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新作「禁断のインスピレーション」(日英TS文庫)を出版しました

新作「禁断のインスピレーション」を出版しました。これは4月3日に出版したYu Sakurazawaの英語小説”Feminized for Inspiration”の日本語版、TSミステリー小説です。

主人公はテオと言う名前の卒業間近のイギリス人男子高校生ですが、ストーリーは34才のイタリア人女流作家アリシアの第一人称で語られます。アリシア(私)は由緒ある文学賞の受賞者として有名になった作家ですが、17年前にレイプされ同級生の恋人のリアを失った過去を背負っています。アリシアは受賞記念パーティーでテオと出会い、リアと似たテオに心をときめかせるのでした。

主な舞台はローマ時代からテルメ(温泉)で栄えた保養地、シルミオーネという湖畔の街です。

【日英TS文庫】
「禁断のインスピレーション」は日英TS文庫の第六作目の小説です。

第1作「第三の性への誘惑」(原作:Enchanted into the 3rd Gender)
第2作「性転の秘湯」(原作:Slippery Slope in a Hotspring)
第3作「忘れな草」(原作:Abigail Resurrected)
第4作「禁断の閉鎖病棟」(原作:Forbidden Asylum)
第5作「呪いのバービー人形」(原作:Forbidden Memories)
第6作「禁断のインスピレーション」(原作:Feminized for Inspiration)


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禁断のインスピレーション

原作:Feminized for Inspiration
著者:Yu Sakurazawa

第一章 受賞と結婚

彼氏いない歴三十四年の私の人生にテオが入り込んできたのはつい最近のことだった。

私は十七才の時に書いた短編小説がマイナーなミステリー小説のコンテストで銅賞を受賞してから、大学時代、そして就職後も創作活動を続けている小説家だ。昨年、大手文芸誌のコンテストで大賞を受賞したことで新進気鋭の女流作家として注目されるようになった。大賞作品の印税だけでなく、過去に出版済みの小説十数作品の売上も急激に伸びたので、それまで勤めていた会社を退職し、女流作家として生計を立てるようになった。

アリシア・ティンリーというペンネームは私の本名だが、知名度が一気に高まったのは、今年の春に出版した小説「失われた冒涜」が著名な文学賞であるブルックナー賞の候補作品にノミネートされてからだった。昨年の文芸誌のコンテストで大賞を受賞した作家がブルックナー賞の候補に挙がったということで、新聞や雑誌から取材を受け、活躍する女性に関するテレビのノンフィクション番組で私の画像がたった二、三分だが放映された。

最終的に三月末にブルックナー賞の発表があり、私の「失われた冒涜」が受賞の栄誉に輝いた。それから二週間ほどは新聞雑誌の取材やテレビの出演依頼も相次いで目の回るような忙しさだった。

テオと出会ったのは四月十五日にミラノのホテルで開催されたブルックナー賞の受賞記念パーティーの会場だった。そのパーティーには十人の一般参加者枠があり、ネットで受け付けた千人を超える応募者の中から抽選で十名が選ばれ、テオもその一人だった。

「僕、先生の小説は全部読みました」
グレーのスーツにネクタイ姿で、赤みがかった金髪をした美しい青年がグリーンの目をキラキラと輝かせながら私を見上げて、よどみのないイギリス英語で言った。

「君に先生なんて呼ばれると年寄りになった気がするから、アリシアと呼んで」

「えっ、そんな……。じゃあ心の中で『先生』と付け加えながらアリシアと呼ばせていただきますね。僕は十七才ですから、アリシアの丁度半分です。七月に十八才になりますけど」

十五才ぐらいかと思ったのに大人の入り口の年令だということを知って意外だった。飾り気がなく、優しくて甘い声だった。男性の声を聞いてそのような安らぎを感じるのは初めてだった。杏仁豆腐を連想させる白い肌と小さな赤い唇が私の目からたった数十センチ先にある……。

「僕の名前はセオドア・ウィズリーです」

「テオと呼んでいいかしら?」

「はい、先生。じゃなかった、アリシア。友達からもテオと呼ばれています」

「テオはミラノの高校生なの?」

「いえ、シルミオーネの高校です」

「イタリア人じゃないわよね?」

「イギリス人です。五年前にイタリアに渡って来てシルミオーネに住んでいるんですけど、去年父がロンドンの本社に転勤になって、僕を残して家族は帰国しました。来年の四月にはイギリスの大学に進むつもりなので、それまでに帰国します」

イタリアの年度は九月に始まるが、イギリスは四月からなので、半年の空白があるのだ。

「イギリス人にしては小柄ね」

私は女性としては長身で百七十六センチあるが、今日は九センチのハイヒールを履いてきたので普段より背が高い。テオは私の目の高さしかなかった。

「平均よりは少し低いですけど、そんなに小さくはないです」
とテオはムキになった表情で言った。紅潮した頬はまるで桃のようで、食べてしまい衝動に駆られた。
「百六十七センチです。やっぱり小さいのはお嫌いですか……」

「私の昔の恋人も百六十七センチだったわ」

そう言うとテオはパッと顔を輝かせた。

「テオのメールアドレスを教えてくれる?」

「はい、先生。電話番号とメールアドレスとワッツアップのIDを今すぐ送ります」

私がワッツアップのIDを教えるとテオはあっという間にワッツアップで連絡先を送ってくれた。

「じゃあ、また連絡するかも」
と思わせぶりに言ってその場は別れた。

ほんの二、三分間の会話だったが、それは心躍る時間だった。テオは私がこの人生で手に入れることをほぼ諦めていたものをすべて持っていた。美しさ、優しさ、そしてそばにいるだけで得られる安らぎ。私に話しかけてきた時のキラキラと輝く目、ムキになった時の表情、自分が昔の恋人と同身長と知った時のうれしそうな顔……。地球上にそんな男性が何人も存在するとは思えなかった。そのうちのひとりが私の手の届く距離に来たのは奇跡だと思った。

私はきっとテオと結婚することになると思った。三十四才の名の知られた作家が十七才の高校生との結婚を意識することが不自然だということはよく分かっていた。

テオには私の昔の恋人と似ている点が沢山あった。周囲から妨害されなければ今も一緒に人生を送っているはずの恋人だった……。

その時司会者から呼び出され、私は壇上で記者たちからインタビューを受けた。テレビ局の記者から「ご両親にひと言」と聞かれて私はカメラのレンズを見ながらこう答えた。

「私がブルックナー賞を取れたのはお父さんのお陰です。お父さん、あなたがいなければこの小説は書けませんでした」



私は子供の時から男性は苦手だった。

初経があるまで性別というものを意識していなかった。学校でも、下校してからも、男の子と一緒に遊んでいたが、男の子が好きだったからではなく、彼らがしたいことと私がしたいことが同じだったからだ。私と同程度にサッカーが上手な子は一人か二人いたが、私は常にスターだった。

第二次性徴が始まった時に、特に絶望を感じたわけではない。私は母と似ていたので大人になったら母のような外見になるのが当然と思っていたし、毛むくじゃらで腹がポッコリと出た父の裸を見ると身震いするほどの嫌悪感を感じた。それまで遊び仲間だった男の子たちの身体の変化は、彼らが将来私の父と同じような身体に向かうことを示唆していて、気の毒だと思ったし、かかわりたくない気がした。

そして、私は十三才の時に恋をした。相手はリア・コスタという同級生の女の子で、赤みがかった金髪とグリーンの目をした、繊細な造りの美しい顔立ちの少女だった。学校では休み時間も昼食もトイレに行くのもいつも一緒で、二人で下校するとお互いの部屋に入り浸った。

ある日、彼女の家でベッドの縁に座っておしゃべりをしていたらうとうととしてしまい、目が覚めるとリアの唇が私の口をふさいでいた。それが私のファースト・キスで、頬から太ももまでジンジンして戸惑ったのを覚えている。それから私たちは会うたびにお互いを求め合う関係になった。

やがて母に現場を見つかり、こっぴどく叱られた。母が父に告げ口をして、父は私にびんたを食らわせた後で髪を掴んで引っ張り倒して足で踏みつけにした。二度と同じことをしたら髪を剃って坊主にすると脅された。保守的なクリスチャンの家だったので、両親にとってショックだったということは理解できる。父は私が十三才という若さで肉体関係を持ったことと、その相手が女性だったという二つの点に(多分後者をより強く)激怒したのだった。

私のリアに対する気持ちは父の叱責と脅しの結果、却って強くなった。父のお陰でリアと私はより慎重かつ巧妙に逢瀬を重ねるようになり、高校を卒業するまでの四年間、私たちは密かに絆を深め合った。

あの事件が起きたのは卒業式の日の午後、二人が時々デートに使っていた廃工場の事務室だった。私がリアにキスをしながらリアの制服のスカートのホックを外してスカートがするりと床に落ちた時、黒い目出し帽をかぶった若い男がナイフを左手に部屋に入ってきた。私は同級生の男子ならある程度対等に渡り合える自信があったが、その男の体格は規格外で、ナイフを見て、刃向かえば殺されると直感した。男は私たちの足をはらって床に転がしてから私を後ろ手に縛りあげて口にタオルを押し込み、私が見ている前でリアを犯した。リアは泣きながら抵抗したが全く歯が立たず、男のおぞましいものを奥底まで突き立てられた。

私は自分の無力さに絶望した。男が入ってきた時に敵わないと思っても椅子でも棒でも振り上げて立ち向かうべきだった。そうしなかった自分に腹が立った。目の前でリアを犯されるぐらいなら、立ち向かって殺された方がマシだった。

リアが犯された後、更に恐ろしいことが起きた。その男はリアが見ている前で私を犯したのだった。私はリアに対して彼氏のような立場で、リアを一生守る覚悟でいたし、リアもそのつもりだったと思う。自分が男性に対してこんな形で力なく屈服する時が来るとは考えたことが無く、無残な敗北の姿をリアに晒している自分が耐えられなかった。

男は高笑いを残して立ち去り、リアは私を後ろ手に縛っていたロープを解き、私とリアはお互いの股間からこぼれ出る粘液を見て、抱き合って泣いた。警察に届けることはできなかった。警察に届ければ必ず両親が呼ばれて、私とリアが廃工場の事務室で四年間逢瀬を重ねたことが露見してしまう。私たちは一刻も早くあの男の体液を身体から洗い流したくて、各々の家に帰った。

帰宅すると廃工場で経験したのとは別の種類の、更にショッキングな事態が私を待っていた。私は自分の部屋に戻る前に浴室に入って身体のあらゆる隙間まで汚れを完全に洗い流したが、夕食は殆ど喉を通らず、誰とも口を聞かずに自分の部屋に戻った。しばらくして父がノックもせずに私の部屋に入ってきて私に言った。

「お前が女だということは、今日よく分かったはずだ。大学に行ったら色々な男性と友達になり視野を広げて将来の伴侶を探しなさい」

それを聞いて、一瞬、父が何を言いたいのか理解できなかったが、まもなく恐ろしいことに気付いた。父は私がレイプされたことを知っている……。

その点について確認するため、私は可能な限り平静を装い、声を震わせないように言った。

「よく分かったわ。今日のは教育的指導だったということね」

父は痴呆めいた微笑を浮かべて「分かればいい」と言ってうなずいた。これでリアと私を犯したのは父が雇った男だったと分かった。なんと、父は娘に自分が女であることを分からせるためには、チンピラの精液を自分の娘の身体の中に注入させることさえ厭わなかったのだった。父にとって女同士が交わるというのはそれほどの悪行だったということだろう。

父に犯されたのと同じだと思うと、私の愛するリアを犯させた父に対する殺意が湧いてきた。私は立ち上がって父に体当たりして部屋の外へと突き飛ばし、中から鍵を締めた。



翌日から父とは一切口を聞かなくなった。父がしたことを母が知っているのかどうかはその時は判断できなかったが、少なくとも私たちをレイプさせることを事前に承知していたわけではないのは確かだと思った。母は明らかに抑うつ状態にあった私に対して、問い詰めることなく何かにつけて気遣ってくれた。母親が自分のお腹から生まれた娘が暴漢にレイプされることを事前に容認するはずがない。もし後で父から聞かされていたとしたら、そんな男性を夫として寄り添わなければならない母は気の毒だとしか言いようがない。

四月から私は大学に進学し、アルバイトをするようになった。すぐにでも家を出て一人で住みたかったが、経済的に無理なので家で寝起きしたが、父とは視線を合わせず会話もしなかった。

リアに会いに行きたかったが、なかなかその勇気が出なかった。リアをレイプさせた犯人が自分の父であることをリアに言うべきかどうか分からず、犯人の家族である私はリアに顔を合わせる勇気が無かった。リアに会って全てを話そうと決心したのは大学が始まって最初の土曜日の朝だった。

リアに連絡を取ろうとしたが、電話に出ず、ワッツアップにもメールにも応答が無かった。リアの家に電話をするとお母さんが電話に出た。

「リアは昨日の夜亡くなったの。寝る前にお風呂に入ったのに出てきた気配が無かったから私が気になって見に行ったら手首を切って死んでいた。アリシア、どうしてもっと早く会いに来てくれなかったの?!」
と言って電話の向こうでリアのお母さんが泣きじゃくった。

レイプされたことのトラウマで自殺したのか、私が疎遠になったことを苦にして自殺したのかは分からなかった。

葬儀の日に見た棺の中のリアの顔は不自然なほど安らかで微笑んでいるようにさえ思えた。

それから何日も眠れない夜が続いた。リアをレイプした真犯人は私の父だったが、リアを自殺に追いやったのはすぐにでも慰めに行くことを怠ったこの私かもしれないという思いが私を責め続けた。

人間とは強いもので、二ヶ月もすると私は普通に大学に通ってまるで何事もなかったかのように生活が送れるようになった。男女とも友達はできたが、誰とも深い付き合いはしなかった。

私をデートに誘う男友達も何人か現れた。私のように背が高くボーイッシュな体格で性格も男っぽい女性に魅力を感じる男性は意外に多いのだ。

そんな時には、
「ごめん、他に好きな人がいるから」
と言って断るのが最も手間がかからない撃退方法だった。そうすればその男性が好ましいかどうかを評価する立場にないことが相手にも理解できるので無難だし、浅い友達のままでいることができる。

それに、好きな人がいるというのはウソではなかった。リアが死んでから何年間もの間、私は自分の恋人はリアだと本気で思っていたからだ。

口には出さなかったが、男性と友達以上の関係になる気はなかった。父やあのレイプ犯人と同じ性器を股間にぶら下げているということが「男性」の定義であり、そのカテゴリーの生き物と裸で身体を合わせることは一生あり得ないというのが正直な気持ちだった。

大学の女友達の中にはリアに負けないほどの美人や、リアと同じように透き通るふわふわした肌を持った女性や、優しかったり話していて面白い人もいたが、全てを兼ね備えている人はいなかった。仮に居たにしても、その人が女同士の愛を受け入れる可能性は低いはずだった。

私の体格や性格のせいで、そして気づかないうちに放つオーラがあるのかもしれないが、私に抱かれたくて近づいて来る女性には不自由しなかった。大学四年の時に一度だけそんな女性を抱いたことがある。真っ白な肌、髪は赤みがかったブロンドでグリーンの目をした新入生で、一瞬リアが生き返ったかのような錯覚を覚えた。でも、ベッドの中で私は失望した。リアと似ていたのは外観だけで、何の安らぎも感じさせない薄っぺらな女性だった。リアのような人はこの世界には居ないし、リアは二度と帰ってこないのだと思い知らされた夜だった。

そんなことがあってから、私は自分が一生伴侶を得られない運命にあると自覚するようになった。



ブルックナー賞の受賞記念パーティーの翌日、テオにワッツアップでメッセージを送り、金曜の夜の食事に誘った。テオが住むシルミオーネはミラノから車で約一時間半ほどの距離だが私はホテルを予約した。シルミオーネはテルメ(温泉)で有名なローマ時代からの保養地で、ガルダ湖に突き出た半島にある旧市街は私が好きな場所のひとつだった。

金曜日の午後、湖畔に面したホテルにチェックインして、テオが来るのを待った。彼は黒のタイトパンツにゆったりとしたストライプのシャツという姿でホテルのロビーに現れた。受賞記念パーティーで会ったときには髪をハードジェルでバック気味に決めてスーツにネクタイという姿だったが、今日は長めのボブをパウダーワックスでふわっとさせたヘアスタイルだった。赤みがかったブロンドの髪がテオの笑顔のはにかみを更に魅力的に見せている。

「すみません、遅くなっちゃって」
私を見上げるテオの瞳は澄みきっていた。微かな若い男性特有の汗の臭いがボディーソープの香りと混じって私の胸をときめかせた。テオは高校の授業が終わってから自分のアパートに帰って、私と会うためにシャワーを浴びてきたのだろう。

――テオは私に抱かれるつもりで来てくれた……。

ホテルのレストランで食事をして、そのまま部屋に連れて行った。三十四才の女が男子高校生を一対一で夕食に誘うこと自体が軽率であり、部屋に連れて行くのは犯罪的と言われても仕方がないことは自分でも認識していた。でも私は倫理的な行動基準を失うほどテオに魅かれていた。

テオは何の抵抗もなくさりげなく自然に、私に身をゆだねてくれた。テオは男性であり解剖学的には父やあの男と同じものを持っていたが、本質的に異なるものだった。それが女に挿入することにより支配権を確立するための道具だと認識している男性は多い。でもテオのそれは私から喜びを与えられ支配されるために存在しているようだった。

テオは男性でありながら男性ではなかった。テオの心と魂はリアと同じぐらい女性だった。彼は自己本位ではなく、私の微かな感情の変化、衝動、自分でも気付かないレベルの恐怖の芽生えを理解することができた。独占欲を出さずに人を愛せる能力を持っていた。

彼はベッドの上で恐れることなく私に身を預け、私はリアの時と同じように持って生まれた支配欲を気兼ねなく発揮することができた。私に言われた通り後ろ手に緊縛されたり、お尻をベルトでしばかれたり、言葉で奴隷扱いされることも厭わなかった。

テオが生まれつきマゾヒスティックで被支配欲が強いのか、作家としての私を崇拝しているから言う通りにしてくれたのかは定かではない。ただ、テオにとって大事なのは自分がどうされたいかということより、私が何をしたいかということなのだと感じられた。

私は土曜日の朝テオにプロポーズした。

「本当に僕なんかでいいんですか? 僕はアリシアが少しでも気持ちよく感じられるためなら何でもします。一生そばにいられるだけで幸せです」

テオはまだ十七才なので入籍するには親の承諾が必要だった。しかし、年令が倍の私としてはテオの両親の承認を得る自信は無かった。テオは七月十日の誕生日に自分の意志で結婚できる年令に達するので、その日を待って入籍することになった。

私はミラノのアパートを引き払い、シルミオーネにある小さなヴィラを購入して移り住んだ。

二人のママゴトのような同居生活がスタートした。


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新作「呪いのバービー人形」を出版しました(日英TS文庫)

「呪いのバービー人形」は2016年8月に桜沢ゆう(Yu Sakurazawa)が出版した英語小説「Forbidden Memories」の日本語版で、TSホラー・ミステリー小説です。日英TS文庫の五作目になります。

主人公は若くしてジャーナリストとして成功したイギリス人男性のディーン・ベイカーですが。舞台はイタリアのフローレンス(フィレンツェ)~ペルージャです。ディーンは突然誘拐されて北イタリアの荒地にある建物に幽閉され、恐ろしい目に遭わされます。目に見えない犯人が送りつけて来る謎のメッセージを解読しようと頭を巡らせますが、なかなかその意図は読めず、最終段階に近づいた時に全てがつながるのでした。



原作のタイトルはForbidden Memories(副題:Feminized as a Punishment)です。

副題を見ると内容の想像がついてしまうので、見なかったことにして日本語版をお読みください。まあ、性転のへきれきの読者なら誘拐された段階で想像はつくでしょうが……。

 

 


呪いのバービー人形

第一章 フローレンスの怪物

私が妻と小さな息子を連れて二ヶ月ほど前にフローレンスに引っ越して来たのは、一九六八年から一九八五年にかけて花の都フィレンツェ(英語名フローレンス)でおびただしい数の殺人を犯しながら逮捕されなかった犯罪者「フローレンスの怪物」に関する本を書くためだった。

私は物書きとしてある程度の成功を収めていた。大手新聞であるガーディアン紙にジャーナリストとして就職したが、ロンドンの出版社に移り、三十二才になった今、本を書くために休職できるほどの蓄財ができた。

私は「フローレンスの怪物」と呼ばれた犯罪者について本を書くという任務を楽しんでいたが、題材の生臭さが時に私を不安にさせた。私は頭をスッキリさせるためにアルノ川を横切ってミケランジェロ広場まで歩く習慣があった。今、ブラブラといつもの道を横切ったところだが、普段なら人が溢れているのに、今日は人がまばらだったので何となく不安を感じた。道端のベンチに座って気持ちを落ち着けた。

大きく深呼吸していると、ポンコツ車が私のすぐ近くに停車した。ドライバーが窓を開けて私に呼びかけた。

「あんた、ライターを持ってないか?」
彼は手にタバコを持っていた。強いイタリアなまりの英語だったが、英語でしゃべるのに相当苦労しているという感じだった。

とにかくそのドライバーは私を見て土地の者ではないと分かっているようだった。

私はドライバーを観察した。彼はまるで十分な餌を与えられていないグレイハウンド犬のように痩せていて、お腹を空かせているように見えた。せいぜい二十八、九才と思われるが、おそらく育ちの悪さのせいで実際よりは老けて見える。

