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新作「聖地巡礼」を出版しました


性転のへきれきTS文庫の新作「聖地巡礼」を出版しました。

志望の大学に合格してほっとしていた花坂歩夢は、高校の帰りに菊川祐奈に誘われて「君の名は」のBlue Ray Diskを祐奈のアパートに見に行きます。祐奈とは三年間同じクラスでしたが殆ど会話したことが無く異性として意識したことはありませんでした。「君の名は」を一緒に見たことで二人の間に予期せぬ感情が芽生え、歩夢と祐奈は飛騨古川への聖地巡礼に出かけます。三月十八日、高速バスを利用した2泊3日の短い旅行が二人の人生に衝撃的な変化をもたらすことになるとは知らずに、歩夢はバスタ新宿で祐奈と落ち合うのでした。



聖地巡礼

第一章 出会い

第一志望のL大学から合格通知が届いた。まだクラスの半分は国立大学の入試に向けて必死の形相で頑張っているが、僕の受験戦争は終結し、久々に取り戻した緊張感のない日常の中で静かに手足を伸ばしていた。そんな二月中旬のある日のことだった。

その日は短縮授業で二時半ごろ学校を出た。校門を出たところで菊川祐奈から声をかけられた。

「花坂君、『君の名は』を一緒に見ない?」

祐奈とは三年間同じクラスだったが殆ど言葉を交わしたことがなく異性として意識したこともなかった。そんな女子から突然誘いの言葉をかけられて戸惑った。

「え? まだ『君の名は』を上映している映画館があるの?」

「映画館じゃなくて、私の家で上映するのよ」

――これ、ナンパされてるんだろうか?

ほとんど話したことのない女子の家に行っていきなり二人でDVDを見るというシチュエーションには抵抗があった。

「『君の名は』は去年映画館に行って見たんだけどなあ……」
取りあえず口に出しつつ、僕は頭の中で断りの口上を探していた。

「やっぱり、私みたいなブスとは付き合いたくないわよね」

「と、とんでもない! 菊川さんは男子の間では人気があるんだよ」

それは完全な出まかせだった。祐奈は決してブスではないが、女子の人気ランキングの上位に入っているわけではない。特に可愛くも美人でもないが、女子としては平均より背が高い方だし、どちらかと言うと整った顔つきだ。

「合格祝いに『君の名は』のブルーレイディスクをもらったのよ。六十五インチのテレビの前に座ってブルーレイの画像を見ると迫力があるのよ」

「六十五インチにブルーレイか! それは確かに豪華だね」

「ピザも用意してるわよ。花坂君は国立大学は受験しないんでしょう? もう受験は終わったんだからいいじゃないの。それとも、何か他に私と付き合えない理由でもあるの?」

「無いよ、そんなの」

祐奈の巧妙で強引な誘導によって、断れない状況に追い込まれた。

「じゃあ決まりね。私の家はあっちの方向よ」

お腹も空いていたし、ピザを食べさせてくれると聞いて「ま、いいか」と観念した。一度だけ女子の家に行って映画を見ても僕が祐奈の彼氏になったということにはならない。もし友達に知られたら、六十五インチとブルーレイに魅かれて見に行ったと言えば分かってもらえるだろう。

それより、気がかりなのは祐奈の家で親に会うことだ。地味な祐奈のことだから、男子を家に連れて帰ったことは殆ど無いのではないだろうか? 祐奈の親に「彼氏」と認識されたら、後々面倒だなと心配だった。

「ここよ」

五分ほどで到着したのは五階建ての集合住宅だった。六十五インチのテレビがある家と聞いて、もっと大きな家を想像していたので意外な気がした。

祐奈は階段を三階まで上がって、左奥のつきあたりの部屋の鍵を開けた。

「さあ、入って」

そこはワンルームのアパートだった。

女子のアパートの部屋に入るのは生まれて初めてだった。カーテンや寝具の色は暖色系で統一されていて、部屋の中はきちんと整頓されていた。白のハンガーラックに色とりどりのスカートやワンピースがかかっているのを見て「今まさに僕は女子のアパートにいるのだ」と緊張した。

「菊川さんが一人でアパート暮らしをしているとは知らなかったよ」

「去年の春までは家族と一緒だったんだけどパパが福岡に転勤になったの。私は東京の大学に行くつもりだったからアパートを借りて一人で住むことになったのよ」

「食事とか、色々大変だね」

「慣れればどうってことないわ。親に干渉されずに好きなことができるから快適よ」

「僕も念願がかなって四月から親元を離れて生活することになったんだ」

「L大学なら一時間で通えるのに、よくお父さんやお母さんが許してくれたわね」

「僕がL大学に行くということをどうして知っているの?」

「花坂君のことなら大抵のことは知ってるわよ」

――やっぱり、僕はナンパされたんだ……。

祐奈が「好きだから」と言い添えるのではないかと身構えた。

「アパートを借りることは却下されたけど、寮に住むということで許してくれたんだ。L大学の寮は半分が外国人だから、寮に住めば英語が上達すると言ったら許してくれた」

「国際寮に入れるの? すごい! 私が行くV大学にも国際寮があるけど、料金表を見たら自分でアパートを借りて住むよりも高そうだったわ。花坂君の家ってお金持ちなのね」

「全然。父は普通のサラリーマンだけど、僕の進学費用は計算に入れてくれていたみたい。ひとつ下の妹が優秀で家から通える国立大学の医学部に確実に入れそうだと分かってから、僕に対して甘くなったんだよ。えへへ」

「妹さんが優秀でよかったわね」

「まあ、よくないことの方が多かった気がするけど、今回は助かった」

「花坂君が入るのは男子寮なの?」

「その寮は男女共用だよ」

「じゃあ、私も遊びに行けるわね」
祐奈が面倒なことを言い出したのでドギマギした。

「いや、外部の人は入れない規則なんだ。受付をすればラウンジに入ることはできるけど、居住棟には入寮者しか入れない。『異性は家族でも理由の如何を問わず入室を禁じる』と書いてあった」

僕は寮が厳しい規則を定めてくれたことを感謝した。

祐奈は冷蔵庫からピザの入った紙箱を取り出し、ナイフで八枚のスライスに切り分けてそのうちの四枚をオーブントースターに入れた。ポットでお湯を沸してミルクティーを用意した。手際がいいので、さすが一人暮らしをしているだけのことはあるなと思った。祐奈は小さなテーブルにピザ用の皿とミルクティーを並べた。

「先に食べようね。その椅子に座って」

祐奈は一つしかない椅子に僕を座らせ、自分は部屋の隅から丸椅子を持って来て座った。二人でピザを食べ始めた。

「食卓に椅子が一つしかないのを見て、私に友達がいないってことが分かったでしょう」

「時々お母さんが様子を見に来たりはしないの?」

「母は自分のことで忙しいし、父は私が好きじゃないから東京に出張しても私に会いに来ることはないわ」

「世の中のお父さんは誰でも娘のことが大好きだと聞いていたけど」

「そうとは限らないわ。私は父が嫌いだから、その気持ちが伝わって父も私とは会いたくないのよ」

「そうかなあ……。まあ、人それぞれ事情はあるかもしれないけど」

「花坂君は家族にいっぱい愛されて育ったタイプだものね。だから私は花坂君が好きなんだ」

ついに言われてしまった。「好きだ」という言葉を。自分の顔が火照って赤くなってきたのが分かった。僕の様子を見て祐奈も意識し始めたのか、ピザを食べ終えるまで会話が途絶えた。

「そろそろ上映開始よ」

六十五インチのテレビはベッドと反対側の壁ぎわにあるローボードの上に置かれていた。ベッドとテレビとの間は一メートル余りしか離れていない。ベッドの縁に腰かけて見るのだろうか……。

「ベッドに座って、壁にもたれて見るのよ。制服がシワになるから着替えるわね。花坂君、あっちを向いていて」

僕はベッドと反対の方向に椅子を向けて祐奈が着替えるのを待った。衣擦れの音が壁に反射して僕の耳たぶを撫で、祐奈が異性であることを思い知らされた。

「いいわよ」

祐奈の方に向いて座り直した。祐奈は足首まであるキルトのスカートにはき替えていて、制服をハンガーに吊るしているところだった。

「暖かそうだね」

「冬場の必需品。毎日家に帰ったら制服のスカートをハンガーに掛けて、このキルトのスカートに着替えるのよ」

「へえ、そうなんだ」

「花坂君もこれにはき替えて。色違いだけど同じスカートよ」
祐奈がはいているスカートを少し赤っぽくしたキルトのスカートを手渡された。

「冗談だろう?」

「出歩いていたズボンのままで私のベッドに座られるのはイヤだもの。さあ、早く」

「男がスカートをはくなんて……」

「これはスカートというよりは下半身用の防寒具なの。私があっち向いてる間に着替えて!」

祐奈は僕をベッドの方へと押しやってから、玄関のドアのところに行って僕に背を向けた。着替えないと許してもらえそうになかったので、僕は仕方なくズボンを脱いで、キルトのスカートの中に足を突っ込んだ。ウェストにはゴムが通っていて、おへそより少し上まで引き上げるとスカートの裾が足首の辺りになった。

「ズボンと上着をこのハンガーにかけなさい」
と言われて、その通りにした。

祐奈はタンスから白地にパステルカラーのボーダー柄の毛糸のセーターを二着取り出し、ブルー系の方のセーターを差し出した。

「このセーターを着て」

渋々、そのゆったりとしたセーターをカッターシャツの上に着た。

「やっぱり、丁度いい大きさね。花坂君は背の高さが私と同じだし身体つきも似ているから。この間、体育の時間に茜ちゃんから『花坂君の後姿を見て祐奈が男子の体操服を着ているのかと思った』と言われたのよ」

「冗談で言ったんだろう? 菊川さんと僕は髪の長さが全然違うから、後姿を見て間違えるはずがないよ」

「広瀬すずがテレビドラマのために髪をバッサリと切ったのを知ってるでしょう? 丁度その後だったから、茜ちゃんは花坂君の後姿を見て私が髪を切ったと思ったんだって。ほら、鏡の中を見て。私たち双子の姉妹みたいじゃない?」

並んで姿見に映った祐奈と僕は全く似ていないこともなかったが、双子というのは明らかに言い過ぎだった。同じような体格の二人が同じデザインで色違いの服を着ているから、似ているように見えるだけだ。

「全く似ていないことはないと思うけど……」

祐奈の質問をやんわりと否定しながら、促されるままにベッドの奥の壁に背をもたれてベッドの上に足を延ばした。祐奈は天井の蛍光灯のスイッチを切ってから僕の右側に座り、二人の首の高さまで掛布団を被った。

祐奈がリモコンを操作すると六十五インチ画面がパッと明るくなって、他の映画の予告編が流れ始めた。身体を少し動かすと肩が触れ合う微妙な距離だった。祐奈の横顔にチラリと目を遣った時に丁度祐奈も僕の方に視線を向けて微笑んだ。僕は急に恥ずかしさがこみ上げてきて視線をテレビの方へと戻した。

今日学校を出るまではほとんど話したこともなかった女子のアパートで二人きりになって、暗い部屋のベッドにお揃いの女子の服を着て並んで座っている……。今すぐ逃げ出したいのに金縛りに会ったように身体が動かず、顔が火照って心臓が音を立てている。

映画が始まると、少しほっとした気持ちになって映画の中の世界に没入した。

昨年の夏休みの終わりごろに映画館で『君の名は』を見た。男子高校生の立花瀧が目が覚めると宮水三葉(みつは)の身体になっていて、胸を揉むのを見て、他の観客と一緒にクスクスと笑った。今日は周囲から笑い声は聞こえない。可笑しいという気持ちが湧くどころか、思わず自分の胸を手で触ってセーターの下に膨らみが無いことを確かめてしまった。

筋は分かっていても一つ一つのエピソードが一昨年よりも鮮烈だった。前回見た時、僕は立花瀧に感情転移して、三葉の身体に乗り移った自分を体験した。今日は瀧に乗り移っていない状態の三葉自身にも同じように感情転移できた。特に妹の四葉と一緒に巫女を務めている時の三葉は自分自身のような気がした。

隕石が落ちる日の黄昏時に二人がお互いの手に名前を書こうとした時、祐奈が左手を僕の右の掌に重ねてきた。指を交互に絡ませられて、僕はしっかりと握り返した。

最後のシーンが終わった時、僕の目から熱い涙があふれていた。気がつくと祐奈の顔が目の前にあった。祐奈の唇が僕の唇に重ねられ、僕は目を閉じてキスを受け入れた。ベッドに座って半身でお互いを抱き寄せ合ったまま、長い時間が過ぎた。

祐奈が唇を離し、僕の目を見つめて聞いた。

「君の名は?」

僕は茶目っ気を出して「私は三葉」と答え、祐奈に「君の名は?」と聞いた。

「僕の名は花坂歩夢」
と祐奈が僕の名前を名乗ったので僕は微笑んだ。

「そして、君の名は菊川祐奈。僕たちは入れ替わったんだ」
と祐奈が暖かくて深い声で言って僕を強く抱きしめた。

その瞬間、僕は祐奈と恋に陥った。

***

僕たちはベッドの上で服を着たまま胸を合わせてお互いの身体の感触を確かめ合った。

しばらくすると祐奈が「あ、もうこんな時間だ」と言って体を起こし、セーターを脱いでベッドから降りた。

祐奈がベッドの横に立ってスカートを脱ぎ始めたので僕は焦った。初デートで初エッチとは……。

驚いたことに祐奈はハンガーにかかっていた僕のズボンをはいて、僕の制服の上着に袖を通した。

「遅くなると親が心配するから、今日はもう帰るよ」

それは僕自身が考え始めていたことだった。母に連絡せずに夕ご飯に遅れるのはまずい。もうそんなに長くは祐奈との入れ替わりごっこに付き合えない。

祐奈が僕のカバンを持って玄関に行ったので、僕は慌ててベッドを下りて祐奈を追った。祐奈は僕の靴を履いてドアノブに手を掛けた。

「じゃあ明日学校で会おうね、祐奈」
と祐奈は僕に成りきったまま部屋から出て行ってしまった。

ドアがカチャリと閉って、僕は思わずため息をついた。肩まである長い髪で男子の制服を着て出歩いたら、不審な目で見られる。僕に迷惑が及ぶわけではないが、この近所には祐奈の顔を知っている人もいることだろう。女子高生が、変人と思われるリスクを冒してまで入れ替わりごっこをするなんて信じられない。

すぐに帰って来るだろうと待っていたが、五分、十分と過ぎても戻る気配がないので心配になってきた。探しに行こうかと思ったが、この恰好で外に出て、もし知っている人に会ったら、それこそ大変だ。

――どうしよう……。三十分経っても祐奈は戻ってこなかった。そうだ! 体操服があるはずだ。女子の体操服はえんじ色だが、男子が着ても不自然ではない。走って帰ればいいんだ。いや、僕の家ではもうすぐ夕飯が始まる時間だ。母に連絡を入れておかないと面倒な質問を浴びせられるかもしれない。でも、スマホはカバンの中で、祐奈が持って行ってしまった。僕は祐奈のカバンを開けてスマホを取り出した。家の電話番号をダイヤルすると母が出てきた。

「あ、母さん。今、菊川君の家に来ていて、少し遅くなるけど心配しないで」
と早口で言って、母の質問が聞こえないふりをして電話を切った。祐奈のことを菊川さんと言わずに菊川君と言っただけであり、基本的にひと言もウソは言っていない。

タンスを開けて祐奈の体操服を探した。一段目と二段目の引き出しには下着が詰まっていた。さっき胸を寄せて抱いた時に思ったが、祐奈は貧乳の部類だ。引き出しにはかなり大きそうなカップのブラジャーも入っていて、丸いパッドが幾つか重ねて置かれていたので思わずニヤリとしてしまった。

タンスとハンガーラックをくまなく探したが体操服は見つからなかった。一見スカートのような赤い短パンとか、ロングドレスのようなズボンはあったが、男子がはいても女装とは思われないズボンはひつともなかった。

――困った……。僕は絶望のため息をついた。

その時、玄関のドアが開いて祐奈が帰って来た。

「お邪魔します」
と言って祐奈は靴を脱いだ。

「ひどいよ、菊川さん!」

「違うだろう。僕は花坂歩夢。君が菊川さんだ」

「もう入れ替わりごっこはやめようよ。早く帰らないと親に怪しまれるから、制服を返して」

「『入れ替わりごっこ』じゃなくて、僕たちはもう入れ替わったんだ。制服は返すんじゃなくて、貸してあげてもいいけど」

「分かったよ。じゃあ、花坂君が着ている制服を私に貸して」
僕は祐奈を平気で花坂君と呼ぶ自分の神経に呆れた。しかし、今は服を取り返すことが何よりも大事だった。

「うーん。条件がある。まず、菊川さんも自分の制服を着て、僕たちが入れ替わったということをお互いにちゃんと確認したい。そうしたら僕の服を貸してやろう」

「分かった」

メチャクチャな要求だったが応じることにした。僕はもうスカートをはいてしまっているのだから、制服のスカートにはき替えたところで罪が重くなるということはないだろう。

僕は祐奈の制服のスカートをハンガーから外して足を突っ込んだ。左のホックを留めて、上着に袖を通した。

「ほら、リボンタイも着けろよ。ブラウスじゃなくて男物のカッターシャツを着ているけど、まあ許してやるよ」

女子の制服を着て男子の制服姿の祐奈と向き合うのはとても妙な気持ちだった。祐奈は僕の肩に腕を回して姿見の前に立ち、僕のスマホで姿見の中の二人を撮った。続いて何枚もツーショットの自撮りをした。祐奈はしばらくスマホを操作してから僕のカバンの中にスマホを戻した。

「祐奈は僕が花坂歩夢で自分が菊川祐奈だということを認めるんだな?」
と真面目な顔をして祐奈から聞かれた。

「うん、認めたわよ、花坂君」
とウィンクしながら女言葉で答えた。

「約束通り僕の制服を貸してあげよう」
と言って服を脱ぎ始めた。

僕は特に視線も逸らさずにリボンタイを外して上着とスカートを脱ぎ、祐奈の気が変わらないうちに祐奈が脱いだ僕の制服を着てカバンを引っつかんだ。

「じゃあ帰るね。今日は楽しかった」
玄関で靴を履きながら言うと祐奈に間違いを正された。

「『帰るね』じゃなくて『行ってくるね』だろう? まあ、いいけど。とにかく忘れないでくれ。もう僕たちは入れ替わったんだ。当分の間、君は花坂歩夢のフリをして、僕は菊川祐奈のフリをして暮らすということだ」

「当分の間って、いつまで?」

「祐奈が僕のフリをするのが面倒なら今すぐストップしてもいいけど」

「面倒じゃないから、当分続けようね。じゃあ明日学校で!」
と言って逃げるようにドアを閉め、祐奈のアパートを出て家まで走って帰った。

***

父の帰宅が普段より遅かったお陰で僕は夕飯に間に合い、母から色々詮索されることも無かった。夕食の時に妹の啓子が僕の顔をジロジロ見ながら聞いた。

「お兄ちゃん、今日何かあったの?」

「な、なにも無いけど……。どうして?」

「いや、何かちょっと雰囲気が違う気がしたのよね」

僕は啓子の指摘にドキリとした。一才年下の妹は勉強が出来るだけでなく、頭がよくて勘も鋭い。「お兄ちゃん」と呼んではくれるが、中学一年の春に僕の身長を追い越してからは、頭が上がらなかった。

祐奈と初めて「デート」して、女子の恰好でベッドに座って、キスして、入れ替わって……。幾つもの初体験があったのだから僕の雰囲気が変わらないはずがない。もしかしたらスカートをはいたことが啓子に見透かされたのではないかと不安を覚えた。

「受験が終わって気持ちに余裕が出たからそう見えるんじゃないかな」
と言ってごまかした。

「ふうん、そうかなあ」
啓子は薄ら笑いを浮かべて僕の目をのぞきこんだ。

逃げるように自分の部屋に行ってドアを閉めた。

恋とは不思議なものだ。僕は祐奈のアパートに行くまで、全く祐奈を好きだとは思っていなかった。それなのに、祐奈に「僕たちは入れ替わった」と宣言されて抱きしめられた時、祐奈が世界で一人の恋人だという錯覚に陥った。祐奈の服を着て一緒に映画を見たり、隕石が落ちる日の黄昏時のシーンで手を絡ませ合ったり、最後のシーンの後で泣いて抱き合ったり、色んな伏線が重なった結果、あんな気持ちになったのだ。

祐奈の顔を頭に浮かべると胸が熱くなった。

それにしても「入れ替わりごっこ」についての祐奈の真剣モードは度が過ぎていた。僕の制服でアパートから出て行って半時間も外を歩き回るなんて、勇気があるというか、女子の冗談としては行きすぎだ。

それに、もう少しで祐奈に弱みを握られるところだった。二人がお互いの制服を着た姿を写真に撮られたからだ。あの写真を人に見せると言って脅されたら一大事だ。ところが祐奈は僕のスマホで写真を撮って、そのまま僕のカバンにスマホを突っ込んだ。もし祐奈のスマホで写真を撮られていたら、と思うとぞっとする。

――何かの間違いで人に見られないうちにスマホから写真を削除しておこう。

そう思ってスマホを開いたら、祐奈からメールが入っていた。

「祐奈、
写真を送ってくれてありがとう。
今日は楽しかったよ。
歩夢」

――まさか!

