、門以外からの人の出入りを完全に遮断するという対策を講じたのだろうか……。

ところが、近づいてみると意外にも門番や警備員は居らず、鉄格子でできた門のラッチ式のロックを手で開けると難なく中に入ることが出来た。前庭には鉢植えが幾つか置かれており、建物の玄関ドアへとつながっていた。ドアを開けて中に入るとフロントロビーがあり、受付窓の向こうに事務所が見えた。

私は受付窓からオフィスの中を覗き込んだ。男が一人事務机に座っていた。四十代半ばぐらいだろうか。客観的に見て普通の男性だった。顔立ちはよく、白髪交じりの髪は少し縮れているが、年の割に引き締まった体型をしていた。ただ、安っぽいポリエステルのカッターシャツ、首にかけた味気の無い金メッキのチェーン、そして何よりもシャツの上から透けて見える胸毛の気持ち悪さに、ついイライラしてしまった。

しかし、そんなことはどうでもよかった。大事なことはこの男性に助けを求めることだった。

「あのう、すみません」

「はい、なんですか?」

「病院の方ですよね?」

「事務長のアショックですが」
抑揚が無くて何の特徴も無い声で返事があった。この建物の外観と共通点を感じた。

「私はレイと申します。バンガロールからNH4を走っているうちに側道に入ったみたいなんですが、車が急に故障して動かなくなってしまいました。スマホも電池が切れてしまったので、ここまで十五分ほど歩いて辿り着きました。家内に迎えに来てくれという電話をしたいので、携帯電話を使わせていただけないでしょうか?」

「それは災難でしたね。残念ながら私は携帯電話を持っていません。この病院のスタッフも誰も持っていません。この病院は……何と言うか、精神を病んでいる人のための病院なので、余計な精神的負担をかけないよう、建物の中への携帯電話やスマホの持ち込みは禁止しているんですよ」

「でも、そのパソコンはネットにつながっていますよね? そこから妻にメールを送信させていただけませんか? メールだと電話と違ってすぐには通じないかもしれませんが……」

「レイさん、恐縮ですがパソコンはネットにはつながっていませんし、WIFIもありません。もし患者が夜中に事務所に忍び込んでメールを送信したりブラウジングしたら困りますんでね。うちの患者さんは処置するために入院しているのであって、楽しむためにここに居るわけじゃありませんから」

「分かりました、アショックさん、他を当たってみます。スマホがそろそろ充電されているはずなので車まで歩いて戻るのが早いかもしれません」

それまでぶっきらぼうだった事務長の物腰が急に柔らかくなった。

「ちょっとお待ちください。この炎天下を十五分も歩いて熱射病になったら、それこそ大変です。緊急通話用に固定電話を一回線だけ引いてあって、電話機が三階にあります。お使いになりますか?」

「助かります! 是非お願いします」

「じゃあ三階までご案内しましょう」

アショックについて古風なベンガラ塗りの階段を三階まで上った。一応ちゃんとした病院のようなのにエレベーターが無いとは驚きだった。階段の途中で、だらしない服装の年配の男が階段のさび付いた手すりにしがみついているのを見かけた。

私がその男の横を通過した時、男は濃い茶色のフレームの眼鏡に右手をかけて私をにらんだ。

「ついに宇宙がその姿を現した。わしの家のジャグジーの中に宇宙があるんだ!」

急に男が叫んだので心臓が飛び出しそうになった。アショックは私の肩に手を置いて言った。

「心配ご無用、あの男は妄想しているだけです。シバという名前で、ただの貧乏人ですが壮大な幻想を抱いていて、自分のことを画期的な発見をした偉大な天体物理学者だと思い込んでいるんです」

「そうですか……」
アショックが患者の病状を説明するのに嘲るような口調で話したことに嫌悪感を覚えた。

心の病と言うものは簡単にコントロールできるものではなく、心の病を持つ人について嘲笑するのは全く非倫理的だ。アショックの無神経さにムカムカと腹が立ってきたが、電話機があるはずの三階の部屋にやっと到着して我に返った。

部屋に入って気づいた最初のことは、壁面の約二メートルの高さに長方形の金属扉があることだった。スイッチボックスの扉にしては大げさな感じだった。

それはガラス窓と造り付けの小机だけがある小部屋で椅子もない。机の上には黒い電話機が置かれていた。それは子供の時に家にあったのと同じ回転ダイヤル式の電話機で、一九九○年代にタイムスリップしたような気持になった。

――奇妙だ。

不思議な感覚だった。ヴィンセント病院には時間が流れているのだろうか……。

震える指で妻の携帯電話の番号をひとつずつダイヤルした。アショックは小部屋から出て行ってドアを閉めた。アショックがプライバシーを気遣ってくれたことには意外な気がした。ダイアルし終えて応答があるまでの時間が長く感じられた。ディンプルの少しハスキーで魅力的な声が聞えた時、私は救われた気持ちになった。

「もしもし、どなたですか?」

「僕だよ、レイだよ!」

「あなたなのね? どこから電話してるの?」

私は今日の苦労の一部始終を妻にぶちまけた。ディンプルは私たちの親友のサンジャイと一緒にショッピングモールにいるようだった。

「ヴィンセント病院はNH4から分岐した道路の近くにあるはずだよ。正確な場所はネットで調べてみて。大きな菩提樹が目印だ。出来るだけ早く来てね!」

「パニックにならないで! NH4ならよく分かっているから簡単にたどり着けると思うわ」

「NH4からどこでどう側道に入ったのか、自分でも分からないんだけど、分岐してからかなり走ったみたいなんだ。殆ど人気のない場所に来ちゃったから」

「悪い子ね、一人でそんなに遠くまで行くなんて」
ディンプルは子供に説教するような口調で私に言った。

「サンジャイと私がそこにたどり着くまでには、多分一時間半ぐらいかかりそうね。交通渋滞がひどければ二時間かかるかも」

「ごめんね……」

「まあ、いいわよ。ええと、病院の名前をもう一度言って」

「ヴィンセントだよ。ヴィンセント病院」

「ヴィンセント病院? 聞かない名前ね。ねえ、サンジャイ、ヴィンセント病院って知ってる?」

サンジャイの声は受話器には聞こえなかったが、ヴィンセント病院という名前は知らないようだ。

「すぐに出発するから心配しないで待っていて。途中で知り合いのメカニックを拾って行くとサンジャイが言ってる」

「本当にごめんね。二人に迷惑をかけて」
と言って電話を切った。

ディンプルの優しい声を聞けただけで幸せだった。妻と私の二人だけなら途方に暮れていたかもしれないが、サンジャイが居るから何とかしてくれる。本当に頼りになる最高の男だ。

妻に電話で助けを求めるという最重要課題を終えてひと息ついた。後はロビーまで下りて行って妻とサンジャイの到着を待つだけだ。知り合いのメカニックを拾ってくると言っていたから、きっと愛車のアルトに乗って家に帰れるだろう。

小部屋のドアを開けるとアショックが心配そうな表情で立っていた。

「お友達に電話は通じたかい、レイチェル?」

――はあ? レイチェルだって?

アショックは今私をレイチェルと呼んだ。若々しく、男らしくてスポーティーなこの私を、女の名前で呼ぶとはどういうつもりだろうか? 私はスリムだが身長もあり、女性を連想させるところはひとつもない。

不愉快だと一瞬思ったが、真面目な顔をして性別絡みの冗談を突然言い出したアショックを見ていると、可笑しさが急にこみ上げてきた。

「アハハハ。事務長さんって、相当パンチのあるユーモア・センスがあるんですね!」

アショックは笑わなかった。それどころか、真剣で打ち沈んだ感じの心配顔になった。アショックの表情を見ていると、私が一人で笑うわけにはいかないという気がした。

気まずい沈黙の後でアショックが口を開いた。

「レイチェル、薬は時間通りにちゃんと飲んだのか?」


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新作「過去からの呪文」を出版しました(日英TS文庫)


「過去からの呪文」は3月11日に出版した英語小説 “Voices from the Past”の日本語翻訳版です。主人公のピーター・ライトはロンドンに住む21才の若者です。大学を卒業したばかりですが、シェイクスピア・シアターに演劇を見に行った時に、隣に立っていた同年代の女性リビーと知り合い、意気投合して結婚します。新婚旅行先を決めるにあたって、ピーターの頭に浮かんだのはインドのコルカタでした。ピーターは両親の仕事のせいで8才から10才までの2年間コルカタに住んでいたことがあるのですが、そのころの記憶は殆どありませんでした。コルカタに行くと二人はカーリー寺院というガンジス河畔の有名な寺院に観光に行きます。カーリー寺院で瞑想をしている時、地底から湧き出るような声がピーターに聞こえ、寺院を出てガンジス河畔に向かうよう命令されます。言う通りにしなければリビーを殺すとその声に脅迫されます。ガンジス河畔で沐浴している人たちの横を通り、ユーカリやハイビスカスの木立の中に足を踏み入れると、その声はピーターに驚くべき命令を下します。ピーターの人生は思いもよらない形で翻弄されることになっていきます。


Title: Voices from the Past
Author: Yu Sakurazawa
これはYu Sakurazawaの69冊目の英語小説です。

これまでの三作と違い、過去からの呪文は原作をかなり忠実に翻訳した小説です。(結婚式に関するくだりで原文には無い数小節が挿入されていますが……。)原文はかなり濃くて切迫感のある英語で、それを膨らませずに日本語にしたので、日本語小説としては短めです。

桜沢ゆうの小説の価格設定は:
長編(約10万文字~)980円
長編に満たないもの(概ね5~9万文字)590円
英語小説 US$3.99

「過去からの呪文」は37000文字で、390円に設定しました。

Yu Sakurazawaの英語小説は直訳して日本語化すると4万文字前後になるものが多いです。まだ日本語にしていない英語小説が65作品あり、将来日英TS文庫のレーベルで出版する本には390円の設定になるものが増える可能性があります。



過去からの呪文

第一章 ハネムーン

初めてリビー・ブラウンと会ったのはロメオとジュリエットを観るためにグローブ座に行った時のことだった。私は大学を卒業したばかりで彼女はおらず、一人でテムズ川の南岸の劇場に行った。一番安い立見席の平土間でロメオとジュリエットを観劇した。

二人の薄幸な恋人たちの描写が琴線に触れて、私は周囲の人には構わず、涙があふれ、すすり泣いた。たまたま隣に立っていた背の高い女性が私をバカにしたように見下ろして、いかにも無慈悲な様子でせせら笑った。