私はベンチから立ち上がってそのドライバーの要求に従った。ポケットからライターを取り出してドライバーの煙草に火をつけ、立ち去ろうとしたところ、後部座席のドアがサッと開いた。何が起きたのか自分でも理解できないうちに、私は黒くて強い腕で後部座席に引き込まれた。私を掴んだ男を見ると若い黒人で、おそらく二十代前半だろうと思った。北アフリカから何年も前にイタリアに移住した男ではないかと推測したのは、流ちょうなイタリア語をしゃべったからだ。

私はイタリア語には自信が無いが、その黒人が私を口汚く罵っていることは分かった。彼の太い眉は怒ったように左右がつながり、非常に恐ろしい顔をしていた。

その黒人が私を後部座席に引っ張り込むのに成功するや否や、ドライバーがエンジンをふかしてポンコツ車が走り出した。私は鞭でしばかれたように現実が見えてきた。誘拐されたのだ! どうにかしなければならない……今すぐに! 私は大声を上げようと口を開いたが、毛むくじゃらの白い手で口をふさがれた。私の口をふさいだのが三人目の人物で、三十代後半の黒い髪の白人だということが数マイル走った後で分かった。その人物は私と同程度の初歩的なイタリア語しかしゃべれないようだった。ハンガリーとかルーマニアなどの東欧から最近移民してきたのではないかと推測した。

その日から二年半私が幽閉されていた間、彼らの名前は分からなかった。話を分かりやすくするため、三人を三銃士に見立ててアトス、ポルトス、アルテミスと呼ぶことにする。

普段見慣れた広場や運河や塔が窓の外に見えなくなった。フローレンスの外まで来たのだと分かった。犯人は私が車の進路を目で辿っていることに気付いたらしく、私を眠らせた。

アルテミス(毛むくじゃらの東欧人)が皮のバッグから注射器を取り出して私の腕に突き立てた。私はそれから何時間かの間、死んだように眠っていたようだ。

目を開けた時、アトス(私が煙草に火をつけてやったイタリア人)は、殆ど人が住んでいない山間の不毛地帯を運転していた。一目見て、その地帯は耕作が不可能で、例え建設機械を使っても家を建てるのが困難な荒涼とした場所だった。

空気も冷えてきた。鳥肌が立ってきた腕を手でこすって温めた。フローレンスから遠く離れた北イタリアのどこかまで連れて来られたのは確かだった。息が苦しく不規則になり、喉が渇いてきた。

「水!」
と私は動揺した声で呟いた。
「水をいただけませんか?」

「待て」
とポルトス(北アフリカ人)が唸った。

アトスが私に強いイタリアなまりの英語で吠えた。

「俺たちに命令するな。お前の召使じゃない。目的地に着くまで待て。そうすれば水を飲ませてやる」

アトスの声を聞いて怖くなり、私は反対側を向いて身体を丸めた。狭い車中で何時間も座っていたので足がしびれていた。私の身長は百七十三センチだから背は高いと言うほどでないが、足は長いので、身長百八十センチの人と同じぐらいのレッグスペースが必要だった。

誘拐犯人たちの表情も段々厳しくなってきていた。私の身体中の筋肉が緊張していた。

突然、車が周囲を花に囲まれた建物の前で停まった。三棟が繋がった形の建物の周囲は雑草が伸び放題で、人が住んでいるとは思えなかった。建物にはバルコニーやテラスにつながる戸外の階段は無かったが、駐車スペースと呼ぶべき場所があり、アトスはそこにポンコツ車を停めた。

建物の中に引っ張り込まれた。中をざっと見たところ、最初の棟にはリビングルームと、三段ベッドのある寝室、キッチンと浴室があった。

二つ目の棟は研究所のような感じで、ホルムアルデヒドと消毒剤の臭いがしていた。二つ目の棟の中を通りながら、この犯人たちは何を生業にしているのだろうかと考えた。科学者だろうか? いや、あり得ない。三人はブルーカラーの労働者のように見えた。

その後で私が引っ張り込まれて閉じ込められたのは縦二メートル、横二メートル半ほどの部屋で、壁はむき出しで床はセメントのままだった。外からカチャリと鍵がかけられた。私は罠にかかった動物のように気持ちが動揺していた。神経質になって、ドアをドンドンと力任せに叩いた。

「開けてくれ!」

私は絶望に身体をすくませながら叫んだ。

「頼むから、ここから出してくれ!」

犯人たちが近くにいるのは確かだったが、私をどうすべきか決めかねているようだった。しばらくすると三人の足音が遠ざかっていき、やがてその響きも聞こえなくなった。

私は失望のあまり地団太を踏んだ。自分がどんな場所に閉じ込められたのか、大体の状況が理解できた。

その部屋は豚小屋と言っても誇張ではなかった。

壁にはカビが生えていて、部屋中にカビくさい臭いが立ち込めており、豚小屋と呼ぶにふさわしい。ただ、その部屋には豚小屋には無い文化的痕跡があった。弾力のある折り畳みベッド、小さなコーヒーテーブルと壊れそうな椅子だ。少し欠けた小さな花瓶がコーヒーテーブルの上に置いてある。等身大の鏡と、いわゆるお爺さんの時計のようなノッポの古時計が立っていた。

隣りの部屋へのドアとおぼしきものがあったので蹴り開けた。そこには浴槽、便器と洗面台があった。

浴室のドアを閉じて等身大の鏡の前にゾンビのような姿で立った。自分は感じのいい外観だと思っていたが、鏡の中の私はひどい格好だった。体格は逞しいというよりはやせ細った感じであり、本来健康的なはずの顔色はまるで漂白されたように蒼白だった。緑の目の瞳孔は開き、手が震えている。

さまざまな想いが頭の中を横切った。あいつらは一体誰で、私に何をしようとしているのだろうか? 身代金が目的だろうか? それはあり得る。一応金持ちの部類だから、誘拐のターゲットにされてもおかしくない。身代金目的の誘拐ならやつらは既に妻に連絡し、身代金を要求しただろう。そうなれば私の妻のシーナは間違いなく要求された金額を送金したに違いない。シーナは私の命が危機に陥っていることを知ったら、一時たりとも無駄にせず行動に移すことができる女性だ。そう考えれば、さほど心配する必要はない。

しかし私の神経はズタズタになっている。背丈より高い古時計がチクタクと大きな音を立てて時を刻み、その音が私の不安を増大した。

ただ、心の奥底で、これは身代金目的の誘拐では無いという予感があった。きっと何か見えないものが隠れているという気がする。

私はその時、バラの香りがするピンク色の封筒をコーヒーテーブルの上に見つけた。


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新作「禁断の閉鎖病棟」を出版しました(日英TS文庫)

日英TS文庫四冊目となる小説「禁断の閉鎖病棟」を出版しました。これはTSホラー小説です。

これは2016年5月に出版されたYu Sakurazawaの英語小説「Forbidden Asylum」の日本語訳です。Forbidden Asylumは海外TS小説のサイトでも取り上げられたことがあるTSホラー小説です。

主人公は25才の男性で2才上の愛妻が居ます。何不自由なく幸せに暮らしていたのですが、ある日、一人で郊外にドライブした時に高速道路から分岐した田舎道で自動車が動かなくなってしまいます。奥さんに電話して迎えに来てもらおうとするのですが、スマホの電池が切れていたので、どこかで電話を借りようと歩き始めます。しかし、そこは人っ子一人いない荒涼とした地域で、歩いていると大きな菩提樹の陰にある病院に行き当たり、「電話を貸してください」と入っていきます。

ところが、そこは世にも奇妙な病院でした。病院にたった一つしかない電話から奥さんに電話をすることには成功するのですが、それから後は物事が思い通りに進まなくなるのです……。

原題:Forbidden Asylum
原書の副題:Feminized in Insanity
原作者:Yu Sakurazawa

日英TS文庫の前回の作品「過去からの呪文」と同じく(それ以上に)原作に忠実に日本語版を書きました。約四万四千文字なので価格は390円に設定されています。

普段、怖い目にあいたいと思っている読者にとっては、恰好のホラー小説です。

 


禁断の閉鎖病棟
原題:Forbidden Asylum
原書の副題:Feminized in Insanity
原作者:Yu Sakurazawa
日本語版作者:桜沢ゆう

「閉鎖病棟」とは精神科病院の病棟で出入り口が常時施錠され入院患者や面会者が自由に出入りできない病棟を示す言葉で、開放病棟の対語である。

第一章 狂気の事務長
私は夢見心地で高速道路を運転していた。私の愛車、マルチ・スズキのアルト800を運転するのはこの上ない喜びだ。初めて買った車だから愛着があるというだけでなく、マニュアル・シフト車のハンドルを握り、最高のタイミングでクラッチを踏んでギアをシフトして他の車をビューンと追い抜くのは快感としか表現のしようがない。セルリアン・ブルーのアルトは私の感性に呼応して思い通りに動いてくれる。父の遺産を引き継いでいたので、その気になればBMWの5シリーズでもトヨタのSUVでも買えたが、欲しかったのはこのアルトだけだった。

カルナタカ州の旧国道4号、通称NH4は映画の題にもなったことがある趣のある国道だ。郊外に出ると窓の外の景色は退屈な田舎の風景でしかない。まだ朝なのに荒地を走るタールとコンクリートの道路を強い日差しが焼き焦がす。樹木はまばらで五十メートルに一本立っていればまだ良い方だ。でも、大都市バンガロールの気違いじみた喧噪と交通渋滞を逃れ、遠く離れた田舎を一人でぶっ飛ばす気持ちは格別だ。

気持ちよくトップギアで走っていたが、突然車がガクガクっとなった。アクセルを踏んでも反応しなくなり、緊急停止を試みたがブレーキもきかない。必死でハンドルにしがみ付き、何とか路肩に停車して、ほっと胸を撫で下ろした。

ボンネットを開けたが、特に煙や蒸気が噴出しているわけではなく、エンジンオイルをチェックしたところ正常範囲内だった。私は特にメカ音痴ではないが、何をしたらよいか分らず、お手上げだった。子供の時から住み込みの運転手兼メカニックが居る家に育ったので、自動車が故障した場合の対応を学ぶ機会はなかった。

意識しないうちにNH4から分岐する道に入っていたようで、そこは人っ子一人見当たらない荒れ果てた場所だった。車が通れば近くのカーショップまで乗せてもらえるのだが、停車してから十分間、一台の車も通らなかった。

仕方ない。家からはちょっと遠いがディンプルに電話して迎えを頼むことにしよう。ディンプル(えくぼ}は妻の愛称だ。彫りの深い顔に浮かぶ可愛いえくぼ……。私が困っていたらいつも助けに駆け付けてくれる、世界一頼りになる相棒だ。非常にしっかりしていて、家の中では頭が上がらないが、ディンプルの優しい笑顔を思い出すと気持ちが和む。

助手席に置いたバッグからギャラクシーS9を取り出す。

――あっ、電池が切れてる! 警告が出ていたからUSBプラグを挿し込もうと思ったのに、つい忘れていた。困ったぞ……。

まずいことにバッグには小銭入れしか入っていなかった。

車のキーを回すとメーターのランプが点灯したので、停車したままでスマホを充電することは多分可能だろう。後から思うと、そうしていればよかったのだが、二十五才の未熟な私は何もせずに待つことには耐えられず、小銭入れをポケットに入れて車を降り、人気がありそうな方向へと歩き出した。

イバラが生い茂った田舎道をトボトボと歩く。暑い! 日差しが高くなってとにかく暑かった。一キロ近く歩くと、ヒンヤリとした風が流れて来た。近くに川が流れているのだろうか。そのまま歩いていると大きな菩提樹が見えてきた。そして、その菩提樹の向こうに建物が忽然と姿を現した。こんもりとした木に隠れて見えなかった建物が視界に入ったというだけの話なのだが、その時の私にとっては感動の光景だった。

私は子供のようにはしゃいで駆け出した。菩提樹に近づくと背後の建物がはっきりと見えてきた。

それは外壁を白で塗装された建物で、清潔な感じがした。一般の住宅よりはずっと大きいが、大きなビルというほどではない。取り立てて特徴の無い普通の建築物であり、バンガロールには同じ形の建物が何百何千とあるだろう。「取り立てて特徴が無い」という言葉が、この建物を表すには最も適切だと思った。

何の建物かというと小さな工場、小さな役所または診療所というあたりではないだろうか。鉄でできた背の高い門に近づくと「ヴィンセント病院」という看板が目に入った。私の三つ目の推測が当たっていたわけだ。

一見してヴィンセント病院について特に不審な感じはしなかったが、ただ「高圧注意! 壁には高圧電流が流れています」という標識が目についた。どうして病院の壁に電気を流すのか意味不明だ。これは人間用の病院ではなく、猛獣を収容するアニマル・ホスピタルなのだろうか? それとも、最近産婦人科病院からの誘拐事件が相次いだ結果、門以外からの人の出入りを完全に遮断するという対策を講じたのだろうか……。

ところが、近づいてみると意外にも門番や警備員は居らず、鉄格子でできた門のラッチ式のロックを手で開けると難なく中に入ることが出来た。前庭には鉢植えが幾つか置かれており、建物の玄関ドアへとつながっていた。ドアを開けて中に入るとフロントロビーがあり、受付窓の向こうに事務所が見えた。

私は受付窓からオフィスの中を覗き込んだ。男が一人事務机に座っていた。四十代半ばぐらいだろうか。客観的に見て普通の男性だった。顔立ちはよく、白髪交じりの髪は少し縮れているが、年の割に引き締まった体型をしていた。ただ、安っぽいポリエステルのカッターシャツ、首にかけた味気の無い金メッキのチェーン、そして何よりもシャツの上から透けて見える胸毛の気持ち悪さに、ついイライラしてしまった。

しかし、そんなことはどうでもよかった。大事なことはこの男性に助けを求めることだった。

「あのう、すみません」

「はい、なんですか?」

「病院の方ですよね?」

「事務長のアショックですが」
抑揚が無くて何の特徴も無い声で返事があった。この建物の外観と共通点を感じた。

「私はレイと申します。バンガロールからNH4を走っているうちに側道に入ったみたいなんですが、車が急に故障して動かなくなってしまいました。スマホも電池が切れてしまったので、ここまで十五分ほど歩いて辿り着きました。家内に迎えに来てくれという電話をしたいので、携帯電話を使わせていただけないでしょうか?」

「それは災難でしたね。残念ながら私は携帯電話を持っていません。この病院のスタッフも誰も持っていません。この病院は……何と言うか、精神を病んでいる人のための病院なので、余計な精神的負担をかけないよう、建物の中への携帯電話やスマホの持ち込みは禁止しているんですよ」

「でも、そのパソコンはネットにつながっていますよね? そこから妻にメールを送信させていただけませんか? メールだと電話と違ってすぐには通じないかもしれませんが……」

「レイさん、恐縮ですがパソコンはネットにはつながっていませんし、WIFIもありません。もし患者が夜中に事務所に忍び込んでメールを送信したりブラウジングしたら困りますんでね。うちの患者さんは処置するために入院しているのであって、楽しむためにここに居るわけじゃありませんから」

「分かりました、アショックさん、他を当たってみます。スマホがそろそろ充電されているはずなので車まで歩いて戻るのが早いかもしれません」

それまでぶっきらぼうだった事務長の物腰が急に柔らかくなった。

「ちょっとお待ちください。この炎天下を十五分も歩いて熱射病になったら、それこそ大変です。緊急通話用に固定電話を一回線だけ引いてあって、電話機が三階にあります。お使いになりますか?」

「助かります! 是非お願いします」

「じゃあ三階までご案内しましょう」

アショックについて古風なベンガラ塗りの階段を三階まで上った。一応ちゃんとした病院のようなのにエレベーターが無いとは驚きだった。階段の途中で、だらしない服装の年配の男が階段のさび付いた手すりにしがみついているのを見かけた。

私がその男の横を通過した時、男は濃い茶色のフレームの眼鏡に右手をかけて私をにらんだ。

「ついに宇宙がその姿を現した。わしの家のジャグジーの中に宇宙があるんだ!」

急に男が叫んだので心臓が飛び出しそうになった。アショックは私の肩に手を置いて言った。

「心配ご無用、あの男は妄想しているだけです。シバという名前で、ただの貧乏人ですが壮大な幻想を抱いていて、自分のことを画期的な発見をした偉大な天体物理学者だと思い込んでいるんです」

「そうですか……」
アショックが患者の病状を説明するのに嘲るような口調で話したことに嫌悪感を覚えた。

心の病と言うものは簡単にコントロールできるものではなく、心の病を持つ人について嘲笑するのは全く非倫理的だ。アショックの無神経さにムカムカと腹が立ってきたが、電話機があるはずの三階の部屋にやっと到着して我に返った。

部屋に入って気づいた最初のことは、壁面の約二メートルの高さに長方形の金属扉があることだった。スイッチボックスの扉にしては大げさな感じだった。

それはガラス窓と造り付けの小机だけがある小部屋で椅子もない。机の上には黒い電話機が置かれていた。それは子供の時に家にあったのと同じ回転ダイヤル式の電話機で、一九九○年代にタイムスリップしたような気持になった。

――奇妙だ。

不思議な感覚だった。ヴィンセント病院には時間が流れているのだろうか……。

震える指で妻の携帯電話の番号をひとつずつダイヤルした。アショックは小部屋から出て行ってドアを閉めた。アショックがプライバシーを気遣ってくれたことには意外な気がした。ダイアルし終えて応答があるまでの時間が長く感じられた。ディンプルの少しハスキーで魅力的な声が聞えた時、私は救われた気持ちになった。

「もしもし、どなたですか?」

「僕だよ、レイだよ!」

「あなたなのね? どこから電話してるの?」

私は今日の苦労の一部始終を妻にぶちまけた。ディンプルは私たちの親友のサンジャイと一緒にショッピングモールにいるようだった。

「ヴィンセント病院はNH4から分岐した道路の近くにあるはずだよ。正確な場所はネットで調べてみて。大きな菩提樹が目印だ。出来るだけ早く来てね!」

「パニックにならないで! NH4ならよく分かっているから簡単にたどり着けると思うわ」

「NH4からどこでどう側道に入ったのか、自分でも分からないんだけど、分岐してからかなり走ったみたいなんだ。殆ど人気のない場所に来ちゃったから」

「悪い子ね、一人でそんなに遠くまで行くなんて」
ディンプルは子供に説教するような口調で私に言った。

「サンジャイと私がそこにたどり着くまでには、多分一時間半ぐらいかかりそうね。交通渋滞がひどければ二時間かかるかも」

「ごめんね……」

「まあ、いいわよ。ええと、病院の名前をもう一度言って」

「ヴィンセントだよ。ヴィンセント病院」

「ヴィンセント病院? 聞かない名前ね。ねえ、サンジャイ、ヴィンセント病院って知ってる?」

サンジャイの声は受話器には聞こえなかったが、ヴィンセント病院という名前は知らないようだ。

「すぐに出発するから心配しないで待っていて。途中で知り合いのメカニックを拾って行くとサンジャイが言ってる」

「本当にごめんね。二人に迷惑をかけて」
と言って電話を切った。

ディンプルの優しい声を聞けただけで幸せだった。妻と私の二人だけなら途方に暮れていたかもしれないが、サンジャイが居るから何とかしてくれる。本当に頼りになる最高の男だ。

妻に電話で助けを求めるという最重要課題を終えてひと息ついた。後はロビーまで下りて行って妻とサンジャイの到着を待つだけだ。知り合いのメカニックを拾ってくると言っていたから、きっと愛車のアルトに乗って家に帰れるだろう。

小部屋のドアを開けるとアショックが心配そうな表情で立っていた。

「お友達に電話は通じたかい、レイチェル?」

――はあ? レイチェルだって?