メールの送信履歴をチェックしたところ、祐奈が撮影したツーショットの写真を全部その場で祐奈あてに送ったことが分かった。もし祐奈が僕の女子高生姿の写真を誰かに見せたら、と思うと冷汗が出た。

このことだけは祐奈に念を押さなければ。僕は深呼吸してから返信を書いた。
「菊川祐奈様
今日はピザをご馳走になったり、大画面で映画を見せてもらったり、本当にありがとう。今日の僕の写真は他の人に見られないようにくれぐれもよろしくお願いします。
花坂歩夢」

数分後に祐奈から返信があった。

「祐奈、
そんな心配はせずに僕を信じてついてきてくれ。僕が自分の彼女を困らせることをするはずがない。
それから、君と僕の間では、お互いを本当の名前で呼ぶようにしてほしい。今後はメールを書く時も含めて、僕の事は花坂君または歩夢さんと呼んでくれ。
歩夢」

裏を返すと、もし逆らえば僕を困らせることをするかもしれないという脅しのように読み取れた。祐奈が写真を持っている限り、僕は言われた通りにするしかない。

そのメールのすぐ後で祐奈が僕を友達に追加したというLINEのメッセージが入り、僕も仕方なく祐奈を友達に加えた。

「分かりました。歩夢さんを信じてついていきますのでよろしくお願いします。おやすみなさい。祐奈」

祐奈を歩夢さんと呼び、自分が祐奈としてLINEのトークを書き、エンター・キーをクリックすると、悪いことをしているような気持になった。

明日学校で祐奈と会ったら、どんな顔で接したらいいのだろう? もし祐奈から、他の友達がいる場所で「祐奈」と呼ばれて、僕がシカトしたら仕返しに写真をバラまかれるのではないだろうか? 僕は祐奈を「花坂君」と呼ばなければならないのだろうか? 祐奈は入れ替わりごっこをいつまで続けるつもりなのだろう……。そんな不安が繰り返し僕の心に押し寄せた。


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2018 原作開発プロジェクト 応募作品「未来が見える少女」

新作「未来が見える少女」が出版されました。前作の「エキストラ」に続き 2018 原作開発プロジェクトに応募するため「五万文字、テーマは映画」という制約の中で書いた小説です。

主人公の深沢芽依は女子高生です。私が書いた小説で主人公が女性なのは「危険な誘惑」だけでした。「危険な誘惑」も主人公を男性にしたMTF版を後で出版したという経緯があります。

「未来が見える少女」にはMTF版はありません。TSは主人公ではなく、別の登場人物に起きますが、第三章に起きるので、読んでのお楽しみということでお願いします。

未来予知能力を身につけた女子高生はひょんなことから国際情勢に翻弄されることになるのですが、一応SF小説とも言えるし、リアル系TS小説でもあり、どのカテゴリーに入れるべきかは読者の方がご判断ください。



未来が見える少女

第一章 落ちるドングリ

部活が終わっての帰り道、公園の遊歩道を歩いていたら何かが頭に落ちて来た。

痛くは無かった。

コツン、ではなく、ポトンという感じで頭に当たった。

何だったのだろう?

その時、風が吹いて何かがパラパラと落ちて来た。ひとつではなく、二つ、三つ。

足元に転がったのはドングリだった。

二、三日前から急に冷え込んだからだろうか、風が吹いて熟したドングリが木から落ちて来たのだ。

足元を注意してみると沢山のドングリが散らばっている。遊歩道の舗装された部分には少なくて道路の端っこの、土との境の部分に沢山のドングリが転がっていた。雨水が道路わきへと流れるように、ドングリも高い所から低い所に転がったのだろう。

よく見ると、木製の高級家具のような光沢のあるドングリは少数派で、土ほこりで汚れたり、割れ目が入って腐りかけのドングリが多い。

「ドングリって美味しいのよ」
田舎の叔母が言っていたのを思い出した。

「シイの実ならそのまま食べられるし、それ以外のドングリはアクを抜いて食べるの」
そう思って見回すと美味しそうなドングリが沢山あった。

でも、きたない!

例え何回も洗ったとしても、犬がオシッコをする道端に落ちているものを食べることは私にはできない。

そうだ! ドングリが地面に落ちる前に手で受け止めればいいんだ!
それは突拍子もない発想かもしれない。ポケットを落ちて来るドングリで一杯にするには何時間もかかるのではないだろうか?

いや、そんな後ろ向きな姿勢からは何も生まれない。とにかくやってみよう。

さっき風が吹いた時にパラパラと落ちる音がした辺りに行って歩行者の通行の邪魔にならない場所に立った。木の枝を見上げて、落ちてきたら受け止めようと精神集中した。

一、二、三、四、五、六……

十一まで数えた時に小さな黒いものがスーッと落ちて来てポトリと地面に落ちた。

速い! 思ったよりはるかに速いスピードで落下した。

イチローのような動体視力があればドングリが止まって見えるかもしれないし、サッと手を動かしてつかみ取るのも不可能ではないだろうが、私には無理かもしれない……。

数秒後にもう一つ、更に十数秒後にまとめて数個落ちて来た。

さすがに速いが、だんだん「球筋」が見えるようになってきた。

数分間見ていると、一瞬だが目の数十センチ前にドングリが止まって見えた。よし、これなら捕れるかもしれない。私の動体視力はイチロー並みなのだろうか?!

次に落ちて来たドングリをさっと手でつかもうとしたが、間に合わなかった。脳が視覚からの情報を受けて手に「動け」いう指令を出し、実際に手が動くまでにはタイムラグがあるのだ。そして手を動かすスピードの問題もある。

やはり一介の女子高生がイチローにかなうはずがない。

でも私はあきらめずに次のドングリを待った。

段々手の動きが俊敏になった。しかし、私の手はドングリが落ちた直後に虚しく空を切り続けた。

やっぱり、私には無理なんだ……。

そう思うと、ふぅーっと力が抜けた。自分が持っている動体視力と瞬発力を最大限に絞り出そうと極度に張りつめていた緊張状態が解けた。

気が付くと、何気なく動かした右手が落下してきたドングリをキャッチしていた。

なんだ、できるじゃない!

次に落ちて来たドングリは左手で捕った。簡単だった。

それまでは落ちて来るドングリをできるだけ高い所で見つけようとして必死で上の方を見ていたのだが、先ほどから目の前に止まった状態のドングリが、実際に落ちて来る前に見えるようになっていた。それを手で横からはたくようにして掴めばいい。

手の中のドングリをスカートのポケットに入れた。
それから後は簡単だった。手の届く範囲に落ちて来るドングリは全て難なくキャッチできた。いや、「全て」というのは言い過ぎだった。ほぼ同時に落ちて来るドングリの数が二個なら右手と左手で一個ずつ捕れるが、三つ以上だと無理だった。

半時間ほどで制服のスカートのポケットがドングリで一杯になった。

気が付くと陽が落ちかけて、辺りが暗くなっていた。

いけない、早く帰ろう。

公園で木から落ちて来るドングリを空中で採取していた女子高生が痴漢に遭う。それではシャレにならない。友達から一生「ドングリ」と呼ばれることになる。私はポケットからドングリが飛び出さないように手で押さえながら、家まで走って帰った。

***

「遅かったわね。またどこかで道草を食っていたの?」
母がニンジンの皮をむく手を止めて私を迎えた。

「私は犬のオシッコがかかった道端の草なんて食べないわよ」

「今のは座布団一枚あげてもいいわ。あらっ、ポケットが膨らんでいるわね。制服のスカートのポケットにむやみに物を入れちゃダメよ。プリーツの形が崩れるから」

「そうよね。制服のスカートの左右にポケットがあればバランスがとれるんだけど……。今日は大事なものが入ってるの。ママにも見せてあげる」

私はシンクの上の棚から手鍋を取って、ポケットの中のドングリを全部入れた。

「まあ、汚い! 女の子が土の上に落ちていたものを洗わずにお鍋の中に入れるなんて信じられない」

「おあいにくさま。この中に落ちていたドングリはひとつもないわ。落ちてくるところを空中で掴んで取ったものばかりよ」

「芽依ったら、よくそんな作り話を思いつくわね」

「本当だってば! 嘘と思うのなら、明日一緒に公園に行って実演してあげる」

「動いている物をさっとつかみ取るなんて、宮本武蔵じゃあるまいし」

「誰、それ? 野球選手? イチローよりもすごいの?」

「宮本武蔵を知らないの? 巌流島で佐々木小次郎と決闘した、江戸時代の剣豪よ。ご飯を食べているときにハエがうるさく飛び回っていたのを、空中でお箸で挟んだのよ。そして何事も無かったかのように食べ続けた」

「ムカつく! 超フケツな人ね。私ならそんなお箸は洗剤でゴシゴシ洗っても二度と使えないわ」

「江戸時代の話よ。男の人だから仕方ないわ」

「いくら有名な剣士でもそんな男にキスされたら耐えられない」

「話を逸らさないで。やってみれば分かるけど、飛んでいるハエを空中でお箸で掴むというのは誰にでもできることじゃないわよ」

「ふーん、確かにそうかも。ハエってすごく速いスピードで飛ぶものね。動体視力の問題というより、いくら速くお箸を動かしても追っつかないわ。多分その宮本武蔵とかいう不潔な男には、次の瞬間に空中でハエが止まる姿が見えたのよ」

「宮本武蔵には未来を予知する能力があったというわけ? 芽依らしい仮説ね」

「ちょっと違うのよね。未来を予知するというほどのものじゃなくて、動いている物の次の瞬間の姿が止まって見えるの。だからそこにお箸を持っていくと簡単に掴める。私もそうやってドングリを捕ったのよ」

「芽依に悪気があってウソを言ってるんじゃないことをママは分っているけど、ヨソの人にそんなことを言うと芽依には虚言癖があると思われるわよ」

「ハァ? 信じないの? 見てよ、このドングリ。全然ホコリがついていなくて、ツヤがあるでしょう? もし落ちているのを拾ったのなら、実とハカマの間に土やホコリがついていると思わない? 落ちていたドングリを水で洗ったとしたら濡れているはず」

「ホントだ! 芽依の言う通りだわ。お鍋の中のドングリは全部が同じように新しくて、木から手で摘み取ったみたいだわ」

「ほら、私が本当のことを言っていたことが分かったでしょう?」

「早く着替えてらっしゃい。ベランダでポケットを裏返しにして、木くずとかが残っていないようにきれいにするのよ」

母が認めたのはドングリが粒ぞろいで汚れていないということだけだった。次の瞬間を見る力を私が持っていると信じたわけではないのだ。

大人ってどうしてこんなに頭が固いのだろう? 私も自分の隠れた能力に気づいたのは偶然だった。緊張がふと緩んだ時に、それまで息を潜めていた能力が出てきたのだ。もしあの時に「見えるはずはない」と思って見過ごしていたら、私は一生自分の能力に気づかなかっただろう。

私のDNAの半分は母から来ているのだから、母にも同じ能力があるかもしれないのに……。

宮本武蔵という男性は、剣の道を究める修行の中で、きっと偶然ある瞬間に自分の能力に気づいたのだと思う。対戦相手の次の瞬間の剣先が見えれば、相手を倒すのは簡単だ。だから勝ち続けて生き残り、剣豪と呼ばれるまでになったのではないだろうか。

イチローには残念ながらその能力は無さそうだ。動体視力と卓越した身体能力、それに経験値を重ねてあれほどの実績を残しているのだ。

多分、偉大な王貞治さんを含む野球選手には、宮本武蔵や私と同じ能力は無かったはずだ。もしあれば、バッティングはティーの上に乗せたボールを叩くのと同じぐらい簡単だから、打率が三割や四割で収まるはずがない。待てよ、ボールを楽に打てても打球が内野手の守備範囲内に飛んだり、外野まで飛球が行っても外野手が捕ればアウトだから、五割、六割もの打率は難しいんだろうか……。

私は自分の部屋に行って、スチーマーのスイッチを入れてから制服のスカートをハンガーに吊るし、ウェストがゴムのロングスカートに履き替えた。

スチーマーを手に持ってプリーツがシワになっている部分に集中的にスチームを浴びせる。毎日二、三分の作業だが、母がそのためにスチーマーを買ってくれて、スイッチを入れれば一分後には使えるように置いてある。私が毎日シワの無いスカートで学校に通えるのはこのスチーマーのお陰だ。

明日も公園でドングリを集めようかな。能力を研ぎ澄ます訓練のためにはそれもいいかもしれないが、王貞治さんやイチロー選手さえ授からなかったほどの超能力を、ドングリ集めにしか使わないというのは宝の持ち腐れだ。他に使い道は無いだろうか?

野球選手になるのはどうだろう?

高校野球連盟は石器時代のような脳ミソで凝り固まっていて、女子が選手になることを認めていないが、プロ野球は女性にも門戸を開いていると聞いたことがある。確か、クラスの男子が読んでいたマンガに女性のピッチャーが出ていた。

私が実際に野球をしたのは体育の授業だけで、それもソフトボールだが、中学時代に父と一緒にテレビで野球を見るのが好きだったので、野球にはうるさい。止まっているボールなら私でも打てるようになるはずだ。

しかし、私の目には止まっているボールでも、実際には時速百数十キロで動いているのだから、私の力で打っても前に飛ばないかもしれない。振る度にバットに当たっても、ボールがチョロチョロと転がるだけなら、観客から失笑を買うだけだ。

それにデッドボールが問題だ。次の瞬間に胸を直撃するボールが見えたとしても、俊敏に身体を動かしてボールをよけることが出来るだろうか? バットを胸の前にサッと持ってきてバントをすることぐらいならできるかもしれないが……。

強いボールを投げる力が無いのも私の弱点だ。ということは守備は無理だ。パリーグには指名打者制度があるが、普通、指名打者はホームランバッターだ。弱いゴロしか打てない私は指名打者としては使ってもらえないだろう。

野球の始球式で女優が投げるのをテレビで何度か見た。ノーバウンドでキャッチャーに届くとアナウンサーが大げさに褒める。長身女優の菜々緒が始球式でノーバウンド投球をする動画をユーチューブで見て、女性としてはカッコいいと思ったけれど、プロの野球選手と比べるとまるで子供の投球だった。

私は小さい時から体育は得意で足も速いし、身長も女子の平均より高いが、残念なことにパワーが無い。やはりスポーツ選手になることは、選択肢から外した方がいいだろう。

ベッドに寝転がって超能力を活かす方法について脳ミソを絞ったが、グッドアイデアは浮かんでこなかった。

「あっ、ドングリの事を忘れていた」

スマホでドングリの調理方法について調べた。シイの実以外のドングリは皮をむいて数日間天日干しした後、ミキサーで粉砕したものを水に漬けてアクを抜くという、面倒な処理をする必要があることが分かった。

「ドングリなんて食べなくても百均でムキ栗を買う方が賢いかも」

ひとり言を言いながら台所に行った。

「ママ、私のドングリはどこ?」

「玄関に置いたわ。見てきてごらん」

玄関に行くと、クリスタルグラスにドングリを盛り付けて棚の上に置いてあった。秋の訪れを感じさせる、さりげないオブジェだった。

「ママの超能力の方がずっと素敵だわ」

私は自分の負けを認めた。


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2018 原作開発プロジェクト 応募作品「エキストラ」

2017Amazon・よしもと原作開発プロジェクトで「採用面接」が優秀賞を受賞しましたが、その快感が忘れられず、2018年2月末締め切りのAmazon・よしもと原作開発プロジェクトに応募するために「エキストラ」を書きました。今回は「映画」に関するテーマというのが応募規定になっており、しかも五万文字以内という規制が入っています。私の長編小説(980円のもの)は十万字以上なので、その半分になります。書いてみると半分の字数でストーリーを収めるのは困難を伴いましたが、校閲でバサバサとぜい肉を切り落として五万文字に収めました。

題名から想像できる通り、主人公は彼女と一緒に映画のエキストラに応募します。主人公が大ファンである若手女優が出演する映画だからです。エキストラに行ってみると、大勢のエキストラの中から十数名の特別エキストラが選ばれることになり、主人公と彼女も選ばれます。ところが、実際の撮影時にNGが出て役を外され、ガッカリするのですが、撮影後に監督に呼び出されて、驚くべきオファーを受けることになります。

そのオファーとは?

最後まで息をつかせないハプニングの連続です。どうぞお楽しみください。



第一章 エキストラ

僕の名前は水沢詩音。千葉市にある大学の一年生で早瀬美玖の大ファンだ。インスタグラム、ツイッターとオフィシャルブログは常時フォローしており、早瀬美玖の事なら誰よりもよく知っているつもりだ。
木曜日の昼休みに学食で僕の彼女の長尾幸子に言われた。
「詩音、映画のエキストラの募集にはもう申し込んだ?」
「何のこと?」
「知らないの? 早瀬美玖のことは完全フォローしてると自慢していたくせに。杉内数馬と早瀬美玖の共演で『黄色い蕾』という映画を撮っていることは知ってるでしょう? 今週末の撮影に高校生のエキストラが足りなくなって、緊急募集しているらしいわ。私は杉内数馬からのツイートを見て知ったところよ」
僕と幸子は付き合っていることを公言する仲だが、幸子が杉内数馬に、僕が早瀬美玖に憧れることについては許容するという合意が成立している。
「行く行く! 早瀬美玖の映画に共演できるんだったら、僕、何でもする」
「共演と言ってもエキストラだから、ほんの二、三秒映るだけよ。それに、早瀬美玖の撮影と同じ現場で撮るとは限らないから、エキストラに行っても早瀬美玖本人を近くで見られるとは限らないわ」
「最悪の場合でも『僕は早瀬美玖と同じ映画に出演した』と孫子の代まで語り継ぐことができる」
「発想がナイーブね。私は杉内数馬を近くで見られるならエキストラをやってもいいけど、そうじゃなきゃ行きたくないわ」
「そんなこと言わないで一緒に行こうよ!」
「ま、詩音の頼みならむげには断れないわね。じゃあ、申し込むわ。応募申込ページのリンクを送ってあげる」
幸子からのリンクの着信とほぼ同時に早瀬美玖のツイート通知がポップアップした。

「【拡散希望】撮影中の『黄色い蕾』でエキストラさんが足りなくなったみたい。緊急募集中だからヨロシクネ! 詳しくはこちら」
そのリンクをクリックすると幸子から届いたリンクと同じページが開いた。

エキストラ急募
■作品名:黄色い蕾
■監督:魚沼腰光
■主演:早瀬美玖 X 杉内数馬
■募集内容:高校生に見える男女十名から二十名程度。
■撮影場所:江戸川堤防(JR市川駅より徒歩二十五分、バス送迎あり)
■撮影日時:十一月二十五日(土) 午前八時から日没まで
■待遇内容:出演料、交通費、食事代は出ません。小さな謝礼品を差し上げます。
■応募要領:yuszjp@gmail.comあてに「エキストラ希望」という題で住所、氏名、携帯電話番号、年齢、職業(学校名と学年)、身長、体重を記入し、顔写真(メール記入と同時に自撮りしたもの、アプリ使用禁止)を添付したメールをお送りください。二十四時間以内に結果を返信します。