「男が人前でワンワン泣くとは女々しいわね」
とリビーが言った。
「まあ、あなたのフェミニンな側面がつい前に出たんでしょうけど……。あなたみたいに感情的な男性は初めて見たわ」
と、リビーは忍び笑いした。

「人それぞれだから、放っといてくれよ」
初対面の相手に対してあまりの言い方だと腹が立ったので、私は少し意地悪な言葉を返した。
「僕もこんなに心を打たれる劇を見て涙ひとつ流さない女性を見たのは初めてだよ」

「私の男性的な側面が出たということでしょうね。私を強くて精神的に独立した、そして感情的ではない女性に育てるということが私の両親のモットーだったから」

あっけらかんとした言い方だったので、彼女に対して感じていた反感が消えた。
「じゃあ、僕たち二人がカップルになったら丁度いいんじゃないの?」
と軽い気持ちで冗談を言った。

劇場を出てから一緒にそのあたりをブラブラして、コーヒーショップに入った。

リビーは背が高くてしっかりとした骨格のブロンド美人だった。大らかな感じで、くったくなく笑う女性だった。一方、私は黒い髪で、身長は百六十八センチとイギリス人男性としては小柄な方で、骨格は小作りと、リビーとは正反対だった。でも二人には共通点があった。二人とも二十一才と若く、大学を卒業したばかりで、自分たちをどんな人生が待ち受けているのだろうかとワクワクしているということだった。

何週間かデートを重ねて、リビーと私は結婚した。二人とも家族はあまり結婚には乗り気でなかった。私たちの家族からすると、そんなに若くして特定の相手につなぎ止められてしまっていいのかということと、まだお互いを十分知らないのではないかという心配が先に立ったようだ。でも、リビーと私は結婚して幸せそのものだった。今後の人生を一緒に生きていくという判断をするために十分なほど長く付き合ったと考えていた。

少なくとも私はそう思っていた。

新婚旅行をどこにするかという話になって、リビーは私にまかせると言い出した。

「ピートは誠実な気持ちでこの私を妻にしてくれたんだから、家の中では主人として立ててあげる」
とリビーが言い出したので少し当惑した。

「気持ちはありがたいけど、僕としては主人になりたいわけじゃなくて、対等の関係を築きたいんだ」

「とにかく、どこに新婚旅行に行くかはあなたが決めてちょうだい」

それはある意味で親切な申し出であり、リビーは非常に寛大だと思った。私はどこに行くのがいいだろうかと頭を巡らせた。とある外国の光景が頭に浮かんできた。巨大なカンチレバー橋、ドラムを打ち鳴らす音、ホラ貝を高らかに吹き鳴らす音、マスタード・オイルで調理した魚の芳香……。私はきらびやかな豊饒の地を想像したが、そこには暗くて恐ろしい何かが流れているような気もした。

その地がコルカタであると認識するまでに時間はかからなかった。インドの西ベンガル州の州都で、以前はカルカッタと呼ばれていた大都市だ。

私の両親は旅が好きで、若い頃には色々な国に住んでいた。インドには私が八才から十才までの二年間住み、コルカタで英語を教えて生計を立てていたそうだ。インドの次はタイにしばらく住んでいた。

当時の私はあまりのカルチャーショックやコルカタのきらびやかな光景と音に圧倒されたのか、不思議なことにその時期の記憶が殆ど無い。家で両親から教育を受けていたのか、現地の学校に通っていたのかさえ覚えておらず、友達が居たのかどうか、両親が近所づきあいをしていたのかどうかについても記憶が無い。八才から十才という年令なら詳しく覚えているのが普通だと思うのだが、その部分の記憶が完全に欠落しているのは不可解なことだった。

私の心に残るコルカタの印象は「美しい町」だったが、その表面的な栄光の下に横たわる得体のしれない悪意というべきものがうっすらと記憶に残っている。しかしその悪意が何だったのかは私には分からなかった。それでも私は是非あのカリスマチックな町に行きたいという強い願望を抑えられなかった。まるで超自然的な力が私を妻と一緒にそのガンジス河畔の町へと誘っている気がした。

「コルカタにしよう。君と一緒にコルカタに行ってロマンチックな時を過ごしたいんだ」

「かなり変わった選択ね」
とリビーは好奇の目で私の顔をのぞき込みながらコメントした。
「エキゾチックな趣向が強い人だとは分かっていたけど、インドを選ぶとはちょっとびっくりしちゃった」

「ゴメン。それほど君をがっかりさせるとは思わなかったんだ。勿論ほかの場所でも良いんだよ。例えばもっと平凡なところで、パリとか」

「いやよ、パリなんて! 陳腐すぎるわ。新婚旅行というと誰でもパリに行こうとするもの。喜んでインドに行くわ。すごくいい雰囲気の国だと聞いているし」

リビーがインドに行くことを意外にあっさりと了承したので拍子抜けした。

「インド全体が同じだみたいな言い方は間違ってるよ。一見同じように見えても地方によって全く異なるんだから」

リビーと私は九十日間有効の観光ビザを取得し、一ヶ月間の新婚旅行の予定を組んでコルカタ行きのフライトに乗った。コルカタ国際空港、通称ダムダム空港に到着し、タクシーでエスプレナード地区にあるホテルに向かった。エスプレナード地区はコルカタ市の中心部に位置し、どの観光スポットに行くのにも便利な場所だ。

到着した日にレンタカーでコルカタ市を一巡りして、観光スポットの豊富さと、豊かな光景と音に改めて感銘を受けた。ロンドンは華麗な大都会だが保守的な不毛さとでも言うべきものがあり、それに対してコルカタの官能的な肥沃さは好対照だと感じた。コルカタは豊富な文化、文学、宗教、芸術的な趣で満ちており、何かにつけて私の感覚が動揺させられる気がした。

しかし、この美しい大都会の奥底に私にとって意味のある暗い秘密が隠されているという気持ちがぬぐいきれなかった。

そんなことを考えるのはコルカタの暑さと旅の疲れのせいだと自分に言い聞かせた。ホテルの部屋に入るとリビーと私は交代してシャワーを浴び、ルームサービスで食事を注文した。しばらく休憩した後、リビーは旅行の日程表を眺めていた。

「コルカタは色んな場所を折衷したような町なのね。どこから手をつけたらいいのかさっぱりアイデアが浮かばないわ。ピート、どこに行くかはあなたが決めてちょうだい」

「またかよ……。僕は深刻な決断不能症の女性と結婚してしまったみたいだね」
私は怒ったふりをして唸った。

「その通りよ。私があなたと結婚したのは人生の決断を全部任せられる人を見つけたからだもの」

「はいはい、分かりました。でも、あきれたね。じゃあ、旅程に書いてある行き先を一つ一つ読み上げてみて」

「いいわよ。ヴィクトリア・メモリアル、インド博物館、科学博物館、ファイン・アーツ美術館……」

「美術館や博物館ならイギリスに腐るほどあって、僕は飽き飽きしてる。もっとインドならではのユニークな場所に行こう。例えば宗教的な名所とか」

「じゃあダクシネーシュワルのカーリー寺院はどうかな? インドで最も聖なる川と言われるガンジス川を近くで見られると書いてあるわ」

「それはグッド・チョイスだ。明日、朝食を終えたら出発しよう」


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新作「忘れな草」を出版しました(日英TS文庫)

「忘れな草」はTSロマンス・サスペンス小説です。舞台はロンドンの下町。小学校6年で両親を交通事故で失い、親戚をたらい回しにされたあげくホームレス同然の状況で中学を卒業した少年ノアが主人公です。ノアは16才の時に「忘れな草」というセレモニー専門の参列者派遣会社に就職し、従業員寮でベッドと温かい食事が毎日得られる環境を手に入れます。部屋は先輩従業員との同室ですが、家族のような愛に満ちた毎日を過ごします。

就職して2年目のある日、ロンドン近郊のサリー・カウンティーにある古城のような邸宅で行われる18才の少女アビゲイルの葬儀に参列することになります。魂の奥底まで揺さぶられた葬儀の後で、ノアは予期しなかった事態に遭遇することになるのでした。

***

「忘れな草(副題:モーニングサービス)」は2018年2月14日に出版された以下の英語小説の日本語版です。

Title: Abigail Resurrected
Subtitle: The Professional Mourners
Author: Yu Sakurazawa

Yu Sakurazawaは桜沢ゆうが英語の小説を出版する際のペンネームで、Abigail Resurrectedは彼女の68冊目の英語作品です。

原題を直訳すると「蘇生したアビゲイル」あるいは「アビゲイルの復活」になると思いますが、それではSF小説だと誤解されそうなので、原作の副題「プロのモーナー」の会社名である「忘れな草」を日本語版の題にしました。忘れな草(英語ではForget-Me-Not)の2つの花言葉「私を忘れないで」と「真実の愛」はこの小説のテーマと合致しています。

桜沢ゆうの作品で英語版と日本語版の両方が存在するのは「忘れな草」が3作目です。

第1作目は「第三の性への誘惑」(英語作品名:Enchanted into the 3rd Gender)です。
第2作目は「性転の秘湯」(英語作品名:A Slippery Slope in a Hotspring)です。

今後、それ以外の65作品の中で日本語化が適したストーリーの作品について日本語版の制作を行い「日英TS文庫」というレーベルで出版する予定です。



忘れな草

(副題:モーニングサービス)

桜沢ゆう

 

第一章 風変わりな職業

私の職業はモーニングサービスだ。といっても喫茶店とは何の関係も無い。喪服のことをモーニングと言うが、あのモーニングだ。葬儀屋ではなく、葬儀参列者の派遣業者と言えば分かりやすいだろうか。

世の中には孤独な人が大勢いる。親類が殆どいない人、親類がいても付き合いが全くない人、人と付き合うのが嫌いな人、一年中家に引きこもっていて近所の住人から認識すらされていない人……。事情はさまざまだ。そんな人が亡くなって葬式を行う時、声をかけるべき人がおらず、喪主以外は数人の参列者しかいないという寂しすぎる葬式になる場合がある。

そんな場合、喪主にそこそこの経済力があれば、私たちに声をかけることによって問題を解決することができる。喪主が自分で参列者のバイトを雇うとか、素性のわからない業者をネットで探して申し込むことはお勧めできない。私たちプロのモーナー”Professional Mourners”と単なるバイトではレベルが全く違うからだ。本当に故人を見送るために来た少数の友人や身内は、雇われた参列者を見抜けるだけの眼力を持っているものだ。安易な数合わせをしたために葬式が白々しいものになるのでは意味がない。