アショックは今私をレイチェルと呼んだ。若々しく、男らしくてスポーティーなこの私を、女の名前で呼ぶとはどういうつもりだろうか? 私はスリムだが身長もあり、女性を連想させるところはひとつもない。

不愉快だと一瞬思ったが、真面目な顔をして性別絡みの冗談を突然言い出したアショックを見ていると、可笑しさが急にこみ上げてきた。

「アハハハ。事務長さんって、相当パンチのあるユーモア・センスがあるんですね!」

アショックは笑わなかった。それどころか、真剣で打ち沈んだ感じの心配顔になった。アショックの表情を見ていると、私が一人で笑うわけにはいかないという気がした。

気まずい沈黙の後でアショックが口を開いた。

「レイチェル、薬は時間通りにちゃんと飲んだのか?」


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新作「過去からの呪文」を出版しました(日英TS文庫)


「過去からの呪文」は3月11日に出版した英語小説 “Voices from the Past”の日本語翻訳版です。主人公のピーター・ライトはロンドンに住む21才の若者です。大学を卒業したばかりですが、シェイクスピア・シアターに演劇を見に行った時に、隣に立っていた同年代の女性リビーと知り合い、意気投合して結婚します。新婚旅行先を決めるにあたって、ピーターの頭に浮かんだのはインドのコルカタでした。ピーターは両親の仕事のせいで8才から10才までの2年間コルカタに住んでいたことがあるのですが、そのころの記憶は殆どありませんでした。コルカタに行くと二人はカーリー寺院というガンジス河畔の有名な寺院に観光に行きます。カーリー寺院で瞑想をしている時、地底から湧き出るような声がピーターに聞こえ、寺院を出てガンジス河畔に向かうよう命令されます。言う通りにしなければリビーを殺すとその声に脅迫されます。ガンジス河畔で沐浴している人たちの横を通り、ユーカリやハイビスカスの木立の中に足を踏み入れると、その声はピーターに驚くべき命令を下します。ピーターの人生は思いもよらない形で翻弄されることになっていきます。


Title: Voices from the Past
Author: Yu Sakurazawa
これはYu Sakurazawaの69冊目の英語小説です。

これまでの三作と違い、過去からの呪文は原作をかなり忠実に翻訳した小説です。(結婚式に関するくだりで原文には無い数小節が挿入されていますが……。)原文はかなり濃くて切迫感のある英語で、それを膨らませずに日本語にしたので、日本語小説としては短めです。

桜沢ゆうの小説の価格設定は:
長編(約10万文字~)980円
長編に満たないもの(概ね5~9万文字)590円
英語小説 US$3.99

「過去からの呪文」は37000文字で、390円に設定しました。

Yu Sakurazawaの英語小説は直訳して日本語化すると4万文字前後になるものが多いです。まだ日本語にしていない英語小説が65作品あり、将来日英TS文庫のレーベルで出版する本には390円の設定になるものが増える可能性があります。



過去からの呪文

第一章 ハネムーン

初めてリビー・ブラウンと会ったのはロメオとジュリエットを観るためにグローブ座に行った時のことだった。私は大学を卒業したばかりで彼女はおらず、一人でテムズ川の南岸の劇場に行った。一番安い立見席の平土間でロメオとジュリエットを観劇した。

二人の薄幸な恋人たちの描写が琴線に触れて、私は周囲の人には構わず、涙があふれ、すすり泣いた。たまたま隣に立っていた背の高い女性が私をバカにしたように見下ろして、いかにも無慈悲な様子でせせら笑った。

「男が人前でワンワン泣くとは女々しいわね」
とリビーが言った。
「まあ、あなたのフェミニンな側面がつい前に出たんでしょうけど……。あなたみたいに感情的な男性は初めて見たわ」
と、リビーは忍び笑いした。

「人それぞれだから、放っといてくれよ」
初対面の相手に対してあまりの言い方だと腹が立ったので、私は少し意地悪な言葉を返した。
「僕もこんなに心を打たれる劇を見て涙ひとつ流さない女性を見たのは初めてだよ」

「私の男性的な側面が出たということでしょうね。私を強くて精神的に独立した、そして感情的ではない女性に育てるということが私の両親のモットーだったから」

あっけらかんとした言い方だったので、彼女に対して感じていた反感が消えた。
「じゃあ、僕たち二人がカップルになったら丁度いいんじゃないの?」
と軽い気持ちで冗談を言った。

劇場を出てから一緒にそのあたりをブラブラして、コーヒーショップに入った。

リビーは背が高くてしっかりとした骨格のブロンド美人だった。大らかな感じで、くったくなく笑う女性だった。一方、私は黒い髪で、身長は百六十八センチとイギリス人男性としては小柄な方で、骨格は小作りと、リビーとは正反対だった。でも二人には共通点があった。二人とも二十一才と若く、大学を卒業したばかりで、自分たちをどんな人生が待ち受けているのだろうかとワクワクしているということだった。

何週間かデートを重ねて、リビーと私は結婚した。二人とも家族はあまり結婚には乗り気でなかった。私たちの家族からすると、そんなに若くして特定の相手につなぎ止められてしまっていいのかということと、まだお互いを十分知らないのではないかという心配が先に立ったようだ。でも、リビーと私は結婚して幸せそのものだった。今後の人生を一緒に生きていくという判断をするために十分なほど長く付き合ったと考えていた。

少なくとも私はそう思っていた。

新婚旅行をどこにするかという話になって、リビーは私にまかせると言い出した。

「ピートは誠実な気持ちでこの私を妻にしてくれたんだから、家の中では主人として立ててあげる」
とリビーが言い出したので少し当惑した。

「気持ちはありがたいけど、僕としては主人になりたいわけじゃなくて、対等の関係を築きたいんだ」

「とにかく、どこに新婚旅行に行くかはあなたが決めてちょうだい」

それはある意味で親切な申し出であり、リビーは非常に寛大だと思った。私はどこに行くのがいいだろうかと頭を巡らせた。とある外国の光景が頭に浮かんできた。巨大なカンチレバー橋、ドラムを打ち鳴らす音、ホラ貝を高らかに吹き鳴らす音、マスタード・オイルで調理した魚の芳香……。私はきらびやかな豊饒の地を想像したが、そこには暗くて恐ろしい何かが流れているような気もした。

その地がコルカタであると認識するまでに時間はかからなかった。インドの西ベンガル州の州都で、以前はカルカッタと呼ばれていた大都市だ。

私の両親は旅が好きで、若い頃には色々な国に住んでいた。インドには私が八才から十才までの二年間住み、コルカタで英語を教えて生計を立てていたそうだ。インドの次はタイにしばらく住んでいた。

当時の私はあまりのカルチャーショックやコルカタのきらびやかな光景と音に圧倒されたのか、不思議なことにその時期の記憶が殆ど無い。家で両親から教育を受けていたのか、現地の学校に通っていたのかさえ覚えておらず、友達が居たのかどうか、両親が近所づきあいをしていたのかどうかについても記憶が無い。八才から十才という年令なら詳しく覚えているのが普通だと思うのだが、その部分の記憶が完全に欠落しているのは不可解なことだった。

私の心に残るコルカタの印象は「美しい町」だったが、その表面的な栄光の下に横たわる得体のしれない悪意というべきものがうっすらと記憶に残っている。しかしその悪意が何だったのかは私には分からなかった。それでも私は是非あのカリスマチックな町に行きたいという強い願望を抑えられなかった。まるで超自然的な力が私を妻と一緒にそのガンジス河畔の町へと誘っている気がした。

「コルカタにしよう。君と一緒にコルカタに行ってロマンチックな時を過ごしたいんだ」

「かなり変わった選択ね」
とリビーは好奇の目で私の顔をのぞき込みながらコメントした。
「エキゾチックな趣向が強い人だとは分かっていたけど、インドを選ぶとはちょっとびっくりしちゃった」

「ゴメン。それほど君をがっかりさせるとは思わなかったんだ。勿論ほかの場所でも良いんだよ。例えばもっと平凡なところで、パリとか」

「いやよ、パリなんて! 陳腐すぎるわ。新婚旅行というと誰でもパリに行こうとするもの。喜んでインドに行くわ。すごくいい雰囲気の国だと聞いているし」

リビーがインドに行くことを意外にあっさりと了承したので拍子抜けした。

「インド全体が同じだみたいな言い方は間違ってるよ。一見同じように見えても地方によって全く異なるんだから」

リビーと私は九十日間有効の観光ビザを取得し、一ヶ月間の新婚旅行の予定を組んでコルカタ行きのフライトに乗った。コルカタ国際空港、通称ダムダム空港に到着し、タクシーでエスプレナード地区にあるホテルに向かった。エスプレナード地区はコルカタ市の中心部に位置し、どの観光スポットに行くのにも便利な場所だ。

到着した日にレンタカーでコルカタ市を一巡りして、観光スポットの豊富さと、豊かな光景と音に改めて感銘を受けた。ロンドンは華麗な大都会だが保守的な不毛さとでも言うべきものがあり、それに対してコルカタの官能的な肥沃さは好対照だと感じた。コルカタは豊富な文化、文学、宗教、芸術的な趣で満ちており、何かにつけて私の感覚が動揺させられる気がした。

しかし、この美しい大都会の奥底に私にとって意味のある暗い秘密が隠されているという気持ちがぬぐいきれなかった。

そんなことを考えるのはコルカタの暑さと旅の疲れのせいだと自分に言い聞かせた。ホテルの部屋に入るとリビーと私は交代してシャワーを浴び、ルームサービスで食事を注文した。しばらく休憩した後、リビーは旅行の日程表を眺めていた。

「コルカタは色んな場所を折衷したような町なのね。どこから手をつけたらいいのかさっぱりアイデアが浮かばないわ。ピート、どこに行くかはあなたが決めてちょうだい」

「またかよ……。僕は深刻な決断不能症の女性と結婚してしまったみたいだね」
私は怒ったふりをして唸った。

「その通りよ。私があなたと結婚したのは人生の決断を全部任せられる人を見つけたからだもの」

「はいはい、分かりました。でも、あきれたね。じゃあ、旅程に書いてある行き先を一つ一つ読み上げてみて」

「いいわよ。ヴィクトリア・メモリアル、インド博物館、科学博物館、ファイン・アーツ美術館……」

「美術館や博物館ならイギリスに腐るほどあって、僕は飽き飽きしてる。もっとインドならではのユニークな場所に行こう。例えば宗教的な名所とか」

「じゃあダクシネーシュワルのカーリー寺院はどうかな? インドで最も聖なる川と言われるガンジス川を近くで見られると書いてあるわ」

「それはグッド・チョイスだ。明日、朝食を終えたら出発しよう」


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新作「忘れな草」を出版しました(日英TS文庫)

「忘れな草」はTSロマンス・サスペンス小説です。舞台はロンドンの下町。小学校6年で両親を交通事故で失い、親戚をたらい回しにされたあげくホームレス同然の状況で中学を卒業した少年ノアが主人公です。ノアは16才の時に「忘れな草」というセレモニー専門の参列者派遣会社に就職し、従業員寮でベッドと温かい食事が毎日得られる環境を手に入れます。部屋は先輩従業員との同室ですが、家族のような愛に満ちた毎日を過ごします。

就職して2年目のある日、ロンドン近郊のサリー・カウンティーにある古城のような邸宅で行われる18才の少女アビゲイルの葬儀に参列することになります。魂の奥底まで揺さぶられた葬儀の後で、ノアは予期しなかった事態に遭遇することになるのでした。

***

「忘れな草(副題:モーニングサービス)」は2018年2月14日に出版された以下の英語小説の日本語版です。

Title: Abigail Resurrected
Subtitle: The Professional Mourners
Author: Yu Sakurazawa

Yu Sakurazawaは桜沢ゆうが英語の小説を出版する際のペンネームで、Abigail Resurrectedは彼女の68冊目の英語作品です。

原題を直訳すると「蘇生したアビゲイル」あるいは「アビゲイルの復活」になると思いますが、それではSF小説だと誤解されそうなので、原作の副題「プロのモーナー」の会社名である「忘れな草」を日本語版の題にしました。忘れな草(英語ではForget-Me-Not)の2つの花言葉「私を忘れないで」と「真実の愛」はこの小説のテーマと合致しています。

桜沢ゆうの作品で英語版と日本語版の両方が存在するのは「忘れな草」が3作目です。

第1作目は「第三の性への誘惑」(英語作品名:Enchanted into the 3rd Gender)です。
第2作目は「性転の秘湯」(英語作品名:A Slippery Slope in a Hotspring)です。

今後、それ以外の65作品の中で日本語化が適したストーリーの作品について日本語版の制作を行い「日英TS文庫」というレーベルで出版する予定です。



忘れな草

(副題:モーニングサービス)

桜沢ゆう

 

第一章 風変わりな職業

私の職業はモーニングサービスだ。といっても喫茶店とは何の関係も無い。喪服のことをモーニングと言うが、あのモーニングだ。葬儀屋ではなく、葬儀参列者の派遣業者と言えば分かりやすいだろうか。

世の中には孤独な人が大勢いる。親類が殆どいない人、親類がいても付き合いが全くない人、人と付き合うのが嫌いな人、一年中家に引きこもっていて近所の住人から認識すらされていない人……。事情はさまざまだ。そんな人が亡くなって葬式を行う時、声をかけるべき人がおらず、喪主以外は数人の参列者しかいないという寂しすぎる葬式になる場合がある。

そんな場合、喪主にそこそこの経済力があれば、私たちに声をかけることによって問題を解決することができる。喪主が自分で参列者のバイトを雇うとか、素性のわからない業者をネットで探して申し込むことはお勧めできない。私たちプロのモーナー”Professional Mourners”と単なるバイトではレベルが全く違うからだ。本当に故人を見送るために来た少数の友人や身内は、雇われた参列者を見抜けるだけの眼力を持っているものだ。安易な数合わせをしたために葬式が白々しいものになるのでは意味がない。

私の勤め先は「忘れな草」というモーニングサービス専門の派遣会社だ。私がこの会社に就職してからもう二年が経とうとしている。

***

二年前、私はまだ十六才になったばかりの少年だった。ロンドンの下町をあてもなく歩いていて、商業地区が住宅地区に変わる境い目の地域に昼過ぎに通りかかった際、”Forget-Me-Not”(忘れな草)と書かれた色彩感の無い看板が目に入った。それが茎の先に青い小さな花の集合体を咲かせる植物の名前であり、その名前自体が花言葉であることを私は知っていた。

――忘れな草とは、いったい何屋さんなのだろう……。

玄関のドアの横の「社員募集中。年令・学歴不問」と書かれた貼り紙を見て私は立ち止まった。年令も学歴も不問の就職口、それは当時の私にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。

ドアを開けて中に入ると、そこは建物の清楚な外観とは不似合いな空間だった。縁なしのめがねをかけた顎髭ぼうぼうの五十代の男性が奥に座っていて、私を見るとデスクの前の椅子を指さして「どうぞ」といった。

「あのう、年令と学歴が不問の社員募集って本当ですか?」

「君の名前は?」

「ノア・エドワーズです。ノアと呼んでください」

「ノア、私は忘れな草の社長のレオ・ハリスだ。履歴書は持ってきたかね?」

「履歴書? あ、すみません。書き方が分からなくて……」

「まあいいだろう。じゃあ、住所、氏名、年令と略歴を話してくれ。それから家族関係についてもね」

私は何度かその種の質問を受けたことがあった。両親が居ないと言うと同情が得られることは分かっていたし、明確な住所を言えないと相手が「引く」ことも知っていた。でも、ハリス社長にじっと見られながら話していると、ウソを言ってはいけないという気持ちになり、ホームレス同然であることを含めありのままを包み隠さず話した。

「君がこれまで大変な人生を送ってきたことはよくわかった。君の小ぶりで青白い顔から判断すると、その気になれば涙を一粒や二粒流すのは造作なさそうだね」

「涙を流すってことですか? それ、仕事と関係あります?」

「君は『泣き女』という言葉を聞いたことがあるかい?」

「ああ、葬式で泣くフリをするジプシーの女の人のことですね」

「忘れな草は葬儀の参列者を派遣する会社だ。イギリス人らしい外観の若い白人の男女を派遣できるというのがセールスポイントだ。ちょうど君のような小柄で細身の憂い顔の少年を補充したいと思っていたところだった」

「十六才ですから少年と言うのもおこがましいですが……。でも、雇って頂けるんですか?」

「採用だ!」

「ヤッター!」

ハリス社長が「大変な人生」と評したのは的外れではなかった。貧しさという点においては誰にも負けない人生だった。子供の目から見て明らかにろくでなしの代表だと分かる父親と、アル中の母親の子供として生まれたのは不運としか言いようがない。親が定職についていたかどうかはよく分からないが、私はずっとお腹をすかせていたし、しょっちゅう電気が切られて真っ暗な夜を過ごした。

そんな親でも亡くすことがどんなに悲しいものか、十二才の時に二人そろって交通事故で逝ってしまうまでは思いもしなかった。それから私は親戚をたらい回しにされたが、厄介者扱いをされて家出を繰り返し、そのうちに誰も迎えに来なくなって、ホームレス同然の状況で中学を「一応」卒業した。気候が良い時には公園で寝たり、寒くなると駅のベンチで寝ることも多かった。

「但し、不潔な身なりでクサいにおいをバラまかれるのは困る。すぐ風呂に入って頭のてっぺんからつま先まで、石けんで三回以上洗いなさい。衣服は支給する」

事務所の奥にあるシャワールームに連れて行かれて、身体を洗うように言われた。一時間以上かけて何度もシャンプーをしたり、タオルに石けんをつけて身体中をゴシゴシ洗った。足の親指と人差し指の間をこすっても白いタオルが汚れなくなったのは、五回目に洗った時だった。

生まれて以来これほど清潔になったことはなかった。「石けんの臭いがする女の子」という表現を聞いたことがあったが、私もシャワールームを出た時には自分の身体から石けんのにおいがしていた。

「ハリス社長、シャワーが終わりました」
と大声で呼びかけると、社長が下着と糊のきいたカッターシャツとズボンを持って来てくれた。

「うわあ、真っ白でパリパリですね!」

僕は巨大なパンツに足を通し、指先よりも長いアンダーシャツを三回折りして着た。大きすぎるが、信じられないほど清潔で気持ちが良かった。カッターシャツはアンダーシャツより更に袖が長く、裾は膝まであった。

「大きすぎるな。というより、君が小さすぎると言うべきか……」

「あ、袖を折り返せば大丈夫ですから、お気になさらずに」

「気にするなと言われても、そんな恰好をしてうろうろされたら会社が評判を落とすんだよ。子供服はここには置いてないからなあ……。仕方ないからこれでも着るか」

社長が廊下の横の引き戸の中から取り出したのは女物の喪服が掛かったハンガーだった。

「じょ、じょ、冗談じゃない! 僕、絶対にイヤですから!」

「君ならヒゲも無いし、この喪服を着て帽子を深めにかぶれば、誰が見ても葬式帰りの女性に見えるよ」

「お断りします! 女装させられるぐらいならホームレスの方がマシです。僕の服を返してください」

「クサくて虫が棲みついていそうな服だったから火箸でゴミ袋に入れて外に出したよ。さっき収集車の音が聞こえたから、もう外にも無いはずだ」

「そんなのヒドすぎます! 僕、死んでもスカートははきませんからね!」

「困ったなあ、宿舎に行けば先月辞めたショーンの服があるんだが……」

「じゃあ宿舎まで、この服を貸してください。ズボンの裾を折り返してピンで留めたら何とかなると思いますから」

「いいだろう。服にはちゃんとアイロンをかけて返してくれよ」
私はほっと胸をなでおろした。

午後五時半に閉店するとハリス社長は僕を徒歩十五分ほどの距離にある赤煉瓦壁の四階建てのアパートに連れて行った。グラウンド・フロアの右奥の〇一七号室のドアを開けて、ハリス社長が「ハイジは居るか?」と叫んだ。

居間に面する左側のドアが開いて、栗色のロングヘアをパール付きのヘアゴムで束ねた二十代後半の大柄な女性が出てきた。

「ハイジ、この子が明日からうちで働くことになった。ベッドを割り振ってやってくれ」

「ええと、男の子、じゃないですよね?」
とハイジは僕を観察しながら聞いた。男物の服を着ている男子を見て何ということを言うのだろうと腹が立つと同時に恥ずかしくなって赤面した。

「いや、この子はノアという名前の男だ」

「デニスの部屋にベッドが空いてますからデニスと同室にさせますか? それともショーンの代わりに私の部屋に置いてもいいですけど」

「そうだな……悪いが君の部屋で面倒を見てくれないか?」

――まさか、男部屋が空いているのに女性と同室だなんて……。

「事務所でシャワーを浴びさせたが、着ていた服があまりにもクサかったから捨てさせて、私の喪服を着せて連れてきたんだ。ショーンの服は捨ててないよね?」

「置いてありますよ。この子ならちょうど合いそうですね」

「じゃあ、頼んだよ」
と言うとハリス社長はどこかに行ってしまった。

ハイジの後を追って部屋に入った。左右にクローゼットとベッドがあり、突き当たりの窓際にデスクが並んでいる。ドアの右手に洗面所への入り口らしいものがある。

「このジャージーに着替えなさい」
ハイジは引き出しからピンク色のジャージーの上下を出して僕に渡した。

「え、これ女物では……」

「子供用だから男も女もないわよ。ノアは何年生?」

「もう中学は卒業しましたよ。先月十六才になりました」

「へぇーっ! 小六ぐらいかと思ったわ。ショーンが小六だったから」

「ショーンって先月辞めた従業員のことだと思っていましたけど、子供だったんですか? ハイジさんの親類か何か?」

「ハリス社長の知り合いの夫婦が事故で亡くなって、その子供のショーンをしばらく預かってたのよ。お葬式の参列者として小五から中三ぐらいの少年が一人いると重宝するのよね。死んだお母さんの従姉妹夫婦がアメリカに住んでいることが分かって、ショーンは先月アメリカに引き取られて行ったわ。その夫婦は金持ちらしくて、ショーンは衣類を殆ど置いていったのよ」

小学生の時に両親を事故で亡くしたところまでは私と同じだが、私の親には金持ちの従姉妹の代わりに貧乏な兄弟と意地悪な奥さんがいるだけだった。同じ孤児でも大違いだ……。

「僕は小学生が着ていた服を着せられるんですか……。これでも大人の男なんですけど」

「自分に与えられた役を演じるのがプロのモーナーよ。小学生でも、中学生でも、高校生の役でも演じなきゃなきゃならない。場合によっては若い女性の役もね」

「女性の役はイヤです! ハリス社長にもはっきり言いましたけど、死んでも女装はお断りしますから」

「アハハハ。そんなにムキになられると、却ってやらせたくなるわ。ノアじゃなくてノラという名前でみんなに紹介しようかな。そのジャージーのズボンの代わりにスカートを出してあげるから待っていなさい、ノラちゃん」

僕は既に喪服のズボンを脱いで膝丈のカッターシャツ姿になっていたが、そのままこのアパートから逃げだそうかなと本気で思った。

「冗談よ、冗談。ショーンにも一度も女装はさせたことがないから安心しなさい。私が言いたかったのは、参列者としてどんな役でも演じられるように努力しろということ」

「分かりました。ああよかった……」

「でも、毎日私の言うことをちゃんと聞かないと、女役へのコンバートを社長に進言したくなるかも」
とハイジがにやっと笑って言った。

ジャージーに着替えるとグーッとお腹が鳴った。

「もうすぐ七時ね。食堂に行くわよ」

寝る場所が確保できていて、ご飯も食べられる。今日「忘れな草」の看板が目にとまらなければ今夜も公園で汚い毛布にくるまってひもじい思いをしていただろう。私は神様に感謝した。