――えっ、バイト料なしかよ! 交通費も自己負担とはケチだな……。
エキストラに応募するのは始めてだったが、出演料がゼロで交通費も出ないとは知らなかった。まあ、早瀬美玖を十メートル以内で一分間見ることができるなら、一日分のバイト代を払ってでもエキストラになってもいいと思った。
もう一つ面白いと思ったのはメール記入時に自撮りした顔写真を添付、それもアプリの使用を禁止するという点だった。これなら、確かに普段通りの素顔が分かる。女の子が美人になるアプリやメイク・アプリを使うことも禁止するというのも理に適っている。
僕は早速スマホを右斜め上にかざして自撮りした。それは幸子から教わった、僕が最もカッコよく写る角度だった。その画像を添付してエキストラ希望のメールを送信した。
僕と幸子は応募メールをほぼ同時に送信し「結果の返信が届いたらLINEで連絡するね」と言って別れた。
午後の美術史学の講義が終わってスマホを見ると「エキストラご応募の件」というメールが入っており、ドキドキしながらクリックすると採用されたとの知らせだった。幸子に連絡すると、幸子にも同じ内容のメールが届いたとのことだった。
その次の講義は心理学だったが、顔に見覚えがある女性が隣の席に座っていたので「僕、早瀬美玖が出演する映画に出ることになったんだよ」と話しかけた。
「えっ、オーディションを受けたの?」
「まさか。今日、緊急募集に応募したら、OKのメールが来たんだ」
「なあんだ、エキストラか。『映画に出る』というのはちょっと言い過ぎじゃない?ところで、あんた誰?」
「水沢詩音、国際コミュニケーション学科の一年だけど」
「ああ、どこかで見かけたことがある気がしたわ。これって、ナンパじゃないわよね?」
「ち、違うよ。僕、彼女がいるから……」
「あっそう。私は英米語学科一年の宮田節子よ。水沢君は早瀬美玖のファンなんだね。どんな映画のエキストラ?」
「『黄色い蕾』という映画で、早瀬美玖は高校生の役だよ。共演は杉内数馬だから学園恋愛ものじゃないかと思うんだけど、ストーリーは発表されていないんだ」
「早瀬美玖と杉内数馬という配役だけで観客を集めようという安易なラブコメなのかもね」
「違うよ! 早瀬美玖は可愛いだけじゃなくて女優としての演技力も抜群なんだよ! そんな安易な映画なら出演を引き受けたりしないよ」
「分かった分かった。ムキにならないで」
心理学の講義が始まったので宮田節子との会話はそこまでで終わった。
講義が終わった後、大学構内で会う人ごとに「早瀬美玖の映画にエキストラで出演することになった」と言いまくった。社交辞令で「よかったね、おめでとう」と言ってくれる人は多かったが、僕が期待していた「羨ましい」という感じの反応は得られなかった。うちの大学は四人に三人が女子なので「杉内数馬の映画」と言えば、もっとポジティブな反応があったかもしれないが、僕のプライドとして、杉内数馬をネタに友達の関心を集める気はなかった。
翌日の金曜日の朝、参加要領がメールで届いた。集合場所はJR市川駅から徒歩二十五分の撮影場所に自分で行くか、市川駅近くの指定場所でバスにピックアップしてもらうかのいずれかということで、地図のリンクが示されていた。服装は出来る限り高校の制服、不可能な場合は高校生らしい服装、と書いてあった。
僕の高校の制服は福島の実家に置いてあり、今から送ってもらっても間に合わないので、ジーンズパンツにセーターを着て行くことにした。幸子は高校の制服で来ると言っていた。
土曜日の午前七時半、紺の上着にプリーツスカート姿の長尾幸子と市川駅の改札で落ち合い、指定場所に行くと、既に二、三十人が集まっていた。高校の制服を着ている人が四分の三程度、他は僕と同じようなラフな服装だったが、ひいき目に見ても二十代後半にしか見えない人も混じっていた。
バスが間もなく来て、僕は幸子と一緒にバスに乗った。
普段はスリムパンツのボーイッシュな服装が多い幸子だが、今日は別人に見えた。膝が隠れる長さのプリーツスカートをはいている幸子は、僕が高校時代に秘かに憧れていた吉田美香を思い出させた。高校時代にタイムスリップしたような気がして、バスが揺れて幸子と肩が触れ合うたびに鼓動が高まった。
幸子とは入学直後の学内の飲み会で知り合った。同じクラスの男子から『参加予定者十二人のうち男子は二、三人だからキャバクラ状態だぞ』と言って誘われ、実際に行ってみたら男子は僕を含めて三人だったので『やったあ、キャバクラだ!』と胸が高鳴った。
ところが、女子にはキャバ嬢役で来たという意識の人は一人もいなかった。僕以外の男子二人も押しが強いタイプではなく、女子の話題でガンガン盛り上がる中、僕たちは控えめに話を合わせるか、女子からの質問には防戦一方だった。
元々女子の方が口数が多いが、特に弁の立つ女子が二、三人居て、その人たちが中心になって、時々僕たちが耳の付け根まで真っ赤になるような質問を浴びせかけられた。確かにキャバクラ状態の飲み会だったが、僕たち三人はキャバ嬢の側の立場になってしまった。
可愛い女の子を探して仲良くなるつもりで言ったのに、女子の外観を鑑賞したり評価するどころではなく、女子たちから評価される方の立場に置かれて、委縮した。
自分が女子から見ていじりやすいタイプだと自覚したのは、その飲み会が初めてだった。というのは、他の二人の男子を合わせたよりも多くの質問が僕に浴びせかけられたし、他の二人は僕ほど真っ赤にはなっていなかったからだ。
僕が女子たちの質問にたじたじとして立ち往生しかけると、決まって幸子が助け舟になるような発言をしてくれた。それが、僕が幸子を意識したきっかけだった。もしあの飲み会に幸子がいなかったら、と思うと今でも冷汗が出る。
その飲み会以降、僕は大学構内で幸子を見かけると近づくようになった。そこにオアシスがあるような気がしたからだ。もし幸子が相当なブスでも同じような間柄になっただろうと思う。美醜とは全く関係のない理由で、僕は幸子を選んだのだった。
今、女子高生姿の幸子を見て、もう一つの出会いが始まったと実感した。この女子高生は顔も、スタイルも、雰囲気も最高だ。同じクラスだったら、一目で恋に陥っただろうと思う。自分の彼女がこれほどの美人だったことが分かってラッキーだと思った。
バスは十分ほどで目的地に着いた。
バスを降りると、係員に誘導されて土手の方に歩いて行った。
驚いたことに、そこには既に四、五十人の高校生風の人たちが集まっていた。バスで来たのが約四十人だから、エキストラの数は全部で八、九十名ということになる。
「歩いて来た人が大勢いたのね。近所に住んでいる高校生がこぞって応募したのかもしれないわ」
「募集広告には『十名から二十名程度』と書いてあったから、早瀬美玖が僕を見てくれるかもしれないと思ったのに、百人近くも居たら、絶対気づいてくれないよね。ガッカリだ」
「例え十人でも、早瀬美玖の方から意識してエキストラの顔を見たり覚えたりするはずがないでしょ。詩音の方から早瀬美玖の実物を見られるだけで御の字よ。それにしても杉内数馬と早瀬美玖の姿が見えないわよね」
僕はさっきから必死で探していたが、早瀬美玖らしい姿はどこにも見当たらなかった。
「エキストラの皆さん、こちらにお集まりください」
メガホンを持った男性と、二、三人のスタッフが立っていた。僕たちはその人たちの辺りへと移動した。
「本日はボランティア・エキストラに応募していただきありがとうございました。私は助監督の森と申します。募集広告に『小さな謝礼品を差し上げる』と書きましたが、これから配布します。謝礼品はこのカードです」
助監督は名刺のようなカードを持った手を頭の上にかざした。
「プレゼントは早瀬美玖と杉内数馬のスマホ待ち受け画面用の画像です。カードにプリントされたQRコードを読み取ってダウンロードしてください」
僕は「やったあ」と思った。周囲からは喜びの声と「たったそれだけかよ」とがっかりした声が入り混じって聞えた。
「皆さんは『その他大勢』の役になりますが、同級生の役で若干名のエキストラが必要なので、まず一次選考させていただきます」
――もし選ばれたら早瀬美玖のすぐ近くに行ける!
周囲の人たちも僕と同じことを考え、ざわついた。
「ここに一列に並んで、謝礼品のカードを受け取ってください。その際に、指名された人は、この辺りに残ってください。一次選考で残った人の中から若干名を最終的に指名させていただきます」
助監督の前に列ができ、僕と幸子は真ん中より少し後ろに並んだ。一人一人にカードが手渡され、何人かに一人が「はい、あなた」と言われて助監督の左側に残り、指名されなかった人は落胆した表情で元居た場所に戻って行った。
僕らの番が近づいた。見ていると助監督一人の判断で選んでいるのではなく、助監督の左側に立っている四十絡みの男性、右側の三十才前後の女性が言葉を交わして選んでいるようだ。
一次選考には気軽に選ばれても、二次選考は厳しいだろうから、仮に残ってもぬか喜びはできないなと思った。
僕の番が来た。心臓がパンクしそうなほど音を立てている。
助監督の前に立ってカードを受け取った。左側の男性が「いいね」と言って、右側の女性も「OK」と言った。助監督から「キミ、残って」と言われて、僕は一次選考を通った人たちの群れに加わった。
僕の後に並んでいた幸子もOKをもらって、僕の所に来た。
「やったね!」とハイタッチした。
最後の人がカードを受け取り、八、九十人のエキストラたちは、幸せな表情の約二十人と、がっかりした表情の六、七十人の二つの群れに分かれた。
助監督の指示で、男女に分かれて身長順に横一列に整列した。男子は十一名で僕は小さい方から二人目だった。女子は九名で、合計二十人が一次選考を通過したことになる。
女子の列の背の高い方から順に審査が開始された。審査といっても、一人当たり十秒ほどの目視だけの審査だ。助監督たち三人は殆ど言葉を交わさずに目配せで合意に達するようで、「一歩前に出てください」と言われた人は「はい」と表情を輝かせて足を踏み出した。
残念ながら幸子は一歩前に出るようには言われなかった。女子で選ばれたのは三名だけだった。
男子は僕の番が来るまでに既に五人が選ばれてしまったので、多分ダメだろうと思った。幸子が落ちて僕だけ受かるよりは、一緒に落ちた方がいいかもしれないと思った。
予想通り、僕は選ばれなかった。
「最終選考が完了しました。一歩前に出た八名の方は、一般エキストラの方へとお戻りください。残った男女六名ずつ、合計十二名の方は篠塚さんの指示に従って、更衣室に行ってください」
一歩前に出ていた八人は気の毒なほど落胆した表情でその他大勢の群れへと戻って行った。
「どうして一歩下がらせなかったんだろう? 一歩前に出ろと言われたら誰だって合格したと思うよね。期待させておいて梯子を外すようなやり方はよくないよ」
と、もし幸子が横にいれば僕は言うはずだった。
助監督が「篠塚さん」と呼んだのは横に立っていたアラサーの女性のことで、僕たち十二名は篠塚の後について歩いた。僕と幸子は自然に一緒になって並んで歩いた。友達どうしで来て二人とも最終選考に残ったのは僕たちだけのようだった。
篠塚に連れて行かれた「更衣室」は簡易テントで設営された男女別の小屋で、僕たち男性六人は紺色のジャージーの上下を手渡されて着替えた。
幸子たち六人の女子はえんじ色のジャージー姿で更衣室から出てきた。高校時代にタイムスリップしたような妙な気持ちになった。
「それでは皆さん、これから撮影現場にご案内します。杉内数馬さんと早瀬美玖さんが所属するリズムダンス・チームが、荒川区予選に出場するシーンです。近隣の高校生たちがラフな格好で観戦しています。皆さんは、杉内数馬さんたちの前にパフォーマンスを終えた、他校の生徒たちです。杉内数馬さんたちが並んでいる横に帰って来てすれ違うシーンを撮影します。すれ違いざまに杉内数馬さん、早瀬美玖さんの方を見ないように、自然に前を向いて歩いてください」
エキストラの中から一次選考を経て十二名が選ばれたのが、たった数秒のすれ違いのシーンのためだと分かってがっかりした。まあ、一瞬とはいえ早瀬美玖と数十センチの距離まで接近できる。一般エキストラは十メートル以内に近づくことはできないだろうから、確かに選ばれただけの価値はあるのだが……。
撮影場所まで歩いて行くと、一般エキストラたちは審査員席に近い土手に集まっていた。助監督が一般エキストラの前に立ち、メガホンで「私が左手を上げたら歓声を上げてください」などと言って練習させているところだった。
そこから二、三十メートル離れた場所に出場者の出入り口があり、僕たち十二人はパフォーマンスを終えて出場者出口まで戻る練習を四、五回させられた。しばらくすると、更衣室の方向から杉内数馬、早瀬美玖を含む十名がジャージー姿で歩いて来た。
一般エキストラたちから大歓声が上がった。助監督に言われて歓声の練習をしていた時とは違う、本物の歓声だった。
早瀬美玖たちは僕たちのすぐ近くを通って出場者出入り口まで歩いて行き、スタッフの指示に従って整列した。
監督が早瀬美玖達に指示をして、リハーサルが始まった。カメラは右斜め前の方向から十人を狙っている。
「テイク・ワン」
という声が掛かり、撮影がスタートした。出場を待つ十人の生徒たちの緊張した表情をカメラが捕らえる。
何度か撮り直しをしてOKが出た。次は僕たちが帰って来てすれ違うシーンだ。僕たちはグラウンドから出場者出入り口を目指して歩き、杉内数馬たちの右側を通ってすれ違う。
僕は今まで杉内数馬には全く興味が無かったが、実際に大スターを目の前にすると胸がドキドキした。
「デカッ!」
こんなに背が高かったのか……。すれ違う時に、思わず杉内数馬の顔を見上げた。
「カーット!」
と監督が声を上げた。
「そこの小柄な男子! すれ違いざまにスターの顔を見るな!」
僕のせいだった。僕は監督に「すみません」とお辞儀をして、グラウンドの方へと引き返した。
二回目の撮影が始まった。巨大な杉内数馬の顔を見上げずに通り過ぎたが、早瀬美玖の横を通る時、ついチラッと見てしまった。早瀬美玖の左ひじと僕の左ひじの距離はほんの十センチほどだった。今まで生きていてよかったと思った。
「カーット! 撮り直しだ! さっきと同じ小柄な男子、すれちがいざまに早瀬美玖の顔を見ただろう!」
僕は「すみませんでした」と深くお辞儀をして謝った。
三回目の撮影になり、さすがの僕もまっすぐ前を向いてスターたちの横を通り過ぎた。
「さっきの小柄な男子を抜きで撮り直しだ」
「僕、今度は誰の顔も見ませんでしたよ!」
「男女五人ずつの十名にして撮り直す。女子は前から三番目の人、抜けてくれ」
それは長尾幸子の事だった。結局、四回目は僕と幸子が抜けて撮り直し、一発でOKになった。
「バカ、詩音が杉内数馬と早瀬美玖の顔を見たお陰で、私まで除外されちゃったじゃないの。あーあ、十二人に選ばれなけば観衆役で映画に出られたのに、全く映らなくなったのよ。どうしてくれるの!」
「ゴメン、でも、三回目の時にはまっすぐ前を向いて歩いたんだけどなあ……」
幸子の剣幕に、僕はすっかりしょげて涙目でうつむいた。
「泣くな! 男でしょう。まあ、杉内数馬を至近距離で見られたから、それでよしということにしてあげる。詩音も憧れの早瀬美玖と会えてよかったじゃない」
「幸子、ありがとう。大好き」
と僕は幸子の手を握った。
出入り口のシーンの撮影が終わり、僕は他の十人からの冷ややかな視線を意識しながら、グラウンドでの撮影風景を見学した。
十人のパフォーマンスが見られると楽しみにして見学していたが、グラウンドでの短いシーンを幾つか撮っただけで、撮影は終了した。近くにいたスタッフに幸子が質問した結果、リズムダンスのパフォーマンス自体はまとめて撮影済みだと分かった。
助監督がマイクでエキストラたちにアナウンスした。
「エキストラの皆さま、本日はご協力ありがとうございました。市川駅までのバスは三十分後に発車します。皆さま、お気をつけてお帰り下さい」
「じゃあ、僕たちも着替えてバスに乗ろうか」
篠塚について更衣室に行こうとしたところ、監督からメガホンで呼び止められた。
「ちょっと、キミたち! NG三回の小柄な男子と、そこの女子、ちょっと待ってくれ」
――撮影から外しただけでは気が済まずに、説教をするつもりなのだろうか……。
「監督、お言葉ですが、NGは二回だけですよ。三回目はちゃんとやったのに、どうしてダメだったんですか?」
「失礼した。キミが言う通りNGは二回だ」
「それに、皆の前で『小柄な男子』と三回も言うのは失礼だと思いますけど」
「どうして? 『小柄な』とは『悪い』とか『劣った』という意味なのかね? 『可愛い』とか『好ましい』という意味でもあり得るぞ」
「屁理屈みたいに聞こえますけど……」
「キミたち二人に話があるんだ。ちょっと時間をもらえないか?」
「でも、市川駅行きのバスが三十分後に出るので、それに遅れないようにお願いします」
「もし遅れたら車で送るよ」
監督は、森助監督に声をかけ、僕と幸子を含めた四人で、更衣室の近くの大型ワゴン車に入ってドアを閉めた。
「森君が言った通りだった。この二人なら代役に使えるぞ」
「そうでしょう! 本当にグッドタイミングでした」
「さっきカメラアングルで確かめたが、思った以上にいい感じだった」
「代役って何のことですか?」
「実は『ある問題』が起きて、役者二人が降板することになったんだ。その問題の詳細は明日になるまで言えないが、キミたち二人は降板する役者と似ているから白羽の矢を立てたんだ」
「私たち、映画デビューできるんですか!?」
「その通りだ! といってもセリフは少ないが、印象に残る登場人物だ。引き受けてくれるね?」
僕は天にも昇る気持ちだった。何と、早瀬美玖と映画で共演するチャンスが巡ってきたのだ!


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「支配する女」は「女性上司の妻になった男」を読んだ方は購入しないでください

「支配する女」が出版されました。

これは2016年2月に出版された「女性上司の妻になった男」をベースにした本であり、ストーリーは原作と同じですので、原作を読んだ方は購入されないようお願い致します。

Kindle Unlimitedの会員の方は是非もう一度読んであの時の感動を再体験されることをお勧めいたします!

***

主人公の名前は本郷咲良、営業部門に勤務している入社二年目の社員です。本郷の上司の小芝課長代理は学生時代にミス東京の一位を惜しくも逃した長身美女で、三十五才になっても独身で彼氏がいる形跡はありません。実はレズだと言う噂が流れたことがありますが事実無根のようです。

十二才も年上ですが本郷は小芝課長代理に秘かに憧れていました。ある日の夕方、小芝のお供で客先訪問をした帰り道、本郷は小芝から「頼みたいことがある」と言われて食事に誘われます。レストランで頼みごとを聞いて本郷は自分の耳が信じられませんでした。

「明日、富山から両親が上京するの。本郷君に私のフィアンセとして両親に会って欲しいのよ」

小芝の両親との面談は、本郷の人生の軌道を大きく変えることになるのでした。

支配する女

第一章 美しすぎる上司

 うちの会社には七不思議がある。
その一つは公式の七不思議で社長が今年の抱負として年始に披露したものだ。二十年前の創立以来、うちの会社が赤字になったことは三回だけだが、赤字の翌年は必ず記録的な黒字を達成したそうだ。「これは当社の七不思議であり、業界では都市伝説とも言われている」と社長は胸を張って全社員を鼓舞した。社員の二十人に十九人は「なあんだ、つまんない」と思ったはずだが表情には出さずに黙って聞いていた。
七不思議の中でも非公式な不思議には結構興味深いものがある。その代表が僕が所属する部の小芝怜央(こしばれお)に関する不思議だった。小芝は超一流大学卒で学生時代にミス東京の一位を惜しくも逃したことがあるスーパー美女だ。バドミントンでインターハイに出たというから、まさに文武両道といえる。三十五才になっても独身で浮いた噂は全く無いし、過去に社内外に彼氏がいた形跡も無いらしい。百七十三センチの長身でもあり、男性が気後れして声をかけにくいという不利があるのかもしれないが、性格は明るくサッパリとしていて非の打ち所がない。しかも営業成績は群を抜いており、TOEICも九百二十点で、近々最年少で課長かニューヨークの部長になるのではないかと噂されている。
小芝怜央にはレズビアン説も流れていた。性格の良い美人に男っ気が無い原因としてレズビアン説には説得力があるが、小芝が女性と付き合っているとか、うちの会社の女子社員が小芝に誘われたという形跡は全くない。
運輸管理部の吉澤美津子という三十代前半の女性が「忘年会の後で小芝さんとカラオケに行った時に肩に手を回されてドキッとしたことがあったわ。小芝さんってレズっ気があるんじゃないかしら」と言っているのがレズビアン説の発信源らしい。しかし吉澤美津子はBLコミックのファンで長身美女に憧れている亜流腐女子という噂がある。吉澤の顔と名前が結びつく人は「あれは吉澤さんが夢を語っているだけだ。小芝さんがレズなら他の女性を誘うだろう」と言っている。レズビアン説がガセであることはうちの部の人なら誰でも分かっていた。
僕はそんな清廉潔白な小芝が課長代理をしている海外営業第二課の入社二年目の総合職社員だ。小芝のアシスタントのような立場であり、去年までは社内で勉強をしながらもっぱら電話番をしていたが、二年目になって小芝の客先訪問にも連れて行ってもらえるようになった。
「本郷君、良かったわね。頑張って行って来てね」
僕が初めて小芝に連れられて客先訪問することになった時、小芝と同期入社で海外営業第二課の一般職をしている柳原浅子に励まされた。柳原はうちの課でお姉さんというよりはお母さんのような存在で、僕は入社した時からずっと柳原に可愛がられている。
営業第二課の総合職は五十才の温厚な能上課長、小芝課長代理、二十八才の毒島五郎、二年目で二十三才の僕と、四月に入社したばかりの藤丘慶子の五名だ。藤丘慶子は一浪で十月生まれだから実年齢は僕より五ヶ月上だ。小芝と同じ超一流大学卒で小芝並みの長身だ。中学から高校にかけて親の転勤の関係でニューヨークに住んでいたらしく英語力は小芝にも負けないらしい。慶子は一年上の僕に対して少なくとも表面的には敬意を払って敬語で話してくれるが、小芝が僕と慶子を連れて客先を訪問する時とか、エレベーターに三人で乗ったり、立ち話をする時には、十センチも身長が高い小芝と慶子が僕の頭越しに話をするので僕は居たたまれない気持ちになることが多い。
ある日、小芝と僕の二人で午後四時に渋谷の客先を訪問し、五時半ごろに客先のオフィスを出た。小芝が「今日は帰社せずに、直帰しようか」と僕に言ってから課長にその旨電話した。
「本郷君、これから空いてる? たまには晩メシでもご馳走するわ」
「はいっ、ありがとうございます」
上司と言っても小芝はミス東京クラスの抜群の美人だ。そんな女性と一対一で食事できるなんて夢ではないかと思った。
小芝が連れて行ってくれたのはイタリアン風のワインレストランだった。
赤のハウスワインのデカンタと「今日のお勧めアンティパスト」がテーブルに届いて、とりあえず乾杯した。仕事を離れて向かい合う小芝には普段とは違う魅力が感じられて、何も言葉を交わさなくても胸がドキドキした。
「本郷君、今日は折り入ってキミに相談があるの。個人的なことなんだけど聞いてくれる?」
突然そんなことを言われて天にも昇る気持ちだった。
「何でしょう。小芝さんから個人的な相談を受けるなんて光栄です。ご遠慮なくおっしゃってください」
「ありがとう。じゃあ、言い難いけど言うわね。実は、明日、富山から両親が上京するの。本郷君に私のフィアンセとして両親に会って欲しいのよ」
僕は驚きの余り椅子からずれ落ちそうになった。頭に血が上って、こめかみにドクドクと脈が打つのが感じられた。
「も、もしかして、それはプロポーズなんでしょうか」
僕は胸の高鳴りを押さえながら小芝の目を見て聞いた。小芝は僕の真剣な表情に気づき、大きな目で僕を見た。徐々に小芝の表情が緩んできて微笑を湛えた表情になった。次の瞬間、小芝は「プッ」と吹き出した。
「ごめん。説明不足だったわね。プロポーズじゃないのよ。実は、私の両親は私が三五才になっても彼氏の気配もないことを心配して時々見合い写真を送って来るんだけど、私が全く興味を示さないから、私はレズじゃないかと心配しているのよ。しょっちゅう電話がかかって来てうるさくて仕方ないの。だから、本郷君が去年入社してから付き合い始めて、最近結婚の約束をしたということにして両親に紹介したいのよ。ね、いいでしょう?」
「小芝さんの婚約者の役なら光栄ですけど、本当に僕なんかで良いんですか? もっと年齢が近くて、背の高い人じゃないと、ご両親も本気にしないと思いますけど」
「私は昔から年下で可愛い系の男子が好きで、両親もそれはよく分かっているのよ。だから両親が送ってくる見合いの話も、その手の男性が多いんだけど、レベルが低すぎてお話しにならないの。レベルが数段違う本郷君を両親に見せれば、私が何故これまでの見合いを断ってきたが一目瞭然だから、当分静かになると思うわ」
「レベルが数段違うだなんて……」
僕は恥ずかしさと誇らしさで自分の顔が紅潮するのが分かった。
「やってくれるのね?」
元気に「はい」と答えて大きく頷いた。テレビドラマや小説の世界なら、こんな経緯で婚約者の代役を引き受けた場合には、それがキッカケで恋が芽生えたり、結婚することになるというのが最もよくあるパターンだ。僕にもチャンスが回って来たぞ、と思った。
小芝はテーブルの上で僕の両手を掴んで「ありがとう、恩に着るわ」と言った。
会社では駆け出しの僕が、十二歳も年上のエリート上司と恋に落ちる、ということには若干の不安要因が残ることが否定できない。普通に考えると僕と小芝ではどう見ても恋人同士として釣り合わない。身長は小芝の方が十センチも大きい。もし僕たちが付き合っていることが会社の人に知られたら逆転カップルと噂されるのは確実で、僕は婦唱夫随願望とか、専業主夫志望とか、倒錯チビなどと言われて後ろ指を指されるのがオチだ。結婚しても僕が小芝にタメ口をきくことは考えられないから、一生敬語で話すことになるだろう。でも僕は耐えられる。背の高い女性は僕の憧れだし、こんな美人と一緒になれれば実家の両親や高校時代の友達に対しても自慢できる。
小芝と一緒の夢のような時間はあっという間に過ぎた。
「両親とはこのレストランで集合する約束なの。一緒に来るところを見せたいから、先に私のアパートに来てくれる? 私のアパートで一緒に入念なリハーサルをしておきたいから、午前十時ごろ来てくれるとありがたいわ。土曜日に早起きさせて申し訳ないけど十時でもいいかな?」
「勿論です。午前七時でも八時でも大丈夫ですよ」
「じゃあ十時に来てね。私のアパートの場所はグーグルマップのリンクを送っておくわね」
小芝が勘定を済ませてくれた。女性と食事をして全額払ってもらうのは生まれて初めてだった。いくら収入に二倍の開きがあっても、一緒に食事をして小芝に払ってもらっていいのだろうか? でも小芝は自分が払うのが当たり前のように振舞っていた。もしこの話が発展して今度は恋人としてデートをしようということになったら、少なくとも割り勘で払いたいと意思表示をすべきかなと思った。
満たされた気持ちでアパートに帰り、翌日の仮想デートを楽しみにしながら眠りについた。