私の勤め先は「忘れな草」というモーニングサービス専門の派遣会社だ。私がこの会社に就職してからもう二年が経とうとしている。

***

二年前、私はまだ十六才になったばかりの少年だった。ロンドンの下町をあてもなく歩いていて、商業地区が住宅地区に変わる境い目の地域に昼過ぎに通りかかった際、”Forget-Me-Not”(忘れな草)と書かれた色彩感の無い看板が目に入った。それが茎の先に青い小さな花の集合体を咲かせる植物の名前であり、その名前自体が花言葉であることを私は知っていた。

――忘れな草とは、いったい何屋さんなのだろう……。

玄関のドアの横の「社員募集中。年令・学歴不問」と書かれた貼り紙を見て私は立ち止まった。年令も学歴も不問の就職口、それは当時の私にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。

ドアを開けて中に入ると、そこは建物の清楚な外観とは不似合いな空間だった。縁なしのめがねをかけた顎髭ぼうぼうの五十代の男性が奥に座っていて、私を見るとデスクの前の椅子を指さして「どうぞ」といった。

「あのう、年令と学歴が不問の社員募集って本当ですか?」

「君の名前は?」

「ノア・エドワーズです。ノアと呼んでください」

「ノア、私は忘れな草の社長のレオ・ハリスだ。履歴書は持ってきたかね?」

「履歴書? あ、すみません。書き方が分からなくて……」

「まあいいだろう。じゃあ、住所、氏名、年令と略歴を話してくれ。それから家族関係についてもね」

私は何度かその種の質問を受けたことがあった。両親が居ないと言うと同情が得られることは分かっていたし、明確な住所を言えないと相手が「引く」ことも知っていた。でも、ハリス社長にじっと見られながら話していると、ウソを言ってはいけないという気持ちになり、ホームレス同然であることを含めありのままを包み隠さず話した。

「君がこれまで大変な人生を送ってきたことはよくわかった。君の小ぶりで青白い顔から判断すると、その気になれば涙を一粒や二粒流すのは造作なさそうだね」

「涙を流すってことですか? それ、仕事と関係あります?」

「君は『泣き女』という言葉を聞いたことがあるかい?」

「ああ、葬式で泣くフリをするジプシーの女の人のことですね」

「忘れな草は葬儀の参列者を派遣する会社だ。イギリス人らしい外観の若い白人の男女を派遣できるというのがセールスポイントだ。ちょうど君のような小柄で細身の憂い顔の少年を補充したいと思っていたところだった」

「十六才ですから少年と言うのもおこがましいですが……。でも、雇って頂けるんですか?」

「採用だ!」

「ヤッター!」

ハリス社長が「大変な人生」と評したのは的外れではなかった。貧しさという点においては誰にも負けない人生だった。子供の目から見て明らかにろくでなしの代表だと分かる父親と、アル中の母親の子供として生まれたのは不運としか言いようがない。親が定職についていたかどうかはよく分からないが、私はずっとお腹をすかせていたし、しょっちゅう電気が切られて真っ暗な夜を過ごした。

そんな親でも亡くすことがどんなに悲しいものか、十二才の時に二人そろって交通事故で逝ってしまうまでは思いもしなかった。それから私は親戚をたらい回しにされたが、厄介者扱いをされて家出を繰り返し、そのうちに誰も迎えに来なくなって、ホームレス同然の状況で中学を「一応」卒業した。気候が良い時には公園で寝たり、寒くなると駅のベンチで寝ることも多かった。

「但し、不潔な身なりでクサいにおいをバラまかれるのは困る。すぐ風呂に入って頭のてっぺんからつま先まで、石けんで三回以上洗いなさい。衣服は支給する」

事務所の奥にあるシャワールームに連れて行かれて、身体を洗うように言われた。一時間以上かけて何度もシャンプーをしたり、タオルに石けんをつけて身体中をゴシゴシ洗った。足の親指と人差し指の間をこすっても白いタオルが汚れなくなったのは、五回目に洗った時だった。

生まれて以来これほど清潔になったことはなかった。「石けんの臭いがする女の子」という表現を聞いたことがあったが、私もシャワールームを出た時には自分の身体から石けんのにおいがしていた。

「ハリス社長、シャワーが終わりました」
と大声で呼びかけると、社長が下着と糊のきいたカッターシャツとズボンを持って来てくれた。

「うわあ、真っ白でパリパリですね!」

僕は巨大なパンツに足を通し、指先よりも長いアンダーシャツを三回折りして着た。大きすぎるが、信じられないほど清潔で気持ちが良かった。カッターシャツはアンダーシャツより更に袖が長く、裾は膝まであった。

「大きすぎるな。というより、君が小さすぎると言うべきか……」

「あ、袖を折り返せば大丈夫ですから、お気になさらずに」

「気にするなと言われても、そんな恰好をしてうろうろされたら会社が評判を落とすんだよ。子供服はここには置いてないからなあ……。仕方ないからこれでも着るか」

社長が廊下の横の引き戸の中から取り出したのは女物の喪服が掛かったハンガーだった。

「じょ、じょ、冗談じゃない! 僕、絶対にイヤですから!」

「君ならヒゲも無いし、この喪服を着て帽子を深めにかぶれば、誰が見ても葬式帰りの女性に見えるよ」

「お断りします! 女装させられるぐらいならホームレスの方がマシです。僕の服を返してください」

「クサくて虫が棲みついていそうな服だったから火箸でゴミ袋に入れて外に出したよ。さっき収集車の音が聞こえたから、もう外にも無いはずだ」

「そんなのヒドすぎます! 僕、死んでもスカートははきませんからね!」

「困ったなあ、宿舎に行けば先月辞めたショーンの服があるんだが……」

「じゃあ宿舎まで、この服を貸してください。ズボンの裾を折り返してピンで留めたら何とかなると思いますから」

「いいだろう。服にはちゃんとアイロンをかけて返してくれよ」
私はほっと胸をなでおろした。

午後五時半に閉店するとハリス社長は僕を徒歩十五分ほどの距離にある赤煉瓦壁の四階建てのアパートに連れて行った。グラウンド・フロアの右奥の〇一七号室のドアを開けて、ハリス社長が「ハイジは居るか?」と叫んだ。

居間に面する左側のドアが開いて、栗色のロングヘアをパール付きのヘアゴムで束ねた二十代後半の大柄な女性が出てきた。

「ハイジ、この子が明日からうちで働くことになった。ベッドを割り振ってやってくれ」

「ええと、男の子、じゃないですよね?」
とハイジは僕を観察しながら聞いた。男物の服を着ている男子を見て何ということを言うのだろうと腹が立つと同時に恥ずかしくなって赤面した。

「いや、この子はノアという名前の男だ」

「デニスの部屋にベッドが空いてますからデニスと同室にさせますか? それともショーンの代わりに私の部屋に置いてもいいですけど」

「そうだな……悪いが君の部屋で面倒を見てくれないか?」

――まさか、男部屋が空いているのに女性と同室だなんて……。

「事務所でシャワーを浴びさせたが、着ていた服があまりにもクサかったから捨てさせて、私の喪服を着せて連れてきたんだ。ショーンの服は捨ててないよね?」

「置いてありますよ。この子ならちょうど合いそうですね」

「じゃあ、頼んだよ」
と言うとハリス社長はどこかに行ってしまった。

ハイジの後を追って部屋に入った。左右にクローゼットとベッドがあり、突き当たりの窓際にデスクが並んでいる。ドアの右手に洗面所への入り口らしいものがある。

「このジャージーに着替えなさい」
ハイジは引き出しからピンク色のジャージーの上下を出して僕に渡した。

「え、これ女物では……」

「子供用だから男も女もないわよ。ノアは何年生?」

「もう中学は卒業しましたよ。先月十六才になりました」

「へぇーっ! 小六ぐらいかと思ったわ。ショーンが小六だったから」

「ショーンって先月辞めた従業員のことだと思っていましたけど、子供だったんですか? ハイジさんの親類か何か?」

「ハリス社長の知り合いの夫婦が事故で亡くなって、その子供のショーンをしばらく預かってたのよ。お葬式の参列者として小五から中三ぐらいの少年が一人いると重宝するのよね。死んだお母さんの従姉妹夫婦がアメリカに住んでいることが分かって、ショーンは先月アメリカに引き取られて行ったわ。その夫婦は金持ちらしくて、ショーンは衣類を殆ど置いていったのよ」

小学生の時に両親を事故で亡くしたところまでは私と同じだが、私の親には金持ちの従姉妹の代わりに貧乏な兄弟と意地悪な奥さんがいるだけだった。同じ孤児でも大違いだ……。

「僕は小学生が着ていた服を着せられるんですか……。これでも大人の男なんですけど」

「自分に与えられた役を演じるのがプロのモーナーよ。小学生でも、中学生でも、高校生の役でも演じなきゃなきゃならない。場合によっては若い女性の役もね」

「女性の役はイヤです! ハリス社長にもはっきり言いましたけど、死んでも女装はお断りしますから」

「アハハハ。そんなにムキになられると、却ってやらせたくなるわ。ノアじゃなくてノラという名前でみんなに紹介しようかな。そのジャージーのズボンの代わりにスカートを出してあげるから待っていなさい、ノラちゃん」

僕は既に喪服のズボンを脱いで膝丈のカッターシャツ姿になっていたが、そのままこのアパートから逃げだそうかなと本気で思った。

「冗談よ、冗談。ショーンにも一度も女装はさせたことがないから安心しなさい。私が言いたかったのは、参列者としてどんな役でも演じられるように努力しろということ」

「分かりました。ああよかった……」

「でも、毎日私の言うことをちゃんと聞かないと、女役へのコンバートを社長に進言したくなるかも」
とハイジがにやっと笑って言った。

ジャージーに着替えるとグーッとお腹が鳴った。

「もうすぐ七時ね。食堂に行くわよ」

寝る場所が確保できていて、ご飯も食べられる。今日「忘れな草」の看板が目にとまらなければ今夜も公園で汚い毛布にくるまってひもじい思いをしていただろう。私は神様に感謝した。