食堂はキッチンの横の小さな部屋で、六人の若い男女がカウンターの前に列を作っていた。十七、八才と思われる女性が一人、二十代の女性が二人と、二十才から三十才ぐらいの男性が三人だった。

「みなさん、新メンバーのノアを紹介させて」

「ノア・エドワーズ、十六才です。よろしくお願いします」

「ショーンの代わりよ。私と同室」
と言って、ハイジは一人一人に紹介してくれた。

大きなスープ皿に入った料理をカウンターで受け取り、テーブルに持って行ってハイジの横に座った。

テーブルの真ん中にはパンが山積みになった大きなかごが置かれていた。それは私にとって夢のような光景だった。

「今日はボルドー風のシチューね。シチューと言うよりはスープに近いけど」

大きなジャガイモ、ニンジンとオニオン、それに豚肉の塊がたっぷりと入っている。ニンニクの匂いがして、私は唾をゴクンと飲み込んだ。ハイジが手を組んで祈る仕草をするのを真似してから、ハイジが料理を口にするのを待って豚肉を口に運んだ。

――なんておいしいんだ、ここはパラダイスだ! 教会の炊き出しで、こんな感じのスープは何度も食べたが、しょっぱくて肉はまばらだった。

「ここでは毎日こんなにおいしいご飯を食べさせてもらえるんですか?」
と聞くとハイジはにっこりと微笑んで「ノアって思ったより行儀がよくて素直でいい子ね」と言った。

対面には、私と年が近そうなキャサリンと、二十代半ばのシンクレアという憂い顔の美人が座っていたが、キャサリンが微笑みながら僕に話しかけた。

「ハイジさんがブロンドのショートヘアの女の子を連れてきたと思っていたのに、胸が無いからどっちだろうかと迷っていたのよ。小さいけど私と一才しか違わないのね」

「小さいって……僕は百六十二センチあるんですよ」

「イギリス人の女性の平均は百六十二だから平均並みね。私は百六十八よ。ハイジさんは百八十二」
キャサリンが私を大人の男性のカテゴリーに含めていないのは明らかだった。

「ここで私の身長を言う必要があるのかなあ?」
とハイジがキャサリンをにらみつけ、四人で笑った。

「キャサリンの弟みたいにしてお葬式に行けばいい感じになりそうね」

「ショーンが居なくなって困っていたから、ちょうどよかったわ」

「僕、頑張ります!」

女性はもう一人クリスティンというきれいな人がいたが、隣のテーブルで三人の男性と談笑していた。その四人は私には全く興味が無いようだったが、私が普段人気の多い場所で慣れっこになっていた敵意や蔑視というものは全く感じなかった。

食事が終わると各々が自分の食器をキッチンのシンクまで運んだ。キッチンには私の死んだ母より少し年上と思われる太った女性が立っていて、私の頭を撫でて「男の子だったのね」と言った。後でハイジから聞いたところによると、そのジョーゼフィンという女性と夫のデイヴィッドが、グラウンド・フロアの従業員寮のまかないと、このアパートの三階にあるハリス社長宅の雑務をしているとのことだった。

ハイジと一緒に部屋に戻った。私はベッドの縁に腰を掛け、ハイジは窓際のデスクの前に座ってお化粧を落とし始めた。

「私が先にシャワーを浴びるわね。ノアは私の後でシャワーを使ったら、髪の毛や汚れが残っていないように掃除するのよ。私は不潔なのが大嫌いだから」

「はい、分かりました」
と私は上司に対する口調で答えた。

ハイジは化粧落としを終えて立ち上がるとベッドの縁に腰掛けてセーターを脱ぎ、ブラウスのボタンを外し始めた。私の目の前、数十センチの距離で女性が服を脱ごうとしている。三年半前に母を失ってから私は女性の下着姿を見たことがなかったので慌てた。お辞儀するような姿勢で真下を向いて目を閉じた。

「いいわよ、気にしなくても。同じ部屋で暮らすんだから、お互いの裸を見ることに慣れないとやっていけないわ」

「でも、異性ですから……」

「バカねえ。私にとってノアは一回り年下の弟というか親子みたいなものよ。ノアに裸を見られても何とも思わないし、ノアのオチンチンを見ても襲おうと思ったりしないから心配しなくていいわよ。さあ、目を開けて前を見なさい」

目を上げるとハイジのおへそがすぐ前に会った。ハイジは全裸だった。

「私は暴力で無理やり言うことを聞かせるタイプの人間じゃないから安心して」
とハイジは穏やかな表情で私を見下ろして言うと、シャワールームへと歩いて行った。

中学二年の時に同級生からオナニーの仕方を教えられてから、自分は大人の男になったと自覚していた。まだ実際にセックスをしたことはないが、大人の男と大人の女が同じ部屋で服を脱いだらどうなるかは理解しているつもりだった。男が女にのしかかって事を成すというイメージが頭の中にあった。

ついさっきまで、見上げるほど大きくて強そうな女性を目の前にして、自分はいったいどのように振舞えば良いのか想像できずに戸惑っていた。ハイジに完全に子ども扱いされたお陰で、私はそんな気苦労から解放された気がした。

***

翌朝、朝食が終わると、私は白いカッターシャツと黒の上下に着替えた。ショーンはかなり体格のいい小学生だったことが判明した。ショーンが残して行った服の肩幅や首周りはちょうどよかったが、袖とズボンの裾は私には少し長めだった。

「まあ、このままでも着られないことは無いわね。今日はこのまま出かけるからズボンの裾を汚さないように注意して歩きなさい。裾を二センチ上げるよう、後でジョーゼフィンに頼んであげる」

ハイジは膝をかがめて私の前に立ち、黒のネクタイを結んでくれた。ネクタイをするのは生まれて初めてだった。

タイトなツーピーススーツを着てヴェールの付いた小さな帽子を頭に乗せたハイジはとても気品があった。私はこんな美しい女性と同じ部屋で生活しているのだと思うと鼓動が高まった。

「さあ、食堂でブリーフィングが始まるわよ」

「ブリーフィング?」

「ハリス社長から今日の仕事について説明と指示を受けるためのミーティングよ。棺桶の中に眠っているのがどんな人かを分かっていないと、お葬式でどう振舞うべきなのかが分からないし、もし他の参列者から話しかけられた時に自然な受け答えができないでしょう? そのための準備会議なのよ」

「へぇーっ、そこまでやるんですね」
私は感心しながらハイジと一緒に食堂に行った。

既に食堂には十人以上が集まっており、昨夜の夕食の時は見かけなかった人も何人かいた。黒いレースのドレスを着た小学校高学年から中学生と思われる美しい少女が母親と並んで立っていた。

「自宅から通っている社員もいるんですか?」
と聞くとハイジは頷いた。

間もなくハリス社長が入ってきて、A4の印刷物を全員に配った。

「皆さん、おはよう。今日のブリーフィングを始める前に忘れな草の新しいメンバーを紹介しておく。ノア・エドワーズ君だ。ショーンの後任として、小学校高学年から中学生の少年の役回りを中心にやってもらうことになる」

「あのう、僕の年令は……」
私が義務教育を終えた十六才であることは、昨夜の夕食に来ていなかった人に伝えておかないと子供扱いされる恐れがあると思い、手を挙げて発言しようとした。

「ノア、与えられた役割をプロの役者として演じるのが君の仕事だ。十三才の少年の役を与えられたら、例え君が十八才の女性だとしてもそんなことは関係ない。私が指示した通りに演じてもらう」

叱責口調で言われて「はい、すみませんでした」と謝った。黒のレースのドレスの少女が目を丸くして私を見つめているのに気づいた。社長が変な言い方をしたから、あの少女は私が十八才の女性だと勘違いしたのかもしれないと思い、恥ずかしさがこみ上げてきた。

ハイジが笑いを押し殺した表情で私を見下ろしながら、そっと肩を叩いて慰めてくれた。

「今日の仕事は二件だ。一件目は先週土曜日に亡くなった六十七才のオースティン・ベネットだ。略歴は配布したメモの通りだが、ミスター・ベネットはロンドンに引っ越す前の十数年間レディングの中学校で校長をしていたことになっている。君たちは尊敬する恩師の訃報を聞いてレディングからバスを仕立ててやってきた元生徒たちという想定だ。各自の卒業年次と役割はそこに書いた通りだ。このメモは一昨日作成したからノアの名前は書いてないが、ノアはソフィアの同級生の男子中学生の役割を演じてくれ」

ソフィアとはあの少女のことに違いない。中学生の役とはいえ、きれいな少女の同級生を演じられるというのは朗報だ。もし彼女が私について誤解しているとすれば早くその誤解を解かねば……。

「二件目の仕事は八十八才のシャーロット・サマーズの墓地での埋葬に立ち会うだけだ。シャーロットは七年前に娘夫婦がスコットランドに引っ越して以来、老人ホームに住んでいた。今日確実に埋葬に来るのは老人ホームのスタッフ二名とその娘さんだけだ。そのメモの通り参列するだけの仕事だが、心を込めてシャーロットを見送って欲しい・ブリーフィングは以上だ。マイクロバスは十分後に発車する」
と言ってハリス社長は出て行った。

「ハイジさん、質問していいですか?」

「その通りよ、ソフィアというのはあのかわいい子のことよ」
とハイジは勝手に僕の質問を想像して答えた。

「ブブーッ、ハズレです。質問はレディングのことです。レディングで最近まで十何年も住んでいたのなら、レディングからお葬式に来る人も居るはずです。ここに書いてある中学を出た人も居るかもしれませんし、レディングのどの通りに住んでいるのかとか聞かれたら、僕たちがホンモノじゃないことはすぐにバレると思うんですけど……」

「これは私の推測だけど、レディングで校長をしていたという経歴がフェイクなんだと思うわ。ハリス社長の言い回しから察すると、人に言えない場所で十数年過ごした可能性が高い」

「人に言えない場所って、もしかして刑務所とか……」

「それは私たちが詮索すべきことじゃないわ。ハリス社長が賢明かつ安全と考えて書いた脚本に従って、私たちは与えられた役を演じる。それ以外は忘れるのよ。ノアはソフィアにくっついて真似をしていれば大丈夫。もし何か困ったことが起きたら私に相談に来なさい。さあ、部屋に帰ってオシッコをしてからマイクロバスに乗るのよ」

ハイジと一緒に一旦部屋に戻ってからアパートの玄関前に停まっているマイクロバスに乗りに行った。ソフィアのお母さんと思われる女性から手招きされて、ソフィアの横の席に座った。ソフィアは私の胸に目を遣りながら聞いた。

「ノアの本名は何?」

「本名? ノアだけど」

「やっぱり、十八才の女性じゃないわよね。胸が無さすぎるもの……」

「ははぁ、社長があんな言い方をしたから誤解したんだね。僕は十六才の男だ。もう中学は卒業したから、ソフィアよりお兄さんだよ」

「ウフフフ。私は三月に高校を卒業したのよ。服装とメイクで十二才から二十二、三才まではこなせるの。ハリス社長は平日の朝の仕事に十六才未満の子供を雇ったりしないわよ。ショーンがいなくなってからは子供の役をさせられることが多かったけど、ノアが入ったお陰で子役から解放されそうだわ」

「なんだ、年上だったのか……」

「ハリス社長の話からすると、今度中学生の女の子が必要になったらノアに任せられそうだし」

「それは無いよ。昨日の面接の時に、僕は絶対に女装はしませんと宣言してあるから」

「性別とは関係なく与えられた役を演じろと社長に言われて『はい、すみません』と謝っていたくせに」

「それはあの時の雰囲気で……」

「それに、中学生の女の子が必要な仕事の依頼が来た時に、私がどうしても都合がつかないと断ったら、ノアにお鉢が回るわよ、ウフフ」

「頼むから断ったりしないで、お願いだから……」

「私が断らなくても、もし中学女子が二名必要な仕事だったらどうなるかなぁ? まあ仲良くやろうね」

マイクロバスは一時間かけてカンタベリーの教会に到着した。

レディングから恩師をしのんでやってきた十二名の教え子たちは、ハイジに率いられて教会の中に入り、後方の空席の一角に席を取った。最前列に座っている黒のチュールのベールで顔を覆った黒のロングドレスの女性が故人の妻で五十二才のはずだ。その横に座っている二十五才と二十七才の女性が独身の娘たちだろう。確かに見栄っ張りな感じがする。ハリス社長からもらったメモを見れば大体の想像がつく。

「ノア、現場でメモを取り出すのは禁止よ」
ソフィアの母親に耳元で言われたので、私はメモをポケットにしまった。

葬儀の間、私は出来る限り悲しそうな顔をして大人しく座っていたが、ミサが始まると周囲からすすり泣きの声が聞えた。それはすぐ近くから聞こえていた。隣に座っているソフィアを見ると、目から涙があふれていた。

――ウソだろう……。ソフィアは本気で泣いているみたいだ。

チラリと振り返って後ろの列に座っている忘れな草の人たちを見ると、女性は例外なく目に涙をたたえてすすり泣いていた。男性も殆どの人の目が濡れていて、一人はむせび泣いていた。悲しい顔を「繕っている」のは私一人だった。

目薬を手に持っている人は一人もおらず、涙は実際に目から出て来たもののようだった。

社長やハイジがプロのモーナーとか、役者とか言っていたのは、こういうことだったのかと感心した。

ミサが終わり、聖歌を歌いながら自分は中学生で、故ベネット氏は大好きな校長先生なのだと自分に言い聞かせ、ある程度その気持ちになったが、涙を出すことには成功しなかった。

葬儀が終わりに近づき、献花が始まった。私たちレディングからの一行は一般会葬者の大半が献花を終えてから立ち上がった。他の参列者との会話を避けることがボロを出さないためには大事だからだ。献花をしてから故人の奥様にお悔やみを言って退出するのだが、先頭のハイジの演技には度肝を抜かれた。

「私が非行に走らずに中学を卒業できたのはベネット先生のお陰なんです」
百八十二センチのハイジは目を泣きはらして少女のように震える手で奥さんの手を握って告白した。もう周囲には故人の家族しかいなかった。忘れな草にモーニングサービスを申し込んだのは奥さん本人のはずなのに、ハイジはそんなことには構わず教え子として心情を吐露した。ハイジの後に続いた献花者も、どう見てもベネット校長の教え子にしか見えなかった。ソフィアの番になり、すすり泣きながらソフィアが奥さんに行った。

「私たち二人とも校長先生が大好きだったんです」

私はその時、自分はレディングの中学生なのだと本気で感じた。涙が溢れ出て、奥さんに何か気の利いたお悔やみを言おうとしたが、唇が震えて言葉にならなかった。

「ありがとう、あなたたち」
奥さんはソフィアと私の手を改めて強く握って礼を言った。

ソフィアと二人ですすり泣きながら教会の外に出てマイクロバスに乗り込んだ。

マイクロバスがカンタベリーの町から出たころには悲しい気持ちがウソのように消えていた。

「初めてにしては、なかなかやるじゃない」
とソフィアが私の肩を指ではじいた。


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新作「聖地巡礼」を出版しました


性転のへきれきTS文庫の新作「聖地巡礼」を出版しました。

志望の大学に合格してほっとしていた花坂歩夢は、高校の帰りに菊川祐奈に誘われて「君の名は」のBlue Ray Diskを祐奈のアパートに見に行きます。祐奈とは三年間同じクラスでしたが殆ど会話したことが無く異性として意識したことはありませんでした。「君の名は」を一緒に見たことで二人の間に予期せぬ感情が芽生え、歩夢と祐奈は飛騨古川への聖地巡礼に出かけます。三月十八日、高速バスを利用した2泊3日の短い旅行が二人の人生に衝撃的な変化をもたらすことになるとは知らずに、歩夢はバスタ新宿で祐奈と落ち合うのでした。



聖地巡礼

第一章 出会い

第一志望のL大学から合格通知が届いた。まだクラスの半分は国立大学の入試に向けて必死の形相で頑張っているが、僕の受験戦争は終結し、久々に取り戻した緊張感のない日常の中で静かに手足を伸ばしていた。そんな二月中旬のある日のことだった。

その日は短縮授業で二時半ごろ学校を出た。校門を出たところで菊川祐奈から声をかけられた。

「花坂君、『君の名は』を一緒に見ない?」

祐奈とは三年間同じクラスだったが殆ど言葉を交わしたことがなく異性として意識したこともなかった。そんな女子から突然誘いの言葉をかけられて戸惑った。

「え? まだ『君の名は』を上映している映画館があるの?」

「映画館じゃなくて、私の家で上映するのよ」

――これ、ナンパされてるんだろうか?

ほとんど話したことのない女子の家に行っていきなり二人でDVDを見るというシチュエーションには抵抗があった。

「『君の名は』は去年映画館に行って見たんだけどなあ……」
取りあえず口に出しつつ、僕は頭の中で断りの口上を探していた。

「やっぱり、私みたいなブスとは付き合いたくないわよね」

「と、とんでもない! 菊川さんは男子の間では人気があるんだよ」

それは完全な出まかせだった。祐奈は決してブスではないが、女子の人気ランキングの上位に入っているわけではない。特に可愛くも美人でもないが、女子としては平均より背が高い方だし、どちらかと言うと整った顔つきだ。

「合格祝いに『君の名は』のブルーレイディスクをもらったのよ。六十五インチのテレビの前に座ってブルーレイの画像を見ると迫力があるのよ」

「六十五インチにブルーレイか! それは確かに豪華だね」

「ピザも用意してるわよ。花坂君は国立大学は受験しないんでしょう? もう受験は終わったんだからいいじゃないの。それとも、何か他に私と付き合えない理由でもあるの?」

「無いよ、そんなの」

祐奈の巧妙で強引な誘導によって、断れない状況に追い込まれた。

「じゃあ決まりね。私の家はあっちの方向よ」

お腹も空いていたし、ピザを食べさせてくれると聞いて「ま、いいか」と観念した。一度だけ女子の家に行って映画を見ても僕が祐奈の彼氏になったということにはならない。もし友達に知られたら、六十五インチとブルーレイに魅かれて見に行ったと言えば分かってもらえるだろう。

それより、気がかりなのは祐奈の家で親に会うことだ。地味な祐奈のことだから、男子を家に連れて帰ったことは殆ど無いのではないだろうか? 祐奈の親に「彼氏」と認識されたら、後々面倒だなと心配だった。

「ここよ」

五分ほどで到着したのは五階建ての集合住宅だった。六十五インチのテレビがある家と聞いて、もっと大きな家を想像していたので意外な気がした。

祐奈は階段を三階まで上がって、左奥のつきあたりの部屋の鍵を開けた。

「さあ、入って」

そこはワンルームのアパートだった。

女子のアパートの部屋に入るのは生まれて初めてだった。カーテンや寝具の色は暖色系で統一されていて、部屋の中はきちんと整頓されていた。白のハンガーラックに色とりどりのスカートやワンピースがかかっているのを見て「今まさに僕は女子のアパートにいるのだ」と緊張した。

「菊川さんが一人でアパート暮らしをしているとは知らなかったよ」

「去年の春までは家族と一緒だったんだけどパパが福岡に転勤になったの。私は東京の大学に行くつもりだったからアパートを借りて一人で住むことになったのよ」

「食事とか、色々大変だね」

「慣れればどうってことないわ。親に干渉されずに好きなことができるから快適よ」

「僕も念願がかなって四月から親元を離れて生活することになったんだ」

「L大学なら一時間で通えるのに、よくお父さんやお母さんが許してくれたわね」

「僕がL大学に行くということをどうして知っているの?」

「花坂君のことなら大抵のことは知ってるわよ」

――やっぱり、僕はナンパされたんだ……。

祐奈が「好きだから」と言い添えるのではないかと身構えた。

「アパートを借りることは却下されたけど、寮に住むということで許してくれたんだ。L大学の寮は半分が外国人だから、寮に住めば英語が上達すると言ったら許してくれた」

「国際寮に入れるの? すごい! 私が行くV大学にも国際寮があるけど、料金表を見たら自分でアパートを借りて住むよりも高そうだったわ。花坂君の家ってお金持ちなのね」

「全然。父は普通のサラリーマンだけど、僕の進学費用は計算に入れてくれていたみたい。ひとつ下の妹が優秀で家から通える国立大学の医学部に確実に入れそうだと分かってから、僕に対して甘くなったんだよ。えへへ」

「妹さんが優秀でよかったわね」

「まあ、よくないことの方が多かった気がするけど、今回は助かった」

「花坂君が入るのは男子寮なの?」

「その寮は男女共用だよ」

「じゃあ、私も遊びに行けるわね」
祐奈が面倒なことを言い出したのでドギマギした。

「いや、外部の人は入れない規則なんだ。受付をすればラウンジに入ることはできるけど、居住棟には入寮者しか入れない。『異性は家族でも理由の如何を問わず入室を禁じる』と書いてあった」

僕は寮が厳しい規則を定めてくれたことを感謝した。

祐奈は冷蔵庫からピザの入った紙箱を取り出し、ナイフで八枚のスライスに切り分けてそのうちの四枚をオーブントースターに入れた。ポットでお湯を沸してミルクティーを用意した。手際がいいので、さすが一人暮らしをしているだけのことはあるなと思った。祐奈は小さなテーブルにピザ用の皿とミルクティーを並べた。