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「世界維新」が出版されました

この小説は「女性が全てを支配する日」(2016.1出版)をWITノベルコンテストに応募する目的で再構成した作品です。原作と比較すると、序章が削除された等、構成は大きく異なりますが、ストーリー自体は原作とほぼ同じですので原作を購入済みの方は、「世界維新」を購入されないようお勧めします。キンドル・アンリミテッドの会員の方は是非「世界維新」をダウンロードしてあの興奮をもう一度味わっていただければ幸いです。

***

静岡県のサッカー少年でチームのエースだった杉村美瑠久は準決勝の前半に得点を上げるが、その直後にアタックした際に出血して中途退場する。病院での診断は美瑠久の人生に根本的な変化をもたらす。

その一年後、中東での紛争で使用された「ある兵器」が予期せぬ変化を遂げ、数週間のうちに地球の人口の約50%に「外観では分からない小さな変化」をもたらす。その変化は数か月の間に世界を静かに、自然に、そして不可逆的に変革するのだった。

***

これは杉村美瑠久が少年から大人になるまでの生活的視点を通して「世界維新」と、はかなく美しい恋を描くSFエンターテインメント小説です。



世界維新
 第一章 ある男子の初経 

 僕の名前は杉村美瑠久。静岡県の小学生だ。

 僕が住んでいるのは人口十万人以上の立派な「市」で、僕の家は駅から歩いて数分の商店街にあった。僕は三人きょうだいの長男だった。長男といっても二才年上の姉が、二才下に妹がいる。子供の時から大事にされて育った。

 家の近所には神社があり、神社の境内が子供たちの遊び場になっていた。幼稚園の頃に、近所の小学生たちが神社でサッカーの真似事をして遊んでいるのを、仲間に入れて欲しいと憧れながら見ていた。小学校に上がると「オマケ」としてサッカーに加えてくれるようになり、僕はサッカーに夢中になった。神社の境内は狭いのでサッカーといっても練習程度しかできず、マンツーマンでボールを取り合ったり、一人で石壁にキックして遊ぶ毎日だった。

 小学校三年に上がった時に、学校のサッカー部に入部した。ボール・キープが上手で多彩な足技を持っている上に生まれつき敏捷だった僕は、めきめきと頭角を現し、小三なのに高学年の試合に出してもらえるようになった。勉強もできたのでクラスではスターだった。元々小柄なうえに三月生まれの僕は小一の時からずっとクラスで小さい方から三、四番目だったが、女子は誰でも僕の近くに来たがった。

 小五になると自他ともに認めるチームのエース・ストライカーになった。小柄で女の子のように優しい顔なのに、試合では他校からキラー・マシンのミルクと恐れられた。ミルクというのは僕の名前のカタカナ表記だ。本名は美瑠久だが字が難しいので、出場選手のリストには「みるく」とか「ミルク」などと書かれることが多かった。小六になってサッカー部のキャプテンになった時、美と瑠に重点を置いて「ビル」と呼ばせようとしたが、下級生しか従わなかった。その下級生さえ、一週間もすると「ミルクさん」に戻ってしまった。

 転機が訪れたのは小六の秋の県大会だった。僕たちのチームは順調に勝ち上がって準決勝に進んだ。その日のグラウンドは県営の球場だった。準決勝の相手は優勝候補の小学校で、小学生なのに派手で大人っぽい感じのプレイヤーが揃っていた。僕が前半終了五分前にヘッディングを決めた時、僕たちの小学校の応援団(六割が女子でその半分以上が僕の親衛隊だった)からワーッ、キャーッと歓声が上がった。

 僕はVサインをしてセンターラインまで下がったが相手がセンターサークルから蹴ったボールをめがけて相手のフォワードにアタックした時、太ももに熱いものが走る感触があった。前半の終了まではあと二分。僕は気にせずにプレーを続けたが、主審が笛を吹いてプレーをストップさせた。主審が近づいてきて「大丈夫か」と僕に聞いた。「別に……」と答えたが、主審が僕の脚の付け根の辺りを指さして「出血してるぞ」と言った。白のサッカーパンツの股の辺りが真っ赤に染まっていた。

 監督の先生が駆け寄った。僕は地面に寝かされて、先生がサッカーパンツを下げて中を覗いた。先生は「こりゃあ駄目だ」と言って、主審に「選手を交代します」と告げた。「先生、大丈夫です」と僕は言ったが強引に外に出された。試合は十人のままで再開し、間もなく前半が終わった。

 応援席から「美瑠久!」と叫ぶ心配そうな女子たちの声が掛けられる中、たまたま応援に来ていた保健室の女の先生が下りてきて駆け寄った。

「どこの怪我ですか? 救急車を呼びますか?」

「いや、救急ではありません。すみませんが先生が病院に連れて行って頂けますか?」

「分かりました。学校の近くの整形外科に連れて行けばよいですね」

「いえ、整形外科ではなく、泌尿器科か婦人科に」

「婦人科はないでしょう。この子は男の子ですよ」

 監督は女先生の耳元で短い説明をした。女先生の顔から血の気が引いた。女先生は僕のパンツを少し引き下げて中を見てから「本当ですね」とため息をついた。

「何も心配ないのよ。誰にでも起きることだから」

 先生は僕の肩を優しく抱いてくれて駐車場まで行った。先生の運転する車が隣の学区にある大きな婦人科病院の駐車場に入ったので僕は当惑した。それは僕たちサッカー部員が「ピンクの病院」と呼んでいる、病院らしくない外観の建物で、僕たちには一生無縁なはずの場所だった。

「先生、他の病院にしましょうよ。こんなところに男子が来たら変な目で見られますから」

 女先生は僕の言葉を無視して受付を済ませた。待合室に座っている人は例外なく全員が女性だった。

「先生、恥ずかしいです」
 僕は女先生ににじり寄って俯いていた。

 女先生は僕の耳元で言った。

「何も恥ずかしくないわよ。気が付かない? 誰もあなたのことを見ていないでしょう。そう思って鏡を見れば分かると思うけど、あなたの顔はとても女の子らしいわ。男の子みたいにショートカットにしたサッカー少女だと思われてるのよ」

 小さい時から親戚や近所の大人から女の子のように可愛い顔だと言われる度に傷ついてきた。サッカーを始めたのは自分の男らしさをアピールしたかったからかもしれない。先生に抗議しようかと思ったが、他人が僕を見てそう思うのなら、反論しても始まらない気がして思いとどまった。

「杉村美瑠久さん、四番の診察室にお入りください」

 女先生に付き添われて診察室に入った。小柄な若い女医が笑顔で僕に「こんにちわ、可愛いお名前ね」と言ってから仰向けにベッドに寝かされた。短パンとパンツを膝まで下ろされ、血が出ているらしい場所を冷たいガーゼのようなもので拭かれた。僕がベッドから首を少し起こして見ると、女医は右手に薄い手袋をはめてその付近の皮膚を押したり引っ張ったりして検査しているようだった。

「月経血ですね。外陰唇の入り口の外側の皮膚が巻き込まれるように癒着して陰嚢のように見えていたのが、初経がきっかけとなって一部剥離したのだと思います。少し広げてみましょう」

 短パンとパンツを脱いでM字に開脚するように言われた。

「ちょっと痛いかもしれないけど我慢してね」
 もうすぐ僕を襲うであろう激痛に備えて歯を食いしばった。

「サリチル酸ワセリン軟膏をお願い」
 女医はナースから受け取った軟膏を指につけて僕の傷口の部分に塗り込み、指を突っ込んで傷口を押し広げた。

「ギャーッ」という叫びを準備していたが、ヌルッと傷口が裂けた感触があった。「イテテ」という小さな声が出てきただけだった。脚の付け根に生暖かい感触がしたので恐る恐る首を持ち上げて見たところ、おちんちんの上下が数センチ縦に裂けてドロッとした赤黒い血が出ていた。腐ったような嫌な臭いがした。

「膣洗浄しておきましょうね」

 傷口を広げられ、その中に何度か液体を注入され、経験したことのない奇妙な感触をお腹の中に感じた。

「美瑠久ちゃん、最近オシッコをした時に、パンツが濡れたことはなかった?」
 誰にも言えずに内緒にしていたことを突然女医に言い当てられて顔が真っ赤になった。

「はい、朝起きてすぐオシッコをしたら、ちょろちょろとしか出なくて。それなのにパンツがビショビショになっていました」

「その後のオシッコはどうしたの?」

「パンツを濡らすのが怖かったので、大便のふりをして座ってしました」

「お尻全体が濡れてなかった?」

「はい……」

 女医は女先生に診察の結果を説明した。

「外陰唇の癒着は完全に剥がしました。クリトリスと外陰唇もきれいに分離させることが出来ました。肥大したクリトリスの中央に何らかの尿路が出来ていたものと考えられますが、本来の尿道口が解放されましたからもう大丈夫です。クリトリスは放置すれば徐々に小さくなって正常化する可能性がありますので、しばらく様子を見て、必要なら手術で小さくすればよろしいでしょう」

「つまり、診断結果としては……」

 女先生は女医の言葉を待った。

「現時点であえて病名を付けるとすれば陰核肥大ですが、大げさに考える必要はありません。それより初経を祝ってあげてください」

「ということは、半陰陽というか、いわゆるインターセックスなのですね」

「いえいえ。美瑠久さんには男性の要素は全くなくて、百%女性です。出生時に性別を誤認されていただけです。一応、確定診断のためにCTを撮って卵巣と子宮の状況を確認しておきましょう。少しお待ちいただくかもしれませんが」

 僕は二人の会話を唖然として聞いていた。要するに、僕は女子なのにガイインシンというものが癒着していたので、男子と間違えられていたのが、癒着が剥がれて「正常」に戻ったということのようだ。おチンチンと思っていたものは、放っておけば小さくなるだろうと言っていた。まさか、僕が女子だったなんて、冗談にしてはきつすぎる。でも、卵巣と子宮を確認すると言っていた。本当に卵巣と子宮が見つかったら女だということになるのだろうか……。

 CT検査室の前の長椅子に座って待っていた所に母が駆け付けた。母は僕の短パンが血で真っ赤になっているのを見て心配そうにしていたが、女先生から診察結果の説明を聞いて真っ青になった。母は検査室の近くのトイレに僕を連れて行ってパンツを引き下げた。

「本当だわ。美瑠久は女の子なのに息子だと思い込んでいたのね。気付かなくてごめん。母親失格だわ」

「お母さん、そんなこと言わないで。お母さんのせいじゃないよ」

「それより、こんな血だらけの短パンをはかせておけないわ。ナプキンもしておかないとね」

 検査室の前の長椅子に戻ってから、母は女先生に「近くに、しまむらがありましたから生理用ショーツと、着替えを買ってきます。ナプキンも買ってきますから、すみませんが留守の間よろしくお願いします」と言って、駐車場へ走った。

 しばらくして僕の順番が来た。僕は脱衣室で検査着に着替えてCTの台に横たわった。テレビで見たことのある大きな機械に乗せられて緊張したが、何事もなく検査は終わった。CTの部屋を出ると、母が着替え室で待っていて、生理用ナプキンを張り付けた生理用ショーツをはかされ、夏だというのにその上に毛糸のパンツをはかされた。それは脚が出る部分にフリルがついているピンク色のパンツで、僕は必死で抵抗したが「生理中はお尻を冷やしては駄目」と強引にはかされた。

 ピンクの毛糸のパンツをはいている姿は母に見られるのも恥ずかしかった。僕はとにかく毛糸のパンツを早く隠そうと短パンに足を通した。

「待ちなさい。新しい毛糸のパンツに血が付くじゃないの」

 母は脱衣かごの中の僕の衣類をポリ袋に入れて硬く縛った。

「これを着なさい」

 母から渡された赤い七分袖のシャツを着ると、首の後ろにボタンとリボンがついていることに気付いた。

「なんだよ、これ女物みたいだよ」

 僕が脱ごうとしてシャツの裾に手をかけると、と母は「それでいいのよ」と言って、僕の手を払いのけた。

「さあ、これをはくのよ」
 母に渡されたのは真っ赤なプリーツスカートだった。

「バ、バカ言わないでよ。こんなのはけるかよ」

「夏だけどお尻が冷えないように膝丈にしといたわ」

「お母さん、お願い。短パン返して」

 母に懇願したが「生理の時はスカートの方がいいの。これ、常識よ」と言って譲らない。

 その時、看護師さんが脱衣室を覗いて「次の患者さんから苦情が出ているので早く着替えを済ませて下さい」と叱られた。

「外で待ってるわよ」

 母は僕にスカートを押し付けて脱衣室の外に出てしまった。

 僕はやむを得ずそのスカートをはいて、右のホックを留めて脱衣室を出た。

 検査室の前の長椅子に座っていた母が駆け寄ってきた。

「バカじゃないの? スカートの前後が逆よ。ホックがあるのが左!」

 母は僕が履いているスカートをグルリと回した。僕はそれまで、スカートに前後があるとは知らなかった。

 検査室で言われた通り四番の診察室まで歩き、受付ボックスにフォルダーを置いて待合椅子に座った。女物のシャツにスカートという姿を人目に晒してしまった。もし知っている人に見られたらお終いだ。

 名前を呼ばれて母と一緒に診察室に入った。

「お子さんは健康そのものですからご心配はいりませんよ」
と女医は母を安心させた。女医はキーボードとマウスを起用に扱ってモニターにCTの画像を写しだし、断面画像を動かした。

「これが卵巣ですよ。そしてここが子宮、そしてこの子宮口から先が膣です。若くて健康な女性の身体のCTを見るのは楽しいですね。美瑠久ちゃん、ベッドに仰向けになってね。スカートをめくるわよ。あら、可愛い毛糸のパンツを買ってもらったのね。生理の時にはお腹を冷やさないことが大事よ」

 女医は僕の毛糸のパンツと生理用ショーツを足首まで下ろして、おチンチンの部分をむき出しにした。

「お母さん、こちらをご覧ください。少し赤くなっていますが、この部分がこういう風に癒着していたわけです」
 女医は両手の指で傷口の左右の皮膚を中央に引き寄せた。

「初経が引き金になってこの部分に剥離が生じて月経血が漏れたんです。既に剥離しやすい状態になっていましたので、薬品の助けを借りて剥離させ、外陰唇の内側、内陰唇から膣にかけて洗浄しておきました。肥大化していたクリトリスは既に委縮し始めているようですから、放置しておけば普通の大きさに戻る可能性が大ですので様子を見ましょう」

「手術はしないんですか? お薬は?」

「現状、やや陰核肥大ですが健康体です。薬は生理痛がひどくない限り不要です」

「この子の性別はどうなるのでしょうか」

「染色体検査の結果が出次第、診断書を書きますので、それを持って戸籍課に相談に行ってください。先ほど学校の先生からも質問を受けましたが、半陰陽ではなく、完全な女性の身体なのに、出生時に男性と誤認されたままになっているわけですから、早く訂正するのがお嬢さんのためだと思います」

 お嬢さん、と言われて頭をガーンと殴られた気がした。

「二週間後に経過をチェックしますので、予約を入れましょう。FISH法での染色体の検査結果が届くのに十日ほどかかりますので、その時に診断書を出せると思います」

 母は手帳を見ながら二週間後の診察の予約を取った。

「美瑠久ちゃん、おめでとう。今日から大人の女性になったのよ」

 女医さんにおめでとうと言われて反射的に「ありがとうございます」と答えたが、何もおめでたいことではなかった。僕は奈落の底に突き落とされた。

 帰りにスーパーで買い物をしたが、僕は助手席に座って待つことにした。まさかスカート姿でスーパーの中に入って行けるはずがない。

 外から顔を見られないように、リクライニングを倒して寝て待った。その時、窓をコンコンと叩く音がした。窓の外にはサッカー部の仲間が五人立って、覗き込んでいた。

「おい、美瑠久。窓を開けろ」

 暑いのを我慢して窓を閉めていたのに気づかれてしまったのだった。

「喜べ、一対ゼロで勝ったぞ。お前の入れた一点を守り切ったんだ。来週の土曜日は決勝だ。ところでお前、女だったんだってな。だからスカートをはいてるのか。監督から聞いたよ。決勝はお前抜きで戦うことになるだろうって」

 僕はリクライニングを起こして五人の仲間と顔を突き合わせた。皆、僕のスカートを興味深そうに見ている。

「病院で調べたけど健康だと言われたよ。何も悪いところは無いんだ。だから決勝は一緒に頑張ろうな」

「監督が言ってたけど大会規約で女子は出られないんだって。だから、お前の出番はもう無いよ。中学に入ってから女子サッカー部で頑張れ」

「そんな……」

「お前、今日が初めての月経なんだってな。この間、男子の特別授業で習ったやつだろ、初経とかいうアレだな。お赤飯を炊いてお祝いするんだろう。おめでとう」

 残りの四人の仲間が口を合わせて、「美瑠久、初経おめでとう」と言ったところを、駐車場に居たオバサンたちが聞いて笑っていた。僕は恥ずかしくて両手で顔を覆った。そこに母が帰って来た。

「あ、杉村君のお母さん。今日は杉村君が前半に得点した後に退場しましたが、その一点を守りきって決勝に進みました。それから、監督から聞きましたけど、初経、おめでとうございました」

「あら、皆さん知っていたのね。女の子になっても美瑠久と仲良くしてやってね」

 五人の仲間は「はい」と大きな声で答えて立ち去った。

「どうしよう、スカートをはいているところを見られちゃった」

「監督さんがしゃべったみたいね。前半に起きたことがハーフタイムに応援席の人たちに伝わったんだわ。インパクトのある話題だから、サッカーに来ていた人にはきっと全員伝わってるわよ。よかったじゃない、説明の手間が省けて。月曜日はスカートで登校しなさい」

「じょじょじょ、冗談じゃないよ」

 家に帰ると姉の美咲が僕を見て飛んできた。

「美瑠久、女の子になったのね。私、妹がもう一人欲しいと思っていたかったから丁度良かったわ」

「そうよ。美瑠久は女の子だったことが分かったのよ」

 母が真顔で言って僕が顔を真っ赤にして黙っていたので、美咲は、自分が言ったことが全くの的外れではなかったと悟った。美咲は僕のスカートをめくって毛糸のパンツと生理用のショーツを下ろし、ナプキンに血がついていることを確認した。

「う、うっそー。私とおんなじ! でも、クリトリスが少し大きすぎるんじゃないかな?」

「美咲、美瑠久の気持ちを考えて言葉を慎みなさい。美瑠久が泣きそうな顔をしてるじゃない。美瑠久のクリトリスはこれから段々腫れが引いて、普通の大きさになるから手術も必要ないとお医者さんが言ってたわよ」

 妹の美幸が二階から降りてきて驚いた様子で叫んだ。
「お兄ちゃんがスカートはいてる! 仮装大会か何かがあるの?」

「美瑠久は女の子だったことが分かったの。だからお兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんになったのよ」

「嫌だなあ。サッカー部のエースの美瑠久の妹だと自慢できなくなる」
と美幸はしょげていた。

「美瑠久、サッカー場から直接病院に行ったんでしょう。汗臭いからお風呂に入りなさい」

 僕はとぼとぼと浴室まで歩いて行ってスカート、毛糸のパンツとTシャツを脱ぎ、最後に生理用のショーツを脱いだ。また血がついていたナプキンをショーツから剥がして洗濯機の横のごみ箱に捨てた。お風呂を出たら新しいナプキンが必要だ。