食堂はキッチンの横の小さな部屋で、六人の若い男女がカウンターの前に列を作っていた。十七、八才と思われる女性が一人、二十代の女性が二人と、二十才から三十才ぐらいの男性が三人だった。

「みなさん、新メンバーのノアを紹介させて」

「ノア・エドワーズ、十六才です。よろしくお願いします」

「ショーンの代わりよ。私と同室」
と言って、ハイジは一人一人に紹介してくれた。

大きなスープ皿に入った料理をカウンターで受け取り、テーブルに持って行ってハイジの横に座った。

テーブルの真ん中にはパンが山積みになった大きなかごが置かれていた。それは私にとって夢のような光景だった。

「今日はボルドー風のシチューね。シチューと言うよりはスープに近いけど」

大きなジャガイモ、ニンジンとオニオン、それに豚肉の塊がたっぷりと入っている。ニンニクの匂いがして、私は唾をゴクンと飲み込んだ。ハイジが手を組んで祈る仕草をするのを真似してから、ハイジが料理を口にするのを待って豚肉を口に運んだ。

――なんておいしいんだ、ここはパラダイスだ! 教会の炊き出しで、こんな感じのスープは何度も食べたが、しょっぱくて肉はまばらだった。

「ここでは毎日こんなにおいしいご飯を食べさせてもらえるんですか?」
と聞くとハイジはにっこりと微笑んで「ノアって思ったより行儀がよくて素直でいい子ね」と言った。

対面には、私と年が近そうなキャサリンと、二十代半ばのシンクレアという憂い顔の美人が座っていたが、キャサリンが微笑みながら僕に話しかけた。

「ハイジさんがブロンドのショートヘアの女の子を連れてきたと思っていたのに、胸が無いからどっちだろうかと迷っていたのよ。小さいけど私と一才しか違わないのね」

「小さいって……僕は百六十二センチあるんですよ」

「イギリス人の女性の平均は百六十二だから平均並みね。私は百六十八よ。ハイジさんは百八十二」
キャサリンが私を大人の男性のカテゴリーに含めていないのは明らかだった。

「ここで私の身長を言う必要があるのかなあ?」
とハイジがキャサリンをにらみつけ、四人で笑った。

「キャサリンの弟みたいにしてお葬式に行けばいい感じになりそうね」

「ショーンが居なくなって困っていたから、ちょうどよかったわ」

「僕、頑張ります!」

女性はもう一人クリスティンというきれいな人がいたが、隣のテーブルで三人の男性と談笑していた。その四人は私には全く興味が無いようだったが、私が普段人気の多い場所で慣れっこになっていた敵意や蔑視というものは全く感じなかった。

食事が終わると各々が自分の食器をキッチンのシンクまで運んだ。キッチンには私の死んだ母より少し年上と思われる太った女性が立っていて、私の頭を撫でて「男の子だったのね」と言った。後でハイジから聞いたところによると、そのジョーゼフィンという女性と夫のデイヴィッドが、グラウンド・フロアの従業員寮のまかないと、このアパートの三階にあるハリス社長宅の雑務をしているとのことだった。

ハイジと一緒に部屋に戻った。私はベッドの縁に腰を掛け、ハイジは窓際のデスクの前に座ってお化粧を落とし始めた。

「私が先にシャワーを浴びるわね。ノアは私の後でシャワーを使ったら、髪の毛や汚れが残っていないように掃除するのよ。私は不潔なのが大嫌いだから」

「はい、分かりました」
と私は上司に対する口調で答えた。

ハイジは化粧落としを終えて立ち上がるとベッドの縁に腰掛けてセーターを脱ぎ、ブラウスのボタンを外し始めた。私の目の前、数十センチの距離で女性が服を脱ごうとしている。三年半前に母を失ってから私は女性の下着姿を見たことがなかったので慌てた。お辞儀するような姿勢で真下を向いて目を閉じた。

「いいわよ、気にしなくても。同じ部屋で暮らすんだから、お互いの裸を見ることに慣れないとやっていけないわ」

「でも、異性ですから……」

「バカねえ。私にとってノアは一回り年下の弟というか親子みたいなものよ。ノアに裸を見られても何とも思わないし、ノアのオチンチンを見ても襲おうと思ったりしないから心配しなくていいわよ。さあ、目を開けて前を見なさい」

目を上げるとハイジのおへそがすぐ前に会った。ハイジは全裸だった。

「私は暴力で無理やり言うことを聞かせるタイプの人間じゃないから安心して」
とハイジは穏やかな表情で私を見下ろして言うと、シャワールームへと歩いて行った。

中学二年の時に同級生からオナニーの仕方を教えられてから、自分は大人の男になったと自覚していた。まだ実際にセックスをしたことはないが、大人の男と大人の女が同じ部屋で服を脱いだらどうなるかは理解しているつもりだった。男が女にのしかかって事を成すというイメージが頭の中にあった。

ついさっきまで、見上げるほど大きくて強そうな女性を目の前にして、自分はいったいどのように振舞えば良いのか想像できずに戸惑っていた。ハイジに完全に子ども扱いされたお陰で、私はそんな気苦労から解放された気がした。

***

翌朝、朝食が終わると、私は白いカッターシャツと黒の上下に着替えた。ショーンはかなり体格のいい小学生だったことが判明した。ショーンが残して行った服の肩幅や首周りはちょうどよかったが、袖とズボンの裾は私には少し長めだった。

「まあ、このままでも着られないことは無いわね。今日はこのまま出かけるからズボンの裾を汚さないように注意して歩きなさい。裾を二センチ上げるよう、後でジョーゼフィンに頼んであげる」

ハイジは膝をかがめて私の前に立ち、黒のネクタイを結んでくれた。ネクタイをするのは生まれて初めてだった。

タイトなツーピーススーツを着てヴェールの付いた小さな帽子を頭に乗せたハイジはとても気品があった。私はこんな美しい女性と同じ部屋で生活しているのだと思うと鼓動が高まった。

「さあ、食堂でブリーフィングが始まるわよ」

「ブリーフィング?」

「ハリス社長から今日の仕事について説明と指示を受けるためのミーティングよ。棺桶の中に眠っているのがどんな人かを分かっていないと、お葬式でどう振舞うべきなのかが分からないし、もし他の参列者から話しかけられた時に自然な受け答えができないでしょう? そのための準備会議なのよ」

「へぇーっ、そこまでやるんですね」
私は感心しながらハイジと一緒に食堂に行った。

既に食堂には十人以上が集まっており、昨夜の夕食の時は見かけなかった人も何人かいた。黒いレースのドレスを着た小学校高学年から中学生と思われる美しい少女が母親と並んで立っていた。

「自宅から通っている社員もいるんですか?」
と聞くとハイジは頷いた。

間もなくハリス社長が入ってきて、A4の印刷物を全員に配った。

「皆さん、おはよう。今日のブリーフィングを始める前に忘れな草の新しいメンバーを紹介しておく。ノア・エドワーズ君だ。ショーンの後任として、小学校高学年から中学生の少年の役回りを中心にやってもらうことになる」

「あのう、僕の年令は……」
私が義務教育を終えた十六才であることは、昨夜の夕食に来ていなかった人に伝えておかないと子供扱いされる恐れがあると思い、手を挙げて発言しようとした。

「ノア、与えられた役割をプロの役者として演じるのが君の仕事だ。十三才の少年の役を与えられたら、例え君が十八才の女性だとしてもそんなことは関係ない。私が指示した通りに演じてもらう」

叱責口調で言われて「はい、すみませんでした」と謝った。黒のレースのドレスの少女が目を丸くして私を見つめているのに気づいた。社長が変な言い方をしたから、あの少女は私が十八才の女性だと勘違いしたのかもしれないと思い、恥ずかしさがこみ上げてきた。

ハイジが笑いを押し殺した表情で私を見下ろしながら、そっと肩を叩いて慰めてくれた。

「今日の仕事は二件だ。一件目は先週土曜日に亡くなった六十七才のオースティン・ベネットだ。略歴は配布したメモの通りだが、ミスター・ベネットはロンドンに引っ越す前の十数年間レディングの中学校で校長をしていたことになっている。君たちは尊敬する恩師の訃報を聞いてレディングからバスを仕立ててやってきた元生徒たちという想定だ。各自の卒業年次と役割はそこに書いた通りだ。このメモは一昨日作成したからノアの名前は書いてないが、ノアはソフィアの同級生の男子中学生の役割を演じてくれ」

ソフィアとはあの少女のことに違いない。中学生の役とはいえ、きれいな少女の同級生を演じられるというのは朗報だ。もし彼女が私について誤解しているとすれば早くその誤解を解かねば……。

「二件目の仕事は八十八才のシャーロット・サマーズの墓地での埋葬に立ち会うだけだ。シャーロットは七年前に娘夫婦がスコットランドに引っ越して以来、老人ホームに住んでいた。今日確実に埋葬に来るのは老人ホームのスタッフ二名とその娘さんだけだ。そのメモの通り参列するだけの仕事だが、心を込めてシャーロットを見送って欲しい・ブリーフィングは以上だ。マイクロバスは十分後に発車する」
と言ってハリス社長は出て行った。

「ハイジさん、質問していいですか?」

「その通りよ、ソフィアというのはあのかわいい子のことよ」
とハイジは勝手に僕の質問を想像して答えた。

「ブブーッ、ハズレです。質問はレディングのことです。レディングで最近まで十何年も住んでいたのなら、レディングからお葬式に来る人も居るはずです。ここに書いてある中学を出た人も居るかもしれませんし、レディングのどの通りに住んでいるのかとか聞かれたら、僕たちがホンモノじゃないことはすぐにバレると思うんですけど……」

「これは私の推測だけど、レディングで校長をしていたという経歴がフェイクなんだと思うわ。ハリス社長の言い回しから察すると、人に言えない場所で十数年過ごした可能性が高い」

「人に言えない場所って、もしかして刑務所とか……」

「それは私たちが詮索すべきことじゃないわ。ハリス社長が賢明かつ安全と考えて書いた脚本に従って、私たちは与えられた役を演じる。それ以外は忘れるのよ。ノアはソフィアにくっついて真似をしていれば大丈夫。もし何か困ったことが起きたら私に相談に来なさい。さあ、部屋に帰ってオシッコをしてからマイクロバスに乗るのよ」

ハイジと一緒に一旦部屋に戻ってからアパートの玄関前に停まっているマイクロバスに乗りに行った。ソフィアのお母さんと思われる女性から手招きされて、ソフィアの横の席に座った。ソフィアは私の胸に目を遣りながら聞いた。