「先に食べようね。その椅子に座って」

祐奈は一つしかない椅子に僕を座らせ、自分は部屋の隅から丸椅子を持って来て座った。二人でピザを食べ始めた。

「食卓に椅子が一つしかないのを見て、私に友達がいないってことが分かったでしょう」

「時々お母さんが様子を見に来たりはしないの?」

「母は自分のことで忙しいし、父は私が好きじゃないから東京に出張しても私に会いに来ることはないわ」

「世の中のお父さんは誰でも娘のことが大好きだと聞いていたけど」

「そうとは限らないわ。私は父が嫌いだから、その気持ちが伝わって父も私とは会いたくないのよ」

「そうかなあ……。まあ、人それぞれ事情はあるかもしれないけど」

「花坂君は家族にいっぱい愛されて育ったタイプだものね。だから私は花坂君が好きなんだ」

ついに言われてしまった。「好きだ」という言葉を。自分の顔が火照って赤くなってきたのが分かった。僕の様子を見て祐奈も意識し始めたのか、ピザを食べ終えるまで会話が途絶えた。

「そろそろ上映開始よ」

六十五インチのテレビはベッドと反対側の壁ぎわにあるローボードの上に置かれていた。ベッドとテレビとの間は一メートル余りしか離れていない。ベッドの縁に腰かけて見るのだろうか……。

「ベッドに座って、壁にもたれて見るのよ。制服がシワになるから着替えるわね。花坂君、あっちを向いていて」

僕はベッドと反対の方向に椅子を向けて祐奈が着替えるのを待った。衣擦れの音が壁に反射して僕の耳たぶを撫で、祐奈が異性であることを思い知らされた。

「いいわよ」

祐奈の方に向いて座り直した。祐奈は足首まであるキルトのスカートにはき替えていて、制服をハンガーに吊るしているところだった。

「暖かそうだね」

「冬場の必需品。毎日家に帰ったら制服のスカートをハンガーに掛けて、このキルトのスカートに着替えるのよ」

「へえ、そうなんだ」

「花坂君もこれにはき替えて。色違いだけど同じスカートよ」
祐奈がはいているスカートを少し赤っぽくしたキルトのスカートを手渡された。

「冗談だろう?」

「出歩いていたズボンのままで私のベッドに座られるのはイヤだもの。さあ、早く」

「男がスカートをはくなんて……」

「これはスカートというよりは下半身用の防寒具なの。私があっち向いてる間に着替えて!」

祐奈は僕をベッドの方へと押しやってから、玄関のドアのところに行って僕に背を向けた。着替えないと許してもらえそうになかったので、僕は仕方なくズボンを脱いで、キルトのスカートの中に足を突っ込んだ。ウェストにはゴムが通っていて、おへそより少し上まで引き上げるとスカートの裾が足首の辺りになった。

「ズボンと上着をこのハンガーにかけなさい」
と言われて、その通りにした。

祐奈はタンスから白地にパステルカラーのボーダー柄の毛糸のセーターを二着取り出し、ブルー系の方のセーターを差し出した。

「このセーターを着て」

渋々、そのゆったりとしたセーターをカッターシャツの上に着た。

「やっぱり、丁度いい大きさね。花坂君は背の高さが私と同じだし身体つきも似ているから。この間、体育の時間に茜ちゃんから『花坂君の後姿を見て祐奈が男子の体操服を着ているのかと思った』と言われたのよ」

「冗談で言ったんだろう? 菊川さんと僕は髪の長さが全然違うから、後姿を見て間違えるはずがないよ」

「広瀬すずがテレビドラマのために髪をバッサリと切ったのを知ってるでしょう? 丁度その後だったから、茜ちゃんは花坂君の後姿を見て私が髪を切ったと思ったんだって。ほら、鏡の中を見て。私たち双子の姉妹みたいじゃない?」

並んで姿見に映った祐奈と僕は全く似ていないこともなかったが、双子というのは明らかに言い過ぎだった。同じような体格の二人が同じデザインで色違いの服を着ているから、似ているように見えるだけだ。

「全く似ていないことはないと思うけど……」

祐奈の質問をやんわりと否定しながら、促されるままにベッドの奥の壁に背をもたれてベッドの上に足を延ばした。祐奈は天井の蛍光灯のスイッチを切ってから僕の右側に座り、二人の首の高さまで掛布団を被った。

祐奈がリモコンを操作すると六十五インチ画面がパッと明るくなって、他の映画の予告編が流れ始めた。身体を少し動かすと肩が触れ合う微妙な距離だった。祐奈の横顔にチラリと目を遣った時に丁度祐奈も僕の方に視線を向けて微笑んだ。僕は急に恥ずかしさがこみ上げてきて視線をテレビの方へと戻した。

今日学校を出るまではほとんど話したこともなかった女子のアパートで二人きりになって、暗い部屋のベッドにお揃いの女子の服を着て並んで座っている……。今すぐ逃げ出したいのに金縛りに会ったように身体が動かず、顔が火照って心臓が音を立てている。

映画が始まると、少しほっとした気持ちになって映画の中の世界に没入した。

昨年の夏休みの終わりごろに映画館で『君の名は』を見た。男子高校生の立花瀧が目が覚めると宮水三葉(みつは)の身体になっていて、胸を揉むのを見て、他の観客と一緒にクスクスと笑った。今日は周囲から笑い声は聞こえない。可笑しいという気持ちが湧くどころか、思わず自分の胸を手で触ってセーターの下に膨らみが無いことを確かめてしまった。

筋は分かっていても一つ一つのエピソードが一昨年よりも鮮烈だった。前回見た時、僕は立花瀧に感情転移して、三葉の身体に乗り移った自分を体験した。今日は瀧に乗り移っていない状態の三葉自身にも同じように感情転移できた。特に妹の四葉と一緒に巫女を務めている時の三葉は自分自身のような気がした。

隕石が落ちる日の黄昏時に二人がお互いの手に名前を書こうとした時、祐奈が左手を僕の右の掌に重ねてきた。指を交互に絡ませられて、僕はしっかりと握り返した。

最後のシーンが終わった時、僕の目から熱い涙があふれていた。気がつくと祐奈の顔が目の前にあった。祐奈の唇が僕の唇に重ねられ、僕は目を閉じてキスを受け入れた。ベッドに座って半身でお互いを抱き寄せ合ったまま、長い時間が過ぎた。

祐奈が唇を離し、僕の目を見つめて聞いた。

「君の名は?」

僕は茶目っ気を出して「私は三葉」と答え、祐奈に「君の名は?」と聞いた。

「僕の名は花坂歩夢」
と祐奈が僕の名前を名乗ったので僕は微笑んだ。

「そして、君の名は菊川祐奈。僕たちは入れ替わったんだ」
と祐奈が暖かくて深い声で言って僕を強く抱きしめた。

その瞬間、僕は祐奈と恋に陥った。

***

僕たちはベッドの上で服を着たまま胸を合わせてお互いの身体の感触を確かめ合った。

しばらくすると祐奈が「あ、もうこんな時間だ」と言って体を起こし、セーターを脱いでベッドから降りた。

祐奈がベッドの横に立ってスカートを脱ぎ始めたので僕は焦った。初デートで初エッチとは……。

驚いたことに祐奈はハンガーにかかっていた僕のズボンをはいて、僕の制服の上着に袖を通した。

「遅くなると親が心配するから、今日はもう帰るよ」

それは僕自身が考え始めていたことだった。母に連絡せずに夕ご飯に遅れるのはまずい。もうそんなに長くは祐奈との入れ替わりごっこに付き合えない。

祐奈が僕のカバンを持って玄関に行ったので、僕は慌ててベッドを下りて祐奈を追った。祐奈は僕の靴を履いてドアノブに手を掛けた。

「じゃあ明日学校で会おうね、祐奈」
と祐奈は僕に成りきったまま部屋から出て行ってしまった。

ドアがカチャリと閉って、僕は思わずため息をついた。肩まである長い髪で男子の制服を着て出歩いたら、不審な目で見られる。僕に迷惑が及ぶわけではないが、この近所には祐奈の顔を知っている人もいることだろう。女子高生が、変人と思われるリスクを冒してまで入れ替わりごっこをするなんて信じられない。

すぐに帰って来るだろうと待っていたが、五分、十分と過ぎても戻る気配がないので心配になってきた。探しに行こうかと思ったが、この恰好で外に出て、もし知っている人に会ったら、それこそ大変だ。

――どうしよう……。三十分経っても祐奈は戻ってこなかった。そうだ! 体操服があるはずだ。女子の体操服はえんじ色だが、男子が着ても不自然ではない。走って帰ればいいんだ。いや、僕の家ではもうすぐ夕飯が始まる時間だ。母に連絡を入れておかないと面倒な質問を浴びせられるかもしれない。でも、スマホはカバンの中で、祐奈が持って行ってしまった。僕は祐奈のカバンを開けてスマホを取り出した。家の電話番号をダイヤルすると母が出てきた。

「あ、母さん。今、菊川君の家に来ていて、少し遅くなるけど心配しないで」
と早口で言って、母の質問が聞こえないふりをして電話を切った。祐奈のことを菊川さんと言わずに菊川君と言っただけであり、基本的にひと言もウソは言っていない。

タンスを開けて祐奈の体操服を探した。一段目と二段目の引き出しには下着が詰まっていた。さっき胸を寄せて抱いた時に思ったが、祐奈は貧乳の部類だ。引き出しにはかなり大きそうなカップのブラジャーも入っていて、丸いパッドが幾つか重ねて置かれていたので思わずニヤリとしてしまった。

タンスとハンガーラックをくまなく探したが体操服は見つからなかった。一見スカートのような赤い短パンとか、ロングドレスのようなズボンはあったが、男子がはいても女装とは思われないズボンはひつともなかった。

――困った……。僕は絶望のため息をついた。

その時、玄関のドアが開いて祐奈が帰って来た。

「お邪魔します」
と言って祐奈は靴を脱いだ。

「ひどいよ、菊川さん!」

「違うだろう。僕は花坂歩夢。君が菊川さんだ」

「もう入れ替わりごっこはやめようよ。早く帰らないと親に怪しまれるから、制服を返して」

「『入れ替わりごっこ』じゃなくて、僕たちはもう入れ替わったんだ。制服は返すんじゃなくて、貸してあげてもいいけど」

「分かったよ。じゃあ、花坂君が着ている制服を私に貸して」
僕は祐奈を平気で花坂君と呼ぶ自分の神経に呆れた。しかし、今は服を取り返すことが何よりも大事だった。

「うーん。条件がある。まず、菊川さんも自分の制服を着て、僕たちが入れ替わったということをお互いにちゃんと確認したい。そうしたら僕の服を貸してやろう」

「分かった」

メチャクチャな要求だったが応じることにした。僕はもうスカートをはいてしまっているのだから、制服のスカートにはき替えたところで罪が重くなるということはないだろう。

僕は祐奈の制服のスカートをハンガーから外して足を突っ込んだ。左のホックを留めて、上着に袖を通した。

「ほら、リボンタイも着けろよ。ブラウスじゃなくて男物のカッターシャツを着ているけど、まあ許してやるよ」

女子の制服を着て男子の制服姿の祐奈と向き合うのはとても妙な気持ちだった。祐奈は僕の肩に腕を回して姿見の前に立ち、僕のスマホで姿見の中の二人を撮った。続いて何枚もツーショットの自撮りをした。祐奈はしばらくスマホを操作してから僕のカバンの中にスマホを戻した。

「祐奈は僕が花坂歩夢で自分が菊川祐奈だということを認めるんだな?」
と真面目な顔をして祐奈から聞かれた。

「うん、認めたわよ、花坂君」
とウィンクしながら女言葉で答えた。

「約束通り僕の制服を貸してあげよう」
と言って服を脱ぎ始めた。

僕は特に視線も逸らさずにリボンタイを外して上着とスカートを脱ぎ、祐奈の気が変わらないうちに祐奈が脱いだ僕の制服を着てカバンを引っつかんだ。

「じゃあ帰るね。今日は楽しかった」
玄関で靴を履きながら言うと祐奈に間違いを正された。

「『帰るね』じゃなくて『行ってくるね』だろう? まあ、いいけど。とにかく忘れないでくれ。もう僕たちは入れ替わったんだ。当分の間、君は花坂歩夢のフリをして、僕は菊川祐奈のフリをして暮らすということだ」

「当分の間って、いつまで?」

「祐奈が僕のフリをするのが面倒なら今すぐストップしてもいいけど」

「面倒じゃないから、当分続けようね。じゃあ明日学校で!」
と言って逃げるようにドアを閉め、祐奈のアパートを出て家まで走って帰った。

***

父の帰宅が普段より遅かったお陰で僕は夕飯に間に合い、母から色々詮索されることも無かった。夕食の時に妹の啓子が僕の顔をジロジロ見ながら聞いた。

「お兄ちゃん、今日何かあったの?」

「な、なにも無いけど……。どうして?」

「いや、何かちょっと雰囲気が違う気がしたのよね」

僕は啓子の指摘にドキリとした。一才年下の妹は勉強が出来るだけでなく、頭がよくて勘も鋭い。「お兄ちゃん」と呼んではくれるが、中学一年の春に僕の身長を追い越してからは、頭が上がらなかった。

祐奈と初めて「デート」して、女子の恰好でベッドに座って、キスして、入れ替わって……。幾つもの初体験があったのだから僕の雰囲気が変わらないはずがない。もしかしたらスカートをはいたことが啓子に見透かされたのではないかと不安を覚えた。

「受験が終わって気持ちに余裕が出たからそう見えるんじゃないかな」
と言ってごまかした。

「ふうん、そうかなあ」
啓子は薄ら笑いを浮かべて僕の目をのぞきこんだ。

逃げるように自分の部屋に行ってドアを閉めた。

恋とは不思議なものだ。僕は祐奈のアパートに行くまで、全く祐奈を好きだとは思っていなかった。それなのに、祐奈に「僕たちは入れ替わった」と宣言されて抱きしめられた時、祐奈が世界で一人の恋人だという錯覚に陥った。祐奈の服を着て一緒に映画を見たり、隕石が落ちる日の黄昏時のシーンで手を絡ませ合ったり、最後のシーンの後で泣いて抱き合ったり、色んな伏線が重なった結果、あんな気持ちになったのだ。

祐奈の顔を頭に浮かべると胸が熱くなった。

それにしても「入れ替わりごっこ」についての祐奈の真剣モードは度が過ぎていた。僕の制服でアパートから出て行って半時間も外を歩き回るなんて、勇気があるというか、女子の冗談としては行きすぎだ。

それに、もう少しで祐奈に弱みを握られるところだった。二人がお互いの制服を着た姿を写真に撮られたからだ。あの写真を人に見せると言って脅されたら一大事だ。ところが祐奈は僕のスマホで写真を撮って、そのまま僕のカバンにスマホを突っ込んだ。もし祐奈のスマホで写真を撮られていたら、と思うとぞっとする。

――何かの間違いで人に見られないうちにスマホから写真を削除しておこう。

そう思ってスマホを開いたら、祐奈からメールが入っていた。

「祐奈、
写真を送ってくれてありがとう。
今日は楽しかったよ。
歩夢」

――まさか!

メールの送信履歴をチェックしたところ、祐奈が撮影したツーショットの写真を全部その場で祐奈あてに送ったことが分かった。もし祐奈が僕の女子高生姿の写真を誰かに見せたら、と思うと冷汗が出た。

このことだけは祐奈に念を押さなければ。僕は深呼吸してから返信を書いた。
「菊川祐奈様
今日はピザをご馳走になったり、大画面で映画を見せてもらったり、本当にありがとう。今日の僕の写真は他の人に見られないようにくれぐれもよろしくお願いします。
花坂歩夢」

数分後に祐奈から返信があった。

「祐奈、
そんな心配はせずに僕を信じてついてきてくれ。僕が自分の彼女を困らせることをするはずがない。
それから、君と僕の間では、お互いを本当の名前で呼ぶようにしてほしい。今後はメールを書く時も含めて、僕の事は花坂君または歩夢さんと呼んでくれ。
歩夢」

裏を返すと、もし逆らえば僕を困らせることをするかもしれないという脅しのように読み取れた。祐奈が写真を持っている限り、僕は言われた通りにするしかない。

そのメールのすぐ後で祐奈が僕を友達に追加したというLINEのメッセージが入り、僕も仕方なく祐奈を友達に加えた。

「分かりました。歩夢さんを信じてついていきますのでよろしくお願いします。おやすみなさい。祐奈」

祐奈を歩夢さんと呼び、自分が祐奈としてLINEのトークを書き、エンター・キーをクリックすると、悪いことをしているような気持になった。

明日学校で祐奈と会ったら、どんな顔で接したらいいのだろう? もし祐奈から、他の友達がいる場所で「祐奈」と呼ばれて、僕がシカトしたら仕返しに写真をバラまかれるのではないだろうか? 僕は祐奈を「花坂君」と呼ばなければならないのだろうか? 祐奈は入れ替わりごっこをいつまで続けるつもりなのだろう……。そんな不安が繰り返し僕の心に押し寄せた。


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2018 原作開発プロジェクト 応募作品「未来が見える少女」

新作「未来が見える少女」が出版されました。前作の「エキストラ」に続き 2018 原作開発プロジェクトに応募するため「五万文字、テーマは映画」という制約の中で書いた小説です。

主人公の深沢芽依は女子高生です。私が書いた小説で主人公が女性なのは「危険な誘惑」だけでした。「危険な誘惑」も主人公を男性にしたMTF版を後で出版したという経緯があります。

「未来が見える少女」にはMTF版はありません。TSは主人公ではなく、別の登場人物に起きますが、第三章に起きるので、読んでのお楽しみということでお願いします。

未来予知能力を身につけた女子高生はひょんなことから国際情勢に翻弄されることになるのですが、一応SF小説とも言えるし、リアル系TS小説でもあり、どのカテゴリーに入れるべきかは読者の方がご判断ください。



未来が見える少女

第一章 落ちるドングリ

部活が終わっての帰り道、公園の遊歩道を歩いていたら何かが頭に落ちて来た。

痛くは無かった。

コツン、ではなく、ポトンという感じで頭に当たった。

何だったのだろう?

その時、風が吹いて何かがパラパラと落ちて来た。ひとつではなく、二つ、三つ。

足元に転がったのはドングリだった。

二、三日前から急に冷え込んだからだろうか、風が吹いて熟したドングリが木から落ちて来たのだ。

足元を注意してみると沢山のドングリが散らばっている。遊歩道の舗装された部分には少なくて道路の端っこの、土との境の部分に沢山のドングリが転がっていた。雨水が道路わきへと流れるように、ドングリも高い所から低い所に転がったのだろう。

よく見ると、木製の高級家具のような光沢のあるドングリは少数派で、土ほこりで汚れたり、割れ目が入って腐りかけのドングリが多い。

「ドングリって美味しいのよ」
田舎の叔母が言っていたのを思い出した。

「シイの実ならそのまま食べられるし、それ以外のドングリはアクを抜いて食べるの」
そう思って見回すと美味しそうなドングリが沢山あった。

でも、きたない!

例え何回も洗ったとしても、犬がオシッコをする道端に落ちているものを食べることは私にはできない。

そうだ! ドングリが地面に落ちる前に手で受け止めればいいんだ!
それは突拍子もない発想かもしれない。ポケットを落ちて来るドングリで一杯にするには何時間もかかるのではないだろうか?

いや、そんな後ろ向きな姿勢からは何も生まれない。とにかくやってみよう。

さっき風が吹いた時にパラパラと落ちる音がした辺りに行って歩行者の通行の邪魔にならない場所に立った。木の枝を見上げて、落ちてきたら受け止めようと精神集中した。

一、二、三、四、五、六……

十一まで数えた時に小さな黒いものがスーッと落ちて来てポトリと地面に落ちた。

速い! 思ったよりはるかに速いスピードで落下した。

イチローのような動体視力があればドングリが止まって見えるかもしれないし、サッと手を動かしてつかみ取るのも不可能ではないだろうが、私には無理かもしれない……。

数秒後にもう一つ、更に十数秒後にまとめて数個落ちて来た。

さすがに速いが、だんだん「球筋」が見えるようになってきた。

数分間見ていると、一瞬だが目の数十センチ前にドングリが止まって見えた。よし、これなら捕れるかもしれない。私の動体視力はイチロー並みなのだろうか?!

次に落ちて来たドングリをさっと手でつかもうとしたが、間に合わなかった。脳が視覚からの情報を受けて手に「動け」いう指令を出し、実際に手が動くまでにはタイムラグがあるのだ。そして手を動かすスピードの問題もある。

やはり一介の女子高生がイチローにかなうはずがない。

でも私はあきらめずに次のドングリを待った。

段々手の動きが俊敏になった。しかし、私の手はドングリが落ちた直後に虚しく空を切り続けた。

やっぱり、私には無理なんだ……。

そう思うと、ふぅーっと力が抜けた。自分が持っている動体視力と瞬発力を最大限に絞り出そうと極度に張りつめていた緊張状態が解けた。

気が付くと、何気なく動かした右手が落下してきたドングリをキャッチしていた。

なんだ、できるじゃない!