「お母さーん」
と呼ぶと母が来た。

「あのね、ナプキンの新しいのはあるかな」
 小さな声で聞いた。

「美瑠久がお風呂に入っている間に持ってきておいてあげる。汚れたのはちゃんとトイレに捨てたの?」

「ううん、ここに捨てたけど」

「美瑠久、ナプキンを捨てて良いところは一ヶ所だけよ。それに、こうやって内側に丸めるの」

 母は厳しい顔をして叱るような口調で僕に言って、トイレの便座の後ろの黄色いプラスティックケースを指さした。以前からそのプラスティックケースの存在には気付いていたが、何の入れ物なのか今まで知らなかった。

 シャンプーをしてから、スポンジにボディーソープを付けて身体中を丁寧に洗った。昨日まで普通の男子だったのに、突然立ちしょんもできなくなった。おチンチンとはこんなものだと思い込んでいたし、他の男子のおチンチンと同じだと思っていた。癒着が剥離したらしいが、今はそのおチンチンは割れ目の間から洩れ出た小さな突起物になってしまって、見る影もない。これでは誰が見てもおチンチンとは呼べないのは確かだった。

 スポンジで胸を擦るときには注意が必要だった。ひと月ほど前から乳首をスポンジで擦るとチクチクしていた。乳首が一センチほど前に飛び出して、小さなトンガリ帽子を胸に伏せたような形になっている。前から押すと飛び上がるほど痛い。今日の試合でもボールを胸でトラップした時には痛みのため顔をしかめた。

 これはきっと月経と関係があるのに違いないと、本能的に感じた。おチンチンだったものが段々と萎むのと並行して、お乳が段々前に尖って来るのかもしれない。どうしよう、と焦りで胸が苦しくなる。姉の美咲の胸も母のように大きくなって、前にツンと突き出ている。ああ、僕も姉と同じような胸になってしまうんだ。絶望に襲われて涙が出た。泣きじゃくりながらシャワーをして浴室を出た。

 バスタオルで身体を拭くと、畳んだショーツの上に母が新しいナプキンを置いてくれていた。Tシャツを着て、毛糸のパンツとスカートをはいた。二階の僕の部屋に行くと、母がタンスから僕の衣類を全部出して、二つの大きいごみ袋が一杯になっていた。

「うちは三人娘になってしまったから男の子の服はもう要らないわ」

 母はそう言ってごみ袋の端を括り、階下に持って行ったが、すぐに段ボール箱を抱えて戻って来た。

「これは美咲には小さくなった服よ。美幸が大きくなる時のために取っておいたけど、早く役に立ってよかったわ」

 母は僕を立たせ、服を一つ一つ取り出してサイズをチェックしては僕のタンスに入れた。こんな女の子っぽいチャラチャラした服やひらひらのワンピースを、本気でこの僕に着せようというのだろうか。その段ボール箱が空っぽになると、もう一度階下の物置に段ボール箱を取りに行った。美咲がこんなに沢山洋服を持っていたとは驚いた。

「下着は明日一緒に買いに行こうね。昨日まで気が付かなかったけど、乳首が大分出て来てたのね。服が擦れると痛いでしょう。明日スポーツブラを買ってあげるわ」

「ブブブ、ブラだなんて……。ねえ、お母さん。学校にはしばらく僕の服を着て行って、皆の反応を見ながら少しずつ暖色系のシャツを増やしていきたいんだけど」

 いつも母のご機嫌を取るときの口調でねだってみた。

「もし美瑠久がお母さんの言うことを全部聞いて、月曜の朝まで良い子にしていたら、このキュロットをはくのを許してあげる。言うことを聞かない場合は、このミニのワンピースにするわよ」

「どっちにしてもスカートじゃないか」

「よくごらんなさい。股がズボンみたいになってるでしょう。これをキュロットというのよ」

「僕の目にはスカートにしか見えないよ……」

 ***

 夕方、父がゴルフから帰ってきて、「優勝したぞ、この商品を見ろ」と意気揚々とリビングルームに入って来た。美咲と美幸ともう一人スカートをはいた子がテレビを見ているのに気付いて、「お友達が来てたのか、いらっしゃい」と僕たちに向かって言った。母が台所から「ちょっと、あなた。大事な話があるから聞いてちょうだい」と父に声をかけた。父は「なんだ、大事な話って」と言いながら台所に行ったが、しばらくして「な、な、なにーっ!」と素っ頓狂な声を上げた。「あなた、落ち着いて」という母の声が聞こえた。

「ごはんよ」
 母の声を聞いて、僕たちはテレビのスイッチを切って食卓に座った。

 手を洗い終えた父が食卓のいつもの席にドシリと座った。僕は父の顔を見るのが怖くて下を向いていた。

 母がお茶碗にご飯をよそっていた。いつもなら父に真っ先に出すのに、今日はまず僕の目の前にお茶碗を置いてくれた。それは赤飯だった。全員のご飯が配られたのを見てから、父が「え、えへん」と咳払いした。

「今日は美瑠久に初経があったと聞いた。美瑠久が大人になった……いや、そのう、大人の女性になった目出度い日だ。家族一緒に心から祝おう。おめでとう、美瑠久」

 僕が女性になったという事実を父が平然と受け入れたことに驚いた。そして心から感謝した。

 こうして僕は杉村家の次女になった。


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新作「公園のオカマ」

「公園のオカマ」を出版しました。主人公は大学一年生の秋野ゆづる。大学の親友の有田が通学路にある公園で巨大なオカマを見たことが話の発端です。夏休み前のある日の早朝、同じオカマが公園の駐車場のハイエースに乗り込むのを見た有田は、そのオカマが公園の駐車場で車中泊していると考え、一緒に見に行こうと秋野を誘います。オカマを見るために早起きをすることには気乗り薄だった秋野でしたが、有田に説得されて、翌朝公園に行きます。有田の手違いのお陰で巨大なオカマに説教されることになった二人でしたが……。

発端は千葉県にある公園ですが、物語は福島県の天栄村、白河城、会津若松市、裏磐梯から米沢という南東北を舞台に展開します。

結構シリアスな面もある、リアル系TSエンターテインメント長編小説(約12万文字)をお楽しみください。



公園のオカマ

桜沢ゆう

 七月上旬の昼休み、いつものように有田とアマチュア無線研究会の部室で弁当を食べた。アマチュア無線研究会と言っても無線機があるわけではなく、免許も持っていない。部室を確保するために適当な名目で部を作っただけであり、僕と有田以外の部員は実質的に幽霊部員だった。

 有田小太郎は僕と同じ中学と高校を出て、この外語大に入学した親友だ。

 有田がふいに箸を置いて面白い話をし始めた。

「あ、忘れるところだった。今朝秋津公園でオカマを見たんだぞ」

「オカマなら高校のクラスにも一人いたよね」

「ああ、坂本のことか? あいつは確かにオネエっぽかったけど女子の制服を着て学校に来ていたわけじゃない。俺が見たのは本格的なオカマなんだ。スカートをはいて、ロン毛のかつらをつけて歩いているオッサンと、たった一メートルの距離ですれ違ったんだぞ」

「へえ、そうなんだ。オカマは毎日のようにテレビに出てくるけど、実物は見たことがないな。ゴツイ身体のオバサンじゃなくて、本当にオカマだったのか?」

「百八十センチ以上はある四十がらみのがっしりとした男がワンピース姿でハイヒールを履いて歩いていたんだぞ。誰が見ても一目でオカマだと分かるよ。こんな風に胸を突き出して歩いていたんだ。Gカップはある超デカパイだった」

「百八十でGカップというと、某国大統領の娘を思い起こさせるな」

「秋野は女性のサイズについて全くの無知だな。彼女がGカップというのはガセだ。俺が得た信頼できる情報によると、アンダーバストが七十四、トップバストが九十一・五のDカップだ。公園のオカマは俺の見立てではアンダーバストが九十五、トップバストが百二十のGカップだ。同じ百八十センチでも象とキリンほどに異なるのだよ、キミ」

「へえ、そうなんだ。詳しいんだね!」

「ボディーサイズの話はどうでもいいが、あのオカマの胸は明らかに作り物だった」

「豊胸してるってこと?」

「ブラジャーの中に発泡スチロールの三角錐を入れてる感じというか、全然ユラユラしなくて、胸に固定されている感じだった」

「へえ、よく見てるな。今度見つけたら写真を撮って見せてくれよ」

「よし、スマホに無音カメラのアプリをインストールしておこう」

 オカマの話はそれで終わり、有田との会話の話題には登らなくなった。

 しばらくして、夏休み直前の昼休みに「またオカマを見た」と有田が自慢話を始めた。

「今朝八時ごろに、また同じオカマを見たぞ。通学路の秋津公園の遊歩道に入ったら、あいつがコンビニの袋を持って何十メートルか前を歩いていた。俺は足を速めて距離を詰めたんだが、やつは遊歩道から木立を抜けて駐車場に入っていったんだ。俺は無音カメラのアプリを立ち上げて、気づかれないように後を追った。やつは駐車場の隅のワゴン車のドアを開けて入って行った。これがその写真だ」

 有田は自慢げにスマホを見せた。

「メタリックグレーのハイエースだな。オカマは映っていないじゃないか」

「シャッターを切る前にドアが閉まってしまったから……」

「なんだ、自動車の写真だけでは面白くも何ともないよ」

「じゃあ、明日、実物を見せてやろう」

「どうやって? そのオカマが何日の何時に公園のどの場所に現れるのか、分かるはずがないだろう」

「いいや、多分あいつは秋津公園に住んでいるんじゃないかと思うんだ。ハイエースを改造してキャンピングカーとして使っている人は多いらしい。今朝は公園の駐車場で目を覚まして、コンビニに朝ご飯を買いに行って帰ってきたところだったんじゃないかな」

「明日の朝早く駐車場に行けば見られるってこと?」

「その通りだ。土、日と駐車場でゆっくりするんじゃないかな。七時四十五分に公園の秋津交差点側の入り口に集合しよう」

 土曜日に早起きしてまでオカマを見に行きたいとは思わなかったが、もう有田がその気になっていたので仕方なく応じた。

 ***

 七月二十二日の土曜日の朝、七時四十五分に公園の南東入口で有田と落ち会った。早朝なのに木立の間から夏の太陽が頬を差す。公園内の歩道を野球場に向かって歩く。ずっと向こうに犬を散歩させている女性が歩いている他には、人影は見当たらなかった。

「あいつはここから駐車場に入って行ったんだ」
と有田は木立の間を指さした。歩道から木立の間を通れば駐車場に行けそうだ。

 広い駐車場には二台の自動車があるだけだった。有田のスマホの写真で見たのと同じメタリックシルバーのハイエースが左の奥に停まっている。

「この公園は夕方五時から翌朝まで駐車場が閉鎖されているんだ。オカマの車とあそこにある白いワゴン車が昨日の夜から停まっていたということだな」

 その時、ハイエースのドアが開くのが見えた。

「出てくるぞ! 隠れろ!」
と有田が言って右手前に停まっている白いワゴン車の後ろまで走って隠れた。白いワゴン車の陰からオカマの行方をうかがった。

 その人物が女性ではないことはひと目で分かった。白地に黄色い模様のあるニットのワンピースは膝上十五センチの短さで、胸は普通ならあり得ないほど前に突き出ていた。背中までの長さの栗毛の髪は不自然に細くてつややかだった。大柄なしっかりとした体躯とは余りにも不似合いで、誰の目にもかつらだと分かる。

「女装というより『オカマ装』と言う方が適切だろうな。もっと女性らしい服装にすればいいのに」

「それにしても大柄なオカマだな」

 僕たちがささやき合っているうちに、オカマは木立の間を通って歩道へと歩いて行った。

「すごいものを見させてもらったよ。さて、これからどうする? 新習志野駅のモールにでも行こうか?」

「何言ってんだ? 折角のチャンスなんだから、探検しよう」
と言って有田はハイエースの方へと歩いて行った。

「あいつはドアをロックしなかったぞ。車の中がどうなっているのか覗いてみよう」

「バカなことをするな! あのオカマが帰ってきたら泥棒と思われるぞ!」

「ここから一番近いコンビニは湾岸道路を越えたところにあるファミマだから、往復するのに十分はかかる。急ごう!」

「それはマズイよ、有田君。やめとこうよ……」

 僕が引き留めるのを無視して有田はハイエースまで歩いて行ってサイドドアのノブに手をかけた。

 有田の予想通りドアは開いた。有田はハイエースの中に足を踏み入れた。

「やめようよ、マズイよ……」

「男だろう! 一緒に来い!」
 有田に引っ張り込まれた。

「ドアを開けたままでは目立つ」
と言って有田はドアを閉めた。

 ハイエースの後部半分は、腰の高さのベッドになっていた。その下が収納スペースのようだ。サイドドアの前は、いわゆるリビングスペースで、座って食事できるようになっている。

「一人なら快適に住めそうだな」
と有田がくつろいだ様子で腰を下ろした。

「もうオカマが戻って来るかもしれないよ。早く出ようよ」

「まだやっと歩道橋に差し掛かったぐらいさ。勇気が無いやつだな」

「悪いけど、僕、先に行くからね」
と言ってドアを開けた。

 目の前にデカいオカマが立っていた。
「誰だ、お前たち!」
と男声で一括されて僕たちはすくみ上った。

「すみません、ちょっと覗いてみただけなんです」

「他人の車に乗り込んで『覗いてみただけ』だと? 警察で話を聞こうか」

「だからイヤだって言っただろう、有田君!」

「有田君というのか。朝、あの辺りですれ違った記憶がある顔だ」
とオカマは歩道を指さした。

「キミたちが下着泥棒だったんだな。先週車の中に干してあった私のブラジャーとショーツを盗ったのは有田君、キミだったんだな?」

「違います、誤解です! オカマの下着なんか触りたくもありません」

「学生のようだから警察に言う前に、学校に届けた方が良さそうだな。キミたちは高校生か? 大学生なのか?」

 僕はオカマの横をすり抜けて逃げようかと隙をうかがった。

「逃げても無駄だ。車内の様子は録画してある。動画をユーチューブにアップロードした上で警察に届ければ、すぐに身元がバレて捕まるぞ」

 オカマは僕を有田の横へと押し込み、ドアを閉めて僕たちの正面にデンと座った。有田はオロオロして泣きそうな顔をしている。

 僕たち二人の写真がテレビに出て、僕の好きな女子アナの夏目三久さんが「これがオカマの下着を狙った外語大生です」と言うシーンが頭に浮かんだ。

「警察に行く前に反省の言葉があれば聞いておこう。何が目的で侵入したんだ?」

「すみませんでした。大柄なお姉さんが早朝におめかしして駐車場から出てくるのを二度見かけたので、車の中で一人暮らししてるのかな、と興味が湧いて、中を探ってみたんです。つい出来心で……。でも、中のものを盗るつもりは全くありませんでした。下着泥棒は僕たちじゃありません」

「分かった。じゃあ、もう一人のキミは? まず名前を言いなさい」

「はい、秋野夕鶴(ゆづる)と申します。有田君からオカマを見たと聞いて、見に行こうと誘われたからついてきました。僕、テレビでしかオカマを見たことがなかったので、つい……。僕は車の中をのぞくのは嫌だったんですけど、無理やり引っ張り込まれてしまいました。怖いもの見たさで来てしまいましたけど、僕はオカマには全く興味ないんです。お願いです、許してください」

「面と向かってオカマと呼ばれるのが、オカマ本人に乗ってどれほど傷つくか全然分かってないんだな。学生が悪気なしに侵入したというのが真相のようだから今回は放免しようかなと思っていたけど、やっぱり許すのはやめておく。言うに事欠いて怖いもの見たさとか、全然興味ないとか、プライドをズタズタにされた」

「秋野、お前って本当にデリカシーが無いんだから」

「ごめんなさい……。お姉さんも、ファッションを工夫したら少しは女らしく見えると思うんですよね。昼間出歩くのは無理でも、暗い夜道だけを歩くようにすれば、目の悪い人なら女だと思い込む人も居るはずです。オッパイは今の半分以下の大きさにすべきだし、スカートも普通の女性がはいているようなものにした方がいいですよ」

「自分ではうまく化けたつもりだったのに、私の外観はそれほどひどかったのか……。それにしても女性のファッションに詳しそうだな。秋野君も女装して生活したことがあるのか?」

「まさか! 僕は姉と妹にはさまれて育ちましたから、女性の日常生活について、オカマのお姉さんよりは詳しいだけです」

「オカマと呼ぶのはやめてくれ。私は坂詰勇人、女性名は遥という。遥姐さんとでも呼んでくれ」

「じゃあ、遥姐さん、どうすれば僕たちを許していただけるんでしょうか?」

「君たちの夏休みはいつからいつまでだ?」

「来週の水曜日から、九月十六日までですけど」

「そうか、ちょうどいい。火曜日に学校が終わったらここに集合してくれ。午後五時にここを出発する」

「どこに行くんですか?」

「東北方面だ。実は私は小説家で、全国各地を転々としてその土地の風土や人間と触れ合うことによって、小説の構想を温めているんだ。火曜日の夜、北に向けて出発し、行けるところまで行って道の駅で車中泊する予定だ」

「この車の中で三人も寝られます?」

「多少窮屈かもしれないが運転席と助手席に横長のマットを敷いて一人が寝て、後部のベッドで二人が寝ることになる」

「へえ、結構面白い冒険旅行になるかもしれませんね。でも、僕たちはひと月半もの間何をすればいいんですか?」

「私の話し相手になってくれ。秋野君には女らしく見せるための着こなしなどをアドバイスして欲しい。それに、行く先々でアルバイトをすればいい」

「分かりました。その前に確認ですが、仰る通りに車中泊旅行について行きさえすれば、オカマの車に無断で入ったことは無かったことにしてくれるんですね?」

「水に流してあげよう。但し、今後私をオカマと呼ぶたびに罰金千円を徴収するぞ」

「十回で一万円ですか、そんなには払えませんよ。一回百円にしてください」

「うぅん……。よし、百円でいいだろう」

 遥姐さんとLINEの友達登録をして有田と僕は解放され、二人で新習志野のマクドナルドに行ってソーセージマフィンのセットを食べた。

「今日は本当に危ないところだったな」

「そりゃあ、他人の自動車に勝手に入ったらマズいよ。だから止めたのに」

「秋野があいつの前で俺の名前を呼ばなかったら逃げられたんだぞ」

「車内に侵入したところを動画に撮られたんだよ。名前が分からなくても警察に届けられたら、僕たちはずっと逃げ隠れしなきゃならないことになる」

「車内にカメラなんて見当たらなかったよ。あれはきっとハッタリだ」

「でも、夏休みに冒険旅行に連れて行ってもらえることになってラッキーだったじゃないか。棚からぼたもちってところだね」

「それを言うなら『災い転じて福となす』だろう。でも、俺は行きたくないよ。冬休みにスキーに行くためにバイトをして貯金するつもりだったんだから」

「いまさらそんなことを言い出しても、遥姐さんに行くって約束したんだから、もう遅いよ」

「うぅん……、イヤだなあ」

 マクドナルドを出て別れた時も有田は歯切れが悪かった。今日はどう考えても有田のせいでトラブルに巻き込まれ、僕はとばっちりを受けただけだ。別れた後で有田の態度を思い出して腹が立った。


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新作「白馬の騎士」出版のお知らせ

桜沢ゆうの新作「白馬の騎士」がAmazonで出版されました。「白馬の騎士」は性転のへきれきシリーズ初のスリラー・サスペンス小説です。

主人公は東京都内の会社に勤務する新入社員ですが、その会社が検査データ書き換えスキャンダルで大規模なリストラに追い込まれ、主人公は退職届を出します。ヤケ酒を飲みたくて錦糸町をぶらぶらしていたところ「税サ込み四千円ぽっきりで女の子と話ができるよ」という呼び込み引っかかります。飲み終えた彼は二十五万円の請求書を突き付けられてびっくり。身ぐるみ剥がされた挙句わずかな預金を下ろさせようとATMに引っ張って行かれそうになった主人公は店長の股間に膝蹴りを食わせて逃走。しかしすぐに取り押さえられて「失玉の危機」に瀕します。そこに現れた「白馬の騎士」が主人公を救ってくれるのですが、主人公の運命はどうなるのでしょうか。

主人公を襲い続ける荒波は徐々に高さを増し、主人公は徐々に絶望と恍惚の世界に追い込まれていきます。読後感が長引く長編リアル系TSエンターテインメント小説「白馬の騎士」は、スリラー、ホラーのカテゴリーで出版されました。



白馬の騎士

by 桜沢ゆう

 

第一章 絶体絶命の危機

「に、に、に、にじゅうごまんえん!!」

 勘定書きを見て酔いが一気に醒めた。

「冗談はやめてください。心臓に悪いですよ」

 どう反応すればいいのか判断がつかず、とりあえずそう言ったが、店長らしい男性の目は笑っていなかった。

「お客さん、楽しんだ分は払ってもらわないと」

「一時間四千円ぽっきりと言ってたじゃないですか!」

「誰がそんなことを言ったの?」

「階段の下で立っていたこの店の若い男の人ですよ。『税込みですか?』と聞いたら『税サ込み込みです』と言うから、『本当に税サ込みで四千円ぽっきりなんですね?』とくれぐれも念を押した上でこの店に入ったんですから!」

「ハア? うちの店は客引きなんてしていないよ。ヨソの店の店員に言われたことをお客さんが勝手に勘違いしたんじゃないの?」

「絶対にこの店の人ですよ。二階の入り口まで案内してくれて、そこのドアを開けてくれましたから」

「お客さん、妙な言いがかりをつけられては困るな。『墨田区客引き行為等の防止に関する条例』が去年の暮れに改正になって、客引き行為をすること自体が違法になったんだよ。うちの店が違法行為をしていると言いがかりをつけるからにはそれなりの覚悟があるんだろうな?」

――ひっかかってしまった……。

 ぼったくりバーのことはテレビで見て知っていたし、以前歌舞伎町を通った時に客引きにはついていくなという警告放送を聞いたこともあった。上司に連れられてこの辺りの飲み屋に来たことはあったが、元々アルコールは弱い方だし、一人でバーに入るのは今日が初めてだった。