「ノアの本名は何?」

「本名? ノアだけど」

「やっぱり、十八才の女性じゃないわよね。胸が無さすぎるもの……」

「ははぁ、社長があんな言い方をしたから誤解したんだね。僕は十六才の男だ。もう中学は卒業したから、ソフィアよりお兄さんだよ」

「ウフフフ。私は三月に高校を卒業したのよ。服装とメイクで十二才から二十二、三才まではこなせるの。ハリス社長は平日の朝の仕事に十六才未満の子供を雇ったりしないわよ。ショーンがいなくなってからは子供の役をさせられることが多かったけど、ノアが入ったお陰で子役から解放されそうだわ」

「なんだ、年上だったのか……」

「ハリス社長の話からすると、今度中学生の女の子が必要になったらノアに任せられそうだし」

「それは無いよ。昨日の面接の時に、僕は絶対に女装はしませんと宣言してあるから」

「性別とは関係なく与えられた役を演じろと社長に言われて『はい、すみません』と謝っていたくせに」

「それはあの時の雰囲気で……」

「それに、中学生の女の子が必要な仕事の依頼が来た時に、私がどうしても都合がつかないと断ったら、ノアにお鉢が回るわよ、ウフフ」

「頼むから断ったりしないで、お願いだから……」

「私が断らなくても、もし中学女子が二名必要な仕事だったらどうなるかなぁ? まあ仲良くやろうね」

マイクロバスは一時間かけてカンタベリーの教会に到着した。

レディングから恩師をしのんでやってきた十二名の教え子たちは、ハイジに率いられて教会の中に入り、後方の空席の一角に席を取った。最前列に座っている黒のチュールのベールで顔を覆った黒のロングドレスの女性が故人の妻で五十二才のはずだ。その横に座っている二十五才と二十七才の女性が独身の娘たちだろう。確かに見栄っ張りな感じがする。ハリス社長からもらったメモを見れば大体の想像がつく。

「ノア、現場でメモを取り出すのは禁止よ」
ソフィアの母親に耳元で言われたので、私はメモをポケットにしまった。

葬儀の間、私は出来る限り悲しそうな顔をして大人しく座っていたが、ミサが始まると周囲からすすり泣きの声が聞えた。それはすぐ近くから聞こえていた。隣に座っているソフィアを見ると、目から涙があふれていた。

――ウソだろう……。ソフィアは本気で泣いているみたいだ。

チラリと振り返って後ろの列に座っている忘れな草の人たちを見ると、女性は例外なく目に涙をたたえてすすり泣いていた。男性も殆どの人の目が濡れていて、一人はむせび泣いていた。悲しい顔を「繕っている」のは私一人だった。

目薬を手に持っている人は一人もおらず、涙は実際に目から出て来たもののようだった。

社長やハイジがプロのモーナーとか、役者とか言っていたのは、こういうことだったのかと感心した。

ミサが終わり、聖歌を歌いながら自分は中学生で、故ベネット氏は大好きな校長先生なのだと自分に言い聞かせ、ある程度その気持ちになったが、涙を出すことには成功しなかった。

葬儀が終わりに近づき、献花が始まった。私たちレディングからの一行は一般会葬者の大半が献花を終えてから立ち上がった。他の参列者との会話を避けることがボロを出さないためには大事だからだ。献花をしてから故人の奥様にお悔やみを言って退出するのだが、先頭のハイジの演技には度肝を抜かれた。

「私が非行に走らずに中学を卒業できたのはベネット先生のお陰なんです」
百八十二センチのハイジは目を泣きはらして少女のように震える手で奥さんの手を握って告白した。もう周囲には故人の家族しかいなかった。忘れな草にモーニングサービスを申し込んだのは奥さん本人のはずなのに、ハイジはそんなことには構わず教え子として心情を吐露した。ハイジの後に続いた献花者も、どう見てもベネット校長の教え子にしか見えなかった。ソフィアの番になり、すすり泣きながらソフィアが奥さんに行った。

「私たち二人とも校長先生が大好きだったんです」

私はその時、自分はレディングの中学生なのだと本気で感じた。涙が溢れ出て、奥さんに何か気の利いたお悔やみを言おうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。

「ありがとう、あなたたち」
奥さんはソフィアと私の手を改めて強く握って礼を言った。

ソフィアと二人ですすり泣きながら教会の外に出てマイクロバスに乗り込んだ。

マイクロバスがカンタベリーの町から出たころには悲しい気持ちがウソのように消えていた。

「初めてにしては、なかなかやるじゃない」
とソフィアが私の肩を指ではじいた。


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新作「聖地巡礼」を出版しました


性転のへきれきTS文庫の新作「聖地巡礼」を出版しました。

志望の大学に合格してほっとしていた花坂歩夢は、高校の帰りに菊川祐奈に誘われて「君の名は」のBlue Ray Diskを祐奈のアパートに見に行きます。祐奈とは三年間同じクラスでしたが殆ど会話したことが無く異性として意識したことはありませんでした。「君の名は」を一緒に見たことで二人の間に予期せぬ感情が芽生え、歩夢と祐奈は飛騨古川への聖地巡礼に出かけます。三月十八日、高速バスを利用した2泊3日の短い旅行が二人の人生に衝撃的な変化をもたらすことになるとは知らずに、歩夢はバスタ新宿で祐奈と落ち合うのでした。



聖地巡礼

第一章 出会い

第一志望のL大学から合格通知が届いた。まだクラスの半分は国立大学の入試に向けて必死の形相で頑張っているが、僕の受験戦争は終結し、久々に取り戻した緊張感のない日常の中で静かに手足を伸ばしていた。そんな二月中旬のある日のことだった。

その日は短縮授業で二時半ごろ学校を出た。校門を出たところで菊川祐奈から声をかけられた。

「花坂君、『君の名は』を一緒に見ない?」

祐奈とは三年間同じクラスだったが殆ど言葉を交わしたことがなく異性として意識したこともなかった。そんな女子から突然誘いの言葉をかけられて戸惑った。

「え? まだ『君の名は』を上映している映画館があるの?」

「映画館じゃなくて、私の家で上映するのよ」

――これ、ナンパされてるんだろうか?

ほとんど話したことのない女子の家に行っていきなり二人でDVDを見るというシチュエーションには抵抗があった。

「『君の名は』は去年映画館に行って見たんだけどなあ……」
取りあえず口に出しつつ、僕は頭の中で断りの口上を探していた。

「やっぱり、私みたいなブスとは付き合いたくないわよね」

「と、とんでもない! 菊川さんは男子の間では人気があるんだよ」

それは完全な出まかせだった。祐奈は決してブスではないが、女子の人気ランキングの上位に入っているわけではない。特に可愛くも美人でもないが、女子としては平均より背が高い方だし、どちらかと言うと整った顔つきだ。

「合格祝いに『君の名は』のブルーレイディスクをもらったのよ。六十五インチのテレビの前に座ってブルーレイの画像を見ると迫力があるのよ」

「六十五インチにブルーレイか! それは確かに豪華だね」

「ピザも用意してるわよ。花坂君は国立大学は受験しないんでしょう? もう受験は終わったんだからいいじゃないの。それとも、何か他に私と付き合えない理由でもあるの?」

「無いよ、そんなの」

祐奈の巧妙で強引な誘導によって、断れない状況に追い込まれた。

「じゃあ決まりね。私の家はあっちの方向よ」

お腹も空いていたし、ピザを食べさせてくれると聞いて「ま、いいか」と観念した。一度だけ女子の家に行って映画を見ても僕が祐奈の彼氏になったということにはならない。もし友達に知られたら、六十五インチとブルーレイに魅かれて見に行ったと言えば分かってもらえるだろう。

それより、気がかりなのは祐奈の家で親に会うことだ。地味な祐奈のことだから、男子を家に連れて帰ったことは殆ど無いのではないだろうか? 祐奈の親に「彼氏」と認識されたら、後々面倒だなと心配だった。

「ここよ」

五分ほどで到着したのは五階建ての集合住宅だった。六十五インチのテレビがある家と聞いて、もっと大きな家を想像していたので意外な気がした。

祐奈は階段を三階まで上がって、左奥のつきあたりの部屋の鍵を開けた。

「さあ、入って」

そこはワンルームのアパートだった。

女子のアパートの部屋に入るのは生まれて初めてだった。カーテンや寝具の色は暖色系で統一されていて、部屋の中はきちんと整頓されていた。白のハンガーラックに色とりどりのスカートやワンピースがかかっているのを見て「今まさに僕は女子のアパートにいるのだ」と緊張した。

「菊川さんが一人でアパート暮らしをしているとは知らなかったよ」

「去年の春までは家族と一緒だったんだけどパパが福岡に転勤になったの。私は東京の大学に行くつもりだったからアパートを借りて一人で住むことになったのよ」

「食事とか、色々大変だね」

「慣れればどうってことないわ。親に干渉されずに好きなことができるから快適よ」

「僕も念願がかなって四月から親元を離れて生活することになったんだ」

「L大学なら一時間で通えるのに、よくお父さんやお母さんが許してくれたわね」

「僕がL大学に行くということをどうして知っているの?」

「花坂君のことなら大抵のことは知ってるわよ」

――やっぱり、僕はナンパされたんだ……。

祐奈が「好きだから」と言い添えるのではないかと身構えた。

「アパートを借りることは却下されたけど、寮に住むということで許してくれたんだ。L大学の寮は半分が外国人だから、寮に住めば英語が上達すると言ったら許してくれた」

「国際寮に入れるの? すごい! 私が行くV大学にも国際寮があるけど、料金表を見たら自分でアパートを借りて住むよりも高そうだったわ。花坂君の家ってお金持ちなのね」

「全然。父は普通のサラリーマンだけど、僕の進学費用は計算に入れてくれていたみたい。ひとつ下の妹が優秀で家から通える国立大学の医学部に確実に入れそうだと分かってから、僕に対して甘くなったんだよ。えへへ」

「妹さんが優秀でよかったわね」

「まあ、よくないことの方が多かった気がするけど、今回は助かった」

「花坂君が入るのは男子寮なの?」

「その寮は男女共用だよ」

「じゃあ、私も遊びに行けるわね」
祐奈が面倒なことを言い出したのでドギマギした。

「いや、外部の人は入れない規則なんだ。受付をすればラウンジに入ることはできるけど、居住棟には入寮者しか入れない。『異性は家族でも理由の如何を問わず入室を禁じる』と書いてあった」