次に落ちて来たドングリは左手で捕った。簡単だった。

それまでは落ちて来るドングリをできるだけ高い所で見つけようとして必死で上の方を見ていたのだが、先ほどから目の前に止まった状態のドングリが、実際に落ちて来る前に見えるようになっていた。それを手で横からはたくようにして掴めばいい。

手の中のドングリをスカートのポケットに入れた。
それから後は簡単だった。手の届く範囲に落ちて来るドングリは全て難なくキャッチできた。いや、「全て」というのは言い過ぎだった。ほぼ同時に落ちて来るドングリの数が二個なら右手と左手で一個ずつ捕れるが、三つ以上だと無理だった。

半時間ほどで制服のスカートのポケットがドングリで一杯になった。

気が付くと陽が落ちかけて、辺りが暗くなっていた。

いけない、早く帰ろう。

公園で木から落ちて来るドングリを空中で採取していた女子高生が痴漢に遭う。それではシャレにならない。友達から一生「ドングリ」と呼ばれることになる。私はポケットからドングリが飛び出さないように手で押さえながら、家まで走って帰った。

***

「遅かったわね。またどこかで道草を食っていたの?」
母がニンジンの皮をむく手を止めて私を迎えた。

「私は犬のオシッコがかかった道端の草なんて食べないわよ」

「今のは座布団一枚あげてもいいわ。あらっ、ポケットが膨らんでいるわね。制服のスカートのポケットにむやみに物を入れちゃダメよ。プリーツの形が崩れるから」

「そうよね。制服のスカートの左右にポケットがあればバランスがとれるんだけど……。今日は大事なものが入ってるの。ママにも見せてあげる」

私はシンクの上の棚から手鍋を取って、ポケットの中のドングリを全部入れた。

「まあ、汚い! 女の子が土の上に落ちていたものを洗わずにお鍋の中に入れるなんて信じられない」

「おあいにくさま。この中に落ちていたドングリはひとつもないわ。落ちてくるところを空中で掴んで取ったものばかりよ」

「芽依ったら、よくそんな作り話を思いつくわね」

「本当だってば! 嘘と思うのなら、明日一緒に公園に行って実演してあげる」

「動いている物をさっとつかみ取るなんて、宮本武蔵じゃあるまいし」

「誰、それ? 野球選手? イチローよりもすごいの?」

「宮本武蔵を知らないの? 巌流島で佐々木小次郎と決闘した、江戸時代の剣豪よ。ご飯を食べているときにハエがうるさく飛び回っていたのを、空中でお箸で挟んだのよ。そして何事も無かったかのように食べ続けた」

「ムカつく! 超フケツな人ね。私ならそんなお箸は洗剤でゴシゴシ洗っても二度と使えないわ」

「江戸時代の話よ。男の人だから仕方ないわ」

「いくら有名な剣士でもそんな男にキスされたら耐えられない」

「話を逸らさないで。やってみれば分かるけど、飛んでいるハエを空中でお箸で掴むというのは誰にでもできることじゃないわよ」

「ふーん、確かにそうかも。ハエってすごく速いスピードで飛ぶものね。動体視力の問題というより、いくら速くお箸を動かしても追っつかないわ。多分その宮本武蔵とかいう不潔な男には、次の瞬間に空中でハエが止まる姿が見えたのよ」

「宮本武蔵には未来を予知する能力があったというわけ? 芽依らしい仮説ね」

「ちょっと違うのよね。未来を予知するというほどのものじゃなくて、動いている物の次の瞬間の姿が止まって見えるの。だからそこにお箸を持っていくと簡単に掴める。私もそうやってドングリを捕ったのよ」

「芽依に悪気があってウソを言ってるんじゃないことをママは分っているけど、ヨソの人にそんなことを言うと芽依には虚言癖があると思われるわよ」

「ハァ? 信じないの? 見てよ、このドングリ。全然ホコリがついていなくて、ツヤがあるでしょう? もし落ちているのを拾ったのなら、実とハカマの間に土やホコリがついていると思わない? 落ちていたドングリを水で洗ったとしたら濡れているはず」

「ホントだ! 芽依の言う通りだわ。お鍋の中のドングリは全部が同じように新しくて、木から手で摘み取ったみたいだわ」

「ほら、私が本当のことを言っていたことが分かったでしょう?」

「早く着替えてらっしゃい。ベランダでポケットを裏返しにして、木くずとかが残っていないようにきれいにするのよ」

母が認めたのはドングリが粒ぞろいで汚れていないということだけだった。次の瞬間を見る力を私が持っていると信じたわけではないのだ。

大人ってどうしてこんなに頭が固いのだろう? 私も自分の隠れた能力に気づいたのは偶然だった。緊張がふと緩んだ時に、それまで息を潜めていた能力が出てきたのだ。もしあの時に「見えるはずはない」と思って見過ごしていたら、私は一生自分の能力に気づかなかっただろう。

私のDNAの半分は母から来ているのだから、母にも同じ能力があるかもしれないのに……。

宮本武蔵という男性は、剣の道を究める修行の中で、きっと偶然ある瞬間に自分の能力に気づいたのだと思う。対戦相手の次の瞬間の剣先が見えれば、相手を倒すのは簡単だ。だから勝ち続けて生き残り、剣豪と呼ばれるまでになったのではないだろうか。

イチローには残念ながらその能力は無さそうだ。動体視力と卓越した身体能力、それに経験値を重ねてあれほどの実績を残しているのだ。

多分、偉大な王貞治さんを含む野球選手には、宮本武蔵や私と同じ能力は無かったはずだ。もしあれば、バッティングはティーの上に乗せたボールを叩くのと同じぐらい簡単だから、打率が三割や四割で収まるはずがない。待てよ、ボールを楽に打てても打球が内野手の守備範囲内に飛んだり、外野まで飛球が行っても外野手が捕ればアウトだから、五割、六割もの打率は難しいんだろうか……。

私は自分の部屋に行って、スチーマーのスイッチを入れてから制服のスカートをハンガーに吊るし、ウェストがゴムのロングスカートに履き替えた。

スチーマーを手に持ってプリーツがシワになっている部分に集中的にスチームを浴びせる。毎日二、三分の作業だが、母がそのためにスチーマーを買ってくれて、スイッチを入れれば一分後には使えるように置いてある。私が毎日シワの無いスカートで学校に通えるのはこのスチーマーのお陰だ。

明日も公園でドングリを集めようかな。能力を研ぎ澄ます訓練のためにはそれもいいかもしれないが、王貞治さんやイチロー選手さえ授からなかったほどの超能力を、ドングリ集めにしか使わないというのは宝の持ち腐れだ。他に使い道は無いだろうか?

野球選手になるのはどうだろう?

高校野球連盟は石器時代のような脳ミソで凝り固まっていて、女子が選手になることを認めていないが、プロ野球は女性にも門戸を開いていると聞いたことがある。確か、クラスの男子が読んでいたマンガに女性のピッチャーが出ていた。

私が実際に野球をしたのは体育の授業だけで、それもソフトボールだが、中学時代に父と一緒にテレビで野球を見るのが好きだったので、野球にはうるさい。止まっているボールなら私でも打てるようになるはずだ。

しかし、私の目には止まっているボールでも、実際には時速百数十キロで動いているのだから、私の力で打っても前に飛ばないかもしれない。振る度にバットに当たっても、ボールがチョロチョロと転がるだけなら、観客から失笑を買うだけだ。

それにデッドボールが問題だ。次の瞬間に胸を直撃するボールが見えたとしても、俊敏に身体を動かしてボールをよけることが出来るだろうか? バットを胸の前にサッと持ってきてバントをすることぐらいならできるかもしれないが……。

強いボールを投げる力が無いのも私の弱点だ。ということは守備は無理だ。パリーグには指名打者制度があるが、普通、指名打者はホームランバッターだ。弱いゴロしか打てない私は指名打者としては使ってもらえないだろう。

野球の始球式で女優が投げるのをテレビで何度か見た。ノーバウンドでキャッチャーに届くとアナウンサーが大げさに褒める。長身女優の菜々緒が始球式でノーバウンド投球をする動画をユーチューブで見て、女性としてはカッコいいと思ったけれど、プロの野球選手と比べるとまるで子供の投球だった。

私は小さい時から体育は得意で足も速いし、身長も女子の平均より高いが、残念なことにパワーが無い。やはりスポーツ選手になることは、選択肢から外した方がいいだろう。

ベッドに寝転がって超能力を活かす方法について脳ミソを絞ったが、グッドアイデアは浮かんでこなかった。

「あっ、ドングリの事を忘れていた」

スマホでドングリの調理方法について調べた。シイの実以外のドングリは皮をむいて数日間天日干しした後、ミキサーで粉砕したものを水に漬けてアクを抜くという、面倒な処理をする必要があることが分かった。

「ドングリなんて食べなくても百均でムキ栗を買う方が賢いかも」

ひとり言を言いながら台所に行った。

「ママ、私のドングリはどこ?」

「玄関に置いたわ。見てきてごらん」

玄関に行くと、クリスタルグラスにドングリを盛り付けて棚の上に置いてあった。秋の訪れを感じさせる、さりげないオブジェだった。

「ママの超能力の方がずっと素敵だわ」

私は自分の負けを認めた。


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2018 原作開発プロジェクト 応募作品「エキストラ」

2017Amazon・よしもと原作開発プロジェクトで「採用面接」が優秀賞を受賞しましたが、その快感が忘れられず、2018年2月末締め切りのAmazon・よしもと原作開発プロジェクトに応募するために「エキストラ」を書きました。今回は「映画」に関するテーマというのが応募規定になっており、しかも五万文字以内という規制が入っています。私の長編小説(980円のもの)は十万字以上なので、その半分になります。書いてみると半分の字数でストーリーを収めるのは困難を伴いましたが、校閲でバサバサとぜい肉を切り落として五万文字に収めました。

題名から想像できる通り、主人公は彼女と一緒に映画のエキストラに応募します。主人公が大ファンである若手女優が出演する映画だからです。エキストラに行ってみると、大勢のエキストラの中から十数名の特別エキストラが選ばれることになり、主人公と彼女も選ばれます。ところが、実際の撮影時にNGが出て役を外され、ガッカリするのですが、撮影後に監督に呼び出されて、驚くべきオファーを受けることになります。

そのオファーとは?

最後まで息をつかせないハプニングの連続です。どうぞお楽しみください。



第一章 エキストラ

僕の名前は水沢詩音。千葉市にある大学の一年生で早瀬美玖の大ファンだ。インスタグラム、ツイッターとオフィシャルブログは常時フォローしており、早瀬美玖の事なら誰よりもよく知っているつもりだ。
木曜日の昼休みに学食で僕の彼女の長尾幸子に言われた。
「詩音、映画のエキストラの募集にはもう申し込んだ?」
「何のこと?」
「知らないの? 早瀬美玖のことは完全フォローしてると自慢していたくせに。杉内数馬と早瀬美玖の共演で『黄色い蕾』という映画を撮っていることは知ってるでしょう? 今週末の撮影に高校生のエキストラが足りなくなって、緊急募集しているらしいわ。私は杉内数馬からのツイートを見て知ったところよ」
僕と幸子は付き合っていることを公言する仲だが、幸子が杉内数馬に、僕が早瀬美玖に憧れることについては許容するという合意が成立している。
「行く行く! 早瀬美玖の映画に共演できるんだったら、僕、何でもする」
「共演と言ってもエキストラだから、ほんの二、三秒映るだけよ。それに、早瀬美玖の撮影と同じ現場で撮るとは限らないから、エキストラに行っても早瀬美玖本人を近くで見られるとは限らないわ」
「最悪の場合でも『僕は早瀬美玖と同じ映画に出演した』と孫子の代まで語り継ぐことができる」
「発想がナイーブね。私は杉内数馬を近くで見られるならエキストラをやってもいいけど、そうじゃなきゃ行きたくないわ」
「そんなこと言わないで一緒に行こうよ!」
「ま、詩音の頼みならむげには断れないわね。じゃあ、申し込むわ。応募申込ページのリンクを送ってあげる」
幸子からのリンクの着信とほぼ同時に早瀬美玖のツイート通知がポップアップした。

「【拡散希望】撮影中の『黄色い蕾』でエキストラさんが足りなくなったみたい。緊急募集中だからヨロシクネ! 詳しくはこちら」
そのリンクをクリックすると幸子から届いたリンクと同じページが開いた。

エキストラ急募
■作品名:黄色い蕾
■監督:魚沼腰光
■主演:早瀬美玖 X 杉内数馬
■募集内容:高校生に見える男女十名から二十名程度。
■撮影場所:江戸川堤防(JR市川駅より徒歩二十五分、バス送迎あり)
■撮影日時:十一月二十五日(土) 午前八時から日没まで
■待遇内容:出演料、交通費、食事代は出ません。小さな謝礼品を差し上げます。
■応募要領:yuszjp@gmail.comあてに「エキストラ希望」という題で住所、氏名、携帯電話番号、年齢、職業(学校名と学年)、身長、体重を記入し、顔写真(メール記入と同時に自撮りしたもの、アプリ使用禁止)を添付したメールをお送りください。二十四時間以内に結果を返信します。

――えっ、バイト料なしかよ! 交通費も自己負担とはケチだな……。
エキストラに応募するのは始めてだったが、出演料がゼロで交通費も出ないとは知らなかった。まあ、早瀬美玖を十メートル以内で一分間見ることができるなら、一日分のバイト代を払ってでもエキストラになってもいいと思った。
もう一つ面白いと思ったのはメール記入時に自撮りした顔写真を添付、それもアプリの使用を禁止するという点だった。これなら、確かに普段通りの素顔が分かる。女の子が美人になるアプリやメイク・アプリを使うことも禁止するというのも理に適っている。
僕は早速スマホを右斜め上にかざして自撮りした。それは幸子から教わった、僕が最もカッコよく写る角度だった。その画像を添付してエキストラ希望のメールを送信した。
僕と幸子は応募メールをほぼ同時に送信し「結果の返信が届いたらLINEで連絡するね」と言って別れた。
午後の美術史学の講義が終わってスマホを見ると「エキストラご応募の件」というメールが入っており、ドキドキしながらクリックすると採用されたとの知らせだった。幸子に連絡すると、幸子にも同じ内容のメールが届いたとのことだった。
その次の講義は心理学だったが、顔に見覚えがある女性が隣の席に座っていたので「僕、早瀬美玖が出演する映画に出ることになったんだよ」と話しかけた。
「えっ、オーディションを受けたの?」
「まさか。今日、緊急募集に応募したら、OKのメールが来たんだ」
「なあんだ、エキストラか。『映画に出る』というのはちょっと言い過ぎじゃない?ところで、あんた誰?」
「水沢詩音、国際コミュニケーション学科の一年だけど」
「ああ、どこかで見かけたことがある気がしたわ。これって、ナンパじゃないわよね?」
「ち、違うよ。僕、彼女がいるから……」
「あっそう。私は英米語学科一年の宮田節子よ。水沢君は早瀬美玖のファンなんだね。どんな映画のエキストラ?」
「『黄色い蕾』という映画で、早瀬美玖は高校生の役だよ。共演は杉内数馬だから学園恋愛ものじゃないかと思うんだけど、ストーリーは発表されていないんだ」
「早瀬美玖と杉内数馬という配役だけで観客を集めようという安易なラブコメなのかもね」
「違うよ! 早瀬美玖は可愛いだけじゃなくて女優としての演技力も抜群なんだよ! そんな安易な映画なら出演を引き受けたりしないよ」
「分かった分かった。ムキにならないで」
心理学の講義が始まったので宮田節子との会話はそこまでで終わった。
講義が終わった後、大学構内で会う人ごとに「早瀬美玖の映画にエキストラで出演することになった」と言いまくった。社交辞令で「よかったね、おめでとう」と言ってくれる人は多かったが、僕が期待していた「羨ましい」という感じの反応は得られなかった。うちの大学は四人に三人が女子なので「杉内数馬の映画」と言えば、もっとポジティブな反応があったかもしれないが、僕のプライドとして、杉内数馬をネタに友達の関心を集める気はなかった。
翌日の金曜日の朝、参加要領がメールで届いた。集合場所はJR市川駅から徒歩二十五分の撮影場所に自分で行くか、市川駅近くの指定場所でバスにピックアップしてもらうかのいずれかということで、地図のリンクが示されていた。服装は出来る限り高校の制服、不可能な場合は高校生らしい服装、と書いてあった。
僕の高校の制服は福島の実家に置いてあり、今から送ってもらっても間に合わないので、ジーンズパンツにセーターを着て行くことにした。幸子は高校の制服で来ると言っていた。
土曜日の午前七時半、紺の上着にプリーツスカート姿の長尾幸子と市川駅の改札で落ち合い、指定場所に行くと、既に二、三十人が集まっていた。高校の制服を着ている人が四分の三程度、他は僕と同じようなラフな服装だったが、ひいき目に見ても二十代後半にしか見えない人も混じっていた。
バスが間もなく来て、僕は幸子と一緒にバスに乗った。
普段はスリムパンツのボーイッシュな服装が多い幸子だが、今日は別人に見えた。膝が隠れる長さのプリーツスカートをはいている幸子は、僕が高校時代に秘かに憧れていた吉田美香を思い出させた。高校時代にタイムスリップしたような気がして、バスが揺れて幸子と肩が触れ合うたびに鼓動が高まった。
幸子とは入学直後の学内の飲み会で知り合った。同じクラスの男子から『参加予定者十二人のうち男子は二、三人だからキャバクラ状態だぞ』と言って誘われ、実際に行ってみたら男子は僕を含めて三人だったので『やったあ、キャバクラだ!』と胸が高鳴った。
ところが、女子にはキャバ嬢役で来たという意識の人は一人もいなかった。僕以外の男子二人も押しが強いタイプではなく、女子の話題でガンガン盛り上がる中、僕たちは控えめに話を合わせるか、女子からの質問には防戦一方だった。
元々女子の方が口数が多いが、特に弁の立つ女子が二、三人居て、その人たちが中心になって、時々僕たちが耳の付け根まで真っ赤になるような質問を浴びせかけられた。確かにキャバクラ状態の飲み会だったが、僕たち三人はキャバ嬢の側の立場になってしまった。
可愛い女の子を探して仲良くなるつもりで言ったのに、女子の外観を鑑賞したり評価するどころではなく、女子たちから評価される方の立場に置かれて、委縮した。
自分が女子から見ていじりやすいタイプだと自覚したのは、その飲み会が初めてだった。というのは、他の二人の男子を合わせたよりも多くの質問が僕に浴びせかけられたし、他の二人は僕ほど真っ赤にはなっていなかったからだ。
僕が女子たちの質問にたじたじとして立ち往生しかけると、決まって幸子が助け舟になるような発言をしてくれた。それが、僕が幸子を意識したきっかけだった。もしあの飲み会に幸子がいなかったら、と思うと今でも冷汗が出る。
その飲み会以降、僕は大学構内で幸子を見かけると近づくようになった。そこにオアシスがあるような気がしたからだ。もし幸子が相当なブスでも同じような間柄になっただろうと思う。美醜とは全く関係のない理由で、僕は幸子を選んだのだった。
今、女子高生姿の幸子を見て、もう一つの出会いが始まったと実感した。この女子高生は顔も、スタイルも、雰囲気も最高だ。同じクラスだったら、一目で恋に陥っただろうと思う。自分の彼女がこれほどの美人だったことが分かってラッキーだと思った。
バスは十分ほどで目的地に着いた。
バスを降りると、係員に誘導されて土手の方に歩いて行った。
驚いたことに、そこには既に四、五十人の高校生風の人たちが集まっていた。バスで来たのが約四十人だから、エキストラの数は全部で八、九十名ということになる。
「歩いて来た人が大勢いたのね。近所に住んでいる高校生がこぞって応募したのかもしれないわ」
「募集広告には『十名から二十名程度』と書いてあったから、早瀬美玖が僕を見てくれるかもしれないと思ったのに、百人近くも居たら、絶対気づいてくれないよね。ガッカリだ」
「例え十人でも、早瀬美玖の方から意識してエキストラの顔を見たり覚えたりするはずがないでしょ。詩音の方から早瀬美玖の実物を見られるだけで御の字よ。それにしても杉内数馬と早瀬美玖の姿が見えないわよね」
僕はさっきから必死で探していたが、早瀬美玖らしい姿はどこにも見当たらなかった。
「エキストラの皆さん、こちらにお集まりください」
メガホンを持った男性と、二、三人のスタッフが立っていた。僕たちはその人たちの辺りへと移動した。
「本日はボランティア・エキストラに応募していただきありがとうございました。私は助監督の森と申します。募集広告に『小さな謝礼品を差し上げる』と書きましたが、これから配布します。謝礼品はこのカードです」
助監督は名刺のようなカードを持った手を頭の上にかざした。
「プレゼントは早瀬美玖と杉内数馬のスマホ待ち受け画面用の画像です。カードにプリントされたQRコードを読み取ってダウンロードしてください」
僕は「やったあ」と思った。周囲からは喜びの声と「たったそれだけかよ」とがっかりした声が入り混じって聞えた。
「皆さんは『その他大勢』の役になりますが、同級生の役で若干名のエキストラが必要なので、まず一次選考させていただきます」
――もし選ばれたら早瀬美玖のすぐ近くに行ける!
周囲の人たちも僕と同じことを考え、ざわついた。
「ここに一列に並んで、謝礼品のカードを受け取ってください。その際に、指名された人は、この辺りに残ってください。一次選考で残った人の中から若干名を最終的に指名させていただきます」
助監督の前に列ができ、僕と幸子は真ん中より少し後ろに並んだ。一人一人にカードが手渡され、何人かに一人が「はい、あなた」と言われて助監督の左側に残り、指名されなかった人は落胆した表情で元居た場所に戻って行った。
僕らの番が近づいた。見ていると助監督一人の判断で選んでいるのではなく、助監督の左側に立っている四十絡みの男性、右側の三十才前後の女性が言葉を交わして選んでいるようだ。
一次選考には気軽に選ばれても、二次選考は厳しいだろうから、仮に残ってもぬか喜びはできないなと思った。
僕の番が来た。心臓がパンクしそうなほど音を立てている。
助監督の前に立ってカードを受け取った。左側の男性が「いいね」と言って、右側の女性も「OK」と言った。助監督から「キミ、残って」と言われて、僕は一次選考を通った人たちの群れに加わった。
僕の後に並んでいた幸子もOKをもらって、僕の所に来た。
「やったね!」とハイタッチした。
最後の人がカードを受け取り、八、九十人のエキストラたちは、幸せな表情の約二十人と、がっかりした表情の六、七十人の二つの群れに分かれた。
助監督の指示で、男女に分かれて身長順に横一列に整列した。男子は十一名で僕は小さい方から二人目だった。女子は九名で、合計二十人が一次選考を通過したことになる。
女子の列の背の高い方から順に審査が開始された。審査といっても、一人当たり十秒ほどの目視だけの審査だ。助監督たち三人は殆ど言葉を交わさずに目配せで合意に達するようで、「一歩前に出てください」と言われた人は「はい」と表情を輝かせて足を踏み出した。
残念ながら幸子は一歩前に出るようには言われなかった。女子で選ばれたのは三名だけだった。
男子は僕の番が来るまでに既に五人が選ばれてしまったので、多分ダメだろうと思った。幸子が落ちて僕だけ受かるよりは、一緒に落ちた方がいいかもしれないと思った。
予想通り、僕は選ばれなかった。
「最終選考が完了しました。一歩前に出た八名の方は、一般エキストラの方へとお戻りください。残った男女六名ずつ、合計十二名の方は篠塚さんの指示に従って、更衣室に行ってください」
一歩前に出ていた八人は気の毒なほど落胆した表情でその他大勢の群れへと戻って行った。
「どうして一歩下がらせなかったんだろう? 一歩前に出ろと言われたら誰だって合格したと思うよね。期待させておいて梯子を外すようなやり方はよくないよ」
と、もし幸子が横にいれば僕は言うはずだった。
助監督が「篠塚さん」と呼んだのは横に立っていたアラサーの女性のことで、僕たち十二名は篠塚の後について歩いた。僕と幸子は自然に一緒になって並んで歩いた。友達どうしで来て二人とも最終選考に残ったのは僕たちだけのようだった。
篠塚に連れて行かれた「更衣室」は簡易テントで設営された男女別の小屋で、僕たち男性六人は紺色のジャージーの上下を手渡されて着替えた。
幸子たち六人の女子はえんじ色のジャージー姿で更衣室から出てきた。高校時代にタイムスリップしたような妙な気持ちになった。
「それでは皆さん、これから撮影現場にご案内します。杉内数馬さんと早瀬美玖さんが所属するリズムダンス・チームが、荒川区予選に出場するシーンです。近隣の高校生たちがラフな格好で観戦しています。皆さんは、杉内数馬さんたちの前にパフォーマンスを終えた、他校の生徒たちです。杉内数馬さんたちが並んでいる横に帰って来てすれ違うシーンを撮影します。すれ違いざまに杉内数馬さん、早瀬美玖さんの方を見ないように、自然に前を向いて歩いてください」
エキストラの中から一次選考を経て十二名が選ばれたのが、たった数秒のすれ違いのシーンのためだと分かってがっかりした。まあ、一瞬とはいえ早瀬美玖と数十センチの距離まで接近できる。一般エキストラは十メートル以内に近づくことはできないだろうから、確かに選ばれただけの価値はあるのだが……。
撮影場所まで歩いて行くと、一般エキストラたちは審査員席に近い土手に集まっていた。助監督が一般エキストラの前に立ち、メガホンで「私が左手を上げたら歓声を上げてください」などと言って練習させているところだった。
そこから二、三十メートル離れた場所に出場者の出入り口があり、僕たち十二人はパフォーマンスを終えて出場者出口まで戻る練習を四、五回させられた。しばらくすると、更衣室の方向から杉内数馬、早瀬美玖を含む十名がジャージー姿で歩いて来た。
一般エキストラたちから大歓声が上がった。助監督に言われて歓声の練習をしていた時とは違う、本物の歓声だった。
早瀬美玖たちは僕たちのすぐ近くを通って出場者出入り口まで歩いて行き、スタッフの指示に従って整列した。
監督が早瀬美玖達に指示をして、リハーサルが始まった。カメラは右斜め前の方向から十人を狙っている。
「テイク・ワン」
という声が掛かり、撮影がスタートした。出場を待つ十人の生徒たちの緊張した表情をカメラが捕らえる。
何度か撮り直しをしてOKが出た。次は僕たちが帰って来てすれ違うシーンだ。僕たちはグラウンドから出場者出入り口を目指して歩き、杉内数馬たちの右側を通ってすれ違う。
僕は今まで杉内数馬には全く興味が無かったが、実際に大スターを目の前にすると胸がドキドキした。
「デカッ!」
こんなに背が高かったのか……。すれ違う時に、思わず杉内数馬の顔を見上げた。
「カーット!」
と監督が声を上げた。
「そこの小柄な男子! すれ違いざまにスターの顔を見るな!」
僕のせいだった。僕は監督に「すみません」とお辞儀をして、グラウンドの方へと引き返した。
二回目の撮影が始まった。巨大な杉内数馬の顔を見上げずに通り過ぎたが、早瀬美玖の横を通る時、ついチラッと見てしまった。早瀬美玖の左ひじと僕の左ひじの距離はほんの十センチほどだった。今まで生きていてよかったと思った。
「カーット! 撮り直しだ! さっきと同じ小柄な男子、すれちがいざまに早瀬美玖の顔を見ただろう!」
僕は「すみませんでした」と深くお辞儀をして謝った。
三回目の撮影になり、さすがの僕もまっすぐ前を向いてスターたちの横を通り過ぎた。
「さっきの小柄な男子を抜きで撮り直しだ」
「僕、今度は誰の顔も見ませんでしたよ!」
「男女五人ずつの十名にして撮り直す。女子は前から三番目の人、抜けてくれ」
それは長尾幸子の事だった。結局、四回目は僕と幸子が抜けて撮り直し、一発でOKになった。
「バカ、詩音が杉内数馬と早瀬美玖の顔を見たお陰で、私まで除外されちゃったじゃないの。あーあ、十二人に選ばれなけば観衆役で映画に出られたのに、全く映らなくなったのよ。どうしてくれるの!」
「ゴメン、でも、三回目の時にはまっすぐ前を向いて歩いたんだけどなあ……」
幸子の剣幕に、僕はすっかりしょげて涙目でうつむいた。
「泣くな! 男でしょう。まあ、杉内数馬を至近距離で見られたから、それでよしということにしてあげる。詩音も憧れの早瀬美玖と会えてよかったじゃない」
「幸子、ありがとう。大好き」
と僕は幸子の手を握った。
出入り口のシーンの撮影が終わり、僕は他の十人からの冷ややかな視線を意識しながら、グラウンドでの撮影風景を見学した。
十人のパフォーマンスが見られると楽しみにして見学していたが、グラウンドでの短いシーンを幾つか撮っただけで、撮影は終了した。近くにいたスタッフに幸子が質問した結果、リズムダンスのパフォーマンス自体はまとめて撮影済みだと分かった。
助監督がマイクでエキストラたちにアナウンスした。
「エキストラの皆さま、本日はご協力ありがとうございました。市川駅までのバスは三十分後に発車します。皆さま、お気をつけてお帰り下さい」
「じゃあ、僕たちも着替えてバスに乗ろうか」
篠塚について更衣室に行こうとしたところ、監督からメガホンで呼び止められた。
「ちょっと、キミたち! NG三回の小柄な男子と、そこの女子、ちょっと待ってくれ」
――撮影から外しただけでは気が済まずに、説教をするつもりなのだろうか……。
「監督、お言葉ですが、NGは二回だけですよ。三回目はちゃんとやったのに、どうしてダメだったんですか?」
「失礼した。キミが言う通りNGは二回だ」
「それに、皆の前で『小柄な男子』と三回も言うのは失礼だと思いますけど」
「どうして? 『小柄な』とは『悪い』とか『劣った』という意味なのかね? 『可愛い』とか『好ましい』という意味でもあり得るぞ」
「屁理屈みたいに聞こえますけど……」
「キミたち二人に話があるんだ。ちょっと時間をもらえないか?」
「でも、市川駅行きのバスが三十分後に出るので、それに遅れないようにお願いします」
「もし遅れたら車で送るよ」
監督は、森助監督に声をかけ、僕と幸子を含めた四人で、更衣室の近くの大型ワゴン車に入ってドアを閉めた。
「森君が言った通りだった。この二人なら代役に使えるぞ」
「そうでしょう! 本当にグッドタイミングでした」
「さっきカメラアングルで確かめたが、思った以上にいい感じだった」
「代役って何のことですか?」
「実は『ある問題』が起きて、役者二人が降板することになったんだ。その問題の詳細は明日になるまで言えないが、キミたち二人は降板する役者と似ているから白羽の矢を立てたんだ」
「私たち、映画デビューできるんですか!?」
「その通りだ! といってもセリフは少ないが、印象に残る登場人物だ。引き受けてくれるね?」
僕は天にも昇る気持ちだった。何と、早瀬美玖と映画で共演するチャンスが巡ってきたのだ!