 こんなところに来たくて来たわけではなかった。ヤケ酒を飲みたい気持ちで歩いていたら四千円ぽっきりで女の子と話ができると言われて、ついふらふらっと入っただけだ。

 四月に入社したばかりだが、製造部門での検査データ書き換えが明るみに出て、会社はあっという間に倒産の危機に直面する状況になった。中高年を対象とした肩たたきが始まったことは社内のうわさで聞いていたが、金曜日に課長から会議室に呼び出されて「今のキミならどこにでも再就職できるよ」と言われた。

「うちの部は、あと一人退職者が出れば当面のノルマが達成できるんだ。といっても、キミに退職を迫っているのではないから誤解しないでくれよ」と言われて会議室を出たが、自分は期待されていない人材であると思い知らされた。四晩悩んだ挙句、今日退職届を出したのだ。

「今、いくら持っているの?」

 僕は財布を出して中味を示した。
「一万四千円です」

「なんだ、クレジットカードを持ってるんじゃないか。限度額はいくら?」

「二十万円ですけど、新しいスマホを買うのに五万六千円使ったばかりです」

「それなら十四万円引き落とさせてもらおうか」

 店長は僕の財布からクレジットカードを抜きだしてカードリーダーに差し込み、金額を打ち込んで僕に暗証番号のインプットを迫った。

 銀行預金の残高と、もうすぐ振り込まれる予定の給与の日割り分にわずかな退職金を合わせると、クレジットカードで二十万円の引き落としがあっても大丈夫だ。でも、来月のアパートの家賃の引き落としの時点でピンチになる。

 相手は大男であり腕力で勝ち目はない。あの客引きの男がこの店の従業員でなかったと言われれば、僕の方に歩は無さそうだ。

「お金を払えないんだったら、警察を呼んで、親御さんに払ってもらうことになるよ」

「いえ、それは困ります」

 僕はとっさに暗証番号を入力してしまったが、すぐにそれを後悔した。高校生でもないのに警察と親を呼ぶと脅されてビビるとはバカだった。警察を呼びたいのは僕の方だ。

 数秒後に店長は笑みを浮かべて端末からカードを抜き取った。僕はカードを取り戻そうと手を出したが、店長は「そうはいかないよ」と言ってカードを引っ込めた。

「本当に限度額は二十万円なの? 普通は三十万円だろう?」
 店長はクレジットカードを端末に差し直し、十万円と入力した。僕がさきほど打ち込んだ暗証番号を盗み見して覚えていたらしく、店長は勝手に四桁の番号を入力した。

「蹴られたよ。限度額は本当に二十万ぽっきりだったんだな」
 店長はクレジットカードを僕の財布に戻し、キャッシュカードを取り出した。

「合計で十五万四千円を払ってもらったから、残高は九万六千円だな。さあ、これからATMに行って引き出してもらおう」

「勘弁してくださいよ。預金残高は六万円前後しかないですし、もし引き出したら、クレジットカードが引き落としできなくなります」

「それはお客さんとクレジットカード会社の間の問題であって、うちの店には関係ないんだよ」
と言って、店長は僕の財布を自分のポケットに入れた。

 相手は何枚も上手だと痛感した。

「そのスマホ、買ったばかりだと言ったね? ちょっと見せてもらおうか」

 店長はクレジットカードと同じ暗証番号を使ってスマホを開いた。別の番号にすればよかったと後悔したが後の祭りだった。

「最新鋭のアンドロイドか。この機種ならヤフオクで四万円以上で売れそうだな」

「待ってください。スマホを取られたら何もできなくなります!」

「九万六千円をATMで引き出してくれたらその場で返すよ」

 僕は手首を強く掴まれて引きずられるようにして店を出た。

 カードの引き落としの日に残高が足りなかったら銀行から電話が入るはずだ。もしその時点で返すあてがなかった場合、僕は何と答えればいいんだろうか? スマホが無いと銀行からの電話を受けることさえできない……。僕は極度に混乱していた。

 階段を下りたところには、あの客引きの男が立っていた。僕は頭に血がのぼった。

「あの男に四千円ぽっきりと言われたんだ!」
 僕は大声で叫んで、その若い男を問い詰めに行こうとしたが、僕の右手をつかんでいる店長の力には敵わなかった。

 僕は周囲に聞こえるように大声で叫んだ。

「離せ! あの男はお前の店の客引きだろう! 僕はあいつに四千円ぽっきりと騙されてお前の店に引っ張り込まれたんだ!」

 言い終わらないうちに男は右手で僕の顎を掴んで口を塞いだ。僕はとっさに右ひざを男の股間に食らわせた。男が「ううっ」と言って手を離した隙に僕は男を突き飛ばし、走って逃げた。細い道を曲がって十メートルほど進んだところで、追いかけて来た若い男に肩をつかまれて路上に転がされた。

「お前が僕を騙して客引きしたんだ。客引きすること自体が違法だと知らないのか!」
 僕は地面に腰を付いたまま、さっき教えられたばかりの条例を持ちだして若い男を罵った。

「騙して客引きしただと? 証拠でもあるのか?」

 立ち上がろうとした僕はスネを横から足で払われて地面に倒れた。

「くそーっ」
 悔しいがどうにもならない。相手の方が二回り大きく、強そうだった。僕はこの種の格闘には自信が無い。殴り合いのケンカをしたのは小学校五年の時が最後だった。あの時は、姉と組み合ってケンカしていたら、姉が机の角に自分の手をぶつけて血を出した。父にこっぴどく叱られて、今後一切人に暴力を振るわないと約束させられた。先に手を出したのは姉の方だったし、姉は僕を殴ろうとした手を振り上げた時に勝手に机の角にぶつけたのに……。でも、僕は反論せずに謝ったので、後で姉が急に優しくなり、それ以来姉とは大の仲良しだ。

 地面に手をついて若い男の顔を見上げた時、恐ろしい光景が目に入った。僕が股間を蹴り上げた店長が、ゆっくりと僕の方に歩いて来る姿だった。

――殺される。

 若い男は僕の髪の毛を手でつかんで立たせ、背後に回って僕の両肘に腕を絡ませた。僕は身動きが取れない状態で、大男の店長と向き合う形になった。

「大事なものを潰されると困るんだよな」
と店長は言って、右手を僕の股間に差し込み、僕のモノをギュッと掴んだ。

「ギャー、許して! ゴメンナサイ!」

 言葉に言い表せない痛みに襲われて、僕は叫んだ。

「お客さん、自分がしたことには責任を取ってもらうよ。二つの玉とはお別れと思った方がいいな」

「それだけは許して! もう二度としませんから勘弁してください」

「お客さんなら、玉を取ってしまえば、いい働き口を世話してあげられるよ。九万六千円と、俺の玉が潰れそうになった見舞い金も働いて返してもらわないとな」

「それって、まさか……」

「そういうことさ。お客さんの場合は玉が無くなった方が楽な人生が送れるんじゃないの?」

「ご冗談を!」

「さあ、来るんだ!」

 絶体絶命だった。

「助けてえ!」
と大声で叫ぼうと息を吸った瞬間、若い男に口を押さえられた。

 店長が僕の大事なものをグッと握りなおしたので、僕は痛みのあまり気が遠くなりそうだった。

「潰さないで、お願い……」
 頭から抜けるような高い声で懇願したが、力が入らなかった。

「いててててててっ!」

 店長が声を上げて、僕の股間から手を離した。

「何するんだっ!」

「穏やかじゃないですね。嫌がってるじゃないですか」

 店長と同じぐらい大柄な五十絡みの男性が、店長の手首を掴んでいた。いい身なりをした紳士だった。

「こいつが代金を払わずに逃げようとしたんだ。俺の股間を蹴り上げて逃げたから、どんなに痛かったかを教えてやっているだけさ」

「代金はいくらだったんですか?」

「二十五万円だ」

 紳士は背広のポケットから大きな厚い財布を取り出し、店長に札束を手渡した。

「これで手を打ってもらおう」

 店長は札束を数えた。

「五十万か、まあいいだろう。おい、ゲン、行くぞ」

 ゲンと呼ばれた若い客引きは僕の肩を掴んでいた手を離した。

 店長とゲンが立ち去り、僕は絶体絶命の危機から解放された。

「あなたは僕の命の恩人です。本当にありがとうございました」

「ぼったくりバーに引っかかったんだね」

「四千円ぽっきりと言われて入ったら、二十五万円も請求されました。現金とクレジットカードの枠で十五万四千円払ったから、残りは九万六千円なんですよ。五十万も渡すことなかったのに……」

「金額の問題じゃない。こういう場合は後腐れが無いようにするのが大事なんだ」

「買ったばかりのスマホを取り上げられて、キャッシュカードで九万六千円を引き出したらスマホを返すと言われました。一緒に店を出たところで、僕をだました客引きを見つけて頭に来たんです。アッ、どうしよう! まだ財布もスマホを返してもらっていませんでした。一緒に店まで行っていただけませんか?」

「スマホなんて金を出せば買えるし、ちゃんとしたメーカーのスマホならメーカーからロックを掛けたり初期化してデータを消すこともできる。カード類は紛失届を出せばいい」

「でも、スマホが無いと、僕、何もできません。現金は全部取られたし、クレジットカードも限度額一杯使われてしまったし、キャッシュカードもアパートのカードキーも財布の中です。やっぱり店に行って返してもらわないと……」

「銀行口座の残高は?」

「六万円ちょいです。もうすぐ会社から給料と退職金の合計で二十数万円入金する予定ですけど」

「退職金? 会社を辞めたのか?」

「今日退職届を出したんです」

「それで四千円ぽっきりで憂さ晴らしをしようとして身ぐるみ剥がれ、玉まで取られそうになったというわけか、アハハハ」

「笑い事じゃないですよ。僕の身にもなってください。一文無しでアパートにも帰れないんですよ!」

「五体満足で何よりだったじゃないか。この辺には二度と近寄らないようにするんだよ。ああいう人種は、股間を蹴り上げられた恨みを簡単に忘れるものじゃない。今度キミを見つけたら、飛んで火にいる夏の虫とばかりに仕返しをするだろう。その時には玉がついたまま家に帰るのは無理だと思った方がいい。キミの場合は玉を潰されるだけでは済まないかもしれない」

「そう言えば、玉を取って働き口を世話するみたいなことを言われました」

「あいつらがキミを見たら当然思いつくことだ」

「どうしましょう。カード情報を取られたし、スマホを見ればアパートや実家の住所も交友関係もすぐにわかります」

「スマホは暗証番号なしで開けるのか?」

「クレジットカードの暗証番号と同じなので、もうあの店長にスマホの中を見られました」

「当分アパートには帰らないことだな」

「僕はどうしたらいいんでしょうか……」

「ほとぼりが冷めるまで私の家に泊まればいい」

「本当ですか!」

「困ったときはお互い様だ」

「あなたは本当に僕の命の恩人です! まるで、白馬に乗って現れた王子様みたいです!」

「おいおい、白馬の王子様とは女性が若いイケメン男性を指して言う言葉だぞ。それを言うなら白馬の騎士、ホワイト・ナイトと言うべきだろう、アハハハ」

 紳士は大通りに出てタクシーを拾った。タクシーが紳士の自宅に着いたのは午後十一時過ぎだった。



 それはタイル壁に鉄格子の門のある邸宅だった。西郷竜太郎という表札を見て、紳士の名前を知った。玄関のドアを鍵で開けて入ると玄関ホールの灯りがついた。

「ユキコ、ただいま」
 西郷が言ったが返事はなかった。

「突然こんな時間に他人を連れて帰ったら奥さまに叱られません?」

「ユキコは、決して私に腹を立てることはない」

「でも、僕がしばらく居候すると知ったら、さすがの奥さんも怒るのでは……」

「ユキコは去年の暮れに旅に出たんだ」

「長いご旅行ですね。海外ですか?」

 西郷は目を閉じ、数秒後に憂いを湛えた口調で言った。
「天国へと旅立ったんだ」

 僕には返すべき言葉が見つからなかった。

「キミのように元気で屈託のない人が居れば心が晴れる。気兼ねせずにゆっくりしてくれ」

 玄関ホールの右側の扉を開けると、そこは広いリビングルームだった。西郷は背広を脱いでハンガーに掛けた。

「家内が死んでしばらくは帰宅して背広を脱ぐと床に置いたままだった。ハンガーに掛けるだけの心の余裕が出てきたのはつい最近の事だ。この家のごく一部分を使ってひっそりと暮らす毎日なんだよ……」

「広そうなおうちですね。全部で何部屋あるんですか?」

「一階はリビングルーム、キッチン、応接室、客間、浴室と納戸、二階には夫婦の寝室、私の書斎、家内の部屋、クローゼット、浴室がある。三階はアティックで、地下には物置があるが何年も使ったことが無い。トイレは各階にある」

「すごい豪邸ですね! うらやましい!」

「何がうらやましいものか。ごく一部だけを使って暮らしているが、家内が死んでから一度も掃除していない部屋が殆どだ」

「じゃあ、泊めていただくお礼に僕が掃除します」

「それは助かる。さあ、今夜は風呂に入ってゆっくりとくつろぎなさい。私は二階の浴室を使うから、キミは一階で風呂に入ればいい」

 西郷はキッチンから廊下を隔てた側にある一角に僕を案内した。一人暮らしには大きすぎるドラム式の全自動洗濯機、広々とした洗面所、浴室とトイレのドアがある空間だった。

「着替えを出しておいてあげるから、洗濯物はその洗濯機の中に入れておきなさい」
と言って西郷は立ち去った。

 背広とズボンを脱いで脱衣かごに入れた。背広には泥がついており、ズボンのお尻が擦り切れていた。若い男に路上に転がされた時のものだろう。カッターシャツと下着のシャツ、パンツと靴下は西郷に言われた通り洗濯機に入れた。

 浴室は二、三人が一緒に入れるほど広く、洋式の浴槽は大柄な西郷でもゆったりと寝られそうなほど長い。僕なら入浴中に居眠りすると溺れてしまいそうだった。膝とお尻に擦り傷ができてヒリヒリしていたし、店長につかまれた玉が、まだ腫れている感じで痛かった。血管が切れたり捻れたりして、玉がダメになっていないかと心配になった。

 普段より時間をかけてシャンプーとリンスをして湯船に浸かると、緊張が解けてきた。

 激動の一日だった。退職届を出し、初めて一人でバーに行き、ぼったくられ、逃げて捕まえられて、玉を潰されそうになったところを西郷に助けられた。一歩間違えれば男に身体を売る身分にまで転落していたかもしれなかった。

 タオルを絞って身体を拭き、風呂を出ると脱衣かごに入れた背広とズボンはどこかに片付けられ、代わりにパジャマとパンツが置いてあった。女物だった。亡くなった奥さんのものなのだろう。

 女物のパンツをはくことには抵抗があったが、立場上文句は言えない。西郷がトランクス派かブリーフ派かは知らないが、いずれにしても僕には大きすぎて着心地が悪いに決まっている。長袖のパジャマはちぢみの白地に赤い水玉模様で、ズボンはすね丈だった。普段とは左右が逆のボタンを左手で掛けるのに手間取った。

 洗面所の鏡で見ると、まるで女性のように見えた。

 リビングルームに行くと、西郷はソファーに座ってビールを飲んでいた。西郷は僕が入って来る姿を鑑賞するように見た。

「やはりサイズはちょうどいいようだな」

 女物を出したことについて西郷が「私のでは大き過ぎるから」と説明するだろうと予想していたが、西郷がそのことに触れなかったので僕はほっとした。女物を着るのは初めてだとか、着心地が微妙に違うとか、僕の方から言い訳をする羽目にならなくて済んだ。

「キミも飲みなさい」

 ソファーの前のガラステーブルには僕の分のグラスも置いてあって、西郷がビールを注いで渡してくれた。僕はグラスを上げて「今日は本当にありがとうございました」と改めて礼を言ってから口をつけた。

「そういえばまだ名前を聞いていなかったな」

「あ、失礼いたしました。保科流宇(るう)と申します。るうは流れるに宇宙の宇と書きます」

「流宇という名前の人に会うのは初めてだ。いい名前だね! キミにピタリだ」

「ありがとうございます!」

「しかし、どう考えても女性の名前だが……」

「とんでもない! ルウはルイスやルーカスの略称で、アメリカ人が聞いたら誰でも男性だと分かる名前だと教えられました」

「それは知っているよ。私のビジネス・フレンドにもルウ・ジョンストンという人がいる。でも漢字で流宇と書けばまず女性だ。他の人からも言われたことがあるだろう」

「まあ、時々間違えられます。大学の夏休みにバイトに行ったら、名簿を見て女子の仕事を割り当てられていて、女子の制服を渡されて焦ったことがありました」

「それで、キミは女子の制服を着て働いたのかね?」

「まさか! バイト先の人から冗談半分でそう言われたんですけど、絶対にイヤだと断って、私服のまま働きました。仕事の割り当ては女子のままでしたから、僕以外は全員女子という六人のグループで一ヶ月ほど仕事が出来て、最高の思い出になりました」

「人の一生は名前に左右されると言われるがその通りかもしれないな。西郷竜太郎として生まれ育った私は、身体もデカいし、性別が揺らぐような経験は一切したことがない。キミは今日もニューハーフヘルスとかに売り飛ばされる寸前だったじゃないか。あの男たちがカードやスマホに表示された流宇という名前を見なければ、そんな過激なアイデアを思い付かなかったかもしれない。キミの顔や体格による部分も大きかったのだろうが」

「男らしい名前に改名した方がいいですかね? 流之介とか……」

「それはやめた方がいい。流宇として生まれ育って、流宇といういい感じの人物像が出来上がっている。そのままにしておくことだ。さあ、明日からは会社に行かなくていいんだから、グッと飲んでリラックスしなさい」

 西郷は話し上手で、聞き上手、そして飲ませ上手だった。僕は家族のことから好きな女優に到るまで聞かれるままに話した。まるで合コンのような雰囲気だった。

 僕はつい自分の限度以上に飲み、気持ちよくなってうとうとしているうちに眠ってしまった。


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新作「三つの願い」

新作「三つの願い」がAmazon KDPから出版されました。

主人公は外資兼保険会社の入社二年目社員で、彼女のいない冴えない感じの男性です。

テレビでお笑いコンビが「三つの願い」というネタをやっているのを見て、もし神さまが自分の前に現れて三つの願いをする機会を与えられたらどんな願いを言うべきかということを考えました。

彼は即座に考えをまとめることができました。「長身のイケメンになって、いつも女の子が自分の周りに群がるようになってほしい」という単純な願いです。

そして、ある日、ひょんなことから彼は三つの願いを唱える機会を与えられることになります。

その結果は……

それは読んでのお楽しみ。「三つの願い」がリアル系TSエンターテインメント作品か、非リアル系ファンタジー小説のどちらに属するかは読者の皆さんの判断次第です。



三つの願い

by 桜沢ゆう

 

序章 トホホな願い

 昨夜、祖母、母と僕の三人でテレビのお笑い番組を見ていたら『もし神さまが現れて三つの願いを叶えてやろうと言われたら、何をお願いするか』というネタを売れっ子芸人コンビがやっていた。

 背が高い馬顔の方の男の願いは、きりっとした小顔になって、金持ちの女と結婚することであり、残りのひとつの願いは内緒だと言う。もう一方の小柄で整った顔の男性は、宝くじに当たること、背が高くなることが願いだが、三つ目の願いはこの場では言いにくいとのことだった。

 結局二人は三つの願いをメモ書きして交換するのだが、別れた後でメモを読み、相方の三つ目の願いが自分と同じだったことを知る。それはコンビを解消したいという願いだった、というのがオチだ。

 そのオチは面白くないと感じたが、二人の願いはとどのつまり、女にモテる外観になりたいということと、金持ちになりたいということだった。人間誰でも同じようなことを考えているのだなあと思った。

 一緒にテレビを見ていた祖母に「おばあちゃんなら三つの願いは何にする?」と聞いてみた。。

「そうねえ、膝の痛みが取れて元気に歩けるようになること、老眼鏡なしに本が読めるようになること、三つ目は、病気せずに長生きしてから、おじいちゃんが待っている天国に行くことかなぁ」

「三つ目の願いは長生きすることと天国に行くことの二つの願いが入っているからダメだよ」
と言うと祖母は「私って欲張りね」と笑った。

 ちっとも欲張りだとは思わなかった。「完全な健康体になる」という願いにすれば、祖母の三つの願いのうち、長生きするという点以外は全てカバーできる。三つの願いを口に出す時に最も大事なことは、一つ一つの願いを、できる限り包括的な表現にするということだ。

 母にも同じ質問をした。

「小じわがなくなることと、少しだけ若返ることかな。もし二十才も若返ったら柚葉たちと親子でいられなくなるから、十年でいいわ。もう一つは、お父さんの給料が上がることよ」

 母も祖母に似て欲のない人だなと思った。二十才の美女になってIT会社の青年社長と結婚したいと願うこともできるのに、家族との関係を保つことを大事にした三つの願いにこじんまりとまとめてしまった。

 元々「三つの願い」はシャルル・ペロー作の「ばかげた願い」という童話(”Les Souhaits ridicules”, Charles Perrault, 1697)が起源らしい。

 ある日森の中でジュピターという神さまが貧しい木こりの前に姿を現して、三つの願いを叶えてやろうと言う。木こりはじっくり考えてから願いを言うことにして帰宅するが、暖炉の前で休んでいて「デカいソーセージを焼いて食べたい」という考えが頭に浮かび、つい口に出してしまう。すると一メートル以上もあるソーセージが目の前に現れる。夫が一つ目の願いをつまらないことに使ってしまった事に腹を立てた木こりの女房がイジイジと文句を言うと、木こりは逆ギレして「ソーセージはお前の鼻にでもぶら下げてろ」と悪態をつき、それが二つ目の願いとして実現してしまう。結局三つ目の願いは、女房の鼻からソーセージを剥がしとることに使うしかなかった、というトホホなお話だ。