僕は寮が厳しい規則を定めてくれたことを感謝した。

祐奈は冷蔵庫からピザの入った紙箱を取り出し、ナイフで八枚のスライスに切り分けてそのうちの四枚をオーブントースターに入れた。ポットでお湯を沸してミルクティーを用意した。手際がいいので、さすが一人暮らしをしているだけのことはあるなと思った。祐奈は小さなテーブルにピザ用の皿とミルクティーを並べた。

「先に食べようね。その椅子に座って」

祐奈は一つしかない椅子に僕を座らせ、自分は部屋の隅から丸椅子を持って来て座った。二人でピザを食べ始めた。

「食卓に椅子が一つしかないのを見て、私に友達がいないってことが分かったでしょう」

「時々お母さんが様子を見に来たりはしないの?」

「母は自分のことで忙しいし、父は私が好きじゃないから東京に出張しても私に会いに来ることはないわ」

「世の中のお父さんは誰でも娘のことが大好きだと聞いていたけど」

「そうとは限らないわ。私は父が嫌いだから、その気持ちが伝わって父も私とは会いたくないのよ」

「そうかなあ……。まあ、人それぞれ事情はあるかもしれないけど」

「花坂君は家族にいっぱい愛されて育ったタイプだものね。だから私は花坂君が好きなんだ」

ついに言われてしまった。「好きだ」という言葉を。自分の顔が火照って赤くなってきたのが分かった。僕の様子を見て祐奈も意識し始めたのか、ピザを食べ終えるまで会話が途絶えた。

「そろそろ上映開始よ」

六十五インチのテレビはベッドと反対側の壁ぎわにあるローボードの上に置かれていた。ベッドとテレビとの間は一メートル余りしか離れていない。ベッドの縁に腰かけて見るのだろうか……。

「ベッドに座って、壁にもたれて見るのよ。制服がシワになるから着替えるわね。花坂君、あっちを向いていて」

僕はベッドと反対の方向に椅子を向けて祐奈が着替えるのを待った。衣擦れの音が壁に反射して僕の耳たぶを撫で、祐奈が異性であることを思い知らされた。

「いいわよ」

祐奈の方に向いて座り直した。祐奈は足首まであるキルトのスカートにはき替えていて、制服をハンガーに吊るしているところだった。

「暖かそうだね」

「冬場の必需品。毎日家に帰ったら制服のスカートをハンガーに掛けて、このキルトのスカートに着替えるのよ」

「へえ、そうなんだ」

「花坂君もこれにはき替えて。色違いだけど同じスカートよ」
祐奈がはいているスカートを少し赤っぽくしたキルトのスカートを手渡された。

「冗談だろう?」

「出歩いていたズボンのままで私のベッドに座られるのはイヤだもの。さあ、早く」

「男がスカートをはくなんて……」

「これはスカートというよりは下半身用の防寒具なの。私があっち向いてる間に着替えて!」

祐奈は僕をベッドの方へと押しやってから、玄関のドアのところに行って僕に背を向けた。着替えないと許してもらえそうになかったので、僕は仕方なくズボンを脱いで、キルトのスカートの中に足を突っ込んだ。ウェストにはゴムが通っていて、おへそより少し上まで引き上げるとスカートの裾が足首の辺りになった。

「ズボンと上着をこのハンガーにかけなさい」
と言われて、その通りにした。

祐奈はタンスから白地にパステルカラーのボーダー柄の毛糸のセーターを二着取り出し、ブルー系の方のセーターを差し出した。

「このセーターを着て」

渋々、そのゆったりとしたセーターをカッターシャツの上に着た。

「やっぱり、丁度いい大きさね。花坂君は背の高さが私と同じだし身体つきも似ているから。この間、体育の時間に茜ちゃんから『花坂君の後姿を見て祐奈が男子の体操服を着ているのかと思った』と言われたのよ」

「冗談で言ったんだろう? 菊川さんと僕は髪の長さが全然違うから、後姿を見て間違えるはずがないよ」

「広瀬すずがテレビドラマのために髪をバッサリと切ったのを知ってるでしょう? 丁度その後だったから、茜ちゃんは花坂君の後姿を見て私が髪を切ったと思ったんだって。ほら、鏡の中を見て。私たち双子の姉妹みたいじゃない?」

並んで姿見に映った祐奈と僕は全く似ていないこともなかったが、双子というのは明らかに言い過ぎだった。同じような体格の二人が同じデザインで色違いの服を着ているから、似ているように見えるだけだ。

「全く似ていないことはないと思うけど……」

祐奈の質問をやんわりと否定しながら、促されるままにベッドの奥の壁に背をもたれてベッドの上に足を延ばした。祐奈は天井の蛍光灯のスイッチを切ってから僕の右側に座り、二人の首の高さまで掛布団を被った。

祐奈がリモコンを操作すると六十五インチ画面がパッと明るくなって、他の映画の予告編が流れ始めた。身体を少し動かすと肩が触れ合う微妙な距離だった。祐奈の横顔にチラリと目を遣った時に丁度祐奈も僕の方に視線を向けて微笑んだ。僕は急に恥ずかしさがこみ上げてきて視線をテレビの方へと戻した。

今日学校を出るまではほとんど話したこともなかった女子のアパートで二人きりになって、暗い部屋のベッドにお揃いの女子の服を着て並んで座っている……。今すぐ逃げ出したいのに金縛りに会ったように身体が動かず、顔が火照って心臓が音を立てている。

映画が始まると、少しほっとした気持ちになって映画の中の世界に没入した。

昨年の夏休みの終わりごろに映画館で『君の名は』を見た。男子高校生の立花瀧が目が覚めると宮水三葉(みつは)の身体になっていて、胸を揉むのを見て、他の観客と一緒にクスクスと笑った。今日は周囲から笑い声は聞こえない。可笑しいという気持ちが湧くどころか、思わず自分の胸を手で触ってセーターの下に膨らみが無いことを確かめてしまった。

筋は分かっていても一つ一つのエピソードが一昨年よりも鮮烈だった。前回見た時、僕は立花瀧に感情転移して、三葉の身体に乗り移った自分を体験した。今日は瀧に乗り移っていない状態の三葉自身にも同じように感情転移できた。特に妹の四葉と一緒に巫女を務めている時の三葉は自分自身のような気がした。

隕石が落ちる日の黄昏時に二人がお互いの手に名前を書こうとした時、祐奈が左手を僕の右の掌に重ねてきた。指を交互に絡ませられて、僕はしっかりと握り返した。

最後のシーンが終わった時、僕の目から熱い涙があふれていた。気がつくと祐奈の顔が目の前にあった。祐奈の唇が僕の唇に重ねられ、僕は目を閉じてキスを受け入れた。ベッドに座って半身でお互いを抱き寄せ合ったまま、長い時間が過ぎた。

祐奈が唇を離し、僕の目を見つめて聞いた。

「君の名は?」

僕は茶目っ気を出して「私は三葉」と答え、祐奈に「君の名は?」と聞いた。

「僕の名は花坂歩夢」
と祐奈が僕の名前を名乗ったので僕は微笑んだ。

「そして、君の名は菊川祐奈。僕たちは入れ替わったんだ」
と祐奈が暖かくて深い声で言って僕を強く抱きしめた。

その瞬間、僕は祐奈と恋に陥った。

***

僕たちはベッドの上で服を着たまま胸を合わせてお互いの身体の感触を確かめ合った。

しばらくすると祐奈が「あ、もうこんな時間だ」と言って体を起こし、セーターを脱いでベッドから降りた。

祐奈がベッドの横に立ってスカートを脱ぎ始めたので僕は焦った。初デートで初エッチとは……。

驚いたことに祐奈はハンガーにかかっていた僕のズボンをはいて、僕の制服の上着に袖を通した。

「遅くなると親が心配するから、今日はもう帰るよ」

それは僕自身が考え始めていたことだった。母に連絡せずに夕ご飯に遅れるのはまずい。もうそんなに長くは祐奈との入れ替わりごっこに付き合えない。

祐奈が僕のカバンを持って玄関に行ったので、僕は慌ててベッドを下りて祐奈を追った。祐奈は僕の靴を履いてドアノブに手を掛けた。

「じゃあ明日学校で会おうね、祐奈」
と祐奈は僕に成りきったまま部屋から出て行ってしまった。

ドアがカチャリと閉って、僕は思わずため息をついた。肩まである長い髪で男子の制服を着て出歩いたら、不審な目で見られる。僕に迷惑が及ぶわけではないが、この近所には祐奈の顔を知っている人もいることだろう。女子高生が、変人と思われるリスクを冒してまで入れ替わりごっこをするなんて信じられない。

すぐに帰って来るだろうと待っていたが、五分、十分と過ぎても戻る気配がないので心配になってきた。探しに行こうかと思ったが、この恰好で外に出て、もし知っている人に会ったら、それこそ大変だ。

――どうしよう……。三十分経っても祐奈は戻ってこなかった。そうだ! 体操服があるはずだ。女子の体操服はえんじ色だが、男子が着ても不自然ではない。走って帰ればいいんだ。いや、僕の家ではもうすぐ夕飯が始まる時間だ。母に連絡を入れておかないと面倒な質問を浴びせられるかもしれない。でも、スマホはカバンの中で、祐奈が持って行ってしまった。僕は祐奈のカバンを開けてスマホを取り出した。家の電話番号をダイヤルすると母が出てきた。

「あ、母さん。今、菊川君の家に来ていて、少し遅くなるけど心配しないで」
と早口で言って、母の質問が聞こえないふりをして電話を切った。祐奈のことを菊川さんと言わずに菊川君と言っただけであり、基本的にひと言もウソは言っていない。

タンスを開けて祐奈の体操服を探した。一段目と二段目の引き出しには下着が詰まっていた。さっき胸を寄せて抱いた時に思ったが、祐奈は貧乳の部類だ。引き出しにはかなり大きそうなカップのブラジャーも入っていて、丸いパッドが幾つか重ねて置かれていたので思わずニヤリとしてしまった。

タンスとハンガーラックをくまなく探したが体操服は見つからなかった。一見スカートのような赤い短パンとか、ロングドレスのようなズボンはあったが、男子がはいても女装とは思われないズボンはひつともなかった。