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「支配する女」は「女性上司の妻になった男」を読んだ方は購入しないでください

「支配する女」が出版されました。

これは2016年2月に出版された「女性上司の妻になった男」をベースにした本であり、ストーリーは原作と同じですので、原作を読んだ方は購入されないようお願い致します。

Kindle Unlimitedの会員の方は是非もう一度読んであの時の感動を再体験されることをお勧めいたします!

***

主人公の名前は本郷咲良、営業部門に勤務している入社二年目の社員です。本郷の上司の小芝課長代理は学生時代にミス東京の一位を惜しくも逃した長身美女で、三十五才になっても独身で彼氏がいる形跡はありません。実はレズだと言う噂が流れたことがありますが事実無根のようです。

十二才も年上ですが本郷は小芝課長代理に秘かに憧れていました。ある日の夕方、小芝のお供で客先訪問をした帰り道、本郷は小芝から「頼みたいことがある」と言われて食事に誘われます。レストランで頼みごとを聞いて本郷は自分の耳が信じられませんでした。

「明日、富山から両親が上京するの。本郷君に私のフィアンセとして両親に会って欲しいのよ」

小芝の両親との面談は、本郷の人生の軌道を大きく変えることになるのでした。

支配する女

第一章 美しすぎる上司

 うちの会社には七不思議がある。
その一つは公式の七不思議で社長が今年の抱負として年始に披露したものだ。二十年前の創立以来、うちの会社が赤字になったことは三回だけだが、赤字の翌年は必ず記録的な黒字を達成したそうだ。「これは当社の七不思議であり、業界では都市伝説とも言われている」と社長は胸を張って全社員を鼓舞した。社員の二十人に十九人は「なあんだ、つまんない」と思ったはずだが表情には出さずに黙って聞いていた。
七不思議の中でも非公式な不思議には結構興味深いものがある。その代表が僕が所属する部の小芝怜央(こしばれお)に関する不思議だった。小芝は超一流大学卒で学生時代にミス東京の一位を惜しくも逃したことがあるスーパー美女だ。バドミントンでインターハイに出たというから、まさに文武両道といえる。三十五才になっても独身で浮いた噂は全く無いし、過去に社内外に彼氏がいた形跡も無いらしい。百七十三センチの長身でもあり、男性が気後れして声をかけにくいという不利があるのかもしれないが、性格は明るくサッパリとしていて非の打ち所がない。しかも営業成績は群を抜いており、TOEICも九百二十点で、近々最年少で課長かニューヨークの部長になるのではないかと噂されている。
小芝怜央にはレズビアン説も流れていた。性格の良い美人に男っ気が無い原因としてレズビアン説には説得力があるが、小芝が女性と付き合っているとか、うちの会社の女子社員が小芝に誘われたという形跡は全くない。
運輸管理部の吉澤美津子という三十代前半の女性が「忘年会の後で小芝さんとカラオケに行った時に肩に手を回されてドキッとしたことがあったわ。小芝さんってレズっ気があるんじゃないかしら」と言っているのがレズビアン説の発信源らしい。しかし吉澤美津子はBLコミックのファンで長身美女に憧れている亜流腐女子という噂がある。吉澤の顔と名前が結びつく人は「あれは吉澤さんが夢を語っているだけだ。小芝さんがレズなら他の女性を誘うだろう」と言っている。レズビアン説がガセであることはうちの部の人なら誰でも分かっていた。
僕はそんな清廉潔白な小芝が課長代理をしている海外営業第二課の入社二年目の総合職社員だ。小芝のアシスタントのような立場であり、去年までは社内で勉強をしながらもっぱら電話番をしていたが、二年目になって小芝の客先訪問にも連れて行ってもらえるようになった。
「本郷君、良かったわね。頑張って行って来てね」
僕が初めて小芝に連れられて客先訪問することになった時、小芝と同期入社で海外営業第二課の一般職をしている柳原浅子に励まされた。柳原はうちの課でお姉さんというよりはお母さんのような存在で、僕は入社した時からずっと柳原に可愛がられている。
営業第二課の総合職は五十才の温厚な能上課長、小芝課長代理、二十八才の毒島五郎、二年目で二十三才の僕と、四月に入社したばかりの藤丘慶子の五名だ。藤丘慶子は一浪で十月生まれだから実年齢は僕より五ヶ月上だ。小芝と同じ超一流大学卒で小芝並みの長身だ。中学から高校にかけて親の転勤の関係でニューヨークに住んでいたらしく英語力は小芝にも負けないらしい。慶子は一年上の僕に対して少なくとも表面的には敬意を払って敬語で話してくれるが、小芝が僕と慶子を連れて客先を訪問する時とか、エレベーターに三人で乗ったり、立ち話をする時には、十センチも身長が高い小芝と慶子が僕の頭越しに話をするので僕は居たたまれない気持ちになることが多い。
ある日、小芝と僕の二人で午後四時に渋谷の客先を訪問し、五時半ごろに客先のオフィスを出た。小芝が「今日は帰社せずに、直帰しようか」と僕に言ってから課長にその旨電話した。
「本郷君、これから空いてる? たまには晩メシでもご馳走するわ」
「はいっ、ありがとうございます」
上司と言っても小芝はミス東京クラスの抜群の美人だ。そんな女性と一対一で食事できるなんて夢ではないかと思った。
小芝が連れて行ってくれたのはイタリアン風のワインレストランだった。
赤のハウスワインのデカンタと「今日のお勧めアンティパスト」がテーブルに届いて、とりあえず乾杯した。仕事を離れて向かい合う小芝には普段とは違う魅力が感じられて、何も言葉を交わさなくても胸がドキドキした。
「本郷君、今日は折り入ってキミに相談があるの。個人的なことなんだけど聞いてくれる?」
突然そんなことを言われて天にも昇る気持ちだった。
「何でしょう。小芝さんから個人的な相談を受けるなんて光栄です。ご遠慮なくおっしゃってください」
「ありがとう。じゃあ、言い難いけど言うわね。実は、明日、富山から両親が上京するの。本郷君に私のフィアンセとして両親に会って欲しいのよ」
僕は驚きの余り椅子からずれ落ちそうになった。頭に血が上って、こめかみにドクドクと脈が打つのが感じられた。
「も、もしかして、それはプロポーズなんでしょうか」
僕は胸の高鳴りを押さえながら小芝の目を見て聞いた。小芝は僕の真剣な表情に気づき、大きな目で僕を見た。徐々に小芝の表情が緩んできて微笑を湛えた表情になった。次の瞬間、小芝は「プッ」と吹き出した。
「ごめん。説明不足だったわね。プロポーズじゃないのよ。実は、私の両親は私が三五才になっても彼氏の気配もないことを心配して時々見合い写真を送って来るんだけど、私が全く興味を示さないから、私はレズじゃないかと心配しているのよ。しょっちゅう電話がかかって来てうるさくて仕方ないの。だから、本郷君が去年入社してから付き合い始めて、最近結婚の約束をしたということにして両親に紹介したいのよ。ね、いいでしょう?」
「小芝さんの婚約者の役なら光栄ですけど、本当に僕なんかで良いんですか? もっと年齢が近くて、背の高い人じゃないと、ご両親も本気にしないと思いますけど」
「私は昔から年下で可愛い系の男子が好きで、両親もそれはよく分かっているのよ。だから両親が送ってくる見合いの話も、その手の男性が多いんだけど、レベルが低すぎてお話しにならないの。レベルが数段違う本郷君を両親に見せれば、私が何故これまでの見合いを断ってきたが一目瞭然だから、当分静かになると思うわ」
「レベルが数段違うだなんて……」
僕は恥ずかしさと誇らしさで自分の顔が紅潮するのが分かった。
「やってくれるのね?」
元気に「はい」と答えて大きく頷いた。テレビドラマや小説の世界なら、こんな経緯で婚約者の代役を引き受けた場合には、それがキッカケで恋が芽生えたり、結婚することになるというのが最もよくあるパターンだ。僕にもチャンスが回って来たぞ、と思った。
小芝はテーブルの上で僕の両手を掴んで「ありがとう、恩に着るわ」と言った。
会社では駆け出しの僕が、十二歳も年上のエリート上司と恋に落ちる、ということには若干の不安要因が残ることが否定できない。普通に考えると僕と小芝ではどう見ても恋人同士として釣り合わない。身長は小芝の方が十センチも大きい。もし僕たちが付き合っていることが会社の人に知られたら逆転カップルと噂されるのは確実で、僕は婦唱夫随願望とか、専業主夫志望とか、倒錯チビなどと言われて後ろ指を指されるのがオチだ。結婚しても僕が小芝にタメ口をきくことは考えられないから、一生敬語で話すことになるだろう。でも僕は耐えられる。背の高い女性は僕の憧れだし、こんな美人と一緒になれれば実家の両親や高校時代の友達に対しても自慢できる。
小芝と一緒の夢のような時間はあっという間に過ぎた。
「両親とはこのレストランで集合する約束なの。一緒に来るところを見せたいから、先に私のアパートに来てくれる? 私のアパートで一緒に入念なリハーサルをしておきたいから、午前十時ごろ来てくれるとありがたいわ。土曜日に早起きさせて申し訳ないけど十時でもいいかな?」
「勿論です。午前七時でも八時でも大丈夫ですよ」
「じゃあ十時に来てね。私のアパートの場所はグーグルマップのリンクを送っておくわね」
小芝が勘定を済ませてくれた。女性と食事をして全額払ってもらうのは生まれて初めてだった。いくら収入に二倍の開きがあっても、一緒に食事をして小芝に払ってもらっていいのだろうか? でも小芝は自分が払うのが当たり前のように振舞っていた。もしこの話が発展して今度は恋人としてデートをしようということになったら、少なくとも割り勘で払いたいと意思表示をすべきかなと思った。
満たされた気持ちでアパートに帰り、翌日の仮想デートを楽しみにしながら眠りについた。


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「世界維新」が出版されました

この小説は「女性が全てを支配する日」(2016.1出版)をWITノベルコンテストに応募する目的で再構成した作品です。原作と比較すると、序章が削除された等、構成は大きく異なりますが、ストーリー自体は原作とほぼ同じですので原作を購入済みの方は、「世界維新」を購入されないようお勧めします。キンドル・アンリミテッドの会員の方は是非「世界維新」をダウンロードしてあの興奮をもう一度味わっていただければ幸いです。

***

静岡県のサッカー少年でチームのエースだった杉村美瑠久は準決勝の前半に得点を上げるが、その直後にアタックした際に出血して中途退場する。病院での診断は美瑠久の人生に根本的な変化をもたらす。

その一年後、中東での紛争で使用された「ある兵器」が予期せぬ変化を遂げ、数週間のうちに地球の人口の約50%に「外観では分からない小さな変化」をもたらす。その変化は数か月の間に世界を静かに、自然に、そして不可逆的に変革するのだった。

***

これは杉村美瑠久が少年から大人になるまでの生活的視点を通して「世界維新」と、はかなく美しい恋を描くSFエンターテインメント小説です。



世界維新
 第一章 ある男子の初経 

 僕の名前は杉村美瑠久。静岡県の小学生だ。

 僕が住んでいるのは人口十万人以上の立派な「市」で、僕の家は駅から歩いて数分の商店街にあった。僕は三人きょうだいの長男だった。長男といっても二才年上の姉が、二才下に妹がいる。子供の時から大事にされて育った。

 家の近所には神社があり、神社の境内が子供たちの遊び場になっていた。幼稚園の頃に、近所の小学生たちが神社でサッカーの真似事をして遊んでいるのを、仲間に入れて欲しいと憧れながら見ていた。小学校に上がると「オマケ」としてサッカーに加えてくれるようになり、僕はサッカーに夢中になった。神社の境内は狭いのでサッカーといっても練習程度しかできず、マンツーマンでボールを取り合ったり、一人で石壁にキックして遊ぶ毎日だった。

 小学校三年に上がった時に、学校のサッカー部に入部した。ボール・キープが上手で多彩な足技を持っている上に生まれつき敏捷だった僕は、めきめきと頭角を現し、小三なのに高学年の試合に出してもらえるようになった。勉強もできたのでクラスではスターだった。元々小柄なうえに三月生まれの僕は小一の時からずっとクラスで小さい方から三、四番目だったが、女子は誰でも僕の近くに来たがった。

 小五になると自他ともに認めるチームのエース・ストライカーになった。小柄で女の子のように優しい顔なのに、試合では他校からキラー・マシンのミルクと恐れられた。ミルクというのは僕の名前のカタカナ表記だ。本名は美瑠久だが字が難しいので、出場選手のリストには「みるく」とか「ミルク」などと書かれることが多かった。小六になってサッカー部のキャプテンになった時、美と瑠に重点を置いて「ビル」と呼ばせようとしたが、下級生しか従わなかった。その下級生さえ、一週間もすると「ミルクさん」に戻ってしまった。