 この童話には別なバージョンがあって、ソーセージの代わりにデカいプリンだったりする。ちなみに、スーパーで売っているプリンではなく、本来のプディング(小麦粉、米、ラード、肉、卵、牛乳、バター、果物などの材料を混ぜて、砂糖、塩などの調味料や香辛料で味付けし、煮たり蒸したり焼いたりして固めた料理の総称)なので、いずれにしても木こりにとってはごちそうを意味している。ソーセージにしてもプリンにしても、僕なら自分で奥さんの鼻からナイフで切るとか食いちぎるとかして、三つ目の願いはもっと賢く使うところだ。

 木こりに三つの願いを叶えてやった神さまはジュピターと言って、ローマ神話の天空の神ユピテルの英語名だが、この神さまは最高位の女神ユーノーの夫でありながら、時として女性化・女体化して女神となることもあるそうだ。この童話の別バージョンではジュピターではなく木の霊が木こりの前に表れて三つの願いを叶えてやろうと提案する。

 僕が生きている間に神さまが目の前に現れるような事態になることは期待していないが、木とか、水とか、草花とか、自然の中に棲み付く霊が現れる程度のことなら絶対に無いとは言い切れない気がする。万一そうなった場合に備えて、つまらない願いを口にしてしまわないように準備しておくのが賢明だ。

 僕の願いの根幹は、何といっても女性にモテることだ。モテるための要件は三高、すなわち、高身長、高収入、高学歴というのが通説だ。つまり、イケメン男性になること、稼ぐ力のある男になること、いい大学を出ることだ。

 僕の場合は一流半の大学を出てしまったので今更高学歴という条件をクリアするのは困難だが、二十代で年収一千万あれば、僕の学歴でも女性はワンサカ寄って来るだろう。結論として高身長のイケメンになることと、年収一千万円以上になることを二つの願いにするのがいい。三つ目をどんな願いにするかはもう少し考えてみたい。

 

第一章 誤解が生んだ間接キス

 僕の名前は秋森柚葉、二十四才、東陽町にある外資系保険会社の二年目社員だ。英国にある親会社は超一流の世界的大手企業だが、日本法人は業界シェアでいうと中位であり、就職希望ランキングの観点では一流半というところだろう。

 卒業した大学も一流半なので、それに見合った就職先と言える。

 一流半と聞くと二番手と捉えがちだがそうではない。大学でも就職先でもまず超一流があって、その下に一流が存在する。二流よりはマシだろうと本人が解釈しているのが一流半の大学・企業だが、本人以外は二流と認識している場合が多い。つまり、超一流、一流の下の、その他大勢が「一流半」の実態なのだ。

 入社一、二年目の段階での給料は超一流も二流も大差はないから、「貧しい感」は感じない。しかし不思議なことに女性たちは、三年目以降どんな差が出るのかをよく知っていて、一流半企業の男性社員に対する態度は冷淡だ。

 僕が女子にモテなくなってから十年以上が経つ。中二の頃まではかなりモテる方だったが、高校、大学は全然ダメだった。最大の原因は身長だった。僕の身長は中三の春の時点で百五十九センチだったが、その後は伸びが止まり、百六十三で頭を打った。高校になると女子たちが身長にこだわり始め、ブサイクな顔でも背の高い男子がモテ始める。そのトタンに僕は異性としての魅力の対象外になってしまった。大学時代もずっとそんな感じだった。

 だが、やっと僕にも春が訪れようとしている。吉村真凛が僕に目を向けてくれたのだ。

 同期入社は三十人で男女十五名ずつだったが、入社式で真凛を見た瞬間、僕は恋に落ちた。優しさと憂いが混在する笑顔、切れ長の目、そしてスラリとした長身。まさに理想のタイプの女性だった。真凛は法人営業部、僕は総務部に配属されたので仕事上の接点は殆ど無かった。普段は遠くから見ているだけで、会話できるのは同期の飲み会だけだったが、真凛はいつも大勢の男子に取り囲まれていたので、僕は真凛とじっくりと話したことが無かった。

 ところが、先週の金曜日に突然状況が変わった。朝、混雑しているエレベーターに真凛と乗り合わせ、僕の背中が真凛の胸に触れる状態が数秒間続いた。僕に否があるわけではなかったがエレベーターを降りる時に振り返って「ごめんね」と謝った。驚いたことに真凛は「こちらこそ」と言って僕に微笑んだ。

 今週、僕は特に用がなくても、昼休み前後や午後五時前後になると法人営業部のある四階に行って廊下をぶらぶらした。気持ちが通じたのだろうか。僕が四階に行くと不思議なほど高い確率で真凛が部屋から出て来て、廊下ですれ違う。そのたびに笑顔で会釈すると、彼女らしい笑顔で会釈を返してくれる。

 切れ長の美しい目は真凛の魅力の一つだ。知性と、男を簡単には寄せ付けないような強さと、憂いを併せ持つ目だ。僕を見た瞬間、真凛の顔に優しい微笑がふわっと浮き出て来て、恥じらいさえ感じさせる表情になる。

 相思相愛とはこういうことなのだ。先週エレベーターで身体が触れ合った時に、運命の歯車が動き始めたのだ! 

 金曜日の昼休み、意を決して社内メールで真凛を誘った。社内メールを私用で使うことは禁止されているが、彼女のプライベートなメールアドレスや携帯電話の番号は分らなかった。

「お話ししたいことがあるのですが、お時間をいただけませんでしょうか? もしご都合がつけば明日金曜日の午後五時四十分に、会社の向かいのドトールの南東角の席までお越しください。よろしくお願いいたします。秋森」

「十七時四十分のドトールでの面談の件、了解いたしました。吉村真凛」
という短い返信があったのは午後一時過ぎだった。僕は思わずこぶしを握り締めてヨッシャーと声を出した。

***

 五時半の終業のメロディーが流れ始めるのと同時に席を立ち、トイレで髪を整えてからエレベーターに乗った。ドトールに入り、アメリカンコーヒーを買って南東角の席についたのは五時三十七分だった。

 女性と違って着替えたり化粧をしたりする時間が不要だから五時三十七分に来ることが出来たが、真凛に五時四十分に来いというのは無茶だったかなと反省した。それに、総務部と違って営業部門では定時に退社するのは簡単ではないかもしれない。

 僕は待たされることを覚悟した。次回からデートは六時あるいはそれ以降からにしよう。

 その時、背後から女性の声がした。

「失礼します。総務部の方でしょうか?」

 真凛だった。ヨソヨソしい言い方だが、真凛も緊張しているのだろう。僕は立ち上がって真凛を迎えた。

 真凛は僕の正面の席に座る。

「来ていただいてありがとうございます」

「いいえ。で、ご用件は?」

 単刀直入に用件を聞かれて言葉が詰まった。こんな会話の方が楽かもしれない……。

 僕は隠し持っていた小さな花束をバッグから取り出して両手で差し出した。

「ずっと真凛さんに憧れていました。僕と付き合ってください!」

 真凛はポカンと口を開けて僕を見ていたが、数秒後に表情が険しくなった。

「仕事を装って呼び出すなんてルール違反じゃないですか」

「社内メールを使ったことはお詫びします。携帯メールのアドレスを知らなかったので」

「本当にうちの会社の方ですか? 名刺を出してください」

 真凛は怒りのあまりこんな言い方をするのだろうか? ともかく名刺を差し出した。

「入社式の日に真凛さんを見て恋に陥ったんです」

「秋森柚葉さん? 同期にそんな名前の人が居たかしら」

「先週の金曜日にエレベーターの中で挨拶しから、毎日廊下で笑顔を交わしているじゃないですか」

「金曜日にエレベーターの中で挨拶? そんな記憶はないわ」

「ほら、朝混雑していた時に僕の背中が真凛さんの胸に押し付けられる格好になって、僕がエレベーターを降りる時に『ゴメンナサイ』と言ったら、笑顔で許してくれたじゃないですか!」

「ああ、覚えているけど、あれは女性だったわよ。このぐらいの背の、ショートボブでピンクのブラウスの子だった」

「僕はあの日にはピンクのカッターシャツを着ていましけど……」

「ちょっと立ってみて。あのシーンを再現してみるから」

 真凛は僕を立たせて僕の背中に胸を押し付けた。ブラジャーのカップが当たる感触で、背中にビリビリと電気が走る。真凛の生暖かい息が僕のつむじの下に当たって身震いした。

「確かにこんな感じの子だったかもしれない……」

「男女の区別がつかなかったんですか!」

「ゴメン。あの日の朝は目がゴロゴロしていたから、コンタクトレンズを外していたのよ。やっと治って、今朝からまたコンタクトをし始めたの」

「毎日廊下で僕に向けてくれた優しい笑顔と会釈は、いったい何だったんですか?」

「コンタクトをしていないから誰だか分からなかったのよ。そんな場合には微笑んで会釈しておくのが常識というか、無難でしょ」

「そうだったんだ……」

「ゴメン。それほど落胆されると後味が悪いわ」

「付き合ってもらうのは、やっぱり無理ですか?」

「そんな風にドラマチックに花束を差し出されるのは苦手なの。そういうのはプロポーズの時だけでいいわ」

「いきなりプロポーズしてもOKしていただけませんよね?」

「悪いけど、自分より背が低い男性は結婚相手として考えられないわ。秋森君は、なんというか、正反対の人だから」

 もうお終いだ……。全てが誤解で、僕の一人芝居だったのだ。

「そんなに落ち込まないでよ。私にも非があったから、男女関係とかいうんじゃなくて、友達の一人ということなら付き合ってあげてもいいわよ」

「本当ですか!」

「本当よ。念のためにもう一度言っておくけど、異性としては全く興味が無いんだからね」

「それで異存ありません。じゃあ、LINEで友達登録お願いできますか?」

「一応友達登録はしてあげるけど、必要不可欠な場合以外は勝手にLINEしないでよね。それからもうひとつ、同期なんだから敬語はヤメテ。気持ち悪いから」

 真凛は不承不承スマホにQRコードを表示してくれて、LINEの友達登録をしてくれた。

「ありがとう! 真凛さんと言葉を交わせる関係になれて僕は超、超、超、シアワセだよ」

「大げさねえ。ま、いいけど。じゃあ私、会社に戻るわね。法人営業はバックオフィスと違って忙しいから六時前に退社するなんて夢のまた夢よ」

 営業部門の人は優越感を込めてバックオフィスと言うものだが、真凛に言われても全く腹は立たず、僕はつい「お仕事ご苦労さま」と口に出してしまった。真凛は満足げな笑顔を浮かべて立ち上がり、少し口をつけただけのコーヒーをテーブルに置いたまま足早に店の出口へと去って行った。

 運命の歯車が回り始めたのではなかった。強度の近視の真凛がずっとコンタクトを外していたことが招いた誤解だった。でも、真凛が僕と付き合うなんて、元々あり得ないことだったのだ。勇気を振り絞って真凛を呼び出し告白した結果、こうやって言葉を交わしてもらえる関係を勝ち取ることが出来た。ある意味で大きな収穫だったといえるのではないだろうか。

 そう自分に言い聞かせながらアメリカンコーヒーの残りを飲み終え、真凛が残して行ったブレンドコーヒーをすすった。

 甘くて苦い間接キスだった。

 

第二章 三つの願い

 ドトールを出て東陽町駅への階段を下りる。駅は夕方のラッシュでごった返している。もう慣れっことはいえ東西線の通勤ラッシュは非人道的だ。東葉勝田台行きの列車が到着し、お尻から乗車した。

 ドアのガラスにへばりつくように立って混雑を耐えながら、心の中で「痴漢被害に遭いませんように」と神さまに祈る。それは「痴漢にお尻を触られませんように」という祈りではない。「僕が痴漢をしたと疑われたり言いがかりをつけられることがありませんように」という祈りだ。僕の場合は西葛西駅で痴漢冤罪の恐怖がピークに達する。

 東西線の混雑率は東京の主要四十八路線の中で最悪だそうだ。東西線沿線の家に生まれついたのは不運と言うしかない。

 それでも夕方のラッシュは朝のラッシュよりずっとマシだ。朝の通勤時間帯は僕の家の最寄り駅である行徳で乗車する時には楽に乗れるが、ひと駅ごとに東京に向かう人が乗り込んで、西葛西から南砂町で混雑はピークに達し、次の東陽町から徐々に下車する。行徳から東陽町に通勤する僕は多分日本で一番ひどい通勤ラッシュに晒されているはずだ。

 僕の駅は行徳駅から徒歩十分ほどで、宮内庁の鴨場の手前にある。残念ながら高貴な家柄ではなく、中小企業に勤める父が行徳近郊緑地の野鳥の楽園まで歩いて行ける場所に売地を探して小さな家を建てただけだ。

 真凛のことを考えながら歩く。告白して興味ないと言われた以上デートには誘えないが、真凛が同僚の女性とカラオケに行く際に仲間に入れてもらうとか、女友達に「秋森君が彼女を欲しがっているけどアンタ興味ない?」と声をかけてもらうとか、頭の中でプランを巡らせる。

 郵便局を左前方に見ながら夜道を進む。次の角に差し掛かる手前で信号が赤に変わり、真凛の顔が頭に浮かんでひとりニヤニヤしながら信号待ちをする。

 対岸には三、四才の女の子の手を引いた若い母親がスマホをしながら信号待ちをしている。ポケモンをしているのだろうか。ウェストリボンのワイドパンツをはいた、スタイルの良い母親だ。それにしても可愛い女の子だなあ……。

 母親が女の子とつないでいた右手を離し、人差し指を立ててスマホをスーッとスワイプした。ポケモンが出て来たからボールを投げているのだろう。

 その時、何を思ったのか少女が横断歩道に足を踏み出して赤信号を渡り始めた。交差する道路の信号が青から黄色に変わり、軽トラが猛スピードで交差点に突っ込んで来た。女の子が軽トラを見て横断歩道の真ん中で立ちすくむ。危ない! 

 僕は本能的に飛び出し、女の子を抱いて車道の端へと転がった。

 ドーン! 

 身体が宙に舞った。女の子を抱きかかえたまま道路を転がり、何かにガーンと身体がぶち当たった。

 激しい痛みに身体をよじるが、声は出ない。

「ルリカ、ルリカ!」
 若い母親が僕の腕の中から少女を奪うように抱き上げる。

「ママ」
 少女の声だ。よかった、助かったんだ。

「大丈夫ですか?」

「救急車だ!」

 男性の声が響く。周囲に人が集まって来る。

 痛みに喘ぎつつ意識が遠のいた。


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新作「元祖対本家:深川のロミオとジュリエット」

新作「元祖対本家」(副題:深川のロミオとジュリエット)が出版されました。敵対する本家飯野屋と元祖飯野屋に生まれた二人のラブストーリーです。

***

主人公は深川の老舗せんべい屋「本家飯野屋」の長男として生まれ、子供の時から若い衆(わかいし)たちに『坊ちゃん』『七代目』と呼ばれて育った。

同じ深川にある「元祖飯野屋」は分家の飯野紋太が起業し、一代で本家を凌ぐ規模にのし上がったライバル企業だ。元祖飯野屋の後継者は主人公より二才上の飯野呂美男だ。

本家飯野屋と元祖飯野屋の社長はは従兄弟同士だが犬猿の仲で、両家の従業員は冷戦時の米ソのようにお互いを敵視している。

主人公の姉の百合絵は、敵家の呂美男とは高校の同級生だが、誰にも内緒で付き合い始め、親や従業員の目を盗んで逢瀬を重ねていた。

元祖飯野屋の隆盛を尻目に、本家飯野屋の業績は低下し、ある日、主力銀行から本家と元祖を経営統合することが融資継続の条件だと通告される。経営統合というよりも、実質的な吸収合併となり、後継者が呂美男になるのは確実だ。

そうなったら主人公はもう飯野屋にとって不要な人間になってしまうが、姉の百合絵の幸せを祈って、身を引くことを覚悟するのだった。

「元祖対本家」は長編TSエンターテインメント小説です。



元祖対本家

深川のロミオとジュリエット

by 桜沢ゆう

序章

 ステンドグラスを背にして立つ大柄な西洋人の神父さんの慈しみに満ちた低い声が厳おごそかに響いた。

 汝は、この女を妻とし、
 良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、
 病める時も健すこやかなる時も、
 共に歩み、他の者に依らず、
 死が二人を分かつまで、愛を誓い、
 妻を想い、妻のみに添うことを、
 神聖なる婚姻の契約のもとに、
 誓いますか?

 人生に至高の時間と呼べるものがあるとすれば、今がまさにその時と言えるのだろう。現実世界の波の中を漂い、彷徨さまよってきた魂が安住の地を与えられようとしている。
 本当にそうなのだろうか……。
 僕には神父さんの質問を迷いなく肯定する言葉を、心の底から自分の幸せとして受け入れられるという確信が無い。きっとこれでいいのだろうとは思うし、他に選択肢があるとは思えない。でも、何かが違うのではないかという迷いが心のどこかにくすぶっている……。
 人生にはピークがあると思う。
「我が世の春」とは言い得て妙な言葉だ。葉を落として冬を越した草木が新芽を出し、太陽に向かって青々と身体を伸ばし、花を開き始める。それが春。自分の周囲の全てのものが明るく、夏と秋に向かってキラキラと輝いて見えるはずだ。
 今の僕はそうではない。
 結婚式場はきらびやかで、僕たち二人は大勢の人たちに祝福されて夫婦になろうとしているが、僕はバラ色の人生が花を開こうとしているという気がしない。まだ高校生なのに将来の全ての可能性を捨て去って、型にはまった役割を押し付けられることへの抵抗が拭い去れない。正気の沙汰ではないという気もする。
 でも、これが僕の運命なのだ。多分、そうなのだ。僕が幸せを装えば家族も喜ぶだろうし、そのうちに慣れてくればそこそこ幸せを感じられるようになるかもしれない……。
「誓いますか?」
と神父さんに答えを催促されて、はっと我に返った。
 いけない、大切な宣誓の時に呆然としていては。
 僕は神父さんを見上げて、できるだけ明るい声で「はい、誓います」と答えた。