――困った……。僕は絶望のため息をついた。

その時、玄関のドアが開いて祐奈が帰って来た。

「お邪魔します」
と言って祐奈は靴を脱いだ。

「ひどいよ、菊川さん!」

「違うだろう。僕は花坂歩夢。君が菊川さんだ」

「もう入れ替わりごっこはやめようよ。早く帰らないと親に怪しまれるから、制服を返して」

「『入れ替わりごっこ』じゃなくて、僕たちはもう入れ替わったんだ。制服は返すんじゃなくて、貸してあげてもいいけど」

「分かったよ。じゃあ、花坂君が着ている制服を私に貸して」
僕は祐奈を平気で花坂君と呼ぶ自分の神経に呆れた。しかし、今は服を取り返すことが何よりも大事だった。

「うーん。条件がある。まず、菊川さんも自分の制服を着て、僕たちが入れ替わったということをお互いにちゃんと確認したい。そうしたら僕の服を貸してやろう」

「分かった」

メチャクチャな要求だったが応じることにした。僕はもうスカートをはいてしまっているのだから、制服のスカートにはき替えたところで罪が重くなるということはないだろう。

僕は祐奈の制服のスカートをハンガーから外して足を突っ込んだ。左のホックを留めて、上着に袖を通した。

「ほら、リボンタイも着けろよ。ブラウスじゃなくて男物のカッターシャツを着ているけど、まあ許してやるよ」

女子の制服を着て男子の制服姿の祐奈と向き合うのはとても妙な気持ちだった。祐奈は僕の肩に腕を回して姿見の前に立ち、僕のスマホで姿見の中の二人を撮った。続いて何枚もツーショットの自撮りをした。祐奈はしばらくスマホを操作してから僕のカバンの中にスマホを戻した。

「祐奈は僕が花坂歩夢で自分が菊川祐奈だということを認めるんだな?」
と真面目な顔をして祐奈から聞かれた。

「うん、認めたわよ、花坂君」
とウィンクしながら女言葉で答えた。

「約束通り僕の制服を貸してあげよう」
と言って服を脱ぎ始めた。

僕は特に視線も逸らさずにリボンタイを外して上着とスカートを脱ぎ、祐奈の気が変わらないうちに祐奈が脱いだ僕の制服を着てカバンを引っつかんだ。

「じゃあ帰るね。今日は楽しかった」
玄関で靴を履きながら言うと祐奈に間違いを正された。

「『帰るね』じゃなくて『行ってくるね』だろう? まあ、いいけど。とにかく忘れないでくれ。もう僕たちは入れ替わったんだ。当分の間、君は花坂歩夢のフリをして、僕は菊川祐奈のフリをして暮らすということだ」

「当分の間って、いつまで?」

「祐奈が僕のフリをするのが面倒なら今すぐストップしてもいいけど」

「面倒じゃないから、当分続けようね。じゃあ明日学校で!」
と言って逃げるようにドアを閉め、祐奈のアパートを出て家まで走って帰った。

***

父の帰宅が普段より遅かったお陰で僕は夕飯に間に合い、母から色々詮索されることも無かった。夕食の時に妹の啓子が僕の顔をジロジロ見ながら聞いた。

「お兄ちゃん、今日何かあったの?」

「な、なにも無いけど……。どうして?」

「いや、何かちょっと雰囲気が違う気がしたのよね」

僕は啓子の指摘にドキリとした。一才年下の妹は勉強が出来るだけでなく、頭がよくて勘も鋭い。「お兄ちゃん」と呼んではくれるが、中学一年の春に僕の身長を追い越してからは、頭が上がらなかった。

祐奈と初めて「デート」して、女子の恰好でベッドに座って、キスして、入れ替わって……。幾つもの初体験があったのだから僕の雰囲気が変わらないはずがない。もしかしたらスカートをはいたことが啓子に見透かされたのではないかと不安を覚えた。

「受験が終わって気持ちに余裕が出たからそう見えるんじゃないかな」
と言ってごまかした。

「ふうん、そうかなあ」
啓子は薄ら笑いを浮かべて僕の目をのぞきこんだ。

逃げるように自分の部屋に行ってドアを閉めた。

恋とは不思議なものだ。僕は祐奈のアパートに行くまで、全く祐奈を好きだとは思っていなかった。それなのに、祐奈に「僕たちは入れ替わった」と宣言されて抱きしめられた時、祐奈が世界で一人の恋人だという錯覚に陥った。祐奈の服を着て一緒に映画を見たり、隕石が落ちる日の黄昏時のシーンで手を絡ませ合ったり、最後のシーンの後で泣いて抱き合ったり、色んな伏線が重なった結果、あんな気持ちになったのだ。

祐奈の顔を頭に浮かべると胸が熱くなった。

それにしても「入れ替わりごっこ」についての祐奈の真剣モードは度が過ぎていた。僕の制服でアパートから出て行って半時間も外を歩き回るなんて、勇気があるというか、女子の冗談としては行きすぎだ。

それに、もう少しで祐奈に弱みを握られるところだった。二人がお互いの制服を着た姿を写真に撮られたからだ。あの写真を人に見せると言って脅されたら一大事だ。ところが祐奈は僕のスマホで写真を撮って、そのまま僕のカバンにスマホを突っ込んだ。もし祐奈のスマホで写真を撮られていたら、と思うとぞっとする。

――何かの間違いで人に見られないうちにスマホから写真を削除しておこう。

そう思ってスマホを開いたら、祐奈からメールが入っていた。

「祐奈、
写真を送ってくれてありがとう。
今日は楽しかったよ。
歩夢」

――まさか!

メールの送信履歴をチェックしたところ、祐奈が撮影したツーショットの写真を全部その場で祐奈あてに送ったことが分かった。もし祐奈が僕の女子高生姿の写真を誰かに見せたら、と思うと冷汗が出た。

このことだけは祐奈に念を押さなければ。僕は深呼吸してから返信を書いた。
「菊川祐奈様
今日はピザをご馳走になったり、大画面で映画を見せてもらったり、本当にありがとう。今日の僕の写真は他の人に見られないようにくれぐれもよろしくお願いします。
花坂歩夢」

数分後に祐奈から返信があった。

「祐奈、
そんな心配はせずに僕を信じてついてきてくれ。僕が自分の彼女を困らせることをするはずがない。
それから、君と僕の間では、お互いを本当の名前で呼ぶようにしてほしい。今後はメールを書く時も含めて、僕の事は花坂君または歩夢さんと呼んでくれ。
歩夢」

裏を返すと、もし逆らえば僕を困らせることをするかもしれないという脅しのように読み取れた。祐奈が写真を持っている限り、僕は言われた通りにするしかない。

そのメールのすぐ後で祐奈が僕を友達に追加したというLINEのメッセージが入り、僕も仕方なく祐奈を友達に加えた。

「分かりました。歩夢さんを信じてついていきますのでよろしくお願いします。おやすみなさい。祐奈」

祐奈を歩夢さんと呼び、自分が祐奈としてLINEのトークを書き、エンター・キーをクリックすると、悪いことをしているような気持になった。

明日学校で祐奈と会ったら、どんな顔で接したらいいのだろう? もし祐奈から、他の友達がいる場所で「祐奈」と呼ばれて、僕がシカトしたら仕返しに写真をバラまかれるのではないだろうか? 僕は祐奈を「花坂君」と呼ばなければならないのだろうか? 祐奈は入れ替わりごっこをいつまで続けるつもりなのだろう……。そんな不安が繰り返し僕の心に押し寄せた。


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2018 原作開発プロジェクト 応募作品「未来が見える少女」

新作「未来が見える少女」が出版されました。前作の「エキストラ」に続き 2018 原作開発プロジェクトに応募するため「五万文字、テーマは映画」という制約の中で書いた小説です。

主人公の深沢芽依は女子高生です。私が書いた小説で主人公が女性なのは「危険な誘惑」だけでした。「危険な誘惑」も主人公を男性にしたMTF版を後で出版したという経緯があります。

「未来が見える少女」にはMTF版はありません。TSは主人公ではなく、別の登場人物に起きますが、第三章に起きるので、読んでのお楽しみということでお願いします。

未来予知能力を身につけた女子高生はひょんなことから国際情勢に翻弄されることになるのですが、一応SF小説とも言えるし、リアル系TS小説でもあり、どのカテゴリーに入れるべきかは読者の方がご判断ください。



未来が見える少女

第一章 落ちるドングリ

部活が終わっての帰り道、公園の遊歩道を歩いていたら何かが頭に落ちて来た。

痛くは無かった。

コツン、ではなく、ポトンという感じで頭に当たった。

何だったのだろう?

その時、風が吹いて何かがパラパラと落ちて来た。ひとつではなく、二つ、三つ。

足元に転がったのはドングリだった。

二、三日前から急に冷え込んだからだろうか、風が吹いて熟したドングリが木から落ちて来たのだ。

足元を注意してみると沢山のドングリが散らばっている。遊歩道の舗装された部分には少なくて道路の端っこの、土との境の部分に沢山のドングリが転がっていた。雨水が道路わきへと流れるように、ドングリも高い所から低い所に転がったのだろう。

よく見ると、木製の高級家具のような光沢のあるドングリは少数派で、土ほこりで汚れたり、割れ目が入って腐りかけのドングリが多い。

「ドングリって美味しいのよ」
田舎の叔母が言っていたのを思い出した。

「シイの実ならそのまま食べられるし、それ以外のドングリはアクを抜いて食べるの」
そう思って見回すと美味しそうなドングリが沢山あった。

でも、きたない!

例え何回も洗ったとしても、犬がオシッコをする道端に落ちているものを食べることは私にはできない。

そうだ! ドングリが地面に落ちる前に手で受け止めればいいんだ!
それは突拍子もない発想かもしれない。ポケットを落ちて来るドングリで一杯にするには何時間もかかるのではないだろうか?

いや、そんな後ろ向きな姿勢からは何も生まれない。とにかくやってみよう。

さっき風が吹いた時にパラパラと落ちる音がした辺りに行って歩行者の通行の邪魔にならない場所に立った。木の枝を見上げて、落ちてきたら受け止めようと精神集中した。

一、二、三、四、五、六……

十一まで数えた時に小さな黒いものがスーッと落ちて来てポトリと地面に落ちた。

速い! 思ったよりはるかに速いスピードで落下した。

イチローのような動体視力があればドングリが止まって見えるかもしれないし、サッと手を動かしてつかみ取るのも不可能ではないだろうが、私には無理かもしれない……。

数秒後にもう一つ、更に十数秒後にまとめて数個落ちて来た。

さすがに速いが、だんだん「球筋」が見えるようになってきた。

数分間見ていると、一瞬だが目の数十センチ前にドングリが止まって見えた。よし、これなら捕れるかもしれない。私の動体視力はイチロー並みなのだろうか?!