 転機が訪れたのは小六の秋の県大会だった。僕たちのチームは順調に勝ち上がって準決勝に進んだ。その日のグラウンドは県営の球場だった。準決勝の相手は優勝候補の小学校で、小学生なのに派手で大人っぽい感じのプレイヤーが揃っていた。僕が前半終了五分前にヘッディングを決めた時、僕たちの小学校の応援団(六割が女子でその半分以上が僕の親衛隊だった)からワーッ、キャーッと歓声が上がった。

 僕はVサインをしてセンターラインまで下がったが相手がセンターサークルから蹴ったボールをめがけて相手のフォワードにアタックした時、太ももに熱いものが走る感触があった。前半の終了まではあと二分。僕は気にせずにプレーを続けたが、主審が笛を吹いてプレーをストップさせた。主審が近づいてきて「大丈夫か」と僕に聞いた。「別に……」と答えたが、主審が僕の脚の付け根の辺りを指さして「出血してるぞ」と言った。白のサッカーパンツの股の辺りが真っ赤に染まっていた。

 監督の先生が駆け寄った。僕は地面に寝かされて、先生がサッカーパンツを下げて中を覗いた。先生は「こりゃあ駄目だ」と言って、主審に「選手を交代します」と告げた。「先生、大丈夫です」と僕は言ったが強引に外に出された。試合は十人のままで再開し、間もなく前半が終わった。

 応援席から「美瑠久!」と叫ぶ心配そうな女子たちの声が掛けられる中、たまたま応援に来ていた保健室の女の先生が下りてきて駆け寄った。

「どこの怪我ですか? 救急車を呼びますか?」

「いや、救急ではありません。すみませんが先生が病院に連れて行って頂けますか?」

「分かりました。学校の近くの整形外科に連れて行けばよいですね」

「いえ、整形外科ではなく、泌尿器科か婦人科に」

「婦人科はないでしょう。この子は男の子ですよ」

 監督は女先生の耳元で短い説明をした。女先生の顔から血の気が引いた。女先生は僕のパンツを少し引き下げて中を見てから「本当ですね」とため息をついた。

「何も心配ないのよ。誰にでも起きることだから」

 先生は僕の肩を優しく抱いてくれて駐車場まで行った。先生の運転する車が隣の学区にある大きな婦人科病院の駐車場に入ったので僕は当惑した。それは僕たちサッカー部員が「ピンクの病院」と呼んでいる、病院らしくない外観の建物で、僕たちには一生無縁なはずの場所だった。

「先生、他の病院にしましょうよ。こんなところに男子が来たら変な目で見られますから」

 女先生は僕の言葉を無視して受付を済ませた。待合室に座っている人は例外なく全員が女性だった。

「先生、恥ずかしいです」
 僕は女先生ににじり寄って俯いていた。

 女先生は僕の耳元で言った。

「何も恥ずかしくないわよ。気が付かない? 誰もあなたのことを見ていないでしょう。そう思って鏡を見れば分かると思うけど、あなたの顔はとても女の子らしいわ。男の子みたいにショートカットにしたサッカー少女だと思われてるのよ」

 小さい時から親戚や近所の大人から女の子のように可愛い顔だと言われる度に傷ついてきた。サッカーを始めたのは自分の男らしさをアピールしたかったからかもしれない。先生に抗議しようかと思ったが、他人が僕を見てそう思うのなら、反論しても始まらない気がして思いとどまった。

「杉村美瑠久さん、四番の診察室にお入りください」

 女先生に付き添われて診察室に入った。小柄な若い女医が笑顔で僕に「こんにちわ、可愛いお名前ね」と言ってから仰向けにベッドに寝かされた。短パンとパンツを膝まで下ろされ、血が出ているらしい場所を冷たいガーゼのようなもので拭かれた。僕がベッドから首を少し起こして見ると、女医は右手に薄い手袋をはめてその付近の皮膚を押したり引っ張ったりして検査しているようだった。

「月経血ですね。外陰唇の入り口の外側の皮膚が巻き込まれるように癒着して陰嚢のように見えていたのが、初経がきっかけとなって一部剥離したのだと思います。少し広げてみましょう」

 短パンとパンツを脱いでM字に開脚するように言われた。

「ちょっと痛いかもしれないけど我慢してね」
 もうすぐ僕を襲うであろう激痛に備えて歯を食いしばった。

「サリチル酸ワセリン軟膏をお願い」
 女医はナースから受け取った軟膏を指につけて僕の傷口の部分に塗り込み、指を突っ込んで傷口を押し広げた。

「ギャーッ」という叫びを準備していたが、ヌルッと傷口が裂けた感触があった。「イテテ」という小さな声が出てきただけだった。脚の付け根に生暖かい感触がしたので恐る恐る首を持ち上げて見たところ、おちんちんの上下が数センチ縦に裂けてドロッとした赤黒い血が出ていた。腐ったような嫌な臭いがした。

「膣洗浄しておきましょうね」

 傷口を広げられ、その中に何度か液体を注入され、経験したことのない奇妙な感触をお腹の中に感じた。

「美瑠久ちゃん、最近オシッコをした時に、パンツが濡れたことはなかった?」
 誰にも言えずに内緒にしていたことを突然女医に言い当てられて顔が真っ赤になった。

「はい、朝起きてすぐオシッコをしたら、ちょろちょろとしか出なくて。それなのにパンツがビショビショになっていました」

「その後のオシッコはどうしたの?」

「パンツを濡らすのが怖かったので、大便のふりをして座ってしました」

「お尻全体が濡れてなかった?」

「はい……」

 女医は女先生に診察の結果を説明した。

「外陰唇の癒着は完全に剥がしました。クリトリスと外陰唇もきれいに分離させることが出来ました。肥大したクリトリスの中央に何らかの尿路が出来ていたものと考えられますが、本来の尿道口が解放されましたからもう大丈夫です。クリトリスは放置すれば徐々に小さくなって正常化する可能性がありますので、しばらく様子を見て、必要なら手術で小さくすればよろしいでしょう」

「つまり、診断結果としては……」

 女先生は女医の言葉を待った。

「現時点であえて病名を付けるとすれば陰核肥大ですが、大げさに考える必要はありません。それより初経を祝ってあげてください」

「ということは、半陰陽というか、いわゆるインターセックスなのですね」

「いえいえ。美瑠久さんには男性の要素は全くなくて、百%女性です。出生時に性別を誤認されていただけです。一応、確定診断のためにCTを撮って卵巣と子宮の状況を確認しておきましょう。少しお待ちいただくかもしれませんが」

 僕は二人の会話を唖然として聞いていた。要するに、僕は女子なのにガイインシンというものが癒着していたので、男子と間違えられていたのが、癒着が剥がれて「正常」に戻ったということのようだ。おチンチンと思っていたものは、放っておけば小さくなるだろうと言っていた。まさか、僕が女子だったなんて、冗談にしてはきつすぎる。でも、卵巣と子宮を確認すると言っていた。本当に卵巣と子宮が見つかったら女だということになるのだろうか……。

 CT検査室の前の長椅子に座って待っていた所に母が駆け付けた。母は僕の短パンが血で真っ赤になっているのを見て心配そうにしていたが、女先生から診察結果の説明を聞いて真っ青になった。母は検査室の近くのトイレに僕を連れて行ってパンツを引き下げた。

「本当だわ。美瑠久は女の子なのに息子だと思い込んでいたのね。気付かなくてごめん。母親失格だわ」

「お母さん、そんなこと言わないで。お母さんのせいじゃないよ」

「それより、こんな血だらけの短パンをはかせておけないわ。ナプキンもしておかないとね」

 検査室の前の長椅子に戻ってから、母は女先生に「近くに、しまむらがありましたから生理用ショーツと、着替えを買ってきます。ナプキンも買ってきますから、すみませんが留守の間よろしくお願いします」と言って、駐車場へ走った。

 しばらくして僕の順番が来た。僕は脱衣室で検査着に着替えてCTの台に横たわった。テレビで見たことのある大きな機械に乗せられて緊張したが、何事もなく検査は終わった。CTの部屋を出ると、母が着替え室で待っていて、生理用ナプキンを張り付けた生理用ショーツをはかされ、夏だというのにその上に毛糸のパンツをはかされた。それは脚が出る部分にフリルがついているピンク色のパンツで、僕は必死で抵抗したが「生理中はお尻を冷やしては駄目」と強引にはかされた。

 ピンクの毛糸のパンツをはいている姿は母に見られるのも恥ずかしかった。僕はとにかく毛糸のパンツを早く隠そうと短パンに足を通した。

「待ちなさい。新しい毛糸のパンツに血が付くじゃないの」

 母は脱衣かごの中の僕の衣類をポリ袋に入れて硬く縛った。

「これを着なさい」

 母から渡された赤い七分袖のシャツを着ると、首の後ろにボタンとリボンがついていることに気付いた。

「なんだよ、これ女物みたいだよ」

 僕が脱ごうとしてシャツの裾に手をかけると、と母は「それでいいのよ」と言って、僕の手を払いのけた。

「さあ、これをはくのよ」
 母に渡されたのは真っ赤なプリーツスカートだった。

「バ、バカ言わないでよ。こんなのはけるかよ」

「夏だけどお尻が冷えないように膝丈にしといたわ」

「お母さん、お願い。短パン返して」

 母に懇願したが「生理の時はスカートの方がいいの。これ、常識よ」と言って譲らない。

 その時、看護師さんが脱衣室を覗いて「次の患者さんから苦情が出ているので早く着替えを済ませて下さい」と叱られた。

「外で待ってるわよ」

 母は僕にスカートを押し付けて脱衣室の外に出てしまった。

 僕はやむを得ずそのスカートをはいて、右のホックを留めて脱衣室を出た。

 検査室の前の長椅子に座っていた母が駆け寄ってきた。

「バカじゃないの? スカートの前後が逆よ。ホックがあるのが左!」

 母は僕が履いているスカートをグルリと回した。僕はそれまで、スカートに前後があるとは知らなかった。

 検査室で言われた通り四番の診察室まで歩き、受付ボックスにフォルダーを置いて待合椅子に座った。女物のシャツにスカートという姿を人目に晒してしまった。もし知っている人に見られたらお終いだ。

 名前を呼ばれて母と一緒に診察室に入った。

「お子さんは健康そのものですからご心配はいりませんよ」
と女医は母を安心させた。女医はキーボードとマウスを起用に扱ってモニターにCTの画像を写しだし、断面画像を動かした。

「これが卵巣ですよ。そしてここが子宮、そしてこの子宮口から先が膣です。若くて健康な女性の身体のCTを見るのは楽しいですね。美瑠久ちゃん、ベッドに仰向けになってね。スカートをめくるわよ。あら、可愛い毛糸のパンツを買ってもらったのね。生理の時にはお腹を冷やさないことが大事よ」

 女医は僕の毛糸のパンツと生理用ショーツを足首まで下ろして、おチンチンの部分をむき出しにした。

「お母さん、こちらをご覧ください。少し赤くなっていますが、この部分がこういう風に癒着していたわけです」
 女医は両手の指で傷口の左右の皮膚を中央に引き寄せた。

「初経が引き金になってこの部分に剥離が生じて月経血が漏れたんです。既に剥離しやすい状態になっていましたので、薬品の助けを借りて剥離させ、外陰唇の内側、内陰唇から膣にかけて洗浄しておきました。肥大化していたクリトリスは既に委縮し始めているようですから、放置しておけば普通の大きさに戻る可能性が大ですので様子を見ましょう」

「手術はしないんですか? お薬は?」

「現状、やや陰核肥大ですが健康体です。薬は生理痛がひどくない限り不要です」

「この子の性別はどうなるのでしょうか」

「染色体検査の結果が出次第、診断書を書きますので、それを持って戸籍課に相談に行ってください。先ほど学校の先生からも質問を受けましたが、半陰陽ではなく、完全な女性の身体なのに、出生時に男性と誤認されたままになっているわけですから、早く訂正するのがお嬢さんのためだと思います」

 お嬢さん、と言われて頭をガーンと殴られた気がした。

「二週間後に経過をチェックしますので、予約を入れましょう。FISH法での染色体の検査結果が届くのに十日ほどかかりますので、その時に診断書を出せると思います」

 母は手帳を見ながら二週間後の診察の予約を取った。

「美瑠久ちゃん、おめでとう。今日から大人の女性になったのよ」

 女医さんにおめでとうと言われて反射的に「ありがとうございます」と答えたが、何もおめでたいことではなかった。僕は奈落の底に突き落とされた。

 帰りにスーパーで買い物をしたが、僕は助手席に座って待つことにした。まさかスカート姿でスーパーの中に入って行けるはずがない。

 外から顔を見られないように、リクライニングを倒して寝て待った。その時、窓をコンコンと叩く音がした。窓の外にはサッカー部の仲間が五人立って、覗き込んでいた。

「おい、美瑠久。窓を開けろ」

 暑いのを我慢して窓を閉めていたのに気づかれてしまったのだった。

「喜べ、一対ゼロで勝ったぞ。お前の入れた一点を守り切ったんだ。来週の土曜日は決勝だ。ところでお前、女だったんだってな。だからスカートをはいてるのか。監督から聞いたよ。決勝はお前抜きで戦うことになるだろうって」

 僕はリクライニングを起こして五人の仲間と顔を突き合わせた。皆、僕のスカートを興味深そうに見ている。

「病院で調べたけど健康だと言われたよ。何も悪いところは無いんだ。だから決勝は一緒に頑張ろうな」

「監督が言ってたけど大会規約で女子は出られないんだって。だから、お前の出番はもう無いよ。中学に入ってから女子サッカー部で頑張れ」

「そんな……」

「お前、今日が初めての月経なんだってな。この間、男子の特別授業で習ったやつだろ、初経とかいうアレだな。お赤飯を炊いてお祝いするんだろう。おめでとう」

 残りの四人の仲間が口を合わせて、「美瑠久、初経おめでとう」と言ったところを、駐車場に居たオバサンたちが聞いて笑っていた。僕は恥ずかしくて両手で顔を覆った。そこに母が帰って来た。

「あ、杉村君のお母さん。今日は杉村君が前半に得点した後に退場しましたが、その一点を守りきって決勝に進みました。それから、監督から聞きましたけど、初経、おめでとうございました」

「あら、皆さん知っていたのね。女の子になっても美瑠久と仲良くしてやってね」

 五人の仲間は「はい」と大きな声で答えて立ち去った。

「どうしよう、スカートをはいているところを見られちゃった」

「監督さんがしゃべったみたいね。前半に起きたことがハーフタイムに応援席の人たちに伝わったんだわ。インパクトのある話題だから、サッカーに来ていた人にはきっと全員伝わってるわよ。よかったじゃない、説明の手間が省けて。月曜日はスカートで登校しなさい」

「じょじょじょ、冗談じゃないよ」

 家に帰ると姉の美咲が僕を見て飛んできた。

「美瑠久、女の子になったのね。私、妹がもう一人欲しいと思っていたかったから丁度良かったわ」

「そうよ。美瑠久は女の子だったことが分かったのよ」

 母が真顔で言って僕が顔を真っ赤にして黙っていたので、美咲は、自分が言ったことが全くの的外れではなかったと悟った。美咲は僕のスカートをめくって毛糸のパンツと生理用のショーツを下ろし、ナプキンに血がついていることを確認した。

「う、うっそー。私とおんなじ! でも、クリトリスが少し大きすぎるんじゃないかな?」

「美咲、美瑠久の気持ちを考えて言葉を慎みなさい。美瑠久が泣きそうな顔をしてるじゃない。美瑠久のクリトリスはこれから段々腫れが引いて、普通の大きさになるから手術も必要ないとお医者さんが言ってたわよ」

 妹の美幸が二階から降りてきて驚いた様子で叫んだ。
「お兄ちゃんがスカートはいてる! 仮装大会か何かがあるの?」

「美瑠久は女の子だったことが分かったの。だからお兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんになったのよ」

「嫌だなあ。サッカー部のエースの美瑠久の妹だと自慢できなくなる」
と美幸はしょげていた。

「美瑠久、サッカー場から直接病院に行ったんでしょう。汗臭いからお風呂に入りなさい」

 僕はとぼとぼと浴室まで歩いて行ってスカート、毛糸のパンツとTシャツを脱ぎ、最後に生理用のショーツを脱いだ。また血がついていたナプキンをショーツから剥がして洗濯機の横のごみ箱に捨てた。お風呂を出たら新しいナプキンが必要だ。

「お母さーん」
と呼ぶと母が来た。

「あのね、ナプキンの新しいのはあるかな」
 小さな声で聞いた。

「美瑠久がお風呂に入っている間に持ってきておいてあげる。汚れたのはちゃんとトイレに捨てたの?」

「ううん、ここに捨てたけど」

「美瑠久、ナプキンを捨てて良いところは一ヶ所だけよ。それに、こうやって内側に丸めるの」

 母は厳しい顔をして叱るような口調で僕に言って、トイレの便座の後ろの黄色いプラスティックケースを指さした。以前からそのプラスティックケースの存在には気付いていたが、何の入れ物なのか今まで知らなかった。

 シャンプーをしてから、スポンジにボディーソープを付けて身体中を丁寧に洗った。昨日まで普通の男子だったのに、突然立ちしょんもできなくなった。おチンチンとはこんなものだと思い込んでいたし、他の男子のおチンチンと同じだと思っていた。癒着が剥離したらしいが、今はそのおチンチンは割れ目の間から洩れ出た小さな突起物になってしまって、見る影もない。これでは誰が見てもおチンチンとは呼べないのは確かだった。

 スポンジで胸を擦るときには注意が必要だった。ひと月ほど前から乳首をスポンジで擦るとチクチクしていた。乳首が一センチほど前に飛び出して、小さなトンガリ帽子を胸に伏せたような形になっている。前から押すと飛び上がるほど痛い。今日の試合でもボールを胸でトラップした時には痛みのため顔をしかめた。

 これはきっと月経と関係があるのに違いないと、本能的に感じた。おチンチンだったものが段々と萎むのと並行して、お乳が段々前に尖って来るのかもしれない。どうしよう、と焦りで胸が苦しくなる。姉の美咲の胸も母のように大きくなって、前にツンと突き出ている。ああ、僕も姉と同じような胸になってしまうんだ。絶望に襲われて涙が出た。泣きじゃくりながらシャワーをして浴室を出た。

 バスタオルで身体を拭くと、畳んだショーツの上に母が新しいナプキンを置いてくれていた。Tシャツを着て、毛糸のパンツとスカートをはいた。二階の僕の部屋に行くと、母がタンスから僕の衣類を全部出して、二つの大きいごみ袋が一杯になっていた。

「うちは三人娘になってしまったから男の子の服はもう要らないわ」

 母はそう言ってごみ袋の端を括り、階下に持って行ったが、すぐに段ボール箱を抱えて戻って来た。

「これは美咲には小さくなった服よ。美幸が大きくなる時のために取っておいたけど、早く役に立ってよかったわ」

 母は僕を立たせ、服を一つ一つ取り出してサイズをチェックしては僕のタンスに入れた。こんな女の子っぽいチャラチャラした服やひらひらのワンピースを、本気でこの僕に着せようというのだろうか。その段ボール箱が空っぽになると、もう一度階下の物置に段ボール箱を取りに行った。美咲がこんなに沢山洋服を持っていたとは驚いた。

「下着は明日一緒に買いに行こうね。昨日まで気が付かなかったけど、乳首が大分出て来てたのね。服が擦れると痛いでしょう。明日スポーツブラを買ってあげるわ」

「ブブブ、ブラだなんて……。ねえ、お母さん。学校にはしばらく僕の服を着て行って、皆の反応を見ながら少しずつ暖色系のシャツを増やしていきたいんだけど」

 いつも母のご機嫌を取るときの口調でねだってみた。

「もし美瑠久がお母さんの言うことを全部聞いて、月曜の朝まで良い子にしていたら、このキュロットをはくのを許してあげる。言うことを聞かない場合は、このミニのワンピースにするわよ」

「どっちにしてもスカートじゃないか」

「よくごらんなさい。股がズボンみたいになってるでしょう。これをキュロットというのよ」

「僕の目にはスカートにしか見えないよ……」

 ***

 夕方、父がゴルフから帰ってきて、「優勝したぞ、この商品を見ろ」と意気揚々とリビングルームに入って来た。美咲と美幸ともう一人スカートをはいた子がテレビを見ているのに気付いて、「お友達が来てたのか、いらっしゃい」と僕たちに向かって言った。母が台所から「ちょっと、あなた。大事な話があるから聞いてちょうだい」と父に声をかけた。父は「なんだ、大事な話って」と言いながら台所に行ったが、しばらくして「な、な、なにーっ!」と素っ頓狂な声を上げた。「あなた、落ち着いて」という母の声が聞こえた。

「ごはんよ」
 母の声を聞いて、僕たちはテレビのスイッチを切って食卓に座った。

 手を洗い終えた父が食卓のいつもの席にドシリと座った。僕は父の顔を見るのが怖くて下を向いていた。

 母がお茶碗にご飯をよそっていた。いつもなら父に真っ先に出すのに、今日はまず僕の目の前にお茶碗を置いてくれた。それは赤飯だった。全員のご飯が配られたのを見てから、父が「え、えへん」と咳払いした。

「今日は美瑠久に初経があったと聞いた。美瑠久が大人になった……いや、そのう、大人の女性になった目出度い日だ。家族一緒に心から祝おう。おめでとう、美瑠久」

 僕が女性になったという事実を父が平然と受け入れたことに驚いた。そして心から感謝した。

 こうして僕は杉村家の次女になった。


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