第一章 人生のピーク

 僕の人生のピークは小学校五、六年の頃だったと思う。あの頃「我が世の春」という言葉は僕の語彙ごいには存在しなかったが、何もかもが順風満帆で、僕はスターだった。
 僕の名前は飯野樹里。深川の煎餅屋せんべいや老舗、飯野屋の六代目飯野荷風の長男として生まれた。二才上に姉がいて、僕は末っ子かつ本家飯野屋の跡取り息子として、家族や従業員からの寵愛と「七代目」としての敬意を欲しいままにして育った。
 従業員たちからは「坊ちゃん」あるいは「若」と呼ばれ、近所の悪ガキや不良っぽいグループも僕は全然怖くなかった。どんな不良少年でも一目見て震え上がりそうな若い衆わかいしが家に居て、僕が困ったらいつでも馳せ参じてくれるからだ。
 そして僕には自慢の姉が居た。従業員たちから「姫」と呼ばれる、飯野百合絵だ。僕が小五になったときに深川女子大付属中学に進学した百合絵は、深川小町と評判の高い美少女だった。悪ガキや不良少年でも美しい女性への敬意と憧れは僕たちと変わらないらしく、わざわざ飯野百合絵の弟が嫌がることをしかけてくる男子はいない。
 小五の年の隅田川花火大会の夕方、忘れられない思い出がある。家から徒歩数分の川べりを歩いていると、大人のような身体の中学生に「おい、飯野」と呼び止められて、路地に引き込まれた。ある意味で、人生最大の窮地に立たされた気がして、生命の危険を感じた。
「俺は飯野が好きだ!」
 僕の呼吸が止まった。どうしよう。僕は男なのに、デカくて怖い男に今にもキスされそうだった。
「飯野百合絵を愛している。お前の姉さんにそう伝えてくれ!」
「わ、わ、分かりました」
 僕が答えると、その中学生は僕を路地に残して駆け去った。
 僕は安堵のため息をついた。告白されたのは始めてだった。「俺は飯野が好きだ」と言われた時にはどうなるかと思ったが「飯野百合絵を愛している」と聞いてほっとした。
 家に帰って姉に報告すると、姉から「その子の名前は?」と聞かれた。僕はその時、告白者が自分の名前を名乗らなかったことに気づいた。
「こんなに背が高くて怖い顔をしている中学生だった」
と僕は背伸びして右手でその中学生の身長を示した。
「それだけじゃあ分からないわ。そのくらいの身長の男の子は沢山いるもの」
 姉はそれ以上、その男子が誰かを特定するための質問をしなかった。姉は告白されることに慣れていて、その中学生が誰であろうとどうでもいいし、直接自分に告白せずに夜道で弟に伝言を依頼するような弱虫には興味が無いのだ。
 後から知ったことだが親戚の飯野呂美男もそのころから百合絵のファンの一人だったらしい。呂美男は姉と同い年で、小学校の校区は違うが、深川女子大付属中学に進学して姉と同級生になった。父は呂美男のことをせせら笑った。
「紋太の息子は男のくせして女子大の付属中学に入りやがった。女々しい野郎だ」
 そして父は僕の方を向いて言った。
「樹里は女子大付中なんかに行くことはないぞ」
 きっと父は、二年後の僕の成績が女子大付中に届かないと予測した上で、元祖飯野屋への対抗策として発言したのだと思う。
 呂美男とは親戚なのに、ほとんど話をしたことが無かった。呂美男の父親の飯野紋太は「元祖飯野屋」の当主であり、本家飯野屋の六代目である僕の父とは犬猿の仲だった。父から聞いた話によると、飯野紋太は父の叔母が子宝に恵まれず、どこの馬の骨か分からない貧しい子供を養子にしたので、父の従弟だが血のつながりは無いとのことだった。飯野屋で丁稚奉公していた紋太は僕の祖父である五代目が亡くなったときに、誰の許可も得ずに「元祖飯野屋」を深川で開業したという。
 皮肉なことに元祖飯野屋は商売繁盛して本家を凌ぐほどの規模になってきたので、父はライバルの紋太が益々嫌いになったというわけだ。
 僕が小学校六年になった頃、本家飯野屋と元祖飯野屋は勢力が拮抗していたようだった。縁日の思い出だが、僕が若い衆わかいしを従えて歩いていると、呂美男が元祖飯野屋のハッピを着た若い衆わかいしに囲まれて歩いて来るのと鉢合せになった。若い衆わかいしたちが仁王立ちして睨み合い、僕はその真ん中で腕組みをして、できるだけ怖い顔で呂美男と向き合った。
 僕より二才年上の呂美男は中学二年生で、大人並みの身長になっていたので、若い衆わかいしに囲まれた姿が様になっていた。呂美男は腕組みもせず涼しい顔で僕を見ていたが、しばらくすると威勢のいい若人わこうどの声で爽さわやかに言った。
「行くよ!」
 その声で元祖飯野屋の若い衆わかいしの緊張が溶けて「へいっ!」と言う声とともに歩き始め、元祖と本家の集団は何事もなくすれ違った。
 負けた。本家飯野屋の完敗だった。うちの若い衆わかいしたちもそう感じたに違いない。僕はクラスで小さい方から四番目で、華奢きゃしゃな体格だった。顔が姉と似ていることが自慢だったが、泣くたびに若い衆わかいしから「妹姫いもうとひめ」と言われて揶揄やゆされるのが常だった。「坊ちゃん」として愛されるためには可愛い男の子というだけで良かったが、もう元祖飯野屋の二代目は「坊ちゃん」の域を卒業して颯爽さっそうとした若旦那になっていた。
「二、三年も経ったら坊ちゃんもあんな風になりまさあ」
と若い衆わかいしに慰めの言葉をかけられ、僕は七代目としての責任を痛感した。
 そのあたりから、僕の人生は下り坂に差し掛かったのではないかと思う。
 父が推測した通り、僕は女子大付中には合格しなかった。呂美男の妹で僕と同学年の美香は女子大付中に進学し、呂美男、美香、僕の姉の百合絵の三人が女子大付中、僕だけが近所の中学に進んだ。本家飯野屋の七代目が、元祖飯野屋の若旦那に敵わないのではないかという疑いを、若い衆わかいしが抱き始めても仕方が無いと思うと悲しかった。
 父の推測は当たったわけだが、若い衆わかいしたちの「二、三年経ったら」という推測は当たらなかった。僕は中学二、三年になっても声変わりせず、父より背が低いままで、中二で向き合ったときの呂美男のような颯爽とした「若旦那」にはならなかった。
 呂美男の父は180センチの巨漢だが、僕の父は158センチしかなく、それだけでも本家飯野屋の若い衆わかいしは元祖飯野屋の若い衆わかいしに対して分が悪かった。将来代替わりして、呂美男と僕が元祖と本家を継いでも、状況に変化は無さそうだった。
 僕は父のようなチビの大人になるのだろうか……。僕の人生はまっしぐらに下降するのだろうかと思うと生きていくのがいやになった。小学校の時はクラスの人気者だったが、中学に入ると段々モテなくなった。チビだし、大人しい僕は友達の間でも目立たなかった。
 家業が振るわないことも、家のムードに微妙な影を落としていた。僕が小さい時には、元祖飯野屋は亜流であり、深川の人たちにとっては父の飯野屋こそが本流だった。僕が中学に入ったころには元祖と本家の勢いは逆転していた。
 今も忘れない悔しい思い出がある。中三の四月のある日、同じクラスになった山崎という男子から昼休みに言われた。
「お前の家は元祖飯野屋のパチモンを作っているらしいな」
 僕はそう言われて頭に血が上った。
「バカヤロウ、パチモンはあっちの方だ! 飯野屋の先代が亡くなった時に従業員が許可なしに店を出したのが元祖飯野屋だ。僕のお父さんが六代目として飯野屋を継いだんだ」
「そんなに怒ることないじゃないか。元祖だか本家だか知らないけど、元祖と書いてある方が美味しいと親戚のおばさんが言っていたから、元祖が本物で、元祖がついていない方がパチモンだと思っただけだよ」
 山崎に悪気が無いことが分かったので、僕は山崎を許してやった。
 その時の悔しさがバネになって、僕はナニクソと勉強し始めた。家業が元祖飯野屋に押され気味だということは僕もそれとなく感じていた。大人になったらいずれは僕が跡を継ぐことになる。このままだと、低能でチビの七代目が飯野屋を継ぐことになり、家族も従業員もますますパチモン呼ばわりされて、悲しい思いをすることになるだろう。見かけは貧弱でも勉強は呂美男に負けないように頑張ろう!
 それまで嫌いだった勉強が苦にならなくなり、試験の成績が上がり始めた。秋になって全国模試で上位に入った時には、父がその結果を従業員にも見せびらかした。
 その勢いのまま、僕は深川女子大付属高校の入試に奇跡的に合格し、呂美男、百合絵、美香と同じ高校に行くことになった。
 不思議なことに、勉強を頑張っているうちに背も伸びていて、高校入学時の身体測定では姉の百合絵と同じ百六十二センチになっていた。父は息子と娘に身長を追い越されて悔しいだろうと思っていたが、それどころか、会う人ごとに「息子と娘が自分より大きくなった」と自慢しているのを聞いて、親とはおかしなものだと思った。


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新作「混浴露天風呂で出会った美しい人」を出版しました

リアル系TSでラノベBLカテゴリーの小説「混浴露天風呂で出会った美しい人」を出版しました。

最初の舞台は雪深い湯西川温泉にある「薬研の湯(やげんのゆ)」という混浴野天風呂です。

主人公は桜沢菜緒という卒業間近の男子大学生です。主人公は薬研の湯で幻の美女と遭遇しますが、メールアドレスの交換もできないうちに幻の美女は闇の中へと去って行きます。

主人公がどのように幻の美女と再会するのか、そしてどんな運命が主人公を待ち受けているのか、それは読んでのお楽しみです。



混浴温泉で出会った美しい人

by 桜沢ゆう

第一章 美しい人

 これほど大量の雪を食べたのは初めてだった。

 真っ白で混じりっ気のない純粋な雪に出会うことは滅多にない。木の枝に乗った雪を指ですくって口に入れると、かき氷よりもずっとふわふわしていて、口の中でさーっと解ける。加糖練乳か、イチゴ味のシロップを買ってくればよかった……。

 僕は潔癖症ではないが、どちらかと言うと清潔好きで、細菌に汚染された恐れがある食品を加熱消毒せずには食べない主義だ。普通の雪は、空気中に漂う埃を絡めながら空から舞い降り、道路、塀、木の枝に積もるとその上に埃が降って来るから、とても口に入れる気にはなれない。

 湯西川温泉の町はずれにあるホテルから温泉街までの道路の端の樹々の枝や塀に積もっている雪は、僕の清潔さの基準を完全にクリアするほど無垢に見えた。周囲の真っ白な山肌が紺碧の空に映えている。

 卒論の提出を済ませ、後期試験も無事終わってほっとした二月五日の日曜日、僕は高校時代からの親友の有村と新宿にある工学院大学前のバス停に集合して、ホテルの送迎バスではるばる湯西川温泉にやってきた。三月二十日の卒業式を経て四月に社会人になるまでの二ヶ月足らずの、学生として最後の充電期間が始まったばかりだった。

 三時にチェックインし、四時ごろホテルを出て温泉街まで徒歩二十分ほどの雪道を歩いた。目指すは温泉街の橋のたもとにある{薬研の湯|や|げん|の|ゆ}という露天風呂だった。僕たちの宿泊するホテルには立派な露天風呂があるが、湯西川温泉街には橋から見渡せる無料の野天岩風呂があるとの情報をネットで見ていたのでトライしてみたかったのだ。

 県道から湯西川温泉街への分岐路を左に入ると、踏み固められた雪が道路の中央まで覆っていた。スマホの地図を頼りに坂道を滑らないように注意して歩き、湯西川を跨ぐ橋に差し掛かった。

「あそこだ。橋から丸見えだぞ」
 橋の斜め下方の河岸を有村が指さした。それは大きな岩の窪みにある湯だまりだった。

「橋を渡ってすぐ左から降りられそうだぞ」
 道と言えるほどの道はついていないが、木に掴まりながら降りることは出来そうだった。

「雪があんなに積もっている場所を降りるのは危険だよ。それに、橋の上から丸見えじゃないか。お湯が透明だから、岩風呂の底まで見えるぞ」
とんでもない、という感じで有村が言った。

「殆ど人通りは無いし、見られても減るものじゃないよ。雪の中をはるばる辺境まで来たんだから入って行こうよ」

「桜山君がどうしても入りたいなら入ればいい。俺はここで見物している」

「じゃあ、僕のα7を預ってくれ。僕が雪の中の岩風呂に入る様子を沢山写しておいてほしい。このカメラなら暗くなっても鮮明に写るから。言っとくけど、勝手に自分のスマホで撮ってSNSに流すんじゃないぞ」

「桜山君のフリチン画像をSNSに流すほど悪趣味じゃないよ」
 有村は僕の冗談に気分を害した様子で言った。

 橋を渡ってすぐの石段を下って右に曲がり、雪で覆われた岩の上を這うように進んだ。岩風呂の横の平らな雪の上にショルダーバッグを置いて、靴と靴下を脱ぎ、その上にコート、セーター、ズボン、下着を重ねて置いた。タオルを首に巻き、橋に背中を向けて湯船に足を踏み入れる。岩風呂の底がヌメっていて滑りそうになる。腰を低くして、雪面に手をついて支えながら何とか転ばずに湯船に浸かった。

 熱い。雪が入ってぬるくなっているはずなのに、熱い湯だった。身体が冷えているせいで余計に熱く感じられるのだろう。

 僕は胸まで浸かった状態で身体を橋の方に向けた。午後四時半を過ぎた灰青色の暗い空をバックに有村の顔が見える。手を振るとカメラを僕の方に向けてシャッターを切った。

「アソコが橋の上から丸見えだぞ。手で隠せ!」

 有村が非難がましく叫んでいる。きっと羨ましいのだ。それなら自分も来ればいいのに……。

 透明な湯なので角度のある高い所からだと見えるのかもしれない。でも、もう少しで日没だ。有村に気を遣って、股間の物を挟み込むように両脚を閉じた。

「それだと女みたいで余計に気持ち悪いぞ」

 気持ちが悪いのなら見なければいい、と悪態をつくのはやめておいた。親友との二泊三日の温泉旅行の初日にケンカを売ることもない。

 母子連れが橋に差し掛かった。母親の視線が一瞬僕の方に向けられ、すぐに橋の反対側の川面へと逸らされた。子供は僕には気づかずに橋を通り過ぎて行った。もう日没だ。河畔の旅館群の明かりが河面を照らし、暗くなった空に橋を浮かび上がらせる。

 その時、細長いシルエットが橋に差し掛かり、有村の横を通り過ぎた。一旦視界から消えた人影が、数十秒後に橋の横の階段から姿を現して、僕の居る岩風呂へと近づいてきた。

 灰色のダウンコートから黒のスキニーパンツの脚が伸びた女性の姿に、僕は焦った。まさか、この岩風呂に入るつもりなのだろうか! 彼女が靴と靴下を脱ぎ、ダウンコートを脱いでその上に置いたので、僕は湯船の中で身体を回して彼女に背を向けた。彼女が服を脱いでいる気配が感じられて、僕の鼓動が高まる。股間の物が痛いほど硬くなり、僕はそれを下方へと押しこみ太股をぴたりと寄せて隠した。

 彼女が湯船に浸かったことが気配で分かった。僕はしばらく背中を向けたまま湯に浸かっていたが、そうしていることが彼女に対して失礼ではないかという気がして、ゆっくりと身体を回して、彼女の方を向いた。

 視線が合う。軽く微笑んで会釈をすると、面長で冷淡さを感じさせる彫りの深い小顔に微笑が浮かび、会釈が返ってきた。長くて白い首とショートボブの髪のバランスが僕をドキッとさせる。僕より何才か年上の美しい女性だった。

 辺りはもう暗くなったが、湯船の中に乳房が揺れるのが見える。長身に不釣り合いな小ぶりの乳房だと思った。

 何か気の利いたことを口に出したかったが、適切な言葉が頭に浮かばなかった。湯西川温泉は初めてですか? 野天風呂はいいですね。混浴風呂にはよく行かれるのですか? ここのお湯は熱めですね……。凡庸な言葉をかけるのは不適切だと思えて、お互いに何もしゃべらないまま時間が過ぎた。僕は目だけで微笑んで彼女の方に顔を向けていた。

 その時、彼女が湯船の中で立ち上がった。おへその下を左手で持ったタオルで覆い、右掌で左乳房を隠した姿が橋を背景に伸び上がった。湯船の外にゆっくりと足を踏み出し、身体の斜め後ろを僕に向けてタオルで身体を拭く。湿りの残る身体に器用に下着を着け、スキニーパンツに足を通す。薄暗い場所で、すらりと均整の取れた身体が川岸の電燈が投げる光に照らし出されている。

 彼女はダウンコートを着るとショルダーバッグを肩に掛けて階段の方へと身体を向けた。

 その瞬間、思い出したかのように彼女が振り向き、優しい笑顔で別れの会釈をした。

 美しい! 雷に打たれた気がした。

 次の瞬間、僕が何も反応を示せないうちに彼女は僕に背を向けて立ち去った。

 僕は呆然として首まで湯船に浸かり大きなため息をついた。現実に起きたのかどうか自分でも確信が持てないほど、夢のような出来事だった。すらりとした美しい身体を僕に見せつけるために現れ、僕が息を飲んでいる間に悠然と立ち去った……。

 岩風呂から出てタオルで身体を拭いた。、火照った身体が冷気に包まれる感覚が新鮮だった。冷えないうちに手際よく下着と服を身に着け、コートを着た。

 階段を登って左に曲がると橋の上に立っている有村が目に入った。有村は岩風呂とは反対の、湯西川の上流方向を向いていた。

「有村君、見たか?」

「見たよ。びっくりした! 俺も桜山君と一緒に入ればよかった」

「オッパイはミニサイズだったけど、相当な美人だった」

「アソコも見えたのか?」

「バカな。暗かったし、タオルで隠していたから見えなかったよ」

「俺が写真を撮っている後ろを通り過ぎたんだけど、すごく背が高かったぞ。百八十近くあったんじゃないかな」

「百八十は言い過ぎだ。僕がお湯に浸かった状態で見上げた感じだと、百七十二、三センチだったと思うよ。女性は数字よりも大きく見えるものだから。しっかり写真を撮ってくれたか?」

「桜山君のヌード写真は十枚以上撮ったよ」

「で、彼女と僕が二人で岩風呂に入っている写真は何枚撮ってくれたんだ?」

「まさか、撮るわけないだろう。本人の了解なしに女性の裸を撮影すると犯罪になる」

「一枚も撮らなかったのか? 僕にとって一生に一度の夢のようなハプニングだったのに! 風呂から上がって服を着た後の写真ぐらいは撮ってくれたよね? せめて後姿でも」

「すまん。ボーっと見送っていたら、あそこの角を左に曲がって行ってしまった」

「しっかりしてくれよ」

「そんなに気になったのなら風呂の中で自己紹介して電話番号かメールアドレスを聞けばよかったのに。彼女とどんな話をしたんだ?」

「いや、裸の女性と風呂で向き合うのは久しぶりだったから緊張してしまって……」

「手の届く距離に居ながら一言も話せなかったのか! 俺を非難する資格はないじゃないか。ところで今『裸の女性と風呂で向き合うのは久しぶり』と言ったけど、前にも混浴温泉に入ったことがあるのか?」

「家族旅行の思い出の話だ。幼稚園に上がるまでは母さんと女風呂に入っていたから……」

 有村と僕はお互いの至らなさについて呆れながら、雪の{夜道|よみち}をホテルまで歩いた。

 ***

 部屋に戻ると浴衣に着替えて大浴場に行った。冷えた身体を内湯で温めてから、その足で食堂に行って夕食のバイキングを楽しんだ。二泊三日、食べ放題、飲み放題、新宿からのバス送迎付きで一万四千円という期間限定激安料金だったが、有村と僕は「食事代だけで元を取ろうな」と貧乏くさい話をして、カニや刺身など量の割に高価な料理を選び、腹の膨れるビールを避けて地酒を飲んだ。

「さすが桜山君、コスパ最高のホテルだね。就職してからも毎年一緒に来ような」

「いや、オフシーズンの日、月、火の二泊三日だから超特価で予約できたわけだ。サラリーマンになったら、三連休とか、皆が休みの時にしか来られない。それに、会社には美人のOLがわんさかいて、新入社員の男性に群がって来るらしいから、来年の冬は彼女と一緒に温泉に来るのが目標だな」

「桜山君のオプティミズムには感服するよ。新入社員男性が入れ食い状態になるなんてエロ漫画の読み過ぎじゃないの? そんな幻想を抱いて入社したら、厳しい現実にガックリ来てうつ病になるぞ。桜山君も、もう少し背が高かったら強気になってもいいんだろうけど」

「身長なんて、有村君とそんなに変わらないじゃないか」

「バカ言うな。俺は百七十だから桜山君より十センチ以上高いんだぞ」

「おあいにくさま、僕は百六十三でした。七センチしか違いませんよーだ。いつもシークレットシューズを履いているし、顔が良いから、有村君よりはモテるつもりだけど」

「桜山君は面白いな。高い靴を履いているのを自慢する男と出会ったのは初めてだ。人間の脳って、自分は実際よりも背が高く感じたり、顔が良いからモテるという幻想を抱いたり、自分を相対的に過大評価するようにプログラムされてるんだな。いやあ、実に興味深い」

 いくら親友でも、腹の立つことばかり言うやつだ。僕がモテるのは事実だし、有村なんかに負けるはずがないが、建設的でない議論を吹っかけるのは差し控えた。

 二人とも酔っぱらって部屋に戻り、横になってテレビを見ていたが、九時半ごろになると酔いが覚め、腹もこなれてきたので、一緒に露天風呂に行った。

 内湯で体を温めてから露天風呂へのガラス扉を開ける。熱くなった皮膚が冷気に晒されて気持ちいい。岩風呂の周囲の樹々の枝にこんもりと雪が積もっているのが、外灯の白い光を受けて黒い空間に浮き出ている。

 身体が急激に冷えて、僕たちはヒィーッと声を出しながら湯船に浸かる。雪はとっくに降りやんでいて、後頭部まで湯船に浸けて空を見上げると、岩風呂の周囲の樹木の枝に囲まれた丸くて黒い空間に星がちりばめられているのに気づいた。外灯の光にも、湯気にも負けず、たくさんの星が輝いていた。

「やっぱ、空気の透き通り方がハンパじゃないよな」
と、有村らしくない的確な表現が耳に入る。

 僕は湯船の中に立ち上がり、岩風呂の奥の、川べりの方に歩を進める。有村も一緒に岩風呂の奥まで来て、雪を抱く枝々を通して、その向こうを流れる川からの水音に耳を澄ます。

「ここの雪も美味しそう!」
と僕は手の届く枝の上にこんもりと乗った雪を手ですくって口に入れる。

 それは口の中でさーっと溶けて、雪とはこんなにふわふわしていたんだ、と改めて実感する。

 二、三度雪を食べると急に体が冷えてきて、「さぶーっ」と言いながら湯船の中に首まで浸かる。

「桜山君って子供みたいだな」
と有村は雪を食べずに、呆れたという表情で僕を好意的に傍観している。

「今食べておかないと、社会人になったら雪を食べられなくなるかもしれないよ」

 本気でそう思ったわけではないが、有村にも雪を食べさせたくてそう言った。

 僕たちは「うーん、気持ちいいな」と言いながら星空を見上げる。

 星を繋げていくと、女性の身体を横から見た姿に見えた。

「あの女の人ってきれいだったよね」

「美人というほどだったかなあ? 背が高すぎるし、なんかこう、デカかったよな」

「デカいだなんて失礼な。すらりとして、すごくカッコよかった。あーあ、有村君がちゃんとシャッターを押していたら画像をスマホに落として今晩じっくり見られたのに」

「僕は百六十二、三ぐらいまでで、オッパイの大きい女がいいな。それにしても世の中はよくできてるよな。百五十センチも無いほどミニな女を好む男もいれば、桜山君みたいに見上げるほどデカい女に憧れるマゾな男もいるんだから」

「僕がマゾだなんて、勝手に決めつけるな!」
と抗議をしたが、自信があったわけではない。僕には加虐的な嗜好が全くないことは明らかだから、人類をサドとマゾに二分類したら、僕は後者に属するかもしれないと思う。

 しかし、自分より背の高い女性を好む男性をマゾだと考えるのは間違っている。概して背の高い人間は背の低い異性を好み、背の低い人間は背の高い異性を好むものだ。身長が低いほどマゾというのでは理屈が通らない。

「さっき、あの女性を食堂で見かけなかったということは、このホテルの宿泊客ではないということだ。湯西川温泉のどこかの宿に泊まっているんだろうな……」
と僕は彼女のことを思いながらつぶやいた。

「明日、かまくら祭りを見に行くのに、早めに行って橋の上で待っていたら、また通るかもしれないぞ。桜山君がそれほど心残りなら付き合ってやるよ。でも、明日はちゃんとメルアドを交換しろよ」

「有村君、ありがとう。僕、がんばる!」
 さすが親友だと感激した。

 ***

 翌日は雪が降っていて、ホテルから{薬研の湯|や|げん|の|ゆ}の上に架かる橋まで歩いて行くのは無理なので、ホテルのバスでかまくら祭りの会場まで送迎してもらった。かまくら祭りの会場は人もまばらで、憧れの長身女性の姿は見えなかった。

「気を落とすな。四月に入社したら、もっと背が高いOLと巡り合えるさ。お前が入る会社には女子バレーボールチームとか無いのか?」

「あのねえ、背が高けりゃ誰でもいいってことじゃないんだから」
と僕は力なく抗議した。

 東京に帰ってから二、三週間は、毎晩幻の長身女性のことを思い出しては恍惚とした気分になっていたが、社会人になるころには彼女のことはすっかり頭から消えていた。


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