次に落ちて来たドングリをさっと手でつかもうとしたが、間に合わなかった。脳が視覚からの情報を受けて手に「動け」いう指令を出し、実際に手が動くまでにはタイムラグがあるのだ。そして手を動かすスピードの問題もある。

やはり一介の女子高生がイチローにかなうはずがない。

でも私はあきらめずに次のドングリを待った。

段々手の動きが俊敏になった。しかし、私の手はドングリが落ちた直後に虚しく空を切り続けた。

やっぱり、私には無理なんだ……。

そう思うと、ふぅーっと力が抜けた。自分が持っている動体視力と瞬発力を最大限に絞り出そうと極度に張りつめていた緊張状態が解けた。

気が付くと、何気なく動かした右手が落下してきたドングリをキャッチしていた。

なんだ、できるじゃない!

次に落ちて来たドングリは左手で捕った。簡単だった。

それまでは落ちて来るドングリをできるだけ高い所で見つけようとして必死で上の方を見ていたのだが、先ほどから目の前に止まった状態のドングリが、実際に落ちて来る前に見えるようになっていた。それを手で横からはたくようにして掴めばいい。

手の中のドングリをスカートのポケットに入れた。
それから後は簡単だった。手の届く範囲に落ちて来るドングリは全て難なくキャッチできた。いや、「全て」というのは言い過ぎだった。ほぼ同時に落ちて来るドングリの数が二個なら右手と左手で一個ずつ捕れるが、三つ以上だと無理だった。

半時間ほどで制服のスカートのポケットがドングリで一杯になった。

気が付くと陽が落ちかけて、辺りが暗くなっていた。

いけない、早く帰ろう。

公園で木から落ちて来るドングリを空中で採取していた女子高生が痴漢に遭う。それではシャレにならない。友達から一生「ドングリ」と呼ばれることになる。私はポケットからドングリが飛び出さないように手で押さえながら、家まで走って帰った。

***

「遅かったわね。またどこかで道草を食っていたの?」
母がニンジンの皮をむく手を止めて私を迎えた。

「私は犬のオシッコがかかった道端の草なんて食べないわよ」

「今のは座布団一枚あげてもいいわ。あらっ、ポケットが膨らんでいるわね。制服のスカートのポケットにむやみに物を入れちゃダメよ。プリーツの形が崩れるから」

「そうよね。制服のスカートの左右にポケットがあればバランスがとれるんだけど……。今日は大事なものが入ってるの。ママにも見せてあげる」

私はシンクの上の棚から手鍋を取って、ポケットの中のドングリを全部入れた。

「まあ、汚い! 女の子が土の上に落ちていたものを洗わずにお鍋の中に入れるなんて信じられない」

「おあいにくさま。この中に落ちていたドングリはひとつもないわ。落ちてくるところを空中で掴んで取ったものばかりよ」

「芽依ったら、よくそんな作り話を思いつくわね」

「本当だってば! 嘘と思うのなら、明日一緒に公園に行って実演してあげる」

「動いている物をさっとつかみ取るなんて、宮本武蔵じゃあるまいし」

「誰、それ? 野球選手? イチローよりもすごいの?」

「宮本武蔵を知らないの? 巌流島で佐々木小次郎と決闘した、江戸時代の剣豪よ。ご飯を食べているときにハエがうるさく飛び回っていたのを、空中でお箸で挟んだのよ。そして何事も無かったかのように食べ続けた」

「ムカつく! 超フケツな人ね。私ならそんなお箸は洗剤でゴシゴシ洗っても二度と使えないわ」

「江戸時代の話よ。男の人だから仕方ないわ」

「いくら有名な剣士でもそんな男にキスされたら耐えられない」

「話を逸らさないで。やってみれば分かるけど、飛んでいるハエを空中でお箸で掴むというのは誰にでもできることじゃないわよ」

「ふーん、確かにそうかも。ハエってすごく速いスピードで飛ぶものね。動体視力の問題というより、いくら速くお箸を動かしても追っつかないわ。多分その宮本武蔵とかいう不潔な男には、次の瞬間に空中でハエが止まる姿が見えたのよ」

「宮本武蔵には未来を予知する能力があったというわけ? 芽依らしい仮説ね」

「ちょっと違うのよね。未来を予知するというほどのものじゃなくて、動いている物の次の瞬間の姿が止まって見えるの。だからそこにお箸を持っていくと簡単に掴める。私もそうやってドングリを捕ったのよ」

「芽依に悪気があってウソを言ってるんじゃないことをママは分っているけど、ヨソの人にそんなことを言うと芽依には虚言癖があると思われるわよ」

「ハァ? 信じないの? 見てよ、このドングリ。全然ホコリがついていなくて、ツヤがあるでしょう? もし落ちているのを拾ったのなら、実とハカマの間に土やホコリがついていると思わない? 落ちていたドングリを水で洗ったとしたら濡れているはず」

「ホントだ! 芽依の言う通りだわ。お鍋の中のドングリは全部が同じように新しくて、木から手で摘み取ったみたいだわ」

「ほら、私が本当のことを言っていたことが分かったでしょう?」

「早く着替えてらっしゃい。ベランダでポケットを裏返しにして、木くずとかが残っていないようにきれいにするのよ」

母が認めたのはドングリが粒ぞろいで汚れていないということだけだった。次の瞬間を見る力を私が持っていると信じたわけではないのだ。

大人ってどうしてこんなに頭が固いのだろう? 私も自分の隠れた能力に気づいたのは偶然だった。緊張がふと緩んだ時に、それまで息を潜めていた能力が出てきたのだ。もしあの時に「見えるはずはない」と思って見過ごしていたら、私は一生自分の能力に気づかなかっただろう。

私のDNAの半分は母から来ているのだから、母にも同じ能力があるかもしれないのに……。

宮本武蔵という男性は、剣の道を究める修行の中で、きっと偶然ある瞬間に自分の能力に気づいたのだと思う。対戦相手の次の瞬間の剣先が見えれば、相手を倒すのは簡単だ。だから勝ち続けて生き残り、剣豪と呼ばれるまでになったのではないだろうか。

イチローには残念ながらその能力は無さそうだ。動体視力と卓越した身体能力、それに経験値を重ねてあれほどの実績を残しているのだ。

多分、偉大な王貞治さんを含む野球選手には、宮本武蔵や私と同じ能力は無かったはずだ。もしあれば、バッティングはティーの上に乗せたボールを叩くのと同じぐらい簡単だから、打率が三割や四割で収まるはずがない。待てよ、ボールを楽に打てても打球が内野手の守備範囲内に飛んだり、外野まで飛球が行っても外野手が捕ればアウトだから、五割、六割もの打率は難しいんだろうか……。

私は自分の部屋に行って、スチーマーのスイッチを入れてから制服のスカートをハンガーに吊るし、ウェストがゴムのロングスカートに履き替えた。

スチーマーを手に持ってプリーツがシワになっている部分に集中的にスチームを浴びせる。毎日二、三分の作業だが、母がそのためにスチーマーを買ってくれて、スイッチを入れれば一分後には使えるように置いてある。私が毎日シワの無いスカートで学校に通えるのはこのスチーマーのお陰だ。

明日も公園でドングリを集めようかな。能力を研ぎ澄ます訓練のためにはそれもいいかもしれないが、王貞治さんやイチロー選手さえ授からなかったほどの超能力を、ドングリ集めにしか使わないというのは宝の持ち腐れだ。他に使い道は無いだろうか?

野球選手になるのはどうだろう?

高校野球連盟は石器時代のような脳ミソで凝り固まっていて、女子が選手になることを認めていないが、プロ野球は女性にも門戸を開いていると聞いたことがある。確か、クラスの男子が読んでいたマンガに女性のピッチャーが出ていた。

私が実際に野球をしたのは体育の授業だけで、それもソフトボールだが、中学時代に父と一緒にテレビで野球を見るのが好きだったので、野球にはうるさい。止まっているボールなら私でも打てるようになるはずだ。

しかし、私の目には止まっているボールでも、実際には時速百数十キロで動いているのだから、私の力で打っても前に飛ばないかもしれない。振る度にバットに当たっても、ボールがチョロチョロと転がるだけなら、観客から失笑を買うだけだ。

それにデッドボールが問題だ。次の瞬間に胸を直撃するボールが見えたとしても、俊敏に身体を動かしてボールをよけることが出来るだろうか? バットを胸の前にサッと持ってきてバントをすることぐらいならできるかもしれないが……。

強いボールを投げる力が無いのも私の弱点だ。ということは守備は無理だ。パリーグには指名打者制度があるが、普通、指名打者はホームランバッターだ。弱いゴロしか打てない私は指名打者としては使ってもらえないだろう。

野球の始球式で女優が投げるのをテレビで何度か見た。ノーバウンドでキャッチャーに届くとアナウンサーが大げさに褒める。長身女優の菜々緒が始球式でノーバウンド投球をする動画をユーチューブで見て、女性としてはカッコいいと思ったけれど、プロの野球選手と比べるとまるで子供の投球だった。

私は小さい時から体育は得意で足も速いし、身長も女子の平均より高いが、残念なことにパワーが無い。やはりスポーツ選手になることは、選択肢から外した方がいいだろう。

ベッドに寝転がって超能力を活かす方法について脳ミソを絞ったが、グッドアイデアは浮かんでこなかった。

「あっ、ドングリの事を忘れていた」

スマホでドングリの調理方法について調べた。シイの実以外のドングリは皮をむいて数日間天日干しした後、ミキサーで粉砕したものを水に漬けてアクを抜くという、面倒な処理をする必要があることが分かった。

「ドングリなんて食べなくても百均でムキ栗を買う方が賢いかも」

ひとり言を言いながら台所に行った。

「ママ、私のドングリはどこ?」

「玄関に置いたわ。見てきてごらん」

玄関に行くと、クリスタルグラスにドングリを盛り付けて棚の上に置いてあった。秋の訪れを感じさせる、さりげないオブジェだった。

「ママの超能力の方がずっと素敵だわ」

私は自分の負けを認めた。


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